「……紗南、大事な話があるんだ」
蝉の鳴き声が窓の外から聞こえてくる蒸し暑い夏の夜。
彼は深夜に前触れもなくやって来た。
部屋へ迎え入れるなり、テーブルの上に出した冷たい飲み物にさえ手を伸ばさず、彼は重々しく口を開く。
「役員会用の資料の提出締切なら延ばせるよ?」
いつもの明るい笑顔を翳らせた彼を一目見て、これが私にとって望ましくない話なのは明白だった。
だからあえて気付かないふりをして話を逸らす。重苦しい空気を振り払う軽い口調で。それがただの時間稼ぎに過ぎないことは分かっているのに。
「いや、資料のことじゃない。というか仕事の話ですらない。……俺、好きな人ができたんだ」
私の最後の足掻きは空振りに終わり、彼はさくりと本題に切り込んだ。
なんで?
なんで?
なんで、なんで、なんで……?
予感していた、いや予感以上の内容に心の中で嵐が吹き荒れる。疑問の言葉が怒涛のごとく胸中を駆け巡った。
「俺と紗南は付き合ってるわけじゃないから別れ話っていうのも変な話だけど。ぶっちゃけフェードアウトもできたと思うし。ただ、紗南にだけはちゃんと誠意を持って向き合いたくて。特別に思ってたから」
彼はズルイ。
この期に及んで私のことを「特別」と言うのだから。
甘くて苦しい濃厚なこの一年が走馬灯のように脳裏に蘇る。
◇◇◇
彼――榊一樹と出逢ったのは一年前。彼が私の勤める会社に転職して来たことが始まりだった。
人材サービス業を手掛ける当社は、近年破竹の勢いで業績を伸ばしている。さらなる飛躍のため外部から新しい人材の採用にも積極的だ。次から次に中途採用者が入社してくる。既存社員にとっても新しい人が入ってくるのはさして珍しくもない見慣れた日常となっていた。
彼もそんな一人で私が在籍している営業部に配属されて来た。前職でも営業マンだった即戦力の25歳――私の2つ年上だ。
「はじめまして、榊一樹です。学生時代からずっとサッカーをやっているので体力には自信があります! 酒も強いです! 昨今職場の人を飲みに誘うと嫌がられがちですが、俺は飲みニケーション大歓迎です!」
ああ、この人は学生時代から人の輪の中心にいる人気者タイプだなと第一印象で思った。
爽やかな見た目、明るい笑顔、不思議と人を惹きつける話術で彼は入社初日から一気にみんなの心を掴んだ。そして驚くほどの早さで職場に馴染んでいった。
同時に独身で彼女がいないと判明した途端、彼は女性社員からの注目の的となった。誰とでも愛想良く接する彼は非常にモテたのだ。よく仕事終わりに女性と飲みに行っているようだったが、特定の誰かと良い仲になっているという噂は聞かなかった。
私はといえば、同じ部署にいながらも特に仕事上関わりもなかったので、彼とはオフィス内ですれ違った時にたまに挨拶を交わす程度だ。
「お疲れ様です」
「あ、羽村さん。あれ? もしかして髪型変えた?」
「いえ、特には」
決して愛嬌があるとは言えない反応の薄い私は、それこそ必要最低限、言葉少なく接していた。
「おかしいなぁ。いつもより髪がくるんとしてる気が。あ、もしかして今日はデートで気合い入ってるとか?」
「……そのような予定はありません」
「それなら俺と飲みに行かない? 羽村さんとは飲みに行ったことないから一度飲んでみたいなぁと思ってて」
「遠慮しておきます」
だというのに、驚いたことにそんな私に対しても、彼はいつもと変わらず平常運転。明るい笑顔で軽口を叩く。
最初は「馴れなれしい」「うっとしい」と心の中で思っていた。
だけど慣れとは恐ろしい。
不思議なもので、これが半年も続けば、彼との会話をちょっと楽しいと感じ始めている私がいた。
そんな頃だった。
彼との関係が決定的に変わったのは。
そのきっかけは年度末に開催された部署全員参加の飲み会だった。普段はあまり酔っ払わないのに、その日の私は飲みすぎてしまい、気付けばタクシーの中にいた。誰かにもたれかかるようにして座っていて、逞しい腕が私を支えてくれている。
重たい瞼をゆっくり持ち上げ、ぼんやりする頭で隣を見れば彼だった。酔った私を自宅まで送り届けてくれていたのだ。タクシーから降りてもフラフラしている私を抱き留め、部屋まで一緒に来てくれた。
たぶん彼は私をどうこうするつもりはなかったのだと思う。酔っ払いを放っておけず、本当に善意で介抱してくれたのだろう。
だけど部屋に着いて、彼の腕があっさり私から離れていった時、私はその温もりが遠ざかっていくのが急に寂しく感じた。
もっと触れていたくてたまらなかった。
