おいおい、なんだってんだいヨルのやつ。
いきなり指鳴らしたかと思ったらさ、里に張った結界あっさり消しちまったじゃないか。
ふーー、はーー、ってな具合に息を吸って吐き、肩をぐるりと回してぐーぱーぐーぱー。体の調子をみてるってのかい?
なんだかよく分かんないけどこの隙にさ、胸に抱えたごっちゃんがどっか怪我してないか確認確認。
見れば良庵せんせも治癒の呪符取り出して、お姫さま抱っこしたしーちゃんの脚を癒やしてるみたい。
床しか残ってない庵からぴょんと降りて、辺りを見回しせんせの方へ近づくあたし。ちょっとドキドキしちまうねぇ。
この辺りは黒狐の里でも少し小高い丘の上。
周りはあんまり何にもないけど、遠巻きに里の連中が様子を伺ってるのがちらほら見える。
前に姉さんから聞いた、ずいぶん昔に姉さんと母様が住んでた家だろうと思ってたけど、よく考えりゃ建て替えしてるだろ。
そんな何百年も保つ家にゃ見えませんよ。ま、もうすでに束と床しかないしどうだって良いけどねぇ。
「ありがとね、せんせ」
「何がです?」
せんせがそっと優しくしーちゃんを立たせました。どうやら斬られたしーちゃんの脚も癒えたらしいですね。
「しーちゃんの怪我治してくれたのと、こんなとこまで追い掛けて来てくれたこととか……他にも色々です」
「当たり前じゃないですか、僕らは夫婦なんだから。あ、もしかしてあんな書き置きだけで離縁したつもりだとか言わないでしょうね?」
――ありがとうございました 葉子――
自分で書いといてなんだけど、充分にそうとも取れる書き置きだねぇ。
「そんなつもりじゃないですけど……でも……でも良庵せんせ。あたしの正体……姉さんから……」
「妖狐だそうですね。しかもお葉さんがあの睦美先生、なんでしょう?」
「あの脳筋姉そんな事まで言ったのかい?」
「え? いや菜々緒さんからはあんまり何にも聞いてませんよ」
そうなのかい? なんだかよく分かんないけど姉さんの事だからしょうがないねぇ。
「いやぁ、それにしても僕はほんと運が良い」
「は? ニコニコして何言ってんです? こんなややこしい女に引っ掛かってこれ以上ないくらい運悪いでしょうに」
せんせがきょとんとした顔です。
「心底惚れた女がたまたま妖狐で、さらに野巫の先生だったんです。僕にとってはこれ以上の出逢いはありませんよ絶対」
にっこり笑ってそんなこと言うんです。
ちょっともうなんなんですかウチの亭主。怖いくらいに可愛い過ぎですよほんと。
「せんせはその……あたしで――妖狐のあたしで……良いのかい?」
「妖狐かどうかなんてほんとどうでも良いんです。お葉さんが良いんです」
せんせ――あたしも……あたしも良庵せんせじゃなきゃ嫌なんだ。……こりゃせんせにあっさり泣かされちまいそうだねぇ。
「あ、でも……お葉さん。言っておかなきゃいけないことが」
「……なんです? やっぱり嫌でした?」
「その……お葉さんには申し訳ないんですが、ほんの三十年ほどで僕は先に死ぬでしょう。けど、それまでで良いですから、僕が歳をとって死んでいくのを……側で見ていてくれますか?」
……もうダメ。あたしもう涙堪えらんない。
察してくれたかごっちゃんがとてっと腕から降りてくれたの切っ掛けに、俯いた顔を両手で覆って溢れる涙を隠すけど、幾らでも溢れてどうにもなりゃしませんよ。
「――あ、あたしも……ホントはっ、せんせと一緒にっ――歳、とりたかっ、た。でも、嬉しいよ。あたし、せ、んせが死ぬまで、ずっと側で、見て、ますから――」
我ながらカッコ悪いねぇ。もうすぐ五百になろうって女が小さい子みたいにぐすぐすひっくひっく泣いちゃってさ。
でも、すっきりしたよ。
「せんせ」
「はい」
「無事に生きて帰ったらさ」
「生きて帰ったら?」
「せんせの子供が欲しいんです。あたしにくれませんか?」
「……子供って…………そ、それは――っ」
あははは。せんせ顔真っ赤っか。きっとあたしもだね。あはは。
「さて、ヨーコにリョーアン。話は済んだか?」
「まだまだ話し足りないから待っててくれるかい? もう三十年くらいさ」
にやっと一瞬だけ笑うヨル。腹立つねぇ。
「待ってやっても良いが、千載一遇の機会を失う事になるぞ?」
なに言ってんのさ。せんせにきりきり舞いだったくせにさ。
結界も無くなったしこのまま二人でぼかんとアンタやっつけて、それであたしらお手々繋いで帰るんだから。
そういやヨルのやつ、なんで結界消しちまったんだい?
「オレの格子の図柄。あれが何か知っているか?」
隣のせんせは首捻ってます。そりゃまぁそうだね、野巫三才図絵には載ってませんから。
「ドーマンだろ? あたしの星……セーマンと同じようなもんだって昔聞いたことあるよ」
もう三百年近く前になるかねぇ、師匠から聞いてたの思い出した。すっかり忘れてたけどねぇ。
「オレはヨーコやリョーアンと違ってこれしか使えない。他の図柄は覚えなかった」
……へぇ。そりゃまた効率の悪いこと。
あたしだってセーマン一つで大体どの効果も得られるけれど、効果は半分以下、図柄によっては十分の一くらいまで下がっちまう。
だからそいつで同じだけの効果を得ようと思えば倍や数倍の巫戟や戟が必要ってこと――
あ、そういうことか。ずいぶんせんせといっぱい話せたと思ったら……こいつ、休んでやがったのか。
再びにやりと笑ったヨルが続けました。
「ヨーコに逃げられずに今の里を見てもらうためには全てを覆う結界を維持する必要があった。しかしドーマンで作ったためオレの戟はほぼ枯渇状態だったのだ」
ひゅん、ひゅん、とゆっくり少し大きめに掌を二度、横と縦に振るったヨルの眼前に、再び現れた赤い線で作られた格子。
人がすっぽり収まるぐらいに大きなそれを、とん、とヨルが押すとさらに肥大しながらこちらへ…………
「解いた結界から幾らか戟を回収した。今までのモノとは全く違う。死ぬなよ、ヨーコ」
こ、こりゃちょっとあたしには無理だよ。
もう少し時間がありゃ図柄作ってなんとか出来るかもしれないけど、ちょいとそんな間なさそうだ。
せんせは素早く腰を落とし、左の腰の素振り刀へ手を伸ばしましたけど、至近距離で直接砕くと巻き込まれちまうの間違いなし……
とね、一瞬でそこまで考えたとき、あたしらの前に飛び出した子がいたんだよ。
「わっちがやる! 二人はちょっとでも下がって!」
あたしらを押しのけるようにして飛び出したしーちゃんが、かっ! と口から戟の波動を吐き出して――
「ちょ、ちょいとしーちゃ――」
「しーちゃんさ――」
ばぁぁん! と物凄い爆発音と爆風に二人揃って吹き飛ばされて――せんせに抱えられて地に伏して――
濛々と舞う砂埃の中、目を凝らしてみても、どこにもしーちゃんの姿はなかったんだ。
「主人を守って逝ったか。オレを騙した尾っぽと言い、やはりヨーコの尾っぽは優秀だ」
「……ヨ、ヨル…………ヨル! 許さん!」
せんせが素振り刀一つで駆け出しちまった。
「……ヨル……僕は……、僕はお前を許さない!」
どんっ、と地を蹴り飛び出した良庵せんせが素振り刀を叩きつけるように振り下ろすけど、それを立てた二本の指でガキンと弾き返すヨル。
「まずはリョーアン、貴様を死の一歩手前まで痛めつける。そうすればヨーコも頷かざるを――」
「うぉぉおお!」
せんせはヨルの言葉を無視。雄叫びと共に袈裟に、横薙ぎに、また頭上へと素振り刀を叩きつけました。
けど――
「二回! 三回! これで四回! さぁリョーアン、早く呪符を替えろ!」
――どうしたってこの間が訪れちまうんだよ。
幸い――て言っていいのか分からないけど、ヨルの戟が回復した今でも四発までは呪符に籠めた巫も保つみたいだね。
せんせはヨルの頭上で防がれた素振り刀の反動を利用して後ろへ跳ぶ――と見せ、雪駄の裏でヨルの顔目掛けて蹴り!
「ただの蹴りなぞ――」
逆の手で払おうとしたヨルのその手がパンっと弾かれて……え、どうしてだい?
「――なに!?」
せんせは当然その隙を見逃さない。
くるんと後ろに回りながら着地したせんせは素早く胸から呪符を取り出し握り込み、伸び上がるようにして逆袈裟を放つ!
