小さな鳥籠から、少女は夜へと飛び出した。
痛む身体と、首を絞められたような息苦しさもお構いなしに、ただ、走った。
この足で、どこまで走っていけるのか。この世界は、一体どこまで続いているのか。
それをただ、知ってみたかった。
これから起こる、非日常な出会いのことも出来事も知らずに。
綺麗な夜。灯る夜景。
私は今、5階建ての廃ビルの屋上にいる。
キラキラと瞬く星々、優しく輝く月。
全てが綺麗。
こんな夜が続けばいいのに。
朝なんて来ないで、美しい夜だけ続いて、明けないままで。
でも、そんな都合のいいこと、あるわけないんだ。
だから今、私はここにいる。
私は、なにもない空間に足を踏み出した。
サンダルが足から滑り落ちた。いつもだったら、焦ると思う。それでも、今の心は怖いくらいに凪いでいた。だって、もういらないから。
けれど、落ちる寸前。
私の腕は、誰かに掴まれていた。
「誰……?」
私の問いに答えることはなく、“誰か”はそのまま私を引き上げた。
私は何も言葉を発さずに、“誰か”を見つめた。
月光に照らされ、見えた顔。
それは狐のお面だった。
顔の上半分は、お面に隠されて見えない。
「君が、星野月音?」
男の子の声だった。
狐面の少年は、なぜか私の名前を呼んだ。
「なんで、私の名前を知っているの……?」
私は独り言のように呟いた。
「それは俺の能力のおかげだよ」
「あなたの能力?」
「そう。俺は、特定の人間の情報を手に入れることができるんだ」
自慢げに口角を上げた彼は、本物の狐のようだった。
……どこかで聞いた、声。
「……あなたが私のことを知っているなら、あなたの名前を教えて」
「え?」
「あなただけ、自分の名前も私の名前も知っているのはズルいでしょ?」
私は目の前の狐面の少年を見上げる。何かに期待していた私は、彼の名前を知ってみたかった。
少年は、困ったように頭を掻きながら言った。
「う〜ん……。じゃあ、“狐さん”って呼んでよ。俺、本名わかんないから」
「わからないの?」
「うん。小さかったころの記憶もない。だから、それで許して」
「……わかった」
狐さんは、私が頷くと「よかった」と呟いた。その意図は、はっきりしない。
「……なんで、私を助けたの?」
私は聞いた。
「なんでって……それが俺の仕事だから」
「仕事?」
「うん。困ってる人を助けるのが、俺の仕事」
「じゃあ、私みたいな人をたくさん助けてきたんだ」
「そうだね。月音のところに来る前は、道がわからなくて夜になっても帰れなかったおばあちゃんを助けてきたよ」
「そういう人助けもするんだ」
私たちは屋上の真ん中にあったベンチに並んだ座る。ルームウェアを着たままな私と比べて、狐さんの服装は、巫女服のような赤い着物だった。黒い猫っ毛が、赤い着物に似合っている。
やっぱり、どこか——
「——ゆう……?」
「ん? どうかした?」
「あ、ううん。なんでもない……」
私は、喉を通り過ぎた言葉を必死に誤魔化した。
まさか、ね………。
私が夜空を見上げていると、狐さんが聞いてきた。
「ねぇ、なんで月音はここにいるの?」
「え?」
「今度は俺が質問する番。いいでしょ?」
私は「うん」と頷いた。そして、一回深呼吸。
「……私、ひとりぼっちなの」
私は諦めて、真実を話し始める。
「実は、私、病気だったの。1年前、手術したけど、再発の可能性があるって」
私は自分の頭に触れる。私のここは、いつか突然、壊れるかもしれない。
他人に話すつもりなんて、そもそもなかった。話せば、それは現実になってしまうから。
それなのに、なぜだろう。
言葉が泡のように湧き上がってくる。まるでラムネのように、声はもこもこ溢れ出る。
「私の両親、心配性でさ。おまけに妄想過剰。家で安静にしていれば、私は死なない。病気なんて再発しないって信じてるような人間なの」
「そんなこと、ありえないのにね」と、私は脳裏に浮かんだ両親の顔を、愚かだと嘲笑った。