「…………もう少しだけ」
思わず引き止めるような言葉が口をついて出た。甘えるような声は自分で自分のものかと疑うほど普段の私らしくない。これはきっと酔っているせいに違いない。
「まいったなぁ。そんな顔で見つめられると理性が飛びそうになるんだけど」
そう言いながら困ったように頭を掻いた彼は、少し距離を空けて私の隣に腰を下ろす。その距離がもどかしくてたまらなかった。
「……そんな物欲しそうな目して。あれだ、羽村さんは酔っ払うと甘えたくなるタイプか。普段は頑張って気張ってる感じだもんね」
意外と鋭い彼の指摘にドキリとした。
そう、いつもの私は心に鎧をつけている。躾の厳しい両親の叱責を回避するための術だ。幼少期からの習慣は大人になった今でも根付いている。感情が抑制されているのもそのせいだ。
その時ふいに彼の手が伸びてきて、子供をあやすように頭を撫でられた。
その大きく温かな手はまるで私の存在を肯定してくれるようでなんだか泣きたくなった。衝動的に縋りつきたくなる。
「おいで、もっと甘えさせてあげる」
彼の口から放たれたその一言は鮮烈だった。私の鎧を粉々にする。甘やかして欲しいという欲求が溢れ出て、その心のままに次の瞬間には彼の胸に飛び込んでいた。
背中に手を回され、ギュッと抱きしめられる。全身を包みこむような温かさが泣きたくなるくらい心地よかった。だからその後に口づけが落ちてきて、そのまま押し倒されても私は拒まなかった。
心の鎧をいとも簡単に紐解いてくれ、私の心の奥を暴いてくれる彼になら初めてを捧げてもいいと思ったのだ。
◇◇◇
その日から私たちは会社の人には内緒で逢瀬を重ね、何度となく身体を重ねた。
彼は私の心だけでなく、身体の隅々まで暴いていった。組み敷かれて甘く鳴かされるたびに、言い表しようのない甘い幸せと開放感が私の身体を支配する。
彼の前では肩肘張らず、素直に甘えられる。それがたまらなく居心地がいい。こんな気持ちは初めてだった。
私は程なくして彼に恋情を抱き、日々のめり込んでいっているのを如実に感じるようになった。
ただ一方で、このまま彼に溺れてしまって大丈夫か、とブレーキをかける自分もいた。
なぜなら彼から「付き合おう」という台詞を言われていないからだった。
好きとは言ってくれる。
身体も重ねている。
でも今の私たちの関係に名前はない。
第三者が聞いたら「セフレ」と分類する関係なのではないかとは薄々感じていた。ハッキリさせたいのなら尋ねればいい。それは分かっている。ただそれが怖かった。
もし彼に明確にセフレだと言われたら?
関係が終わることになってしまったら?
彼が私から離れていくかもしれないと想像するだけで耐えられない。その可能性が一ミリでもあるならば聞かない方がマシだと結論付けてしまうのだ。
だが、そんな名前のない曖昧な関係は、次第に私の心を蝕んでいった。
行為の後、私に背を向けて眠る彼の横でふいに涙が頬を伝う。
泣きたくて泣いているわけではない。完全な無意識だ。だからこそ、いかに私がこの状態に限界を感じ始めているのかが分かるようだった。
「……聞きたいことがあるの。……私と一樹くんの関係って何? 一樹くんは私のことどう思ってる?」
そして名前のない関係になってから約3ヶ月が経った頃。私はついに耐えきれずに、彼との情事の後にこう口にした。
腕枕をしながら私の髪をすいていた彼は、手を止めて目を瞬く。
「何、いきなりどうしたの?」
「……本当はずっと確認したかったの」
「そう言われてもなぁ。いつも伝えてる通り、俺は紗南のことが好きだよ」
チュッとこめかみに唇を寄せてくる彼はいつも通りだった。
彼はいつも「好き」とは言ってくれる。
私を可愛いと言って甘やかしてくれる。
でもやっぱり肝心な一言がない。
「……付き合ってるって思っていいの?」
今日こそは曖昧なまま終わらせたくない一心で、私は核心をつく質問を重ねた。
その途端、一樹くんが身構えたのが分かった。先程までの甘い空気は霧散し、重苦しい空気が漂ってくる。
「……紗南は俺と付き合いたいの?」
「うん、そうだけど……」
「好きっていう気持ちで一緒にいるだけではダメってこと?」
「えっ……」
思いもよらない問いを受け私は言葉に詰まった。一体彼は何が言いたいのだろう、と戸惑う。
「紗南だから打ち明けるけど……俺さ、付き合うっていうのがトラウマなんだよね」
そう言った彼が語り出したのは彼の過去だった。
彼は今まで一人としか付き合ったことがないそうで、その初めての彼女とは長年付き合った末に数年前に別れたらしい。彼女の手酷い裏切りによって。
