頭の中に浮かんだのは、キスがとても気持ちいいってことと、このままじゃダメだってこと。

「紗季ちゃん……」
「篠原先輩……」

 篠原先輩の首にしがみつくと、壁に背中を押さえつけられた。
 ディープキスに溺れる私の両足は、宙に浮いている。
 私が今いるのは、篠原先輩の鍛え抜かれた膝の上だ。

 私の腰に回していた先輩の手が片方外れて、そっと浴衣の胸元をなぞった。

「あれ? 紗季ちゃん……ブラジャーしてないの?」
「……温泉入ったから……」
「随分不用心だね……」

 先輩は嬉しそうな顔をして、浴衣の上からやわやわと胸を揉む。

「っ……」
「感じやすいんだ……」

 篠原先輩の手のひらが緩急をつけて胸を揉みしだく。なんて器用な手なのだろうと、ぼんやりする頭で見当違いなことを考えてしまうのも無理はない。

 襟もとがはだけて、篠原先輩の喉仏が大きく鳴る音が、ふたりだけの静寂によく響いた。
 
 篠原先輩の口に敏感なところを吸い付かれて、全身がブルッと震える。はじめての刺激に、頭の何処かでやっと……と、歓喜に湧いた気がした。
 この時まで、私は本の中でしか、その表現を知らなかったから……。
 

 *


 彼氏いない歴=年齢の私――斉藤紗季は、短大卒業と同時に食品卸会社に就職した。
 地方の郊外にある、食品加工工場の事務員だ。

 学生時代に進路指導の先生から、受けてみないかと紹介されたのがきっかけだ。
 私の家が貧しくて、弟や妹がいるために、短大の費用を奨学金で賄ったため、早く返済したかった。

 比較的高給なところと、退職金や財形貯蓄、生理休暇などの福利厚生がしっかりしていたのもいいなと思った点で。事情を知っていた先生から勧められたのも志望した動機だ。
 地方の工場は、管理職候補でない限り、比較的地元の高校生たちが採用されている。厳しい就活の中、見事採用枠を勝ち取ったのは僥倖だった。
 
 だが入ってみれば、バイトのひとつくらいはしておいた方が良かったと後悔するくらいには、とても大変な職場だった。

 新入社員に課せられる、業務外の雑多な用事の多さ。
 毎朝先輩よりも早く出てきて、ポットのお湯を沸かす。
 このご時世に、工場や倉庫で働いている人たちの、湯呑み洗い。

 コピー紙の補充に、前日の定時以降に届いていたファックスの仕分け作業……など。
 正直、短大出たのにこれが求められる仕事? と疑問に思うことばかりだった。
 今年の新卒採用が私ひとりだけだったのもあり、ありとあらゆる雑用が、私の肩にドンとのしかかる。

 挙句、退職した前任者は一ヵ月ちょっとの引継ぎでアルゼンチンに旅立ってしまった。
 前任者の仕事は、完全なワンオペレーションだった。業務内容でわからないことを尋ねても、正解を教えてくれる人が社内にひとりもいないという暗中模索に近い状況。

 過去の資料を確認しながら担当業務に取り組み、雑用に追われ、連日帰宅は21時。
 案の定ストレスが溜まりすぎて、半年以上固形物が食べられなくなってしまった。

 そんな私に手を差し伸べてくれたのが、村主(すぐり)さんという隣の席の、人見知りが激しい25歳の女性の先輩。

 先輩曰く、私が入ってきた時が会社創立以来の過去最大の忙しさで。「斉藤さんが大変なのは気づいてたんだけど、自分にも余裕が無さすぎて。助けてあげられなくてごめんね」と。

 村主先輩の業務が落ち着いたのと、ようやく私に声を掛ける勇気が持てたからと、私の残業に付き合ってくれたのがきっかけだった。

 会話をするようになって、まさかのお互い2次元好きだと分かり、その時期に始まったアニメにふたりしてハマってから一気に仲良くなった。
 

 そんな村主先輩には、現場に、先輩が高卒で入社したばかりのころからお付き合いして7年になる彼氏さんがいる。
 結婚秒読みというか、ふたりで結婚資金を貯めているところと、村主先輩から教えてもらった。

 ふたりの馴れ初めや、デートで行ったお店の話など。私に彼氏ができたらこんなことがしたい! と妄想したくなるような話をたくさんしてもらってた。
 その流れで、村主先輩に休日ドライブに誘われて、倉庫で働いている篠原先輩を紹介されたのだった。

