梅雨入り前のじめっとした空気が肌にまとわりつく。
普段よりも長めの残業を終えたのは二十時を過ぎた頃。会社の外に出て、しとしとと降る雨を見た途端にハッと気づいた。
「あっ、傘」
夕方からの降水確率は八十パーセントだと、朝の天気予報で見たはずが傘を持ってくるのを忘れた。
こんなときに限って通勤カバンにいつも忍ばせている折りたたみ傘もない。
「最悪……」
駅までは徒歩十五分。
途中のコンビニでビニール傘を購入するか、濡れるのを覚悟で駅まで走るか。それか、もう少し時間が経てば今よりは小降りになるだろうか。
「小柴?」
エントランス前で立ち尽くしていると後ろから声をかけられた。そこにはスーツを着たすらりと背の高い男性が立っている。
「こんなところでどうした。帰らないのか」
――中谷さん。
私よりも六つ年上の先輩社員だ。
「お疲れさまです。それが、傘を持っていなくて」
苦笑を浮かべると、私の隣にきた中谷さんが薄暗い周囲を見渡した。
「けっこう降ってるな」
雨脚は先ほどよりも強くなっている。この様子だとしばらくは止みそうにないだろう。
濡れるのを覚悟で駅まで走るしかないか……。
一週間分の疲労をため込んだ金曜日。そのうえ残業でくたくたなのに、さらに雨でびしょ濡れにならなければならないなんて本当にツイていない。
まぁ、傘を忘れた私がいけないのだけれど。
小さく吐いたため息を雨音が飲み込む。そのとき、すぐ隣からバサッという音が聞こえた。
「入ってく?」
中谷さんが自身の黒色の傘を広げて私に差し掛ける。
「電車通勤だよな。俺もだから駅まででよければ」
「いいんですか?」
「いいもなにも、傘を持っていないって聞いたあとで〝おさきに~〟って俺だけ傘差して帰れるわけないだろ」
冗談ぽくそう言って中谷さんが笑う。
「すみません」
どうやら気を遣わせてしまったようで申し訳ない。
「ほら、帰るぞ」
「ありがとうございます」
歩き出す中谷さんの隣に並んで、駅までの道のりを同じ歩幅で進んでいく。
私が濡れないよう中谷さんが少しだけ近づいたときにお互いの腕がこつんと一瞬ぶつかった。その瞬間、心臓がドキッと小さく跳ねる。
傘に打ち付ける雨音が私の心臓の音と重なった。
中谷さんは入社時の教育担当だった先輩だ。今は部署を異動してしまったので顔を合わせる機会はあまりない。社内ですれ違うときに軽く挨拶を交わす程度。
「大変だな。残業?」
「はい。中谷さんもですか?」
「そう。会議が長引いて」
残業なんてしたくなかったけれど、思いがけず中谷さんと会えて一緒に帰ることができた。しかも同じ傘に入って。
そう考えるとこの雨にも感謝しないといけないし、傘を忘れてきた自分をラッキーだとさえ思えてくる。
私は中谷さんのことが好きだ。
彼が私の教育担当をしていた頃からなので二年近く想い続けている。
「そういえば聞きましたよ。関西支社に行かれるんですよね」
「情報早いな」
「中谷さんはうちの会社のエースで有名人ですから。栄転の話題はすぐに広まりますよ」
二か月後の夏の人事異動で中谷さんは東京支社を離れる。関西支社で今よりも良いポジションに就くことが決まっていた。
「昇進おめでとうございます」
「ありがと」
少し照れくさそうに笑う中谷さんの横顔を見つめながら、複雑な気持ちが押し寄せる。
教育担当だった彼の昇進は心からうれしい。でも、東京支社から中谷さんがいなくなってしまうのは寂しい。
「それともうひとつおめでたい情報も知っています」
この情報はできれば知りたくなかったのだけれど……。
「ご結婚されるんですよね」
自分で振った話題なのに胸がチクリと痛む。
噂では中谷さんは転勤と同時に大学時代から付き合っている彼女と結婚をするらしい。
