ブログに新規投稿をし、ふぅーっと丸めていた背中と腕を伸ばした。
溢れる想いが消えないうちに、昨日のことをどうしても書きとめておきたかった。
「ママ教員の悠々ライフ」。
3年前、開設したブログ。私、「葵」の名前は一切出さず、匿名でやっている。
ここには、等身大の自分を記すことにしている。偽りも、飾りもない。その時感じた、私自身の感性を言葉にのせる。
このブログを始める前までの日常とは真逆だ。
教員という職業柄、常に本音と建前を使い分け、保護者はおろか、生徒達、周りの同僚にさえ、自分の本音は語らなかった。いや、語れなかった──。
この腹黒いダークな思いが、1ミリでも外に漏れてしまったら、自分と他者との関係は崩壊する。そう、本気で信じていた。
その思いを払拭させてくれたのが、
3年前に出会った仲間たち。
私を丸ごと、認めてくれた。「弱さも出していいんだよ」と言ってくれた。
コーヒーは、「雑味」があるから、美味い。人間だって同じ。
そんな風に、自分のことを考えたこともなかった。
このブログは、自分の雑味を味わい、時には旨味に変えていく過程を綴っていけたらいいな、と思って始めた。
──そんなことを走馬灯のように脳裏に浮かべながら、コーヒーを飲む日曜日の朝6:19。まだ子どもたちは起きてこない、この朝の一人時間が愛おしい。
衣更着(きさらぎ)の2月、北側のこの部屋は、少し空気が張り詰めている。
膝にかけたブランケットが、空気の層をつくって暖をくれる。
酸味を口の中で転がしながら、コーヒーが好きになったのも、この頃だったな、とふふっと自然に口角があがる。
人との出会いは、味覚まで変えてしまうのか。恐るべし。
まぁ、世間では、小さい頃好まなかった飲食物を好きになることを、「老化現象」として片付けているけれど、それだけでは味気ない。
私の人生の考察には、人との出会いを彩りとして添えていきたいのだ。
さて、と長く息を吐いたあと、
もう一度、昨日のことを思い出す。
そう、昨日の「彼」のこと。
「私のこと、きれいになったね、って……。」
呟いてみて、慌てて口をつぐむ。頬が紅潮してくるのが自分でもわかる。
「はいはい、そういうのさらっと言えちゃうところ、馴れてるんでしょうねー。」
口で言いながら、頭にも言い聞かせてみた。
でも胸のドキドキは続いている。
「あーあ、もう。」
もうずっと前から感じてないと思われる、胸の高鳴りがうるさい。
昨日、私達は──。
*
十数年ぶりに、当時中学生だったときのクラブチームで企画された同窓会だった。
その時、遠方から来た彼を、私の車に乗せて現地に向かうことになった。たまたま、私の家から駅が近かったのもあり、乗っていきなよ、と誘ったのだった。
「十何年ぶりよ?今32だから──あ、17年ぶり?!すご!皆に会うのドキドキするー。」
私は車の中で一人、でっかい独り言を吐露する。
車が赤信号で停車する度、前髪の流れをチェックする。最近になってはじめて買ってみた桃色のトップスのリブを指でなぞる。
みんなはどんな服着てるのかなぁ……。どんな大人になっているんだろう?期待と不安が胸をよぎった。
そうこうしてるうちに、前の車にならって駅のロータリーに入っていく。
「あ、いた!……え、背高っ!」
中学生の時の記憶とは裏腹に、そこには背が高く、スマートな体型の彼、大輝がいた。
小さな軽自動車の助手席に、背中を丸めて乗り込む彼。
「葵?いやーわるいね。ありがとう!」
「ううん、ぜんぜん。久しぶり!」
なんとなくぎこちなさがありながらも、
はじめの挨拶を無事に終え、「声変わったね」とか、「帽子好きなの?」とか、他愛もない会話をしながら目的地へと向かった。
現地では、もうすでに何人か来ていて、
「わー!久しぶりー!元気?」
と活気づいたやり取りが交わされる。
食べ盛りの中学生のときと変わんないねー!と言いながら、みんなで焼き肉をモリモリ食べる。
私はどちらかというと焼肉奉行ではないし、いつも旦那さんがやってくれるのを待っている方。でも今日は、みんなが楽しめるように、となれない手つきで、話に相槌を打ちながら肉をひっくり返す。
私も話に夢中になり、ほんのちょっと目を離した隙に、真っ黒に焦げたタンパク質の塊。
炭化された残骸さん、貴方は私が食べましょう、っと。ひょいとトングで自分の皿に移そうとすると、向かいに座っていた大輝が私の手を上から掴んだ。
「そんな黒いの、食べなくていいよ。こいつが食うからなー!」
と、隣の男子の肩に腕を回し、笑いながらその子の皿に移す真似をしつつ、それは冗談で、結局大輝の皿に肉を運んだ。
──え?!見てたの? 隣の男子と話に夢中だったはずなのに……。
恥ずかしいやら、嬉しいやら、でも私はなんと反応してよいかわからず、愛想笑いをしながら、大輝の顔を見ていたにちがいない。
中学の時と変わらない、大輝の明るさと優しさが私の胸を温かくした。
あっという間に2時間が経ち、お開きの時間。
当たり前のようにみんなが2次会に行く、なんて流れはこの時はなかった。私達はもう32歳。
結婚をしていたり、小さな子どもがいたり。
それぞれが自分の生活があり、それぞれがお互いの状況を理解し合える。
じゃあまたねーと名残惜しさを感じながらも自然に手を振る。
残ったのは、私と大輝、そして大輝と仲良しの湊。2次会はゆったりできるところで、とまとまり、近くの居酒屋に入った。
*
大輝と湊が、映画や人気の漫画について語りはじめ、盛り上がっている。話を聞いているだけで、情景が浮かんで楽しい。
「そうそう!あそこの場面がさぁー!」
2人共、顔をくしゃくしゃにして笑い転げている。
「ところでさ!俺、漫画描いてるんだけど、見てみて。」
大輝がスマホの画面を私の目の前に差し出す。
そこには、繊細なタッチで描かれた女性がいた。切れ長の瞳、整った鼻筋と口。髪をかきあげる色っぽい仕草。違和感なく私の中に入ってきた。
「え?…これ大輝が描いたのー?!すごい!綺麗!」
なぜ人は、本当に驚いた時に、凡庸な言葉しか出てこないのだろう。自分にもどかしさを感じながらも、素直に驚きと関心を伝えた。
漫画を描いてるっていうから、てっきりアクションものかと思っていたのに、これは全然想定外──。あの中学の頃、やんちゃないたずら小僧だった大輝がね…こんなに繊細なタッチの絵を描くなんて、素敵すぎない?
