断罪された首なしの令嬢は、王都を復讐の濁流へと突き落とし壊滅させる ~婚約破棄の末に冤罪で斬首される運命の私の心を、どうかさらってください~

 断頭台の周囲に民衆が押し寄せ、広場に罵声が響く。
 聞くに堪えない言葉の羅列に俺は耳を塞ぎたくなる。

「お嬢さまっ……!」

 そんな中、死刑囚に寄り添った声をあげるのは、俺と行動を共にしていた侍女姿の女性だけだった。
 彼女は騒ぎの中心に駆け寄ろうとするが、目指す場所までの障害は多く辿り着くことは困難だ。

「リースっ……」

 それでも俺も彼女に倣うように、人ごみを掻き分けて断頭台を目指す。

 わああ! と周囲の歓声が一際高くなった時、漸く俺は断頭台が見える場所に躍り出ることが出来た。

「最後に一言、死刑囚に懺悔の時間を与えよう!」

 こんな出来事、信じたくはなかった。

 かつての彼女が言った(予言した)絶望的な未来(今目の前に見える光景)など訪れる訳がない。
 俺の傍にいるよりも……貴族の婚約者の元にいた方が必ず幸せになれるだろう。
 そう、願っていた。

 随分と見ない間に痩せこけてしまった頬に涙を流し、彼女は死刑囚の懺悔を望み沈黙する民衆に向けて、高らかに叫んだ。

「私の心は、私だけのものよ!」

 悲愴に溢れた表情と、哀愁に満ちた瞳が俺の心を抉る。

「だから、この世界に置いてはおけないわ……!」
「リース!」

 再び断罪を求める民衆の声で溢れ始める中であっても俺の声が届いたのか、決意を言い切った彼女へと視線を向けると目が合った。
 まさか俺が断罪の場にいると思わなかったのか、彼女の目が驚きで見開かれる。

「…………て……!」

 再び口を開いた彼女の声を、俺は喧騒の中で聞き取ることは出来なかった。

 代わりに、断頭台から死を告げる音が、やけに俺の耳に響いて聞こえた。

――ゴトンッ!

 それは、俺にとって望まぬ刻が訪れた合図。

「あ……」

 彼女が驚愕の眼差しのまま首を刎ねられる光景に、絶句する。
 俺はまた、彼女に手を伸ばすことが出来なかった。

 彼女の頭部が処刑人の足元に転がると、彼は何を思ったのか無造作に生首を蹴り上げる。
 生首が血飛沫を上げて跳ね上がる瞬間、彼女の首の断面から輝く何かが放たれたように見えた。

 頭部が放物線を描いて観衆者たちの中に放り込まれると、それまで彼女の死に歓喜していたはずの彼らは、突然訪れた恐怖から逃れようと我先に散らばり始めた。

「お嬢さま……!」

 俺と共に居た侍女が、人々の流れに逆らい生首へ縋るように駆け寄ろうとする。
 俺も彼女の後を追おうとした、が……。

 視界の端に違和感を感じて処刑人を振り返った。

「なん、だ……?」

 すると、断頭台に横たわっていた首なき彼女の躯が、魔法に掛かったように動き出す光景が目に映る。

「嘘だろ……?」

 彼女は間違いなく死んだ。
 処刑人が断頭台を用いて、彼女の首を刎ねたのだから。
 侍女が縋ろうとしている生首が、俺の眼の前にあるのだから。
 その上、躯の断面からはおびただしい量の血が流れ続けている。
 何が起きているか分からず、俺は呆然とするしかなかった。

 周囲の観衆たちがようやく目を疑う光景に気付いた頃、彼女の首なき躯はカーテシーを民衆に向かい披露する。
 淑やかさのある仕草だけは惚れ惚れとする動きをしており、あるべき頭部が健在であれば、彼女は見事な微笑みを湛えていただろう。

 しかし、現実には胴体側の首の断面が観衆に向けて曝されるのみ。
 平常人が目にすることのない人体の切断面と、そこから止めどなく零れる血液は、人々を狂乱の彼方へと落とし込む。
 ある者は恐怖のあまりに膝を付いて震え上がり、またある者は泣き喚きながら人混みを掻き分けて逃げ出そうとする。

