心が(かじ)られた感触を知っている。
 その時ついでにココロってやつが本当に心臓の辺りにあるってことも知った。

 私の心はマカロンみたいな食感だった。自分で(かじ)ったわけじゃないのに、何故か私が食べたような感覚がした。つるんと丸くて滑らかな表面に歯を立てると「カリッ」という音がして、そこに出来たヒビ割れが放射線状にひろがっていく。見た目で想像していたのとは全く違ったその食感に、私は悪い意味で裏切られた。しかも私の前歯には、食い千切ったその一口目がベッタリとくっついたままで、いつまでも嫌な感覚がなくならない。だから私は歪なカタチになった自分の心の残りの部分を、恐るおそるみてしまう。
 するとやっぱり、その断面は剥き出しになってグチャグチャだった。

「……あれ?サヤさん、ピアスは?」
「ピアス?」
「シャラシャラしててキラキラしてるやつ。ここに来るまでは付けてなかった?」
「ははっ…その表現、なんだか可愛いな」
 さっきまで仔犬みたいな寝息を立てていたはずのアン君は、まだ開ききっていない目を両手で擦りながらシーツの波間をゴソゴソと探り、私の耳に付いていたはずのシャラシャラでキラキラしてるやつを探してくれているようだった。
「大丈夫だよ。イヤリングだから。寝る前にちゃんと外したの……ほら?」
 ベッドサイドに置かれたテーブルの上を指差すと、私が昨日の夜に放り投げたそのイヤリングは、シルバーの鎖やパールを淫らに絡ませたままなのに、耳に付ける金具はあえて強調するかのようにして横たわっている。私の指の先を確認したアン君はまだ眠そうな目を一瞬はっと見開いたあと、何かを思いついたように私に覆い被さってきた。
「ちょっ……くすぐったい」
「ちゃんと見せて?」
「何を?」
「耳たぶ」
 目を覚ましても仔犬みたいだったアン君の鼻先が頬を辿ると、その感触がこめかみの辺りにまで伝わってきて、私は思わず首をすくめる。アン君はそんなことにはお構いなしに私の耳たぶを(つま)み、つねるようにそれをこねた。
「本当だ。あいてないんだね……穴」
「ねえ、痛いんだけど」
「ふふっ。わざと」
「へえ……知ってた?子供とか赤ちゃんって、甘えたい時に相手の耳たぶを触るらしいよ。それでどういう反応をするかをみて、その人に甘えていいかを判断するんだって」
「あー、もう。そうやってまた子供扱いする……」
「五コも年下なのは子供だよ。ってか、アン君はむしろ赤ちゃん」
「そう。サヤさんは赤ちゃんとも寝るんだ?」
 私の耳元に顔を埋めたままのアン君が拗ねたように言うと、ワックスが落ちてふわふわになった髪の毛が揺れ、私とアン君がほとんど肌色のままでいることに後ろめたさを感じてしまう。
「寝るよ。私らしくないことしたかったしね」
「なにそれ?俺、サヤさんらしさなんて知らない」
「そりゃそうだよ。あの店でたまに会うだけだったんだから。知らなくて当然」
「そういう意味じゃない」
「ん……?あれ?そういえばアン君って、黒髪じゃなかったんだね……」
「そうだよ。どう?俺らしくない?」
「まだ拗ねてるの?ああ、これ……よく見たら青なんだ。すごい綺麗。うん、“らしい”よ。良く似合ってる」
「青髪の赤ちゃんなんていないけどね」
「それ、そういうとこが赤ちゃんなんだって」