本気だったからこそかなり傷付いたという。それ以来、軽い女性不信になり、付き合うことが怖くなったそうだ。
「隠すつもりがないから言うけど、元カノの後も身体だけの相手はいたんだ。付き合うのがトラウマってだけで、別に性欲がなくなったわけではないから」
ということは、私もその一人かと悟り、自然と目線が下を向き顔が俯く。多少の覚悟はしていたはずなのに胸が痛い。じわりと涙が滲む。
「ただ誤解して欲しくないのは、紗南はこれまでの身体だけの相手とは全く違うってこと。俺、紗南のことは本当に好きだよ。今までとは違うって思ってるし、特別だと思ってる」
「じゃあ……」
「でも正直言って付き合うのはまだ怖い。だから今のままではダメかな? 俺は紗南とはこれからも一緒にいたい」
もし私がこの時冷静だったならば、なんて都合の良いズルイ言葉なんだと思ったことだろう。
だが残念ながら、すでに彼に心囚われている私には手遅れだった。
「今までと違う」「特別だ」という言葉の数々は実に甘美な響きだったのだ。
今はトラウマに雁字搦めになっている彼でも時が経てば変わるかもしれない。いや、私が変えてあげられるかもしれない。
そんな未来への期待抱かせるには十分だった。
「一樹くんの気持ちは分かった。私も一樹くんのことが好きで一緒にいたいのは同じだから、今のままでいいよ」
「良かった……! 紗南なら分かってくれるって思ってた。俺のこと理解してくれて嬉しい!」
一樹くんは嬉しそうに笑顔を浮かべ、私の唇へキスをした。その口づけに応えながら、重ねて投げかけられた言葉に心をくすぐられていた。彼を分かってあげられるのは私だけという優越感が胸を満たしていたのだ。
こうして名前のない関係は両者の合意を得て継続されていった。
でもそれもきっと今夜で終わりだ。
◇◇◇
「そのうち分かると思うから伝えておく。相手は経営企画部に先月転職して来た綾川茉侑さん。紗南も面識あるだろう?」
「綾川さん……」
意志の強そうな瞳をした黒髪美人が頭に浮かぶ。他部署だけど仕事で何度かやり取りしたことがある。一見近寄りがたい雰囲気なのにパッと華やぐ笑顔が印象的な女性だ。入社して間もないにも関わらずすでに即戦力として活躍していると聞く。
「茉侑と付き合おうと思ってる」
その一言は私の胸をグサリと刺した。
今、彼はなんと言っただろうか。
付き合いたいと思ってる……?
それはこの一年、いつかきっとと淡い期待を抱き続けた私が、どんなに望んでもついぞ聞けなかった言葉だ。
それなのに出会って一ヶ月の綾川さんにその言葉を口にする彼に愕然とする。
ほぼ毎週末どちらかの家で会って、たまには外へデートに出掛けて、キスをして、身体を重ねて、愛をささやき合って。
事情を知らぬ第三者から見れば恋人そのものだった私たち。彼は女性と二人で飲みに行くのも控えるようになって、本当に私だけを見てくれていた。
嬉しかった。幸せだった。
きっといつかはと思っていた。
だけど、そんな月日は無意味だったということだ。
「……綾川さんとは、付き合いたいって思ったんだね」
ポツリと溢した言葉がやけに辺りに響く。
やりきれない気持ちが滲み、遅ればせながら悲しみが込み上げてくる。
でも不思議なことに涙はでない。人は本当に辛い時には心が麻痺して泣けないのかもしれない。
「ごめん。信じてもらえないかもしれないけど、紗南を傷つけるつもりは本当になかったんだ……。紗南にならいつかその気になるって思ってた。他人から見たら都合の良い女扱いだと言われるかもしれない。でも俺は紗南のことは決して遊びではなかったよ」
彼の瞳は真剣な光を宿している。本心からそう言っているのは分かった。彼は彼なりに私を好きでいてくれて、特別に思ってはいてくれたのだろう。
でもそれは「付き合いたい」と思わせるほどの気持ちではなかった。そう思わせるだけの女性に私はなれなかった。それだけだのことなのだと理解している。
トラウマだなんだというのはただの言い訳。
きっと最初に「付き合う」選択肢が彼の中で生まれなかった以上、どれだけ時間を重ねても結末は同じだったのだろう。
恋は時間や理屈じゃないのだ。
「……ごめん。最低だな、俺」
「うん、一樹くんは本当にズルイ男だよ。付き合ってくれないくせに、私のことを好きって言うし、特別だって言うし。挙句に最後まで遊びじゃなかったって言うんだから」
「……紗南の言う通りだな。本当にごめん」
