別れた元彼は、子供みたいな男だった。
出会いは、新卒で入社した会社。
同じ部署という共通点もあってよく話し、彼の無邪気な話し方に惹かれていった。
元彼も私のことが気になっていたようで、デートに誘われ、三度目のデートで告白された。
順調な交際が始まり、しばらくして同棲も始めた。
このまま、ゆくゆくは結婚をするのだろうと思っていた。
「ねえ。そろそろ真剣に、将来のこと考えない?」
「あー、そうだなー」
「子供だって欲しいし。年齢のことも考えたら、そろそろ」
「んー、そうだなー」
が、そう思ってたのは、どうやら私だけだったらしい。
「いい加減にしてよ! 大事な話してるんだから、ちゃんと聞いてよ!」
「……ちっ。うるせえなあ。俺はまだ、自由でいたいんだよ。そんなに結婚したいんなら、別のやつ探せよ」
私と元彼は、私の二十八歳の誕生日に破局した。
大好きだった無邪気で子供みたいな性格は、いつの間にか大嫌いなところに変わっていた。
「そんな屑、別れて正解正解!」
親友の友子は、私の話をうんうんと聞いてくれ、私の選択を肯定してくれた。
「正直、若葉から元彼の話を聞く度、若葉とはあいそうにないなーって思ってたんだよね」
「え、嘘? どの辺が?」
「どの辺って言うか……全部?」
「えー……。その時、言って欲しかったよ」
「その時言っても、多分若葉聞かなかったでしょ。絶対に彼と結婚するんだーって、彼に夢中だったもん」
「う……否定できない……」
同い年のはずの友子は、いつの間にか私より大人になっていた。
私は過去の子供みたいな自分を思い出して恥ずかしくなり、テーブルに置かれているアイスコーヒーを手に取って、一気に飲み干した。
コーヒーが減っていくグラスの中では、氷たちがカランコロンとぶつかり合い、夏の音色を奏でる。
キンとした冷たさが頭に響き、私は頭を手で押さえながら冷静さを取り戻した。
「ちょ、大丈夫? 頭痛い?」
「大丈夫大丈夫」
私は空っぽになったグラスをテーブルに戻して、友子の左手を見る。
友子の左手の薬指には結婚指輪が輝いており、私は羨望の眼差しでそれを見つめる。
「いいなぁ」
「大丈夫だって。若葉、まだ二十代だし。全然いけるって!」
「あと二年しかないんですけど」
「二年もあんじゃん!」
私は、男の人との出会い方を知らない。
高校の時は同じクラスの男子から告白されて、大学の時は同じサークルの男子から告白されて、社会人になってからは会社の同期……元彼から告白された。
元彼とは絶賛社内でギクシャクしているので、もう社内恋愛をする気はない。
私の周りに、男はいない。
「社会人って、どうやって出会ったらいいんだろう」
私は、目の前の生き証人に、泣き言のように聞いてみた。
「うーん。結婚したいなら、結婚相談所が一番いいかもね」
返って来たのは、ずいぶん重い提案だった。
偏見だが、結婚相談所はまったく恋愛ができない人や、年齢的に後がなくなった人が入会するイメージだ。
私には、まだ早いと思う。
「ちょっと、ガチすぎるかも」
「じゃ、マッチングアプリとかは?」
私の反応は友子の予想通りだったのだろう。
友子は即座に、次を提案してきた。
「アプリかー」
「実は私も、今の旦那とはアプリで知り合ったんだよね」
「個人情報とか大丈夫なの? なんか恐そう」
「大丈夫だよ。私も最初は抵抗あったけど、別に何もなかったし」
「ヤリ目とかいそう」
「ゼロとは言わないけど、メッセージやり取りしてたらなんとなくわかるよ」
「そういうもんかぁ。じゃあ、やってみようかな。お勧めのアプリとかある?」
私は友子監視の元、その場でアプリをインストールした。
プロフィール写真が必要ということなので、ケーキを注文して、友子にケーキを持った写真を何枚か撮ってもらった。
ケーキの持ち方から表情まで、友子先生に言われるがまま。
その甲斐あって、我ながら盛れた写真ができあがった。
当社比三割増しだ。
写真を取り終えたら、次はプロフィール作成。
友子が私のスマホをひったくって、私のプロフィールを作っていく。
アプリの用意している例文をベースにして、私オリジナルのプロフィールが作られていく。
持つべきものは、親友だ。
「若葉、趣味って何だっけ?」
「お酒」
「他には?」
「ドライブ」
「若葉、免許持ってたっけ?」
「ううん? だから、助手席専門」
「あーね。カフェとか旅行は好きだっけ?」
「好きだよ」
「了解。じゃあ、それも趣味に追加しとくね。できた。空いてるところは、てきとうに追加しといてね」
友子が返してきたスマホを受け取り、私は私のプロフィールに目を通す。
性格は、明るいが少し人見知り。
趣味は、カフェ巡りに旅行にドライブ(助手席専門)。
好みのタイプは、真面目で誠実な人。
初回デート費用は、割り勘希望。
年収や子供が欲しいかどうかは空いていた。
私はささっと空いている項目を埋め、登録のボタンを押す。
登録完了の通知とともにプロフィール入力画面が切り替わり、画面にはアプリに登録している男の顔写真がずらりと並んだ。
「登録できたよ」
「オッケー。じゃあ、後は少し待ちだね」
「待ち?」
「暇なら、男のプロフィール眺めててもいいと思うけど」
友子の言葉に首を傾げた直後、私のスマホに通知が来る。
通知欄を見てみれば、さっき入れたばかりのアプリからの「いいねが届きました」というメッセージ。
「え、早」
驚いていると、さらに通知が届く。
いいねが届きました。
いいねが届きました。
いいねが届きました。
「ちょ、え、は? んえ!?」