「電話では何度か話したけど、会うのは初めてだよね。篠原です。よろしくね」
「斉藤紗季です。こちらこそ、業務以外にもいつも助けていただいてありがとうございます」

 篠原先輩と顔を合わせたのは、私がこの会社に入って、ようやく一年になる頃だった。
 
 村主先輩と篠原先輩は、篠原先輩が運転するミニバンで毎月どこかの温泉地に行くのを楽しみにしていた。
 どこのサービスエリアで休憩する? とか、昼食はどこにしようか? なんて。スマホとカーナビを駆使して楽しく目的地を制覇していく。
 そんなふたりのお楽しみに誘われた私は、とにかく有頂天になっていた。
 
 仕事ができて、上司から全幅の信頼を寄せられている村主先輩は、身長は小さいのに、胸だけが大きくてグラマーだ。化粧は一切していないのに、ふさふさの上向き自まつ毛だけでセクシーに見える。
 
 そして、忙しくてもいつもニコニコして、私の拙い説明にも丁寧に受け答えしてくれて、なんなら他の作業員さんに口利きまでしてくれるスマートな篠原先輩。
 体を鍛えるのが好きらしく、スポーツ選手並みに分厚い二の腕なのに、黒髪天然パーマというギャップがトレードマークだ。

 三人で出かけた日は、高速のインターチェンジに近いところに家がある村主先輩を先に降ろして、次に私の家の近所まで篠原先輩が車で送ってくれる。
 そして、篠原先輩は村主先輩の家に帰る。
 
 こんなに楽しい週末が待っていると思えば、遊ぶお金を稼ぐために仕事を頑張れる。たとえ平日の仕事がきつくても、辛いなんて思わなかった。

 それに、このふたりの間に押し入ろうなんてことは、これっぽっちも考えていなかった。
 いつもラブラブなふたりを見て、私も早く彼氏がほしいな〜って思うくらい。

 *

 社会人二年目になって、職場の7つ上の先輩を好きになった。
 それまであいさつを交わすだけだったのに、新年度の配置換えで担当が替わったことにより、急速に距離が縮まったのだ。

 仕事の合間に雑談することが増えて、色々と共通の話題を発見した。
 お昼休憩にコンビニに行くからと車に乗せてくれたり、次第にふたりだけで遠方へドライブに行くことが増えた。

 落ち着いた雰囲気のその先輩は、あからさまなボディタッチや、私が勘違いするようなことをする人じゃなくて。ただ、街なかを歩くときは車道側を歩いてくれたり、買い物したものや、雨の日は傘を持ってくれたり。

 クリスマス前、ショッピングセンターのジュエリーショップで、私からねだったとは言え、小さいダイヤモンドが付いたリングをプレゼントしてくれたことは、凄く凄く嬉しかった。
 
 初めてのことに自分自身盛り上がりすぎて。指輪ももらえたからと。気がついたときには勢いで電話で告白してた。

 だけど、

「ごめん。紗季ちゃんのことは可愛いと思ってる。けど……俺、自分の妹よりも年下の子に恋愛感情は持てないや……」

 なんて理由で私は失恋したのだった。

 
 小学、中学時代に好きな人がいた。けれど、私は彼との関係を崩したくなくて、告白しなかった。

 高校で進路がバラバラになって会えなくなった。

 成人式で姿を見たけど、彼との距離はとてつもなく離れていた。

 連絡先なんて知らない。話すきっかけも無かった。そのとき、やっぱり学生時代に告白しておけばよかったと後悔した。
 
 そのときの気持ちがあったから、勇気を出した。
 指輪をもらったし、断られるなんて思っていなかった。

 新年早々落ち込んでいる私にいち早く気づいたのが、篠原先輩だった。

 「仕事帰りに少し公園でも行こうか」と誘われて、会社から少し距離のある駐車場がある公園へ、篠原先輩の車に乗せてもらった。
 私達の他には誰もいない、冬の公園。
 外灯に照らされたベンチに並んで座り、自販機で買ってもらったホットレモンを飲む。
 
 ひとりでモヤモヤするのもいい加減辛いなと思って、好きな人の名前は出さなかったけど、こんなことがあって……と吐露した。
 そしたら、

「よくがんばった。勇気を出して、告白したのはすごいよ」

 と、篠原先輩が私の肩をポンポンとしてくれたのだ。
 普段は長女あるあるで弱みを他人に見せない私には、その行為があまりにも優しすぎて。気がつけば泣いていた。
 その間、篠原先輩は何も言わず、ずっと頭をなでてくれた。

