いよいよ文化祭まであと一週間となったある日。
今日から授業は2時間だけになり、残りの時間は文化祭の準備に向けて自由にしていいことになっている。

2時間だけある授業も、優しい先生は「自習にするから文化祭の準備していいよ」と言ってくれることが多く、一日準備に取り掛かれることも多くなると思う。

しかし反対に、文化祭にあまり力を入れていないクラスや、すでに準備が終わったクラスは2時間目が終われば帰ることができるので、放課後は遊ぶ人も多い。

だけど私たちのクラスは誰一人帰ることなく、準備や練習に追われていた。


「ねえ役者の人ー! いっかい衣装着てみてくんない?」
「よし、ダンスもう一回練習しとこっか!」
「ここの背景何色に塗ったらいい~?」


教室や廊下からみんなの声が飛び交う。
私たち役者は集まって劇の練習をしていた。
だけど衣装係の子に呼ばれて、一旦休憩にしようと監督のあっちゃんが話す。
すると衣装係の子たちがたくさんの衣装を持って近づいてきた。


「練習中にごめんね~。みんなの衣装あらかたできたからいっかい着てみてほしくて。もしサイズとか見た目とか気になったらなおしたいの」


これが王子、これは魔女、これは……と順番にきれいな衣装が渡されていく。
私の衣装は3着もあった。
1着目は人魚に見えるよう工夫された、裾が長く足が見えないワンピース。
2着目は人魚姫が足をもらって陸で過ごすときに着る青いワンピース。
最後は舞踏会で着るドレスだった。

どれも既製品にアレンジを加えたものらしいけれど、見目はとてもいい。
衣装係の子はミシンが得意らしく、はりきっていると聞いた。


舞台、ダンス、ミシン、絵……
ほかにもいろいろあげきれないほどの誰かの『得意なもの』で今回の文化祭は成り立っている。
高校生でも30人集まるとすごいんだなと、最近毎日感じていた。


「じゃ、さっそくお願い! ほらはやくはやく!」


自分が作ったものを誰かが着るのを見るのがいちばんの楽しみなんだから! と背中を押される。
男子と女子で別れて着替え、着替え終わったら役者のみんなで一列に並んだ。

衣装係の子だけじゃなく、各々準備をしていくれていたクラスのみんなもぞろぞろと集まってくる。
視線が集まるのはもちろん私たちで。

自分だけがじろじろと見られているわけではないのに、なんだかそわそわと緊張して落ち着かない。
ただでさえ今着ている人魚の衣装は露出が多いというのに。
もちろん水着ほどではなく、お腹にも背中にも布があるけれど、それでも私が普段着ている服に比べたら心もとなかった。

そんな私の不安を知ってか知らずか、周りのみんなは騒ぎ始める。


「きゃー! 桐谷くん本物の王子様みたい!」
「結衣ちゃんかわいい~!」
「なにその衣装! めっちゃおもしろいんだけど!」


みんながそれぞれ笑顔で声をあげる。
似合わない、変、なんて空気は一切なくほっとした。


「ゆいぴーかわい~!」
「人魚の衣装って動きにくいなあ」
「ひまわり、その格好で走り回ったりして破らないでよ」


手持無沙汰でいると、すぐに瑠々ちゃんたちが話しかけてくれた。
七瀬ちゃんに心配されているひまわりちゃんは「さすがにそんなことしないよ!」とすねている。


「みんなすごくかわいいね」


人魚姫の姉役の七瀬ちゃんたちと私の衣装は似ている。
だけど色やデザインがひとりひとり少しずつ違う。

七瀬ちゃんは紫色で大人っぽく、ひまわりちゃんは黄色でまとめられていて、髪の色と合いとてもきれいだった。

魔女役の瑠々ちゃんは、黒色と青色が映える暗い色の衣装だ。
今はいつものメイクでかわいらしい印象だけれど、メイクを変えたらきっと深海に住む魔女のような雰囲気に変わるだろう。

素直な感想を伝えると瑠々ちゃんがぎゅっと抱きしめてくる。


「え~うれしい! ありがとお!」
「結衣も似合っててかわいいよ! ね、王子!」


ひまわりちゃんが急に桐谷くんに話を振る。
ドキリとして思わず彼の方を見ると、相手もこっちを見ていて目が合った。
普段とは違う格好を見られるのはなんだか恥ずかしい。

なにを言われるか想像がつかず黙っていると、桐谷くんは「あー……」と声をもらした。


「……うん、似合ってる。綺麗になった」
「え?」


褒められて嬉しい……けれど、そのあとに続いた過去形の言葉が気になった。
いったいなにと比べて……
そこまで考えてふと思い当たる。

もしかして幼稚園の――


「ちょっとお、匂わせするのやめてくださーい。炎上するので」
「はあ?」


瑠々ちゃんの声で思考が途切れる。
さっきまで優しい表情をしていた桐谷くんは一変し、眉間にしわを寄せていた。


「それよりもさあ、ほら瑠々たちはどう!? かわいい?」


瑠々ちゃんはその場でくるりと回ってかわいく決めポーズする。
スカートは広がらないけれど、髪の毛がひらりと舞って綺麗だった。
ドキドキする私に対して桐谷くんの表情は変わらない。


「かわいいんじゃね」


告げた一言も温度を感じずなんだか雑だった。
瑠々ちゃんは当然みけんにしわを寄せる。


「ちょっと! ゆいぴーのときと全然違うじゃん~! 心がこもってない!」

「そんなんじゃモテないよー!」

「うるせーな」


瑠々ちゃんとひまわりちゃんの言葉をもろともせず、桐谷くんはうっとうしそうに言葉を吐く。
そんなやりとりが面白かったのか、男子が次々に桐谷くんに声をかける。


「なあなあ、オレはどう!?」
「桐谷ー、俺は?」
「智明くんっ、あたしかわいい?」


桐谷くんは途中まで「ハイハイ」と流していたけれど、裏声でかわいく話し始めた男子を見て笑い出した。
あっちでもこっちでもわいわいと楽しそうな声が聞こえる中、トントンと肩を叩かれる。