「いっそ遊びだったって言ってくれた方が心置きなく恨めたのに」
そう、その方がきっと良かった。
否応なく嫌いになれた。
なのに、彼は最後まで私を好きな人として扱う。綾川さんのような本気になれる人が現れたら一瞬で心を掻っ攫われていく程度の「好き」のくせに。
去り際、彼は玄関先で私を振り返る。
ここから外へ一歩出れば、もう私たちの「名前のない関係」も終幕だ。
明日からは「榊くん」「羽村さん」と呼び合うただの同僚に戻る。
彼はもう二度とこの部屋に足を踏み入れることはないだろう。
「最後に俺のこと一発殴る? それで紗南の気が済むならいくらでも殴っていいよ。紗南にはその権利があるから」
「……そうだね。そうさせてもらおうかな」
ふいに投げかけられた提案に私は鷹揚に頷く。そして彼の方へ一歩近寄り、手を伸ばした。
だけどその手は彼の頬に向かうことはなく、通り過ぎて彼の背に回る。気が付けば私は玄関先で彼に抱きついていた。
慣れ親しんだハーブ系の香りが鼻を掠める。その香りだけで様々な思い出が脳裏をよぎり心がギュッと掴まれるようだ。
ああ、やっぱり彼が好きだ。
こんなにズルイ男なのに、嫌いになれない。
いつもなら彼の手も私の背に回りギュッと抱きしめ返してくれる。でも今日の彼はただその場に立ち尽くすだけだった。
拒否はしないけど、受け入れてもくれない。それが今日からの私たちの距離を物語っている。
抗いようのない寂しさがドッと胸に押し寄せてくる。最後の最後でついに感情が振り切れ、目に涙が盛り上がってきた。
泣きたくない。
彼の記憶に残る最後の姿が泣き顔だなんて嫌だ。せめて「いい女だった」と思ってもらいたい。
いつか彼が手放したことを後悔するようないい女として記憶に留まるのだ。
そう思った私は一樹くんから身体を離すと、迫り上がってくる涙を必死に耐え、彼の目を真っ直ぐに見据えてにこりと微笑んだ。
「今までありがとう。一樹くんのこと本当に大好きだったよ。……綾川さんと幸せになってね」
ツライのに強がりながら涙を浮かべて笑顔で相手の幸せを願うーー健気で心優しいいい女を、私はなけなしのプライドでもって最後に演じた。
彼が悲痛な面持ちになり、思わずというように私に向けて手を動かそうとしたのが視界の端で映る。
だけどその手が伸びてくることはなかった。
一瞬だけ瞼を閉じグッと思い止まった彼は、私に背を向けるとそのまま扉の向こう側へ姿を消した。
「ああ、終わっちゃったんだ……」
バタンと玄関の扉が音を立てた途端、それが合図となって震えた声と涙が零れ落ちた。
胸が苦しくてたまらない。
これほど苦しむくらいなら出逢わなければ良かったのだろうか。
いや、それはきっと違う。
結局彼の彼女にはなれなかったし、苦しいことも多かったけど、私はこの一年を決して後悔はしていない。
感情の欠落した冷めた人間なのだと思っていた私に、彼は人を好きになる喜びと幸せを教えてくれた。
この経験は貴重なものだ。だから感謝している。
もし仮に時間を巻き戻せたとしても、何度考えたってやっぱり私はまた彼と出逢う選択をするだろう。
それくらいこの一年は私にとってターニングポイントとなる意味のある時間だった。
「そんな人生における転換点を笑顔で締めくくれて良かった」
今はまだ胸が痛いけど、笑顔で感謝を伝えることができた今夜の別れは、きっとかけがえのない人生の糧となるはずだ。
私の人生の一ページに刻まれ、いつか大切な思い出として昇華される、そう信じたい。
「ずるい男だったけど、一樹くんを好きになって良かったって思ってるよ。私に「好き」の感情を教えてくれてありがとう。……さようなら」
弱々しいながらもどこか清々しさが滲む声は、夜の闇に響く蝉の鳴き声に掻き消されて消えていく。
いつの間にか涙は止まっていた。
〜END〜
蝉の鳴き声が窓の外から聞こえてくる蒸し暑い夏の夜。
彼は深夜に前触れもなくやって来た。
部屋へ迎え入れるなり、テーブルの上に出した冷たい飲み物にさえ手を伸ばさず、彼は重々しく口を開く。
「役員会用の資料の提出締切なら延ばせるよ?」
いつもの明るい笑顔を翳らせた彼を一目見て、これが私にとって望ましくない話なのは明白だった。
だからあえて気付かないふりをして話を逸らす。重苦しい空気を振り払う軽い口調で。それがただの時間稼ぎに過ぎないことは分かっているのに。
「いや、資料のことじゃない。というか仕事の話ですらない。……俺、好きな人ができたんだ」
私の最後の足掻きは空振りに終わり、彼はさくりと本題に切り込んだ。
なんで?
