頭が重くて目も開かない。
 目を閉じたままゆうべ飲んだワイングラスの数を頭の中で数えていると、フッと甘い香りが鼻についた。

(前にも嗅いだことのある匂い。だけど、どこで・・・?)

 そう思いながら薄目を開けると、私は心臓が止まるかと思った。
 目の前には新が立っていた。

「おはよう。」

 しかも雰囲気から察するに、ここはラブホテルの部屋だ。

「あの、私たち・・・?」

「もしかして覚えてないの? あんなに飲むからだよ。」

「それは新との会話の()を埋めるためで・・・。」
 弁明しながら起きようとすると、部屋がぐるりと回って気持ち悪い。再び枕に顔をうずめると、またあの甘い香りに包まれた。

「無理しないで寝ていたら? 今日は昼から出勤したらいい。」

 よく見ると新はもう身なりを整えている。
 私は布団で顔を隠しながら、謝った。

「なんか、迷惑かけてスミマセン。記憶なくて・・・大丈夫ですか?」

 新はクシャッと笑うと、布団をずらして私の顔をのぞきこんだ。

「それは俺のセリフ。襲ってはいないから安心して!
 でも、起きなかったら・・・。」

「え?」

「なんでもない。じゃ、先に店に行ってるね。」

 ※
 
 昼から出勤した私は新を避けるように仕事をした。
 何もなかったとはいえ、同じベットで一夜をともに過ごしたことは黒歴史で間違いない。

 運が悪いことに、今日の私を指名する顧客はいなかった。
 他のスタイリストのヘルプをして時間を過ごしていると、急に新が話しかけてきた。

「髪を切りたいんだけど、梅ちゃんを指名してもいい?」

「あ・・・。」

 どう言い逃れしようか考えていると、受付嬢の由梨花が個室の鍵を渡した。

「いってらっしゃい♪」

 本当に私が新の髪を切るの⁉

 ※

 同業者のカットは苦手。
 新はそんな私にお構いなしに、個室のセット面に足を広げて座った。

「梅ちゃんの好みのタイプにして。
 あ、彼岸くんみたいなマッシュにしたら梅ちゃんにハマるかな?」

「冗談はやめてください。
 それに彼岸は私のタイプじゃないです。」

「聞いて良かった。
 あと、今はふたりきりだから敬語禁止!」

 グイグイくるじゃん。
 私は気をつかうことを諦めた。

「じゃあ、思い切って短くする?
 ツーブロックを生かしたスパイキーなアップバングにしてみるとか。」

 同業者のカットは苦手だけど、新の髪をイメチェンするのは面白そう。
 
「いいね。今年の夏は暑かったから本当はショートにしたかったんだ。
 昔は俺、野球部だったし。」

「坊主頭だったの?」
 
 意外すぎて、鏡越しに新を見つめてしまっていた私。
 それに気づいた新が、上目遣いにはにかんだ。

「自分の髪は効率ばっかりで、デザインなんて考えたこともなかった。
 だからこそ、他人の髪にはこだわってしまうのかもなって、最近思うんだ。」

 確かに、新のカウンセリングは他のスタイリストより長い。
 以前ならしつこい性格だなと思っていたけど、事情が分かると納得だ。

 それも指名人気につながるなら、私も見習わなきゃ。

「新の髪って、多いけど柔かいね。細かくガイド取っていくね。」

 その時、新の髪からふんわりと甘い香りが漂った。
「この匂い、なんの香りだっけ?」

「銀木犀。」

「金木犀は知ってるけど、そんなのあるんだ。」

「中毒性のある花で、【誘惑】の意味があるんだって。」

 ※

「梅ちゃんって、丁寧な仕事をするよね。」

 新は私に髪を切られている間も、ずっと私の手もとから視線を外さない。
 ねっとりと絡みつくような視線を受けながら、私は無意識に汗ばむのを感じていた。

 銀木犀の花言葉を聞いてしまったからだろうか。
 緊張とはまた違った種類の汗。

「お客様からのクレームも一度も聞いたことないし。見ていて安心する。」

 私、見られていたんだ・・・。いや、店長だから当たり前か。

 私はシルバーの枠の両面鏡を見開くと、新の後ろ姿が見えるように正面の鏡に反射させた。

「出来たけど、どうかな?」

「完璧。セットが楽そう。逆にどう?」

「私天才かも。」

「自分で言う?」

 私と新は昔からの友だちのように弾けて笑い合った。

 ※

「ね、金曜の夜って空いてる?」

 美容道具を片付けるのを手伝っていた新が、不意に甘えた声を出した。

「顧客のDJがシティポップのイベントをやるんだけど、チケットが余ってるんだ。
 入場タダだし良かったら行かない?」

「えっと・・・友達が少なくて。
 前はよく彼岸と踊りに行ったりしてたけど、さすがに既婚者は誘えないしね・・・。」

 アイロンのコードを巻き取る手を止めた新が、パッと顔を輝かせた。

「じゃあ、俺と行く?」

「新だって既婚者でしょう。」

「俺のところは大丈夫なの。じゃあ、決まり。金曜日楽しみにしているね。」

 なんで、家族がいるのに大丈夫なんて言うの?
 私はそう思ったけど口には出せずにいた。
 黒い大型のミニバンが私のマンションのエントランスに横付けされて、私は運転席の新に手を振った。
 元彼がセダンタイプの車に乗っていたから、大きくて長い車が新鮮に思えた。

