帰り道の途中にあったスーパーで買い物を済ませ、課長の住むマンションに到着した。広いエントランスから綺麗に掃除が行き届いている。わたしの住むアパートとは大違いだ。
8階でエレベーターを降りて少し進んだところが、彼の住まいだった。

「どうぞ。掃除があまり得意じゃないから、少し荒れているけど」
「お邪魔します」

ひとりで住むには広い室内。綺麗な色のカーテン。触り心地の良いラグ。壁際のチェストに置かれた小物。端々に、もともと居た誰かの存在を思わせる匂いがまだ残っている。
スーパーの袋をキッチンに置いて、課長が言った。

「俺はシャワーを浴びてくるから、ゆっくりくつろいでいて。あっちの寝室以外は好きに散策してくれてかまわないよ」
「わかりました。買ってきたものも冷蔵庫に入れておきますね。あと、ちょっとキッチンをお借りします」
「どうぞ。冷蔵庫に残っているものも、勝手に使っていいからね」

浴室へ消えていった課長の無警戒さに大丈夫かと不安になりながら、買ってきたものを冷蔵庫にしまっていく。その中にはそこそこ値がはりそうな日本酒の瓶が2本スタンバイしている。
食器棚から適当な器を見繕って取り出し、食材を並べて準備を進める。料理は嫌いではないが、自分のためにはあまりやる気にならないタイプだ。

モッツァレラとトマトでカプレーゼ。買い置きの卵でしょっぱめのだし巻き玉子。カット野菜にありあわせのドレッシングをかけ、生ハムを載せてサラダにしたところで、課長が戻ってきた。

「お、うまそうだな」
「ほとんど出しただけですけどね」

そう言いながら顔を上げると、濡れた髪をタオルで拭う課長がこちらへ近づいてきた。仕事の時ともさっきまでの姿とも違う、完全にオフになったそのゆるいスタイルにまた鼓動が乱れる。髪の先から水滴がひとつ落ちて、Tシャツの胸元でじわりと染みになった。

ぬるくならないうちに始めようか、と言って、課長が取り分け用の皿と箸を準備してくれた。その間に、リビングのテーブルへおつまみとお酒を運ぶ。賑やかしにテレビをつけてから、課長が1本目の瓶を手に取った。

「俺の離婚話を聞いた友人が、地元の良い酒だって送ってくれたんだ。こっちじゃほとんど出回ってないけどうまいらしい」
「へえ。わたしも初めて見ました」

ラベルを見ると、酒蔵の名前の下に新潟の住所が書いてあった。綺麗な箔押しで綴られたお酒の名前の横には純米大吟醸と添えられている。よく知らないが、かなり良いものなのだろう。
日本酒を嗜むためのお猪口やぐい呑みなどというものは用意がなかったらしく、テーブルにセットされていたのはごく普通のグラスだった。互いに酒を注ぎあって、かちん、とグラスを合わせる。よく冷えたアルコールが日本酒特有の米の風合いを纏って、喉に流れ込んでいく。だし巻き玉子に手を伸ばした課長が、なかなかうまいな、と笑った。味付けが口に合ったようで安心だ。

「桜木さんは、ひとりで飲むことはあるの」
「あまりないです。お酒は好きですけど、ひとりで飲むと片付けが億劫で」
「そうなんだよなあ。あと、喋る相手がいないと飲むペースが早くなってすぐ酔うんだよなあ」

気づけば四合瓶が3分の2ほど空いていた。飲み始めてまだ1時間足らずだが、課長はもはや手酌で注いでいる。わたしがやりますと手を伸ばしても、気にしなくていいから、と拒まれて、ついでにわたしのグラスにも注ぎ足してくる始末だ。おつまみよりも酒のほうが減るペースが早い。相手のあるなし関係なくハイペースで飲むんじゃないか、と呆れながらさりげなく立ち上がって、余っていた他のグラスに水を注いで戻った。