振り返るとそこには衣装係の子がいた。


「結衣ちゃん、申し訳ないんだけど、あと2着ある衣装も着てもらっていい?」
「うん、もちろん」
「ありがとう! 智明くんは盛り上がってるからあとでいっか」


ふたりで更衣室に移動して、青いワンピース、ドレスの順に試着する。
ワンピースは特に気になるところはなかったみたいだったけれど、ドレスは違うようだった。
上から下へ視線を動かし、少し離れた視点から見たと思ったら、近づいてある一点を見る。

歩いてみて、回ってみて、と指示通りに動いていると「うーん」と声をもらした。


「ちょっと裾が短いかなあ。踊るから短めにとは思って選んだんだけど……でも本番はヒール履くし、もうちょっと長くしようかな」


真剣な表情をしてそう話す彼女は、私から見ればもうプロの人のようだった。
ドレスのことは正直全くわからないので、ここは彼女の判断に任せたほうがいいだろう。
黙ってじっとしているとにこりと微笑まれる。


「よし、おっけー! ありがとう結衣ちゃん! あと一週間で最高にかわいいドレス作るからね!」

「ありがとう、 楽しみにしてるね!」


彼女が作ってくれた衣装を着れると思うと、練習ももっと頑張れそうだ。
みんなの頑張りを台無しになんてしたくない。
気持ちを新たに、制服に着替えて練習に戻った。




「あー! つかれたあー!」


練習終わり、ひまわりちゃんの声が響く。
今日も完全下校時刻まで残っていたので、外の景色は真っ暗だ。
帰る用意をしていると次は「やったー!」というひまわりちゃんの声が響いた。


「なに? ひまわりうるさいよ」

「ごめんごめん! お母さんが文化祭来てくれるって連絡あってさ、嬉しくて!」

「え~、ひまちゃんのママ来てくれるの? いいなあ~」

「瑠々も呼んだら?」

「う~ん、ちょっと連絡してみようかなあ」


そう言って瑠々ちゃんはスマホをたぷたぷと触る。

……そっか、みんなお母さん呼ぶんだ。
私も、と考えて首を振る。
ただでさえ忙しそうなのに呼べないな。

はあ……とため息をつきそうになったとき「結衣はー?」と声をかけられて止める。


「私は……呼んで、ない」
「そっかー! お母さんに劇見られるの恥ずかしいよねー」
「ゆいぴーはただでさえ王子様との絡み多いしねえ」


ひまわりちゃんと瑠々ちゃんの話に「あはは……」とこぼす。
たしかに劇を見られるのは恥ずかしい。
演じている自分を見られるのも、王子様役が桐谷くんだというのを知られるのも恥ずかしい。

だけどそれは正直、心の内を占めている感情に比べたらちっぽけなもので。
それを話すか話さないか悩んでいると、七瀬ちゃんと目が合った。


「結衣は来てほしいんじゃないの?」
「えっ?」


思っていることを当てられてドキッとする。
どうしてわかってしまうんだろう。
もしかして私は思っているよりもわかりやすいんだろうか。


「そうなのー? じゃあじゃあ、誘ってみたら!?」
「えっ、うーん、でも……」


ひまわりちゃんにキラキラした目で見られて言葉に詰まる。
少しずつ成長できているといっても、まだ自分から誘うのには抵抗があった。
特にこういう、OKがもらえるかどうかわからないものは。
やっぱり自分はネガティブで、弱虫で、断られるのがとても怖いのだ。

たとえそれが母親相手であっても。
……いや、母親が相手だからこそかもしれない。


「言ってみねーとわかんねえぞ」


凛とした声が響く。
声の主は桐谷くんだった。


「そーそー! 言うのはタダだよ! お得!」

「瑠々、ゆいぴーのママが来るならちゃんと挨拶した~い」

「え!? どういうこと!? 結婚!?」

「バカひまわり。それはどっちかというと桐谷の役目でしょ」

「あ~……舞台の上とはいえ娘さんとベタベタしてすみませんってことお?」

「はあ? ベタベタなんてしてねえから」


桐谷くんも会話に入ると、より一層にぎやかになる。
ふふ、と思わず笑うと、七瀬ちゃんがぽんと私の頭に触れた。


「来てくれるといーね」


ふわりと微笑む七瀬ちゃんはそれはとても優しい表情で。
頑張れとは言われてないのに、頑張ろうという気持ちがわいてくる。


「……うん。もし来てくれたら、七瀬ちゃん会ってくれる?」

「当たり前でしょ。結衣のお母さんどんな人か気になるし」

「ふふ、普通だよ」

「結衣の普通は余計に気になる」


みんなと雑談をしながら、心の隅で覚悟を決めた。





「ただいまー」


家に帰って約1時間後。
ご飯を食べ終わってテレビを見ていると母が帰ってきた。


「いい匂いがする~。今日はオムライス? お母さんの分までありがとうね」


感謝の言葉を述べているのに、母は少し悲しそうな顔をする。
娘に作らせて申し訳ないとか、父親がいたらよかったのにとか、きっとそんなことを考えているんだろう。

そんなこといちいち気にしなくていいのに、気にされる方が辛いのに。
だけどそう思っていても私も何も言えない。

きっと、少し気まずいと思っているのも、距離があると思っているのも、我慢していると思っているのも、私だけじゃない。
母もだ。
いや、母の方がもっともっと感じているかもしれない。