人生史上初のいいねラッシュに困惑する私を、友子はにやにやしながら眺めていた。
「えーっと、趣味はマラソンで、勤務地は都内。はっ!? 職業会社役員!? 年収一千万円以上!? なにこのハイスペ」
友子と別れて帰宅した私は、一先ずいいねをくれた相手のプロフィールに目を通していた。
同世代、年上、年下。
中には五十代なんて人もいた。
趣味も職業も、ばらばらだ。
私の日常には恋愛を求めている男なんて影も形も見えないのに、いったいどこに隠れているのだろうか。
私は趣味や性格が合いそうな人にいいねを返し、マッチングを成立させていく。
いいねを返す中で、私が最も重視したのは、いつ結婚したいかの項目だ。
空欄にしている男は論外。
良い人がいれば、なんて曖昧にしている男も対象から外した。
もう、元彼の様な男に振り回されるのはごめんだ。
「っはー。疲れた……」
帰宅時点で、いいねの数は三桁を越えていた。
今あるプロフィールを読むのだけでも疲れるのに、いいねの数は増え続け、読んでも読んでも終わらない。
その上、マッチングが成立した相手からメッセージも送られてきて、あまりの文字の多さに私の脳は限界を迎えた。
アプリの通知をオフにして、スマホをベッドに投げ捨てた。
「無理無理無理。死んじゃう」
ベッドに寝転がって目を閉じ、いったん脳を休憩させる。
あまりにも積み重なっていく疲労感に、既にアプリを止めてやろうかという感情にも支配される。
だが、ベッドに深く沈んでいく感覚が、元彼にベッドの上で抱きしめられた記憶を思い出させた。
背中には柔らかいベッド。
お腹にはがっしりとした元彼の体。
唇に風があたり、元彼から押し付けられた唇の感触を思い出す。
「うあー! 忘れろ自分! 忘れるんだ!」
上半身を起こして、掴んだ枕を振り回す。
枕と布団がぶつかって、ボスンボスンと音が鳴る。
私に纏わりつく元彼の亡霊を、私は必死で振り払う。
「はあ……はあ……」
別れたのは正解だったのか。
未だに答えが出ないでいる。
心がズキズキと痛み、どうしようもなく喉が渇いてくる。
「あー、もう! 進むしかない! もう、前に進むしかないんだ!」
私は台所へ走り、冷蔵庫からコーヒー缶を取り出して一気に飲み干した。
キンとした冷たさが頭に響く。
元彼の影響で飲めるようになったブラックコーヒーは、まだまだ冷蔵庫にたくさん残っていた。
過去と決別をする。
そう決めてからは、ご飯を食べるのも忘れてまでプロフィールを全部読んだ。
マッチングした相手からのメッセージもちゃんと返した。
メッセージでのやり取りをしていると、プロフィールに書いてあることをわざわざ質問してくる相手や、なんだか高圧的な話し方をする相手など、本当に私と恋愛する気があるのだろうかと疑いたくなる相手も紛れ込んでいた。
プロフィールは全部読んだはずなのに、あまりにもプロフィールとのギャップがありすぎた。
プロフィールを、別の誰かに書いてもらったんじゃないかと疑ったほどだ。
まあ、プロフィールの代筆は私もやってもらったので、責めることはできないのだが。
それにしたって、せめて近づける努力はして欲しい。
違和感を感じた相手とのやり取りはやめていき、結果、五人だけが残った。
偉そうな言い方かもしれないが、選ばれた五人だ。
「初めまして。若葉さんですか? はじめです」
「はじめさん、初めまして。若葉です」
今日は、そのうちの一人と会う約束をした日だ。
はじめさんは、私と同い年の会社員で、金融系の仕事をしているらしい。
メッセージからも、誠実さがにじみ出てきていた相手だ。
女慣れはあまりしていなさそうだが、私に対して嘘なく話そうとする誠実な姿勢に好感が持てた。
また、将来は子供を作って温かい家庭を作るのが夢だというところに、とても共感した。
「今日は、遠いところをありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
「じゃあ、行きましょうか」
友子から聞いた話だが、初回のデートはカフェでランチがいいらしい。
初回から居酒屋を選ぶやつは、酔い潰してホテルに連れ込もうとするヤリ目。
初回から夜を選ぶやつは、終電を逃させてホテルに連れ込もうとするヤリ目。
とのことだ。
その点、今残っている五人は、カフェのランチに誘ってくれた人ばかり。
いや、一人だけ動物園に誘われたのだけど、まあセーフだろう。
はじめさんが連れて来てくれたのは、女子会とカップルだらけのおしゃれな喫茶店だ。
メニューを見ると、ハワイアンな雰囲気の料理並んでおり、とても美味しそうだ。
「わー、美味しそう」
「どれにしようか迷ってしまいますよね」
「そうですよねー」
「ぼくは、このロコモコプレートにしようかな」
「んー。じゃあ私は、このハワイアンオレンジチキンプレートにします」
「チキンにオレンジが乗ってるんですね! 初めて見ました。美味しそうですねー」
「ね! 私も初めて見ました!」
はじめさんは、そのままスムーズに注文をこなし、料理が来るまでも私が退屈しないようにお話をしてくれた。
「若葉さんは、カフェ巡りが趣味なんですよね。こういうカフェも、良く来るんですか?」
「……友達と、たまに」
「そうなんですねー。ぼくはカフェによく行くんですけど、ここら辺のカフェは初めてでー」
元彼と巡っていた、という言葉は飲み込んだ。
思えば、私の趣味の大半は、元彼と作った物だ。
元彼が私のために探してくれたカフェ、元彼が私と行きたいと言ってくれた旅行先、車の助手席で運転する元彼の横顔を眺めていたドライブ。