「あんまり片付けてないけど、気にしないで。」

 自動で開いた扉の後部座席にチャイルドシートが2つ取り付けられている。

 ・・・だよね。
 分かっているのに、この気持ちはなんだろう。

「いつもと雰囲気違うね。」

 薄い色合いのサングラスを少しずらした新が私を上から下まで眺めた。
 いつもはユニセックスなワイドシルエットの服装にお団子頭だけど、今日は黒のAラインミニワンピースにフワフワにした編み込みをたくさん引き出して、インナーカラーを目立たせたあざとい系女子を意識している。

「シティポップのイベントは初めてだから、とりあえずシンプルにしてみたんだ。」

「・・・可愛い。」

「やめてよ。あんまり褒めると勘違いしちゃう。」

 サングラスの柄を咥えた新が、聞き取れないくらいの小声で呟いた。
「勘違いしてもいいよ。」

 助手席のシートベルトを締めた途端、車は私を乗せて走り出した。

 ※

 ネオンが輝く歓楽街に向かっていると思ったのに、連れてこられたのは街灯の少ない丘の上。
 しかも林に囲まれた最奥部の一軒家だった。

「ここでイベントがあるの?」

「梅ちゃんを独り占めしたくなったの。」

「え?」

「俺の隠れ家へようこそ。」

 ※

「わあ!」

 ほの暗い狭い階段を二階に上がると、一軒家の外観からは想像ができない夜景が大きな窓一面に広がるバーだった。
 5席とカウンターと最低限のキャンドルの灯りしかない室内にはひっそりとジャズが流れていて、静かな大人の空間を醸し出している。

「私浮いていないかな。」

 生オレンジがお洒落に飾られたカクテルに怖気づいて新にそっと耳打ちすると、新がお月様のような丸い氷の入ったロックグラスを傾けて肩を寄せた。

「素敵ですよお姫様。」

 絶好のロケーションに美味しいカクテル。
 これで隣に座る新が彼氏だったら、文句ナシに最高の神デートなのに。

 ぼうっと宝石のような夜景に目を奪われていると、「ハッピーバースデイ!」という声ともに花火が刺さったケーキを店員さんが運んできた。

「おめでとう同い年!」
 新が頬杖をついてニコニコしている。

「わ、私の誕生日⁉ なんで知ってるの?」

「アシスタントたちが昨日、話しているのが聞こえちゃったんだ。」

「ねえ新。嬉しいけど、こんなの奥さんにバレたら勘違いされるよ。
 もしかして、ケンカでもしてるの?」

「うちは仲良し夫婦だと思うよ。」

「なら、どうして・・・。」 

 私はどういう顔をしていいか分からなかった。

 ※

「梅ちゃん、今日は俺のわがままに付き合ってくれてありがとう!」

 マンションの部屋の前まで送ってくれた新は、ニッコリと微笑んだ。

「正直に話すと俺、デキ婚で奥さんにトキめいたことがないんだ。子供は可愛いけど、生活は義務みたいな感じ。
 でも、藻岩店に配属されてから太陽みたいな梅ちゃんに出会えて、毎日が刺激的になったんだ。
 おかげで独身に戻れたみたいで楽しかったし、それに・・・。」

 新は目をそらすと、自分の前髪をクシャリとつかんだ。

「梅ちゃんを本気に好きになりそうな自分に、いい思い出ができた。」

 何よ、それ。

「おやすみ。」

 踵を返して背中を向けた新に、走って追いついた私は後ろから抱きついた。
「新のバカ!」

 むせかえる銀木犀の香り。
 いつもほのかに香っていたそれは、今夜は妙に鼻についた。

「自分だけ思い出にするなんて、ズルいよ・・・!」

「う、梅ちゃん?」

「私、私の気持ちはどうなるの?」

 新がジッと動きを止めて、黙って私の言葉を待っている。
 私は嗚咽を漏らしながら叫んだ。

「ダメなのに・・・新のこと、好きなのにッ・・・!」

 新は振り向きざまに私の唇に震える自分の唇を重ねた。
 長いまつ毛が、私の目の前に霞んで見えた。

「いいの? もう、戻れなくなるよ。」

 私は新の言葉を遮るように背伸びをして唇をふさぐと、新に強く抱きしめられた。

 獣のようにお互いを求めるわたしたちは、ひと気のないマンションの廊下で果てないキスに溺れた。
 一夜をともにした次の日から、新の私に対する執着は度を越してあからさまになった。