彼が私の教育担当だった頃から彼女の存在は知っていた。ふたりがデートをしているところを一度だけ見たこともある。
正直、ふたりが一緒にいるところを見るまでは中谷さんに彼女がいたとしても、もしかしたら私にもチャンスがあるのではないかと思っていた。職場の先輩後輩として親しくしているうちに距離がぐっと縮まって、中谷さんも私に好意を抱いてくれるかもしれない。
けれど、街中でデートを楽しむふたりを見て私の淡い期待は一瞬で崩れ去った。
中谷さんが彼女を見つめる表情は仕事中には決して見せないほど甘く優しげで、彼女への溢れる愛が伝わってくるほどだった。
彼女から中谷さんを奪うような自信も度胸も勇気も私にはない。
失恋確定。とはいえ、中谷さんへの恋心を完全には捨て去ることができないまま、望みのない片想いを今日までずるずると続けている。
「大学の頃から付き合ってるからもう八年になるのかな。今回の転勤が結婚の良いきっかけになった」
「そうなんですね。彼女さん、仕事は?」
「辞めてついてきてくれる。感謝してるよ」
中谷さんの横顔からは彼女を強く想う気持ちが伝わってくる。
いい加減、私もこの恋を終わらせなければ。中谷さんの転勤をきっかけに。
「……もうやめよう」
「えっ」
決意がうっかりと口からこぼれたとき、中谷さんがぎょっとした顔で私を見る。
「やめるって会社?」
「あ、いえ、違います。そうじゃなくて」
中谷さんへの片想いをやめる。けれど、それを本人に言えるわけがない。
「えっと……、今朝の天気予報で夕方から雨が降ると知っていたはずなのに傘を持ってくるのを忘れるようなうっかりはもうやめようと思って」
「なんだよそれ」
苦し紛れのごまかしだったけれど、中谷さんは呆れたように声を出して笑った。
「相変わらず小柴はいいキャラしてるな。教育担当だった頃から思ってたけどおもしろいよ。一緒にいて楽しい」
きっと深い意味はないのだろう。何気なく呟いただけの中谷さんの言葉に、つい先ほどの決意がぐらりと揺らぐ。
もしかしたらまだ自分にもチャンスがあるのではないかと勘違いしそうだ。そんなわけないのに。
「うっかりで思い出した。小柴が新人の頃、たまに弁当を家に忘れてきてたよな。せっかく早起きして自分で作ったって言ってたのに」
「そうでしたね」
私も思い出して恥ずかしくなる。
「小柴の作った卵焼きうまかったな。あの甘い味付けが俺は好き」
「中谷さんに何度か取られてましたからね」
「人聞き悪い言い方するなよ。そうじゃなくて、よかったらどうぞって小柴が俺にくれたんだろ」
「それは中谷さんが欲しそうな顔で見ていたからです」
新人の頃は中谷さんとよくランチを取っていた。ふたりのときもあれば、同じ部署の同僚や中谷さんの知り合いの他部署の方々など数人でというときもあった。
今思えば人見知りの私に社内の知り合いが少しでも増えるようにと中谷さんが配慮してくれていたのだろう。
そういう優しいところも大好きだ。彼への想いを捨てることなんて私にできるのだろうか。
雨に包まれた夜道を、同じ傘に入りお互いの腕がくっつきそうなほど近い距離で中谷さんと歩く。時折ふわっと鼻をかすめる中谷さんの香りに胸がドキッとときめき、今はそれすらも心地よい。
けれど、ほんのわずかに空いているお互いの距離が私を現実に引き戻す。
もしも私が中谷さんの彼女なら、この距離を埋めることができて彼の腕にぴったりと寄り添いながら歩けるのに。
そんなことを思いながら飲食店が立ち並ぶエリアを歩いていると、居酒屋の前で客を呼び込んでいる男性店員と目が合った。
「そこの相合傘のおふたりさん。雨宿りに食事デートなんてどう?」
もしも彼女なら……なんて考えていたところだったので〝デート〟という言葉にぴくっと反応してしまった。
もしかして中谷さんと恋人に間違えられた?
