龍神と許嫁の赤い花印5~永久をともに~

 龍神が住まう天界。
()(こん)の王』・波琉(はる)の居住地である『水宮殿(すいぐうでん)』では、いつもと変わりない日々が送られていた。
 つい最近、人間界に降りていた波琉が戻ってきていたため少々(にぎ)やかだったのが(うそ)のような、穏やかな空気。
 賑やかだったのは、波琉の帰還以上に、波琉の伴侶である人間がいたことが大きいだろう。さらにそこへ、波琉が連れてきた眷属(けんぞく)の動物たちと『漆黒(しっこく)の王』・(けい)()まで加わったのだ。
 苛烈な性格と有名な桂香がいて、静かであるはずがない。他にも、『(きん)(あか)の王』・(おう)()の伴侶、千代子(ちよこ)も滞在していた。
 これだけ水宮殿によその王とその関係者がいたのには理由がある。
 本来ならば、波琉の伴侶が天界へやってくるのはずっと先のはずだった。
 まあ、龍神の感覚からすれば瞬きに等しいが。
 人間は寿命を迎え、人間界での肉体を失って初めて天界へのぼる。
 それなのに波琉の伴侶・ミトが天界へ来てしまったのは、罪を犯したゆえに天界を追放され()(がみ)となった元龍神によって殺されてしまったためだ。
 人間としての寿命をまっとうする前に、天界へ魂が来てしまった。
 その過程も、普通の花印の伴侶とはかなり異なった手順となったのだが、それもまた墜ち神によるところが大きい。
 墜ち神からミトを守るために、天帝が介入したのである。
 それは異例のことで、それだけ天帝が今回の一件を重要視していたと分かる。
 墜ち神は漆黒の王に属する龍神だったがために、桂香もともに人間界――『(りゅう)()の町』へ降りていった。
 桂香は属していた者が波琉の伴侶を殺してしまったことに責任を感じているようだった。そのため、堕ち神への対処をするにあたり、漆黒の王に属する幾人もの龍神もともに連れていったのだ。
 つまり、龍花の町には王が三人と、普段では考えられない数の龍神が滞在していることになる。
 しかし、少し前に漆黒の王とともに降りた龍神が帰ってきたとの知らせがあった。
 漆黒の王の補佐からの情報なので間違いはない。
 つまりは墜ち神の問題は解決したと考えていいのだろうか。
 しかし、その補佐は漆黒の王が帰ってこないと嘆いているようだ。
 どうしてか理由を聞かれた(みず)()だが、瑞貴とて波琉からなんの連絡もないので答えようがなかった。
「まったく、頼りのひとつぐらいくれてもいいでしょうに!」
 天帝が介入するほどの問題に発展している墜ち神について、やきもきしているのは瑞貴だけではないのだ。
 他の補佐も波琉からの連絡を待っているのになにひとつ寄越さない。
「あの方のことですから、絶対に忘れていますね」
 長い付き合いで波琉の性格を熟知している瑞貴はそう判断した。
「私も一緒に行くべきでしたっ」
 苛立たしさを隠しもせず、書類をさばいていく。
 その仕事も本来ならば波琉がしなくてはならないものも含まれているので、余計に書類の扱いがやや雑になってしまう。
 するとそこへ、断りなく入ってきた者がいた。
「ずいぶんと荒れているな」
 低く、けれど穏やかな声が部屋に響く。
 はっと顔を上げて声のした方を見れば、龍花の町へ行っていたはずの煌理が立っていた。
 椅子に座っていた瑞貴はすぐさま立ち上がり一礼する。
「千代子は息災か?」
「はい。ご不便なく過ごしていただいております」
「そうか。面倒をかけてすまないな」
「とんでもございません。我が王にご協力くださったのです。できうる最高のもてなしでもって返さねば、顔向けできません」
 堅苦しい瑞貴の対応に、煌理は苦笑している。
()(おん)といい、王の補佐は真面目すぎていかんな」
「それはそうなる理由があればこそだと考えますが?」
 暗に、王が不真面目だから補佐がしっかりしなければならないのだろうという苦言を告げている。
「嫌みの言い方までそっくりだ……。まあ、いい。私は千代子を連れて帰ることにする」
「承知しました。すぐに使いをやります」
 瑞貴はさらさらと紙に文字を書いてふたつに折り、机の上にいたうさぎの口元に持っていく。
 うさぎはそれを(くわ)えると、ぴょんと机から飛び降りて部屋を出ていった。煌理が迎えに来たことをしたためた文を、千代子へ渡しに向かったのだ。
 桂香から贈られたうさぎたちは賢く、きちんと頼まれごとを遂行してくれる。
 それを見届けた瑞貴は、煌理に目を向けた。
「墜ち神はどうなりましたか?」
「問題なく片付いた」
「それはよかったです。紫紺様ときたら、なんの事後報告もしてくださらないもので」
 ほっとする瑞貴。
 その安堵の中には、波琉へのものとは別に、ミトの身のことも含まれている。
「まあ、波琉だからな」
 そのひと言ですべて納得できるのだから、煌理も瑞貴もよく波琉の性格を理解している。
 瑞貴は波琉からの報告を待つのをあきらめた。きっと百年待っても墜ち神について知らせる手紙は届かないと悟ったのだ。
「紫紺様は龍花の町へ残られるとして、漆黒様もお戻りになっているのでしょうか? 漆黒様の補佐から問い合わせが来ているのですが……」
 墜ち神の次に問題となっている件である。
 すると、煌理はなにやら言いづらそうに髪をくしゃりとかき上げた。
「それが、いい機会だからしばらく龍花の町で過ごすそうだ」
「そうなのですか?」
「ああ。思いのほかミトを気に入ったらしくてな。ミトが暮らす間は一緒にいるそうだ」
「えっ!?」
 思わず大きな声が出る瑞貴。
「あの方がお珍しい。なんだかんだ紫紺様と似て気難しくて、あまりお気に入りを作ることはありませんのに」
「そうなんだが、なにかしら気に入るところがあったのだろう。さすが波琉を射止めた人間だ。他にはない魅力というのがあるのかもしれん。私は千代子がいるのでどうでもよいが」
 千代子を中心に世界は回っていると考えるほどにラブラブな煌理と千代子夫婦。
 ごちそうさまとしか言いようがないノロケを聞かされ、瑞貴も苦笑するしかなかった。
 そんな瑞貴も、普段は波琉を始め誰彼かまわず妻への愛を語る愛妻家のくせにその反応だ。この場に他の者がいたら、ツッコミを入れていたに違いない。
「とりあえず、伝えることは伝えたからな。私は千代子を連れて帰るとしよう。またなにかあれば連絡してくれ」
「はい。お気遣いありがとうございます」
 瑞貴が感謝の言葉とともに頭を下げ、煌理が出ていこうとした時、なんとも陽気な声を発しながら男性が入ってきた。
「やあやあやあ! ()()君が来たよーん!」
 その場の空気をぶち壊すような軽快さと、吹きすさぶ嵐のような賑やかさ。
 煌理からは表情がなくなっている。
「早く帰っておくんだった……」
 後悔の言葉が静かに漏れるが、かろうじてそばにいた瑞貴に聞こえただけである。
 瑞貴もまた、追い出したい気持ちをぐっと耐え、一礼する。
「お久しぶりでございます、白銀(はくぎん)様」
『白銀の王』・志季。それが突然部屋に入ってきた男性の正体である。
 癖のある(にび)(いろ)の髪と銀色の目。筋肉質な煌理と比べれば、どちらかというと波琉のように細身の体格だ。
 しかし、きっちりと衣服を着る波琉とは違い、息苦しくなるからと着物風の服を着崩していて、やや胸元が開いている。チャラい彼の性格を表したかのような様相だ。
 事実、部屋の中までは入ってきていないものの、すぐ外には彼の恋人である女性たちが様子をうかがっている。
 どうやら今日は五人連れてきているようだ。
 これでもまだ彼の恋人すべてではないのだから驚きである。
 愛妻家の瑞貴には考えられないが、その理由を知っているために非難しようとは思えなかった。
「まったくもう、ひどいよひどいよぉぉ! 三人だけ人間界に行って、俺だけ留守番なんてさ! 行くなら俺も呼んでくれればいいじゃんか~!」
 志季はひとりだけ残されたことに憤慨していた。まるで子供が駄々をこねているようだ。
「馬鹿者。それでは天界に王がひとりもいなくなるだろうが!」
 煌理の一喝も、志季にはあまり効果がなさそう。唇を突き出して、子供のようにふてくされている。
「だいたいさぁ、王が三人も下界に行く必要があったわけ?」
「波琉の伴侶が殺されたのだ。それ以上の被害を出さないためにも、墜ち神への対処は必要だった。波琉の伴侶も、不安を抱えて龍花の町で暮らすことになるからな」
「いやさあ、そもそもその波琉の伴侶にそこまでお膳立てしてやる必要ってあるの? 花の契りまで交わしちゃってさ。相手、まだ子供なんだろう? 早計すぎない? もっと考えた方がいいよ」
 志季には波琉の伴侶への疑念が浮かんでいた。
 瑞貴が口を挟めないでいる一方、煌理の声は迷いのないものだった。
「波琉が選んだ相手だ」
 そのひと言に含まれる絶大なる信頼。
 瑞貴は部屋の外で待っている志季の恋人たちを見て、苦虫を()みつぶしたような顔をした。
 瑞貴は煌理のように断言できない。志季の恋人たちがどのような経緯で志季の恋人になったかを知っているからこそ。
 煌理が断言できるのは、千代子という人間の伴侶を今も愛しているからだ。波琉の伴侶を否定することは、己の伴侶を否定することになってしまう。
 けれど、瑞貴もミトを信じたい。これまで補佐である自分にすら見せたことのない表情を浮かべた波琉を目にしたから。
 あの波琉が誰かに対してあのように愛おしげな目を向けるなど、きっとこの先ないと思えるほどに、波琉はミトを大事に扱っていた。
 だが、一度もミトに会っていない上に、ミトとともにいる波琉を知らない志季は信用していない様子。
 これまでの波琉を知っていたら、それも仕方ないかもしれない。まさか波琉が本命に対してはあそこまで人が変わると誰が予想しただろうか。
 いや、ただひとり、天帝だけは知っていたのだろうか。だからこそ、堕ち神からミトを救った。
 天帝に尋ねられない瑞貴には分かりかねる疑問だが。
「波琉がだまされてる可能性だってあるんじゃないの?」
「それはない」
「それはないです」
 くしくも、煌理と瑞貴の答えがハモった。
 あの波琉が誰かにだまされるような素直な性格をしているはずがないのは、波琉を知る者なら理解している。
「むしろミト様がだまされている心配をすべきです」
「まったくだ」
 瑞貴の言葉に煌理が深く同意する。
「なんだよ。ふたりしてその女の味方なの? 分かった! だったら俺が直接行って確かめてこよう!」
「は? ふざけるなよ」
 志季の突然の思いつきに、煌理がドスのきいた声でにらむ。
「いいじゃん、いいじゃん。ずっと俺がひとりで天界回してたんだからさ、今度は煌理に任せた! ということで、皆行くよー」
「はーい」
「まあ、下界に行けるのですか?」
「久しぶりだわ。何百年ぶりでしょうか」
 きゃあきゃあと喜ぶ志季の恋人たち。
「紫紺様の伴侶様はどんな方でしょう?」
「先ほど千代子様にお会いした時にお聞きしたら、かわいらしい方だそうですわ」
「それはなおさら楽しみですね」
「こら、無駄口叩(たた)いてないで行くよー」
 盛り上がる恋人たちに若干不満そうにしながら、志季は彼女たちの肩を抱いて歩きだす。
「ちょ、待て! 志季!」
「待たないよー」
 煌理の言葉も聞かず、志季は恋人たちを連れてさっさと行ってしまった。
 残された瑞貴は額に手を当て、煌理はこめかみを押さえた。
「あの馬鹿がっ」
「やっと金赤様がお戻りになって天界も落ち着くかと思いましたのに、また王がひとりになってしまいましたね……」
 煌理の非難じみたつぶやきと、瑞貴のあきれ混じりの嘆き。
「白銀様の補佐たちと仕事の調整をしなければ……」
 そう言って、瑞貴は頭を痛める。
 実際、龍神は病気などしないので頭痛など感じるはずはないのだが、気持ちの問題である。
 肩を落とす瑞貴の肩を煌理がねぎらうように叩いた。
「できるだけ力になるから遠慮なく相談してこい。久遠を通してもかまわん」
「ありがとうございます。……他の王も、もう一ミリだけでも金赤様の真面目さを持っていらっしゃると助かるんですけどねぇ」
「それは天帝にも不可能だ」
「ですね」
 瑞貴は大きなため息をついた。
「それより、志季がミトに余計な真似をしなければいいが……。私の時にも千代子にちょっかいをかけてきていたからな」
「紫紺様がぶち切れて龍花の町が水没しないことを願うばかりです」
「その前に桂香が暴れるかもしれん。本当にミトを気に入っているようだったからな」
 その様子が容易に想像できた瑞貴は否定の言葉が出てこない。
「……無事を祈りましょう」
「そ、そうだな……」
 波琉はともかく、桂香を止めるのは至難の業である。
 ここは桂香に気に入られているというミトに頑張ってもらうほかないだろうと、瑞貴はひっそりとミトに託した。
「どうかお願いいたしますね、ミト様」
 勝手に託されたことなど知る由もないミトのところに嵐が舞い込むのは、もう間もなくだった。



