今夜も誰もいない砂浜を歩いている。海に反射して揺らめく月明かりと、微かに聞こえる波の音に、一瞬にして気が緩む。
 一週間前、私は自分の人生に期待することをやめた。
 
 *
 
 私は生まれつき、心臓の病気を患っている。入退院を繰り返す日々を過ごし、学校にも思うように通えない。街中で同世代の子たちを見かける度に羨望(せんぼう)(うと)ましさで悶々(もんもん)とする日々を過ごしていた。
 
(そら)の笑顔が、私たちの一番の宝物なのよ」
 
 私よりも、治療に熱心な両親。
 嬉しいと思う反面、その気持ちを素直に受け取れない自分に嫌気がさした。

 –––もっと自由に生きたい。友達とファミレスでくだらない話をして笑い合ったり、放課後、恋人と手を繋いで、わざと遠回りしながら家に帰ったり––––
 
 嫌な顔一つせず、毎日お見舞いに来てくれる両親を前にそんなことを言えるはずもなく、私は自然と自分の気持ちをしまい込むようになった。
 
 たくさんのことを我慢して、目の前にある苦しみに耐えながら生きてきた。
 そろそろ病状も安定して、少しづつ学校に通えるようになるんじゃないかって、淡い期待を抱く。
 
 ただ、現実はそんなに甘くはなかった。
 
「大変申し上げにくいのですが……」
 
 どうやら私の病気は良くなっていないらしい。心臓を移植する以外、助かる道はないと主治医の先生に告げられた。ドナーが見つかるまで一年も二年も待つ可能性があると言われ、室内の空気がとても重苦しく感じた。
 
『詳細については改めて話します』とのことだったので、普段通り両親を見送って、病室は私だけになった。
 
 空いっぱいに散りばめられた(きら)めく星々の光が差し込み、夜の病室は優しく照らされた空間になった。そんな星空を見つめていると、自分の人生は灰色で、私があんなふうに輝ける未来はもうないんだと、とてつもない()り切れなさに襲われる。
 みんなの前で堪えていた涙が静かに溢れだした。
 
「あぁ、そうか……私、死んじゃうんだ……」
 
 生まれて十八年、人生のほとんどを病院で過ごし、嫌々ながらも治療にちゃんと向き合ってきた。
 
「どうして私なのっ……」
 
 ドロドロと溢れ出した負の感情で占拠(せんきょ)されてしまった頭は、よくないことばかりを考えてしまう。
 
 このまま病院で、ただただ死を待つなんで嫌だ。
 
 
 そこから私は、自分の死に(どころ)を探し始めた。
 
 
 初めてその景色を見た時に感じた、現実の苦しみからの開放感はずっと忘れられない。もしも私がこの人生を終わらせるなら、その場所は、あの海がいい。
 あの海でなら、自分の死が悲しみだけじゃなくて、この美しい景色や記憶に結びついて救われる気がした。
 

 
 自分の病状を聞いたあと、一時的に退院し家に帰ってきた私は、毎晩あの海へ足を運んだ。当然、両親に『遅い時間に一人で海に行くのは危険だ』と引き留められたが、いつもワガママを言わない私が、どうしてもと言うものだから、あまり遅くならないことを条件に海へ行くことを許してくれた。
 
 場所を決めたは良いものの、いざ自分の死を目の前にすると足が(すく)む。気づけば海に来るようになってから数日が経っていた。
 
「今日こそ……」
 
 そう小さく呟き、今夜も海へ向う。
 
 パシャッ パシャッ
 
 誰か、水平線に向かって足を進めているのが見えた。
 
「何してるんですか⁉︎」
 
 この数日、自分がやっていたことをそっちのけに、気づけば彼の腕を(つか)んでいた。
 
「ははっ、止めてくれんだ」
 
 笑顔で彼は口を開く。
 
「っっ……」
 
 私がいる方へ振り向き、笑いかけてきた彼を見て、私は静かに息を()んだ。
 
 星のような髪が月明かりに透ける。
 彼の耳元でキラキラと揺れるピアス。
 洗練された顔立ち。
 
 目の前の(まぶ)しい光景が、スローモーションで流れていく。
『きれい……』その感情が私の心に流れ込んできた。
 
「あっ……えっと……」 
 
 ふと我にかえり、掴んでいた彼の腕を離して少し距離をとる。
 焦って飛びついたせいで気づかなかったが、目の前に立っている彼は思っていたよりもずっと大きくて、彼の存在は一層際立っていた。
 