私たちは親子なだけあって似ている。
そうかもしれないと察していても勇気がなくて言い出せない。
そうやって何年もたった。

だけど……
だけど、今日は。
心を奮い立たせて、ご飯を食べようと座った母の前に同じように座る。

母親は不思議そうにこちらを見た。
その視線にドキドキして、のどが渇く。

文化祭に誘う。
たったこれだけ。
ちっぽけなことなのに、こんなにも。

……ああもう、やっぱり。
いつものように逃げ出そうとして、ふとテーブルの上にあるコースターに目がとまる。


……ちがう。
ちっぽけだとしても、ちっぽけなんかじゃない。
少なくとも私にとってはそうで、それを私自身が否定してしまってはダメなのだ。


変わりたい。
変えたい。
自分を。
母との関係を。
小さく息を吸って、母の目を見た。


「あのね、文化祭で劇するんだけど、見に来てほしいの」
「劇?」


母親はぱちぱちと瞬きをして――
ふふっと嬉しそうに笑った。


「えーいいねえ。じゃあ行こうかな」


文化祭っていつだっけ? と聞いてくる母親に答えながら、ほっと息を吐く。


……やった。
言えた。
それも見に来てくれるって!


もう今すぐ桐谷くんや七瀬ちゃんたちに伝えたい気分だ。
勝手に上がってしまう口角を笑顔で誤魔化して、母に文化祭のことを話す。



――そう、見に来てほしいのだ。

私には大好きな友だちがたくさんいること。
好きな人がいること――は恥ずかしくて話せないけれど、それでも、魅力的な男の子がいること。
こんな私を愛してくれるクラスメイトがいること。


文化祭に来るだけでは全部伝えられないだろうし、伝わらないだろう。
だけどそれでも母親には知ってほしいのだ。


笑って、悩んで、泣いて、また悩んで。
そんな普通の生活をしていることを。
私は大丈夫だから、心配ないということを。

そうして母に安心してほしい。
文化祭が終わったら、またたくさんのことを話そう。
そしたらこの隙間も少しずつ埋まるはずだ。

そしていつか――近いうちに、本当のことを伝えたい。
心の隅でそんなことを思った。





「お化け屋敷やってまーす!」
「ねえねえ、どこ行く~?」
「フランクフルトこっちだって!」


文化祭当日。
楽しそうな声がひっきりなしに聞こえて、盛り上がっているのがわかる。
だけど私は、心臓はドキドキしていてもみんなと同じように騒ぐことはできそうにない。

なにしろ劇の本番が近づいているからだ。


「わたしお腹すいたからご飯買いに行きたい!」

「瑠々も~。でも食べすぎたら衣装着たときお腹でちゃうかなあ」

「食べすぎなかったら大丈夫! 七瀬と結衣はどうする?」


ひまわりちゃんに名前を呼ばれてはっとする。
いけない、せっかくの文化祭なんだから楽しみたいのに。


「私は……どうしようかな」


正直、不安と心配で食欲がない。
だけどみんなと文化祭をまわりたい。
でもこんな気持ちで一緒に行って気を遣わせないだろうか。
ぐるぐると考えていると、突然瑠々ちゃんが私の顔を覗き込んだ。


「劇、失敗しないか心配?」
素直にこくりと頷く。
すると瑠々ちゃんはにこっと笑って私の手を握った。


「だいじょ~ぶ! いっぱい練習したし~、瑠々もなーちゃんもひまちゃんもついてる! あ、それとついでに王子様も!」

「ついでって、智明が聞いたら怒りそうー!」


あははっと楽しそうに笑うひまわりちゃん。
七瀬ちゃんも口元をゆるめてこちらを見た。


「文化祭まわりながら、セリフの練習したら不安も減るんじゃない」

「七瀬ナイスアイデア!」

「よ~し、じゃあ最初の場面からいこ~!」


みんなに連れられて廊下を歩いていく。
大丈夫だと軽快に笑って、セリフの練習に付き合ってくれて。
みんなのおかげで不安で苦しかった胸が軽くなる。

劇の本番はエンディングの前。
時間でいうと15時だ。
それまでの時間、せっかくだからみんなで楽しみたい。
そして劇本番も成功させる。

七瀬ちゃんたちの笑顔を見て、やっと心からそう思うことができた。





そしていよいよ劇本番前。
舞台裏、みんなで最終確認や準備をする。
衣装を着てメイクをすれば、一層緊張感が高まった。

観客席のガヤガヤした雰囲気がこの舞台袖まで聞こえてくる。
きっとそこには、どんな劇か楽しみにしている相田くんや、楽しみな反面心配もしている私の母もいるだろう。


……ああ、心臓が痛い。
お腹まで痛くなってきた。

考えたくなんてないのに、何度も何度も幼稚園のときの記憶がよみがえって、頭の中で再生される。
そして余計なことまで思考してしまう。
もし本番でセリフを忘れてしまったら、なにかトラブルがあったら、劇が失敗してしまったらって。


「さすがに緊張するな」


声をかけられて振り向くと、そこには王子様の衣装を着た桐谷くんが立っていた。
言葉の通り緊張しているのか、少し顔がこわばっているように見える。


「桐谷くんでも緊張したりするの?」
「当たり前だろ。俺をなんだと思ってんだよ」
「ごめんね、あんまり想像できないなって思っちゃって」


私にとって桐谷くんはキラキラしてて、自分の意見を言えるすごい人だ。
当たり前だけどそんな人でも緊張するのだと知ると、私が緊張してしまうのも仕方ないと思えて心が少し楽になる。
思わず口元がゆるむと、彼もこたえるように口角を上げ私を見た。