私の好きなことは、全部元彼の手垢にまみれていた。
「若葉さん?」
「あ!? ごめんなさい。ちょっと、ボーっとしてました」
いけない。
こんなんじゃいけない。
忘れろ。
元彼のことなんて。
忘れるんだ。
今は、目の前のはじめさんに集中だ。
「で、結局全員と続かなかったわけ?」
「……うん」
私はベッドの上に寝転んで、友子と反省会通話をしていた。
未だに増え続けるいいねを前にしても、私の心は動かない。
「いい人、いなかったの?」
「ううん、いたよ。誠実で、結婚にも前向きな人」
「その人じゃ駄目だったの?」
「駄目じゃないけど、なんていうか」
「うん」
「なんとなく、物足りなくて」
友子への言葉は濁したが、私の中に答えはとっくに出ている。
誰も彼も、元彼に及ばなかったのだ。
優しい人、真面目そうな人、気が使える人。
その全員が、元彼ほど私の心を揺さぶってくれなかったのだ。
「そう。まあ、まだ元彼に未練も残ってるだろうし。焦って変な人捕まえても仕方ないし。今は、自分のペースでやればいいと思うよ」
私の懺悔を、友子は非難しなかった。
それでも、私は友子に、心の中を全て覗かれた気がした。
私の弱い部分も醜い部分も、全部。
「そ、それよりさ」
私は逃げるように、話題を変えた。
つまらない。
つまらない。
つまらない。
私が求める誠実な人は、誰も私の心を満たしてくれなかった。
私が悪いのか、それとも相手が悪いのか。
私の心はぐちゃぐちゃになっていた。
「戻りたい……」
過去を忘れようとすればするほど、過去が鮮明に浮かび上がってくる。
前を向こうとすればするほど、元彼の痕跡が目についてくる。
「なんで!」
いつの間にか流れていた涙がベッドを揺らす。
出したつもりのない大声が部屋に響き渡り、隣の部屋から壁をドンと叩かれる。
「あ、ごめんなさい……」
自分も他人も思い通りに動かない現実を前に、私の心が擦り切れていくのを感じた。
擦り切れた心のカスは慰め合うように引っ付いて、紐の形になって私の首をキリキリと締めてくる。
呼吸が苦しくなって、頭がボーっとしてくる。
溺れるような苦しさから自分を救いあげるため、私はスマホに手を伸ばした。
友子。
助けて友子。
遠ざかろうとしたり、近づこうとしたり、自分勝手なのは自覚してる。
でも、耐えられないのだ。
スマホを取った拍子に、指がマッチングアプリのアイコンに触れてしまう。
「あ」
触れた拍子にアプリが起動し、一番見たくないアプリの画面が目に入ってしまう。
いいねが届きました。
いつも通りの通知メッセージと共に、元彼を彷彿させる男の写真がスマホの画面にでかでかと表示された。
一目見た瞬間、私の心が射抜かれた。
心に巣くっていた元彼の顔が木っ端みじんに砕け散って、私の視線は名も知らない男に釘付けになった。
指は、無意識にいいねを返す。
「あ、やば!?」
マッチング成立の画面を見た後、私は急いでその男のプロフィールへと跳んだ。
名前は、恋。
。
「年齢は……げっ!? 二十歳!?」
趣味はドライブ。
職業は大学生。
好みのタイプは年上。
いつ結婚したいかは、未設定。
「いや、いやいやいやいや。ないないない! 絶対ない! どう考えても、一番会っちゃ駄目なやつ!」
焦る私の気持ちを考えず、メッセージはすぐに届いた。
『こんにちはー。俺、恋って言います! 若葉って可愛い名前っすね! 若葉ちゃんって呼んでいい?』
「無理無理無理無理! 絶対無理! つーか、年下なのに即ちゃん付けって何!?」
『初めまして。若葉です。ちゃん付け、いいですけどなんだかちょっと恥ずかしいですね』
『じゃあ若葉ちゃんで! あ、タメ口で大丈夫っすよ! 俺の方が年下なんで。つーか若葉ちゃん、ドライブ好きなんだ! 俺もめちゃめちゃ好きで、毎日乗ってんだ! めっちゃ綺麗な夜景が見えるとこ知ってんだけど、良かったら仕事終わりとかに行かね?』
「無理無理無理無理! 何この糞餓鬼!? タメ口で大丈夫って、それは年上の私が言うセリフじゃん!? 年下のお前が言うんかい!」
『夜景好きなんですよ。是非、ご一緒したいです』
『オッケーっす! 若葉ちゃん、いつ暇? 俺は、明日とかでも全然大丈夫だけど』
間違っている。
こんなの、間違っている。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、私の心は止められなかった。
「初めましてー。恋っす。若葉ちゃん、写真も可愛かったけど、実際に会うとさらに可愛いねー!」
チャラい。
恋くんへの第一印象は、その一言に尽きた。
駅で待ち合わせた恋くんの姿は、大学生というだけあって私よりもはるかに若く、遊び慣れてそうだった。
頭に浮かんだ言葉がそのまま吐き出されているかのようなペラペラの言葉。
何を考えているかわからないヘラヘラとした表情。
そして、周囲の雰囲気を巻き込んでしまうほどに強烈な、子供の様な無邪気さ。
まるで、元彼のようだ。
「いえいえ、そんな。恋くんも、写真より格好良いね」
「よく言われるっす! ま、立ち話もなんだし、車行こうぜ。あれ、俺の車!」
恋くんが指差した先には、真っ赤なオープンカーが止まっていた。
恋くんは私の手をギュッと掴んで、私を車の方へと連れていく。
掌から流れ込んでくる熱が顔にまで到達し、私の顔は一瞬で熱くなった。
「どうぞ」
私は助手席の扉を開けてくれる恋くんを見て、最後の意地で口を開く。
「い、言っとくけど」
「ん?」
「私、そんなに軽い女じゃないからね!」
私の意図は伝わっただろうか。