 墜ち神の問題も片付き、一度死んでしまったこと以外は元通りの生活が戻ってきて、毎日喜びに浸るミト。
 これまでのように朝食は、波琉の屋敷の広大な庭にある両親の家で取っている。
 母親である志乃(しの)の隣で味噌(みそ)(しる)の味見をしているミトは、機嫌がよさそうだと誰でも分かるほど表情が明るい。
「ミト、味はどう?」
「うん、ちょうどいいよ」
「じゃあ、人数分運んでちょうだい」
「はーい」
 ミトは五つのお(わん)に味噌汁を入れ、お盆に乗せてテーブルに運んだ。
 こぼさないように、それぞれの座る席の前に置いていく。
 ひとつ増えた席にも(うれ)しそうに配膳すると、それを見ていた波琉はミトとは反対におもしろくなさそうな顔をしている。その原因が隣に座っているからだ。
「ふむふむ。今日はあおさの味噌汁か。嫌いではないのじゃ。褒めてつかわすぞ、ミト」
「ありがとうございます」
 そんな上から目線の物言いにも、ミトはニコニコしている。
 ミトと話をしているのは、まるでお人形のように整った幼い顔立ちをした、ミトより少し年下に見える少女。気が強そうな漆黒の瞳が印象的だ。
 艶やかで癖ひとつない真っ直ぐな黒く長い髪は、癖っ毛のミトには羨ましいかぎりである。
 しかし、そんなことを口にしたら、波琉はすぐに否定して『ミトの髪の方が僕は好きだよ』と恥ずかしげもなく言うのだから、ミトの方が羞恥心に()(もだ)えることになった。
 そしてそんな波琉を見た桂香は、『お前が本当にあの波琉なのか、わらわはいまだに疑うのじゃ。どこかで入れ替わっておらぬだろうな』と不審そうに、波琉にじとりとした目線を向けていた。
 天界でも感じていたが、どうやら天界での波琉はミトが知る波琉とは少し違うらしい。
 それがいいのか悪いのかミトでは判断できない。けれど、波琉はいつも通り優しいので問題はない。波琉は波琉なのだから。
 しかし、桂香が一緒にいるといつものミトが知る波琉とは少々様子が異なる。
「ねえ、どうして桂香がここにいるの?」
 朝から仲よくしているミトとその相手の様子に、見かねた波琉が不機嫌そうに問うのは、漆黒の王・桂香である。
 墜ち神の一件が終わったら煌理とともに天界へ帰ると、恐らく誰もが思っていた。
 しかし、せっかく久しぶりに人間界に来たのだからといって、桂香は堕ち神に対抗するために連れてきた他の龍神たちだけを帰し、自分はしばらく町に滞在することにしたようだ。
 そこまでは波琉も文句はなかったのだが、なぜかちゃっかり(ほし)()家の(いっ)()団欒(だんらん)に加わっているのである。
 最初からそうであったかのように違和感なく座る桂香の姿に、ミトは嬉しそうに、波琉は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。
「どうしてもなにも、朝食を食べようとしておるのが見えぬのか? 墜ち神との戦いで、人間のように老いが始まったのではないじゃろうな? (そう)()に言って眼鏡を作ってもらうといい」
 そんなことが起こりえるのかと、ぎょっとするミト。
「龍神様でも老いるんですか!?」
 だとしたら今後どうなるのか。波琉とともに生きる未来を決めたミトにとっては大問題である。
 しかし、即座に波琉が否定する。
「そんなわけないからね。心配しなくていいよ、ミト。桂香の冗談だから」
 途端にほっとするミトは、龍神の生態に詳しくはないのでそれが嘘か真か分からない。
 なのでそういう冗談は心臓に悪いからやめてほしいと思う。
 自分が死を経験したがゆえに、最近のミトは寿命や老いに対してかなり気にしていた。
 けれど、我が道を行く桂香はミトごときが言っても聞きやしないと、このわずかな期間で学習したため、特別なにか文句を投げつけたりはしなかった。
「食事にちゃっかり参加してるのもそうだけど、どうしていつまでも僕の屋敷に住んでるのかって聞いてるんだよ。君には別に君専用の屋敷がちゃんと用意されているでしょう?」
「わらわはここがいいからいるのじゃ」
 ぷいっと顔を背ける桂香は不機嫌な顔をしているも、整った顔立ちのせいでかわいらしさしかない。性格は苛烈と言われるほどまったくかわいらしくはないのだが、今のところそれほど強烈な一面がミトに向けられたことはなかった。
 できれば今後も向けられたくないと願うミトである。
「あら、桂香ちゃん専用の屋敷があるの?」
 他は皆、普通の茶碗(ちゃわん)だというのに、ひとつだけどんぶりに山盛りにしたごはんを桂香の前に置いた志乃が問う。
 小柄な桂香がそれほどの量のご飯を食べられるのか心配したものの、桂かはぺろりと平らげてしまうのだ。
 ミトもミトの両親もびっくりであるが、数日食事を一緒にしていたらさすがに慣れるというもの。
 それに、食事の量よりも志乃の桂香の呼び方の方が驚きである。
 志乃が恐れ多くも龍神を『ちゃん』付けで呼べるのは、龍神の恐ろしさをさほど分かっていない町外から来た無知さゆえの暴挙であろう。
 蒼真と尚之(なおゆき)の慌てようは見物だったが、ミトとて怒った桂香が母親になにかしないかとひやひやだった。
 もしも桂香がミトの家族に害を及ぼすなら波琉が止めてくれるだろうが、だからといって心配しないわけではない。
 しかし、周囲の心配をよそに、桂香は予想外にすんなりと『ちゃん』付けを受け入れていた。
むしろ、『わらわをそのように子供扱いした人間は初めてじゃ!』と大笑いしてかなりご機嫌だったぐらいだ。
 それからは、志乃も遠慮なく『桂香ちゃん』と呼んでいる。
 志乃が怒られなかったのは、波琉のことも志乃だけは『波琉君』と呼んでいるせいもあるかもしれない。
 志乃の恐れ知らずの行動に、神薙(かんなぎ)界隈(かいわい)ではかなりざわついたとか。
「うむ、基本的に龍神が町に降りてきた時は空いている屋敷を使うが、王だけはそれぞれに決まった屋敷が用意されているのじゃ。漆黒の王であるわらわにも当然、波琉と同格の屋敷が用意されておる」
「あらぁ、桂香ちゃんはすごいのねぇ」
 得意満面の桂香を賞賛する志乃に、桂香はご満悦の様子だ。
「ふふん、なにせわらわは漆黒の王であるからな。人間が特別扱いしたくなるのは当然なのじゃ」
 胸を張る桂香を苛烈と称したのはまったく誰なのか。今のところ苛烈の〝か〟の字にも遭遇していない。
 むしろかわいいところしか目にしておらず、できればこのまま遭遇せず一生を終えたい、というようなことを言っていたのは蒼真である。
 波琉の神薙をしている蒼真だが、桂香がこの屋敷で過ごしているために、必然的に桂香の世話もする必要があった。
 桂香は、他の神薙はお気に召さなかったらしい。
 どうも蒼真を気に入ったようで、なにかと呼びつけては執事のようにこき使っている。
 なお、もともとの桂香の神薙を務めるはずだった者たちは、蒼真の補佐という形でサポートしている。
 波琉だけでも気を遣うというのに、同じく王の桂香までとなると『ストレスで禿()げそう……』などと蒼真は嘆いていた。
 日に日にげっそりやつれていくように見えるのは気のせいであってほしい。
 最近は尚之と一緒になって、毎朝波琉にハリセンで叩いてもらうのが日課になっている。こういうものは早めに対処しておくのが必要不可欠なのだとか。
 だが、ハリセンで叩かれると毛根や肌のハリに効く理由はいまだに分かっていないらしく、桂香ですらさっぱり理由を解明できていない。
 同じ王である桂香がハリセンを使っても波琉のような効果は出なかったので、なおさら不思議そうにしていた。
 そんなストレスにさらされる日々の中で、早く自分の屋敷に行ってもらいたいと願っているのは波琉以上に蒼真のようで、それとなく自分の屋敷に行くように勧めるも、桂香は断固として(うなず)かない。
 蒼真に話を聞くと、どうやら桂香が龍花の町に降りたのは数百年ぶりだという。
 ミトにとっては途方もない時間だ。
 それなのに桂香の屋敷は()(れい)に保たれており、急に気が変わって移動してもすぐに使えるようになっているらしい。
 いつなんどきも最高の状態で受け入れられる体制を整えておくことも、神薙の仕事なのだとか。
 だからこそ早く出ていってくれという波琉と蒼真の願いは一致しているが、桂香が自分専用の屋敷に行く気配はなく、この波琉の屋敷を住まいとして食事もミトの両親の家で一緒に食べている。
 出ていくどころか居座る気満々のようで、自分にあてがわれた部屋を勝手にリフォームして、自分好みの家具などを搬入していた。
 堕ち神はもともと桂香の補佐だったため、決して桂香も無関係ではない。だとしても、その一件を手伝ってくれたという感謝を波琉は持っているので、出ていってほしいと思いつつも無理に追い出すつもりはないようだ。
 追い出されないと分かっているからこそ、桂香も好きなようにやっているのだろう。
 ミトとしては、桂香のその飾らないはっきりとした性格がとても好印象で、いてくれるのがとても嬉しかった。
 それに、生きてきた年齢は違えど、見た目年齢は近く、まるで同性の友人ができたような気になってさらに喜びは増している。
 そんなことも波琉が桂香を好きにさせている理由かもしれない。