 ……すると。

――ゴポ……ゴポ。

 晒された断面から沸騰したような音がしたかと思うと、氾濫した川のような勢いでおびただしい量の血飛沫が溢れ出た。
 目の前の光景が信じられずに呆然としていた民衆たちまでも、我先にと断頭台のある広場から逃げ出そうとする。
 しかし、広場は人混みの上混乱しており、誰しもが上手く身動きが取れないでいる。

 逃げ切れなかった観衆が、一人……また一人と、周囲に助けを請うが叶わず、次々と血の濁流に呑み込まれていく。
 呑まれた者は溺れたか、窒息したか……。
 いずれにせよ、再び出て来ることはなかった。

 ああ、これは……。
 彼女の死を望んだ者たちに対する、彼女の憤りと復讐のなのだろうか。

 流れ出る血は止まることを知らず、着実に俺の近くにまでやって来ようとしている。

 ここで俺も終わりか……。
 救いを求めたリースの手を取ることが出来なかった俺に、相応しい最期かもしれない。

 ……死を覚悟し目を閉じると、彼女との思い出がまるで走馬燈のように過ぎていく。
 彼女との出会いは、八年前だった。

 俺は町のはずれの広場で一人硝子玉を並べて見比べていた。

「何、見てるの?」
「わっ、なんだよお前!」

 急に後ろから声をかけられたことで驚いた俺は、慌てて見ていたものを隠そうとするが手遅れだった。
 彼女は興味深そうに俺の目の前を無遠慮に覗き込み、そこに並ぶ硝子玉たちを見つけてしまった。

「わー、きれいねー」
「え? そうかっ?」

 ここに並べた硝子玉は、俺が練習で作らせてもらったものだ。
 作ったものをほめられて、思わず声が弾む。

「うん。ねえ、さわってもいい?」
「いいよ! あ、でもなくしたりするなよ!」
「もちろんよ!」

 彼女は俺の目の前で横座りになると、硝子玉を手に取り始める。

「いいなー、この泡がいっぱいあるのが好きよ」
「それか? じいさんは泡が少ない方が良い、これは売り物にできない、って言うんだけどさ」
「おうちは硝子工房なの?」
「ああ」
「もしかして、これはあなたが作ったの?」
「そうだよ」
「わああ……! すごいわね!」

 彼女があまりにもキラキラした眼差しで見つめてくるものだから、俺は自分の硝子玉を誇らしく感じて、調子に乗ってふんぞりかえった。

「じゃあ、今度は他のも見せてやるよ!」
「嬉しいわ! 私の名前はね、リースよ」

 名乗られてからようやく見たことのない顔だと気付いた。

 そして俺はようやくここで、好意的な反応を見せてくれたリースに興味を持つ。

「リース? 他の町から来たのか?」
「そうよ、王都から来たの。しばらくはここに泊まるのよ」
「へえ、王都から。あ、俺はホロウ」
「ねえ、ホロウ。明日も見せてくれる?」
「うちに来れば? 一度に全部は見せられないからさ」
「ちょっとずつ見るのがいいの。ワクワクがずっと続く感じがするでしょう?」
「そうかー?」
「私はそうよ! ねえ、まだ見ていていい?」
「いいよ!」
「えへへ。じゃあね、お礼をあげるね。手を出して?」
「うん、なんだ?」

 ポシェットから硝子瓶を取り出したリース。
 瓶には色んな色の、硝子玉みたいな球体がいくつか入っていた。

「んっ? 硝子玉?」
「見てからのお楽しみ。さあ、手を出して?」
「こうか?」
「そうそう! えーっと」

 彼女が硝子瓶と体を一緒に斜めに倒して、俺の手に玉を転がそうとする。

――コロコロコロン。

 硝子瓶の中を軽やかに転がる玉の音は、硝子玉同士が鳴らす音とは違って聞こえた。

「ほんとだ。音が違うな」
「これはキャンディ。なめるお菓子よ。口に入れてとかして食べるの」

 彼女は自身の手にも転がしたキャンディを見本のように口に入れて、笑顔で味わい始めた。

「かまない方が味が長く楽しめておいしいのよ」
「ふーん……わ、あっま!」
「ふふ。でしょ? 私のおやつだけど、分けてあげるね」
「えっ、良かったのか?」
「もちろんよ。代わりにこの硝子玉を眺めさせて!」
「それくらいどんどん見ていけって!」
「ありがとう!」