「君、最近よくここに来ているよね? いつも海に入って何をしているの?」 
 
 ここには誰も来ないと思っていたから驚いた。
 何をしてしているのか、という彼からの質問に対して、少し考えた後、私はこう答えた。
 
「私、ここで死のうと思ってるんです」
 
 出会ったばかりの人にこんな事を言っても良いんだろうかと思ったけれど、私のことを何も知らない人だからこそ、私は心の内を隠さず、なんでも話せる気がした。
 
「死にたい、かぁ……」
 
 そう口にしてから彼は少し黙り込み、一緒に浜辺に戻って横並びに座るよう(うなが)してきた。
 
「ん〜、どうして死にたいの?」
 
 予想通りの言葉だった。特に隠すことでもないと思っていたから、自分自身のことを包み隠さず彼に話した。今まで誰かに自分の正直な気持ちを話すことなんてなかったから、うまく話せず言葉に詰まる。気づけばポロポロと涙が(こぼ)れていた。
 
 なんとか全てを話終えると、温かくて大きな手が私の頭を撫でる。
 
「話してくれてありがとう……」
 
 私のことを優しく包み込んでくれるような、まだ名前も知らない彼との時間が、とても心地よくて、少し(くすぐ)ったく感じた。
 
「そういえば、どうして私が最近ここに来ているって知ってるんですか?」
 
 涙が乾き、気持ちも落ち着いたので、私はずっと気になっていたことを聞いた。
 
「俺にとっても、ここは特別な場所でさ、よく来るんだよ」    
 
 夜風にあたろうと、この海を訪れたときに水辺で不審な動きをしている私がたまたま目に止まり、そこから数日間、様子を見に来ていたらしい。
 そういうことだったのかと納得したと同時に、一部始終を見られていたことに対して、恥ずかしさで消え入りたい衝動に駆られた。
 
「俺が同じように海に入っていったら、君はどうするのかなって気になっちゃってさ、今日は先回りしてみたんだよ! 君ったら血相変えてしがみついてきて……笑っちゃった」
 
 あの瞬間、月明かりに照らされる彼を見た時の、胸の高鳴りを思い出して、顔が少し熱くなる。恋愛なんて縁のない人生を歩んできた私は、多分、生まれて初めて一目惚れをした。
 
 
 それから、この海で顔を合わせる日々が続き、私たちは時間を共に過ごす中で、お互いのことを深く知るようになっていった。
 
 
 彼の名前は『光希(みつき)』で、歳は私の五つ上の二十三才。この海の近くに住んでいる『(りょう)』という名前の幼馴染の家に居候しているらしい。
 
「幼馴染と一緒に暮らしてるなんて、とっても楽しそうだなぁ」

「ん〜、そうだなぁ……」
 
 彼の声が小さくなり、表情が少し曇る。

「俺、中学の時に母親を病気で亡くしててさ……」
 
 予想外の言葉に、戸惑ってしまった。そんな私を横目に『気を使わせちゃうよな』と笑いながら彼は話を続けた。
 
「俺の母さんはすごく優しい人だった。俺が泣いても、怒っても、そっと抱きしめてくくれてさ。それがすごく嬉しくて、心地よくて……」
 
 彼はポケットから母と幼い頃の自分が写った写真を取り出した。
 
「ただ、そばにいてくれるだけでよかったんだ。他愛のない会話をして、一緒に笑いあってさ……いまだに母さんが生きてたらって考える時があるんだよ」
 
 彼は写真にうつる母親の笑顔を見つめる。
 
 波の音しか聞こえないこの場所に、彼の涙が写真にそっと(したた)る音が響いた。
 
 その後もゆっくり自身の話をしてくれた彼。
 
 まだ母親の死を受け入れられていない時期に、父親が再婚。新しい義母は優しくて、彼を受け入れようとしてくれていた。しかし彼はまだ母親を失った現実に苦しみ、その気持ちを受けとることができなかった。新しい家庭での生活は違和感と喪失感で満ちていて、彼は次第に自宅に帰らなくなり、気づいた時には今の生活が当たり前になっていたらしい。
 
