7月7日、七夕の日には、織姫と彦星がたった1日再会を果たせるという。
織姫を名乗ることはおこがましいが、毎年七夕に、私は彦星と会う約束をしている。
笹の葉には願いを書いた短冊がいつくもはためき、商店街のアーケードに飾られている。
まだ梅雨が開けていない湿度の高く、じめっとした空気の中、また今年もこの日を迎えられたことに、私は密かに高揚した気分で珍しく鼻歌なんか上機嫌に歌ってしまった。
幼稚園児が書いた短冊を見るともなしに読みながら、向かうは馴染みのあるとある高校だった。
陽はすっかり傾き、アーケードを抜けて頭上を見上げると、藍色の空には満点の星が輝いていた。
この調子なら、天の川だって見えそうだ。
パンプスを鳴らして歩き、辿り着いた高校は、すっかり校門が閉められていた。
よいしょ、と声を出して、腰くらいの高さの校門を乗り越える。
前に訪れたときより、身体が重く感じて、私は苦笑した。
静まったひとけのない校舎は、昼に見るときと違い、不気味そのものだった。
人の姿が消えたとたんに、どうして学校というものはこうもホラースポットになるのだろう。
私は靴音を響かせて、漆黒に包まれた暑苦しい熱気がこもるグラウンドへと向かった。
当然、ここにも人影はない。
正直、人がいたら困るようなことをこれからするのだが。
グラウンドの砂を踏みしめ歩くことたった数歩。
「先生」
少年の声が私を呼んだ。
振り向くと、夏服の制服を着た男子生徒が、柔らかな笑みを浮かべて私を見ていた。
黒猫にも似た佇まいで、彼は私の言葉を待っている。
「久しぶりね、雪矢くん。
1年ぶりかしら?」
私がおどけていうと、雪矢は屈託のない笑顔を深め、真っ直ぐに私に近づいてくる。
私とそう変わらない背丈の彼は、優しく私を抱擁した。
私は彼に身を委ねる。
彼の冷たい体温に冷やされて、汗が引いていく。
しばし抱き合っていると、その体勢のまま雪矢が「愛してる」と呟いた。
それに私は「うん」と答える。
「でも、私こんなに歳とっちゃった。
おばさんでごめんね」
身体を離すと、雪矢は私の顔を覗き込んできた。
私はつい、綺麗な顔の雪矢から目を背けてしまう。
しかし雪矢は、それを許してくれず、両手で私の顔を挟み込み、目線を合わせた。
「おばさんなんかじゃない。
まだ24歳じゃない。
先生は、いくつになっても綺麗だよ」
雪矢の言葉に、胸がぎゅっと締め付けられる。
雪矢は歳をとらない。
いつまでも、16歳の美少年のままで、私だけが歳をとり、いたたまれない気持ちになる。
「好きだよ……」
雪矢はそういうなり、私の唇に自分のそれを重ねた。
雪矢に会えて嬉しいはずなのに、私の胸はますます苦しくなる。
七夕の夜は、雪矢への愛情と、取り返しのつかないことをしてしまった後悔の念が交互に襲ってきて、手放しで迎えることができず、上機嫌になる裏で、彼に会えることに複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
それでも、私は唇を重ねてしまう。
何度も何度も、貪るように、獣が飢えを癒やすように、口づけを繰り返してしまう。
たがが外れたようだった。
快感に溺れ、満たされていく。
この感触を味わいたくて、私は雪矢に会うために七夕の夜、クビになった高校を訪れてしまう。
☆☆☆
私と雪矢は、この高校で出会った。
私は新米教師の22歳で雪矢は16歳だった。
雪矢から愛の告白をされたときには驚いたし、道徳的にそれは受け入れられないと、一度は拒絶した。
しかし、私は嬉しさを隠すことができなかった。
人目を引く雪矢のビジュアルに、無意識に目を奪われていたし、彼と話すときには、教師と生徒としてではなく、人間同士として対等に会話をしたいと思っていたことに、告白されて初めて気づいたのだ。
今度は、私のほうから告白した。
雪矢は飛び上がって喜び、そんな彼を見て私は幸せを噛み締めていた。
禁断の恋に落ちた私たちは、誰にも知られることなく、表向きは教師と生徒として、放課後や休みの日には普通の恋人のように過ごした。
みつかってはいけない恋愛というのは、吊り橋を渡るようなスリルがあって、私たちはすっかりその綱渡りの恋を楽しむようになっていた。
しかし、終わりは唐突に訪れた。
学校に、保護者から連絡があったのだ。
数学教師の女性と、教え子の男子生徒が、休みの日にデートしていたところを見かけた、というものだった。
私たちは、関係の発覚を避けて主に私のマンションで逢瀬を重ねていた。
運悪く目撃されたのは、たまには外でデートしたいという雪矢の望みを叶えるべく街に出かけ、加えて雪矢から手を握られ、どう見ても、デートしている男女としか見えない行動をとってしまった日のことだった。
私と雪矢は校長はじめ教師から事情聴取を受けた。
私は知らぬ存ぜぬで切り抜けようとしていたのだが、そこで、雪矢は私と付き合っていることを認めてしまった。
保護者からは批判が相次ぎ、私は責任をとって、退職へと追い込まれた。
若く未来のある雪矢を守るべく、身を引くつもりだった。
それが大人のとるべき行動だと信じて。
自宅謹慎となった雪矢のそれからのことを、私は知らない。
彼がなにを考えていたか、推し量ることはできなかった。
☆☆☆