男性店員の誘いを中谷さんが笑顔で交わし、私たちは駅へと進む。こうして歩いていると、傍から見れば私たちは恋人同士に見えるのだろうか。そう考えて、ふと思いついた。
今夜だけ――駅まで歩くこの時間だけは中谷さんの彼女になった気分でいたい。
寄り添ったり手を繋いだり、そういった目に見える行動は取れないけれど、気持ちだけ私は中谷さんの彼女として隣を歩く。たったそれだけのことなのに、ほんの少しだけ心がうきうきとした。
彼女気分を味わったら、この恋は終わりにしよう。
雨は会社を出た頃から降り方は変わらない。駅までの距離はあと半分だ。
「そういえば、小柴は最近小笠原とはどう?」
「小笠原くんですか?」
中谷さんから不意に飛び出た名前に首をかしげる。
小笠原くんは入社時から同じ部署に配属されて、今も隣の席で働く同期の男性社員だ。
「小柴は小笠原と仲が良かっただろ。今も変わらない?」
「仲が良いというか、同期なので親しくはしてますけど」
それ以上でも以下でもない関係だ。同じ部署なので他の同期たちよりかは距離が近いけれど。
「ふーん、そっか」
中谷さんが意味ありげにうなずく。
彼の言いたいことはなんとなくわかっている。教育担当だった頃から中谷さんは私と小笠原くんの関係をやたらと気にしていた。たぶん、私たちふたりをくっつけようとしていたのだと思う。
私が好きなのは中谷さんなのに。そんな気持ちには一ミリも気付いてもらえない。
でも、それでいいのかもしれない。もしも気付かれてしまったら中谷さんは私と距離を置くはずだ。
中谷さんにとって私はただの職場の後輩。そのポジションにとどまっているからこそ、こうして彼の傘に入れてもらえているのだから。
「でもさ、正直に言って小柴は小笠原をどう思ってる?」
「どうって、さっきも言いましたけどただの同期です」
「ホントにそれだけ?」
「中谷さんしつこいですよ。私になんて言ってほしいんですか」
わざと不機嫌そうに言えば、中谷さんは「べつにー」と呟いてとぼけるように笑った。
そんなに私と小笠原くんをくっつけたいのだろうか。余計なお世話だし、小笠原くんだって私のことをただの同期としか思っていないはずだから彼にも迷惑だ。
「小笠原は仕事もできるし、性格もいいし、顔もまぁまぁカッコいいし、いいやつだよなぁ」
それは知っている。同期だから小笠原くんの優秀さや性格の良さはたぶん中谷さんよりも私の方が。
だけど、好きな人に別の誰かを勧められる私の気持ちにもなってほしい。けっこう傷付くんだから……。
沈んだ気持ちを紛らわすように、もしも私が中谷さんの彼女ならと想像してみる。
彼がしつこく小笠原くんとの関係を尋ねてくるのは私たちの関係に嫉妬をしているからだと思うことにした。
『心配しなくていいですよ。私と小笠原くんはただの同期なので。私は中谷さん一筋です』
彼女ならきっとこんなことを言って安心させるのだろうか。
そのあとで気持ちを態度に出すのならぎゅっと抱き着くのもいいかもしれない。中谷さんに抱き締め返されながら『同期だからってあまり仲良くするなよ』と耳元で囁かれたい。
「小笠原が不憫だな」
ふと聞こえた中谷さんの言葉に、妄想から引き戻された私は彼に視線を向けた。
「不憫ですか?」
「いや、こっちの話」
ちらっと私を見て微笑む中谷さんが再び前を向く。
小笠原くんが不憫とはどういう意味だろう。よくわからずにモヤっとしていると、後ろからチリンとベルの音が聞こえた。中谷さんの手が私の腰に回り、ぐいっと引き寄せられる。
「――えっ」
私のすぐ横を後ろから走ってきた自転車が猛スピードで通り過ぎていった。
「危ないな、あの自転車」
立ち止まった中谷さんが自転車に視線を向ける。
彼は後ろから走ってくる自転車に気づいてとっさに私を自分の方に引き寄せてくれたのだろう。おかげでぶつからずにすんだ。
腰にまわる中谷さんの手はそのまま。わずかに空いていた距離もなくなり、体が密着している。触れ合う場所からじわじわと熱が伝わり、全身がぽっと熱くなった。
きっと今の私は茹でだこのように真っ赤だ。
「大丈夫? びっくりしたよな」
腰にまわる中谷さんの手がすっと離れる。ようやく普通に息が吸えた気がした。
「大丈夫です。ありがとうございました」
お礼を伝えながら改めて実感する。
やっぱり私は中谷さんのことが好きだ。