「ちっ――!」
半歩後ろへ飛び退くカタチでかわしたヨルのその胸が、ばっ、と鋭く裂けて真っ赤な血が二人の真上に飛び散ったんだ――
せんせ、強過ぎないかい――
「くっ――! 如何に貴様と言えど……これほど――」
「ヨル。僕は怒ってる。ずっと怒ってるが――これまでで一番怒ってる!」
せんせの剣幕に圧される様に僅かに飛び退いたヨルがその身に纏う戟を強め、きゅっ、と力を籠めただけで胸の傷は塞がったらしい。ちっ、浅かったみたいだねぇ。
「何をそれほどに怒っている」
「分からないのか?」
「どうやらさきほど消え去った尾っぽの事か……尾っぽはまた生える、爪や毛と同じだ」
「……そう、なのかも知れない、妖狐にとっては。それは僕には分からないが……けれど、お前と僕が……相入れないという事だけは分かる!」
至近距離で対峙する二人。
叫んだ良庵せんせが裂帛の気合いをもって上段から――
「であぁぁ――!」
対して眼前のせんせへ向けて闇雲に戟を放とうとするヨル――
瞬き一つよりも短い刹那の時を挟んで、ヨルの斜め後ろから声が一つ。
「――こっちだ、ヨル」
瞬間移動したかのような……突然消えて現れた良庵せんせの素振り刀がヨルの胴を目掛けて突き入れ――――られません!
「黙れリョーアン!」
ばぉっ、とヨルの体に膨らんだ戟が、爆発する様に全方位へ噴き出し良庵せんせを押し返して吹き飛ばしちまったもんだから。
「せんせ! 大丈夫かい!? 無理しないでおくれ!」
せんせをガシッと受け止めながら、そんなこと言ってみたあたしを見詰めてせんせが言ったんだ。
「無理もします! しーちゃんさんがやられたんです!」
「……せんせ。その、さ、言いにくいんだけど――」
せんせが少し怪訝な顔。
「もしや……お葉さんもヨルと同じ考え……?」
「ち、違いますよ! あたしは尾っぽ達を妹弟だと思ってんですから!」
「では……?」
「しーちゃん、喰らってない……やられてないんだ」
せんせがはっきり驚いた顔。
「しーちゃんさ、実は戟切れしただけなんだ」
「戟……切れ?」
「そう戟切れ。式神としての体が維持できなくなって消えちゃって…………今もうあたしのお尻でスヤスヤ寝てんだ」
本体の体に戻ったんでね、それこそ二、三日休んで戟が溜まればまた生えてくるくらいには元気なんです。
ヨルのはどうやってるのか知りませんけど、あたしの尾っぽが切り離せるの、これは野巫三才図絵『天の部』に載る式神の図柄を使ってるからなんです。
あたしら妖狐に後から生える尾っぽたちはみんな、自我というか意識は本体のお尻にあって……ま、雑に言っちまえばお尻に憑り付いたお化けみたいなもんだね。
あたしは野巫使って髪の毛なんかで式神作るのはお手の物なんだけど、その依り代に自分の尾っぽを使ってるのがしーちゃん達って訳さ。
こちらへゆっくり歩いてくるヨルを尻目にさらに良庵せんせとこそこそ話。
「だからさ。そんな無理してヨルと戦わなくってもさ、結界もないし逃げちまうってのも手じゃないかな、なんて思うんだけどどうです良庵せんせ?」
少し呆けたような、安心したような、そんな表情作ったせんせだったけど、きりっと真剣な面持ちで言ってのけました。
「いえ、ここでヨルを叩きます」
「――どうしてだいせんせ!」
「僕とお葉さんにはもう三十年ほどしかないんです。少しでも長く多く、邪魔されずに貴女と過ごしたい」
「…………せんせったら……」
あたしを涙で溺れさせようとしてるんじゃないだろね。でも――
「せんせ、あたしもそれ、乗るよ! 一緒に叩こ――」
「それは無理だ。諦めろヨーコ」
歩みを止めたヨルが再び手を二度振って、今度はあたしに向けてまた大きな格子を鋭く打ち出したんだ。
「させん!」
あたしじゃ目で追うのが精一杯のそれをせんせが飛び出し素振り刀で叩いて砕いてみせたけど――
「ぐ――っ!?」
「せんせ! あ、足が――!」
――せんせの左足、袴の裾から先が焦げた様にぼろぼろに……
「大したものだ。すっかり騙されていた」
何に騙されてたってのか知らないけど……あ、あたしのせいだ……
あたしじゃ……あたしなんかじゃ……足手纏いにしかならない!
「これ見よがしに呪符を握り込んだ木剣……それが目眩しだとはな」
「ぐぁぁあっ!」
ヨルが再び飛ばした大きな格子と小さな格子、その大きな方はせんせが砕くけど……今度は右足に喰らっちまった……
「せ、せんせ……」
「平気……です。ちっとも痛く、なんてありません。だから僕の後ろから出ないで下さいね」
痛くないわけないじゃないですか! 左はともかく――右足は焼け爛れてんですよ!
「その雪駄。さらに道着も袴も、恐らくはその眼鏡も。身につけた全ての物に呪符の効果を与えていたとはな」
そういやせんせの眼鏡のツルのとこ、呪符巻き付けてんのかいつもと違って白くなってる。そっか、だからヨルの攻撃に対応できるしごっちゃんに化けたあたしを見抜く事も出来たんだ。
――なんて言ってる場合じゃない。
ぷつん、と自分の髪の毛抜いて巫戟を籠めて、治癒の図柄を作ってせんせの右足へ。
見る見る内にせんせの足は治るけど、さすがに崩れた雪駄は戻らない……
「道具の力を強化。それか道具に力を借りる呪符だろう。どちらでも良いが、これでリョーアン、オマエの速さは死んだ」
「さすが……やっぱり違うなぁ」
雪駄を失い追い詰められた筈の裸足の良庵せんせが場違いにのんびりした声で言いました。
「良庵せんせ? なに笑ってるんです? どう考たってそんな場合じゃ……」
「あ、いや、さすがに僕も分かってはいるんです。けど、あんまりにも違ったものだから」
ん? 何が違うってんですか? 少し距離を置いて立つヨルも不思議そうな顔してますよ?
「あの睦美蓉子たる、お葉さんの野巫がですよ。僕の治癒とは格が違う」
「いやそんな褒めたって何にも出しゃしませんよ」
「熊五郎棟梁に渡した呪符……あれに籠められた巫戟は一切の揺れのない美しいものでした。それを体験できたのがなんだか嬉しくなってしまって」
へへ、なんて言いながら頭を掻いた良庵せんせ。
前向いてっから顔見えないけど、きっと良い顔で笑ってんだろね。
せんせは反対の手で胸の辺りをごそごそやって、後ろ手でさりげなくぽいっと焼け焦げた紙……
あ、なるほど。図柄は分かんなかったけど多分あれ、甚兵衛が最後に言ってた呪符の一つ、身代わりの呪符だね。
だからさっきも最初に喰らった左足はほとんど無傷だったって事ですか。
「リョーアン、何をにやにやしてる。状況が分かっていないのか?」
「分かっているさ。けれど依然として僕が優勢だな」
確かにさっきまでは……でもまだせんせが……優勢……?
「強がるな。背にヨーコを庇い、さらには雪駄も失った。貴様にまだ手があるとは思えん」
そ、そうだよ。せんせのあの人間離れした速さはもうない上に、さらに足手纏いのあたしがいちゃ……――
「確かに雪駄を焼かれた事は痛い。予定外だ。けど、僕の後ろにはお葉さんだ。まだやりようはあるさ」
そう自信満々に言ってのけたせんせがあたしの方へ僅かに顔を傾けこそっと続けたんだ。
「少し離れていても癒せますか?」
「――え、えぇ、ちょいと効き目は落ちちまうけど……」
「充分です。ほんとは一人でやりたかったんですが……すみません、力を貸して下さい」
「せんせ――そんなっ、と、当然じゃないですか! あたしはせんせの女房なんですから!」
……せんせがそんなこと言うもんだからさ、あの晩に道場で言われたのを思い出しちまった。せんせと初めて口付けした……あの晩のこと……
「あた、あたしこそ――あたしの問題にせんせ巻き込んじまってごめんなさ――」
謝ろうとするあたしにせんせがにっこり笑って言うんだ。
「それこそ当然ですよ。僕は……僕らは、夫婦なんですから」
それだけ言ったせんせはヨルへと視線をやって、無造作に素振り刀を右手にぶら下げゆっくり歩を進め始めました。
ど…………どうすりゃ良いってんだいあたしは!? そんなちょこっと喋っただけじゃ分かんないじゃないですか!
け、けどゆっくり喋る間なんてある訳ないんだ……そうも言ってられないね。
離れても癒せるかってのは……せんせが怪我すりゃ癒せば良いんだろうけど近付くなってことだよね……。
ほんとにそれだけしか手伝えることないのかい!?
って、あぁっ、もう始まっちまう!
「リョーアン、腕の一本や二本どころか四肢全てくらいは覚悟しろ」
「やれるもんならやって――」
ひゅひゅんと再び手を振るヨル。せんせの話を最後まで聞きなよ!