そんなの、自分達しか楽になれないのに。私は、苦しいままなのに。
だから、嫌になった。
普通と違って、苦しくて、寂しかった。
「まぁ、ただ暗いだけどね、こんな話——」
「いや? 俺はいいと思ったけど」
驚いた私は、思わず狐さんの方を見た。
相変わらず、お面のせいで顔が見えない。でも、優しい笑みを浮かべているというのは、口元を見るだけでわかった。
「現代の若者が抱えている問題とか、俺はよくわかんないけど……月音は頑張ったってことじゃん」
落ち着いた口調で、ゆっくりと話していた。その声はやっぱり、温かかった。
「逃げるのは、別に悪いことじゃない。生きるための最終手段だ。何もせずに逃げるのは、ただの臆病者か卑怯者。最後まで頑張って、その上で逃げるって選択をした人は、自分をちゃんと守れる人だって、俺は思う」
真夏の明るい太陽じゃない。真冬の美しい夜空でもない。ただ、明日を見上げる夕日のような彼。
オレンジ色の空に浮かぶ一番星に、私達は希望を添える。
私も、狐さんも、きっとそう。
「それから、知ってた? 死んでるヤツよりも、生きてるヤツの方が、実は何倍も価値があるんだよ!」
まるで幼稚園児のような話し方に変わると、狐さんは、バッと立ち上がった。
「“生きてるなら、死んだ方がマシだ”って言ってる人、最近よくいるじゃん。俺は正直、その人達とは一生分かり合えないと思う。だって、もし死んだとしても、何も残らないじゃん。それがいいのかもしれないけど、結局あの世に行っても、当たり前に自分の魂はあるし、自分が死ぬきっかけを作ったヤツだって、いつか必ず向こうに逝く。死んだ先にあるのは、たった数日分の精神安定剤だけだ」
狐さんは、伸びをしてからそう言った。
私は、覚悟を決めて言った。
「……ねぇ、狐さん。1つ、お願いがあるの」
「ん? どしたの?」
「………私を、私の家まで連れて行ってくれない?」
狐さんは、驚いたのか、大きく目を見開いた。けれど、すぐに優しく口角を上げながら「いいよ」と言った。
「いいけどその代わり、落ちないようにね!」
「え?」
すると狐さんは、私の腕を掴んで、宙に浮いた。
彼は私に驚く暇も与えず、そのままどこかへ飛んでいく。
——と思ったその時だった。
バンッと、大きな爆発音が鳴り響いた。
「ぇ……」
狐さんは、私達が元いた屋上に戻った。
そこには——
「お、お父さんと……お母さん……?」
手に銃を持った、私の両親が立っていた。
私は呆気に取られる。「意味がわからない」と。
「あれ? 月音のお母さんとお父さんじゃない? おっかしいなぁ。大事な娘さんに向かって発砲なんてしちゃっていいんですか?」
「黙れ! 九尾の狐! 今すぐ月音から離れなさい!」
狐さんが挑発すると、お母さんは甲高い声を上げながら銃を構えた。いつもなら決して歪めない綺麗な顔を、今日だけは怒りで染めていた。
「冷静になれ! 九尾の狐といえど、こいつはまだ子供だ。技を使いこなせるほどの能力も身体も持ち合わせていないはずだ」
「でも、もたもたしてたら、月音が!」
2人は、そう言って私に向かって銃口を向けた。いや、少し違う。
銃口が向けられていたのは、狐さんだった。
「嫌! やめて! 狐さんを撃たないで!」
私はそう必死に叫んだけれど、怒りにまみれた両親には届かなかった。
次の瞬間、また銃声が悲鳴のように轟いた。
血飛沫が舞うと、私の腕をずっと掴んでいた手の力が段々と弱まっていった。
狐さんの方を見ると、狐さんは、左肩をぎゅっと押さえてへたり込んでしまっていた。
「き、狐さん……? 狐さん⁉︎ しっかりして狐さん!」
私は願うようにそう言った。けれど、狐さんは撃たれた左肩を押さえるだけで、動くことはできなかった。
「しぶといわね」
「あぁ。でも、次で仕留める」
「私が撃つわ。次は絶対に外さない。躊躇もしない」
お母さんから溢れ出る殺気に鳥肌が立つ。
どうすればいいの……?
