――人生を引き受けるってことは―― 
                       
「あなたには、私の人生を引き受けられないわ」
灯りだらけの東京のビルの上に月が輝く秋の金曜の夜、セイコは地下にあるジャズ・ハウス「ロッキンチェア」のカウンターで、左隣に座る一歳年下の同僚ヒロユキの目を見すえ、投げやり気味にそうつぶやいた。

「プロポ―ズみたいな言葉はありがたいんだけど、あなたは私の過去を知らなさすぎるの。私の過去を知らないうちにそんな言葉吐いちゃって…酔ってたってことにしておきましょう、ね」

ヒロユキはセイコが言っている意味が分からなかった。気のおけない話もできるし、音楽や映画の趣味も合う。笑いのツボも同じなのに、なぜこの人はこんなことを言うのだろう。しかもオレ、酔ってないしシラフだし。

そこでヒロユキは素朴な疑問を投げかけた
「どうしてボクにはセイコさんの人生を引き受けられないの?」
……30秒ほどの沈黙の時間が流れた。それはヒロユキにとっては五分にも、十分にも感じられた。

セイコはその間ヒロユキから視線を外していたが、何かを観念したかのようにヒロユキに視線をやり一言つぶやいた。
「煙草を一本吸わせて頂戴」

席は離れているものの、同じフロアで働くセイコが煙草を吸うとは知らなかった。なるほど、俺はこの人のことをほとんど知らないのに、ましてや肌の接触すらないのにプロポーズのような言葉を吐いてしまったのか。やっぱり俺、酔ってるのか…ヒロユキはそう思いながらセイコの挙動をぼんやりとながめている。

セイコはバッグからメンソール・シガレットを取り出し、スリムな電子ライターで火をつけ、煙を大きく吸い込み、ため息のように煙を吐いてひとことつぶやいた
「私、DV夫から逃げるようにして東京に来たの」

ヒロユキはまさかの話の展開に「え?」という驚きの言葉しか出てこなかった。
セイコは続けた。
「先月、やっと離婚が成立したの。その間2年半の時間が必要だった」
セイコは煙草の火を灰皿に押し当て、最後の煙を吐き出しながら、ヒロユキの目を見ずに言った。

「DVってね、身体が傷つくだけじゃないの。それよりも心がボロボロになっちゃうの。むしろそっちの方が辛い。そして恐怖に怯えながら、痛みに耐えながら相手の思うがままにコントロールされてしまう。その人から離れたくても離れられなくなるし。ばれると仕返しが怖いので、誰にも相談すらできなくなる。そして挙句の果てには誰も信じられなくなるの」

セイコは一気に話すと、二本目の煙草に火をつけ、話を続けた。
「誰も信じられなくなっていた状態からやっとの思いで逃げ出し、新しい人生を送ろうと東京に流れてきた私の過去・現在・未来を、あなたは引き受けられない。さっきの言葉はそういう意味だったの」

ヒロユキの前には汗をかいたハイボールのグラスがある。氷も溶け炭酸も抜けきった、飲み頃をとっくに過ぎてしまったウィスキー。セイコの話で胸一杯になり、とても口をつけるような気分にはなれないでいる。そして、誰がリクエストしたのか、バックに流れるマイルス・デイビスの奏でる音が、鬱陶しくも耳にからんできて、どちらかと言えば好きなミュージシャンなのに、今夜だけは最高に不快なノイズに聞こえてくる。
やっぱり俺は引き下がるべきなのか…瞬間ヒロユキの頭の中をそんな思いが駆け抜けた。

「もしかしたらあなたの前にあるウィスキーが、今のあなたにとっての私のようなものかもしれないわ」
「どういう意味?」
「ふふっ、自分で考えて。どうとらえられても構わないから」
この店に腰を据え、重い話になってからセイコが初めて見せた笑顔の瞬間だった。もちろん楽しさゆえの笑顔ではなく、自虐的な意味合いでの笑顔だったのだが…

「さ、何か頼みましょう。それをラストオーダーにしましょう」
セイコはバーテンダーに声をかける。
「すいません、バカルディカクテルを下さい。で、あなたは何にする?」
そう訊かれたものの、ヒロユキは強い酒を飲む気分にはなれず、柄にもなく飲みやすいリースリング・ワインを頼んだ。

二人の前にグラスが置かれた。
「私の秘密を知ったから、会うのはもう今夜限りにしましょう」
笑って言うセイコに、ヒロユキはその言葉を押し返すような気力はなかった。そう、彼女の人生を引き受けるだけの懐の深さは、自分にはないということを思い知ってのことだった。

「乾杯だけ、させてください」
ヒロユキが言える精一杯の言葉だった。
「乾杯」
グラスの当たる音がした。それは軽快な音ではなく、『こすれたような』寂しげな音だ。
そして二人は最後の杯を飲み干した。