なんで?
なんで、なんで、なんで……?
予感していた、いや予感以上の内容に心の中で嵐が吹き荒れる。疑問の言葉が怒涛のごとく胸中を駆け巡った。
「俺と紗南は付き合ってるわけじゃないから別れ話っていうのも変な話だけど。ぶっちゃけフェードアウトもできたと思うし。ただ、紗南にだけはちゃんと誠意を持って向き合いたくて。特別に思ってたから」
彼はズルイ。
この期に及んで私のことを「特別」と言うのだから。
甘くて苦しい濃厚なこの一年が走馬灯のように脳裏に蘇る。
◇◇◇
彼――榊一樹と出逢ったのは一年前。彼が私の勤める会社に転職して来たことが始まりだった。
人材サービス業を手掛ける当社は、近年破竹の勢いで業績を伸ばしている。さらなる飛躍のため外部から新しい人材の採用にも積極的だ。次から次に中途採用者が入社してくる。既存社員にとっても新しい人が入ってくるのはさして珍しくもない見慣れた日常となっていた。
彼もそんな一人で私が在籍している営業部に配属されて来た。前職でも営業マンだった即戦力の25歳――私の2つ年上だ。
「はじめまして、榊一樹です。学生時代からずっとサッカーをやっているので体力には自信があります! 酒も強いです! 昨今職場の人を飲みに誘うと嫌がられがちですが、俺は飲みニケーション大歓迎です!」
ああ、この人は学生時代から人の輪の中心にいる人気者タイプだなと第一印象で思った。
爽やかな見た目、明るい笑顔、不思議と人を惹きつける話術で彼は入社初日から一気にみんなの心を掴んだ。そして驚くほどの早さで職場に馴染んでいった。
同時に独身で彼女がいないと判明した途端、彼は女性社員からの注目の的となった。誰とでも愛想良く接する彼は非常にモテたのだ。よく仕事終わりに女性と飲みに行っているようだったが、特定の誰かと良い仲になっているという噂は聞かなかった。
私はといえば、同じ部署にいながらも特に仕事上関わりもなかったので、彼とはオフィス内ですれ違った時にたまに挨拶を交わす程度だ。
「お疲れ様です」
「あ、羽村さん。あれ? もしかして髪型変えた?」
「いえ、特には」
決して愛嬌があるとは言えない反応の薄い私は、それこそ必要最低限、言葉少なく接していた。
「おかしいなぁ。いつもより髪がくるんとしてる気が。あ、もしかして今日はデートで気合い入ってるとか?」
「……そのような予定はありません」
「それなら俺と飲みに行かない? 羽村さんとは飲みに行ったことないから一度飲んでみたいなぁと思ってて」
「遠慮しておきます」
だというのに、驚いたことにそんな私に対しても、彼はいつもと変わらず平常運転。明るい笑顔で軽口を叩く。
最初は「馴れなれしい」「うっとしい」と心の中で思っていた。
だけど慣れとは恐ろしい。
不思議なもので、これが半年も続けば、彼との会話をちょっと楽しいと感じ始めている私がいた。
そんな頃だった。
彼との関係が決定的に変わったのは。
そのきっかけは年度末に開催された部署全員参加の飲み会だった。普段はあまり酔っ払わないのに、その日の私は飲みすぎてしまい、気付けばタクシーの中にいた。誰かにもたれかかるようにして座っていて、逞しい腕が私を支えてくれている。
重たい瞼をゆっくり持ち上げ、ぼんやりする頭で隣を見れば彼だった。酔った私を自宅まで送り届けてくれていたのだ。タクシーから降りてもフラフラしている私を抱き留め、部屋まで一緒に来てくれた。
たぶん彼は私をどうこうするつもりはなかったのだと思う。酔っ払いを放っておけず、本当に善意で介抱してくれたのだろう。
だけど部屋に着いて、彼の腕があっさり私から離れていった時、私はその温もりが遠ざかっていくのが急に寂しく感じた。
もっと触れていたくてたまらなかった。
「…………もう少しだけ」
思わず引き止めるような言葉が口をついて出た。甘えるような声は自分で自分のものかと疑うほど普段の私らしくない。これはきっと酔っているせいに違いない。
「まいったなぁ。そんな顔で見つめられると理性が飛びそうになるんだけど」
そう言いながら困ったように頭を掻いた彼は、少し距離を空けて私の隣に腰を下ろす。その距離がもどかしくてたまらなかった。