 昨日まではあの暗い店で幾度か顔を合わせたことがあるだけだったし、更にいえば、昨日はだいぶ酔い散らかしたせいで記憶も曖昧だ。
 それに、昨日の私は“あえて”酔い散らかしていたのだから余計にたちが悪い。
 普段はつけないイヤリングをわざと耳元で揺らしてみせて、それに引き寄せられるように近付いてきたアン君を釣り上げた。
 別に、昨日の夜を後悔しているわけじゃない。でも、ラブホのくせに朝日が差し込んできた今更に、アン君の髪が深いブルーに染められていることを知ってしまったから、ちょっとだけ戸惑っているのは確かだ。
「あっ!アン君まさか……年齢誤魔化したりとかしてないよね?未成年とか……やめてよ?」
「うわあ。最悪だ」
「ごめん。そんなにだった?」
「そんなにだった。だって俺、サヤさんにいっこも嘘ついてないし。未成年とか……そんなに幼く見えてるの?さっきから結構傷付いてるんだけど」
「ごめんて……」
 口ではそうやって謝ってみたけど、明るい部屋で改めて見るアン君はやっぱり幼い。だから「何歳に手を出したら捕まるんだっけ」という恐ろしい思考が過ってもしょうがないと思う。
 すると、アン君は私の思考を知ってか知らずか、唇を尖らせながらモゾモゾと起き上がり、ベッド脇のリュックから一枚のカードを取り出した。そしてちょっとすました顔で「ほらっ」と言いながら私にそれをみせてくる。
 そこには今よりも更にあどけなくて、しかも何故だか少し困り顔をしたアン君の証明写真が印刷されていた。しかもそのすぐ隣には「暮田安珠」というなんだかイメージしていたのとは違う字面が並んでいる。
暮田(くれた)アン……ジュ?」
「そう。安心のアンに真珠のジュでアンジュ。だからアン君。ちなみに名前の由来はフランス語で天使ね。漢字は当て字。ハーフでもクオーターでもありません。しかも見てよここ、こんな大学に通ってます。だから正真正銘の大学生。こんどの誕生日で22。立派な大人。ほらね、いっこも嘘なんかついてないでしょ?」
 まだ僕は不貞腐れています。と言わんばかりのアン君は、今までで一番の早口で今更な自己紹介をした。漢字で表記されているアン君も、困り顔のアン君も、私の知らないアン君だ。しかもアン君が音大で弦楽器専修しているだなんて、そんなことはもっと知らない。
「なんか、すごいね……色々と意外だった」
「こう見えて、それなりに色々とあるんだよ。でも、サヤさん的にいうと“らしくない”でしょ?」
 アン君は不服そうにそう言いながら私の肩にもたれかかると、鼻先で鎖骨や首筋を探ってくる。その鼻のてっぺんは少し冷たくて、やっぱり仔犬のようだった。だから私がいま触れているアン君とこの学生証の中のアン君は、同じようでいてきっと別人なのかもしれなかった。
「だって、アン君がヴァイオリンを演奏してるのとか、想像できない」
「チェロだしね」
「なら、余計ワケわかんないや」
 ヴァイオリンよりもチェロの方が大きい。私にはその程度の知識しかない。だからアン君がチェロを奏でた時、その楽器からどんな音が出てくるのかもわからない。そんな私なのだから、アン君がヴァイオリンを演奏している様子くらいは辛うじて想像できるにしても、チェロを演奏しているアン君のことなんか、想像できるわけがなかった。
「でもさ、アン君は大丈夫だよ。意外ではあるけど、似合ってるし」
 学生証を挟んだままの親指に力が入り、カードと指紋の間が熱せられる。すると昨日の夜にずっと感じていたアン君の香水の匂いが蘇ってきて香り立つ。それは私には到底似合わないような、恥ずかしくなるほどに瑞々しい香りの記憶。本当は全部同じ味なのに色のイメージだけで味が変わるかき氷と同じ。アン君は私のイメージを反映して、ブルーハワイみたいに鮮やかな青色の匂いを纏っていた。
「似合うも似合わないもなくない?もう、なんだかなあ……サヤさんってさ、昨日までどっかに囚われてたの?ほら、ラプンツェルみたいな感じでさ?」
「どうして……そんなこと思うの?」
 私は心の内でいつもジャッジをしていて、例えばこの人は「こうあるべき」とか「イメージがどう」とか、人に限らずモノでも何でも、私の想像できる範囲の中に当て嵌めようとしてしまう。こんなにみっともない癖があることには何となくもう気付いていたけど、きっとそれを認めたくはなかった。
 そのせいなのか、振りかぶったわけでもないアン君の「囚われていた」という言葉に引っかかる。その言葉だけが蛍光マーカーで色付けされているみたいで、まるでそれを「気にしなくてはいけない」と強制されたようだった。
「いや、ずいぶんと不自由だったのかなって。ふと思っただけ」
「なにそれ……」
 アン君は年下だし、声も少し高い。それに起きぬけでなくても間延びした喋り方をする。それがなんだか堪らなく心地良い。でも、たぶん、中身はもうちゃんと大人の男の人なのだろう。そんなアン君が「不自由」という言葉を発した途端、それまでの伏線が全て回収されたような、全ての元凶に気付いてしまったような、後味がずいぶんと不味い何かだけが目の前に残されていた。