「嫌な話を聞かせたから、ここは私に払わせて」
「ダメですよ、僕が…」
ヒロユキの言葉を左掌でさえぎり、セイコは支払いを済ませた。

店を後にし地上に出る階段の踊り場で、一歩先を行くセイコは背の高さを合わせるかのようにヒロユキの一段上で立ち止まり、振り向きざまにヒロユキの首に手を回して唇を奪い、一言「さ、行きましょう」と言葉を投げかけ、きびすを返し階段を足早に昇りはじめた。

二人は地上に出た。ヒロユキは「行くって、どこへ?」と訊く気にもなれず、ただ雑踏の中を、三歩ほど前を行くセイコの後ろ姿を見失わないように歩くのが精一杯だった。
週末の酒に酔い上機嫌のサラリーマンやいろんな国からのインバウンドの話す言葉、挙動が怪しい半グレの行き交う街を、セイコは言葉を発することもヒロユキを振り返ることもなく黙々と歩き続ける。

オフィスのセイコは必ずかかとが低く動きやすい靴を履いている。その姿しか見たことがないヒロユキは、淡くオレンジがかったミドルヒールを履いているのを見て、こんな状況なのにどういうわけか大人のオンナを感じてしまった。また黒のワンピースに身を包んだ後ろ姿が華奢で、思っていたよりも小柄なことに今さらながら気がついた。こんな小さな身体でDVを受け、耐えていたなんて思うと、さぞかし辛かったんだろうな。でも、俺にはその過去も現在も、そして未来も、やっぱり引き受けられないんだろうな…
ヒロユキはそんなことを思いながら、セイコを見失わないようにひたすら後ろをついて行く。

セイコはホテル街の方へと歩みを進めていく。サウスポーのヒロユキは右腕にはめた時計に目をやる。23時15分。終電までまだ時間はある。この人はどういう考えなんだろうか。訊くのは野暮だ。ともかく後をついて行こう。ヒロユキは街灯も人影も少ない路地に入って行くセイコの後ろ姿を追い続ける。

セイコは一軒のホテルの入り口で立ち止まり、振り返ってヒロユキを呼び込む。
「よくついてきてくれたね。ここ、入りましょ」
建物の中に入り、所定の部屋のドアをセイコが開け、ヒロユキを先に通して自分も入室し施錠した。セイコはヒロユキを見上げ、手を首に回しキスをする。さっきの階段の踊り場のように段差がないので、小柄なセイコはヒロユキにぶら下がるような状態になりながら、ディープキスをする。

ヒロユキから離れたセイコは自ら服を脱ぎ捨て、一糸まとわぬ姿でヒロユキに向かって低い声で言う
「これが私のDVの無様な跡よ。しっかり目に焼き付けといて」
セイコはあざだらけの身体をヒロユキに見せつけた。右の乳房には数か所煙草が押し付けられた跡がみえる。
「さあ、よく見て。そしてここも!」
セイコは右人差指で左腕の内側の手首から10センチほど上がったところに付けられた幾つかの『ためらい傷』を指さした。
「そうよ、私。自分で死のうと思ったの。何度も、何度もね」
この一連の行為がヒロユキに対する彼女の精一杯の愛情表現、「私なんかを好きになっちゃダメ」というサインだった。

「あっ!」瞬間ヒロユキは息を呑んだ。どのあざよりもひときわ大きな、一生消えそうにないあざが右太ももの内側にあり、それを呑みこもうとする龍のタトゥーを目にした。
「気付いた、わね。これは他の誰とも寝ないようにと、あの男につけられたあざ。それを」
「それを?」
「克服してやろうと、そんな支配の象徴なんて呑み込んでやろうと、女性として私の大事なところ、つまり水脈(みお)を守ろうと、水の遣いの龍を彫ったのよ」
ヒロユキはすぐさま、過去を克服するというセイコの強い意志を読み取った。そして自分も一糸まとわぬ姿になり、セイコをベッドに横たわらせ、利き腕の左手で、これ以上ないソフトな指の動きでその龍のフォルムをたどった。
「今夜だけ。今夜だけあなたの身体で私を清めて」
セイコは今夜はじめてヒロユキに主導権を渡し、暴力のともなわない快楽を味わった。

週明けの月曜日、オフィスにセイコの姿はなかった。その日の就業前に課長から課のメンバーに通達があった。派遣元から連絡が入り、本日付でセイコと派遣会社の契約が切られた。彼女の後任については別の派遣会社から人材を依頼するよう、部長を通じて動いていると、実に事務的で簡単な言葉で伝えられた。

退社のタイムカードを押したヒロユキは、主のいなくなった椅子の背もたれにセイコの肌の感触を知る左指をそっと這わせ、目を閉じて龍があざを咥える様を思い出し、どこでどういう人生を送るかわからないけど、こんどこそ幸せに…そう念じてみた。