このまま時間が止まってほしい。雨の中、ひとつの傘を差して歩くこの時間がずっと続けばいいのに。
彼女気分では物足りない。片想いを実らせて中谷さんの彼女になれたらどんなに幸せだろう。
彼女から中谷さんを奪う自信も度胸も勇気もないから、告白はしないつもりでいたのに。
「中谷さん、私――」
あなたが好きです。
『はじめまして。教育担当の中谷です。わからないことがあったらなんでも俺に聞いて』
初めて会った瞬間に爽やかな笑顔と優しい性格に惹かれた。
覚えの悪い私に丁寧に仕事を教えてくれたこと。ミスをしてしまったときはコンビニのスイーツを買ってきて励ましてくれたこと。誕生日を覚えていてくれておめでとうとお祝いをしてくれたこと。会社を辞めたいと打ち明けたときは親身になって相談に乗ってくれたこと。
一緒に過ごす時間が長くなればなるほど好きになっていった。
彼女がいると知っているから告白はしなかったし、できなかった。でも、溢れてくるこの気持ちは今夜は彼に伝えたい。
しっかりと振ってもらえれば、中谷さんへの恋を終わらせることができるのだろうか。
「私――……」
けれど、ぽつぽつと傘に打ち付ける雨音を聞きながら少しずつ冷静な自分を取り戻していく。
「なんでもないです」
彼女がいる人に好きと伝えられるほど私は強くない。それに、中谷さんを困らせたくなかった。
〝一緒にいて楽しい〟
そう思ってもらえる、ただの後輩でいたい。
そんな私は弱虫なのだろうか。ううん、違う。私は賢いんだ。これ以上は傷つかないように自分を守ったのだから。
「なにか悩み事があるなら俺でよければ相談にのるからな。俺が大阪に行ったあとも気軽に連絡してきていいから」
ふと頭に温もりを感じた。中谷さんが傘を持つ手とは反対の手で私に触れる。髪をくしゃりと撫でたあとですぐに離れていった。
教育担当だった頃から落ち込む私を励ますために彼がよくしてくれたことだ。あの頃は中谷さんに触れてもらえてうれしかったけれど、今はとても切なく感じる。
「ありがとうございます」
やっぱり私は中谷さんの後輩のままでいいや……。
再び駅に向かって歩き出しながら、中谷さんがふと口を開く。
「小柴、あじさいって知ってるか」
「あじさいですか?」
梅雨時に咲く花のことだろうか。
「もちろん知ってます」
「今度、彼女と鎌倉にあじさいを見に行くんだ」
〝彼女と〟
中谷さんの口から飛び出た話題にズキッと胸が痛む。でも、悟られないように無理やり口角を持ち上げた。
「いいですね。ちょうど見頃だから、きっときれいですよ」
「小柴は見に行ったことある?」
「鎌倉へはないです。でも、実家の近所の家の庭に毎年あじさいが咲いているので、通るたびにきれいだなと思って見ています」
たしかあじさいの花言葉のひとつは〝浮気〟だった気がする。
「前に彼女が鎌倉のあじさいを一度は見てみたいって言ってたのを思い出して、大阪へ行く前に行こうかなって。ついでだから近くの旅館を予約して泊まりで行こうと思ってる」
「彼女さんきっとよろこびますよ」
中谷さんと鎌倉へあじさいを見に行く。彼女になった気分で想像してみる。
移動手段は車だろうか、それとも電車だろうか。あじさいを見ながらどんな話をするのだろう。手を繋いで歩いてみたい。
ランチはなにを食べよう。旅館ではお揃いの浴衣を着てまったりと過ごしたい。
きっと最高に楽しくて、幸せなんだろうな……。
中谷さんの彼女がうらやましい。彼女があじさいを見たいと言っていたのを覚えていて、実行に移す中谷さんからは彼女への愛が伝わってくる。
中谷さんはきっと浮気なんてしない。大学生の頃から彼女だけを想い続けているのだろう。
「中谷さん、知ってますか。白色のあじさいには一途な愛情という花言葉があるんですよ。中谷さんにぴったりですね」
「俺に?」
「だって彼女さん一筋じゃないですか。とても大切にされているのが伝わってきます」
「そうかな」
中谷さんが照れくさそうに笑う。その横顔を見て、私もつられて笑ってしまった。
私も中谷さんの彼女になって大切にされてみたかったな……。
もうすぐ駅に着いてしまう。彼女気分で隣を歩く時間も終わりだ。
「でも、彼女怒ってるかもしれないんだよな。今夜食事の約束をしてるんだけど、予想外に会議が長引いて待ち合わせ時間にだいぶ遅れてるから」