「つーかさ、あんだけ頑張ったんだし緊張すんのなんか当たり前だろ」

「え?」

「いい劇にしたいと思ってんなら緊張すんのが普通。緊張感のない本番なんていいもんになるわけないんだから」


桐谷くんの言葉を聞いて目をぱちぱちさせる。
……ああ、また彼をまぶしいと思ってしまった。

桐谷くんの言葉は私にとっては目から鱗で、心の中にそっと優しく溶けていく。


「……うん、そうだよね。ありがとう」
「どーいたしまして」


彼とのやりとりが一段落したとき、プツッとマイクが入った音がした。
あっちゃんが観客席には聞こえないよう配慮した声量で、みんなで円陣を組もうと呼ぶ。
集まったクラスメイトみんなの顔を見るとなんだかほっとした。


「みんな、大事なことはひとつ! 楽しむこと! はっちゃけるよー!」

「おー!」


はっちゃけるってなんだよ、円陣ぽくねーと笑いながら自分の場所へと移動するみんな。

……ああ、もう始まってしまう。
ちらりと桐谷くんを見ると、ぱちりと目が合った。


「なんかあったら助けるから。今度こそ」


その言葉になんて返せばいいのかわからず、彼をじっと見つめてしまう。


『――お待たせいたしました。ただいまより、2年3組による劇、人魚姫を開演いたします』


舞台袖にも司会の声が大きくはっきり聞こえてくる。
もう行かなくちゃいけないのに、桐谷くんは私の返事を待ってくれているのか動かない。

ふとその姿が幼稚園のときの彼と重なる。

――桐谷くんの優しさはあのときからなにも変わってない。

私は今度こそいつものように笑って彼を見た。


「なにがあっても立ち上がるね、今度こそ」


その瞬間、開演のブザーが鳴る。
桐谷くんはなにも言わずただ笑って、そのまま光に照らされた舞台へと歩いて行った。
私も大きく深呼吸して前を向き、勇気を出して一歩を踏み出した。



劇の内容はほとんど原作と同じだ。

ある嵐の夜、人魚姫は海で溺れた王子様を助ける。
その出会いで王子様にひとめぼれした人魚姫は人間の足を手に入れるため、海の魔女と契約する。
声と引き換えに足を手に入れた人魚姫は王子様と出会うことが出来るが、自分が海で助けた人魚だと伝えることができない。

それでも憧れの王子様と幸せな毎日を過ごしていたが、ある日王子様にお見合いの話が舞い込んでくる。
その女性と出会った王子様は、彼女が海で助けてくれた人だと勘違いしてしまう。


原作なら、王子様はお見合い相手の女性と結婚し、人魚姫は泡になって消えてしまうが、私たちの劇はここからの展開が少し違う。

実はお見合い相手の女性は、その美貌を武器にお金持ちの男性を何人も落とし、財産をすべて持って行ってしまうという恐ろしい人物だった。

そんな彼女の正体に気づいた人魚姫は王子様を救い出し、王子様は人魚姫との結婚を決める。
憧れの人と結婚することができた人魚姫は声を取り戻すことができ、ハッピーエンド。


最後の場面は、王子様と結婚した人魚姫が舞踏会で幸せそうに踊って終わる。
ダンスも演出もここに一番力を入れていて、直してくれたドレスもとてもきれいに仕上がっていた。

失敗できない。
だけど、あっちゃんが言っていたようにまずは自分が一番楽しまないと。
そうじゃないと見てくれている人たちを楽しませることなんてきっとできない。



「運命の人を見つけたの!」


不安だった舞台も、最初のセリフを言えてしまえば流れるように進んでいった。


「人間の男なんてやめておきなさい」


衣装に身を包んだ七瀬ちゃんは、もうどこからどう見てもきれいだ。
トラブルなく場面が終わっていくことに安心しても、次のセリフは大丈夫かと不安になる中、観客席からもきれいに見えているだろうななんて考えてしまう。


「なにを言われたって、私はあの人に会いに行くから!」


セリフを言ったあと、姉たちから逃げるように走って舞台袖へとはける。
すると舞台が暗転し、また次の場面へと移った。

ここからは、人魚姫が足をもらうため海の魔女と契約するシーンだ。
舞台が明るくなると、そこには妖艶な雰囲気に身を包んだ瑠々ちゃんがいた。
いつものかわいらしい雰囲気はなく、どこか不気味で怖い。
メイクを変えただけでこんなに印象が変わるとは思わなかった。


「ふーん……人間になりたい、ねえ」
「お願い、どうしても王子様に会いたいの」
「叶えてあげてもいいけど、代償を払ってもらうわよ」
「本当!? 足がもらえるならなんでもする」
「……そう。それなら契約成立ね」


セリフのあと魔女は杖を上げ、照明がチカチカと点滅する。
この演出が終われば暗転し、また場面がひとつ無事に終了する。
ほっと安心すると同時に寂しくも感じた。
だけどそんな思いに浸る時間もなく目の前の照明が落とされる。

舞台袖にはけようとしたとき、暗い視界の中で瑠々ちゃんと目が合う。
彼女はにこっと笑うと、ぱちんとかわいくウインクをした。
その表情は魔女ではなく、いつもの瑠々ちゃんだった。
にこりと微笑み返し、今度こそ舞台袖へと移動する。

瑠々ちゃんがなにを伝えたかったのか言葉はわからないけれど、気持ちは伝わってきた。
心がほっと温まる。

次の場面も頑張ろうと心の中で意気込んでいると、衣装係の子に声をかけられた。


「結衣ちゃんっ、着替え手伝うね!」
「わ、ありがとう!」


次の場面からは、人魚姫の衣装ではなく、青いワンピースを着て舞台に立つ。
着替える時間はたった数分しかない。
衣装係の子に手伝ってもらいながら急いで着替えていると、客席からどっと笑い声が聞こえてきた。