「……そんな物欲しそうな目して。あれだ、羽村さんは酔っ払うと甘えたくなるタイプか。普段は頑張って気張ってる感じだもんね」
意外と鋭い彼の指摘にドキリとした。
そう、いつもの私は心に鎧をつけている。躾の厳しい両親の叱責を回避するための術だ。幼少期からの習慣は大人になった今でも根付いている。感情が抑制されているのもそのせいだ。
その時ふいに彼の手が伸びてきて、子供をあやすように頭を撫でられた。
その大きく温かな手はまるで私の存在を肯定してくれるようでなんだか泣きたくなった。衝動的に縋りつきたくなる。
「おいで、もっと甘えさせてあげる」
彼の口から放たれたその一言は鮮烈だった。私の鎧を粉々にする。甘やかして欲しいという欲求が溢れ出て、その心のままに次の瞬間には彼の胸に飛び込んでいた。
背中に手を回され、ギュッと抱きしめられる。全身を包みこむような温かさが泣きたくなるくらい心地よかった。だからその後に口づけが落ちてきて、そのまま押し倒されても私は拒まなかった。
心の鎧をいとも簡単に紐解いてくれ、私の心の奥を暴いてくれる彼になら初めてを捧げてもいいと思ったのだ。
◇◇◇
その日から私たちは会社の人には内緒で逢瀬を重ね、何度となく身体を重ねた。
彼は私の心だけでなく、身体の隅々まで暴いていった。組み敷かれて甘く鳴かされるたびに、言い表しようのない甘い幸せと開放感が私の身体を支配する。
彼の前では肩肘張らず、素直に甘えられる。それがたまらなく居心地がいい。こんな気持ちは初めてだった。
私は程なくして彼に恋情を抱き、日々のめり込んでいっているのを如実に感じるようになった。
ただ一方で、このまま彼に溺れてしまって大丈夫か、とブレーキをかける自分もいた。
なぜなら彼から「付き合おう」という台詞を言われていないからだった。
好きとは言ってくれる。
身体も重ねている。
でも今の私たちの関係に名前はない。
第三者が聞いたら「セフレ」と分類する関係なのではないかとは薄々感じていた。ハッキリさせたいのなら尋ねればいい。それは分かっている。ただそれが怖かった。
もし彼に明確にセフレだと言われたら?
関係が終わることになってしまったら?
彼が私から離れていくかもしれないと想像するだけで耐えられない。その可能性が一ミリでもあるならば聞かない方がマシだと結論付けてしまうのだ。
だが、そんな名前のない曖昧な関係は、次第に私の心を蝕んでいった。
行為の後、私に背を向けて眠る彼の横でふいに涙が頬を伝う。
泣きたくて泣いているわけではない。完全な無意識だ。だからこそ、いかに私がこの状態に限界を感じ始めているのかが分かるようだった。
「……聞きたいことがあるの。……私と一樹くんの関係って何? 一樹くんは私のことどう思ってる?」
そして名前のない関係になってから約3ヶ月が経った頃。私はついに耐えきれずに、彼との情事の後にこう口にした。
腕枕をしながら私の髪をすいていた彼は、手を止めて目を瞬く。
「何、いきなりどうしたの?」
「……本当はずっと確認したかったの」
「そう言われてもなぁ。いつも伝えてる通り、俺は紗南のことが好きだよ」
チュッとこめかみに唇を寄せてくる彼はいつも通りだった。
彼はいつも「好き」とは言ってくれる。
私を可愛いと言って甘やかしてくれる。
でもやっぱり肝心な一言がない。
「……付き合ってるって思っていいの?」
今日こそは曖昧なまま終わらせたくない一心で、私は核心をつく質問を重ねた。
その途端、一樹くんが身構えたのが分かった。先程までの甘い空気は霧散し、重苦しい空気が漂ってくる。
「……紗南は俺と付き合いたいの?」
「うん、そうだけど……」
「好きっていう気持ちで一緒にいるだけではダメってこと?」
「えっ……」
思いもよらない問いを受け私は言葉に詰まった。一体彼は何が言いたいのだろう、と戸惑う。
「紗南だから打ち明けるけど……俺さ、付き合うっていうのがトラウマなんだよね」
そう言った彼が語り出したのは彼の過去だった。
彼は今まで一人としか付き合ったことがないそうで、その初めての彼女とは長年付き合った末に数年前に別れたらしい。彼女の手酷い裏切りによって。