せんせを襲ういくつものドーマン。それをせんせは避ける事をせず、素振り刀ひとつで打ち据え砕いてく。
けど……一息で砕くのは四つが限度。
どうしたって連続で放たれちまっちゃ被弾しちまう。
「ぐっ――……ぅぅ……痛くない!」
握り込んだ呪符を交換する際の隙、そこを狙われ左肩を打たれても、それでもそう強がって言い放つ良庵せんせ。
痛くないわきゃありません。
上手いこと身代わりの呪符が効いたとしても戟を散らすことしかできないんだ。ぶち当たられたその衝撃はそのまま残っちまう。
それこそ重い鉄の弾ぶつけられてる様なもんだ。
あたしはそれを真後ろから目の当たりにする訳だけど、色失って慌てる訳にもいかない。
即座に治癒の念を籠めてセーマンを指で切り、せんせの左肩を打ち抜き癒す…………こ、こりゃ酷だよせんせ。
さらに二度三度と同じ展開を繰り返し、あたしも負けじと癒しはするけど……
即座に癒すったってせんせが痛いのは変わんないんだから! せんせの体が傷付くのを黙って指くわえて見てろってのかい!
「せんせ! こんな策じゃせんせの体が――!」
「問題ありません! このままお願いします!」
せんせはあたしの言葉を遮りさらにぺたりぺたりと裸足の足でヨルへ近付いてっちまう。
こ、こんなじゃやっぱり駄目だよ……
「ヨル! 一つだけ誓え!」
「誓えだと……? 内容による。言ってみろ」
「僕が参ったと言うまではお葉さんに手を出さないと!」
……せんせ……そんな痛い思いしてるのにあたしの事ばっか……馬鹿だよせんせ……
「ふ、救い難いバカだな。分かった、誓おう。ただし、貴様が参ったと言うか、口も利けん様になるか――までだ!」
せんせに応えたヨルの体の周囲を、囲む様に浮かぶいくつもの格子……
ヨルのやつ……せんせと喋ってる間に格子描いてやがったね――!?
「その時はすぐに訪れる! 喰らえリョーアン!」
「せんせ――!」
右手に素振り刀、左手にはハナから呪符を持ち、素早く素振り刀を持ち替える事でこれまでの倍の数の格子を砕いて見せた――――んだけど……
「ぐ……うぅぅぁああ!」
べきぃっ――と音立てて素振り刀を叩き折られ、三発四発と立て続けに喰らっちまった……
吹き飛ばされて横たわるせんせに セーマン飛ばして癒した方が良いんだろうけど、とにかくもう、頭ん中しっちゃかめっちゃかになっちまって駆け寄っちまった。
「せんせっ! あたし置いて逝っちまっちゃいけませんよ!」
がばりと覆い被さり、とにかく治癒を――
「ヨーコ。どけ。それでは誓いを守れん。それともリョーアンは既に口も利けんか?」
うるさい! 黙ってろ! とにかくせんせだ!
幸い死んじゃいない……道着に呪符の効果がなきゃ危なかった……
「……う、うぅ、お、お葉――さん……」
「せんせ! すぐ癒しますから! ちょいと辛抱して下さい!」
って、んなこと言ってもこれはもう駄目だ。
癒したってせんせにこのまま戦わせるなんて、どう考えたって出来ないよ――
どうにかせんせの折れた骨や内臓の損傷を癒したとこで、頭上高くから声が聞こえたんだ。
「よーし! 俺が来たからには安心しろー!」
だ――誰だい!? 助っ人かい!?
がばりと顔を上げて見ると、狐に乗った声の主が、ずしゃっ、と地に降り立つとこでした――けど……
「賢哲さんかぃ……期待薄だねぇ……」
「そりゃひでぇなお葉ちゃんよぉ!」
「よーし! 俺が来たからには安心しろー!」
「賢哲さんかぃ……期待薄だねぇ……」
「そりゃひでぇなお葉ちゃんよぉ!」
つるりとその禿頭をひと撫でした賢哲さん、ロバくらいもある大きな狐の背の上から辺りを見回し続けました。
「おいおい、本格的に酷えな良人のやつ……。生きてんのそれ? 念仏いるか?」
「ふ……ふふふふ。己れで坊主を段取り済みとは恐れ入ったぞリョーアン。ふ――ふははははは!」
なにが面白いってんだヨルのバカ! いつもの能面無表情はどこいったってんだよ!
「賢哲さん! 良庵せんせが死ぬわけないだろ! バカ言ってるとただじゃおかないよ!」
見た目は確かにずたずたのぼろぼろだけどね、命に関わる様な重大な怪我はすでにあらかた治癒済み。んなこと言ってると先に念仏聞く羽目にしてやるよ!?
「ま、冗談はさて置き。この浅黒い肌の男前が噂のヨルって奴か……。けっ! 俺様の幼馴染をこんなにしてくれやが――」
「――賢哲うるさい。重いから退け!」
賢哲さんを背に乗せた黒い毛の狐が大きく棹立ち。啖呵を切ってた最中の賢哲さんは当然落っこちて地べたにべちゃり。
――別にどうでも良いけどさ、緊迫感どっかやるの止めてくれないかい……
「ぐべっ――! 痛え! シチ! こら! 酷えじゃねえか!」
シチ? シチってあの、ウチ来て結界に捕まったヨルの尾っぽの……?
そりゃしーちゃんたちと違って黒い毛の狐だから黒狐なのは分かってたけど、まさかあのシチだってのかい。
なんだか賢哲さんと仲良さそうだけど、一体なにがどうなってそうなんのさ?
でも、んなこたどうだって良いや。
なにしに来たのか知らないけど、せっかく賢哲さんが作ってくれたこの隙にせんせを癒しきらなきゃ!
「お葉、さん……傷が癒えてくのって……けっこう、痛いものです……ね」
「せんせっ! 喋らなくて良いから! 無理矢理癒やすってのはそういうもんです!」
潰れちまってた腑はすっかり治癒できてますけど、折れた骨や千切れた腱、裂けた肌なんかはいま真っ最中だから。
痛みを感じる神経とかいうのが伸びたり繋がったり太くなったり、なんかそんな感じで蠢いてんだ。痛いに決まってるよ。
けど焼かれた雪駄に加えて素振り刀も折られちまった今、あたしがやる事は一つだけ。
あたしの命に替えてもせんせを癒して逃がす、これだけ。
ごめんよせんせ。もうちょいと間の辛抱だからね。
あ、ついでに一応、賢哲さんも逃してやんなきゃだね。
「それで坊ず――いや、坊主はどうでも良い」
「あ、ホント? じゃちょっと下がってやすから」
……ほんと一体なにしに来たんだいあのクソ坊主は――
けどなんだって良いからさ、も少しあたしに時間を使わせておくれ。頼むからさ。
「シチ。貴様、どういうつもりだ?」
クソ坊主は置いといて、ヨルのその言葉にビクッと体を震わせたシチがその身を縮め、そして人の姿をとりました。
シチは結界に捕まった時と同じ、色気漂う綺麗な女の姿。なんでかいつまでも幼女姿のしーちゃんが見たら怒っちまいそうだねぇ。
「おっ? いきなり大人の姿の方かよ。シチも本気だぜこりゃぁ」
? このクソ坊主は何言ってんだい? ちっとも分かんないねぇ。
「ところで賢哲さんは何しに来たんです? なんか楽しそうでムカっ腹なんですけど?」
「お、俺だって別にただ野次馬しに来たわけじゃぁない。ほんとだってば」
あたしに睨まれ少し怯んだ賢哲さん。
「あ、そうですか。なら一体?」
「ほら、これ良人に返そうと思ってよ」
賢哲さんの手には十数枚ほどの、良庵せんせお手製の呪符。
「わざわざこれを――?」
「これが多いのか少ないのか、役に立つかも分かんねえんだけどよ、少しでも役に立てば良いなって思ったもんだからよ。良人要るか?」
せんせのさっきまでの素振りからすりゃ、まだまだ呪符の手持ちもありそうでしたけど――
「正直言って助かるよ賢哲。準備した呪符もかなり使ってしまってな、少しずつ呪符の量を減らしてたんだが減らしすぎたみたいで――この通りさ」
せんせは両手にそれぞれ持った素振り刀の成れの果て、ヨルのドーマンに叩き折られたそれを少し持ち上げてみせたんだ。
そっか。素振り刀と一緒に握り込んでた呪符を節約しようとしてたんだね。
失敗したとは言え、せんせってば野巫使って戦うの初めての筈だろうに、めちゃくちゃ勘が良いですねぇ。
惜しむらくは、最初の相手が黒狐の棟梁だったって事だねぇ……――よし! これでせんせの傷も癒えた筈だよ!
あたしの髪で描いた治癒の図柄をせんせの胸に乗せ、それに巫戟を流し続ける事で全身の治癒をずっと続けてたんだ。話しながらね。
「せんせ、立てますか?」
「ええ。ありがとうお葉さ――うぐっ」
「ホントに治ってんのかよ? 痛そうだぜ?」
「無理矢理治してんだから。治ったばっかのとこに血が巡る痛みがあるんですよ。だから横になってるより立ち上がった方が早く巡って良いんですよ」
走って逃げて貰わなきゃいけませんからね。
なんてあたしが思案してると、バシッと誰かを叩くような音が響いたんですよ。
そちらに視線をやると、ヨルに頬を張られたらしいシチが地べたに伏してたんだ。
「こらヨル! 女叩くなバカ!」
賢哲さんがあたしと良庵せんせの後ろに隠れてそんな事言ってます。でもそうだね、あたしも賛成だよ。それが自分の尾っぽで女とか男とか関係なくてもね。
「黙れ。殺すぞ」
「分かった――黙りやすごめんなさい」
ヨルに睨まれ即座に謝る賢哲さん。ま、そんで良いんじゃないですか。
「シチ。貴様、オレに従わんと言うのか?」
「従わないなんて! た、ただ――アタシはただ……ヨル様が好き……ヨル様を愛してるんです!」
……え? そうなのかぃ?
