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神社の近くにるカフェは、土曜日の割に空いていた。神社にもあまり人がいなかったし、暑さのせいであまり人出は多くないのだろうか。
頼んだアイスカフェオレはすぐに来た。向かいでアイスコーヒーをブラックで飲む課長を、グラスの縁からそっと盗み見る。テーブルの上、限定メニューのポップアップをぼんやりと眺める目元に視線を奪われてしまう。シャープな頬のラインに睫毛の影が落ちていた。
「まだ6月なのにこんなに暑いなんてね」
「もう真夏みたいですもんね。8月になったらもっと暑くなるんでしょうか」
「暑いのは苦手なんだよなあ。冬のほうが好きだ」
「わたしもです」
頼んでいたスイーツが運ばれてきた。暑さを紛らわすためにわたしはアイスティラミスにしたが、課長はパフェを選んでいた。バナナとチョコのアイスの上にホイップクリームが乗せられていてかなりのボリュームだ。
「甘いもの、お好きなんですね」
「恥ずかしいから、あまり周りには言わないけどな。男一人だと食べ歩きもしづらくて困ってる。――だから理穂と出かける時は、必ずどこかで甘いものを食べるって決めていたんだ」
理穂、というのが元奥さんの名前なのだろう。本当はその話を聞いてほしくてたまらないのかもしれない。
わたしは黙ってスプーンを手に取り、アイスティラミスをひと口掬った。
淡々と、課長はその日のことを話し始めた。
「そうじゃなければいい、と思うことほど当たるんだよな。たまたま家に忘れ物をして帰ったら玄関に見たことのない男物の靴があってさ。理穂に男兄弟はいなかった。お義父さんかと思ったがそれにしては靴のセンスが若いし、小柄なお義父さんにしては靴が大きい気がした。心臓の音が頭の中に響く感覚はあれが初めてだった。――無意識に足音をおさえて廊下を進むと、声が聞こえた。今じゃ俺以外に聞く権利がないはずの理穂の声と、知らない男がその名前を呼ぶ声。逆に冷静になって、スマホのカメラを起動させてさ。それを向けながら寝室のドアを開けた」
汗ばんだ肌の匂い。
乱れたシーツの皺。
脱ぎ捨てられた衣服。
二人の瞳。
まだ鮮明に思い出すんだ、と、課長はパフェをつつく手を止めて唇の端を歪めた。こんなに天気のいい日に、小洒落たカフェで甘味を味わいながらする話ではない。
「そこからはもう怒涛の日々だったよ。離婚のための話し合いはお互いの両親まで巻き込むはめになってね。子どもがいなかったのが不幸中の幸いというか、揉めるタネがひとつ少なかったのは良かったけど。で、正式に離婚が成立して届を出したのがちょうど3ヶ月前かな」
「……大変でしたね」
「まあね。忙しくしていれば気が紛れたけど、寝る前なんかは毎日のようにフラッシュバックしてきつかったな。あとは、自分のカメラで美しくないものを撮らざるを得なかったことも」
「綺麗なもの……」
「出かけるたびに理穂の写真を撮っていたんだ。スマホにもこのカメラにも、その写真がたくさん入っていた。あの日、証拠のためにあんな映像を撮ったことが不愉快でね。全部消したんだ」
全部――おそらくそれは、元奥さんの写真を、ということだろう。愛していた、一生を共にすると決めていた相手から裏切られるなんて、どれだけの苦痛だっただろう。
ひと通り話したらすっきりしたのか、課長はまたパフェに向きあい始めた。アイスの下のほうは溶けてしまって、コーンフレークに染み込んでいるようだ。
「付き合い始めから10年くらいだった。結婚前は同棲もしていたから、心を許せる身近な存在がいることが当たり前になっていた。あれから週末はずっと家にこもっていたけれど、外に出たほうがいいと思い立って、今日はあの神社に行くことにしたんだ。厄払いと縁結びのご利益があるって話でしょ」
「そうですね。けっこう有名で、観光スポットとして雑誌やネットの記事でもよく紹介されてます」
「――じゃあ、桜木さんも、祓いたい厄があったのかな」
溶けつつあるティラミスを掬う手を止めて、わたしは課長の顔を見た。まっすぐにこちらを見つめる視線が仕事で対面する時よりもずっと優しくて、鼓動が乱れた。
「似たような話です。結婚の話まで出ていた彼氏に振られました。他の子を妊娠させたんですって」
――2週間前のことだった。約束していたデートの待ち合わせに向かうと、元彼である暁斗の隣で俯いている女性がいた。
「お待たせ」
声をかけると、2人は同時に肩を跳ねさせた。怯えるような4つの瞳がわたしにむけられて、その瞬間に全てを悟った。
別れてほしい。彼女が妊娠した。
ようやくその女性の顔を見ると、よく知った人物だった。
「亜実……?」
「ごめん、実は……暁斗くんと付き合ってたの」