私の脳内で渦巻く感想が、口に出されることもないまま、湊が言葉を発する。
「今、流行ってる漫画は、女の子が可愛いんだよ。だから絶対いい線いけるって!」
「だよなー。俺も絶対成功するって思ってるから!」
きたきた。この素直で自信たっぷりな感じ、それでいて全然嫌味がない感じ、中学の時と変わんないなあ。
そんな事を考えながら、ぼうっと大輝を見つめる。大人になっても昔の面影あるね。
あ、髪の毛かきあげた。
不意にパチっと目が合う。
「葵にも、漫画のリンク送っとくね。」
「さて、そろそろ時間かな。」
時計の針が頂点を超える前に席を立った。
「じゃあなー湊。葵、宜しく!」
車に乗り込み、
「私、一回、車横転させてるからね。気をつけてね。」
とちょっと脅しをかけてみた。
大輝は、そんなの気にしない、というように
「俺も、エアバッグ膨らませてるから。あれさ、湿った布の匂いするんだよなー。めっちゃビックリした!」
と更に斜め上の発言。お互いやらかしてるね、と2人で笑い合いながらエンジンをかける。
目指すは大輝の家。
車中で、大輝が口を開く。
「葵、変わったよね。きれいになったね。なんというか……オーラが。」
え?!と急な褒め言葉に驚き、ハンドルを握る手に力が入る。
「ありがとう……。そうだよね、中学の時はさ、ほら……母親との葛藤があって、ちょっと苦しかったんだ。自分のこと、嫌いだったし。」
苦笑いをする私の横顔を見ながら、大輝は少し神妙な面持ちになった。
「ごめんな……。葵が辛かったこと、俺全然知らなかった。」
まさかの優しい言葉に、こそばゆさを感じた。
「いいんだよ!全然気にしないで。でもね、大人になって、そういう辛かったことを、仲間が聴いてくれたんだ。その仲間のおかげで、私は変われたんだと思う。」
大輝は、ひと呼吸おいてから言った。
「いい出会いをしてきたんだね。」
私の魂の蕾が、パァっと花開く振動を感じた。
「そう……そうなの! 本当に、まさに!
私、人には本当に恵まれてきたんだ。」
言い得て妙、ドンピシャすぎる。私の人生を見てきたかのような表現に、心が震えた。
ほかほかとした胸の温かさを感じながら、その余韻を味わった。
「俺もさ、母親がいないからさ。」
大輝の急な告白に、その言葉を深掘りしていいのかわからず、
「そっか…。」と口ごもる。
「つらかったよね……。」
やっと出したその言葉を、自分の耳で聞いてみて、違和感を覚えた。大輝の背景を分かってあげられていないのに、それらしい事をいってしまったと感じた。
大輝は、
「あ、でもそんな気にしないで。今は上手くやれてるから。」
そう言って、話題を私の教員生活に触れた。
「先生ってさ、どんな感じなの?」
「え?んー、色々あるよ?」
私は教員としての自分に意識を向ける。
「私の好きな理科もできるし、部活も楽しいし、こんな遊んでてお金もらえていいのかな、なんて最初は思ってたよ。子どもたちも可愛かったし。でもだんだん色々見えてきて、自分の無力さも味わって……ね。いろんな子がいるし、保護者との関係もあるからね。」
「そっかあ。」
「大輝はさ、中学の時……あの、学校にあんまり来てなかった……"水嶋蓮"と、仲良かったよね?」
「ああ、蓮ね。」
「うん、いつも、声かけて一緒にいてくれてたでしょ?先生さ、大輝にとっても助けられてたと思うよ。私が先生だったら、大輝はありがたい存在だなって思うもん。」
中学の時、蓮が時々登校すると、大輝は自然に迎えに行って、明るく出迎え、教室へと一緒に入ってきていた。その光景が、昨日のことのようにハッキリと脳裏に浮かんだ。
もう卒業してから17年が経つというのに、未だに、あの頃の自信に満ちた大輝の笑顔が眩しい。
ナビに、海の青色が見えてきたとき、
「海に行っていい?今度描く漫画の資料集めに。」
と大輝が尋ねてきた。
夜の海……人が飲み込まれるイメージ。怖い。直感でそう思ったが、今はお盆の季節でもないし、海に入らなければ大丈夫、と自分を無理に納得させて、誘いを受ける。
夜の海に着くと、周りには誰もいない。思ったより闇は明るく、漆黒ではなかった。
「ちょっとトイレいって来るわ。」
大輝が、私を置いて公衆トイレに行ってしまった。
不安な気持ちで、大輝の後ろ姿が消えていった方を見つめる。寒さ、怖さが心を占領し、自分でも震えているのがわかる。
早く戻ってきて……!