 食事を終えて片付けると、ミトは常々気になっていたものを複雑な表情で持って蒼真のところへ向かった。
「はい、蒼真さん。お願いします」
「ああ、確かに受け取った」
 その〝ブツ〟を渡し終えた途端に肩の荷が下りて楽になった気がした。
 あからさまに(あん)()するミト。
「やっとほっとできます」
「だろうな。だが、自分の遺骨を見るなんて普通できる体験じゃねぇぞ~」
 からかうように口角を上げる蒼真を、ミトはじとっと見る。
 確かに、なかなかできる体験ではないが……。
「できれば一生したくなかったです……」
 天界から帰ってきて、火葬された自分とご対面など、なんとも言えぬ複雑な気持ちしか残らない。
 だって自分はここにいるのだ。
 それに、こんなに早く死んでしまうのも想定外。普通に年老いてから亡くなり、天界へ行くと思っていたのだから。
 龍花の町の歴史からしても、ミトはかなり異例だった。
 なにせ、花印を持っている者は肉体的にも強くできているのか、風邪や病気などをすることが滅多にない。
 なので、寿命以外で亡くなる例がほとんどないのだ。
 異例すぎて、蒼真を始めとした神薙たちも対応に困ったと聞く。
「まあ、これはこっちで処理しておくから安心しろ」
「はい。ありがとうございます」
 心から安堵したミトは、「そうだ」と付け加える。
「両親と出かけてきていいですか?」
「ああ、別にかまわんぞ。ちゃんと紫紺様の許可は取ってるんだろうな?」
 蒼真としては、ミトが希望しようと波琉が駄目だと言ったなら、優先するのは龍神である波琉の言葉だ。
 それが、龍神に仕える職を得た神薙の仕事である。
 花印を持った人間も大事だが、龍神の存在があってこそ意味をなす。
 龍神のために作られたこの町において、どちらの命令を聞くべきかは考えるまでもない。
「はい。墜ち神の件が片付くまでは自由に外を歩き回れなかったけど、学校にも復学してるし、もう大丈夫だって。普通に許可してくれましたよ」
「ならいいか。どこに行くんだ? 紫紺様が許可しても、護衛はちゃんとつけとかねえと行かせられないからな」
「スーパーです!」
 目をキラキラさせて告げると。
「スーパー……?」
 蒼真は、聞き違えかと疑うような表情をした。
 しかし、この距離で聞き違えるほど耳は遠くない。
「いや、普通もっとあんだろうが。なんで最初に行きたいのがスーパーなんだよ」
「どうしてですか? スーパーってすごいんですよ! お肉もお魚も野菜もお菓子も置いてるんです!」
「当たり前だ。それをスーパーって言うんだからな」
 ミトにとっては夢のような場所である。
 ジェットコースターよりも刺激的で興奮するところなのだが、蒼真にはいまいち通じていないようだ。
 ミトが興奮すればするほど、蒼真の表情が複雑なものへと変わっていく。
 ありふれたスーパーで、ここまで目を輝かせる女子高生も珍しいのだろう。
 とはいえ、花印を持つ者はこの龍花の町では優遇されているため、スーパーといった庶民的な場所での買い物は他人に任せている者が多い。
 なので、花印を持つミトが人の多く集まるところへ行くと、ミトのアザを見た周囲の人の視線が痛く感じたりもするのだが、それでもスーパーの魅力の前では()(まつ)なことであった。
「駄目ですか?」
 蒼真の反応から、ミトはもっと別の場所がいいのだろうかと思ったが、閉鎖された村で過ごしてきたミトにとっては、スーパーですら行きたくても行けない特別な場所なのだ。
 目に見えてしょんぼりしていくミトに、蒼真はやれやれという様子。
「別に駄目とは言ってねえよ。行くなら準備してこい。こっちも護衛の準備をしておくから。出発は一時間後でいいか?」
「はい!」
 ぱあっと表情を明るくして返事をするミトは、急いで両親の家に向かった。