私の言葉は正しかっただろうか。
一瞬だけぽかんとした表情を浮かべた恋くんは、噴き出した後に大声で笑った。
「んな……!」
「俺って、そんなに軽く見える?」
私が助手席に座ると、笑いすぎて目に涙を舐めた恋くんが扉を閉めてくれる。
そして、恋くんは運転席へと座り、ティッシュで目の涙を拭い取っていた。
エンジンをスタートさせてエンジン音が鳴り響くが、車は一向に出発しない。
「ごめん、ちょっとだけ待ってね」
出発しない原因はわかっている。
恋くんの笑いが、未だに止まっていないからだ。
私の意地は、恋くんを笑わせて、私自身を一層恥ずかしくする結果に終わってしまった。
最悪だ。
「あー、ごめんね。じゃあ、行こうか」
涙の止まった恋くんは、アクセルを踏んで車を動かす。
ウインカーをつけて、滑らかに本戦車道へ合流した後、街中を颯爽と走った。
この街には、元彼との思い出が染みついている。
当然、ドライブデートだって何度もしたはずだった。
「うわー!」
「どうしたの? ドライブ、初めてじゃないよね?」
「初めてじゃないけど、夜にこの道は初めて!」
「そうなんだ! じゃあ、折角だし色々回りながら行こうか」
元彼は、夜の運転を嫌った。
交通量の多い道も嫌った。
車の少ない裏道に入り、ほとんどの人が知らない道だと自慢げに話していた。
その時は、私も素直に元彼の知識を凄いと拍手した。
恋くんは、元彼とはまるで逆。
たくさんの車が通る道のど真ん中を、我が物顔で走っている。
まるで、自分が一番だと言わんばかりに。
抜いた車の後部座席から、子供が私たちの乗っている車を指差してはしゃいでいるのが見えた。
「すごい」
今ここに、元彼はいない。
元彼との思い出が染みついたはずの街に、元彼のいない場所があるなんて思いもよらなかった。
私は、目を丸くしたまま恋くんの横顔を見る。
不機嫌などみじんも見当たらない、見たことのない横顔がそこにはあった。
「ん? 何? 俺の顔に、なんかついてる?」
「え、いや……ううん」
「なら、いいんだけど、時間もいい感じだし、そろそろ夜景の見える場所へ向かうね」
そう言うと、恋くんの車は大通りから外れて、坂道を上っていった。
車が、街の光から遠ざかっていく。
山の上へと向かっていく。
「ほら、ここだよ」
恋くんが、車道の端に車を止める。
助手席から外を覗き込めば、ガードレールの先には綺麗な夜景が広がっていた。
ビルが、塔が、煙突が、キラキラと輝いて宝石のようだ。
「綺麗ー!」
「だろ? 俺が偶然見つけた、とっておきの場所なんだ。検索しても、出てこないんだぜ?」
「そんなとっておきの場所、初対面の女に教えてもよかったの?」
「何言ってんの? 一緒にドライブした仲じゃん!」
恋くんの無邪気な表情に、私はくすりと笑みがこぼれた。
ペラペラな言葉にヘラヘラの表情。
恋人でも親友でもない、本名も知らない他人だからこそ、思わず緊張が解けてしまった。
そんな気の抜けた私の頭を、大きな掌が優しく撫でる。
「よかった」
「え?」
「今日、初めて笑顔を見せてくれた」
「……嘘。私、笑えてなかった?」
「うん。なんか、無理して笑顔を作ってた気がする」
涙が零れ落ちる。
全くの他人だからこそ、私の心の壁は決壊した。
口が、防波堤の役割を果たしてくれない。
元彼のこと。
元彼のこと。
元彼のこと。
私は捲し立てるように、恋くんに吐き出した。
恋くんは、私を言葉をうんうんと聞いた後、優しく抱きしめてくれた。
「もう、大丈夫だよ。ここには、元彼さんなんていないよ」
「……うん」
「山の上だから、誰も来ないよ」
「うん」
「全部吐き出していいよ。全部見せていいよ。俺に、全部。受け止めるから」
これは、恋なんかじゃない。
恋くんは、私が求める誠実な男なんかじゃない。
ペラペラで、ヘラヘラで。
泣いて惚れて、真っ赤になった私の唇に、恋くんの唇が押し付けられる。
恋くんの手が、私の心を探るように、私の体を這いまわる。
抵抗しない私の上に、恋くんの体が覆いかぶさって来た。
もう一度言う。
これは、恋なんかじゃない。
「友子! 私、恋人出来たの!」
「え、おめでとう! どんな人? 写真ないの?」
「えーっとねー、送るねー」
「わー! 優しそうな人! 若葉とお似合いじゃーん」
私は後日、アプリで出会った人と交際を始めた。
「でも良かったー。若葉が元彼の未練断ち切れて。このままずっと引きずったままだと、どうしようかと心配してたんだよー」
「あはは。ごめんね、心配かけて」
元彼の呪縛は、恋くんが解いてくれた。
あの日、恋くんは、この街には元彼がいない場所なんて山のようにあるんだと教えてくれた。
元彼以上に強烈な夜を私に押し付けてきて、私の中の元彼を完全に殺してくれた。
生まれ変わった私は、再び恋愛に向き合うことができて、新しい出会いに恵まれたのだ。
恋くんとは、あの夜以降、連絡をとっていない。
互いにブロックしたわけではなかったが、恋くんから新しいメッセージは来なかったし、私からも送らなかった。
そしてこの度、恋人ができた私はめでたくアプリを退会し、恋くんと連絡する手段は完全になくなった。
恋くんがあの夜、私をどうしたかったのは今でもわからない。
ただ、体が目当てだっただけか。
それとも、本当に心配してくれたのか。
もしもまた会うことがあれば真意を聞いてみたい気もするが、きっと二度と会うことはないだろう。
でも、どんな理由であれ、私は恋くんに感謝している。
「あ、そろそろ出なきゃ」
「はーい。デート、楽しんできなねー」