心の中で懇願していると、大輝が走って戻ってきた。
私はホッと胸をなでおろす。
「早かったね!」
「おー!便器に穴が開くくらいの勢いで出してきたわ!」
なにそれ、とケタケタ笑いながら一緒に歩き出す。
「葵、ずっと俺の方見てたの?小便するとこ見てたんじゃないの?」
「暗くて見えるわけないでしょ!だって怖かったから……。」
私は小さい頃から、暗所恐怖症。誰かと一緒じゃないと、暗いところに居続けることができない。
「ごめんな、怖かったんだね。」
大輝が優しく視線を向けてくれた。
海岸の砂の上、波打ち際の手前にブロックの道があった。
その上を歩き、海に突き出た防波堤まで歩いていく。
「大輝、釣り好きだったよね?海で釣りしてたの?」
「うん、よくやってた。ここに来る釣りのおっちゃん達に、よく話しかけてたなー。釣った魚もらったりしてたわ。」
「そうなんだ。」
「『釣り人には、話しかけていい』っていう法律があるからな!」
「そうなの?」
へえー、そんな法律があったんだ!と半分信じながら目を輝かせて大輝の方を見ると、笑いを堪えている。
あ……嘘か。馬鹿なやつだと思われたかな。
頬を膨らませた。
防波堤にぶつかって行き場を失った波は、私達の足元近くまでせり上がってくる。海水で濡れた縁を恐る恐る歩く私とは裏腹に、大輝はひと足早く進み、高いところから海を覗き込み、何かを観察している。
なんでそんなに近くまでいくんだろう。大輝が絶対に落ちませんように……。必死に心のなかで祈りながら、背中を見つめた。
暫くして、
「ありがとう。じゃあ行こうか。」
大輝のその声に、息をするのを思い出し、
「そうだね。」と合わせる。
それにしても、今日は慣れないヒールのあるブーツを履いてきちゃったから、転ばないようにしないと……。ここで死ぬわけにはいかない。変な決意を胸に、一歩一歩、濡れたコンクリートを踏みしめて歩き始めた。
そんな私の歩く姿が不格好だったのか、大輝は、
「ん?今日ヒール履いてるの?」と、発するやいなや、しゃがんで私の靴の底を指で触った。
「じゃあ……もし嫌じゃなければ。」
と、大輝は立ち上がって左腕を曲げ、エスコートの構えをして、私の応えを待つ。
私は、小さく「ありがとう。」と呟き、申し訳程度に自分の右手をかけた。
20歩ほど歩いたとき、大輝の右手は、「もっとこっち。」と私の右手をぐいっと手繰り寄せ、横並びながらも2人のパーソナルスペースが重なった。大輝のコートの厚さが伝わってくる。
これは、死なないように、の命綱です。私は心の中で誰にというわけもなく説明を繰り返した。
「葵の手、冷たいね。」
大輝の右手が私の右手を包む。
「うん、冷え性なんだ。大輝は、温かいね。」
「そう?」
「うん、手が温かい人は、心が温かい人なんだよ。」
「そうなんだ?」
またさっきと同じ砂浜の道を歩いているのに、さっきとは違う、少し張った空気感。
私達の歩く先に、1mくらいの盛り上がりのある黒い影が見えた。
「あの、黒いのなんだろう?見に行ってみよう!」
大輝はワクワクしている。
「やだ、怖いよ。」
溺死体だったらどうするの?とビビって足を止める私。
「大丈夫だよ。」大輝は私の右手が離れないように脇を締め、半ば引きずられるように黒い物体に近づいていくと……漂着したと思われるブイや流木の集まりだった。
よかったー、第1発見者にならなかった……。この短時間でどれだけ心臓を酷使しているのか、と、普段は絶対に意識しない心の臓の位置を感じる。
「葵は怖がりだなー。」
「だって、ただでさえ暗くて怖いのに……。大輝は怖くないの?」
「全然。前実家にいた時はよく来てたんだ。昼間も犬の散歩で来てたけど、夜の海も好きなんだ。」
夜の海、私にとっては初体験だったけれど、これが大輝の好きな景色なんだ…。
意識を向けると、やっと潮風の音、波の音を耳が拾う。夏以外は、全然来たことなかったなあ。
「海、近くていいね。」
「だね。」
しばらく歩くと、
「あそこのベンチに座ろう。」
大輝の指差すところに屋根のついた休憩所があった。
「へえ!こういうベンチがあるんだね。」
ベンチに腰かけ、そのタイミングで手を抜いた。自然にできた、と内心、自画自賛する。
大輝が、「ちょっとタバコ吸ってくるわ。」と言って立ち上がる。私が風下にならないように、少し離れた場所に座ってくれた。
静寂の中、不思議とさっきまでの恐怖がなくなり、視界がクリアになった。静かに波がたゆたい、砂を薄く削る。遠くに月が浮かび上がり、周囲を照らす。自身が光源ではないのに、こんなにも明るく反射光を届けられるのか。
遠くに見える船からの光は、月光よりもか弱いだろうに、それ自体も闇の中では存在感があり、はっきりと認識できる。
見慣れているはずの海にも、これまで目に入ってなかったものがあるんだなぁと、自分の右横から斜め後ろを見回してみる。
風車がゆっくりと回り、光が点灯している。このリズムが、私の心を落ち着かせる。
「おまたせ。」
「ん、早かったね。」
「吸うのは早いんだよね。」
「そっかあ。タバコって美味しいの?」
「うーん、美味しくはないかな。
──昔、海で、よく遊んでた近所のお兄ちゃんが亡くなってさ。そこから、吸い始めたんだ。形見、っていうか……。」
「そうだったんだね……。」
「だから、俺は誰かに止められても辞めない。」
「──そっかぁ。今は、吸うか吸わないか、選べるからいいよね。私のおじいちゃんもね、タバコ吸ってた。おじいちゃん、早くに親を亡くしたから、周りからなめられないように、って吸うしかなかったみたいなんだ。」
「──それ、面白いね。」
「面白い?」
「うん。」
この話を家族以外にしたのは初めてだった。おじいちゃんが肺癌で亡くなって、タバコはおじいちゃんを蝕んだ悪いものと思っていたから、「面白い」という反応が返ってきて、少し驚いた。そして、安堵した。そうか、おじいちゃんも自分で選んだんだもんね……最期は辛かったと思うけれど。
大輝の感性に、もっと触れたくなった。
ふと、息子の話をしたくなった。
「あのさ、昨日の夕飯の時、息子に『お味噌汁作ったの誰?』って聞かれてね。」
「うん。」
「前に何度か聞かれてたときは、『ママだよ』って答えていたんだけど。」
「うん。」
「昨日は、この大根は、農家さん。このお豆腐はお豆腐やさん。お味噌は、お味噌やさんが作ってくれたんだ。だから、お味噌汁を作れたんだよ。ママ一人で作れるものは何もないんだよ。って言ったんだ。」
「いい話だね、面白い。」
また大輝から「面白い」と貰えて、私は嬉しくなった。
海の沖の方を眺めると、船が見える。
「あの船なんだろう?」
「あれ、イカじゃないかな? あの遠くの地平線の方で、たまに雷が見えるんだけど、音って聞こえたことないんだよね。なんでだろ?」
「──なんでだろうね?」
私は、理科教師としての知識の引き出しから、「雷」「稲妻」「音」と検索し、それらしい言葉を紡ごうと思ったが……やめた。たぶんそれを求めてるわけじゃないと何となく感じたからだ。
会話が途切れ、隣を見ると、目線を下げ、顔をこちらに向けた大輝と目があった。
「何か…されると思ってる?」
──ん? 脳内で、言葉の処理ができず、慌てて顔を正面に戻し、次の会話を口から出す。
「ねえ、あれって、何の船──」
大輝が視界に入らない角度で、不自然に右手で沖を指さし言葉を発したその瞬間、
フワッと斜め後ろから抱きしめられた。
──あれ?なに?が起こってる……?