「よっしゃ! よく言ったぜシチ!」
いや、でもほら、それ自分の尾っぽだろ? それに尾っぽにゃ性別なんてない、どっちよりっぽいかって性格の差があるだけでさ。だって尾っぽだもん。
「ア、アタシが! アタシがヨル様に尽くします! 好きでもない白狐の女なんて――もう良いじゃないですか!」
はぁ、と深く溜め息ついたヨルが静かにゆっくりと口を開きました。
「だから貴様は、先に帰れと言った俺の命令に従わずに、リョーアンへ妖魔を嗾けていたと言うのか?」
「ヨ、ヨル様のためになると思って……」
「……シチ。来い」
「ヨル様!」
ヨルは両手を広げ、シチを受け入れる様な姿勢。嬉しそうに駆け寄るシチをふわっと抱きしめたヨルが続けました。
「シチ――。貴様は要らん。生え直せ」
ヨルの腕の中、シチのその背から、あのドーマンが飛び出してっちまった。
シチの奴、ヨルの腕の中で嬉しそうに、その胸に顔を埋めてたってのに。
「シチ――。貴様は要らん。生え直せ」
なのにヨルはその言葉と共に、あろう事か――
「ヨ……ル――様……?」
ズドっ――と鈍い音が一つ。シチの背から格子が飛び出したんだ。
「どう――して……」
何が起こったのか分からない、そんな焦点の合わない瞳でシチがよろりとフラつくように一歩二歩と後退り。そして胸に手をやり真っ赤に染まる自分の手をジッと見詰めて……
「……お、おい! 何やってんだこらぁ!」
「賢哲! 待て!」
袈裟の裾をからげた賢哲さんがシチに駆け寄り支え、さらにヨルへ向かって怒声を投げたんだ。
「このクソ野郎が! お前はいっぺん死んでこい! シチ来い、すぐに治してやるからよ!」
や……やめておくれよ賢哲さん。人相手に容赦する様な奴じゃないんだよそいつは。
「馬鹿! 下がれ賢哲!」
「黙ってろ良人! お葉ちゃん頼む! シチも診てやってくれ!」
あたしに支えられてやっと立ってるせんせまで駆け出そうとするけれど、思う様に体が動かないみたい。
「せんせこそ下がってて。ここはあたしが――」
「坊主。自分の尾っぽを毟ろうとオレの自由だろう。オマエこそ黙っていろ」
「うるっせ――ぶげぇっ!」
「賢哲!」
振り向いて再び悪態をつこうとした賢哲さん、その頬をヨルの拳が強かに打ちつけ殴り飛ばしやがった。
「あたしが――!」
せんせをそこへそのままにして、地面に叩きつけられる前になんとか賢哲さんを掴んで胸に抱えて即座に治癒!
「ぐぎ――あがが――ぎ――……くそっ! 俺のせいだ! 俺がシチを焚き付けちまったせいでシチが……くそったれが!!」
ずれちまってた顎が治って再び賢哲さんが叫び、そして拳で地面を殴り付けたんだ。
「シチ! 待ってろすぐ助ける!」
「ぐっ――くそっ、体が……鈍い!」
賢哲さんはそう叫び、良庵せんせは少しずつ前へと足を進める。
なんだってんだい二人とも。冷たいようだけどさ、あたしはシチがどうなろうと知ったこっちゃない。
せんせのため、百歩譲って賢哲さんのためなら体張ろうってなもんだけどさ。
……けど、二人の様子見てたらそうも言ってられないね。
「あたしがやるから二人ともじっとしてて……いえ、下がってて!」
賢哲さんを打ち捨てて、あわよくばヨルに一泡吹かせようと両手に巫戟を籠めて駆け出したあたしの、目前で――……
「シチ。オレの尻も痛むが安心しろ。次はオレが望む式神として生み出してやろう」
ひゅひゅん――縦に四本、横に五本、再び描いた格子を上から下へ、シチの頭上から――
ぼんやりそれを眺めるシチが少しの身動ぎ、賢哲さんへニコリと微笑んで少し口を動かし……
「シ……チ……」
ヨルの格子が落とされたそこに、シチがいた証は……何一つ、ありゃしませんでした…………
「う、嘘、だろ……? …………俺の、せいで……」
「もう良いだろうヨーコ。リョーアンもクソ坊主ももはや何も出来まい。大人しくしろ」
「はっ――! やなこった! あんたと番うなんて事は金輪際ないよ!」
シチがどうなろうと知ったこっちゃない、なんてあたしは思っちゃいた。
けど! 自分の尾っぽ消し飛ばしといてなに淡々と言ってんだ! あたしとあんたは相容れないってはっきり分かったよ!
「ヨーコも分からん事を言う。オレの尾っぽをどうしようとオレの自由――」
「――う、おぉぉおお!」
せんせの声!
ばっと振り向きせんせを見遣ると、両手に持った折れた素振り刀を呪符と――今まで以上に束ねた呪符と――一緒に握り込んでたんだ。
「ヨルーっ! お前を……僕は許さない!」
可視化するほど溢れ出る巫が素振り刀から……賢哲さんから受け取った呪符も一切合切握り込んでるってのかい!?
「ヨル! お前を叩きのめす!」
「やってみろリョーアン!」
確かに傷は全て治っちゃいるけど……まだ動くことすら儘ならない筈だってのに……
「あぁぁぁああ!」
一尺半ほどになっちまった柄側の素振り刀を右に、一尺に満たない剣先側を左に掴み、猛烈に駆ける良庵せんせ。
雪駄を失ったせんせがこんな速さでなんて……
両の手から狐の鉤爪伸ばして待ち構えるヨルがせんせを待ち受ける! けれどせんせは振り上げた右の一尺半を叩きつけ、鉤爪で防がれるや否や左の一尺を腹へと突き入れる!
それを半歩分だけ後ろへ跳んで避けたヨル。再び間合いを詰めて鉤爪をせんせの顔めがけて振り下ろすのを、せんせが一尺半を振り上げ防ぐ――
せんせの剣はやっぱり相当の腕。
だけどヨルの爪もかなりのもの、さらにせんせの巫とヨルの戟じゃその強さ自体が雲泥の差。
がきんがきんとお互い決定打のないまま打ち合って……このままじゃ呪符の効果が……
「うおぉぉぉおっ!!」
さらに気炎を上げた良庵せんせの両の手の、素振り刀から巫が……
あ――ついさっきあたしが治癒でやって見せた……図柄に巫を流し続けて呪符の効果を持続させてる――?
たぶん呪符も最後の二十数枚、せんせの巫だっていつまでも保たない……せんせ! ここで決めちまっておくれ!
どれくらいそうやってたろう。
二人の剣と爪が何十合めかの、決定打のない衝突を繰り返したその時――
「たぁぁぁぁあっ!」
あっ!
左の一尺でヨルの鉤爪を往なし、ガラ空きの胴へ撃ち込んだ一尺半が――
「……くっ――」
――力なく、ヨルの体に弾かれちまった……
「……呪符か巫の方か知らんが――尽きたな? これで貴様も終わりだ」
わなわなと震える両の手を見詰め、悔しそうに歯を食いしばるせんせ……
ニヤリと笑んだヨルが左手で格子を描きながら右の鉤爪を揃えて束ね、戟を籠めて振りかぶる。
せんせ! 逃げて!
無慈悲に、無造作に、放たれた格子がせんせのお腹に炸裂し――
ドウン、と全身を揺すられ浮き上がったせんせの体を更にヨルの鉤爪が襲い――
「ぐぅあぁ――っ!」
良庵せんせの左胸……ヨルの鉤爪が突き立っちまったんだ……
ぺたん、とお尻を落としたあたしからほんの少し……ほんの五間(十m前後)先。
ヨルの鉤爪に体を浮かされちまったまま、未だ握ってた、折れた素振り刀をからんと落とした良庵せんせの首がかくんと折れ、ヨルが声高に笑って言ったんだ。
「くっ――くははは! リョーアン! 死んではいない筈だ! 僅かに胸は外れているだろう? この期に及んで死んだふりとはな! くはははは!」
――せんせ! 息があるのかい!?
左胸に突き立ったヨルの鉤爪よく見てみりゃ、僅かに肩寄り、確かに致命傷じゃあない!
「……ばれ、たか」
せんせは刺された側の左腕をぶるぶる震えさせながらも持ち上げて、ゆっくりとヨルの頭に手を置いたんだ。
「もう止せリョーアン。もう貴様に出来ることはない」
せんせはそれに返事せず、ふぅぅぅと少し深めに息を吐きながら右手を道着の胸に入れ……そして、はぁ! と息を吸って勢いよくその手を引き抜き振り下ろしたんです――!