「あははっ、ウケてよかったね」
「うん、ちょっと心配だったから安心した」


今の場面は、人魚姫の友だちである魚と、お目付け役のカニが出てくるシーンだ。
2匹の役はクラスのムードメーカーである男子たちが演じてくれている。

ここは絶対客席を笑かしたいと、あっちゃんがネタを一生懸命考えていた。
あっちゃんのネタも、演じてくれている男子たちもおもしろいから大丈夫だとは思っていたけれど、客席が盛り上がっているようで安心する。


「よし、おっけー! うん、かわいい!」


少し話している間に衣装の着替えが終わった。
鏡に映る自分は早坂結衣だけれど、早坂結衣じゃない。
今までも何度もそう思って苦しんでいたけれど、今は違う。

表の自分も、みんなに隠している裏の自分も、こんな格好をした自分も、なぜだか簡単に受け止められる。
ずっと受け入れることなんてできなかったのに、本番で気分が高揚しているのだろうか。

終わってしまえばまたもとに戻るかもしれない。
でもそれでいい。
一度でもそう思えたことがきっと大事だと思うから。


「ありがとう! いってきます!」


どこかふわふわした気持ちのまま衣装係の子にお礼を言って、舞台へと歩いていく。
その真ん中には王子様が立っていた。
暗転しているから光ってなんかないのに、私には彼がまぶしく見える。
人魚姫にも王子様は似たように見えているんだろうなと思う。


人魚姫は行動力と勇気がある人だ。
好きな人ができて、その好きな人のためなら見知らぬ世界にまで会いに行く。
臆病者の私にはできない。
だけど彼女を演じている間は、なんだか私まで勇気をもらえている気がするのだ。



その後は気分がいつも以上に乗ったからか、上手く演じられたという達成感に包まれながら進んでいった。
劇は15分間。
意外と長くて思ったよりも短い持ち時間だ。
だから1つの場面は短く、あっさりと終わっていってしまう。

心臓がいろいろな感情に包まれてドキドキと鳴っている。
もうずっと苦しい。
だけど、楽しかった。



「きゃーっ!」


急いで舞台袖に歩いていく中、観客の歓声が聞こえてくる。
王子様のプロポーズは女の子たちにきゅんときたみたいだ。

実際、桐谷くんのセリフは甘酸っぱいし、それを目の前で聞いている私はドキドキを隠すのにいつも必死だった。
だから歓声を上げる彼女たちの気持ちがわかる。
だけどやっぱり桐谷くんのことが好きだからか、少し心が痛んだ。


「結衣ちゃん、ドレスこれね!」
「ありがとう!」


痛む心を抑えて着替えている間、歓声に紛れて笑い声も聞こえてくる。
どうやら男子たちは大笑いしているみたいだ。
きっと桐谷くんと仲のいい男子だちは、彼が王子様役をしていることが面白くて、見ているのが楽しいんだろうな。

女の子には歓声を上げられて、男子には笑われて。
だけど当の本人はあまり気にする様子は見られない。
私だったら絶対に嫌になっている。
みんながバカにしているわけではなくて、楽しんでいるからだとわかっていても、きっと怖くて仕方がない。

だから桐谷くんが羨ましい。
そしてそんな彼がやっぱり少し怖い。


「うん、おっけー!」


最後の衣装を着終わった。
直してくれた丈は前よりも長くなっていて、足首が隠れるくらいになっていた。
スカートはふわふわしていて、ダンスを踊ったときにはとても映えそうだ。


「もうすっごくかわいいよー! ラスト頑張ってね!」
「ほんとにありがとう! 頑張ってくるね!」


衣装係の子に手を振り、更衣スペースから舞台袖まで急ぐ。
きれいなドレスを踏んづけてしまわないように気を付けながら速足で進むと、もうそこには衣装を着た桐谷くんが立っていた。

私が来たことに気づいた彼がこっちを見る。
優しい表情で微笑まれてドキッとすると、その瞬間、最後の場面が始まる合図が鳴った。


「王子様と結婚し、声も戻った人魚姫。今日は城で舞踏会の日です」


ナレーターのセリフに合わせて、桐谷くんとふたりで舞台の真ん中まで歩く。
前を向くとお客さんの顔が見える。
みんなの視線がこちらを向いているのは、何度舞台に出てきても慣れない。
怖いと思いながらも楽しめているのは、隣に桐谷くんや七瀬ちゃんたちクラスメイトがいるからだ。

だけどそんな舞台ももう終わる。
……ああ、よかった。

そう、一瞬油断してしまったとき――


ビリッ!


「え!?」


破れた。
ドレスの裾が。


舞台袖では気を付けていたのに、舞台に出て気を抜いてしまったからだ。
急いで足を上げるとレースがへにゃりと床につく。

少し、ではなく思ったよりも深く破れてしまったようで、このまま演技を続ければまた踏んでしまいそうだ。
心臓がドクンと大きく鳴ると、それから痛いくらいに焦り始めた。


「大丈夫かな?」
「なに? なんかトラブった?」


観客が一気にざわざわとし始める。
ドレスが破れた音は思いのほか大きく、もしかしたら聞こえた人もいるかもしれない。
だけど一番の原因は、驚いたときに私が声を上げてしまったからだろう。


……どうしよう。
どうしよう、どうしたらいい?