「自分の居場所がないことに絶望して、何度も母さんの後を追おうとしたんだ」
 
 正直驚いた。明るく見える彼にも、辛くて暗い過去があったということに。
 
「そんな時、母方の祖母が俺をこの海に連れてきてくれたんだ」
 
 悲しみに苛まれていた彼が、当時、唯一心を開いていた存在だったらしい。
 
「一緒に夕陽が水平線に沈んでいくのを眺めながら、いろんな話をしたんだけど、その中でもすごく印象的だった言葉があってさ」
 
『亡くなった人のことをこの世の誰かが想うと、天国でその人の周りに綺麗な花が降るのよ』
 
 初めて聞いたその言葉に、私は胸を打たれた。
 心に優しい光が差し込んでくるような感じがした。。
 
「その言葉で、少し心が楽になった気がしたんだ。大好きな母さんが今、幸せで穏やかな場所にいる。俺がこの世でたくさん母さんのことを想うことで、もっと母さんを笑顔にできるんじゃないかって」
 
 そこから彼は、よくこの海に足を運んでは、母親の周りにたくさんの綺麗な花が降るように、海を眺めながら想いを()せているみたいだった。
 
 彼の話が終わった頃、私は自然と彼を抱きしめていた。
 
「話してくれて、ありがとね……」
 
 彼も静かに(うなず)き、優しく私を抱きしめ返す。
 私の知らない、彼の(もろ)い部分に触れられた気がして、少し嬉しかった。
 
「昊」
 
 優しい声で名前を呼ばれて顔をあげると、彼は私の目をじっと見つめて()らさなかった。
 ゆっくり彼の顔が近づいてくる。どんどん近づく彼との距離に、耐え切れずギュッと目を(つむ)った。ふわっと何かが唇に触れる感覚に驚き、目を開ける。そこには、耳が真っ赤になっている彼がいた。その表情から、彼とキスをしたことに気づき、心臓が激しく脈を打つ。
 私のファーストキスは、甘いミントの味がした。
 
「ごめん……嫌だった?」
 
 少し不安そうに聞いてくる彼。
 
「……嫌じゃない」
 
 浅くなった呼吸を整えながら、精一杯の返事をする。
 
 いっぱいいっぱいの私に優しく微笑み、彼は私を強く抱き寄せて、またキスをした。髪を()くように私の頭を撫でて、愛おしそうに見つめてくる彼の瞳に吸い込まれてしまいそうだった。
 
「……っ⁉︎」
 
 彼の手が服の中に入り、私の肌に触れる。
 
 緊張や不安、そして少しの好奇心。
 いろんな感情が、頭の中で渦巻(うずま)いて混乱していた。
 
 入院中、飽きるほど読んだ少女漫画が、私にとって恋愛の教科書だった。
 どの本も、そういうことは恋人同士になってからしていたので、今の自分たちの状況はあまり好ましくないものなんじゃないかと感じたけれど、私は目の前にいる彼とだったら、関係性にこだわらず、キスの先までしてもいいかもと思ってしまった。
 
 漫画の中の主人公たちみたいに、恋人でもない関係の人と、こんな海辺で……
 私でも、今の状況で体を許すことは良くないんじゃないかと感じたけれど、目の前にいる彼とだったら、関係性にこだわらず、キスの先までしてもいいかもしれないと思ってしまった。
 
 (さいわ)いなことに、もともと人が来づらい僻地(へきち)にある、秘匿性(ひとくせい)の高い海であることと、近くに小さな洞窟があり、いざという時に隠れることのできる小さな洞窟が近くにあったから場所に対する抵抗はない。
 
 だから私は、私の体に触れてくる彼の手を止めなかった。
 
 言葉を交わさずとも、お互いの存在を感じながら私は幸福感に溺れていった。

 私の体のことを配慮(はいりょ)してか、彼との行為はとても優しいものだった。
 
 知らない世界に飛び込んで、少し大人になれた気がして嬉しかったし、好きな人と愛し合うことができて、とても満ち足りた気分で余韻(よいん)(ひた)っていると、
 
「順番が前後しちゃってごめんね、昊、俺の彼女になってほしい」
 
 生まれて初めて告白された。私も同じ気持ちだと言いたかったが思いとどまる。
 
『大変申し上げにくいのですが……』
 
 主治医の言葉がふと頭をよぎる。仮に彼と付き合ったとして、病気の私が彼を幸せにできるのかすごく不安になった。
 
 彼は、私が病気のことを考えて返事に困っていると察したようで、一度話題をそらした。
 
「昊はさ、今も死にたいと思ってる?」
 
「今はね、この先の未来が真っ暗かもしれないけど、それでも生きたいと思ってる。未来の可能性を捨てたくないなって思ってるよ」
 
 それなら、という彼に私の正直な気持ちを話した。
 
「そうだよね。昊の気持ちはすごく分かるよ、不安だよね。でも、何があっても俺は昊のそばにいたいと思うよ」
 
 彼がそう思ってくれてることが、すごく嬉しかった。
 
 なので、手術が無事終わったら告白の返事をするという約束を彼と交わした。
 
 私たちはお互い、自分の居場所を探していた。
 そして、ようやくそれを見つけられた気がした。
 
 
 