あの夜がなければ、今の私はないのだから。
出会いは、新卒で入社した会社。
同じ部署という共通点もあってよく話し、彼の無邪気な話し方に惹かれていった。
元彼も私のことが気になっていたようで、デートに誘われ、三度目のデートで告白された。
順調な交際が始まり、しばらくして同棲も始めた。
このまま、ゆくゆくは結婚をするのだろうと思っていた。
「ねえ。そろそろ真剣に、将来のこと考えない?」
「あー、そうだなー」
「子供だって欲しいし。年齢のことも考えたら、そろそろ」
「んー、そうだなー」
が、そう思ってたのは、どうやら私だけだったらしい。
「いい加減にしてよ! 大事な話してるんだから、ちゃんと聞いてよ!」
「……ちっ。うるせえなあ。俺はまだ、自由でいたいんだよ。そんなに結婚したいんなら、別のやつ探せよ」
私と元彼は、私の二十八歳の誕生日に破局した。
大好きだった無邪気で子供みたいな性格は、いつの間にか大嫌いなところに変わっていた。
「そんな屑、別れて正解正解!」
親友の友子は、私の話をうんうんと聞いてくれ、私の選択を肯定してくれた。
「正直、若葉から元彼の話を聞く度、若葉とはあいそうにないなーって思ってたんだよね」
「え、嘘? どの辺が?」
「どの辺って言うか……全部?」
「えー……。その時、言って欲しかったよ」
「その時言っても、多分若葉聞かなかったでしょ。絶対に彼と結婚するんだーって、彼に夢中だったもん」
「う……否定できない……」
同い年のはずの友子は、いつの間にか私より大人になっていた。
私は過去の子供みたいな自分を思い出して恥ずかしくなり、テーブルに置かれているアイスコーヒーを手に取って、一気に飲み干した。
コーヒーが減っていくグラスの中では、氷たちがカランコロンとぶつかり合い、夏の音色を奏でる。
キンとした冷たさが頭に響き、私は頭を手で押さえながら冷静さを取り戻した。
「ちょ、大丈夫? 頭痛い?」
「大丈夫大丈夫」
私は空っぽになったグラスをテーブルに戻して、友子の左手を見る。
友子の左手の薬指には結婚指輪が輝いており、私は羨望の眼差しでそれを見つめる。
「いいなぁ」
「大丈夫だって。若葉、まだ二十代だし。全然いけるって!」
「あと二年しかないんですけど」
「二年もあんじゃん!」
私は、男の人との出会い方を知らない。
高校の時は同じクラスの男子から告白されて、大学の時は同じサークルの男子から告白されて、社会人になってからは会社の同期……元彼から告白された。
元彼とは絶賛社内でギクシャクしているので、もう社内恋愛をする気はない。
私の周りに、男はいない。
「社会人って、どうやって出会ったらいいんだろう」
私は、目の前の生き証人に、泣き言のように聞いてみた。
「うーん。結婚したいなら、結婚相談所が一番いいかもね」
返って来たのは、ずいぶん重い提案だった。
偏見だが、結婚相談所はまったく恋愛ができない人や、年齢的に後がなくなった人が入会するイメージだ。
私には、まだ早いと思う。
「ちょっと、ガチすぎるかも」
「じゃ、マッチングアプリとかは?」
私の反応は友子の予想通りだったのだろう。
友子は即座に、次を提案してきた。
「アプリかー」
「実は私も、今の旦那とはアプリで知り合ったんだよね」
「個人情報とか大丈夫なの? なんか恐そう」
「大丈夫だよ。私も最初は抵抗あったけど、別に何もなかったし」
「ヤリ目とかいそう」
「ゼロとは言わないけど、メッセージやり取りしてたらなんとなくわかるよ」
「そういうもんかぁ。じゃあ、やってみようかな。お勧めのアプリとかある?」
私は友子監視の元、その場でアプリをインストールした。
プロフィール写真が必要ということなので、ケーキを注文して、友子にケーキを持った写真を何枚か撮ってもらった。
ケーキの持ち方から表情まで、友子先生に言われるがまま。
その甲斐あって、我ながら盛れた写真ができあがった。
当社比三割増しだ。
写真を取り終えたら、次はプロフィール作成。
友子が私のスマホをひったくって、私のプロフィールを作っていく。
アプリの用意している例文をベースにして、私オリジナルのプロフィールが作られていく。
持つべきものは、親友だ。
「若葉、趣味って何だっけ?」
「お酒」
「他には?」
「ドライブ」
「若葉、免許持ってたっけ?」
「ううん? だから、助手席専門」
「あーね。カフェとか旅行は好きだっけ?」
「好きだよ」
「了解。じゃあ、それも趣味に追加しとくね。できた。空いてるところは、てきとうに追加しといてね」
友子が返してきたスマホを受け取り、私は私のプロフィールに目を通す。
性格は、明るいが少し人見知り。
趣味は、カフェ巡りに旅行にドライブ(助手席専門)。
好みのタイプは、真面目で誠実な人。
初回デート費用は、割り勘希望。
年収や子供が欲しいかどうかは空いていた。
私はささっと空いている項目を埋め、登録のボタンを押す。
登録完了の通知とともにプロフィール入力画面が切り替わり、画面にはアプリに登録している男の顔写真がずらりと並んだ。
「登録できたよ」
「オッケー。じゃあ、後は少し待ちだね」
「待ち?」
「暇なら、男のプロフィール眺めててもいいと思うけど」
友子の言葉に首を傾げた直後、私のスマホに通知が来る。
通知欄を見てみれば、さっき入れたばかりのアプリからの「いいねが届きました」というメッセージ。
「え、早」
驚いていると、さらに通知が届く。
いいねが届きました。
いいねが届きました。
いいねが届きました。
「ちょ、え、は? んえ!?」