次のセリフ言わなきゃ。
覚えてる?
大丈夫、ちゃんと覚えてる。

だけどこんなざわざわした中じゃ、私の声はきっと届かない。
それよりドレスをどうにかしなきゃ。
このまま歩いたら絶対に転んでしまう。

じゃあスカートを持ち上げて歩けば……
でもこのあとダンスもあるのに、それじゃあ踊ることはできない。


それなら、ああでも、それじゃあ……


呼吸を忘れてしまうくらいパニックに陥った頭では、思考があっちこっちにいって上手く考えられない。

苦しい。
どうしよう。
怖い。
どうしたらいい。
このままずっと動かなかったら、また同じ失敗をしてしまう。

嫌なのに。
あんなに練習したのに。


……ああもう、私なんて――


最近はあまり思わなくなっていた言葉が浮かんだとき、視界の端できらりと何かが動いた。


「ほんとお転婆だな」


その正体は桐谷くんで、私のそばに寄るとそのまましゃがむ。
もちろんこんなセリフも動きも台本にない。
驚きと不安で動けずにいると、桐谷くんは私が着ているドレスに触れて――

ビリッ!


「えっ!?」


破れていたレースの部分を手でちぎってしまった。
そして邪魔にならないように近くにあった大道具の後ろに投げる。

どうしたらいいかと悩んでいた種の1つが、桐谷くんのおかげであっさりと解決してしまった。

驚きと感激とまだ残る不安がぐるぐると混ざる。
お礼、言わなきゃ。
桐谷くんがアドリブで助けてくれたんだ、私も頑張らなきゃ。

だけど自信なんてない。
桐谷くんみたいに上手くなんてできない。
でもここで私が動かなかったら、彼の頑張りも意味がなくなってしまう。

これ以上無言の時間は作れない。
なにか言わなきゃ、動かなきゃ。
声を出すために小さく息を吸った。
だけど――


「あ……」


聞こえてきたのは震えてかすれた小さな声だった。
とんでもない緊張感と不安で上手く声を出すことができない。

声を出そうとすればするほど喉がカラカラになる。
心臓が痛くなる。
嫌な汗が出てくる。

こんな状況に身体はやっと気づいたのか、目が潤んできた。

ダメだ。
こんなところで泣いてしまったら余計に劇を続けにくくなってしまう。
どうにか泣かないように、ぎゅっと力をこめたとき――


「大丈夫」


小さいけれどはっきりと声が聞こえた。
はっとして目の前を見ると、桐谷くんがいつものように笑う。
ここが舞台の上だということを一瞬忘れてしまいそうな表情だった。

少し成長できたと報告したとき、一緒に遊園地に行ったとき、ガレージでダンスの練習をしたとき。
ほかにももっといっぱい、挙げきれないくらいの時間。

彼はこうやって笑いかけてくれていた。
そして、子どものときも。
そんなことを考えていると次第に、呼吸も心臓も震えも落ち着いてくる。


『なんかあったら助けるから。今度こそ』
彼は約束を守ってくれた。
『なにがあっても立ち上がるね、今度こそ』
それなら私も守らなければ。


ざわざわとした観客にも声が届くよう大きく息を吸ったとき、突然音楽が流れ始めた。
台本にはない動きに驚き、桐谷くんと目を合わせる。

すると急な音楽に驚いたのは私たちだけではないようで、観客席がぴたっと静かになった。
その瞬間を見計らったかのように、感動的な音楽は少しづつボリュームが下がる。

これならセリフが届きそうだ。
そう気づいたとき、はっとした。

ちらりと舞台袖を見ると、七瀬ちゃんたちと目が合う。
にこっと微笑まれて胸が温かくなった。

視線を前に戻すと桐谷くんが映る。
……うん、もう大丈夫。
ネガティブな気持ちも、不安も、緊張も、全部吹き飛ばせるように、桐谷くんに微笑んだ。


「一緒に踊ってくれませんか」


もうなにも怖くなかった。
さっきまでのことが嘘みたいだ。
王子様に手を差し出すと、優しくぎゅっと握られる。


「ああ、もちろん」


本来のセリフとは逆だったけれど、無事場面を進めることができた。
ダンスの曲が流れ始め、台本通りの流れに戻る。
クラスメイトたちが舞台に出てきたとき、心底ほっとした。