お母さんが自分の銃に銃弾を入れる音が聞こえた時。私の中の何かの糸が、ぷつりと切れた。
「やめて!」
私はそう叫んでいた。
「月音! どきなさい! あなた、死にたいの⁉︎」
「嫌! 絶対どかないから!」
人は、崖っぷちに立たされると本性が現れるという。それは、きっと本当だ。
それを証明してくるのが、今の私の行動だろう。
実際、物凄く怖い。それなのに普通に立っていられるのは、多分、彼のおかげだ。
だって、だって——
「——夕を、殺さないで!」
私は手を大きく広げて、狐さん……いや、夕の前に立った。
お母さんは怒りをぶつけるように叫んだ。
「月音! 何を言っているの⁉︎ そいつは夕くんなんかじゃない! 私達のご先祖様を呪った九尾の狐の片割れなの! 早くどかないと、あなたまで——」
「——ほな、えらいことになっとんなぁ」
不思議な声が響いた。
関西弁だ。私じゃない。お母さんでも、お父さんでもない。聞いたことがないような、落ち着く声。
ふと声の方を見ると、そこには、夕と同じ服装の男の人が歩いてきていた。
「あ〜! 夕、ボロボロやん。それ、あんま動かん方がええ。傷口が広がる」
「……すみません」
「ええんや。おれも着くの遅くなってもうたし」
狐面の男の人は、申し訳なさそうにそう言った。
どうやら2人は顔見知りらしい。
「お前が、もしかして……?」
「あぁ、そうや。おれが4代目、九尾の狐や」
九尾の狐はそう言って怪しげに笑った。すると、くるりと180度回転して、私に言った。
「なぁ、君」
「え、私ですか? えっと……」
「そうそう、君や。月音……やっけ? 俺のことは狐様って呼んで。1つ、頼みたいことがあるんや」
狐様は、私に静かに耳打ちした。
「夕を病院に連れてってやってほしいねん。服装はそのまま、狐の面だけ外してくれ。頼めるか?」
「はい。……あの、あそこにいる2人なんですけど……」
「大丈夫。君の両親なら、殺さへんよ。怪我もなるべくさせへんようにする。安心しいや」
狐様はそう言うと、屈んでから、私の頭を撫でた。まるで、小さな子供をあやすように。
「頼んだで。行ってこい!」
私は、弾けるように走り出した。
後ろから両親の声がする。けれど、私はそれを無視して走った。
身体中が痛い。息も上手くできないし、心臓の音がうるさい。
それでも今は、狐様の言葉を信じて走るしかない。
みんなの、無事を祈って。
「——幸い、大事には至らず、治療も無事終わりました。あと数日経てば、退院できるでしょう」
「そうですか。ありがとうございます」
私は、目の前の医者に頭を下げた。そして、肺に溜まっていた空気を一気に吐きだした。
「お、夕は無事みたいやな」
声がして振り向くと、そこには狐様こと、九尾の狐の4代目が立っていた。
着物姿だったさっきとは違い、黒いパーカーとジーンズ姿で、狐のお面も外していた。
「聞いてたで。一安心やな」
「そうですね。……ていうか、そういう服も着るんですね、狐様」
「当たり前や。着物のままじゃ、流石に怪しまれてまうからな」
狐様は、長い指で首元を触って言った。
「……なぁ、月音ちゃん。夕に遭ったこと、知りたい?」
私は目を見開いた。
けれど、答えは当然だ。
「知りたいです」
「そうこなくっちゃな」
私達は並んで歩き始めた。
「こっちの世界だと、夕の失踪はなんて扱われとったん?」
病院の中庭は、花畑のように、沢山の花に彩られていた。
私達はその一角のベンチに座った。
「えっと……行方不明とか、神隠しとか、そういう見出しで、ニュースはやってました」
「“神隠し”って、ほぼあってるやん。こう見えて、俺も一応、神やからなぁ」