人生史上初のいいねラッシュに困惑する私を、友子はにやにやしながら眺めていた。
「えーっと、趣味はマラソンで、勤務地は都内。はっ!? 職業会社役員!? 年収一千万円以上!? なにこのハイスペ」
友子と別れて帰宅した私は、一先ずいいねをくれた相手のプロフィールに目を通していた。
同世代、年上、年下。
中には五十代なんて人もいた。
趣味も職業も、ばらばらだ。
私の日常には恋愛を求めている男なんて影も形も見えないのに、いったいどこに隠れているのだろうか。
私は趣味や性格が合いそうな人にいいねを返し、マッチングを成立させていく。
いいねを返す中で、私が最も重視したのは、いつ結婚したいかの項目だ。
空欄にしている男は論外。
良い人がいれば、なんて曖昧にしている男も対象から外した。
もう、元彼の様な男に振り回されるのはごめんだ。
「っはー。疲れた……」
帰宅時点で、いいねの数は三桁を越えていた。
今あるプロフィールを読むのだけでも疲れるのに、いいねの数は増え続け、読んでも読んでも終わらない。
その上、マッチングが成立した相手からメッセージも送られてきて、あまりの文字の多さに私の脳は限界を迎えた。
アプリの通知をオフにして、スマホをベッドに投げ捨てた。
「無理無理無理。死んじゃう」
ベッドに寝転がって目を閉じ、いったん脳を休憩させる。
あまりにも積み重なっていく疲労感に、既にアプリを止めてやろうかという感情にも支配される。
だが、ベッドに深く沈んでいく感覚が、元彼にベッドの上で抱きしめられた記憶を思い出させた。
背中には柔らかいベッド。
お腹にはがっしりとした元彼の体。
唇に風があたり、元彼から押し付けられた唇の感触を思い出す。
「うあー! 忘れろ自分! 忘れるんだ!」
上半身を起こして、掴んだ枕を振り回す。
枕と布団がぶつかって、ボスンボスンと音が鳴る。
私に纏わりつく元彼の亡霊を、私は必死で振り払う。
「はあ……はあ……」
別れたのは正解だったのか。
未だに答えが出ないでいる。
心がズキズキと痛み、どうしようもなく喉が渇いてくる。
「あー、もう! 進むしかない! もう、前に進むしかないんだ!」
私は台所へ走り、冷蔵庫からコーヒー缶を取り出して一気に飲み干した。
キンとした冷たさが頭に響く。
元彼の影響で飲めるようになったブラックコーヒーは、まだまだ冷蔵庫にたくさん残っていた。
過去と決別をする。
そう決めてからは、ご飯を食べるのも忘れてまでプロフィールを全部読んだ。
マッチングした相手からのメッセージもちゃんと返した。
メッセージでのやり取りをしていると、プロフィールに書いてあることをわざわざ質問してくる相手や、なんだか高圧的な話し方をする相手など、本当に私と恋愛する気があるのだろうかと疑いたくなる相手も紛れ込んでいた。
プロフィールは全部読んだはずなのに、あまりにもプロフィールとのギャップがありすぎた。
プロフィールを、別の誰かに書いてもらったんじゃないかと疑ったほどだ。
まあ、プロフィールの代筆は私もやってもらったので、責めることはできないのだが。
それにしたって、せめて近づける努力はして欲しい。
違和感を感じた相手とのやり取りはやめていき、結果、五人だけが残った。
偉そうな言い方かもしれないが、選ばれた五人だ。
「初めまして。若葉さんですか? はじめです」
「はじめさん、初めまして。若葉です」
今日は、そのうちの一人と会う約束をした日だ。
はじめさんは、私と同い年の会社員で、金融系の仕事をしているらしい。
メッセージからも、誠実さがにじみ出てきていた相手だ。
女慣れはあまりしていなさそうだが、私に対して嘘なく話そうとする誠実な姿勢に好感が持てた。
また、将来は子供を作って温かい家庭を作るのが夢だというところに、とても共感した。
「今日は、遠いところをありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
「じゃあ、行きましょうか」
友子から聞いた話だが、初回のデートはカフェでランチがいいらしい。
初回から居酒屋を選ぶやつは、酔い潰してホテルに連れ込もうとするヤリ目。
初回から夜を選ぶやつは、終電を逃させてホテルに連れ込もうとするヤリ目。
とのことだ。
その点、今残っている五人は、カフェのランチに誘ってくれた人ばかり。
いや、一人だけ動物園に誘われたのだけど、まあセーフだろう。
はじめさんが連れて来てくれたのは、女子会とカップルだらけのおしゃれな喫茶店だ。
メニューを見ると、ハワイアンな雰囲気の料理並んでおり、とても美味しそうだ。
「わー、美味しそう」
「どれにしようか迷ってしまいますよね」
「そうですよねー」
「ぼくは、このロコモコプレートにしようかな」
「んー。じゃあ私は、このハワイアンオレンジチキンプレートにします」
「チキンにオレンジが乗ってるんですね! 初めて見ました。美味しそうですねー」
「ね! 私も初めて見ました!」
はじめさんは、そのままスムーズに注文をこなし、料理が来るまでも私が退屈しないようにお話をしてくれた。
「若葉さんは、カフェ巡りが趣味なんですよね。こういうカフェも、良く来るんですか?」
「……友達と、たまに」
「そうなんですねー。ぼくはカフェによく行くんですけど、ここら辺のカフェは初めてでー」
元彼と巡っていた、という言葉は飲み込んだ。
思えば、私の趣味の大半は、元彼と作った物だ。
元彼が私のために探してくれたカフェ、元彼が私と行きたいと言ってくれた旅行先、車の助手席で運転する元彼の横顔を眺めていたドライブ。