「やるじゃん」


ダンスの途中、桐谷くんに声をかけられる。
からかっているのか、本心で褒めているのか、安心しているのか、よくわからない表情だった。


「ありがとう」


だけどそれで構わない。
きっとどれも不正解で、正解だ。
こうして人生で2度目の人魚姫の劇を無事に終えることができた。



「きゃーっ! うちらの劇最高だったよね!」
「みんなお疲れー!」
「片づけは明日ね、観客席行くよー」


劇を終えて舞台袖に行くと、みんなの解放された熱がすごかった。
はしゃいでいる子もいれば疲れたとぐったりしている子もいる。

このあと文化祭のエンディングが始まるから、急いで席に戻らないと。
衣装を着替えようと思ったとき、突然誰かにぎゅっと抱きしめられる。


「わ!?」
「結衣! ほんとお疲れ様!」


そう言ってくれたのはひまわりちゃんだった。
顔は見えないけれど、きっと心配してくれたんだろう。


「ありがとう、ひまわりちゃんもお疲れ様」


ぎゅっと抱きしめ返すと、一緒に来てくれたであろう七瀬ちゃんと瑠々ちゃんが目に入る。
えへへと微笑むと、頭をぽんと優しく撫でられた。


「頑張ったね」
「最後どうなるかと思ったけど、さすがゆいぴーだよ~!」
「ううん、桐谷くんとみんなのおかげだよ。心配かけちゃってごめんね」


謝ると私を抱きしめる力がぎゅうっと強くなる。
驚いてぽんぽんとひまわりちゃんの肩を叩くけど、力が余計に増す一方だった。


「謝らなくていいのー! 友だち心配するの当たり前じゃん!」


力は強いけれど、言葉は優しい。
ひまわりちゃんの優しさに触れて嬉しくなって、思わず口角が上がる。


「じゃ、今はこれくらいにしてそろそろ着替えよっか」
「うー! あとでいっぱい話そうね、結衣!」


私もまだまだ話したいけれど、そろそろ先生に怒られそうだ。
名残惜しい気持ちにふたをして、笑顔で手を振る。
すると瑠々ちゃんが優しい表情で私の後ろを指さした。


「王子様が待ってるよ」
「え?」


どういうことかと振り向くと、そこには桐谷くんがいた。
ぱちっと目が合ってドキッとする。
視線を前に戻すと、瑠々ちゃんは笑顔で手を振りすぐに行ってしまう。

……ふたりきりになってしまった。
ドキドキしながら振り向いて、桐谷くんのそばへ寄る。


「……待っててくれたの?」
「……まあ、心配だったし」


そう話す彼は少し居心地が悪そうだ。
どうしてかはわからない。
だけどそれでもいいんだ。
だって、私がすることはもう決まっているから。


「桐谷くん、助けてくれて本当にありがとう」


嘘偽りのない言葉で、表情で、微笑みかける。
すると桐谷くんは少し目を見開いて、そして嬉しそうに笑った。


「どーいたしまして」







文化祭が終わって、クラスの打ち上げが終わって。
私は七瀬ちゃんとひまわりちゃん、瑠々ちゃんと一緒に公園のベンチに座っていた。


「はーっ、今日楽しかったなあ」
「ずっと文化祭がいい~、授業いやだあ~」


まだ文化祭の余韻に浸っているひまわりちゃんと、もう現実に帰って愚痴を吐いている瑠々ちゃん。
対照的なふたりを見て思わず笑いがこぼれる。
すると七瀬ちゃんが「ねえ」と口を開いた。


「結衣の話聞きたい」
「え?」


突然の話題に驚いて声を上げると、七瀬ちゃんが真剣な顔で見つめてくる。


「ほんとはずっと聞きたくて仕方なかったんだよね、結衣が話したいことあるって言ったときから」


そう言われて思い出した。
文化祭が終わったら話すってみんなと約束をしていたことを。
劇のことで頭がいっぱいですっかり忘れてしまっていた。


「わたしも聞きたい! なんの話?」
「えっと……」


ひまわりちゃんに聞かれて言葉に詰まる。


「大事な話?」
「あ、ううん、そんな大したことじゃないんだけど……」


そう言いかけてやめる。
そして勇気を出して顔を上げた。


「……ううん、私にとっては大事な話。聞いて、くれる?」


気づいたら声と手が震えていた。
文化祭のときみたいに激しく心臓が鳴っているわけではないけれど、それでも苦しいくらいに脈打っている。

言いたい。
言いたくない。
怖い。
怖くない。

相反する気持ちも全部本当で、嘘じゃない。

真剣な顔をしている3人を見たら余計に緊張したけれど、それでも私を知ってほしくて口を開いた。


「……私、ずっとみんなに嘘ついてたの」


それから全部話した。
本当の自分はネガティブで短気で臆病で、好かれるために偽っていたこと。
中学生のときのトラウマのこと。
好きな食べ物や趣味のこと。

怖くてずっとずっと隠していた。
だけどずっとずっとみんなに言いたかったこと。

途中何度も、どう言ったら好感を持ってもらえるか考えて、そしてやめる。
いきなり全部は無理だけれど、だけどできるだけありのままの気持ちを伝えた。

あらかた話し終わると、七瀬ちゃんが口を開く。


「うん、知ってたよ」
「……えっ?」


驚いて顔を見る。
どういうことだと思っていると、七瀬ちゃんが続きを話す。


「なんか隠してるというか、我慢してるんだろうなって思ってた。ホラーの話したときとかさ、なんか食いつきいいなって思ってたよ。だからホラー好きなのって聞いてもあからさまに誤魔化されるから、怪しいなって」

「え……え~っ!」


顔に熱がぽぽぽっと集まる。
は、恥ずかしい!
まさかバレていたとは思わなかった!


