「……それが四か月前、だよね?」
「そう」
私と同クラの赤城早苗は、居酒屋でもつ鍋をつついていた。寒い冬にはやっぱりこのもつのぷるぷるが欠かせない。
早苗はビールのジョッキをごん、とテーブルに置くと、ぎろりと私を睨んだ。
「美咲。四か月もずるずるとゾンビの臓物みたいに失恋引きずってんじゃないよ。大体その東畑って先輩はさァ、どんだけイケメンなわけ?」
「イケメン、ではないと思う」
「そんじゃ四か月も引きずる理由って何?」
「人は皆早苗みたいに突き抜けた面食いじゃないんだよ」
「これは真面目な質問なんだけど、面以外に男を選ぶ基準てある?」
「ねえ、本気で分からないって顔しながら言うのやめて。色々あるでしょ、優しさとか男気とか」
「優しさ! は~!」
早苗は大げさな仕草で首を振る。
「まあいいわ。宗派が違うんでしょ、私と美咲とじゃ」
「そうそう、お互いの教義を尊重しましょう。――いや私もさ、クリスマス前には吹っ切れたかったよ? 今もう十二月入っちゃったし、これからどう年末のイベントを過ごすのかって考えるとくらーい気持ちになっちゃう」
「でも、忘れられない、と」
頷くと早苗は唇を嚙みしめた。
「まあ、東畑先輩って、得体の知れなさが尋常じゃなかったからな。底が見えない男ってのは危険だ。美咲みたいにふらふらと魅入られちゃう子が出てくる」
「先輩は深淵なの?」
「あなたが深淵を覗き込む時、深淵はそこまであなたに興味を持っていない」
「う、それ、傷つく」
「む。そうだった。美咲は退学も留学も結婚も、一つも知らなかったんだもんね。ごめんごめん」
早苗はさくりと私の心の傷を抉ると、同情するような眼差しをよこした。
「そんな顔しちゃってさ、全くもう。――その未練の息の根を止めるには、告白しかないよ。分かってるでしょ」
「ん……。でも、メッセージにも返信がないんだよ。既読もつかない」
「海外にいるんでしょ? スマホ変えた時に、そのメッセージアプリと同期するの忘れちゃったとか」
ありえない話ではない。だけど、希望的観測にすがることに意味がないことを、私はもう知っている。四か月の間に。
それから早苗は、SNSのアカウントを探すとか、先輩と同期の人に連絡先を聞いてみるとか、色んな方法を提案してくれたけれど、全て試した後だった。
「先輩、SNSも全然動かしてなくて。鈴村先輩たちも連絡先は聞いてなかったって言うから」
「うーん。フィンランドの日本大使館とかに聞けば……」
「そ、そこまでしなくていいよ」
「まあ、最終手段だよね、それはね」
早苗は難しい顔をして、残り僅かなビールを口にした。
幸いなことに早苗には出来立てほやほやの彼氏がいたので、それからは彼氏の話で盛り上がることができた。
面食いな早苗の彼氏は社会人三年目だそうで、写真を見せてもらったところ、アイドルみたいに大きな目をしていて、スーツが全然似合っていないのが面白かった。
終電が近いことに早苗が気づき、慌てて店を出る。
北風がぴゅうと吹き付け、私たちはコートの前を掻き合わせて、身を寄せ合った。
駅まで早足で進むと、人身事故のアナウンスが聞こえてきた。早苗がげっと声を上げる。
「私の路線止まってんだけど!」
「うわ、私のもだ」
「ちょっと待って」
早苗は素早くどこかに電話をかけた。
「ね、こっから私の彼氏んちまで、タクシーで十分くらいなんだけどさ、美咲も一緒に行こうよ。電車いつ動くか分かんないし、寒いし、眠いし」
私は少し考えた。
今日は金曜日で、早苗の彼氏は社会人。
彼女が来るなら、二人でイチャイチャしたいだろう。私はシンプルに邪魔者である。
それに東畑先輩の話をしたあとで、早苗と彼氏のやり取りを見せつけられるのは、少しだけ嫌だった。
自分が持っていないものを見せつけられるみたいで。
だから私はこう答えた。
「あー。実はこの辺、友達んちがあってさ。今日はそこに泊めてもらうわ」
「ほんと? 大丈夫?」
「平気平気」
心配そうに振り返る早苗をタクシーに押し込んで見送った私は、さて、と駅前を見回す。
電車が動くまで、駅前の居酒屋で一人飲みでもしようか。