 彼女は口にキャンディを頬張ったまま、硝子玉を手に空に翳した。

「本当にきれい……」

 どこか悲しそうな瞳で硝子玉を見るリース。
 どうしてそんな顔をするんだろうと、この頃はただ不思議に思うだけだった。
 毎年、暑い季節になると、決まって彼女が避暑と称して町にやってくる。
 麦わら帽子にレースのついた白のワンピース。
 二人分のキャンディを入れた硝子瓶を小さなポシェットに潜ませて。

「ホロウ! 今日の硝子玉は?」
「ちゃんと持って来てるよ」

 リースと会うとき、少し離れた所では大人が常に心配そうな眼差しで俺たちの様子を見守っていた。
 彼女の身分が貴族令嬢であり、大人たちが侍女と護衛だと知ったのは、初めて出会ってから数年後のこと。
 その頃には、彼らが俺たちに向ける眼差しも、幾分か信頼の籠った温かい眼差しへと変わっていた。

 明るく穏やかで、たまに物悲しそうに大人びた印象を見せるリースは、町の同年代の女の子と比べて可愛く整った顔立ちをしている。
 そんな彼女が、俺の作った硝子玉を手に、俺に向けてとびきりの笑顔で微笑むんだ。
 俺が彼女に求めるものは、いつしかキャンディから彼女の笑顔へと変化していた。
 会う機会が年に数週間しかないにも関わらず、身分の高い彼女に惹かれてしまったことに気付くのにも、数年はかからなかった。

 それでも俺は彼女と会うことを止めない。
 俺はリースの硝子玉を目にした時のキラキラとした笑顔が見たくて、彼女は気泡の籠った俺の硝子玉を見たいだけ。
 そんな友人関係を続けていた。

「どう? これなんか気泡が少なくて上手くいったと思うんだよ」
「えー。確かにきれいだけど、私は泡がいっぱい入っている方が好きなのに。ホロウったら、段々上手になっちゃうんだもの」

 気泡のある硝子玉を好む彼女だが、俺の腕が上達していくことを褒めてくれる。
 それが嬉しくてくすぐったくて、真っ先に成長の証を見せた。

「誉め言葉として受け取っておくよ」
「でも、本当は気泡が入ってるのも持って来てくれてるんでしょう?」
「うっ、良く分かったな?」
「ふふ、だってポケットがぱんぱんで重そうなんだもの」
「あー。それでバレてるのか。これだよ」

 ポケットに突っ込んだ巾着を取り出すと、ずっしりとした重みを感じる。
 リースがハンカチを地面の上に敷き、俺はその上に硝子玉を転がしていく。
 次第に詰みあがっていく硝子玉に、リースの目が宝の山を目にした子どものようにキラキラと輝いた。

「ふふ、ありがとう! 触っても良い?」
「ああ」

 きちんと許可を得てから硝子玉を手に取る様子から、彼女の育ちの良さが伺える。 
 彼女は鼻歌でも歌い始めそうに上機嫌な様子で、気泡の入り方が好みの硝子玉を吟味し始めた。

「でもさ、毎回そんなに見てて、飽きないのか?」
「うん」

 貴族令嬢の彼女は、いくらでも高級な宝石を選ぶことが出来るだろう。
 もしかしたら、芸術的なカットが施された上質な宝石たちにも、今と同じような笑顔を向けて選んでいるのだろうか。

 俺の前では不出来な硝子玉を無邪気かつ真剣に見比べる彼女の、俺が知らない令嬢としての姿。
 幼い頃までは俺の硝子玉だけに向けていたと思っていた笑顔を、他の誰かに向けているかもしれない。
 俺の知らない彼女の姿をあまり想像したいとは思えず、妄想を振り払うように頭を振った。

「気泡がいっぱい入ってるんだぞ? 失敗作なんだけどな」
「気泡がいっぱい入ってるから、良いのよ」

 気泡が多くて拙い硝子玉。
 まるで本当に、気泡の中に何かを見出すような真剣な眼差しで、俺が作ったそれを空に掲げて彼女が言った。

「だってこの隙間に、希望があるみたいでしょう?」
「あ……」

 ふと、儚い表情を浮かべていた彼女が硝子玉に吸い込まれて消えてしまいそうに感じて、俺は思わず手が伸びそうになる。
 しかしその直前、彼女が茶目っ気たっぷりに舌を出して微笑んだことで、伸びかけていた手が止まる。