本気だったからこそかなり傷付いたという。それ以来、軽い女性不信になり、付き合うことが怖くなったそうだ。
「隠すつもりがないから言うけど、元カノの後も身体だけの相手はいたんだ。付き合うのがトラウマってだけで、別に性欲がなくなったわけではないから」
ということは、私もその一人かと悟り、自然と目線が下を向き顔が俯く。多少の覚悟はしていたはずなのに胸が痛い。じわりと涙が滲む。
「ただ誤解して欲しくないのは、紗南はこれまでの身体だけの相手とは全く違うってこと。俺、紗南のことは本当に好きだよ。今までとは違うって思ってるし、特別だと思ってる」
「じゃあ……」
「でも正直言って付き合うのはまだ怖い。だから今のままではダメかな? 俺は紗南とはこれからも一緒にいたい」
もし私がこの時冷静だったならば、なんて都合の良いズルイ言葉なんだと思ったことだろう。
だが残念ながら、すでに彼に心囚われている私には手遅れだった。
「今までと違う」「特別だ」という言葉の数々は実に甘美な響きだったのだ。
今はトラウマに雁字搦めになっている彼でも時が経てば変わるかもしれない。いや、私が変えてあげられるかもしれない。
そんな未来への期待抱かせるには十分だった。
「一樹くんの気持ちは分かった。私も一樹くんのことが好きで一緒にいたいのは同じだから、今のままでいいよ」
「良かった……! 紗南なら分かってくれるって思ってた。俺のこと理解してくれて嬉しい!」
一樹くんは嬉しそうに笑顔を浮かべ、私の唇へキスをした。その口づけに応えながら、重ねて投げかけられた言葉に心をくすぐられていた。彼を分かってあげられるのは私だけという優越感が胸を満たしていたのだ。
こうして名前のない関係は両者の合意を得て継続されていった。
でもそれもきっと今夜で終わりだ。
◇◇◇
「そのうち分かると思うから伝えておく。相手は経営企画部に先月転職して来た綾川茉侑さん。紗南も面識あるだろう?」
「綾川さん……」
意志の強そうな瞳をした黒髪美人が頭に浮かぶ。他部署だけど仕事で何度かやり取りしたことがある。一見近寄りがたい雰囲気なのにパッと華やぐ笑顔が印象的な女性だ。入社して間もないにも関わらずすでに即戦力として活躍していると聞く。
「茉侑と付き合おうと思ってる」
その一言は私の胸をグサリと刺した。
今、彼はなんと言っただろうか。
付き合いたいと思ってる……?
それはこの一年、いつかきっとと淡い期待を抱き続けた私が、どんなに望んでもついぞ聞けなかった言葉だ。
それなのに出会って一ヶ月の綾川さんにその言葉を口にする彼に愕然とする。
ほぼ毎週末どちらかの家で会って、たまには外へデートに出掛けて、キスをして、身体を重ねて、愛をささやき合って。
事情を知らぬ第三者から見れば恋人そのものだった私たち。彼は女性と二人で飲みに行くのも控えるようになって、本当に私だけを見てくれていた。
嬉しかった。幸せだった。
きっといつかはと思っていた。
だけど、そんな月日は無意味だったということだ。
「……綾川さんとは、付き合いたいって思ったんだね」
ポツリと溢した言葉がやけに辺りに響く。
やりきれない気持ちが滲み、遅ればせながら悲しみが込み上げてくる。
でも不思議なことに涙はでない。人は本当に辛い時には心が麻痺して泣けないのかもしれない。
「ごめん。信じてもらえないかもしれないけど、紗南を傷つけるつもりは本当になかったんだ……。紗南にならいつかその気になるって思ってた。他人から見たら都合の良い女扱いだと言われるかもしれない。でも俺は紗南のことは決して遊びではなかったよ」
彼の瞳は真剣な光を宿している。本心からそう言っているのは分かった。彼は彼なりに私を好きでいてくれて、特別に思ってはいてくれたのだろう。
でもそれは「付き合いたい」と思わせるほどの気持ちではなかった。そう思わせるだけの女性に私はなれなかった。それだけだのことなのだと理解している。
トラウマだなんだというのはただの言い訳。
きっと最初に「付き合う」選択肢が彼の中で生まれなかった以上、どれだけ時間を重ねても結末は同じだったのだろう。