身体が硬直し、自分の行き場を見失った。
もう10数年、今の旦那さん以外には抱きしめられたことがないこの身体。
言葉が出ない。身体が前のめりに縮こまって固くなった。
「──怖い?」
言葉を忘れ、
ただ、コクリ、と頷く。
「そうだよね……。」
後ろの大きな身体が、ふっと離れた。
身体が、動かない。
「ごめんね、怖がらせちゃって。」
大輝の言葉で、忘れていた私の呼吸が戻る。
大輝がふぅーっと静かに息を吐いた。
波が、寄せては引いて、を静かに繰り返しているのを耳で感じた。
「寒い?」
私の左側に座っていた大輝が、私の手を両手でくるみ、組んでいた足の上に置いた。
「手、ちっちゃい。」
優しく指をなぞられる。
「あはは。よく言われる。」
笑ってごまかした。大輝の顔が見られない。
頭が追いつかず、なぜこうなったのか、原因は何なのか、なんとか思考の整理をしようと思った途端、くいっと手を引かれ、向かい合うように抱きしめられた。
──私は今、どこにいるんだろう?これは夢?
自分に問いかけてみても、返事はない。
私の好きな恋愛ものの少女漫画では、よくある展開のような気がするけれど……。
今、これって現実だよね?そして、私は既婚者だよね?そして、大輝には彼女がいるよね?
なすがままになっていた手には、相変わらず力が入らない。
だけど……もたれかかっていた身体を起こし、反対側を向いた。
「どうして……こういう事するの?」
理由が全く思い浮かばない。尋ねるしかない。
「わかんない……。だけど、こうしたくなった。」
その言葉が耳に届いた瞬間、また後ろから体温を感じた。
「いい匂い……。」
首元がこそばゆい。さっきより強く包みこまれている。
「どうして……?こういう事するの?」
さっきと同じ言葉しかでてこない。
ちがう、私の好きな恋愛漫画では、もっと主人公の女の子のことを好きになる理由が散りばめられていて、男の子はだんだん、その子のことを好きになるんだよね?だんだん、心の距離が近づいていくんだよね?好きになって、はじめて触れ合いたいと思うんだよね?なのに、どうして──?
私には理由が欲しかった。
「わからない──。恋しい……。」
大輝が力なく発する。
わからない、って何?理由はあるはずだよね?
それに、「恋しい」ってどういうこと?
必死に今の状況を理解しようとするが、それにはあまりにもパズルのピースが足りなさすぎる。
「大輝、──疲れてる?」
「ん……そうかも。」
私の頭の中で、
大輝=(頑張り屋+プレッシャー)=疲れている=誰かに寄りかかる時間が必要、という式が導き出された。
「いつも、がんばってるんだね。」
そっかあ……。今まで見たことのない、大輝の一面を見れて、愛おしさがこみ上げてくる。この時間が癒しになってくれてたらいいなぁ。
ハグくらいだったらいいよね、と自分に問いかけ、振り返って抱きしめる。ハグは外国では挨拶だもんね。
コートの内側に手が回り、身体の熱を感じる。
顔は横並びなのに、それぞれが反対を向いて肩に顎を乗せ合っている。大輝の顔が見れなくてよかった。私の顔も見られなくてよかった。
「俺、大人になってどうなってた?」
「え……優しいな、って感じたよ。」
「葵は、綺麗になったね。」
「ありがとう。なんか……夢みたい。」
大輝が少し身体を離して、人差し指で私の唇に触れる。髪を耳にかけながら、そのままフェイスラインを顎先までなぞり、
「顔ちっちゃ……。」
と呟く。
「ぷっ。そんなこと、言われたことない。」
思わず自分の手の甲を口元にもっていき、吹き出してしまった。
「肌、きれい。」
「それも言われたことない!」
「そうなの?勿体ない。」
「首も細い。」
「それもない。」
「じゃぁ、言われたことないこと、言ってあげようか?」
「うん?」
「……このチャック可愛い。」
私の上着のチャックをいじりながら、大輝が言った。
「言うことないから言ってんでしょー!」
2人に笑顔が戻る。
笑いすぎて端に溜まった涙を拭いながら、
そろそろ、帰ろうか。と立ち上がる。
駐車してあった車まで、肩をくっつけながら並んで歩いた。
久しぶりに再会できた私の車をざっと見回す。ホッ、ぼこぼこにされてなくてよかったあと胸を撫で下ろす。
大輝が車の助手席のドアを開けようとした時、
「じゃぁ大輝に運転して貰おうかな?」
と振る。
「──え? 俺飲んでるけど?」
「あ、そっかぁ!」
動揺していることに自分で気付いた。
気を引き締めて安全運転でいかねば、そう意識して、大輝を家まで送り届けた。
大輝が「ありがとね。」とシートベルトを外す。
「大人の大輝に会えて嬉しかったよ。」
そう伝えた。
「じゃあ、また!」
「うん、元気でね。また会おう。」
この高鳴る気持ちを大切に感じていたい。
シャワーを浴びても、身体に残る熱を抱きしめて、瞼を閉じた。
私だけの──秘密。
溢れる想いが消えないうちに、昨日のことをどうしても書きとめておきたかった。
「ママ教員の悠々ライフ」。
3年前、開設したブログ。私、「葵」の名前は一切出さず、匿名でやっている。
ここには、等身大の自分を記すことにしている。偽りも、飾りもない。その時感じた、私自身の感性を言葉にのせる。
このブログを始める前までの日常とは真逆だ。
教員という職業柄、常に本音と建前を使い分け、保護者はおろか、生徒達、周りの同僚にさえ、自分の本音は語らなかった。いや、語れなかった──。
この腹黒いダークな思いが、1ミリでも外に漏れてしまったら、自分と他者との関係は崩壊する。そう、本気で信じていた。
