小さな石の器の中に、色鮮やかな花がゆらめいている。木々の隙間からこぼれる日差しにきらきら光る水面とあわさって綺麗だと、素直に思った。

花手水、というらしい。神社やお寺にある手水舎で、手水鉢に花を浮かべて彩り、目で楽しむというものだ。ふらりと立ち寄った近くの神社でも行われていたので、思わず見入ってしまった。

花にも信仰にも造詣が深くはない。紫陽花のほかはどれがなんという花なのかは知らないし、今日神社に来たのだって別に高尚な理由があったわけではない。けれど、なぜかこの花手水から目が離せなくなっていた。
――だから、近くに人が来ていたのも気づかなかった。

「桜木さん?」

名前を呼ばれてはっと顔を上げると、右隣からわたしの顔を覗き込む人影があった。視線を上げると、平日は毎日のように顔を合わせている人物が、見慣れたそれとは違う格好でわたしをじっと見つめていた。

「……藤村課長」
「奇遇だね」
「はあ」

直属の上司である藤村課長は、切長の目元に皺を寄せて笑った。
ワックスでしっかりセットした髪と濃紺のスーツ、というのが彼のデフォルトだ。今は髪もラフに下ろしていて、Tシャツにジーンズという完全な休日スタイルなので、声を聞かなければすぐには気づかないだろう。
課長の首元には、立派なカメラが下がっていた。

「桜木さんも写真を撮りに来たの?」
「いえ、神社に来たら綺麗な花が飾られていたので、見入っていただけで……写真が趣味なんですか」
「まあね。今日は天気がいいから、散歩がてら風景写真を撮りたいなと思っていたんだ」
「そうですか。では、どうぞわたしのことはお気になさらず。失礼します」

邪魔にならないように立ち去ろうとすると、待って、と止められた。そして、カメラの液晶画面をこちらに向けてくる。

「さっき撮ったこの写真だけ、送らせて」
「はい?」

小さな画面には、花手水をじっと覗き込むわたしがいた。ゆるい風に揺れるスカートと木漏れ日、そして色鮮やかな花手水。モデルが自分だということを忘れるくらい綺麗な一瞬が切り取られていた。いつの間に撮られていたのだろうか、まったく気づかなかった。

「盗撮ですか」
「盗撮にしたくないから、後付けで今、許可を得ようとしてるってこと。連絡先を教えてよ」
「送っていただかなくて結構です。消すも消さないも課長のお好きになさっていただいて構いませんけど、奥様に見られる前に削除したほうがいいのでは」

わたしより8つ歳上の課長には、4年前に結婚した奥さんがいる。結婚式に参列した上司たちは口を揃えて「綺麗な人だった」と言っていた。背が高くてきりっとした顔立ちの課長と並ぶと、美男美女できっと素敵な式だったんだろうなと思った記憶がある。たびたび仲睦まじくデートしている様子の目撃情報も聞こえてくるので、仲良しなんだなと社内では理想の夫婦として通っていた。
だから、ただの部下でしかないよその女の写真なんか撮っている場合ではないはずだと思うのだが。わたしだって下手に絡んで、余計なトラブルになりたくない。

「別れたよ」
「……は?」

あまりにもあっさりとそう言って、課長はカメラを自身の眼前に構えた。いろいろなダイヤルをいじりながら花手水に向かって何度かシャッターを切ってのんびりと写真の出来映えを確認するその横顔は、発言に対して穏やかだった。

「3ヶ月くらい前かな。離婚したんだ」
「まさか。仲良し夫婦って話だったじゃないですか」
「俺もそう思ってたよ。だから、浮気されてるなんて考えもしなかったよね」

じりじりと日差しが石畳を焼いていく。まだ6月だというのに、外で立っていると汗が流れるほど暑い。時間で言えば夕方だが、まだ日が落ちる気配はなかった。

「ここで立ち話もなんだし、どこかでお茶しない?」

課長の申し出には半ば反射で頷いた。