「……ひぃっ――リョ、リョーアン! 貴様! オレに――! オレに何を刺した!?」
びくん――! と体を震わせくの字に曲げ、ヨルが涎と共に苦悶の表情を作って悶えてる……
これは……一体……?
ヨルの鉤爪から放たれたせんせがどさりと落とされたのを期に、素早く駆け寄って担ぎ、ついでに賢哲さんの襟首掴んで苦しそうに悶えるヨルから距離を取ったんだ。
「せんせ! 一体なにがどうなってんです!?」
振り返ってヨルの姿を目にすると、左の首筋のあたり、紙――呪符に包まれた細い何かが突き立ってた。
「おい、良人。あれって……あん時のあれか?」
「あぁ。無我夢中で掴んだものを突き立てたんだが、どうやらシチが使ってたあの針……らしいな」
針……?
針ってあれかい? 蝮の三太夫が妖魔になった……あの針を、ヨルに……?
――人を妖魔にする針、妖魔に刺しゃ、どうなっちまうってんだい?
「ぐぅっ――はぁ――ぬ、ぬぅぅあ――!」
どうやらヨルの奴、暴れる戟を抑えつけようと理性で綱引きしてるらしいねぇ。
せんせの肩の傷を癒しつつ、柱だけになっちまった姉さんちの影にしゃがんでヨルの様子を見てるんです。
実はここにこっそり隠れてたごっちゃんにはお尻に戻って貰いました。
「ところで良人。あれは呪符その二で包んで効果なくそうとしたんじゃなかったか?」
「ああ、戟を散らすつもりで包んだんだけどなぁ……ちっとも抜けてないみたいだな」
無傷の右手でぽりぽりと頬を掻く良庵せんせ。可愛い。
どうしてあの針をせんせが持ってたのか知らないけど、さっきヨルがシチに向かって、リョーアンに妖魔を嗾けた、とか何とか言ってたからね。たぶん夜回りの時にシチとなんかあったって事だろうねぇ。
「でよ。どうなんのよアレ。なーんかでこでこ形変わったりしてっけど――」
賢哲さんの言う通り、ヨルの強大すぎる戟が体から溢れては肥大し、一見すると腕やら肩やらあちこちが突然太く大きく形を変えちゃあ戻りしてるようにさえ見えてんですよ。
「――けど、あのまま爆発でもして吹き飛んでくれりゃあよ、シチをやったアイツには丁度いい最後だぜ」
「僕はそんなつもりじゃなかったんだが……そうなっても自業自得だ……な」
「シチ……俺が焚き付けちまったせいで……すまん、仇だけは取ってやるからな!」
なんて呟いて、グスッと鼻を啜って目元を拭う賢哲さん。
そういやせんせと賢哲さん、尾っぽがまた生えてくるって理解してないんだったりして……
「あのさ、お二人さん。尾っぽはまた生えてくるからそこまで入れ込まなくたって大丈夫じゃないかな、ってあたし思うんだけど、どうだろ?」
涙顔の鼻を掌で擦り上げてた賢哲さんが、すとん、と途端に平坦な無表情であたし見て一言。
「え? また生えんの?」
こくんと頷くあたしを確認し、次いで良庵せんせへ視線を移してさらに一言。
「良人、知ってた?」
「あぁ、知ってる。ヨルからそう聞いた」
中腰だった賢哲さん。力が抜ける様にどさりと胡座でお尻落としちまいました。
「なんっだよそれー。言っとけよもー。めちゃくちゃ動揺しちまったぜー。けどよ、だったらまぁ、良かったぜ」
「ちっとも良くない!」
ホッと一息ついた賢哲さんと違って声を荒げる良庵せんせ。生えてくるってのにまだダメなのかい?
「シチは消滅させられたんだぞ! しかも好きな相手に! その恐怖を考えれば……ちっとも良くない!」
……ほんと良庵せんせは、良庵せんせだねぇ。
与太郎ちゃんの時だってそうさ。自分の損得じゃない、関係ない誰かの為に怒れるってのが良庵せんせだもんね。
「お――おう、そりゃそうだ、良人の言う通りだぜ。ちっとも良くねえ」
せんせの剣幕に圧倒されてあっさり頷く賢哲さんがさらに続けます。
「ちっとも良くねえのはともかくよ、アレ、この後どうすんだよ。なんかヤバそうだぜ」
立てた親指が指したのは勿論、未だ苦しそうに立ちすくんで綱引きを続けるヨル。
ヨルは溢れる涎も流れる涙もそのままに、落ちた雫で足下に染みを作ってた。
そのヨルが不意にゆっくりと腕を上げ、勢いよく振り下ろしたその先、地面が少し大きく抉れちまった。
「どうやら綱引きが終わりそうだねぇ」
「綱引き……?」
「ヨルの意識とさ、体ん中暴れ回る戟とでやってたんですよ、綱引き」
「どっちが勝った方が良いんだよ?」
「分かんないねぇ。ぶっちゃけどっちも良かないかもね」
意識が勝ちゃさっきまで戦ってたヨルとまた戦う羽目になんのかね。戟が勝ちゃ……きっとヨルのやつ、理性失って暴れたりするんだろうね。
そしたらその隙に逃げられそっかな?
「今のうちにやっつけらんねぇ? 動かねえんだしよ」
そう言われりゃそうだね。ならいっちょ星形飛ばして――って思ったんだけどさ。
遠巻きに見守ってた黒狐の里の連中の中からお爺さんが一人、ヨルを心配したのか近付いてって声掛けたらさ、ばくん、と暴れる戟の一撃喰らって上半分無くなっちまった――
「おぉい! どえれぇじゃねえか! 自分とこの爺いの体半分噴き飛ばしたぞあいつ!」
こりゃ拙いね。ちらっと隣のせんせを覗き見れば……ギリギリ奥歯噛み締めて怒ってる……
せんせの肩はもう癒えたけど、もう素振り刀も雪駄もない。さらにその三以外の呪符も使い切っちまった筈。
もうせんせは戦えない。隙見て逃げるしかないんだよ。余計なもの見せてくれるんじゃないよ――
――ばん!
でっかい音に驚いて、慌ててヨル見りゃ尾っぽがいっぱい出ちまってた……
一、ニ、三……全部で七本。シチがいないぶん全部だね。
「お葉ちゃんよぉ! どっちが綱引き勝ったんだよお!?」
わ、分かんないけど――
七本の尾っぽがざわざわ動き、全身から滲み出る真っ黒な戟。
それが体を覆って……
「……戟ってな普通は赤っぽい色してんですよ。ちなみに巫は白。ありゃ間違いなく……」
黒い戟が何かを形作って……家くらい大きな……平屋じゃないよ、二階建てくらいの……七尾の黒狐になっちまった……
「戟だよ、戟が勝った! 二人とも隙見て逃げるよ!」
『アァ――足リネェ――腹ァ減ッタ……』
喋った……?
デカい黒狐の姿した、理性を失う筈のヨルが……?
『足リネェ!!』
立ったままになってた上半分噴き飛ばされたお爺さんの下半分。ヨルが叫んだ勢いでぺたんと尻餅ついたんです。
それを地面を抉りながら一口でばくん。
さっきの一撃も噴き飛ばしたんじゃなくて、喰い千切ってたってのか。
「喰っちまったじゃねえかー!」
「ヨルーーっ!」
二人が大声で叫ぶもんだから、あっさりヨルがこっち見てニヤリ。狐の顔だってのに分かりやすくにやつくじゃないか。
堂々とこっちへ歩み寄ってくるヨルだけど、不思議と足音がしません。ずしんずしん、ってな音が出そうな見た目だけどね。
何本かの柱と床だけになっちまった庵、その床に前足を乗せ、ヨルが覗き込むようにあたしらを見下ろす。
「来やがったぜ良人ぉぉ! なんとかしてくれぇぇ!」
「ヨルーっ! 許さんぞーっ!」
こりゃさすがにダメだね。
里の者を喰い殺すくらいだ。里を守るために必要だったあたしだって食い物にしか見えてないだろうねぇ。
なんとかせんせと賢哲さんだけでも逃したいけど、言って聞くような人じゃないしね、せんせは。どうしたもんかねぇ。
思ったより落ち着いてるね、あたし。
差し違えてでも――いつでも星形描けるよう指先に巫戟を籠めて――
ちょいと力んで待ち構えてたんだけど、ヨルのやつ、ぷいっ、と興味なさげにそっぽ向いて離れてったんだ。
「んお? どうしたんだアイツ? ビビらせんじゃねえっつうの!」
いやほんとどうしたってんだい?
拐されてこの三日ほど風呂にも入っちゃいませんけど、さすがにさっきのお爺さんより不味そうってこたないと思うんだけど……
のしのし歩いて離れてくヨルの尻、ざわめく尾っぽをただ見詰めてた。
そのヨルは丘を下り、周囲を点々と取り囲む里の者の一人――大根作りの上手なお婆さん――に近付いて……
あんぐり口を開いて一息にお婆さんを――
「婆ぁ! 逃げろ!」
すんでの所で割って入った賢哲さんがお婆さんを引っ掴み、肩に担いで飛び退いたんだ。
「ヨル! 止めろ!」
両手に拳より少し大きめの石を掴んだせんせはヨルの前足の爪先小突いてる。
もう! なんだってあの二人は自分から首突っ込むんだい!