 翌日、私は両親に手術を受けたいと、もう少し頑張りたいと伝えた。
 
「そう言ってくれて、本当に嬉しいわ……一緒に頑張ろうね」
 
 私の言葉を聞いて、両親はとても嬉しそうだった。
 
 
 移植手術は簡単にできるものではない。莫大(ぼうだい)なお金が必要になるし、海外の病院へ移り、ドナーが現れるのを待たなければならなかった。
 
 両親が『娘の治療のためにお金を貸してほしい』と知り合いに頭を下げてくれたり、募金活動をしてくれる地域の人たちのおかげで、手術にかかる費用はなんとか集めることができた。
 
 そんな両親や地域の人たちの恩に報いるためにも、そして彼との未来のためにも、どんな試練も乗り越えようと心に決めた。
 
 
 
 海外の病院に移ってから2ヶ月が経った時に、ドナーが見つかり、明日手術することが決まった。
 
 送られてきた彼から応援の文面を読み返し、自分自身を励ました。
 
「私頑張ってくるね」
 
 悪い結果を考えたってしょうがない。元気になって幸せになる未来だけを信じて、私は手術に向かった。
 
 
 
 どのくらい時間が経っただろう。ぼやけた視界と意識が徐々にはっきりしていく。
 
「そ、昊……! あぁよかった……手術、無事に終わったよ」
 
 嬉しそうな両親の顔が見える。無事に手術は成功したらしい。
 
「あぁ……私……生きてる……」
 
 あまり現実味のなかった自分の未来に、明るい光が差し込み始めた気がした。
 
「早く光希に伝えたい」 
 
 晴れ晴れとした気持ちで、私は光希に無事手術が成功した(むね)を連絡した。
 
 ピロン
 
 すぐに私の携帯が鳴る。
 
〈お疲れ様! 本当によかった。よく頑張ったね〉
 
 彼からの言葉に心がポカポカする。
 
 
 
〈何時くらいに着くかな?〉
 
 日本の病院に戻り、いよいよ光希に会う約束の時間が近づいてくる。
 
 高鳴る鼓動を抑えつつ、鏡を覗き込み、変なところがないか確認しながら、彼との約束の時間が来るのを待った。
 
 約束した時間から一時間、二時間と時間が過ぎていく。
 
「何かあったのかな……」
 
 さっきまで連絡を取り合っていたこともあり、妙な胸騒ぎがする。
 
 不安な気持ちを落ち着かせるため、院内を少しだけ散歩していた時だった。
 
 遠くから、人が叫んでいる声が聞こえてきた。
 
「……き、……つき、みつき‼︎」
 
 病院の職員に行手(ゆくて)(はば)まれながら誰かの名前を大声で叫んでいる男性が目に入る。
 
『みつき』
 
 聞き馴染みのあるその名前に、心の奥底から嫌な予感がじわじわと押し寄せてくる。私の知っている彼じゃないと思いたい。
 
 私は、待合室の椅子に腰掛けて顔を(うつむ)けてる彼に声をかける。
 
「あの……今運ばれて行った人って……」
  
 大きく深呼吸をし、弱々しく(かす)れた声で話し始める彼。
 床にこぼれ落ちていく大粒の涙が、彼の声を奪い、思い通りに話すことを(さえ)っているように見えた。
 
「僕の……幼馴染で……さっき……交通事故にあって……っ」
 
 俯いたまま話す彼。体が少し震えている。
 
『幼馴染』という言葉が嫌な予感を加速させる。
 
「人違いだったらすみません。あの……涼さん……ですか?」
 
 ゆっくり顔を上げ、彼は驚きの表情を浮かべていた。
 
 いつか会いたいと思っていた涼さん。こんなところで会うなんて思ってもみなかった。初めて見た涼さんの顔は痛々しいほど悲しみに満ちている。赤く充血した瞳から涙が次々と溢れ出し、その涙の跡が彼の頬にいくつもの線を描いていた。
 
「もしかして、昊ちゃん……なの?」
 
 自分の名前を呼ばれて、頭が真っ白になった。
 嫌の予感が的中し、茫然(ぼうぜん)とする。今、私の目の前にいるこの人が、涼さんという事は、その涼さんがさっき叫んでいた『みつき』は……。
 