 ようやく気持ちが落ち着いて手で涙を拭っていたら、篠原先輩が目尻の涙を拭い取ってくれた。
 そのことに驚いた私は、キョトンと先輩を見上げる。

 篠原先輩の優しい眼差しが、眼の前で。
 先輩のくちびるが、軽く触れていた。

 刹那。村主先輩(かのじょ)の顔が浮かんだ私は、思わず仰け反った。
 咄嗟に浮かんだことは、大切な村主先輩に、秘密を作りたくないってこと。

 だから、こんなのはキスじゃない。
 篠原先輩の気が触れての行動なら、これ以上はダメだ。

「……篠原先輩は、村主先輩と結婚するんですよね……?」 
 
 間違えないで。
 貴方の愛する人は、村主先輩のはず。
 失恋したばかりの私にキスしたって、どうにもならない。

「うん、するよ。だけど……これは、別。これは、紗季ちゃんを慰めたいだけ……」 

 そう言って、さっきよりもしっかりとくちびるを重ねられた。
 下くちびるを吸って、舐めて。
 初めての大人のキスに、ゾクッと腰が震えた。

 ――ダメ、なの……。村主先輩を裏切っちゃ、ダメ……。

 頭ではそう思ってる。
 けれど、舌を絡められ吸われるキスが、あまりにも気持ちよくて……。心の傷を癒やしてくれて……。


 篠原先輩の腕の中。私は現実から逃げてしまっていた。


 *


 就職した会社は、今時珍しい慰安旅行に従業員全員で行くのが慣例だ。
 去年は屋内プールがある施設にリゾートホテルへ行った。

 今年の宿泊先は、海を望める展望レストランが売りの観光ホテルだ。
 本館の最上階がビュッフェスタイルのレストランで、翌日の朝食会場でもある。

 観光バス四台が連なり、観光地を周る。
 私は村主先輩と、先輩の同期の女性といっしょに巡らせてもらって。お酒の試飲をしたり、ご当地のスイーツやキャラクターグッズを見て楽しんだ。

 日が暮れる少し前にバスはホテルへ到着し、まずは汗と遊び疲れたからだを癒すために温泉に入る。
 浴衣を着て、少しお化粧直しをして宴会会場へ。

 さすがにこのご時世、お酌を強制されることはない。
 けれど上司と、せめてお仕事で直接お世話になっている現場の人たちに、日頃のお礼参りに行く。
 
 めでたくも、一年前に『ひとりで宇◯田ヒカルを歌ったヤツ』と覚えられていて。今年は歌わないのか?と、普段一切顔を見られない工場内で働いている人たちとも話が盛り上がった。

 食品工場は頭の先から靴先まで衛生管理が徹底されていて、普段は目元しかわからない。

 特に私は電話の取次ぎでしか話したことがなかった。今後の仕事を円滑に回すためにも仲良くなっておきたくて、リクエストがあった安◯奈美恵を歌った。
 
 去年は唯一の新人ということもあって、かなり緊張してお酒を飲んでも酔いきれなかった。

 今年は新しく新入社員が入ってきたのもあり、だいぶ気が緩んだらしい。

 食前酒をおかわりして、お酌して飲みまくったビール。シメの焼酎。自分でも飲み過ぎだってわかってる。けれど、それ以上に楽しかった。


 宴会が終わって事務員の先輩たちと一緒に部屋へ戻る。これから二回目の温泉だ。夜の露天風呂が、とても素敵で。朝風呂が楽しみになった。
 
 温泉から出て、髪を乾かすのに手間取った私は、先に部屋に戻った村主先輩の後を追うようにして、ひとり絨毯が敷かれた廊下を進んでいた。
 その途中にいたのが、篠原先輩だった。

「おつかれ〜。紗季ちゃん」 
「先輩、お疲れ様です。村主先輩はもうお部屋ですよ?」
「うん。さっき会ったよ。紗季ちゃんを待ってたんだ」
「私ですか?」

 キョトンと首を傾げた私に、篠原先輩はいたずらっ子のような笑みを浮かべる。そして、
 
「村主が寝たら出ておいで。展望レストランのフロアで待ってる」 

 それだけ言うと、男性社員が宿泊している棟へ去って行った。
 
 先日の公園でのことが、一気に蘇る。
 ダメだって分かっているのに、この甘い蜜のような毒が、心地よくて……。
 

 部屋のみんなが寝静まった頃、そっと鍵を持って部屋を出た。
 エレベーターの最上階ボタンを押す。
 
 村主先輩や、ふたりが付き合っていることを知っている人たちに知られてはいけない背徳感。
 けれど、篠原先輩の優しさがあったから立ち直れた私。

 宴会のとき、失恋した先輩にもお酌をしたけど、自分でも驚くくらいちゃんと笑えてた。
 失恋したばかりなのに。篠原先輩は恋しちゃダメな人なのに。これ以上深追いしたらいけないって。わかっているのに……。