「気泡なだけにね。なんて、えへへ」
「……面白いこと、言ったつもりか?」
「うん。つまらなかった?」
「うーん、俺の硝子玉と同じくらいには」
「ふふ。それじゃあ、私とホロウにとっては面白かった、ってことね」

 そう言って、彼女は再び気泡探しにのめり込み始めた。

 こうして彼女と会う度に思うことがあった。
 彼女が硝子玉の気泡へ向けるあの感情は、どこから来るものなのだろうか、と。

 そんなある年。
 いつものように硝子玉を手にしたリースが口にしたのは、彼女らしからぬ不穏な発言だった。

「私ね、数年後に死ぬの」
「え」

 気泡を見つけたのか、リースはいつものように硝子玉を空に翳している。
 あまりにも彼女の仕草からかけ離れた言葉に、俺は自分の耳を疑う。
 それでも幻聴ではないことに気付かされたのは、続きがあったからだ。

「首を刎ねられて、殺されるのよ」

 彼女が硝子玉を覗き込む表情は、まるで気泡に救いを求めるかのような切ない表情のようだ。
 もしかして、彼女はこれまで殺されるかもしれないと言う思いを抱えて、硝子玉の希望を見出そうとしていたのだろうか。
 けれども、俺は数年後に死んでしまうと言うリースの言葉が信じられず、上擦った声で彼女に問いかけた。

「な、なんで……? リースが貴族だから?」

 彼女は貴族だから、彼女を疎む他の貴族に命を狙われている可能性もある。
 そう考えたが、彼女は肯定しなかった。

「どうしてかな……? ただね、私が殺される運命だってことは、決まっているのよ」

 彼女の一言にぞっとする。

「だから、私の心はこの世界に置いてはいけないの」

 それはまるで、彼女がどこか異なる世界の存在であるかのように感じる口調だった。

「リース……」

 何故そうも、自らが殺害されることを受け入れるように淡々と口にすることが出来るのだろうか。
 それが不愉快でふと彼女の横顔を再び振り返ると、どこか虚ろな表情を浮かべた頬に一筋涙が伝っていた。

「……死ぬなんて、言うなよ……」
「……」
「俺の作った硝子玉の気泡に希望が詰まってると思うなら、いくらでもくれてやる。だから、死ぬなんて言うな」

 俺が震えた声で口にすると、彼女は苦笑した。

「本当に?」
「ああ、だから……」

 だから、そんな悲しい顔をしないでくれ……。
 俺たちが随分と成長した頃、彼女はいつもと違う時期にやって来た。

 肌寒い気候になった季節に、いつもより着込んだ彼女を目にするのは初めてだ。
 無理矢理荷物を詰め込んだのかパンパンに膨らんだ鞄を見ると、町に到着した直後に俺の元に遊びに来てくれたのだろうか。

 俺はいつもの硝子玉と、次に会うとき渡そうと考えていたとっておきのプレゼントを収めた巾着袋を手土産に、彼女と話を始める。

「こうしてホロウの硝子玉を眺めている瞬間が、とっても落ち着くわ。でもそれももう、終わり……」
「終わり? また遊びに来れば良いじゃないか」
「私、婚約が決まりそうなの。だから、もう来れないわ……」
「え……」

 婚約と言う言葉に、俺の思考が一瞬止まる。

「こん、やく……?」

 当たり前のように毎年続いていた彼女との交流は、今後も続くものかと錯覚していた。
 けれども俺と彼女は、本来は住む世界の異なる身分だ。
 俺たちは彼女の婚約を機に、会うことは出来なくなってしまう。

 俺にとって彼女の婚約話は、いつかの彼女の死の予告よりも衝撃的な内容だった。

 俺はまだ、彼女に見て欲しい硝子玉があった。
 彼女の意見を聞いて、彼女の好みを反映した物を作り出して、これからも俺の隣で硝子玉を空に翳す彼女の横顔を眺めて……。
 そんな風に彼女と共に、穏やかな日常を送りたかったんだ。