「お父さん、お母さん、蒼真さんからオッケー出たよ!」
「よかったなぁ、ミト」
 父親の昌宏(まさひろ)が微笑む。
「じゃあ、準備するか」
「うん」
 ミトと昌宏はいそいそと準備を始めようとすると……。
 志乃が急に涙ぐみ、ミトと昌宏がぎょっとする。
「お、お母さん!?」
「志乃!? どうしたんだ!?」
「どこか具合悪いの!?」
 おろおろするミトと昌宏を前に、志乃は涙がこぼれる前に目元を拭った。
「いいえ、違うのよ、ごめんなさい。またミトとスーパーに行けることが嬉しくてね。もう無理なんだと思っていたから……」
「お母さん……」
 志乃は涙をごまかすように「ふふっ」と笑ったが、ミトは笑えない。それだけミトの〝死〟は、両親に衝撃と悲しみを与えたのだと今さらに思い知らされた。
 志乃の気持ちも考えず無邪気にはしゃいでしまい反省する。
 ミトは志乃にぎゅっと抱きついた。
「ごめんね、お母さん……」
 ミトのせいではないとはいえ、親より先に死んでしまった。
 戻って来られたのは本当にタイミングと運がよかっただけ。
 そのどちらかが欠けていても、ミトは二度と両親に会うことは叶わなかっただろう。
 なんて自分は親不孝者なのか……。
 自分が生まれて以降、苦労してきた両親の心のうちを考えると、ミトは胸の奥がひどく痛くなる。
 怒られても仕方ないのに、志乃はどこまでも優しかった。
「どうして謝るの。ミトが悪いわけではないでしょう? それにこうして帰ってきてくれた。それで十分なの」
 志乃の温かな手がミトの背を()でる。
 労わるようなその手つきにミトも涙があふれそうになったが、瞼をぐっと閉じて抑え込む。泣けば余計に気を遣わせてしまうだろうから。
「これからはもう悲しませたりしないからね」
 それは両親へ向けたのと同時に、自分自身への決意の言葉でもあった。
 これからは自分が両親にできることをして、幸せを返していく番だと。
 と、そこへ割り込んでくる昌宏の声。
「いいや! ミトが花嫁衣装を着ているのを想像しただけで俺は十分に悲しいぞぉぉ!」
 それまでのしんみりした空気を吹き飛ばす昌宏の絶叫に、ミトと志乃はあきれた目を昌宏に向ける。
「だが、バージンロードは一緒に歩きたいぃぃ! 俺はどうすればいいんだ!」
 頭を抱える昌宏があえて空気を変えるために突然そんなことを言いだしたのかは分からないが、本気の叫びなのは間違いない。
「お母さん、私、結婚式するなら和風の式にしようかな? 洋風の式にして隣でギャン泣きされながら入場したら、結婚式が台なしになりそう……」
 新婦以上に泣き叫ぶ父を伴うなど、周囲にどう見られているか気になる上、主役であるミトよりも注目されてしまう。出席者も困るだろう。
「お母さんもそう思うわ」
 ミトと志乃の意見が一致した瞬間である。
「えっ、それは嫌だ! ミトと腕を組んで歩くのが俺の夢なんだぞ」
「我儘ねぇ。どっちなのよ、まったく……」
 志乃はあきれている。
「父親の心は繊細で複雑なんだよー」
「はいはい、分かったから早く準備してきたら?」
「志乃が冷たい!」
 昌宏は嘆きながら、外出の準備をしにリビングを出ていった。
「そういえば、波琉君も一緒にお出かけするのかしら?」
「久しぶりのお出かけだから、せっかくだし家族水入らず行っておいでって。それで波琉は留守番するみたい」
「あら、そうなの。じゃあ、今度の時は一緒に行きましょうね」
「うん」
 別に気にしなくてもいいのに、とミトは思う。
 ミトの両親も今さら波琉に気を遣ってもらいたいとは考えていない。もうミト家族にとっても、波琉は家族の一員なのだから。