でも、結構眠いからカラオケかファーストフード店で仮眠を取ってもいい。
そんな風に考えていた時だった。
「あれ、みさきちだ」
のんびりとした声。嘘だ、と思いながら振り返る。
そこには分厚いダウンをまとい、赤い毛糸の帽子をかぶった、東畑先輩がいた。
「東畑、先輩?」
「こんな時間にいるってことは、終電逃した感じ? みさきちそういうのしっかりしてそうだけど」
「あ、いえ、人身事故で、電車しばらく動かないっぽくて」
「マジか」
東畑先輩は目をぎゅうっと細めて駅の方を見た。今日はコンタクトを入れてない日と見た。
良かった、もつ鍋の後で私の顔、結構テカってただろうし。
「先輩は、フィンランドに行ったんじゃ……」
「一時帰国だよ。荷物とかビザとか、色々あってね」
そんなことより、と東畑先輩は私を見た。
「みさきちはこれからどうするの」
「え、えっと、そこのお店にでも入って、時間を潰そうかと」
「ああ、居酒屋。でも結構混んでるよ。金曜だしねえ。しかし久々に来ると、日本の酔っぱらいは惰性で酔ってる感じがするね」
「惰性で」
「金曜だから飲む。皆が飲んでるから飲む。フィンランドだともっとこう『酔うぞ』って強い意志を感じるんだよね」
そう言って東畑先輩は、帽子を脱いでにこっと笑った。
「電車動くまで俺と一緒に飲もう。女の子一人よりは、安全だと思うよ」
「は……はい!」
誘われた瞬間、寒さも眠気も吹っ飛んだ。先輩って、すごい。
東畑先輩はさっさと人込みの間をすり抜けて歩く。
人身事故の影響を受けて、今日はオールだと決めた人も多かったらしく、駅前の居酒屋はそこそこ混んでいた。
それでも狭い二人掛けの席を見つけた先輩は、焼き鳥臭い店内でもぞもぞとダウンを脱ぎ、膝の上に抱え込んだ。
私はお手洗いで少し顔を直してから、同じようにコートを丸めて自分の前に抱え込み、先輩にタッチパネルを渡す。
「そうだなあ。日本酒かな。みさきちは何が良い?」
「私も、先輩と同じので」
嘘みたいだ。目の前に先輩がいる。前に見た時と全然変わっていない。
そして、先輩を前にした時の緊張感も、少しも減っていなかった。
ドキドキして胸が苦しい。自分の動きが変に見えないか、メイクはおかしくないか。
――好きだってことを、気取られてないか。
でも考えてみたら変だ。どうして好きだと言う気持ちに気づかれちゃいけないんだろう。
私は先輩の左手を盗み見る。
既婚者であればあるはずの指輪は薬指にはなく、女性のように綺麗な手が白いおちょこをつまむのを、夢みたいに見ている。
「乾杯」
「か、……かんぱい」
「結構酔ってる?」
「いえ……。あの、フィンランドにいた、んですよね?」
「そうそう。あっちの大学で経営学勉強してるよ」
経営学。確か先輩の日本での専攻は法律だったはず。
私の疑問を読んだみたいに、先輩は答えた。
「あっちの知り合いの仕事を手伝うために必要かなって」
「その、お知り合いの方は、どんな仕事をされてるんですか」
「エンタメ系? エアギターとかロックとかメタルとか、まあそんな感じ」
私は日本酒をくっと飲み干し、唇を舐め、それから聞いた。
「その方と、結婚されたんですか」
「うん」
シンプルな肯定。大したことのないこの二文字が、私を地獄へと突き落とす。
終わった。失恋が完全にとどめを刺された。もうどんな望みもない。
唇が震えるのを上手く隠せているだろうか、と思いながら、
「どんな人なんですか」
と聞いていた。
東畑先輩は、特に気負うこともなくただ一言「日本の特撮が好きな人」と答えた。
「どっ……」
どんな顔をして、どんな声で、どんな風に笑うんですか。
どうやって、あなたの心を射止めたんですか。
どうして、何にも言わないで行っちゃったんですか。
先輩のことを、もがき苦しみながらでも忘れようと思ったのに、忘れられるかもしれなかったのに。
――どうして、今ここでばったり会うんですか。
言いたいことはいっぱいあって、言葉にならない。
行き場にならない悲しさと悔しさと、それからほんのちょっぴりの嬉しさが、胸の中でぞわぞわと膨れ上がっているせいだ。