一番の親友で、わたしと暁斗が知り合うきっかけを作ってくれた彼女がいったいいつから彼と付き合っていたのか。妊娠ってどういうことなのか。聞きたいことが山ほどありすぎて、かえって何も言葉にならなかった。
「場所、移動しようか。改札前で騒ぐ話じゃない」
チェーンのカフェに入って、当たり前のように並んで座った2人と対峙する。さめざめと泣く亜実と、俯いて目線を合わせようとしない暁斗に呆れて、わたしは注文したカフェオレを一気に半分くらい吸い上げた。
「説明してくれる」
ため息とともに出た自分の声は思ったよりも低かった。2人が互いに庇いながら喋ったことをまとめるとこうだ。
もともと、亜実の彼氏と暁斗は友人どうしだった。わたしは亜実とその彼氏を経由して紹介を受け、暁斗と付き合うことになった。そしてわたしと暁斗、亜実とその彼氏でのダブルデートを何度かするうちに2人は仲良くなり、一年ほど前についに一線を超えたというのが、簡単な経緯だ。
2人でのデートはランチ、ディナー、そして泊まりをともなうものへと変わっていった。互いのパートナーにばれていないというスリルや油断もあったのだろう。盛り上がった2人は、ついに取り返しのつかない過ちをおかした。
「……急な仕事で帰れない、会えないなんていうのが増えたと思ったら、そういうことだったんだね」
「それは、はじめは本当で」
「言い訳に使えると思ったんでしょ。もういいよ。気づかなかったわたしも馬鹿だったわ。まさか亜実がこんなことするなんて思わなかった」
「それは……本当にごめん」
「謝ったってどうにもならないでしょ。既成事実作ってめそめそとこれみよがしに鼻の頭を真っ赤にされてさ。子どもに罪はないからわたしが口を出すことじゃないけど、せめてあんたたち2人がこの先幸せになんかなれないように祈っておくことにするわ。もう二度と連絡もとらないし何にもいらないから、それだけさせて。じゃあね」
待って、と立ち上がった2人を尻目にカフェオレを飲み干してカフェを出た。結局立ち上がったのもポーズでしかない。わたしを追いかけてまで何かを贖うつもりなんてなかったのだ。
「――大学のときから、7年くらい付き合ってたんですよ。親友とは10年以上の付き合いでした。怒りとか悲しみよりも、虚しさのほうが大きかったですね」
話しているあいだにティラミスは半分以上溶けてしまっていた。皿に広がったそれは、スプーンでかき集めてもうまく掬えない。
課長も、パフェグラスの底に溜まったアイスの液体をつついていた。
「確かに好きだったんです。2人のこと、それぞれに。でも、好きな気持ちなんて一瞬で消えてなくなってしまうんですよね。大好きで、大切である期間が長ければ長いほど」
「そうだね」
あの日、帰ってから思い切り泣いた。なんで、と自分を責めたりもした。課長もきっと同じような衝動に駆られていたのだろう。
自分に落ち度なんかなかったはずだ。喧嘩をすることもあったけれど、その日のうちに仲直りした。寝る前にはお互いに謝って、ぎゅっと抱き合って寝た。好みが合わないことだって、その時々で譲り合ってうまくやってきた。
どこで何が噛み合わなくなったのだろう。わたしは何をすれば、彼の心を繋ぎ止めておけたのだろう。
「今でも好き?」
「わかりません。愛情とかじゃなくて、執着なのかも」
「俺も同じ。もう一度やり直したいって言われてもうんとは言えないけど、だからって誰かと一緒に幸せに過ごしてほしくはない。もう俺のパートナーじゃないけど、誰のものにもなってほしくない。長い時間をともに過ごした相手を、ぽっと出の泥棒猫に奪われた事実が許せない」
「その通りです」
目を合わせて、互いに苦笑する。どうしようもない人間だという、自分への憐れみ。さっさと忘れてしまえば楽だということなど、頭ではとうに理解している。
それでも縋ってしまうのが人間というものだ。正論だけで生きていけるほど強い生き物ではない。
日が傾いてきた。夏至まであと数日、日没まではまだまだ時間がある。
「そろそろ出ようか」
当たり前のように2人分をまとめて支払った課長にお礼をして、店を出る。冷房の効いた店内と違って、熱を吸ったアスファルトからまだじんわりと暑さがまとわりついてくる。斜めになった陽の光が課長の横顔を照らしていた。
「桜木さん、日本酒は好き?」
「日本酒ですか? あまり飲んだことはないですけど……お酒は好きですよ」
「もしよかったら、やけ酒に付き合ってくれたら嬉しいんだけど。怒りにまかせて買った四合瓶が2本、家にあるんだ。……家に来るのが嫌なら断ってくれていいから」
夏だろうが暑かろうが、人肌恋しくなるのは仕方がない。夕陽が当たる課長の横顔を見ると、瞳が寂しげに揺れていた。
「いいですよ。おつまみとか買いに行きましょうか」
「ありがとう」
住宅街のほうに向かって歩き出した課長の後を追う。なんとなくその顔をもう一度見上げるのは憚られて、わたしは地面のアスファルトを眺めて歩いた。