「ねえ、ホロウ……」

 少し言いよどんでいた彼女が、意を決したように口を開いた。

「あの、ね……」

 彼女の澄んだ瞳が、俺を真っ直ぐに捉える。

「私の心の、在処になってくれませんか?」

 彼女が俺に向けて、助けを求めるように手を伸ばす。

「私のこと、攫ってくれませんか……?」

 彼女の言葉に息を飲んだ。

 周りを見ると、いつも彼女に付き従う侍女騎士の姿はない。
 彼らは黙認しているのだろうか。

 いや、きっと。彼女は婚約に耐え切れずに抜け出してきたのだろう。
 未来への希望を鞄一杯に詰め込んで、俺に期待を寄せて飛び出してきたに違いない。

 豪華絢爛な輝きを放つ貴族社会と言う名の宝石箱に、自身の心と言う名の宝石を置いておけない。自分の居場所ではないと言う彼女のその姿は、まるで宝石箱の中に一つだけ異物のように混在する、硝子玉のようだった。

 救ってあげたい。掬い取ってあげたいと思った。

 彼女と共に歩む未来を夢を見ていた俺が、彼女の手を取ろうと指先を伸ばす。

 しかし……。

 そこまで考えたと言うのに、伸ばしかけた俺の手が不意に止まってしまう。

 あるべき場所へ連れ戻して欲しいと願い輝くその瞳を、その宝石を。
 果たして俺は、穢れなきまま丁寧に掬いだすことが出来るのだろうか。
 彼女と言う名の宝石は、貴族社会に居てこそ輝いていないだろうか。
 俺が連れ出すことで、彼女は光を失ってしまわないだろうか。

「……」

 ……いや、これはただの言い訳だ。
 たかが平民の俺が、貴族である彼女を無事に攫い出す自信がないだけ。

 リースが貴族の家から逃げ出して来たと言うのなら、きっと俺たちは追手に付き纏われるだろう。
 もしかしたら国を追われることだってあり得るかもしれない。

 そんな中で、俺は彼女を幸せに出来るのだろうか。
 二人穏やかな時間を得ることが、出来るのだろうか。
 彼女の手を取り連れ出すことによって、彼女を不幸にしてしまうのではないのだろうか。

「……」
「……なんて、ね」

 戸惑いに揺れる俺の感情を察したのか、彼女は手を引いてしまった。
 彼女が腕と共に後ろに一歩引いたことによって、伸ばした手は触れることはなくなってしまう。

「……泣き言言って、ごめんね。婚約が不安で、ちょっとだけ、誰かに頼りたかったのよ」

 泣き笑いのような、見ていると心を締め付けられる表情を見せられる。

「でももう、大丈夫よ」

 最後だと言うのに、俺は彼女と距離を作ってしまったことに気付く。
 もう前と同じ距離へと歩み寄ることは出来ないかもしれない。

 しかし……。一つだけ、やるべきことがあった。

「実は……リースに、渡したいものがあるんだ」
「えっ」
「婚約祝いだと思って、受け取って欲しい」
「そ、う……」

 僅かに嬉々とした表情を浮かべかけたリースが、婚約祝いと言う言葉に落胆したように表情を落とす。

 果たして、彼女を受け入れなかった俺からの贈り物を、受け取ってくれるだろうか。
 そう逡巡しながら差し出した巾着袋を、彼女は両手で丁寧に受け取ってくれた。
 すぐに紐を解いて中から一つの硝子玉を取り出すと、彼女は目を見開いてその気泡を凝視する。

「……!」

 美しい宝石に負けじと、硝子玉にはそれはそれは美しい加工が施されている。
 マリンブルーの硝子玉にあえて含ませた気泡は、水中に沈む光景に見立て。
 彼女の好きな太陽の光に翳すとスカイブルーへと姿を変えて、気泡は雲のように浮かぶ。
 どんなに美しくとも、硝子玉は宝石の紛い物。
 そう嘲りを受けようとも、職人が宝石箱の主のために考え抜き、作り上げた、ただ一つの宝物。