その思いを払拭させてくれたのが、
3年前に出会った仲間たち。
私を丸ごと、認めてくれた。「弱さも出していいんだよ」と言ってくれた。
コーヒーは、「雑味」があるから、美味い。人間だって同じ。
そんな風に、自分のことを考えたこともなかった。
このブログは、自分の雑味を味わい、時には旨味に変えていく過程を綴っていけたらいいな、と思って始めた。
──そんなことを走馬灯のように脳裏に浮かべながら、コーヒーを飲む日曜日の朝6:19。まだ子どもたちは起きてこない、この朝の一人時間が愛おしい。
衣更着(きさらぎ)の2月、北側のこの部屋は、少し空気が張り詰めている。
膝にかけたブランケットが、空気の層をつくって暖をくれる。
酸味を口の中で転がしながら、コーヒーが好きになったのも、この頃だったな、とふふっと自然に口角があがる。
人との出会いは、味覚まで変えてしまうのか。恐るべし。
まぁ、世間では、小さい頃好まなかった飲食物を好きになることを、「老化現象」として片付けているけれど、それだけでは味気ない。
私の人生の考察には、人との出会いを彩りとして添えていきたいのだ。
さて、と長く息を吐いたあと、
もう一度、昨日のことを思い出す。
そう、昨日の「彼」のこと。
「私のこと、きれいになったね、って……。」
呟いてみて、慌てて口をつぐむ。頬が紅潮してくるのが自分でもわかる。
「はいはい、そういうのさらっと言えちゃうところ、馴れてるんでしょうねー。」
口で言いながら、頭にも言い聞かせてみた。
でも胸のドキドキは続いている。
「あーあ、もう。」
もうずっと前から感じてないと思われる、胸の高鳴りがうるさい。
昨日、私達は──。
*
十数年ぶりに、当時中学生だったときのクラブチームで企画された同窓会だった。
その時、遠方から来た彼を、私の車に乗せて現地に向かうことになった。たまたま、私の家から駅が近かったのもあり、乗っていきなよ、と誘ったのだった。
「十何年ぶりよ?今32だから──あ、17年ぶり?!すご!皆に会うのドキドキするー。」
私は車の中で一人、でっかい独り言を吐露する。
車が赤信号で停車する度、前髪の流れをチェックする。最近になってはじめて買ってみた桃色のトップスのリブを指でなぞる。
みんなはどんな服着てるのかなぁ……。どんな大人になっているんだろう?期待と不安が胸をよぎった。
そうこうしてるうちに、前の車にならって駅のロータリーに入っていく。
「あ、いた!……え、背高っ!」
中学生の時の記憶とは裏腹に、そこには背が高く、スマートな体型の彼、大輝がいた。
小さな軽自動車の助手席に、背中を丸めて乗り込む彼。
「葵?いやーわるいね。ありがとう!」
「ううん、ぜんぜん。久しぶり!」
なんとなくぎこちなさがありながらも、
はじめの挨拶を無事に終え、「声変わったね」とか、「帽子好きなの?」とか、他愛もない会話をしながら目的地へと向かった。
現地では、もうすでに何人か来ていて、
「わー!久しぶりー!元気?」
と活気づいたやり取りが交わされる。
食べ盛りの中学生のときと変わんないねー!と言いながら、みんなで焼き肉をモリモリ食べる。
私はどちらかというと焼肉奉行ではないし、いつも旦那さんがやってくれるのを待っている方。でも今日は、みんなが楽しめるように、となれない手つきで、話に相槌を打ちながら肉をひっくり返す。
私も話に夢中になり、ほんのちょっと目を離した隙に、真っ黒に焦げたタンパク質の塊。
炭化された残骸さん、貴方は私が食べましょう、っと。ひょいとトングで自分の皿に移そうとすると、向かいに座っていた大輝が私の手を上から掴んだ。
「そんな黒いの、食べなくていいよ。こいつが食うからなー!」
と、隣の男子の肩に腕を回し、笑いながらその子の皿に移す真似をしつつ、それは冗談で、結局大輝の皿に肉を運んだ。
──え?!見てたの? 隣の男子と話に夢中だったはずなのに……。
恥ずかしいやら、嬉しいやら、でも私はなんと反応してよいかわからず、愛想笑いをしながら、大輝の顔を見ていたにちがいない。
中学の時と変わらない、大輝の明るさと優しさが私の胸を温かくした。
あっという間に2時間が経ち、お開きの時間。
当たり前のようにみんなが2次会に行く、なんて流れはこの時はなかった。私達はもう32歳。
結婚をしていたり、小さな子どもがいたり。
それぞれが自分の生活があり、それぞれがお互いの状況を理解し合える。
じゃあまたねーと名残惜しさを感じながらも自然に手を振る。
残ったのは、私と大輝、そして大輝と仲良しの湊。2次会はゆったりできるところで、とまとまり、近くの居酒屋に入った。
*
大輝と湊が、映画や人気の漫画について語りはじめ、盛り上がっている。話を聞いているだけで、情景が浮かんで楽しい。
「そうそう!あそこの場面がさぁー!」
2人共、顔をくしゃくしゃにして笑い転げている。
「ところでさ!俺、漫画描いてるんだけど、見てみて。」
大輝がスマホの画面を私の目の前に差し出す。
そこには、繊細なタッチで描かれた女性がいた。切れ長の瞳、整った鼻筋と口。髪をかきあげる色っぽい仕草。違和感なく私の中に入ってきた。
「え?…これ大輝が描いたのー?!すごい!綺麗!」
なぜ人は、本当に驚いた時に、凡庸な言葉しか出てこないのだろう。自分にもどかしさを感じながらも、素直に驚きと関心を伝えた。
漫画を描いてるっていうから、てっきりアクションものかと思っていたのに、これは全然想定外──。あの中学の頃、やんちゃないたずら小僧だった大輝がね…こんなに繊細なタッチの絵を描くなんて、素敵すぎない?