どう見たってさ! ヨルの狙いは黒狐の里の者――つまり戟を喰おうってんじゃないか!
二人は戟持ってないんだからさ、この隙に逃げてくれりゃ良いんだよ! 頼むから逃げておくれよぉ!
「ちょっと! これ今どうなってんのよお葉ちゃん!?」
肩に黒狐のお婆さんを乗せた賢哲さんごとさらに自分の肩に乗せ、勢いよく丘を駆け上ってきてそう叫んだのは三郎太のお腹から顔出してる姉さんです。
「菜々緒と戦ってたヨルの尾っぽ二人さぁ、急に居なくなっちゃったからこっち来てみたんだけど、なんなのアレ?」
「あ――あたしだって良く分かんないんですけど、シチが使ってた『人を妖魔にする針』刺されたヨルがあんなでシチも消されちまったんですよ!」
「なに言ってるのかよく分かんないよお葉ちゃん?」
自分でもなに言ってるかよく分かんないこと口走っちまったけどしょうがないじゃないか。
良庵せんせが石持ってあのデカくなったヨルに立ち向かおうとしてんですから!
とりあえず姉さん達は放っておいて、あたしも丘を駆け下ってせんせと合流!
「せんせ! そんな石っころ二つ持ったからってダメですよ!」
「お葉さん来ちゃ駄目だ! 離れていて下さい!」
そんなこと言ったってダメ! 興味なさげとは言え打ち振るわれたヨルの前足が迫ってるんですから!
咄嗟に星形を指でなぞって描きあげて、せんせの頭上目掛けて飛ばしてヨルの前足の軌道を少しずらしてやりました。
ずずん、とせんせの真横で地面が爆ぜて、余波を喰らって吹き飛ばされたせんせをがっしり受け止めました。
「細腕に見えてあたし、実は力持ちなんですよ。なんてったって六尾の妖狐なんですから」
せんせをお姫さま抱っこで抱えたまま、一目散に丘を登ってヨルから距離を取りました。
「いけない! 里の人たちが!」
「黒狐の連中は後回し! あたしはせんせが一等大事なんですから!」
「お葉さん……けれど――」
せんせには耐え難いかも知れないけどさ、あたしはせんせを失うのが耐えられない。ここは絶対言うこと聞いてもらうよ。
丘の上、柱と床だけの姉さんちのとこまで戻ってせんせを下ろし、賢哲さんから話を聞いてたらしい姉さん達に合流。
「大体は分かった。が、無理だ。とりあえず里はもう諦めて逃げるぞ」
「まー三郎太の言う通りかなー。あれはちょっと、菜々緒たちには無理だよね」
丘を見下ろし、逃げ惑う黒狐の連中を追い回してるヨルを見遣って二人がそう言います。ぶっちゃけあたしもそう思うよ。
けどその後ろ、賢哲さんに助けられた黒狐のお婆さんが手を合わせ、しきりに賢哲さんを拝んでやがるんです。
「もう良いって婆ちゃん! んな大した事してねえって! 俺はただの坊主で仏様でもなんでもねえんだぞ!」
いやいや、なかなか出来ることじゃないとは思うけどね。賢哲さんもせんせも向こう見ずに突っ込むんだもん。
「本当に逃げる事しか出来ないんでしょうか」
「ないな。元々厳しかったってのに、今のあのヨルの相手は荷が重過ぎる」
まだそんな事言うせんせに向かって三郎太がぴしゃりと言い放ちます。何度も言うけどさすがにあたしも同意だよ。
「けれど――! ……幸い僕らに対しては積極的に攻撃する素振りもありません。どうにか一人でも多く救う手立てがあるんじゃ――!」
ヨルがあたしらを襲わないのは、たぶん戟だけを喰いたがってるから。
「せんせは巫使い、あたしは巫戟使い、あたしを喰おうとしなかったのは巫が邪魔だったからだろうねぇ」
「え? じゃ菜々緒は喰われちゃうじゃん。戟しか持ってないよ菜々緒」
「だから無理だって言ったんだ。さっきはヨルの足元駆け抜けて来たが、喰われなかったのはツイてただけだ」
唯一戦えそうな武闘派姉さんは絶対近付いちゃいけない。姉さんの戟は相当多い。もし喰われでもしたら……ヨルの暴走に拍車が掛かるの間違いなしさ。
「だったら――やはり僕が!」
「俺もいくぜ良人! 助けられそうなら助けてえもんな!」
「だからダメですって――」
丘を駆け下り始めるせんせの袖を掴もうと手を伸ばしたけど、それを遮り逆に姉さんがあたしの袖を引っ張ったんです。
「ちょいと姉さん! ふざけてる場合じゃ――」
「お葉ちゃん! 兄様は!? まだ寝てんの!?」
「え? みっちゃんかい? 寝っぱなしですよこの大変な時にも!」
一番必要なこの時に寝っぱなしのみっちゃん。
確かにみっちゃんさえ起きてくれりゃなんとかしてくれそうなもんだけど……
「お葉ちゃん! 尻出しな!」
「尻? こ、こうかい?」
ちょこん、っとお尻を突き出して姉さんに向け、そしたらそれ目掛けて姉さんが腕を振り上げ……
ちょ――ちょいとお待ちよ! んな事したってあたしが痛いだけじゃ――
「兄様ーっ! いつまで寝てんのーっ!」
ばちーーーんっ!! いたーっ! とお尻を引っ叩かれて飛び上がるあたし……もう百年以上寝っぱなしなのに、こんなでみっちゃん起きるわきゃないじゃないのさ!
つんのめる様にべちゃりと地べたに崩れ落ち、涙目で姉さん睨んでやったのになんでか手叩いて嬉しそうに喜んでやがったんだ。
え――? まさか、もしかしてそんなんで――?
「兄様ーー! 久しぶりー!」
「ん? 妹よ、何かあったか?」
「相変わらずちっちゃくて可愛いね、兄様」
お尻をさすって立ち上がり、百年以上ぶりに起きて来たみっちゃんを真っ直ぐ恨めしそうに睨んでやったよ。
「もう一人の妹よ。なにをそんなに睨む? 儂、なにかやったか?」
「逆です! なんにもしなかったんですよ! この大変な時にぐーすか寝続けててさ!」
辺りをきょろきょろ見渡すみっちゃん。
しーちゃんよりも少し小さい男の子、って見た目の少年姿。烏帽子に狩衣、ぱっと見は昔話に出てくる陰陽師って感じの服装だけど、これがホントに生前は陰陽師だったんだってさ。
しかも、平安最強だの、稀代の天才陰陽師だの、なんか知らないけどそんななんだって――。
あたしが産まれる前に死んでっからさ、あたしにとっては兄さんってより尾っぽのみっちゃんなんだけどね。姉さんはよぼよぼだった頃のみっちゃんに可愛がって貰った記憶あるんだって。
「妖狐を喰う妖狐……しかもいま格子吐いた? ……なんだか面白い事になっておるなぁ」
「ちっとも面白くないんだってば! 兄様なんとかしてよ!」
「可愛い妹たちのため一肌脱ぐのは当然。しかしまずは――名乗れ、妹たちよ」
「菜々緒はいま菜々緒って名乗ってる!」
「あたしは葉子。葉っぱに子供の子で葉子」
にやりと微笑むみっちゃん。
「母様の通り名から一文字取ったか?」
稀代の天才陰陽師を産んだ美しき妖狐、それがあたしらの母様。
妖狐の母様と人の間に産まれた兄さんは、あたしと違って人寄りの合いの子。ただの人よりゃ長生きだったらしいけど、あたしらみたいに妖狐の寿命は無かったんだ。
寿命が尽きそうだった兄さんはそれを良しとせず、当時身籠ってた母様のお腹の中の子として再び生まれようと転生の秘術を使ったそう。
けれど、産まれたのはあたしでした。
そして百年後、あたしの三本目の尾っぽ、みっちゃんとして目覚めたのが兄さんだったんだ。
「よく分かったね。葛じゃちょいと音が悪いから葉っぱの方をね――ってそんなこと話してる場合じゃないんだってば!」
「分かってる。心配いらん、もう手は打ってる」
すいっ、と丘の下を顎で示すもんだから、そっち見てみりゃ……ありゃなんだい?
黒狐の連中らしき人影が……めちゃくちゃ増えてる?
「ど――どうなってやがんだよ!? こんなにいたのかよ黒狐!」
「よく見ろ賢哲! 動きが鈍いのは偽物だ! きっとお葉さんが野巫で作り出した式神かなにかだ!」
「やるじゃねえかお葉ちゃんよぉ!」
増えた黒狐の一人をヨルががぶりと噛むと、はらりと小さな紙切れが舞う。
『満タサレン! モット――! モットダ――!』
ヨルが遮二無二みっちゃんが作った式神人形を貪る間にせんせと賢哲さんは走り回り、一人また一人と里の者を担いで避難させてる。
さすが向こう見ずのみっちゃん。
『見なくても分かる』
それがみっちゃんのいつもの決め台詞なだけあるねぇ。
「あたしも行ってくるよ! 助かったよみっちゃん!」
「待て葉子。良いモノをやるから手を出せ」
良いものってなにさ!