私の好きなことは、全部元彼の手垢にまみれていた。
「若葉さん?」
「あ!? ごめんなさい。ちょっと、ボーっとしてました」
いけない。
こんなんじゃいけない。
忘れろ。
元彼のことなんて。
忘れるんだ。
今は、目の前のはじめさんに集中だ。
「で、結局全員と続かなかったわけ?」
「……うん」
私はベッドの上に寝転んで、友子と反省会通話をしていた。
未だに増え続けるいいねを前にしても、私の心は動かない。
「いい人、いなかったの?」
「ううん、いたよ。誠実で、結婚にも前向きな人」
「その人じゃ駄目だったの?」
「駄目じゃないけど、なんていうか」
「うん」
「なんとなく、物足りなくて」
友子への言葉は濁したが、私の中に答えはとっくに出ている。
誰も彼も、元彼に及ばなかったのだ。
優しい人、真面目そうな人、気が使える人。
その全員が、元彼ほど私の心を揺さぶってくれなかったのだ。
「そう。まあ、まだ元彼に未練も残ってるだろうし。焦って変な人捕まえても仕方ないし。今は、自分のペースでやればいいと思うよ」
私の懺悔を、友子は非難しなかった。
それでも、私は友子に、心の中を全て覗かれた気がした。
私の弱い部分も醜い部分も、全部。
「そ、それよりさ」
私は逃げるように、話題を変えた。
つまらない。
つまらない。
つまらない。
私が求める誠実な人は、誰も私の心を満たしてくれなかった。
私が悪いのか、それとも相手が悪いのか。
私の心はぐちゃぐちゃになっていた。
「戻りたい……」
過去を忘れようとすればするほど、過去が鮮明に浮かび上がってくる。
前を向こうとすればするほど、元彼の痕跡が目についてくる。
「なんで!」
いつの間にか流れていた涙がベッドを揺らす。
出したつもりのない大声が部屋に響き渡り、隣の部屋から壁をドンと叩かれる。
「あ、ごめんなさい……」
自分も他人も思い通りに動かない現実を前に、私の心が擦り切れていくのを感じた。
擦り切れた心のカスは慰め合うように引っ付いて、紐の形になって私の首をキリキリと締めてくる。
呼吸が苦しくなって、頭がボーっとしてくる。
溺れるような苦しさから自分を救いあげるため、私はスマホに手を伸ばした。
友子。
助けて友子。
遠ざかろうとしたり、近づこうとしたり、自分勝手なのは自覚してる。
でも、耐えられないのだ。
スマホを取った拍子に、指がマッチングアプリのアイコンに触れてしまう。
「あ」
触れた拍子にアプリが起動し、一番見たくないアプリの画面が目に入ってしまう。
いいねが届きました。
いつも通りの通知メッセージと共に、元彼を彷彿させる男の写真がスマホの画面にでかでかと表示された。
一目見た瞬間、私の心が射抜かれた。
心に巣くっていた元彼の顔が木っ端みじんに砕け散って、私の視線は名も知らない男に釘付けになった。
指は、無意識にいいねを返す。
「あ、やば!?」
マッチング成立の画面を見た後、私は急いでその男のプロフィールへと跳んだ。
名前は、恋。
。
「年齢は……げっ!? 二十歳!?」
趣味はドライブ。
職業は大学生。
好みのタイプは年上。
いつ結婚したいかは、未設定。
「いや、いやいやいやいや。ないないない! 絶対ない! どう考えても、一番会っちゃ駄目なやつ!」
焦る私の気持ちを考えず、メッセージはすぐに届いた。
『こんにちはー。俺、恋って言います! 若葉って可愛い名前っすね! 若葉ちゃんって呼んでいい?』
「無理無理無理無理! 絶対無理! つーか、年下なのに即ちゃん付けって何!?」
『初めまして。若葉です。ちゃん付け、いいですけどなんだかちょっと恥ずかしいですね』
『じゃあ若葉ちゃんで! あ、タメ口で大丈夫っすよ! 俺の方が年下なんで。つーか若葉ちゃん、ドライブ好きなんだ! 俺もめちゃめちゃ好きで、毎日乗ってんだ! めっちゃ綺麗な夜景が見えるとこ知ってんだけど、良かったら仕事終わりとかに行かね?』
「無理無理無理無理! 何この糞餓鬼!? タメ口で大丈夫って、それは年上の私が言うセリフじゃん!? 年下のお前が言うんかい!」
『夜景好きなんですよ。是非、ご一緒したいです』
『オッケーっす! 若葉ちゃん、いつ暇? 俺は、明日とかでも全然大丈夫だけど』
間違っている。
こんなの、間違っている。
そんなことはわかっている。
わかっているのに、私の心は止められなかった。
「初めましてー。恋っす。若葉ちゃん、写真も可愛かったけど、実際に会うとさらに可愛いねー!」
チャラい。
恋くんへの第一印象は、その一言に尽きた。
駅で待ち合わせた恋くんの姿は、大学生というだけあって私よりもはるかに若く、遊び慣れてそうだった。
頭に浮かんだ言葉がそのまま吐き出されているかのようなペラペラの言葉。
何を考えているかわからないヘラヘラとした表情。
そして、周囲の雰囲気を巻き込んでしまうほどに強烈な、子供の様な無邪気さ。
まるで、元彼のようだ。
「いえいえ、そんな。恋くんも、写真より格好良いね」
「よく言われるっす! ま、立ち話もなんだし、車行こうぜ。あれ、俺の車!」
恋くんが指差した先には、真っ赤なオープンカーが止まっていた。
恋くんは私の手をギュッと掴んで、私を車の方へと連れていく。
掌から流れ込んでくる熱が顔にまで到達し、私の顔は一瞬で熱くなった。
「どうぞ」
私は助手席の扉を開けてくれる恋くんを見て、最後の意地で口を開く。
「い、言っとくけど」
「ん?」
「私、そんなに軽い女じゃないからね!」
私の意図は伝わっただろうか。
私の言葉は正しかっただろうか。