 朝はお迎えに来て一緒に出勤し、昼休憩は私のマンションで過ごす。
 営業後も平日は必ず立ち寄り、帰宅後も眠るまでメールでやり取りをする。
 
 店の中でもヒマさえあれば人目を盗んで手を繋ごうとするので、目撃したスタッフの間で私たちの不倫の噂はあっという間に広まってしまった。
 彼岸にまで距離を取られてしまったのは自業自得で、もはや弁明のしようがない。

 私たちは狂っている。
 自覚症状があるのにやめられない。

 これはすべて銀木犀の香りのせい。

「わざとだよ。梅ちゃんに気づいてほしくて、誘惑したくて選んだ香水なんだ。」

 私の肌を愛撫するたびに、新は耳元でそう囁いた。
 それはまるで、呪いの言葉。

 新が家族サービスで会えない週末は眠れなくて睡眠薬が増えた。
 ダメだと思ってもやめられず、吐いては眠り、また目が覚めると薬に手が伸びる。

(いつか、悪い夢が醒める日が来る。)

 私は新が既婚者で子供と幸せそうに暮らしているということを、悪夢のように思っていた。

(本当の世界の新は、私とつきあっている新だ。)

 ※

「梅ちゃん、どうせヒマでしょ?」

 ある日曜日、彼岸が私のマンションに現れた。
 新を待つために引きこもっていた部屋から無理やり連れ出された先は、街中にある大きな総合病院だった。

「梅ちゃんさん、お久しぶりです。」

 彼岸の嫁の4つ年下のすずが、ベットの上で微笑んでいる。
 腕には生まれたての小さな赤ちゃんを抱えて。

「俺に似てイケメンだろ。」

「あら、あたしに目は似てるってお義母さんが言ってたよ。」

 私には2人が眩しすぎた。

「 梅ちゃん、ひかるを抱っこしてみる?」

 誇らしげに赤ちゃんを私に手渡そうとする彼岸に、私は一瞬怯んだ。
 見たこともない新の家族が頭によぎる。

 私にそんな資格があるかな・・・。
 壊れ物のような赤ちゃんを、私は恐るおそる受け取った。

 温かい。それに、小さくて軽い。
 小さな手が不器用にうごめくのを見て、私は閉じようとするその手の中に小指を差し込んだ。

 すると私の指に触れた小さな手が、すごい力で私を捕えた。
「こんなに小さいのに、すごい力!」

 私は自分の顔がほころぶのが分かった。

「最近悩んでるみたいだから、パワーもらって帰ってよ。
 いつでも悩みは聞くから、ひとりで抱え込まないで前みたいにメールくれよな。」

 彼岸の言葉がまるで呪いを解く呪文のように頭の中に響いて、思わず泣いてしまった。
 
 醜い恋の終わりは突然訪れた。
 いつもどおり新のミニバンに乗ったときのこと。

 いつもの甘い口調で新が私の膝に手を這わせた。

「そういえば、このまえ車にパンスト忘れていっただろ?
 奥さんに言い訳するの大変だったんだからな。
 くれぐれも気をつけてよ。」

「奥さんの勘違いじゃない? 私がパンスト履くような服装をする訳ないじゃない。」

 そう言い返したときの新のひきつった顔。
 私は、自分でも驚くくらい醒めてしまった。

 胸に氷のかたまりがあるかのように、冷えた心は頭を冷静にさせた。
 奥さんがトラップを仕掛けたか、別の浮気女の存在アピール?

 どちらにしても、もう限界。

「もういい、止めて。」

 私は新に急ブレーキをかけさせて、勝手に車を降りた。

「梅ちゃん、待って。」

 運転席の窓を開けて、新が叫んだ。
 私はこころから笑いながら叫び返した。

「だいじょうぶ。
 もう、私ひとりで歩けるから。」

 新の声が遠くなり、私はひとりで硬いアスファルトを踏みしめた。
 紅葉が辺り一面を覆いつくし、地面は色鮮やかな絨毯みたいだ。
  
 あの車を降りるまでは、世界がこんなに美しいことに気づかなかった。
 
 銀木犀の木もやがてくる冬に備えて葉を散らす。
 もうあの誘惑の香りは匂うことはない。

 私は空を見上げた。

 息が白く立ち昇る。
 もうすぐ冬がくるだろう。

                 〈終〉
 

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