「――理穂さんとも、こうして飲むことはあったんですか」

ふと尋ねると、持ち上げかけていたグラスを中途半端なところで止めて、課長の顔から表情が消えた。聞かないほうが良かったかと謝罪を口にしかけた時、そうだな、と消え入りそうな声がぽつりと落ちた。

「理穂も俺もけっこう酒好きでさ。理穂はカクテルに詳しくて、家でいろいろ作ってくれたりもしたな」
「……そう、だったんですか」
「おれもつまみを作ったり、良さそうな酒を取り寄せたりしてさ。楽しかった」

楽しかったなあ、ともう一度繰り返された言葉が重い。甘く濡れたようなその声のせいで、体が反射的に動いてしまった。

「……うん」
「人肌恋しいです。どんなに暑くても」
「そうだねえ」

隣に座るその肩に頭をもたれさせると、髪を撫でられた。その手つきがあまりに優しくて、じわりと視界が滲む。

暁斗とお家デートをして、ご飯を作ったら褒めてくれるのが嬉しかった。並んで座って映画やドラマを見ながら、手を繋いだりくっついたりするのが好きだった。甘えた時に無条件に受け入れてくれるのも、暁斗から思い切り甘えられて信頼を感じられるのも好きだった。

「あーあ。暁斗のばか。亜実の大ばか。だいっきらい」
「……つらかったね。2人から、いちどに裏切られて」

あやすようなリズムでとんとんと頭を撫でられて、決壊した。下瞼を超えて、ひとつ、またひとつと涙がこぼれ落ちた。課長が無言で差し出してきたティッシュを遠慮なく掴んで鼻をかむ。さんざん泣いたと思っていたけれど、まだこんなに泣けるもんなんだなあと他人事のように考えた。

「ここには俺と君しかいないから、好きに泣いて怒っていいよ」
「……そうおっしゃるなら、課長ももっと好きに喚いてください。わたしばっかりで恥ずかしいので」
「じゃあ、どんなに情けなくても引かないでね」
「お互い様です」

グラスからぬるくなりかけている日本酒を煽って、好きなだけ元パートナーを罵倒した。どれだけ叫んでも、未練や執着はそう簡単に断ち切れない。息切れしてソファの背にもたれると、はは、と課長の口から乾いた笑いが漏れた。

「本当にばかみたいだな」
「ええ。……でも仕方ないです。わたしたち、それだけ好きだったんですよ。こんなになるほど長い時間を過ごしてきたんですよ」

課長はもっと怒っていいと思いますと付け加えると、ぐっと唇に指を押し付けられた。

「今日は休日、ここは俺の家。さっきからずっと思っていたけど、課長なんて呼ばなくていいよ」
「でも、じゃあなんて……藤村さん、とか」
「明人、でいいよ」

充血した課長――明人さんのふたつの瞳が、わたしを真っ直ぐに捉えた。あきとさん、と戸惑いながら呼んでみると満足げに頷く。まるで大型犬だ。
さっきまで傷が疼くような痛みをずっと感じていたその名前が、ようやく綺麗なもので上書きされたような気がした。

「……わたしも名前で呼んでください」
「いいの」
「今だけは」
「そう――了解、莉歩ちゃん」

ぎゅう、と体の真ん中が震えた。明人さんの低い声が紡ぐわたしの名前――さっきまでの、未練にまみれたそれとは違う新しい音。
そして、ごく自然に唇が重なる。ふわりと触れたその後に、数センチの距離で見つめ合った。
何も言葉を交わさなくても、お互いに悟った。もう後戻りはできないのだと。

もう一度重なった唇。夏の入り口の気温なんか目じゃないほどに熱く、互いの苦しさを全部打ち消してしまうように強く結びつけた。その力に体がずるりと滑り落ちて、上から押さえ込む体重に心地よさを感じる。壊さないぎりぎりの力で抱きしめられたので、わたしも明人さんの背中に腕を回した。何度もあちこちに口づけをされる。
こっちへおいでと言われて、入室を禁じられていた寝室のドアがあけられた。

何度もりほちゃんと呼ばれて、そのたびにあきとさんと応えた。