東畑先輩はそれを見透かすみたいに笑っている。
穏やかな表情は、何かを隠し持っているような悪戯っぽさを秘めていて、そこが胸が苦しくなるくらい好きだ。
けど、何を言ったってもう遅いんだ、と唐突に悟ってしまった。
だって先輩はもう大学を退学して、フィンランドに行って、結婚した。
今後先輩と人生が交わることは、ほぼないと言って良いだろう。
だってフィンランドだ。フィンランドって、きっと結構遠い。
何を言ったって、もう私たちの関係は変わらない。
――だったら。
私は自分の恋心に、とどめを刺して、墓標を立ててやらなければならない。
「先輩。知ってました? 私、先輩のこと、好きでした」
東畑先輩は驚きに目を見開き、揺らいだ指先がお通しの皿を微かに動かした。
少し間があったのは、冗談でした、と私が言うのを待っていたのだろう。
けれどいつまでも私が真剣な顔をしているので、事の大きさに気づいたらしい。
――ああ、やっぱり、私の気持ちなんか全然気づいてなかった。私はこの人の特別じゃなかった。
爽快感のような、悲しみのような、よく分からない感情が勝手に涙としてこぼれてきそうで、私は唇を引き結んだ。
泣きたくない。泣いたら、負けだ。
東畑先輩は、私の顔をじっと見て、それから困ったように笑った。
寄せた眉が、可愛い。
「知らなかった。全然。……ごめん」
「いえ。大学中退のことも、フィンランドに行くことも、教えてもらえなかった時点で――私はただの後輩だって、分かってましたから。でも、言わずにはいられなかったんです。ごめんなさい、既婚者相手に」
「謝ることなんかない。みさきちが言わなきゃって思ったんなら、それは言うべきだったんだよ」
みさきちは間違えないから。
そう言った東畑先輩は、びっくりするくらい真っすぐな目で私を見た。
「でも、ごめんな。俺はもう結婚してるし、結婚してなかったとしても、みさきちの気持ちには応えられないよ」
「っ」
「みさきちは何ていうか、隣のクラスの冷静な副委員長っていうか……。友達の彼女の家庭教師、みたいな……」
「遠すぎでしょ。恋愛対象どころか、知人の枠にもぎりぎり入れてるか怪しい奴じゃないですか」
「や、さすがに知人の枠ではある」
結婚していなかったとしても、フラれていたのか。
脈がなさ過ぎて逆に笑えてくる。涙まで出てくる始末だ。
私はおしぼりで涙を拭きながら、それでも東畑先輩を見て、笑った。
あなたが気遣うことなんて一つもないし、あなたが私にできることも、一つもないんですよという意味を込めて。
東畑先輩は何か言おうとして、それから口をつぐんだ。
こういう時に下手に言葉を重ねないのも、好きなところだな、と思ってしまった。
私たちはそれから日本酒を何合か飲んで、サークルのメンバーの近況を話して、日本とフィンランドの冬の寒さについて語った。
電車は一時間後に復旧し、私たちは反対方向の電車に乗り込んで別れを告げた。
もう二度と会わないだろうな、と思っていたから、電車に乗ってすぐ東畑先輩からメッセージが来たことに驚いた。
『今日はありがとう。久しぶりに会えて楽しかった』
『思い返すと、みさきちはいつも俺と同じお酒を頼んでたね。俺の結婚相手もそうだよ』
『だから』
そこでメッセージは途切れた。
だから、の後に続く言葉が少し気になったけれど、もういいや、と自然に思えた。
私は『こちらこそありがとうございました』とだけ打って、スマホを鞄にしまった。
いつもよりだいぶ時間の遅い終電では、酔った人々が半ばぼうっとした顔で揺られている。
私も結構酔いが回っているけれど、妙にすっきりとした気分だった。
車窓に映る自分の顔は、メイクが剥げて、絶好のコンディションとは言い難いけれど――。
恋心と、綺麗にさよならできた。
未練を、上手に断ち切ることができた。
その手ごたえが、私の自尊心を満たしてゆくのが分かる。
東畑先輩のことを好きな気持ちはまだ残っているし、未練を切り落とした跡は、これからも少し痛むだろうけれど――きっと大丈夫。
私は目を閉じ、穏やかな気持ちで、いつもより遅い終電の揺れに体を任せた。