 そうして家族でスーパーに向かい、たくさん買い物をして満足なミト。
 新作のお菓子もいろいろと出ていたので大量に買い込んでしまった。
 次から次にカゴへ商品を入れるミトを見て蒼真があきれたようにしていたが、久しぶりなのだから今回は目をつぶってもらいたい。
「そんなに食ったら太るぞ」
「蒼真さん、デリカシーがないって言われませんか?」
 ミトはじとっとした目を蒼真に向けてから、すぐに普通の表情に戻る。
「そりゃまあ、確かにそこは気になるところではあるんですけど、波琉によると天帝からもらった肉体は生前のもっともいい状態を維持するらしいので、どんなに飲んで食べても太ったり痩せたりはしないらしいんですよねぇ」
 つまりどんなに暴飲暴食しようとも太らないという奇跡の肉体を得たのである。
「それはそれで困るんじゃないのか?」
「そうですね」
 確かに、痩せたいという人もいれば、筋肉をつけたり肉付きをよくしたいと後々になって肉体改造を望む人もいるだろう。
「あきらめるしかないみたいです」
 ミトも今の年齢で肉体の状態が決まってしまったので、これ以上年を取ることもない。
 永遠に今の姿のままというのは悲しくもあり、寂しくもある。
 ミトとしては波琉に見合うように、もう少し年齢を重ねてから時間を止めてほしかったというのが本音だが、今さらどうこう言っても仕方がない。
「もういいか? 帰るぞ?」
「はい!」
 蒼真の問いかけにミトは元気よく返事をする。
 車が来るのを待っていると、ミトははっと目を見張る。
(よし)()さん……」
 道路の向こう側の歩道を歩いている吉田美羽(みう)が目に入った。
 やや大人しい印象はそのままに、その表情はどことなく元気がないように見える。
 彼女とは、墜ち神に殺される直前に会って以降、姿を見ていない。
 無事に復学を果たしたミトが登校してみると、特別科の教室に美羽はおらず、どんな顔をして会えばいいか悩んでいたミトは肩透かしを食らった。
 その日だけたまたま休みなのかと思いきや、お世話係の()(とせ)いわく、ずっと休んでいるようだ。
 理由を聞いても知らないというのは、周囲への関心がやや低い千歳らしい。
 休み続けていることが少々気になったものの、正直なところ墜ち神の一件の方が印象に強く残っており、美羽の存在はいつの間にかすっかり忘れていた。
 なので、なぜ学校に来ていなかったのか、その後彼女がどうなったか、千歳以外の誰にも聞いていないため知らない。
 学校に来られないようななにかがあったのだろうか。
 登校していないのは美羽に限らず、()(つき)とありすも同じだった。まあ、ふたりが休んでいるのは前からなので、今さらではあるが。
 ただ、美羽に関しては、墜ち神に殺される最後の要因のひとつともなった相手である。彼女を見つけたからといって気安く挨拶をする気にはならないというのが正直な気持ちだ。
 ミトの心には複雑な感情しか浮かんでこなかった。
 たらればを語ったところで変わるわけではないにしろ、あの日あの場で美羽が掴みかかってこなければ、波琉のおまじないは効力を維持したまま堕ち神からミトを守り、ミトの今の状況はかなり変わっていただろう。
 小さなしこりはどうしても残ってしまう。
なにもなかったように話ができるはずがない。
 それにしても、花印を持っている者がふらふらと歩いている状況には違和感があった。
 ミトがじっと一方を見ているのに気がついたのだろう。蒼真もまた美羽の存在を発見する。
「吉田美羽か……」
「ああん? あれが?」
 蒼真のつぶやきに昌宏が激しく反応を示す。どこぞのヤンキーかという顔で美羽を見やる。志乃も苦い顔をしていた。
 ふたりは直接会ったことはなくとも、最後に会っていたのが彼女だと聞いていたのかもしれない。
 反応を見るに、死の直前にあったミトと美羽の最後の状況も聞いていそうである。
 しかし、ミトの死の直接的な原因は堕ち神であり、美羽が死を願い動いたというわけではないので、昌宏の怒りの矛先が向くのは少々理不尽だ。
 ミトが死んだあの日、彼女は自身が拒絶した同じ花印を持つ龍神と渡りをつけてほしいとミトにお願いしただけに過ぎない。
 美羽はミトが断ったため、感情的になって(つか)みかかってきた。
 それにより波琉のおまじないが作用したが、故意に怪我をさせようとしたわけではなかったとミトは考えている。
 だからといって、ミトが自分に都合のいい考え方をする彼女へ、不快感を持っているのは間違いないのだが……。
「蒼真さん。吉田さんは今どうしてるんですか? 学校にも来てないみたいだし、どこか体調でも悪いんですか?」
 堕ち神がなにかした可能性に今さらながら気がついて、美羽の身を案じるミト。
「いや、体調は問題ない。むしろ元気だろ。問題があるとするならあいつの家庭環境だろうな。はっきり言うと、あいつの現状はあんまりよくないからなぁ。いや、本人からしたら最悪かもしれない」
「花印を持っていても?」
 この龍花の町では、龍神が迎えに来る・来ないにかかわらず、花印を持つ者は大切にされる。それは生きている限り有効だそう。
 美羽や皐月のように伴侶になる可能性が限りなく低くとも、万が一龍神の気が変わって迎えに来ないとも限らない。
だから、下手な扱いはできないのだ。
 そんな絶対的な権力の証である花印を持つ美羽が、蒼真から『よくない』と言われるほどの状況というのが驚きだった。
「持っているからこそだな。同じ花印を持つ龍神を一時の感情で拒否したこと。それにより、龍神が迎えに来る可能性は期待できなくなったこと。一番問題視されたのは、お前に――紫紺様の伴侶に手を出したことだ」
「なるほど」
 ミトは納得する。
 自分が特別な人間だとは思っていないが、紫紺の王は特別だ。人間にとっても、龍神にとっても。
 龍神のために作られたこの町で、龍神の王の逆鱗(げきりん)に触れたのだ。
 それがどれだけ大きな罪かは、まだ龍花の町に来て長くはないミトでもある程度理解できる。
「あいつが一度拒否した龍神に未練たらたらなのも、周りのひんしゅくを買っている理由のひとつだ。お前が死んでもなお、千歳に紫紺様とつなぎを取ってくれって無茶ぶり要求する感じだったから、紫紺様がキレてしばらく天候が大荒れでな。このままじゃやばいと、神薙本部から家族を交えた上で警告がされたんだよ」
「警告ってどんなですか?」
「優しく言うと、大人しくしてろって感じだ。実際は神薙の上層部がかなり強く叱責したらしい。(ちょう)よ花よと大切にされる花印を持つ人間が、神薙からそんな扱いを受けるなんて異例だぞ」
 それだけ神薙達も、波琉の怒りが周囲に及ぼす影響が怖かったということなのだろう。
 唯一波琉を止められるミトは死んでしまったので、人間にできるのはただ怒りが鎮まるのを待つことしかできないのだ。
「家族の方にも、ちゃんと見張っていろと警告されたからな。慌てた両親がこれまで甘やかしていたのを一転させて厳しくし始め、それが気に食わない吉田美羽が暴れるなんていう状態で、あいつの家庭内は荒れているそうだ」
 蒼真はふんっと鼻を鳴らす。
「娘も娘だが、花印ってことで甘やかされてきた人間が、急に周りの対応が変わって気持ちが追いつけないのはなんとなく分かる。これまで花印の家族として恩恵を受けていたのに手のひら返しの家族には、正直反吐(へど)が出るな。娘といっても簡単に切り捨てられる存在だと言っているようなものだ。誰のおかげで優遇されてきたと思ってるんだか。まあ、町ぐるみで甘やかしているのが一番悪いのは当然なんだが、どこぞの親を見ていると、どうしても比べちまう」
 蒼真はチラッと昌宏を見る。
 昌宏は怒り冷めやらぬ表情で向こう側を歩く美羽をにらみつけていた。
「志乃、ちょっと文句言うぐらいよくないか?」
「気持ちは分かるけど、今はミトとの時間の方が大事よ」
「うぐぐ……」
 今にも走っていきそうな顔で歯ぎしりする昌宏の肩を、志乃がしっかりと掴んでいる。
 蒼真は機嫌がよさそうに口角を上げて、ぐしゃぐしゃとミトの頭を撫でた。
「お前の親は、なにかあったとしてもお前をあっさり切り捨てるような心配はなさそうでなによりだなぁ。お前のために紫紺様に殴りかかるんだからよ。こっちの方が冷や冷やしたぐらいだ」
「ご迷惑おかけしました」
 ミトは謝罪を口にしつつも、申し訳なさとは真逆の柔らかな表情で、とても嬉しそうに微笑む。
 蒼真の愚痴のような苦言は、ミトのことを考えてくれているからだ。
 両親だけではない、たくさんの人の愛情が伝わってきて心が温かくなった。
「……吉田さんは今後どうするんでしょうか?」
 龍神を敵に回した人間が住むには、ここは住みにくいはずだ。
「神薙たちは紫紺様があいつら家族を龍花の町から追放するんじゃないかって思ってたんだよ。龍花の町で龍神に仕えていた星奈の一族みたいにな。だが、紫紺様は特になにも指示なされなかったから、このまま町で暮らしていく。それならば花印を持っている以上はこの町での生活が保障されているわけだし、生きていくのには困らねえだろ」
「でも、居心地は悪くなりそうですね」
「それはお前が気にしてやる問題じゃねぇ。それも含めて紫紺様が与えられた罰とも言えるしな」
「そうですか……」
 ミトにできることはないし、彼女のためにひと肌脱ごうというほど親しい間柄でもない。
 これが千歳だったならなんとしても助けようと奔走するが、ミトはただ傍観者のひとりであることを選んだ。
 しかし、それを許さないかのように美羽がこちらを向いた。ミトの存在に気がついて、目を大きくしている。
 その瞬間、蒼真が舌打ちした。まったくもってガラが悪い。こんな人が神に仕えて許されるのかと疑うレベルだ。
「あー、めんどくせぇ」
 どこのごろつきかという声色に、蒼真には悪いがミトは小さな笑いが出た。
「笑ってんなよ」
「すみません」
 ひとにらみされるが、蒼真という人を知っていればまったく怖くはなかった。
 横断歩道もない車道を、車が通るのも気にせずに横切って向かってくる。車が急ブレーキを踏んで止まっていてもおかまいなしだ。
 ミトしか見えていないその表情に浮かんでいたのは、怒り。
 なぜそんな鬼の形相で向かってくるのか、責めるような目で見てくるのか、ミトには理解不能だった。
どちらかというと、ミトの方が怒鳴り込みに行く側ではないのか。
 一直線にミトの前にやってくるが、危険から守らんがためにさっと蒼真がミトの前に立つ。
 護衛の人たちも警戒して、一気にぴりっとした空気が流れる。
 ミトも、自分になにかあれば周囲への影響がとんでもない事態になると理解できるほどには成長した。
 もしも怪我のひとつでもついたら、怒られるのは蒼真や護衛の人たちだ。
 もちろん怒るのは波琉だが、今はそこに桂香が加わるような気がする。
 なので、お世話になっている周囲の人のためにも、ミトは蒼真に隠れるようにして顔だけ(のぞ)かせる。
 それでも美羽の目はミトだけを映しており、憎しみすら感じるほどの鋭い目を向けられ、ミトはやはり不思議でしかない。
「なによ、生きてるじゃない! 死んだなんて嘘だったのね!? それなのに私はあんなに怒られてっ。あなたのせいで家はめちゃくちゃよ」
 来るなり早々、文句の嵐。
 にらみつけたまま、美羽の口は止まらない。
「私だって龍神が迎えに来ていたの。それなのに少しのすれ違いでチャンスを掴めなかっただけで、皆、私への態度をあっさり変えたのよ。あれだけ私のお願いはなんでも聞いてくれていた両親まで急に厳しくなるし、妹まで馬鹿にしてくるんだから!」
 ミトが美羽の妹と会ったのは片手で数えるほどだが、姉の美羽をあまりよく思っているようではなかったのは覚えている。
 なにせ態度があからさまだったので、言われずとも察せられた。
 美羽が花印を持っていることでこれまで両親から二の次にされてきたようで、美羽に激しい嫉妬心を抱いているようであった。
 きっと格好のネタができたと、ここぞとばかりに美羽を責め立てているのが容易に想像できた。
 けれどそれをミトに言われてもどうしようもない。
 それなのに、美羽はさらに続ける。
「あなたのせいで家の空気は最悪なの! どうにかしてよ! こんなことになった責任を取って!」
 なぜ自分がと、ミトはあきれて言葉も出ない。
 それは両親や護衛の人たちも同じようだ。
 ミト側の人間は、『なに言ってんだ、こいつ?』という顔を全員がしていた。
 ただひとり、蒼真だけは違う。
「ああ!? てめぇ、()めたこと言ってんじゃねぇぞ!」
 地を()うようなドスの利いた声を発する蒼真は、言葉にはできぬ恐ろしい顔をしていた。
 これにはミトも護衛の人たちも顔を引きつらせる。ドン引きであった。
 そんな蒼真に正面から向かい立つ美羽は大丈夫だろうかと思ったら、やはり顔色を悪くし、先ほどまでの勢いはなりを潜めている。
「お前の家がどうなろうがこっちはどうでもいいんだよ。自業自得だ」
 決して怒鳴っているわけではないのに、背筋に冷たいものが流れるほどの威圧感。
「ものを知らねぇ小さな子供なら仕方ねぇが、成人も近い年齢だろ。自分の行動には責任を持てよ。でないと今後後悔するぞ」
 蒼真の迫力に(ひる)みつつも、美羽は言い返した。
「か、神薙のくせに、花印を持った私にそんな暴言吐いていいの!?」
 最初こそ大人しい印象だった彼女の怒鳴り散らす今の様子を見て、大人しいと評するのは難しい。
 物心つく前から龍花の町で育ったので仕方がないかもしれないが、彼女からは神薙を見下しているのが透けて見える。
 龍神の次に立場が上になる、花印を得た者が持つ傲慢さ。
 けれど、今や彼女に花印を持っているとか相手が神薙だとかは意味がない。
 すでに、怒らせてはならない存在を怒らせてしまっているのだから。
 そう、紫紺の王を。
「調子に乗んなよ。もう、お前が花印を持っていようが下手に出る必要はねぇんだからな。これ以上騒ぐなら紫紺様にチクんぞ」
「あ、そこは波琉に頼るんですね……」
 思わずこぼれたミトのつぶやきと同意見だったのは、ひとりやふたりではないだろう。
 中には『チクるんかーい!』とツッコミを入れたそうな顔をしつつ、賢明にも口を閉ざしている護衛たちがいる。
「波琉君が知ったらぶち切れそうよね」
 ふふふっと志乃がのほほんと笑っているが、内容はとんでもない。
 聞く者が聞く者なら、その場で卒倒しかねない破壊力のある言葉だ。
 昌宏などは「すでに俺はぶち切れてるがな……」と、じっとりと獲物を狙うハンターのような目つきで美羽をにらみつけていた。
「さあ、どうすんだ? 紫紺様に出張ってもらうか?」
 少々ずるい気もするが、花印を持つ者には龍神が相手をするのが手っ取り早い。
 そして、ミトに(けん)()を売ってきたと言えば、確実に波琉を引っ張り出せる確信が蒼真にあるからこその言葉だ。
 波琉の存在をちらつかされて怖じ気づいたのか、美羽は悔しそうに顔を(ゆが)めると、逃げるように走っていった。
 結局自分への謝罪の言葉はひと言も出てはこなかったなと、ミトは走り去る美羽の背を見ながら思う。
 まあ、ミトも今さら謝られてもなにか変わるわけではないため、逆に困ってしまうので構わないが、美羽の少しも自分の非を感じていない様子が、ミトには少しモヤモヤとした気持ちを残していく。
 またもや周囲を気にせず走っていく美羽は、自分のことで手いっぱいの様子なので仕方ないのかもしれない。
 それを悪役のようなガラの悪い顔で見送る蒼真は、けけけっと笑った。
 まさに悪魔の笑いだ。
「逃げんなら最初っから喧嘩売ってくるんじゃねぇよ。おとといきやがれ」
「蒼真さん……。なんか、助けてもらったのに感謝の気持ちが浮かんでこないんですけど……」
「なんでだよ!」
 どっちが悪か分からないからだろうとは、誰も口にしなかった。