退職して1ヶ月が経とうとしていたころ、雪矢から電話がかかってきた。
彼との関係は、退職という節目で断ち切ったつもりでいたから、突然の連絡には正直驚いた。
教師を辞めて1ヶ月、私は次の職探しもせずに、ひたすら泣いて過ごしていた。
仕事に未練があったわけではない。
雪矢と会えないことが、なによりもつらく、保護者からの人格否定といえるほどの抗議の声が中々おさまらないことも含めて、私は極めて不安定な精神状態だった。
夜も眠れず、薬を処方してもらい、それでも頭の中から雪矢が消えることはなかった。
だから、雪矢から連絡があったとき、私は迷いなく電話に出た。
「一緒に死のう」
雪矢は一言いうなり、窺うように私の言葉を待った。
「うん」
私の答えに安堵したのか、明日、自分たちの仲を引き裂こうとした人間に復讐のつもりで学校の屋上から身を投げる計画を雪矢は語り、私はそれに同意した。
決行の日は、七夕の夜。
織姫と彦星が出会う、奇跡の日。
ふたりのように、永遠の愛を手にしよう。
後世に語り継がれるような、ドラマチックな最期を迎えよう。
けれど、私たちはわかっていなかった。
織姫と彦星は、揺るぎない愛で結ばれているが、ふたりが出会えるのは、1年で一度、七夕だけ。
七夕の日に、屋上から身を投げた私たちは、過酷な運命によって、引き裂かれた。
雪矢は打ちどころが悪く、その場で死を迎えたのだが、私は助かってしまったのだ。
仕事も愛するひとも失った私は、屍のように生きていた。
周囲の目が私を監視していて、雪矢の後追い自殺ができる状況ではなく、私は生きているのか死んでいるのか自分でもわからない状態のまま、益体もない日々を過ごし、1年が経った。
七夕の夜、私は辞めたはずの高校にいた。
雪矢の初めての命日で、どうしても花を手向けたかったからだ。
そこで私は、驚くべき光景を目にした。
雪矢がそこにいたのだ。
最期に会った日のままの姿で。
ふらふらと近づいていく私に気づいた雪矢が振り向き、微笑んだ。
瞬時に私の涙腺は決壊した。
会いたかった。
すごく、会いたかった。
私はカバンを投げ捨てて彼に駆け寄り思い切り抱きついた。
彼は驚きながらも、私を受け入れてくれた。
「また、会えたね、先生」
記憶の中そのままの声で、雪矢は言った。
私は涙に濡れた瞳で何度もうなずいた。
「今日だけみたいなんだ」
「え?」
雪矢が優しく私にだけ微笑みかける。
その表情は、困っている様子でもある。
「命日の日だけ、こうして、蘇ることができる。
ただ、ここを離れることはできないみたい。
まるで地縛霊だよね」
「幽霊でもなんでもいい。
またこうして、雪矢に会えるんだよね?」
「たった1日だけどね」
それでもいい、と首を振る私の髪を優しく撫でながら、雪矢は言った。
「まるで織姫と彦星みたいだよね。
ぼくも、先生に会えるなら、それでも構わない。
でもね、先生、ひとつ約束してほしい」
「約束……?」
雪矢は変わらない微笑を浮かべたままそれを告げた。
「今日が終わったら、もうぼくのことは忘れてほしい」
私は呆然と彼をみつめた。
「……どうして……?」
思った以上に掠れた声が出た。
愛するひとに拒絶されたショックに私は打ちのめされる。
「ぼくはもう死んでる。
いつまでも先生を縛りたくないよ。
先生には、先生の人生を生きてほしい」
私は黙り込んだ。
雪矢の言いたいことはわかる。
私のためにそう言ってくれていることも、わかっていた。
わかってはいるけれど、現実に彼が目の前にいるのに、すぐに忘れるなんて不可能な話だった。
「でも、今日だけは……七夕の日だけは、ぼくを思い出してほしい。
会いに来てほしい」
ずるい、と思った。
忘れてくれと、言っているのに、思い出してほしいという。
それのどこが、束縛ではないというのだろう。
「次に会うときは、ちゃんとぼくを忘れていてね、約束だよ」
風がグラウンドの砂を巻き上げる。
そんなことお構いなしに、私たちはキスと抱擁を飽きずに繰り返し、夜の闇に溶けていった。
☆☆☆
雪矢の2回目の命日が、七夕の夜が終わった。
24歳の私をみて、雪矢はどう思っただろう。
別れてからたった2年ではあるけれど、私は確実に歳を重ねてしまっている。
再会するたびに、私はどんどん、おばあちゃんになっていって、いつか彼に幻滅される日も、そんな遠い話ではないような気がする。
変わらない彼に、引け目を感じるようになるだろう。
しかし、それでも、私は彼に会いに行くことをやめないだろうとも思う。
まだ、彼に対する想いを完全に昇華できていない。
日付が変わり、雪矢と別れてから、私はシャッターが閉まって閑散とした深夜のアーケード街を引き返し、自宅目指して歩く。
ひとけのない街は、高校と同じく不気味だった。
次に雪矢に会うまで、あと1年。
長いような、あっと言う間のような気もする。
来年の今頃、今日と同じように、年齢を重ねた自分をみた雪矢はがっかりしないだろうかと、危惧しながら、彼に会いに行くのだろう。
私は、ポケットから指輪を取り出した。
街灯を頼りに指輪を左手の薬指にはめる。
きらりと鈍く輝いた指輪を眺めて、私は口角を上げた。
これから私は、生涯愛すると誓ったひとが待つ家に帰る。
雪矢に愛を捧げるのは、七夕の夜、一晩だけだ。