私の脳内で渦巻く感想が、口に出されることもないまま、湊が言葉を発する。
「今、流行ってる漫画は、女の子が可愛いんだよ。だから絶対いい線いけるって!」
「だよなー。俺も絶対成功するって思ってるから!」
きたきた。この素直で自信たっぷりな感じ、それでいて全然嫌味がない感じ、中学の時と変わんないなあ。
そんな事を考えながら、ぼうっと大輝を見つめる。大人になっても昔の面影あるね。
あ、髪の毛かきあげた。
不意にパチっと目が合う。
「葵にも、漫画のリンク送っとくね。」
「さて、そろそろ時間かな。」
時計の針が頂点を超える前に席を立った。
「じゃあなー湊。葵、宜しく!」
車に乗り込み、
「私、一回、車横転させてるからね。気をつけてね。」
とちょっと脅しをかけてみた。
大輝は、そんなの気にしない、というように
「俺も、エアバッグ膨らませてるから。あれさ、湿った布の匂いするんだよなー。めっちゃビックリした!」
と更に斜め上の発言。お互いやらかしてるね、と2人で笑い合いながらエンジンをかける。
目指すは大輝の家。
車中で、大輝が口を開く。
「葵、変わったよね。きれいになったね。なんというか……オーラが。」
え?!と急な褒め言葉に驚き、ハンドルを握る手に力が入る。
「ありがとう……。そうだよね、中学の時はさ、ほら……母親との葛藤があって、ちょっと苦しかったんだ。自分のこと、嫌いだったし。」
苦笑いをする私の横顔を見ながら、大輝は少し神妙な面持ちになった。
「ごめんな……。葵が辛かったこと、俺全然知らなかった。」
まさかの優しい言葉に、こそばゆさを感じた。
「いいんだよ!全然気にしないで。でもね、大人になって、そういう辛かったことを、仲間が聴いてくれたんだ。その仲間のおかげで、私は変われたんだと思う。」
大輝は、ひと呼吸おいてから言った。
「いい出会いをしてきたんだね。」
私の魂の蕾が、パァっと花開く振動を感じた。
「そう……そうなの! 本当に、まさに!
私、人には本当に恵まれてきたんだ。」
言い得て妙、ドンピシャすぎる。私の人生を見てきたかのような表現に、心が震えた。
ほかほかとした胸の温かさを感じながら、その余韻を味わった。
「俺もさ、母親がいないからさ。」
大輝の急な告白に、その言葉を深掘りしていいのかわからず、
「そっか…。」と口ごもる。
「つらかったよね……。」
やっと出したその言葉を、自分の耳で聞いてみて、違和感を覚えた。大輝の背景を分かってあげられていないのに、それらしい事をいってしまったと感じた。
大輝は、
「あ、でもそんな気にしないで。今は上手くやれてるから。」
そう言って、話題を私の教員生活に触れた。
「先生ってさ、どんな感じなの?」
「え?んー、色々あるよ?」
私は教員としての自分に意識を向ける。
「私の好きな理科もできるし、部活も楽しいし、こんな遊んでてお金もらえていいのかな、なんて最初は思ってたよ。子どもたちも可愛かったし。でもだんだん色々見えてきて、自分の無力さも味わって……ね。いろんな子がいるし、保護者との関係もあるからね。」
「そっかあ。」
「大輝はさ、中学の時……あの、学校にあんまり来てなかった……"水嶋蓮"と、仲良かったよね?」
「ああ、蓮ね。」
「うん、いつも、声かけて一緒にいてくれてたでしょ?先生さ、大輝にとっても助けられてたと思うよ。私が先生だったら、大輝はありがたい存在だなって思うもん。」
中学の時、蓮が時々登校すると、大輝は自然に迎えに行って、明るく出迎え、教室へと一緒に入ってきていた。その光景が、昨日のことのようにハッキリと脳裏に浮かんだ。
もう卒業してから17年が経つというのに、未だに、あの頃の自信に満ちた大輝の笑顔が眩しい。
ナビに、海の青色が見えてきたとき、
「海に行っていい?今度描く漫画の資料集めに。」
と大輝が尋ねてきた。
夜の海……人が飲み込まれるイメージ。怖い。直感でそう思ったが、今はお盆の季節でもないし、海に入らなければ大丈夫、と自分を無理に納得させて、誘いを受ける。
夜の海に着くと、周りには誰もいない。思ったより闇は明るく、漆黒ではなかった。
「ちょっとトイレいって来るわ。」
大輝が、私を置いて公衆トイレに行ってしまった。
不安な気持ちで、大輝の後ろ姿が消えていった方を見つめる。寒さ、怖さが心を占領し、自分でも震えているのがわかる。
早く戻ってきて……!