 俺の硝子玉の気泡が好きだと言ってくれた、彼女のためだけを追求した、最高の傑作品。

 本当は婚約祝いでもなんでもない。
 ただただ、彼女の心に一歩でも近付きたいと言う下心があった故の、贈り物……だった。
 けれども婚約する彼女への下心を隠し、祝いとして送ろう。

「ありがとう……」

 強気に見せて微笑んだ彼女だが、悲しさを堪えられなかったのか瞳から一滴涙が零れる。

「ぜったい、ぜったいに、大切にするわ……!」

 空気を含んだその雫は、まるで一つの硝子玉のように地面に吸い込まれて行く。

 手を取れなかった罪悪感を胸に、俺は彼女の涙を記憶の底に抱え続けなければいけない。
 リースとの別れから数か月後。

 王太子の婚約者に内定したリースと言う名の令嬢には、黒い噂があった。
 苛烈な性格で他家の令嬢を虐めると言ったごく身近にもありそうな話から、邪教と懇意にしていると言う陰謀じみた噂まで。

 いずれにせよ、俺が知っているリースはそんなことをする少女ではない。
 だから王太子の婚約者リースは、気泡を手に微笑むリースとは別人だろう。

 しかし、娘の犯した罪によって近いうちに領主が変わるかもしれない、と言う話を聞いたとき、儚い願望は崩れ落ちた。
 俺の知るリースは、紛れもなく領主の娘だからだ。

 こうして手を取らなかったことへの後悔を日々募らせていく中、その日は訪れた。

「お嬢さまを助っ……いえ。……お会いになられませんか?」

 常にリースの後ろに控えていた侍女が俺の元にやってくる。
 唯一彼女の姿を見なかったのは、最後にリースと出会った日だけ。

「お嬢さまは無実の罪を着せられ、王都で見せしめとして処刑されてしまいます」

 救いを求める言葉を呟きかけ、思い直したのは、俺がリースの手を取らなかったことを彼女に聞いたのだろうか。

「何故……それを俺に?」
「……お嬢さまが最後まで励みにしていらしたのは、貴方の作った硝子玉ですから」
「……」
「どう、ですか?」
「……会いたい」

 噂話なんて信じられなかった。いや、信じたくなかった。

「リースに会うまで、俺は彼女が処刑されるなんて信じたくないんだ」

 不意に俺の脳裏に彼女の過去の予言が過った。

『私ね、数年後に死ぬの。首を刎ねられて、殺されるのよ』

 奇しくもそれは、彼女の予言通りとなってしまった。
 何故俺は、あの時彼女の手を掴まなかったのだろうか。
 俺は生きている限り、後悔に苛まれ続けるだろう。

 だからここで、彼女の手によって……命を絶った方が……。

「馬鹿野郎ッ! 死ぬ気か⁉」

 不意に男の怒鳴り声と共に腕を引っ張られ、走馬灯の如き世界から引き戻される。

「ッ⁉」

 我に返った頃には、彼女だった躯が生み出した血の海が俺の目前まで迫りつつあった。

「逃げろ! 死の間際に彼女が願った、その通りに!!」
「え……」
「お嬢さまが最期に叫んだのは、貴方の無事です!」

 振り返ると侍女がリースの頭髪を一房だけ手にしていた。
 決意を新たにした侍女とは真逆に、未だ走馬灯明けの後悔に揺れている俺の爪先にふと軽い何かが触れる。

『気泡がいっぱい入ってるから、良いのよ』

 それは、彼女に贈った世界で一つの硝子玉。

『だってこの隙間に、希望があるみたいでしょう?』

 彼女にとっての希望が、首から零れ落ちて俺の足元に舞い戻ってきた。
 それは彼女が希望を失ってしまった証拠のようで、罪悪感がますます募っていく。

「リース……」

 きっとこの中には、彼女が込めた思いが詰まっているのだろう。
 残酷な結末に到らずに済んだかもしれない、希望に溢れた未来が。

「リース、ごめんっ……!」

 いくら懺悔しても足りないが、謝罪を伝えるべき人間はもういない。

 けれど、俺はせめて彼女が託した希望を拾い上げたい一心で、硝子玉を掬い(彼女の心を救い)あげた。

 この世界(絶望の最中)に彼女の心を置いて行けない。
 彼女の心が在るべき場所は、希望に溢れた世界のはずだ。

 俺と侍女は彼女の遺品を手に、広場から駆け出す。
 不思議と、血の濁流が俺たちを襲うことはなかった。

 こうして……その日、たった一人の少女の断罪を発端に、王都は壊滅した。
 それからと言うもの、旧王都では底なしの怨念をドレスにした首なしの令嬢が王都の血の絨毯の上で優雅に踊り続けている。