 帰りの車の中で、ミトは皐月について問う。
「蒼真さん、皐月さんはどうしているんですか?」
 美羽と同じく学校に姿を見せていない皐月のことは、これまで頭の片隅に追いやられていたが、美羽の登場で気になった。
「あー。まあ、生きてはいる」
 不穏な言葉にミトはぎょっとする。
 蒼真はあまり話したくなさそうにしているから、なおさら不安が(あお)られる。
「なんですか、それ。めちゃくちゃ怖いんですけど」
「元気いっぱいってわけではないからな。久遠様に捨てられたことをまだ切り替えられていないんだ。まあ、当然っちゃ当然だ。久遠様があいつを迎えに来たのはまだ小学生の頃だ。それからずっと久遠様がいる生活が当たり前で生きてきたのに、おそらく一生久遠様に会うのは(かな)わないんだからな」
「そんな前から一緒だったんですね」
 ミトも物心つく前から夢で波琉と会っていたので、その当たり前が急に消えてしまう喪失感を想像するだけで胸が痛む。
 原因が皐月の傲慢さゆえだったとしてもだ。
 もし自分だったなら、きっと立ち直れる自信がない。
 そう考えると、皐月はもう学校には来ないのではないかと思った。
「久遠様のいない生活に慣れるのには時間がいるだろうさ。だが、それはお前が気にする問題じゃない。お前はお前のことだけを考えていればいいんだよ」
 突き放すように感じるが、それはミトを心配しての言葉だ。
「はい……」
 堕ち神に利用されてしまった皐月。
 どうして堕ち神が皐月を利用しようとしたかまでは不明のまま、堕ち神は封印されてしまったので、理由を知るすべはないだろう。
 久遠もいなくなり、皐月を支える者がいるのかも不明だ。
 気になったものの、ミト自身に力や決定権はないので、これ以上口を出してもなにができるわけでもない。
 皐月の気持ちが分かるからといって、相談相手にすらなれない。
 波琉に大切にされているミトがそんなことをしたところで、逆に皐月の感情を逆撫でするだけである。
 ミトはもう考えないようにしようと、皐月に関する問題を心にしまい込んだ。