 扉が開いて、眼の前にあったのは、オーシャンビューのガラス窓。
 フロアが真っ暗だから、外の三日月や星がくっきり見えていた。

「……綺麗……」 

 窓に曇りはなく、指が触れたらくっきり指紋が残ってしまいそうなほどに、キレイに拭き上げられていた。

「ね。綺麗だよね」 
「……篠原先輩」

 突然私の身長よりも高い観葉植物の影から現れた篠原先輩に、小さく安堵のため息をついた。
 驚かせてごめんと、苦笑する先輩。

「紗季ちゃん以外の人が来たらマズイと思って隠れてた」

 そう言われて、確かにと納得した。今この瞬間も、二基のエレベーターが忙しなく動いている。
 私たちがふたりだけでここにいることは、イケナイことなのだと。 

「おいで。今日も頑張っていた紗季ちゃんを癒やしてあげるよ」

 篠原先輩の腕の中に、まるで吸い込まれるように進む。

 脇の下で持ち上げられ、エレベーターの横の壁に背中を押し付けられた。
 たくましい首に両腕を伸ばすと、下から掬い上げるようなキスを受ける。

 身長が百五十センチそこそこしかない私の足は、すでに床から浮いていた。
 その代わりに篠原先輩の膝が、私の股の間を通って壁に押し付けられていて、私は先輩の膝上に座っている状態だ。

 何度目かのキスの最中。先輩のフリーになっている手が、私のからだを撫で回す。
 しばらくして胸にそっと熱い手のひらが添えられた。
 
「あれ? 紗季ちゃん……ブラジャーしてないの?」
「……お風呂入ったから……」
「まだ男が廊下をウロウロしていただろう? 随分不用心だね……」

 やわやわと、浴衣の上から揉まれた。

「っ……」
「感じやすいんだ……」 

 股を広げた状態だから、浴衣の裾もめくれている。もしかしたら、私が感じてすでに下着を濡らしてしまっていると、知られているかもしれない。

 気持ちいい愛撫に恍惚となり、セックスが気持ちいいって、本当なんだ……と。2次元作品で培った知識が脳内を駆け巡る。
 はだけた胸元に、篠原先輩の顔が埋まって。女性が感じるポイントを吸われて、歓喜に湧いて思ったのは、

 ――あぁ、私も、男の人を興奮させることができるんだ……。

 ってこと。
 
 だけど……。

 村主先輩も、このテクニックを受けているんだと。

 エレベーターのパネルが、私の肌を照らす。
 階層が上がってくるたびに、誰かがここに来るかもしれないとヒヤヒヤしながら、からだのあちこちにキスを受ける。

 浴衣が肩を滑り落ちて、肘の周りに溜まった。
 お酒を飲んでいた篠原先輩の、熱い手とくちびるが、私の肌を縦横無尽に滑っていく。

「肌がスベスベだね……。綺麗だ」
「先輩っ!」
「若い子を堪能できて嬉しいよ」
 
 強弱をつけてあちこちに与えられる快感に、あられもない声を発しながら。

 だけど……どこか冷静な私が、警鐘を鳴らした。

 
 ――この人は、私のものにならない。これ以上、この人に縋っちゃダメ。


 わかってる。


 ――この人は、優しくなんかない。優しい人なら、自分の彼女を絶対裏切らない。


 彼にとって、結婚前に遊べる都合の良い存在が、たまたま私だったってだけで。

 私も、姉のものを欲しがる妹のように、人のものがよく見えて欲しくなっただけ……。

 そうに決まってる。


 私には、仕事を簡単に辞められない理由がある。奨学金を返済しなければならない。

 この関係が表沙汰になって、身の破滅を迎えるのは、私だ。


 辞職に追い込まれても、次の職場でどれだけお給料がもらえるかわからない。なんとか一年やり遂げた。ここまできたならもっとできることを増やしたい。そのためにもこの会社を辞めるわけにはいかないのだ。

 だから――。
 
 

 彼の手が、濡れた下肢に届く前に。
 


 
 私は、この危険な逢瀬に終止符を打った――。