「光希に……何があったんですか?」
 
 私と会う約束をしていた彼が、涼さんの家から病院へ向かおうとしていた時に起きた事故だった。「じゃあ行ってくるわ」とバイクに(またが)り、走り出した光希の背中が小さくなるのを見届けて、玄関に向かおうとしたその時、(するど)いブレーキ音が聞こえ、涼さんは振り返ったそう。光希が道路を横切る瞬間、猛スピードで突っ込んできた車のヘッドライトが光希を照らした瞬間、激しい衝突音が響き渡り、彼の体が宙を舞ったらしい。
 
 その時の状況を聞かされて、信じたくない現実が目の前に突きつけられる。
 
 私たちは、光希が生きて戻ってくることを祈るしかなかった。
 時間が過ぎるたびに不安が募るばかりで、心を落ち着かせようにも涙が頬を伝うのを止めることはできなかった。
 
 やがて医師が現れ、私たちの前に立つ。
 重苦しい空気の中、聞きたくなかった言葉が耳に入ってきた。
 
 私たちの願いは叶うことなく、彼は病院に搬送された一時間後、息を引き取った。
 
 そこからの記憶は曖昧(あいまい)で、時間が止まったかのように、その場から動けなかった。 冷たい手で心臓を強く掴まれているような感覚に襲われる。
 胸の奥で何かが大きく崩れ落ちる音が聞こえた。
 
 もうすぐ手に届きそうだった、喜びも希望も一瞬で消え去り、代わりに喪失感と悲しみが心を埋め尽くしていく。
 
 光希と出会ってから、まだ数ヶ月しか経っていなかった。
 友達でもない、恋人でもない、名前のない関係の私たち。
 
 ちゃんと愛し合えたのだって、あの日の一度だけだった。
 
「……告白の返事……っ、あの時にちゃんとしておけばよかった……っ」
 
 彼に、自分の気持ちを言葉にして『好きだ』と、『私も光希と一緒に生きていきたい』と、伝えたかった。自分には明るい未来はないのかもしれないと躊躇(ちゅうちょ)してしまい、素直な気持ちを言えなかったあの時の自分を恨んだ。
 
 考えれば考えるほど、後悔ばかり溢れてくる。
 嗚咽(おえつ)を抑えきれないくらい、涙が枯れるまで泣いた。
 
 時間は残酷にも、いつも通り流れていく。
 彼が亡くなってからどのくらい立っただろう。
 私は病院を退院することになった。
 
 何の気なしに久々にあの海へ足を運ぶ。
 あそこに行けば、また光希に会える気がしたんだ。
 
 初めて光希と出会い、お互いの弱さを見せ合い、愛し合ったこの場所は、きっと私たちの居場所だった。
 
 爽やかな海の香りに、この場所で過ごした彼との時間がキラキラと頭の中を駆け(めぐ)る。
 
 思い出に浸る中で、あの日、光希から聞いた言葉を思い出した。
 
『亡くなった人のことをこの世の誰かが想うと、天国でその人の周りに綺麗な花が降る』
 
 ねぇ光希、今、あなたの周りにはたくさんの花が降っていますか?
 
 光希は。私の心に生きる希望の光を(とも)してくれた。
 たくさんの人に救ってもらったこの命を、自ら絶ってしまったら、きっと私は天国にはいけない。そんなことをしたら、もう二度と光希に会うことはできないだろう。
 
 今はまだ、光希を思い出して、泣いてしまう毎日を過ごしているけど、あなたと出会えたこの世界で、笑って生きていけるように頑張るね。
 
 でも、どうしようもないくらい寂しくなったら、この海に来るから。
 その時は、私のことを抱きしめに会いに来てよね。
 
 一生懸命生きた先に、今はまだ遠い未来に、彼との再会が約束されていると信じて、私はこれからを人生を歩んでいく。
 
 私は静かに瞼を閉じて、彼との再会を頭の中で思い描く。
 
 風が花の香りを運び、太陽の光が優しく降り注ぐその場所で、光希がいつも通りの優しい笑顔で私を迎え、両手を広げている。私はその腕の中に飛び込み、温もりと安心感に浸りながら、私たちは強く抱きしめ合った。
 
 空想の中だけど、出会った日から変わらない、大好きな彼の笑顔を見れて幸福の涙が頬を伝う。
 
 その日が来るまで、私はずっと光希のことを想うよ。
 
 私は静かに涙を拭い、心の中でこの言葉を。
 
 君に、これからもたくさんの花が降り注ぎますように
 
 
 
              終