 スーパーから戻り、ミトは帰宅を教えるために寄り道せずに波琉の部屋へと向かう。
 蒼真はというと、帰ってくるや桂香が滞在することで増員された神薙からなにかを耳打ちされ、「まじか!」と驚きの声をあげ、慌てて屋敷の中に消えていってしまった。
 なにかあったのかミトが問いかける暇もなかった。
 長い廊下を歩いていると、お腹を仰向けにした無防備すぎる姿でひなたぼっこをしている白い犬のシロを発見。
 そばには黒猫のクロとスズメのチコの姿もある。
 その二匹と一羽は、今や波琉の眷属(けんぞく)となり、ただの動物ではなくなった。
 寿命も普通の生き物とは別の道を歩むことになり、いずれミトが天界へと行く時には一緒に来てくれるという。
 本当にそれでいいのか心配だった。
 ちゃんと意味を理解しているのかという意味でも。
 特にシロだ。その時の感情で行動を決めている性格のシロが、本当に深く考え意味を理解して蹴っていたとどうしても思えない。
 だがまあ、シロの保護者であるクロも同じく波琉の眷属となったので、クロはちゃんとシロのことも考えた上で判断しただろうと、そこは信頼している。
 とはいえ、普通の生き物としての生き方から外れるのだから、ミトは幾度も確認してみた。
 一度眷属となっても解消できるのかミトは分からなかったので、波琉と桂香に可能だと確認済みで。
 今ならまだ仲間も生きている。
 これまでと変わりなく生きていける。
 それでもシロたちの意見は変わることなく、ミトのそばにいてくれるそうだ。
 波琉の正式な伴侶となり、墜ち神によって人間の肉体を失った今のミトの肉体は、天界で天帝に与えられたもの。
 老いなくなった体は、もう人の枠を外れた存在だ。
 両親や友人・知人が皆、年老いて亡くなっても、ミトは今の姿のまま変わらず生きていく宿命を負う。
 それを選んだのは他ならぬミト自身。
 後悔はないが、いずれ来る親しい人たちとの別れを考えるだけでつらく、涙があふれそうになるのを耐えるのが大変だ。
 だからこそ、見送るだけのミトには、見送らずに済むシロ、クロ、チコの存在はとても大きく心強かった。
『星奈の村』で過ごしていた時のミトを知る貴重な友人でもあるので、余計にそう感じるのかもしれない。
『ミト、おかえりー』
 いち早くミトに気がついたシロが起き上がり、嬉しそうに尻尾を振る。
そうすればクロがトコトコ歩いてきて足に体を擦りつけ、チコは飛んでミトの肩に止まった。
 ミトがしゃがみ込んでクロの頭を撫でると、もふもふとした柔らかな毛が癒しを与えてくれる。
 この二匹と一羽は、今や家族と変わりないほどミトの心の大事な部分を埋めていた。
『ねえねえ、なんだか新しい龍神が来たみたいなんだけど、ミトは聞いてる?』
 チコの問いかけにミトは首をかしげた。
「新しい龍神? ううん、波琉からはなにも聞いてないけど?」
 桂香からも同じくだ。
「あ、でも、さっき蒼真さんが慌てて中に入っていたから、きっとそのせいかな?」
 龍神が来たとなれば、神薙である蒼真が慌てるのは仕方ない。
 きっと蒼真も聞いていなかったのだろう。知っていたらミトにも教えてくれているはずだから。
「波琉の部屋にいるの?」
『そうみたいよ』
「行っても大丈夫かな?」
『ミトなら問題ないわよ』
 あっけらかんと言うクロに、チコも肩でぴょんぴょん跳んで同意する。
『そうそう。波琉がミトを邪険に思うなんてあり得ないんだし、部屋には漆黒の王もいるからなおさらよ』
 波琉と桂香がミトを叱るはずがないと分かっているからこその発言だろう。
 波琉はまだしも、桂香もミトを気に入っていることを本人以上に理解しているクロたちだった。
 はた目にはチュンチュンとしか聞こえていない光景も、この屋敷では特に違和感なく受け入れられている。
 ミト以上に恐ろしい力を持つ龍神の前では、動物と会話できるミトの能力は微々たるものに映るのだろう。
 ミトは桂香もいると聞いて、少し驚く。
「桂香様もいるんだ」
 新しく龍花の町に降りたのなら、挨拶に来たと思われる。しかし、そんな些末なことにいちいち付き合う桂香ではない。
 桂香ならば、面倒だという理由で、龍神ですら追い返しそうである。
「ちょっと行ってみるね」
『いってらっしゃーい』
『気をつけてね』
『波琉から離れちゃ駄目よ』
 無邪気なシロと違いクロとチコのまるで保護者のような言葉には、ミトも苦笑を禁じ得ない。
 ミトの方が長く生きているのに、どうもクロとチコの方がしっかりしている気がする。
 クロとチコは庇護(ひご)すべき対象としてミトを見ているのがよく分かった。
「そんな頼りないかなぁ……」
 クロたちと別れてミトはひとりごちる。
 それはさておき、新しく来た龍神とはどんな神様なのだろうかと興味で頭がいっぱいになった。
 きっと、波琉や桂香に負けない美しい容姿を持った者に違いない。
 ミトがこれまで姿を見た他の龍神は、例外なく綺麗な容姿を持った者ばかりだったのだから。
 少し緊張しながらミトは部屋の前に来て声をかける。
「波琉、入っていい?」
 すぐに了承の言葉があると思って扉に手をかけていたが、返ってきたのはミトには予想外の真逆の言葉。
「今は駄目だから、ミトは両親の家に行っていて」
「え? でも新しい龍神様が来てるならご挨拶を……」
「こんなのに必要ないから、ミトは――」
 珍しく焦りをにじませているように感じた波琉が言い終わる前に、目の前の扉が勢いよく開いた。
 そこには、波琉にも負けず劣らずの綺麗な顔立ちの青年が立っていた。
 ひと目で龍神だと分かる、圧倒的な存在感。
 驚きのあまり目を丸くするミトに、青年はじろじろと検分するような眼差しを向けてくる。決して気持ちのいい視線とは言えなかった。
「あの……」
 すると、一転して青年はにっこりと人のいい笑みを浮かべた。
「君がミトちゃん?」
「は、はい……」
 青年は戸惑うミトの手を取り、強いほどぎゅっと握って、そのまま上下に振った。
「やあやあ、初めましてだねぇ。俺は志季君だよー。気安く志季君って呼んでねぇ」
「は、はぁ……」
 どんな返し方が正解か分からずに、気のない返事になってしまった。
 ミトは助けを求めるように青年の後ろ側、つまり部屋の中に目を向けると、嫌悪感を隠そうともしない険しい顔の波琉と桂香の姿が目に入った。
 さらに、ふたり以外にたくさんの女性が座っており、女性たちは興味津々にミトを見ている。
 志季のようなぶしつけな眼差しではなく、キラキラと目を輝かせた好意的なものではあった。
「あの方が紫紺様の伴侶の方なのね」
「きゃあ、かわいらしい!」
「着物を見繕って愛でたいわね」
「でも、今の時代は着物よりも洋服の方が主流のようよ。どうしましょう?」
 決して大きな声ではなかったが、なにやら盛り上がっている女性たち。
「あの……」
 いつまでも握ったままの手に困惑するミトが、離してほしいと訴えるように手に目を向ける。
「ああ、俺が誰かって? いい質問だね!」
 まだなにも聞いていないというのに。ぐっと親指を立てる志季のテンションの高さに、ミトはついていけていない。
「俺は白銀の王、志季君だよん」
「えっ!」
 ミトは驚いて思わず声が出た。
「それでもって、他の子たちは俺の愛する恋人たちさ~」
 オーバーな動きで手を広げて部屋の中にミトを招き入れる。
 先ほどから気になっていた女性たちは、ニコニコとした笑みを浮かべながら品よく手を振ってくる。
 同じく手を振り返すか迷うよりも、その恋人の多さが頭の中を占める。
「え、全員ですか?」
「もちろん!」
 そんな人畜無害そうに明るく言う内容ではない。
 ミトの価値観では、恋人とは普通ひとり。
 しかし、部屋にいる女性は七人ほどいた。
 皆その立場に不満はないのか、ほわんとした柔らかな笑みを浮かべている。
 ミトだったら絶対にそんな顔はできそうもない。
「龍神はハーレムを作るのが普通なんですか……?」
「そうだよー」
 ひどく衝撃を受ける。それはつまり……。
「波琉もハーレムを作ったり――」
「しないから!」
 ミトが盛大な勘違いを起こしそうなところで、波琉の大きな否定の声が部屋に響いた。
 そして、桂香が志季に向かって、その場に用意されていたお(まん)(じゅう)をひとつ掴んで投げつけた。
 それを手でキャッチするのではなく口で受け止めた志季を、桂香が強く叱りつける。
「たわけ者! ミトが天界について無知なのをいいことに、嘘を教えるのではないのじゃ!」
「嘘なんだ」
 ミトは心からほっとする。
「ミト、そんなのの近くにいたら危ないからこっちにおいで」
 波琉が手招きをしてミトを呼び寄せる。
 にっこりと邪気のない笑みが余計に不機嫌さを訴えているように感じる。
「う、うん」
「わらわとの間に座るのじゃ」
 桂香にも促されて、まるで波琉と桂香に守られるようにしてふたりの間に座る。
 おそらくこの世界でどこよりも安全な、龍神の王ふたりの間。
 そして、波琉はそれとなくミトの腰に手を回してから、なんとも冷ややかな目を志季に向けた。
「志季、なにしに来たの?」
「とっとと帰るのじゃ!」
 桂香までもが敵意をむき出しだ。
 金赤の王・煌理とは不仲に思えなかったが、志季とはあまり仲がよくないのかとミトは心配しながら黙って成り行きを見守っていた。
「つれないなぁ、ふたりとも。だって、ずるいじゃないか。他の王は全員人間界に降りたのに、俺だけ残されるなんてさー。後に続こうとしたけど、補佐たちに椅子に縛りつけられて止められちゃったんだよ。ひどいと思わない?」
「まったく」
「そのまま千年ぐらい縛られておけばよいのではないか? 今度わらわが、特別製の縄をお前の補佐に渡しておいてやるのじゃ」
「ひどい!」
 煌理とは違い、志季に対するふたりの冷たさとはいったい……。
 下手に口出しできる雰囲気ではなかったので、ミトは静かに様子をうかがう。