「そうなんですか?」
「このあと駅で待ち合わせしてるんだ」
それなら中谷さんは少しでも早く駅に着きたかったはずだ。それなのに私を自分の傘に入れて、私の歩く速さに合わせて歩いてくれた。
駅まではもうあとほんの少し。
「それならここまでで大丈夫です。早く彼女さんのところへ行ってあげてください」
中谷さんの差す傘から慌てて飛び出した。途端に雨粒が全身を打ち付ける。
「駅まで送ってくよ。あと少しだろ」
「いえ、大丈夫です。駅に行く前に別の場所にいかないといけない用事を思い出したので、あとは走ります」
中谷さんには少しでも早く彼女との待ち合わせ場所に行ってもらいたい。それに、駅で彼の到着を待っているであろう彼女が、中谷さんの傘に私が入っているのを見たら嫌な気持ちになるかもしれないし、誤解されてしまうかもしれない。
私はふたりの関係を壊したいわけじゃない。
ただ、今夜だけは中谷さんと同じ傘に入って彼女気分を味わいたかっただけ。それでこの恋は終わりにする。
「じゃあ俺の傘貸すよ。俺が駅まで走って、そのあとは彼女の傘に入れてもらうから」
「いえ、大丈夫です」
傘なんて借りてしまえば中谷さんへの恋を終わらせられない。今夜、この瞬間に中谷さんへの想いに終止符を打つと決めたのだから。
「ありがとうございました」
教育担当として私を指導してくれたこと。優しく頼りになる先輩でいてくれたこと。中谷さんに出会えたこと。
すべてに感謝を込めて、深く頭を下げた。
「それじゃあ私はここで。お疲れさまでした」
全身に打ち付ける雨を気にせず、この場から走り出す。一歩進むたびに中谷さんへの気持ちを捨てるかのように無心で走り続けた。
しばらく進んだところで足を止めて、それからゆっくりと歩き出す。視界がぼやけて、雨なのか涙なのかわからない雫が頬を伝った。
雨が降る夜道にぽつんとひとりだけ取り残されたような気分になる。途端に寂しくなって、一歩も前に進めなくなった。
そのとき、全身を打ち付けていた雨がふと遮られる。
「小柴?」
聞こえた低い声に気づいて振り返るとスーツを着た男性の姿がある。一瞬だけ中谷さんに見えて、でもよく見ると背丈も顔もまったく別の人だと気づく。
「小笠原くん」
そこには同期の姿があった。
私が仕事を終えたあとも彼はまだ残業を続けていたが、それを終えてようやく帰宅できたのだろう。小笠原くんも電車通勤なので駅に向かう途中なのかもしれない。
彼は片手に持つ傘を私に差し掛けて雨に濡れないようにしてくれている。
「ずぶ濡れだな。傘は?」
「持ってない」
「もしかして会社から傘なしで歩いてきたのか?」
違う。ついさっきまで中谷さんの傘に入れてもらっていた。
「ったく、しょうがないな。俺の傘に入れてやる。駅に行くんだろ」
「ううん、駅には行かない」
「じゃあどこに行くんだよ。そこまで入れてやるから」
「どこに行けばいいんだろう……」
黙った私を見て、「なんだそれ」と小笠原くんがふっと笑う。
中谷さんは駅で待っている彼女と無事に会えただろうか。今頃ふたりで食事をする店に向かっているのかもしれない。
今、あのふたりの姿は見たくない。だから駅には近づきたくなかった。
「小柴」
ふと小笠原くんの声が聞こえた。
「なにも予定がないなら……。俺の傘に入れてあげる代わりじゃないけど、このあと飯でもどう? 俺のおごりで」
「小笠原くんの? そこは私のおごりでしょ」
思わずくすっと笑ってしまう。傘に入れてもらうお礼なら普通は私が彼にご馳走をするはずなのに。
「いや、俺のおごりで。傘は口実で、小柴とふたりで食事がしたくて誘ってるから」
「えっ」
小笠原くんが私を見つめる表情は、普段の彼よりも緊張して引きつっているように見えた。
そんな彼から伝わってくるのは、私がついさっきまで中谷さんに抱いていたのと同じ気持ちだ。
『小笠原が不憫だな』
中谷さんの言葉の意味が少し理解できた気がした。
「ほら、涙拭けよ。なにがあったか知らないけど俺が話聞いてやる」
小笠原くんの親指が私の頬に触れて、流れている涙を拭ってくれる。少しぎこちないその仕草と、私から視線を逸らしてうっすらと頬を染めている彼がおもしろくて思わず笑ってしまった。
「ありがと」
私の涙も、この雨も。
夜が明けて朝になれば、どちらもきっと止むはずだ。