恋は時間や理屈じゃないのだ。
「……ごめん。最低だな、俺」
「うん、一樹くんは本当にズルイ男だよ。付き合ってくれないくせに、私のことを好きって言うし、特別だって言うし。挙句に最後まで遊びじゃなかったって言うんだから」
「……紗南の言う通りだな。本当にごめん」
「いっそ遊びだったって言ってくれた方が心置きなく恨めたのに」
そう、その方がきっと良かった。
否応なく嫌いになれた。
なのに、彼は最後まで私を好きな人として扱う。綾川さんのような本気になれる人が現れたら一瞬で心を掻っ攫われていく程度の「好き」のくせに。
去り際、彼は玄関先で私を振り返る。
ここから外へ一歩出れば、もう私たちの「名前のない関係」も終幕だ。
明日からは「榊くん」「羽村さん」と呼び合うただの同僚に戻る。
彼はもう二度とこの部屋に足を踏み入れることはないだろう。
「最後に俺のこと一発殴る? それで紗南の気が済むならいくらでも殴っていいよ。紗南にはその権利があるから」
「……そうだね。そうさせてもらおうかな」
ふいに投げかけられた提案に私は鷹揚に頷く。そして彼の方へ一歩近寄り、手を伸ばした。
だけどその手は彼の頬に向かうことはなく、通り過ぎて彼の背に回る。気が付けば私は玄関先で彼に抱きついていた。
慣れ親しんだハーブ系の香りが鼻を掠める。その香りだけで様々な思い出が脳裏をよぎり心がギュッと掴まれるようだ。
ああ、やっぱり彼が好きだ。
こんなにズルイ男なのに、嫌いになれない。
いつもなら彼の手も私の背に回りギュッと抱きしめ返してくれる。でも今日の彼はただその場に立ち尽くすだけだった。
拒否はしないけど、受け入れてもくれない。それが今日からの私たちの距離を物語っている。
抗いようのない寂しさがドッと胸に押し寄せてくる。最後の最後でついに感情が振り切れ、目に涙が盛り上がってきた。
泣きたくない。
彼の記憶に残る最後の姿が泣き顔だなんて嫌だ。せめて「いい女だった」と思ってもらいたい。
いつか彼が手放したことを後悔するようないい女として記憶に留まるのだ。
そう思った私は一樹くんから身体を離すと、迫り上がってくる涙を必死に耐え、彼の目を真っ直ぐに見据えてにこりと微笑んだ。
「今までありがとう。一樹くんのこと本当に大好きだったよ。……綾川さんと幸せになってね」
ツライのに強がりながら涙を浮かべて笑顔で相手の幸せを願うーー健気で心優しいいい女を、私はなけなしのプライドでもって最後に演じた。
彼が悲痛な面持ちになり、思わずというように私に向けて手を動かそうとしたのが視界の端で映る。
だけどその手が伸びてくることはなかった。
一瞬だけ瞼を閉じグッと思い止まった彼は、私に背を向けるとそのまま扉の向こう側へ姿を消した。
「ああ、終わっちゃったんだ……」
バタンと玄関の扉が音を立てた途端、それが合図となって震えた声と涙が零れ落ちた。
胸が苦しくてたまらない。
これほど苦しむくらいなら出逢わなければ良かったのだろうか。
いや、それはきっと違う。
結局彼の彼女にはなれなかったし、苦しいことも多かったけど、私はこの一年を決して後悔はしていない。
感情の欠落した冷めた人間なのだと思っていた私に、彼は人を好きになる喜びと幸せを教えてくれた。
この経験は貴重なものだ。だから感謝している。
もし仮に時間を巻き戻せたとしても、何度考えたってやっぱり私はまた彼と出逢う選択をするだろう。
それくらいこの一年は私にとってターニングポイントとなる意味のある時間だった。
「そんな人生における転換点を笑顔で締めくくれて良かった」
今はまだ胸が痛いけど、笑顔で感謝を伝えることができた今夜の別れは、きっとかけがえのない人生の糧となるはずだ。
私の人生の一ページに刻まれ、いつか大切な思い出として昇華される、そう信じたい。
「ずるい男だったけど、一樹くんを好きになって良かったって思ってるよ。私に「好き」の感情を教えてくれてありがとう。……さようなら」
弱々しいながらもどこか清々しさが滲む声は、夜の闇に響く蝉の鳴き声に掻き消されて消えていく。
いつの間にか涙は止まっていた。
〜END〜