心の中で懇願していると、大輝が走って戻ってきた。
私はホッと胸をなでおろす。
「早かったね!」
「おー!便器に穴が開くくらいの勢いで出してきたわ!」
なにそれ、とケタケタ笑いながら一緒に歩き出す。
「葵、ずっと俺の方見てたの?小便するとこ見てたんじゃないの?」
「暗くて見えるわけないでしょ!だって怖かったから……。」
私は小さい頃から、暗所恐怖症。誰かと一緒じゃないと、暗いところに居続けることができない。
「ごめんな、怖かったんだね。」
大輝が優しく視線を向けてくれた。
海岸の砂の上、波打ち際の手前にブロックの道があった。
その上を歩き、海に突き出た防波堤まで歩いていく。
「大輝、釣り好きだったよね?海で釣りしてたの?」
「うん、よくやってた。ここに来る釣りのおっちゃん達に、よく話しかけてたなー。釣った魚もらったりしてたわ。」
「そうなんだ。」
「『釣り人には、話しかけていい』っていう法律があるからな!」
「そうなの?」
へえー、そんな法律があったんだ!と半分信じながら目を輝かせて大輝の方を見ると、笑いを堪えている。
あ……嘘か。馬鹿なやつだと思われたかな。
頬を膨らませた。
防波堤にぶつかって行き場を失った波は、私達の足元近くまでせり上がってくる。海水で濡れた縁を恐る恐る歩く私とは裏腹に、大輝はひと足早く進み、高いところから海を覗き込み、何かを観察している。
なんでそんなに近くまでいくんだろう。大輝が絶対に落ちませんように……。必死に心のなかで祈りながら、背中を見つめた。
暫くして、
「ありがとう。じゃあ行こうか。」
大輝のその声に、息をするのを思い出し、
「そうだね。」と合わせる。
それにしても、今日は慣れないヒールのあるブーツを履いてきちゃったから、転ばないようにしないと……。ここで死ぬわけにはいかない。変な決意を胸に、一歩一歩、濡れたコンクリートを踏みしめて歩き始めた。
そんな私の歩く姿が不格好だったのか、大輝は、
「ん?今日ヒール履いてるの?」と、発するやいなや、しゃがんで私の靴の底を指で触った。
「じゃあ……もし嫌じゃなければ。」
と、大輝は立ち上がって左腕を曲げ、エスコートの構えをして、私の応えを待つ。
私は、小さく「ありがとう。」と呟き、申し訳程度に自分の右手をかけた。
20歩ほど歩いたとき、大輝の右手は、「もっとこっち。」と私の右手をぐいっと手繰り寄せ、横並びながらも2人のパーソナルスペースが重なった。大輝のコートの厚さが伝わってくる。
これは、死なないように、の命綱です。私は心の中で誰にというわけもなく説明を繰り返した。
「葵の手、冷たいね。」
大輝の右手が私の右手を包む。
「うん、冷え性なんだ。大輝は、温かいね。」
「そう?」
「うん、手が温かい人は、心が温かい人なんだよ。」
「そうなんだ?」
またさっきと同じ砂浜の道を歩いているのに、さっきとは違う、少し張った空気感。
私達の歩く先に、1mくらいの盛り上がりのある黒い影が見えた。
「あの、黒いのなんだろう?見に行ってみよう!」
大輝はワクワクしている。
「やだ、怖いよ。」
溺死体だったらどうするの?とビビって足を止める私。
「大丈夫だよ。」大輝は私の右手が離れないように脇を締め、半ば引きずられるように黒い物体に近づいていくと……漂着したと思われるブイや流木の集まりだった。
よかったー、第1発見者にならなかった……。この短時間でどれだけ心臓を酷使しているのか、と、普段は絶対に意識しない心の臓の位置を感じる。
「葵は怖がりだなー。」
「だって、ただでさえ暗くて怖いのに……。大輝は怖くないの?」
「全然。前実家にいた時はよく来てたんだ。昼間も犬の散歩で来てたけど、夜の海も好きなんだ。」
夜の海、私にとっては初体験だったけれど、これが大輝の好きな景色なんだ…。
意識を向けると、やっと潮風の音、波の音を耳が拾う。夏以外は、全然来たことなかったなあ。
「海、近くていいね。」
「だね。」
しばらく歩くと、
「あそこのベンチに座ろう。」
大輝の指差すところに屋根のついた休憩所があった。
「へえ!こういうベンチがあるんだね。」
ベンチに腰かけ、そのタイミングで手を抜いた。自然にできた、と内心、自画自賛する。
大輝が、「ちょっとタバコ吸ってくるわ。」と言って立ち上がる。私が風下にならないように、少し離れた場所に座ってくれた。
静寂の中、不思議とさっきまでの恐怖がなくなり、視界がクリアになった。静かに波がたゆたい、砂を薄く削る。遠くに月が浮かび上がり、周囲を照らす。自身が光源ではないのに、こんなにも明るく反射光を届けられるのか。
遠くに見える船からの光は、月光よりもか弱いだろうに、それ自体も闇の中では存在感があり、はっきりと認識できる。
見慣れているはずの海にも、これまで目に入ってなかったものがあるんだなぁと、自分の右横から斜め後ろを見回してみる。
風車がゆっくりと回り、光が点灯している。このリズムが、私の心を落ち着かせる。
「おまたせ。」
「ん、早かったね。」
「吸うのは早いんだよね。」
「そっかあ。タバコって美味しいの?」
「うーん、美味しくはないかな。
──昔、海で、よく遊んでた近所のお兄ちゃんが亡くなってさ。そこから、吸い始めたんだ。形見、っていうか……。」
「そうだったんだね……。」
「だから、俺は誰かに止められても辞めない。」
「──そっかぁ。今は、吸うか吸わないか、選べるからいいよね。私のおじいちゃんもね、タバコ吸ってた。おじいちゃん、早くに親を亡くしたから、周りからなめられないように、って吸うしかなかったみたいなんだ。」
「──それ、面白いね。」
「面白い?」
「うん。」
この話を家族以外にしたのは初めてだった。おじいちゃんが肺癌で亡くなって、タバコはおじいちゃんを蝕んだ悪いものと思っていたから、「面白い」という反応が返ってきて、少し驚いた。そして、安堵した。そうか、おじいちゃんも自分で選んだんだもんね……最期は辛かったと思うけれど。
大輝の感性に、もっと触れたくなった。
ふと、息子の話をしたくなった。
「あのさ、昨日の夕飯の時、息子に『お味噌汁作ったの誰?』って聞かれてね。」
「うん。」
「前に何度か聞かれてたときは、『ママだよ』って答えていたんだけど。」
「うん。」
「昨日は、この大根は、農家さん。このお豆腐はお豆腐やさん。お味噌は、お味噌やさんが作ってくれたんだ。だから、お味噌汁を作れたんだよ。ママ一人で作れるものは何もないんだよ。って言ったんだ。」
「いい話だね、面白い。」
また大輝から「面白い」と貰えて、私は嬉しくなった。
海の沖の方を眺めると、船が見える。
「あの船なんだろう?」
「あれ、イカじゃないかな? あの遠くの地平線の方で、たまに雷が見えるんだけど、音って聞こえたことないんだよね。なんでだろ?」
「──なんでだろうね?」
私は、理科教師としての知識の引き出しから、「雷」「稲妻」「音」と検索し、それらしい言葉を紡ごうと思ったが……やめた。たぶんそれを求めてるわけじゃないと何となく感じたからだ。
会話が途切れ、隣を見ると、目線を下げ、顔をこちらに向けた大輝と目があった。
「何か…されると思ってる?」
──ん? 脳内で、言葉の処理ができず、慌てて顔を正面に戻し、次の会話を口から出す。
「ねえ、あれって、何の船──」
大輝が視界に入らない角度で、不自然に右手で沖を指さし言葉を発したその瞬間、
フワッと斜め後ろから抱きしめられた。
──あれ?なに?が起こってる……?