「お前まで来てしまって、天界はどうするつもりじゃ!」
「隙を突いて逃げ出して水宮殿に行ったら、ちょうど煌理が帰ってきていてね。それなら天界は煌理がいれば大丈夫だなって任せて降りてきたんだよー」
「お前のことじゃ。任せたというより、押しつけてきたのじゃろ」
 じとっとした目を向ける桂香から目を逸らした志季の様子を見るに、正解といったところかとミトは判断する。
「帰れ!」
 くわっと目を剥き怒鳴る桂香は、聞いていた通りの、苛烈と呼ばれるにふさわしい厳しさがあった。
 それに対して志季は……。
「やだやだやだ~。俺だって遊びたいもん。恋人たちとたまには人間界で過ごすのも悪くないしぃ」
 と、まるで駄々っ子のようだ。
 あきれたように息をつく桂香はこめかみを押さえた。
 外見はミトより年下なのに、今の桂香は反抗期を迎えた息子を持つ母親のように見える。
「この子たちにとっても、久しぶりの里帰りをさせてあげたかったしね」
「里帰りさせたいだけなら、その子たちだけおいて帰ればいいんじゃない?」
 珍しく冷たい波琉に驚くミトだが、波琉は怒っているというよりは不機嫌という表現が正しいように思えた。
「駄目駄目。僕がいなくてどうすんのさ。この子たちが寂しがるだろう? ねえ、皆?」
 志季に話を振られ、ニコニコと微笑みながら頷く七人の女性たち。
 そこでミトは気づく。彼女たちの手の甲にはミトと同じような花のあざがあることに。
「え、花印?」
 花印を持っていること自体はおかしなことではない。
 なにせ龍神の王である志季が連れてきた人たちなのだから。
 驚いたのは、ひとりだけではなく全員が花のあざを持っていたからだ。
 ミトは混乱した。
 普通、同じ花印を持つ龍神はひとりだけ。
 この女性たちは全員恋人だと、先ほど志季の口から聞かされたところである。
 花印の伴侶ではなく、恋人だと。
 それに加え、志季の手をそっと見るが志季に花印の印はなく、天帝によって選ばれた人間の伴侶がいないのはあきらかだった。
 それなのに、花印を持った恋人がたくさんいるという不思議。
 これはどういうことなのか、疑問符が浮かぶ。
 教えてくれたのは、ミトの隣に座る波琉だった。
「彼女たちはあくまで志季の恋人であって、伴侶ではないよ」
「でも、花印が……」
 ミトが言わんとしていることはちゃんと波琉に伝わっていたようで、詳しく説明してくれる。
「彼女たちは元は別の龍神の伴侶だった者たちだ。この龍花の町で、同じ花印を持つ龍神に見初められて天界へ上がったはいいものの、関係を解消して志季の恋人になったんだ」
 いろいろな事実が衝撃すぎたが、もっとも気になったのは関係が解消されるという話。
「伴侶に選ばれて天界へ行っても、伴侶じゃなくなったりするの?」
 それはミトにとってかなり重大な問題だった。
 ならば自分も、波琉と花の契りを交わしていても絶対に一生そばにいる保証にはならないということになる。
 たくさんの覚悟をした結果、花の契りを交わしたというのに、ミトの覚悟はあまり意味のないものだったのか。
 その問いかけに波琉が答えるより先に、志季から残酷なまでの現実を突きつけられる。
「そうだよ。花の契りを交わして天界に行ったからといって、関係が永遠に続くわけじゃない。関係が悪くなるなんて珍しくないさ」
 先ほどまでのどこか軽薄な雰囲気から、真剣味を帯びた声色へ変わっている。
「花の契りは決して絶対的な契約ではないよ。あくまで、天帝が選んだ相手を気に入った場合に、天界に連れていくための手順のひとつでしかないんだ。勘違いをする人間が多いんだけど、君もそうだったんだ。残念だったねえ」
 志季はどこかミトを嘲るように笑う。
 志季の言葉を波琉も桂香も否定しないことから、それが嘘でないと分かった。
「そんな……」
 つまり、自分も波琉との関係が解消される可能性もあるのだと知り、急激な不安に襲われる。
 もしそうなったらどうしたらいいのか。
 すでにミトの肉体は人間のものではない。人の(りん)()の輪を外れてしまっている。
 波琉というよりどころを失ってしまったらと考えると、目の前が真っ暗になった気がした。
 しかし、そんな不安を一蹴するように、隣に座る波琉がミトをひょいっと持ち上げて膝の上に乗せる。
「ひゃっ!」
 突然のことにびっくりして声をあげるミトを、波琉は後ろから手を回して抱きしめた。
「え、え、え?」
 戸惑いと人前であることへの羞恥心におろおろするミトに、波琉の力強い言葉が耳に流れてくる。
「ミトは心配する必要のない問題だから大丈夫だよ。僕がミトを手放すなんて絶対ないしね。志季の言葉は気にしなくていいよ」
 波琉は『絶対』と強調してみせる。それはミトだけではなく、志季にも宣言するかのように聞こえた。
「波琉……」
 わずかな言葉で、心を覆うもやがあっさりと晴れていく。
 我ながら単純だなと、ミトは心の中で苦笑する。
 だが、波琉の言葉だからこそ素直に信じられるのだ。
 これが別の誰かの慰めだったなら、不安で夜も眠れなくなっただろう。
 けれど、志季はまだ言い足りないようで……。
「なになに。そんな言葉ですぐに引き下がるとか単細胞すぎない? そんなんだとすぐに詐欺師のカモにされちゃうよ。波琉は天界ですっごくモテるんだからさ。あっさり捨てられちゃうかもねぇ。天界には君とは比べ物にならない美人で性格もいい、魅力的な相手がたっくさんいるんだから」
 ニヤッとした顔で逆撫でするような言葉を発する志季に、ミトの表情が沈む。
 確かにその通りだ。否定できないので、ミトは反論したくても言葉は出てこない。
 誰を選ぶのかは波琉の自由で、『もうミトは必要ない。別の人を選ぶ』と決めたら、もうミトにはどうしようもない。
 同じ花印を持っているからといって絶対に伴侶になるとは限らないと、ミトはこの龍花の町に来てから嫌というほど分からされていた。
 天界にいた時間はさほど長くはないけれど、水宮殿にいる龍神たちを思い浮かべれば、ミトは自分がいかに平凡なのかを知らしめられた気になった。
 自然と顔が下を向き、まともに顔を上げて志季を見れない。
 先ほどの波琉の言葉で上向きになったはずの心が沈んでいく。
 波琉を信じているはずなのに、新たに知らされた事実が重くのしかかる。
 すると、波琉は膝に乗せていたミトを下ろし、元いた位置に戻す。
 そして立ち上がり志季の前に立った直後、スパーン!と小気味よい音が部屋中に響いた。
「いってぇ!」
 痛がる志季の前で仁王立ちする波琉は、笑みすら浮かんでいない真顔。しかもいつの間にか、その手には巨大なハリセンが握られていた。
 普段、尚之相手に使っているハリセンより倍ぐらい大きい。
 いつ手に入れたのか……。
 いや、どこから取り出したのか疑問である。
「なにするんだよ、波琉! 俺の綺麗な顔に傷でもついた――」
 突然ぶっ叩かれた志季は不満をぶつけるが、言い終わる前に第二撃が志季の顔面に打ち込まれる。
「ぐはっ」
 その遠慮のない攻撃に志季は涙目だが、桂香は自業自得だというように「ふんっ」と鼻を鳴らしていて、波琉を(とが)める様子はない。
 むしろ、「もう十発ぐらいお見舞いしてやるのじゃ」などと煽っている始末。
 そこに、波琉の静かな声が落ちる。
「ねえ、なんの立場で僕のミトを惑わせてるの? 何様のつもりなの?」
 笑みを浮かべる波琉の目は笑っていない。
 顔は笑っているからこそ、余計に怖い。
「だからって叩くことないじゃん? しかも何様って、俺は白銀様だし。てか、それなに?」
「ハリセン」
 見れば分かるだろうと言わんばかりの顔で答える波琉は、さらに打ち込もうとしたものの、さすがに三撃目ともなるとかわされた。
 ならばと、それを見ていた桂香が動く。
 畳の床を指先でトントンと叩くと、そこから一気に草が生え、意思を持ったひとつの生き物のようにうごめき、志季にまとわりつく。
「うげっ」
 途端に焦りを見せる志季。
 ミトも桂香が力を使っている場面を見たことがなかったため、目を大きく見開いて驚く。
「わらわのミトに不安を与えるとは万死に値する。とっとと出ていけ!」
 草はミトに見向きすらせずに、正確に志季のみに向かう。
「うわうわ! ちょっと待って!」
「待つか、馬鹿者! 地の果てまで追い払ってくれるわ! 覚悟いたせ」
「うわー!」
 草からはさらにツタが生まれ、まるでムチのように志季をペシンペシンと打った。
 さすがの王でも、ふたりの王を相手に分が悪かったようで、桂香に追い打ちをかけられ一目散に逃げていった。
「あらあら」
「うふふ。仲がおよろしいですね」
「私たちも白銀様を追いかけなければ」
「そうですわね。それでは、紫紺様、漆黒様、伴侶様。今日は失礼させていただきます」
 志季の恋人たちはまるで何事もなかったようにのんびりと落ち着いた様子で一礼し、立ち上がる。そして、志季の後を追って部屋から出ていった。




作品を評価しよう!

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:284

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作家の他の作品

【スタ文クリスマス企画】  鬼花&龍神
クレハ/著

総文字数/2,584

あやかし・和風ファンタジー2ページ

本棚に入れる
表紙を見る
鬼の花嫁 小ネタ集
クレハ/著

総文字数/1,541

あやかし・和風ファンタジー2ページ

本棚に入れる
表紙を見る
【先行試し読み】鬼の花嫁新婚編4~もう一人の鬼~
  • 書籍化作品
クレハ/著

総文字数/43,119

あやかし・和風ファンタジー10ページ

本棚に入れる
表紙を見る

この作品を見ている人にオススメ

エラーが発生しました。

この作品をシェア