ヨルをなんとか出来るくらいに良いものじゃなきゃ承知しないよ!
◻︎◇◻︎◇◻︎◇◻︎◇◻︎
『葛の葉』って名前の妖狐、知名度どんななんでしょうね……( ̄▽ ̄;)
お手数ですけど調べて貰えたら嬉しいっす!
◻︎◇◻︎◇◻︎◇◻︎◇◻︎
何くれるってんだいみっちゃん。
こんな時だ、相当良いものじゃなきゃ許さないからね。
「手を出せ葉子。……違う、両手だ」
ポウっ、と光る一寸ほどの小さな玉。
みっちゃんの手から零れ落ちたそれを慌てて両掌で捕まえて、落とさないようぴたんと閉じて目で問います。
「それに巫を限界まで籠めてあの眼鏡の若者に渡せ。戟は籠めちゃあいけないよ。さらに合図とともに握り潰す様に伝えておくれ」
にっこり微笑むみっちゃんにそう伝えられ、あたしは否応なく頷いたんです。
ちっちゃい男の子に見えるけどね、これでもあたしの野巫の師匠だ。頷かない訳いかないんですよ。
でも一つだけ訂正したい事があるんです。
「良庵せんせは三十二、言うほど若くはないんだよ」
「儂から見れば若いよ」
ま、そうかもね。見た目はともかくみっちゃんはあたしの兄さんだもんね。
「菜々緒はー? 菜々緒なんにもやる事ないのー!?」
「菜々緒はじっとしてろ。でも息はしろよ」
さすがみっちゃん、姉さんのことよく分かってるねぇ。ってもそこまで脳筋じゃないとは思いますけどね。
ちぇー、なんて言いながら三郎太と入れ替り、黒狐のお婆さん誘って廃墟と化した家の縁側に腰かけて、のんびり世間話なんか始めました。
みっちゃんが起きたもんだからすっかり安心してるらしいね。分かるよ、あたしもその気持ち。
なんてったってあたしのみっちゃんはおっそろしく頼りになるからねぇ。
「はぁ、はぁ――大体逃がしたか良人!?」
「どの程度いたのか知らないから分からんが……恐らく大体は」
叫び狂うヨルを警戒するよう木陰に隠れつつ、きょろきょろと辺りを伺うせんせと賢哲さん。
せんせはともかく賢哲さんまでこんなして駆けずり回ってくれるなんて思いもしなかったねぇ。
姉さんが惚れたのがただのエロ坊主じゃないって分かってちょっと一安心しちゃったりして。
「せんせ、安心して。世界一頼もしい助っ人が起きたからさ」
ひょこっと二人の前に飛び出して、光る玉を手で挟んだまま腕で大きく丸を作って微笑んでやったんだ。
「助っ人! んーなのまだ居たのか! じゃもう平気かよ?」
「ばっちりさ。ここにとっておきってのも預かって来たからね。せんせ、手ぇ出して――ううん、両手でお願い」
みっちゃんから貰った小さな光る玉。
どうやらこの玉、野巫じゃないみたいであたしにはなんだか分かんないけどね。とにかく巫を籠めるだけ籠めて――巫だけってのがちょいと難しいねぇ――キィィィンと派手に光るその玉を、そっとせんせの掌に乗せたんだ。
「……こ、これは? これを僕はどうすれば――?」
「あたしもよく分かんないんだけど、合図とともに握り潰せ、ってさ」
せんせの巫はあたしのに比べればまだちょいと不安定。さらに恐らく使い切っちまって雀の涙。
だからそれをあたしの巫で補おうって事だろうけど、もうせんせに危ないことして欲しくないんですけどねぇ。
『葉子、渡したか?』
「おぉ! 俺にも聞こえるぜコレ!」
「こちらが助っ人……?」
「あたしの巫籠めて渡したよ。それでどうすりゃ良いんだい?」
『そんな事より眼鏡の彼は……』
そんな事よりって――いまそれより重要な事あるってのかい?
『葉子のなんだ? 男か?』
――この寝ぼすけ兄貴ってばホント……
「亭主ですよ! あたしの一等大事な! 亭主の良庵せんせ!」
『そりゃあ良い。なら儂の義弟――儂もやる気が出るってなもんだ』
今やっとやる気出たってのかい。ほんとしっかりしておくれよみっちゃん。
『狐をそっちに誘う。良庵くんは合図とともにそいつを握り潰して一気に駆け上がって跳んでくれ。それで殴ってくれりゃ良い。じゃ頼むよ』
「ちょ、ちょいとみっちゃん! そんだけ――」
三人で顔を見合わせちょいと苦笑いさ。説明不足はみっちゃんの悪いところだねぇ。
「義弟……もしかして亡くなったお兄さん――ですか?」
「なに言ってんだ良人。みっちゃんだっつってんだから三本目の尾っぽに決まってんだろ」
どっちも正解ですよ。ややこしいんで落ち着いてから話しますね。
束の間、せんせを見詰めて黙るあたしに目敏く賢哲さんが気を利かせてくれました。
「おい! 俺はやる事なくなっちまったし菜々緒ちゃんとこ行ってるからよ! 気張れよ良人!」
「任せておけ! 賢哲も油断するなよ!」
後ろ手にひらひら手を振り、脚をぐるぐる回してぴゅーっと駆け去る賢哲さん。普段あんななのに出来る男だねぇ。
みっちゃんが作った式神の逃げ惑う声、それを追い掛け喰っては不満そうに叫ぶヨルの声。
どうやったって良い雰囲気にはなりゃしませんけど、玉を両手に捕まえたままのせんせが突然腕を上げ、覆い被さる様にあたしを抱き締めたんだ。
「お葉さん、無事で良かった……」
「せんせ! あ、あたし……あたし――」
――わーわーきゃーきゃー、足ランーモットダー――
今そんな時じゃないってのは痛いほど分かってる。
分かってるけど、せんせに抱き締められて――
「せんせ、ごめんなさい……あたし……せんせを守るつもりが――助けてもらってばっかで――足引っ張ってばっかで――」
六尾の妖狐だなんだって言ったって、この戦いであたしちっとも役に立ってないんですから。
せんせは体張って、頭使って……覚えたての巫であんな……
「お葉さん。こんなの聞いちゃおかしいかも知れませんけど、良いですか?」
「……な、なんです?」
「もしかして……僕に惚れ直しましたか?」
「…………もうぞっこん、べた惚れです」
にこっ、と笑ったせんせがあたしにそっと口付けて――
「だったら頑張った甲斐ありますね」
『良庵くん、準備良い?』
「いつでもどうぞ!」
せんせが両手を上げてあたしを解放すると、あたしらの傍にひらひらと、ヨルに喰われて紙に戻った式神の成れの果てが集まって――
『良庵くん。手摺りまでは手が回らないから気をつけて登る様に』
――せんせの目前、紙切れ一枚一枚が一段一段に化け、空へと続く薄赤い階が……
『儂の式神の戟を喰らってまた少し大きくなってる。けっこう高いから落ちないでおくれよ』
……二階どころか三階建てくらいはありそうだねぇ……
「みっちゃん。あたしにやる事は?」
『ない。亭主の活躍を見守っていろ』
――ちぇっ。最後までせんせに頼るしかできないってのかい。
そんなあたしの気持ちを見透かしたらしい良庵せんせが苦笑して、優しくあたしに言ったんだ。
「お葉さん。帰ったらお風呂に入りましょう」
「え――やだせんせ、あたし臭って……?」
「洗いっこしましょう。それで約束の……」
ボンっ、とあたしの顔が火が出そうなほど熱を帯び、自分で言ったくせにせんせも真っ赤。
せんせに良く似たタレ目の男前が産まれると良いですねぇ。
『足ラン! ヨコセ! モット――モット喰ワセロ――!』
木の影にいるあたしらを、さらに大きな影が覆ったその時――
『良庵くん! やれ!』
「はい!」
せんせが合図とともに玉を両掌で押し潰し、カッと爆ぜた光が辺りを照らしてヨルの体が作った影を掻き消して――
「これが……お葉さんの巫――心地良い……」
全身から白い巫を溢れさせ、眩く輝くせんせの体……あたしの巫にしたって大きすぎる――!
『急げ! 駆け上がれ義弟よ!」
ダダダっ! とせんせが勢いよく駆け上り、ほんの一秒二秒で頂点へ!
最後の一段を踏み込み跳び上がったその時――
跳び上がった良庵せんせを目で追ったヨルの体が起きたところを……みっちゃんの式神たちが細い糸へと姿を変えてビシッとふん縛ったんだ!