 確かに私は囚われていたのかもしれない。でもそれは私が勝手に囚われに行っただけで、向こうにはそんな気もなかったのかもしれない。明確な悪者がいる。そう思い込みたかっただけかもしれない。
 責任の押し付け合いが私の中だけで起こっていて、気が付くと奥歯をギュッと噛みしめていた。それが「ストレスを感じているというサイン」だということくらいは知っていたから、意図的にそれを解してみると、今度はそこが、どうしようもなくむず痒くなった。


「痛っ……サヤさん?何したの?」
「噛んだ」
「急に噛んだらビックリするじゃん」
「急じゃなければいいの?」
「別にいいよ。ってかむしろそういうのは嬉しいかも」
「変なの。実はマゾなの?」
「そうじゃなくて」
「そうじゃなくては何回も聞いた。そうじゃないなら、なに?」
「んー、難しいけど、サヤさんが本能的に噛んだことが嬉しい……みたいな?」
「嬉しいの?やっぱりマゾじゃん」
「もう、それでいいよ」
 文字通り「歯痒くなった」私は、すぐ側にあったアン君の肩に嚙みついてみた。それはアン君の言葉通り本能的な行動だったんだと思う。
 アン君の肩の歯触りはなんとも心地良くて、肌につけたピンクの跡が私の歯型なのだと思うと誇らしい。そこを指でそっと辿ると、今度はアン君が肩をすくめた。
「で?囚われの姫は解放された?」
「私って姫だったの?ふふっ……けど、解放か……なんだろうね、よくわかんないや」
「そうやってさ、全部に真実で答えようとするのも、サヤさんのクセだよね?答えなんてさ、その時々で変わるもんだよ?」
「あれ、アン君って仙人だったっけ?なんか……どっか達観してるっていうか、悟ってるっていうか」
「そう実はね。大学生兼、仙人でやらしてもらってます」
 アン君はそう言いながらふわふわの髪の毛を顎に擦り付けてくる。お互いのカラダに染み着いてしまっている別々の香水の残り香が、鼻のすぐ側で混ざりあった。私らしいのに私らしくないその匂いと、アン君の言葉で私は緩々と解される。
 その効果は思いの外絶大だったから、噛みしめてた奥歯みたいに、凝り固まっていた心までもが一緒に解れてしまったみたいだ。
 だから、「私を愛しているはず」の彼氏が浴びせた言葉たちが、閉めておいた蓋を押し上げて零れ出てきた。

「それは紗夜に似合わないよ」
「自分のこと好きなの?ナルシストみたいで気持ち悪いよ」
「いいよ紗夜は、無理しなくて」

 こんな言葉たちに私は齧られた。
 でも彼が良かれと思ってこう言っていたのだから、その時はこれが絶対的な真実にみえた。それに、好きな人にこう言われてしまう自分がすごく恥ずかしかった。だから誰かにこのことを知られてしまうよりも前に、こんな記憶は一刻も早く隠してしまうことにした。

 私は誰にも嫌われたくなかったし、好きな人の好きな人でいたかった。

 ずっと、何かを諦める時は「私はには似合わないのだからしょうがない」と自分自身に言い聞かせている。自分だけが良いと思ったものも、自分だけがやりたいと思うことも、名前に入った「夜」という漢字でさえも。
 全部ぜんぶ、私には似合わないのだから、しょうがなかった。

 私がイメージする「夜」というのは、煌びやかで自分らしく生きてる人たちが自由に過ごす時間。

 私が自分らしく生きていることは「気持ち悪い」こと……

 だから私は、私以外の人のことを勝手にジャッジして、私と同じように枠に嵌めてしまいたがった。私自身がそうされてきたように、私が抱くイメージの中に嵌っていて欲しいと心から望んでいたんだ。

「本当はね、ずっとピアスの穴をあけてみたかったの」

 そう言った私をアン君が不思議そうに見つめている。その顔に「どうして?」と書いてあるような気がして「今まではそれが一番私らしくないことだったの」と付け加えてみた。アン君はそれを「ふうん」と軽く受け流し、また鼻先で私の首筋を辿る。
 
