――ポロン

テーブルのスマホが音を発し、握っていた手が離された。
起き上がった咲弥くんが、身を乗り出してスマホを取り、私に「はい」と手渡してくれる。
画面を開けば、壱星からのメッセージがきていた。

『さっきは言いすぎた。ごめん。レポート終わったから、明日の夜は一緒に夕飯でも食べに行こう』

心がずっしりと重くなる。
壱星だってやさしいひとなのだ。
喧嘩をしても、いつもこうやって先に折れてくれる。
このやさしさが足枷になって離れられずにいることを、壱星は知らない。
彼が私に家事を押し付けるだけのひどい男だったら、とっくに別れていたのに。

「壱星から?」
「うん」
「謝ってきたでしょ。明日はデートしようとかフォローつけて」
「当たり。すごい、よくわかるね」
「わかるよ。何年兄弟してると思ってるの」

変な言い方、と思わず噴き出した。
何年かと言われれば、壱星が産まれたその瞬間から21年。
年子の兄である咲弥くんとは顔も性格も全く違うけれど、昔からとても仲がよかったのだと壱星が以前言っていた。
咲弥くんが壊したくないと思うのは当然だし、他人の私が引っ掻き回していいものじゃない。
絶対に壊しては駄目なのだ。

しばしメッセージを見つめたあと、画面を消してスマホを枕元に置いた。

「返さないの?」
「うん。もう少し考える」
「そっか」

今『こっちこそごめん』と返したら、また今まで通りに戻るだろう。
それじゃダメなことはもうわかっている。
けれど、やっぱり今はまだ別れを切り出す勇気がない。

「……あのさ、これは俺の勝手な願いなんだけど」
「願い?」
「できれば、壱星と別れないでほしい。別れたら俺、美南ちゃんと会えなくなっちゃうから」

真っ直ぐに視線が合って、息をのんだ。
暗がりでも、その真面目な表情に切なさが滲んでいるのがわかる。

『好きな子はいるんだけどね』

さっきの言葉が頭をよぎって、じわじわと胸が苦しくなる。
自惚れでなければ、咲弥くんが言っていた相手は……

その瞳から視線を逸らせずにいると、彼は小さく微笑んだ。

「不謹慎だけど、今日、来てくれて嬉しかったよ」

咲弥くんが壊したくないと言った言葉の意図が、他にもあったのだと気づく。
それは壱星と私の関係であり、イコール咲弥くんと私の関係につながる。
壱星と別れたら、私と咲弥くんは会うことも連絡を取ることもなくなる。
だって私たちは『友達』じゃない。
咲弥くんは『恋人のお兄さん』だ。
恋人である壱星と別れれば、もうなんの接点もなくなる。
完全に他人になってしまうのだ。

黙っていると、咲弥くんは困った顔で笑った。

「ごめん、やっぱり冗談。おやすみ」
「……待って」

寝返りを打とうとした咲弥くんの腕のシャツを思わず掴むと、彼は驚いた様子で振り返った。

「……今日だけ手を繋いでてくれるって、言ったじゃない」

咲弥くんは少しの間を置いて微笑み、「そうだったね」とこちら側を向いてまた手を握ってくれた。
手から伝わる温もりが心を満たしてくれて、同時に切なくなる。
この温かさを感じることができるのは、今だけだ。