一瞬だけぽかんとした表情を浮かべた恋くんは、噴き出した後に大声で笑った。
「んな……!」
「俺って、そんなに軽く見える?」
私が助手席に座ると、笑いすぎて目に涙を舐めた恋くんが扉を閉めてくれる。
そして、恋くんは運転席へと座り、ティッシュで目の涙を拭い取っていた。
エンジンをスタートさせてエンジン音が鳴り響くが、車は一向に出発しない。
「ごめん、ちょっとだけ待ってね」
出発しない原因はわかっている。
恋くんの笑いが、未だに止まっていないからだ。
私の意地は、恋くんを笑わせて、私自身を一層恥ずかしくする結果に終わってしまった。
最悪だ。
「あー、ごめんね。じゃあ、行こうか」
涙の止まった恋くんは、アクセルを踏んで車を動かす。
ウインカーをつけて、滑らかに本戦車道へ合流した後、街中を颯爽と走った。
この街には、元彼との思い出が染みついている。
当然、ドライブデートだって何度もしたはずだった。
「うわー!」
「どうしたの? ドライブ、初めてじゃないよね?」
「初めてじゃないけど、夜にこの道は初めて!」
「そうなんだ! じゃあ、折角だし色々回りながら行こうか」
元彼は、夜の運転を嫌った。
交通量の多い道も嫌った。
車の少ない裏道に入り、ほとんどの人が知らない道だと自慢げに話していた。
その時は、私も素直に元彼の知識を凄いと拍手した。
恋くんは、元彼とはまるで逆。
たくさんの車が通る道のど真ん中を、我が物顔で走っている。
まるで、自分が一番だと言わんばかりに。
抜いた車の後部座席から、子供が私たちの乗っている車を指差してはしゃいでいるのが見えた。
「すごい」
今ここに、元彼はいない。
元彼との思い出が染みついたはずの街に、元彼のいない場所があるなんて思いもよらなかった。
私は、目を丸くしたまま恋くんの横顔を見る。
不機嫌などみじんも見当たらない、見たことのない横顔がそこにはあった。
「ん? 何? 俺の顔に、なんかついてる?」
「え、いや……ううん」
「なら、いいんだけど、時間もいい感じだし、そろそろ夜景の見える場所へ向かうね」
そう言うと、恋くんの車は大通りから外れて、坂道を上っていった。
車が、街の光から遠ざかっていく。
山の上へと向かっていく。
「ほら、ここだよ」
恋くんが、車道の端に車を止める。
助手席から外を覗き込めば、ガードレールの先には綺麗な夜景が広がっていた。
ビルが、塔が、煙突が、キラキラと輝いて宝石のようだ。
「綺麗ー!」
「だろ? 俺が偶然見つけた、とっておきの場所なんだ。検索しても、出てこないんだぜ?」
「そんなとっておきの場所、初対面の女に教えてもよかったの?」
「何言ってんの? 一緒にドライブした仲じゃん!」
恋くんの無邪気な表情に、私はくすりと笑みがこぼれた。
ペラペラな言葉にヘラヘラの表情。
恋人でも親友でもない、本名も知らない他人だからこそ、思わず緊張が解けてしまった。
そんな気の抜けた私の頭を、大きな掌が優しく撫でる。
「よかった」
「え?」
「今日、初めて笑顔を見せてくれた」
「……嘘。私、笑えてなかった?」
「うん。なんか、無理して笑顔を作ってた気がする」
涙が零れ落ちる。
全くの他人だからこそ、私の心の壁は決壊した。
口が、防波堤の役割を果たしてくれない。
元彼のこと。
元彼のこと。
元彼のこと。
私は捲し立てるように、恋くんに吐き出した。
恋くんは、私を言葉をうんうんと聞いた後、優しく抱きしめてくれた。
「もう、大丈夫だよ。ここには、元彼さんなんていないよ」
「……うん」
「山の上だから、誰も来ないよ」
「うん」
「全部吐き出していいよ。全部見せていいよ。俺に、全部。受け止めるから」
これは、恋なんかじゃない。
恋くんは、私が求める誠実な男なんかじゃない。
ペラペラで、ヘラヘラで。
泣いて惚れて、真っ赤になった私の唇に、恋くんの唇が押し付けられる。
恋くんの手が、私の心を探るように、私の体を這いまわる。
抵抗しない私の上に、恋くんの体が覆いかぶさって来た。
もう一度言う。
これは、恋なんかじゃない。
「友子! 私、恋人出来たの!」
「え、おめでとう! どんな人? 写真ないの?」
「えーっとねー、送るねー」
「わー! 優しそうな人! 若葉とお似合いじゃーん」
私は後日、アプリで出会った人と交際を始めた。
「でも良かったー。若葉が元彼の未練断ち切れて。このままずっと引きずったままだと、どうしようかと心配してたんだよー」
「あはは。ごめんね、心配かけて」
元彼の呪縛は、恋くんが解いてくれた。
あの日、恋くんは、この街には元彼がいない場所なんて山のようにあるんだと教えてくれた。
元彼以上に強烈な夜を私に押し付けてきて、私の中の元彼を完全に殺してくれた。
生まれ変わった私は、再び恋愛に向き合うことができて、新しい出会いに恵まれたのだ。
恋くんとは、あの夜以降、連絡をとっていない。
互いにブロックしたわけではなかったが、恋くんから新しいメッセージは来なかったし、私からも送らなかった。
そしてこの度、恋人ができた私はめでたくアプリを退会し、恋くんと連絡する手段は完全になくなった。
恋くんがあの夜、私をどうしたかったのは今でもわからない。
ただ、体が目当てだっただけか。
それとも、本当に心配してくれたのか。
もしもまた会うことがあれば真意を聞いてみたい気もするが、きっと二度と会うことはないだろう。
でも、どんな理由であれ、私は恋くんに感謝している。
「あ、そろそろ出なきゃ」
「はーい。デート、楽しんできなねー」
あの夜がなければ、今の私はないのだから。