身体が硬直し、自分の行き場を見失った。
もう10数年、今の旦那さん以外には抱きしめられたことがないこの身体。
言葉が出ない。身体が前のめりに縮こまって固くなった。
「──怖い?」
言葉を忘れ、
ただ、コクリ、と頷く。
「そうだよね……。」
後ろの大きな身体が、ふっと離れた。
身体が、動かない。
「ごめんね、怖がらせちゃって。」
大輝の言葉で、忘れていた私の呼吸が戻る。
大輝がふぅーっと静かに息を吐いた。
波が、寄せては引いて、を静かに繰り返しているのを耳で感じた。
「寒い?」
私の左側に座っていた大輝が、私の手を両手でくるみ、組んでいた足の上に置いた。
「手、ちっちゃい。」
優しく指をなぞられる。
「あはは。よく言われる。」
笑ってごまかした。大輝の顔が見られない。
頭が追いつかず、なぜこうなったのか、原因は何なのか、なんとか思考の整理をしようと思った途端、くいっと手を引かれ、向かい合うように抱きしめられた。
──私は今、どこにいるんだろう?これは夢?
自分に問いかけてみても、返事はない。
私の好きな恋愛ものの少女漫画では、よくある展開のような気がするけれど……。
今、これって現実だよね?そして、私は既婚者だよね?そして、大輝には彼女がいるよね?
なすがままになっていた手には、相変わらず力が入らない。
だけど……もたれかかっていた身体を起こし、反対側を向いた。
「どうして……こういう事するの?」
理由が全く思い浮かばない。尋ねるしかない。
「わかんない……。だけど、こうしたくなった。」
その言葉が耳に届いた瞬間、また後ろから体温を感じた。
「いい匂い……。」
首元がこそばゆい。さっきより強く包みこまれている。
「どうして……?こういう事するの?」
さっきと同じ言葉しかでてこない。
ちがう、私の好きな恋愛漫画では、もっと主人公の女の子のことを好きになる理由が散りばめられていて、男の子はだんだん、その子のことを好きになるんだよね?だんだん、心の距離が近づいていくんだよね?好きになって、はじめて触れ合いたいと思うんだよね?なのに、どうして──?
私には理由が欲しかった。
「わからない──。恋しい……。」
大輝が力なく発する。
わからない、って何?理由はあるはずだよね?
それに、「恋しい」ってどういうこと?
必死に今の状況を理解しようとするが、それにはあまりにもパズルのピースが足りなさすぎる。
「大輝、──疲れてる?」
「ん……そうかも。」
私の頭の中で、
大輝=(頑張り屋+プレッシャー)=疲れている=誰かに寄りかかる時間が必要、という式が導き出された。
「いつも、がんばってるんだね。」
そっかあ……。今まで見たことのない、大輝の一面を見れて、愛おしさがこみ上げてくる。この時間が癒しになってくれてたらいいなぁ。
ハグくらいだったらいいよね、と自分に問いかけ、振り返って抱きしめる。ハグは外国では挨拶だもんね。
コートの内側に手が回り、身体の熱を感じる。
顔は横並びなのに、それぞれが反対を向いて肩に顎を乗せ合っている。大輝の顔が見れなくてよかった。私の顔も見られなくてよかった。
「俺、大人になってどうなってた?」
「え……優しいな、って感じたよ。」
「葵は、綺麗になったね。」
「ありがとう。なんか……夢みたい。」
大輝が少し身体を離して、人差し指で私の唇に触れる。髪を耳にかけながら、そのままフェイスラインを顎先までなぞり、
「顔ちっちゃ……。」
と呟く。
「ぷっ。そんなこと、言われたことない。」
思わず自分の手の甲を口元にもっていき、吹き出してしまった。
「肌、きれい。」
「それも言われたことない!」
「そうなの?勿体ない。」
「首も細い。」
「それもない。」
「じゃぁ、言われたことないこと、言ってあげようか?」
「うん?」
「……このチャック可愛い。」
私の上着のチャックをいじりながら、大輝が言った。
「言うことないから言ってんでしょー!」
2人に笑顔が戻る。
笑いすぎて端に溜まった涙を拭いながら、
そろそろ、帰ろうか。と立ち上がる。
駐車してあった車まで、肩をくっつけながら並んで歩いた。
久しぶりに再会できた私の車をざっと見回す。ホッ、ぼこぼこにされてなくてよかったあと胸を撫で下ろす。
大輝が車の助手席のドアを開けようとした時、
「じゃぁ大輝に運転して貰おうかな?」
と振る。
「──え? 俺飲んでるけど?」
「あ、そっかぁ!」
動揺していることに自分で気付いた。
気を引き締めて安全運転でいかねば、そう意識して、大輝を家まで送り届けた。
大輝が「ありがとね。」とシートベルトを外す。
「大人の大輝に会えて嬉しかったよ。」
そう伝えた。
「じゃあ、また!」
「うん、元気でね。また会おう。」
この高鳴る気持ちを大切に感じていたい。
シャワーを浴びても、身体に残る熱を抱きしめて、瞼を閉じた。
私だけの──秘密。