『リョー…………アン…………タノム――――』
ヨルのその、邪悪に歪む瞳が何かで濡れて……
『どこでも良い! 自分の手でも足でも――どこか一つに巫を集めて打て!』
「ヨルーーっ! 僕がいま――救ってやる!」
階段を駆け上ったせんせは跳び、そして右の手刀にあたしの巫を集めたんだ。
純白の巫がせんせの手刀から溢れ出し、その手首を左手で掴む……そして真下から見上げるヨルの左首筋へ――
「僕が――! いま救ってやる!」
刀で斬りつけるように鋭く――
けれどそれでも叩きつけるように力強く――
「でぁぁぁぁ――」
首筋に当たったせんせの手刀がヨルの巨体を左右に分けるかの如く、上から下へと真っ二つに斬り裂いた――
「――ぁぁぁああっ!」
…………とんっ、と素足のせんせが地に降り立つと同時……
ばぁぁんっ! とヨルが纏った真っ黒な戟が弾け飛び――
「ぐはぁっ!」
巻き込まれたせんせが吹き飛ばされちまった……
「ちょいとみっちゃん! せんせが……せんせが巻き込まれちまったじゃないか!」
慌ててせんせが吹き飛ばされた方へ駆け出して、幸いすぐに見つけて駆け寄ると木の根のとこでひっくり返ってたせんせが平気な顔で立ち上がったんです。
「せんせ! 怪我はないかい!?」
「いてて……あちこち打つけたけどなんともありません。最後の一枚、その三が効いてくれましたから」
せんせが胸から一枚の焼け焦げた紙切れ取り出して見せてくれました。ホッと一息ついたけど、ちゃんと言うこと言っとかなきゃね。
「みっちゃん! ヨルの戟が弾けるの分かってたんだろ!?」
『もちろん分かってた――し、良庵くんの胸にそれがあるのも見なくても分かってた。だから良庵くんに頼んだんだ。兄様を舐めちゃぁいけないよ、葉子』
…………さすがみっちゃん。参った、降参。
「そうかい。ありがとみっちゃん。ほんと助かったよ」
せんせの体に怪我がないのを確かめて、じっと目を見て、ほんとに言わなきゃいけないことを。
「せんせ、全部終わったみたいです。ほんとありがとう。それとごめんなさい。あたしのせいでこんな事に……」
「お葉さん! ちょっと待った!」
「え……なんです大きな声で……」
「まだ終わっていません! ――ヨル! 無事か!?」
ヨルが弾けた辺りを目指していきなり駆け始めたせんせ。
あんな豪快に弾けたヨルが無事ってこたないんじゃないかねぇ……
けれど、黒く煤けたヨルらしい横たわる男を抱き抱えてせんせが叫んだんです。
「まだ間に合う! すぐに治してやるぞ!」
お人好しにも程があるってもんだよせんせ!
「…………リョーアン……もう良い。オレは……オレはこの手で……この里の者たちを……――」
「うるさい! 僕はみんなに力を借りてお前を倒した! だから僕の言う事を聞け!」
「しかし…………頼むリョーアン。このまま……死なせてくれ……」
「聞けない! 僕は医者だ! 指を咥えて黙って死なせるなんてできない!」
「ぐっ……――くっ、任せる……好きにしろ……」
せんせの剣幕にヨルが観念したわけだけど、せんせはくるりとあたしを見て言ったんだ――
「そうは言ったけど……巫が空っぽなんです……お葉さん、お願いします」
――ぺこりとあたしに頭を下げながら。
で、まぁあたしが癒やそうと巫戟を捻り出そうとしたんだけど、あたしも玉に限界まで籠めたもんで巫ちっとも残ってなかったんです。それでも戟だけで図柄描いてなんとかかんとか癒したんです。
その頃には丘の上からみっちゃんと姉さん、黒狐のお婆さん負ぶった賢哲さんがやって来て、それに里の連中がまた遠巻きにあたしらを見守ってました。
「あの針……オレが刺されたあの針は……シチに持たせた針だったのか……」
倒れたままのヨルがぽつりとそう呟いて、悔しそうに握った拳でどんっ、と地面を叩いたんです。
それに対して……ぶち切れたのは賢哲さん。
「おぅこらヨル。オメエそれどういう意味で言ってんだ? おい! 言ってみろ!」
「どうもこうもない。己れの戟を籠めた針に刺されて我を失ったことに対して腹が立った。ただそれだけだ」
「オメエが殺した――っ! ……と、死んでねんだっけか……オメエが消したシチに向けてなんかねぇのかよ!」
「特にない。シチもオレだ。オレがオレをどうしようとオレの勝手。オマエたち人も同じだろう? 学問を学ぶ、剣術を修める、足りない所を成長させる、拙いところは正す、オレもシチに対してそう考える。ただそれだけだ」
うん、まぁそうだろうね。
あたしだって考え方ならそうさ。ただ消し飛ばしたのはやり過ぎだと思うけどねぇ。
「うっ……けどよ、あいつ――あいつ最期に俺見て……ありがと、って口を……くそっ! そうだとしても俺は気に入らねえ!」
複雑なとこだけど、あたしら他人がとやかく言う事じゃないのかも知れないねぇ。
「ただ――シチとは違う、里の者を喰らいまくったのは………………すまん、皆……」
片手を目元に当てて歯を噛んで、悔しそうにすまなそうに――
「オレは……オレが守ろうとした里を……里の者を軒並み……ぐ、ぐぅっ――」
「ヨル」
良庵せんせがヨルの体を起こして支え、辺りを見る様、周囲を指しました。
「よく見ろ」
「……なにを今更――? ……な、何故だ!?」
遠巻きに見守っていた里の者、一人また一人と近付いて来て、昨日までとほぼ変わらないその総数がヨルの目に飛び込んだ筈。
「オ……オレは……確かにこの牙で……」
「あれは儂が作った偽物。あらかたこの、儂の義弟・良庵くんとそこの坊主くんが助けたよ」
「リョーアン――、坊主――、すまん……」
ぐうっ――とさらに大きな嗚咽を漏らし、ヨルが二人に頭を下げたんです。
あの尊大なヨルがそんな事するとは思わなかったねぇ。里を守る、って事をどれほど真剣に考えてたのかよく分かるってもんだね。
結局、里の者の被害は最初に喰われたお爺さんだけでした。
賢哲さんが救ったお婆さんの連れ合いだって事だけど――ヨル様に喰われるんなら本望だろう、なんならアタシも喰われたって良かったぐらいだ――お婆さんはあっけらかんと笑ってそう言いました。
里の者とヨルの絆も相当だねぇ。
「ところでな」
「どうしたの兄様?」
しんみりしてた空気を読まないみっちゃんの声。
「この坊主くんは何者なんだい?」
「えー!? 賢哲さんのこと分かんないの!?」
みっちゃんだってさすがに分かんないんじゃないのかいそれは。
「うん、分からん。教えてくれ」
「菜々緒の亭主だよ! 来月お式なんだから!」
「なに! なら坊主くん――賢哲くんも義弟じゃないか!」
大袈裟にびっくりして見せたみっちゃんが賢哲さんの両手を取り、小さな手でぎゅっと握って続けたんだ。
「賢哲くん! 不束でふしだらな妹だけど末長くよろしく頼むよ!」
…………ま、不束だしふしだらだしね、姉さんは。でもなんでか姉さん、頬をほんのり染めて照れてますね。
「ヨルくん。ちょっと良いかい?」
「……なんだ」
「黒狐の里を守る為に葉子を欲しがったんだろう?」
「……そうだ。けれどもう、リョーアンから葉子を奪うのは諦めた。どうやら相手が悪いらしい」
そうだろそうだろ。いくらなんでも女房のためにここまで出来る男は良庵せんせ以外にいやしませんからねぇ。
「それなんだけどさ。菜々緒と賢哲くんで良いんじゃない? 二人の子には黒狐と白狐、それに人の血が混ざるんだからさ」
…………あ、ほんとだねぇ。
ヨルとあたしで番うのとそう大差ない様な気がするよ。
「……くっ――――くっくっく……はははは!」
突然笑い出したヨル。不思議そうにみんながそれに注目してる。こんな事ほとんどありませんからねぇ。
「ナナオ。悪いがここで――この里でケンテツとたくさんの子供を産んでくれないか?」
「えー? そんな事言ったって……どうする賢哲さん?」
「別に良いんじゃねえの? 長閑で良さそうなとこだしよ」
けれど少し首を捻った賢哲さんが付け加えました。
「ただしヨル! 今度また生えたシチに優しくしてやれ! それが条件だ!」
「分かった、誓う。では決まりだな。ナナオ、これからお前が黒狐の棟梁だ」
ぶっ――姉さんが棟梁だって!? 正気かい!?
「嫌よ!」
そりゃ断った方が良いよ。姉さんじゃちょっと……いや、三郎太も混みなら無くはないか……?
「なんで菜々緒が棟梁なのよ! 棟梁やるなら…………賢哲さんに決まってるじゃん!」
………………どうしてそうなんの?
「なんで俺なんだよ菜々緒ちゃん!? 俺、人だぜ!?」
「菜々緒は棟梁より棟梁夫人が良いんだもん!」
「んなこと言ったって……里の連中も納得しねえだろ……」
とことこ、っとお婆さんが近付いて、賢哲さんの手を掴んで高々と掲げたんだよ。そしたらさ――
わぁっ――と見守ってた黒狐の連中から拍手喝采。あっさり受け入れられちまったよ。
危険も顧みずに里の連中助けて回ってたもんね。案外、人の賢哲さんの方が丸っと上手くいくかも知れないねぇ。
「おめえらどうなっても知らねえぞ! ならなってやらぁ! この俺――ここらで一番の美僧、この賢哲さんが新しい黒狐の棟梁だ!」
けっこう本人も乗り気らしいのがちょいと笑っちまうねぇ。