 私たちの会話はそこで途絶え、そのまま吐息混じりの声にかわる。だからこの後はカラダの感覚だけに身を委ね、一時的に全部忘れてしまおうと思った。だって、今日はまだ始まったばかりだというのに、私は考えすぎてもうすでに疲れてしまっている。
 そもそも、私たちは恋をしたり愛し合ったりするためにカラダを重ねたわけではなかったんだった。なんとなく人肌恋しい夜が重なったから、それをやり過ごすために一緒に夜を越えてみただけ。耳元にかかるアン君の吐息でカラダも弛むと、だらしのない声に熱が帯びる。
 浮気だとか、ワンナイトラブだとか、そんな風に“私らしくない”ことをした代償って、やっぱりあるんだな。
 本来の目的を思い出した途端、彼氏の横で浮かべていた虚しさが蘇ってくる。だから私は早く楽になりたくて、アン君の腰を抱き寄せた。

「あっ!!」
 急にそう叫んだアン君のカラダが私から離れ、お腹の辺りにヒヤッとした空気が触れた。悦びかけていた私のカラダは一気に冷えて、思わず側にあった掛け布団を引き寄せる。
 アン君はまたしてもベッド脇に置いた自分のリュックを弄り、そこから嬉しそうに何かを取りだした。そして、やたらと誇らしげにそれを私に向かってみせつけてきた。

「あけようよ、今」

「ん?何を……?」
「何をって、ピアスだよ。サヤさんがさっき自分で言ったんじゃん。ほら、ここにちょうどピアッサーもあることだし」
「聞いてないのかと思ってた……ってか、ピアッサーなんて普段から持ち歩く物じゃなくない?」
「ちょうど俺ももう一個開けようと思って買ってあったの。それにさ、こんな偶然ってなかなかないよ?だからこういうのは、運命っていうんだよ」
「運命って……大げさな」
「いいじゃん。それにお互いに初めてって……めっちゃ嬉しい」
「初めてって、どういうこと?」
「え?だって、サヤさんの耳に穴があくのは初めてでしょ?俺も他人の耳に穴をあけるのは初めて……ははっ、なんか、えっちいね?」
「ちょっと待って……あけるとしても、それって自分でやるんじゃないの?」
「そんなの別に決まってないよ。俺はやったことがあって、でもサヤさんはやったことがないんだから、丁度良くない?」

 そう言いながらすでにピアッサーのパッケージを嬉しそうに開け始めているアン君をみていると、寸前まで感じていた虚しさが馬鹿みたいに消え失せる。カラダを求められるよりも、二人で快楽に溺れているよりも、ずっとずっと満たされているような自分がいた。
 私の脳は、味わったことのない痛みをもうすでに待ち望んでいる。馬乗りになってきたアン君の素肌が太腿の辺りに触れ、その辺りがもっと深くまで繋がっていた時よりも、さらに酷く興奮していた。
「一個だとバランス悪いから、逆側もすぐに開けようね。そん時も、俺にやらせて……」
 その言葉に左耳は甘く痺れ、右耳にはプラスチックのあたる感触がした。私たちはまだほとんど肌色のまま、今だけはプラトニックにカラダを重ねている。
 恥ずかしいのか怖いのか自分でもよくわからなくなって、私は可愛い女の子みたいに目を閉じた。だからもう、アン君が今どんな顔をしているのかわからない。

 私の左の耳たぶは、アン君に一度優しく()まれたあとに(かじ)られて、それと同時に右の耳たぶを針が貫く。

 この瞬間、私の耳たぶに初めての穴があいた。いつからか、私はこの瞬間のことを一番に望んでいたような気がする。
「サヤさんには、ピアスも絶対に似合うから」
 ピアスの穴をあけてしまったから、私の一部は欠けてしまったはずなのに、耳たぶ以外の全てが今までよりもちゃんと満たされている。
 食べかけのままで腐りそうだった私のマカロンも、いつの間にかつるんと丸くて可愛らしいフォルムに戻っているみたいだった。

 シャラシャラしてて、キラキラしてるイヤリングなんか、この私にはもう必要ないから、ここに捨てて帰ることにしよう。

 やっと私が手に入れた“私らしさ”が、心の内でそう呟いた。

【了】