 もう誰も、彼女の本当の思いを知ることは出来ない。
 けれど、彼女の思いが俺たちを助けたいと願ったことだけは、確かだろう。

 手に握り締めた硝子玉の気泡が、物悲しく音を立てたような気がした。
――コポコポ。

 マリンブルーの硝子玉の中で気泡が踊り、空気を掻き立てる音が鳴る。
 気泡の一つに、二人分の人影が映り込む。

 それは、手を伸ばす彼女と、逡巡する彼の、ある日の光景に似ていた。

「私の心の、在処になってくれませんか?」

 彼女は勇気を振り絞って、彼へと手を伸ばす。

「私のこと、攫ってくれませんか……?」

 この世界で唯一、一緒に居たいと心から思った相手に。

 彼女は今まで彼に思いを告げたことはない。
 この願いが、平民である彼の重荷になることは分かっていた。
 あまりにも図々しいことは理解している。
 それでも、もし叶うことならば……。

 目を瞑り彼の様子を待つが、反応がない。

 彼女がそっと目を開いて彼を見上げると、彼は手を伸ばしかけて硬直していた。

「……」

 きっと、戸惑っているに違いない。
 やはり無理があったと、彼女は目を伏せて自身の手を引こうとする。

「ま、待って……!」
「え……」

 その瞬間、彼女は腕を力強く引かれ、抱きしめられる。

「いま言った言葉の意味、分かってるのか?」
「え?」
「攫ってくださいって、言ったんだよな?」
「い、言ったよ」
「良いの? 俺が攫って。ただのしがない平民の硝子職人なのにさ」

 彼の胸の中に抱きしめられ、思わぬ温もりに彼女は泣き出しそうになる。

「貴方だから、良いの……」
「貴族みたいに満足に食わせてあげられないと思う」
「私はね、ドレスも宝石も要らないし、食べ物だって質素で問題ないのよ。それにね、貴方だけが頑張らなくて良いのよ。私だって、一緒に働くわ」
「え? 一緒に?」
「例えば貴方の作った硝子玉をアクセサリーにして売り出しましょう? 宝石に手が出せない庶民向けに……難しいかしら?」
「それ、面白そうだな!」
「そうでしょう?」
「それでは攫わせてください、お嬢さま」
「ふふふ、攫ってくれるなら、もうお嬢さまじゃなくなるのよ」
「はは、そうだな。あ、そうだ、これ……」

 二人で微笑みあっていると、彼はふと思い出したように気泡が含まれた硝子玉を彼女に差し出した。

「君のために……作ったんだ。プロポーズの証として受け取って欲しい。……プロポーズしたのは君だけど、さ」

 いつも粗雑にポケットに硝子玉を突っ込む彼が、今回ばかりは質素な巾着袋に一つだけ包んだ硝子玉を丁寧に取り出し、彼女に差し出す。

 世界にたった一つしかない、彼女のためだけを考えて作られた、彼にとっての最高傑作がそこにあった。

「わあ……! ありがとう……! 嬉しいわ!」

 破顔した彼女はそれを受け取り、いつものように空に掲げる。

「ずっと、ずっと、大切にするわ……!」
「本当に嬉しそうにしてくれるよな。作り甲斐があるよ」
「そうよ。だって私は、貴方の作った気泡のある硝子玉が、大好きなんだもの」
「え? 俺は?」

 彼女が空に掲げた硝子玉は、果たして何色に染まっていたのだろうか。

「もちろん、大好きよ……!」

――音は水底に沈むように、沈黙して行く。硝子玉の奥底へ。

 この世界に心を置いていけない。
 だけど唯一置いても良いと思った場所にだけは、共に居ることを許して欲しい。
 彼女は最期にそう願った。

 何故ならば、彼女が心を残していた気泡は、彼女にとってはたった一つの……。

――希望だったから。

~了~

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