狐様は、ここに来る前に買ったという缶コーヒーを飲みながら笑った。
目の前の異様なほど現代に馴染んでいる九尾の狐を前に、私は不自然さを覚えた。
「夕は、おれが住み着いていた神社にお祈りに来たんや」
狐様は、思い出を振り返るように目を細めた。
「確か、お母さんを亡くして、『お母さんが帰ってきますように』『これ以上、お母さんみたいに急に消えちゃう人がいなくなりますように』って願ってたんや。おれは、夕の後者の方の願いに食いついた」
目を細めるその顔は、本物の狐のようだった。封印されてもなお語り継がれる、平安を生きた怪物。
「『困っている人を助けたいなら、おれの代わりをしてくれへん?』って言ったら、夕は不思議そうに顔を傾げた。当たり前や。おれが細かく説明したら、夕はコクリと頷いた。あの日から、あいつはおれの代理……九尾の狐の4.5代目になったんや」
私は、小さな神社で、目の前に突然現れた九尾の狐に驚いている幼き日の夕を想像する。その説明を聞いていた幼い夕は、一体、どんな気持ちだったのだろう。怖かったのか、訳もわからず混乱していたのか、自分が背負う羽目になる使命を飲み込み、どこか冷静だったのか。その時、一緒にいなかった私には、正解はわからない。
「夕は、4.5代目なんですか? 5代目じゃなくて」
「そや。初代は平安時代に封印されて、江戸時代あたりから、悪い事をした償いに、人助けを始めたんや。けど、封印されて妖力が半減してもうたらしくてなぁ……。100年に1度、後継を探して、その後継に役目をパスするんや」
狐様は「ほんま、厄介なシステムやなぁ」と、ため息混じりの声で言った。
「ほんで、おれはそれに選ばれてもうた。……おれ、人間の時、凄く病弱でさぁ……。貧乏な村に住んでたから、親からも周りの人間からも“いらない人間”扱いされてた。だから、その村に3代目が来た時は、真っ先におれを後継にして追い払おうと、村の奴らは言った。おかげで、妖力も少なかったわ。100年保たなかった」
「……人間時代、病弱だった身体のせいで、100年分の妖力を持つことができなかったってことですか?」
「そういうこと。もう、使命を果たせないかもしれないって思った時、偶然、夕が来たんや。……流石に可哀想やから、100年じゃなく、10年の契約にしたけどな。おかげで、今、ここでおれは生きとる。夕の身内には悪いけど、感謝しとるよ」
苦笑いしてそう言った狐様の顔を、スポットライトのように、月光が照らしている。
その顔は、どこか夕に似ていた。
「ほな、帰る時は気ぃつけてな。夕が退院する時に、また来るわ」
狐様は大きな手をヒラヒラと振って、月夜に消えていった。
私はエレベーターに乗り込み、3と書かれたボタンを押した。
誰も乗っていない夜のエレベーターは、どこか気味が悪いと同時に、沈黙が心地いい。
狐様曰く、お母さんの「私達のご先祖様を呪った九尾の狐の片割れ」という話は本当で、九尾の狐の初代が封印される前に呪った一族と、私達は血がつながっているという。それを聞けば、両親のあの行動にも合点がいく。
ドアが開き、エレベーターを出た私は、夕の部屋へと向かった。
夜の病院には、多くの幽霊がいると聞く。実際に今、私が見えていないだけで、幽霊は私の周りをユラユラと漂っているのかもしれない。
それでも、私は怖くなかった。
初恋の人に、久々に会えるのだから。
夕の病室は、部屋の空き状況の問題で個室だった。
面会時間の終了まで、あと少し時間がある。
病室の扉を開けると、その部屋のベッドには、白い花のような肌をした少年が目を瞑っていた。
目を瞑っていてもわかる、大きな目と、黒色のふわふわの猫っ毛。
やっぱり、変わってない。
——おかえり、化け狐。