「まあ、それでもさ、もちろん全部わかってたわけじゃないよ。今初めて知ったことの方がたくさんある。だから、話してくれてありがとね、結衣」

「七瀬ちゃん……」


優しく微笑まれて視界がぼやける。
だけどそれ以上に泣いているひまわりちゃんを見て涙がひっこんだ。


「うっ、結衣……ごめ、ぜんっ、全然、気づかなかったよおー!」


しゃくりあげながら話すひまわりちゃんの目からぽろぽろと涙が落ちる。
ぎゅっと抱きしめれられると、温かさが伝わった。


「もーバカ! どんな結衣でも好きだよー! すぐ怒る結衣とかちょっと見てみたいもん!」

「ふふ、ありがとうひまわりちゃん」


今日二度目のハグに笑みがこぼれる。
どんな私でも。
その言葉はとても温かくて優しくて、そう言ってもらえたことがとても嬉しかった。

瑠々ちゃんはどう思ったかと不安になり視線を動かすと、ほっぺをむぎゅっと抑えられる。


「それだけ?」
「え?」


予想外の言葉にびっくりする。
すると瑠々ちゃんは眉間にしわを寄せた。


「ゆいぴーの話したいことってそれだけなのって聞いてるの」

「ちょっと! もっと言うことあるでしょ!」


ひまわりちゃんの怒りにも、瑠々ちゃんはなにも動じない。


「だって、嘘つくなんて瑠々にとってはフツーなんだもん。自分を偽っちゃダメとかないし。それに偽ってても演技してても、ゆいぴーはゆいぴーでしょ」

「もー! それはそうかもだけど、なんかちがうー!」


私にとっては一世一代くらい緊張した告白も、瑠々ちゃんにとってはこんなものだったらしい。
たしかに彼女はかわいいを演じているし、よく嘘をつくと言っていた。

どんな反応をされるか不安だったけれど、まさかこうなるとは思っていなかったな。
だけど。


「ふふ、ありがとう瑠々ちゃん」


私がずっと悩んでいることがちっぽけなことだと思われても嫌じゃなかった。
むしろ他人にとってはこんなものかと安心する。

たしかに受け入れてほしかった。
優しい言葉をかけてもらいたかったとも思う。

だけど一番の目的はそれじゃない。
本当の私を知ってもらう。
ただそれだけなのだから。

ちゃんと伝えられたことに安心して口を緩めると、瑠々ちゃんが私を見る。


「それじゃあ、瑠々も話したいこと話してい~い?」
「え? 瑠々もなんかあるの?」


なんだろうと瑠々ちゃんを見ると、にこりと笑って言った。


「瑠々、桐谷くんにフラれた!」
「え!?」


私とひまわりちゃんの声が重なる。
振られた?
いつ?
どうして?

急な話題に驚くけれど、疑問がつぎつぎとわいてくる。
私の話を聞いてくれたから、私もちゃんと瑠々ちゃんの話を聞きたい。

だけど聞いてもいいんだろうか。
なにか言ってもいいんだろうか。
同じ人のことが好きな私が。


「ね~え、今またぐるぐる考えてるんじゃなあい? はい、思ったこと言ってみて!」

「え!? え、ええと……」


瑠々ちゃんに指をさされてドキッとする。
ここで嘘をつくのなんて簡単だ。
だけど、瑠々ちゃんたちにはもうしたくない。


「……いつ、告白したの?」

「ん~と、ちょうど一週間前かな? みんなにはやく言いたかったんだけど、文化祭忙しかったし、終わってからがいいかなって思って」


一週間も前……
全然気づかなかった。
瑠々ちゃんも桐谷くんもいつもと変わらないように見えたから。


「はいゆいぴー、ほかには?」
「なんか瑠々が尋問してるみたい」
「こうでもしないとゆいぴー話してくれないんだもん」


きっと七瀬ちゃんもひまわりちゃんも聞きたいことがあるのに、私の質問を静かに待ってくれている。
そしてそれは瑠々ちゃんも。

一週間前とはいえ、今でも辛いはずだ。
もしかしたら思い出したくなんてないと思っているかもしれない。
だけどそれでも話してくれるのは、こうして向き合ってくれるのは、間違いなく彼女の強さで愛だ。

だから、勇気を出して……甘えた。


「……桐谷くん、なんて言ってた?」
「は? お前俺のこと好きなの?」
「え?」


桐谷くんの真似をした瑠々ちゃんの口調にびっくりする。
それは、なんというか……


「智明、デリカシーなくない!?」
「だよねえひまちゃん! 瑠々も思った!」


思わず私も心の中で頷く。
それにしてももっと恐ろしいことを言われるかと思っていたけれど、なんだか空気が軽い。


「ま~、怒ったら謝ってくれたし、瑠々も当たり強い自覚あったからいいけどさあ」

「そういえば、好きな人にはメロメロな瑠々にしては珍しく、怒ること多かったね」


それは……
きっと私のためで、私のせいだ。
話そうかと思ったけれど、今は瑠々ちゃんの話を最後まで聞こうと思いやめる。

すると瑠々ちゃんは私を見てにこりと笑う。


「って、ゆいぴーが知りたいのはこんなことじゃないよね。ま~、フツーにごめんってフラれたんだけどお、好きな人がいるかとか言ってたかは――」


ドキンと心臓が跳ねる。
そんな私を知ってか知らずか、瑠々ちゃんは満面の笑みで言い放った。


「ひみつ~!」
「えっ」


ふふっと楽しそうに笑う瑠々ちゃんを見て、小悪魔だ、と思う。
私が知りたいことを知っていてそういう風に言えるなんて、本当に瑠々ちゃんはいい性格をしている。

だけどそんな彼女がかわいくて、おもしろいと思ってしまう。
これはきっと私にはない、瑠々ちゃんのいいところだ。


「もー! なんで気になるとこ教えてくれないの!?」
「ていうか結衣……」


七瀬ちゃんに見つめられてドキッとする。
きっと察しのいい彼女にはもうバレてしまっただろう。
もともとこのことも話そうと思っていたから、ちょうどいいかもしれない。
あはは、と苦笑いしながら口を開く。


「実は……私も桐谷くんのこと好き、なんだ」
「え!? 結衣も!?」


夜の公園にひまわりちゃんの声が響く。


「ちょっとひまわり、近所迷惑だよ」

「だっ、だってびっくりして! 逆になんで七瀬と瑠々は驚いてないの!?」

「まあちょっと前からそうかなって思ってたし」

「瑠々は前から知ってました~」


あっけらかんとしているふたりにひまわりちゃんが怒る。


「もー! 気づいてなかったのまたわたしだけ!?」

「ま~ま~、鈍感なのはひまちゃんのいいとこでもあるしい」

「ねえ! それフォローになってないよ!」


ひまわりちゃんと瑠々ちゃんのやりとりに笑いがこぼれる。
するとひまわりちゃんが勢いよくこっちを向いた。


「いつから好きだったの? ていうかなんで!?」

「え、ええっと、話すと長くなるんだけど、実は桐谷くんとは幼なじみで……」

「ええ!?」


ひまわりちゃんがまた声を上げる。
こんなにいい反応をしてくれると、なんだか話すのが楽しくなってきてしまった。


「ていうか瑠々だけ全然驚いてないし! なんでなの!」

「だって前にゆいぴーから教えてもらってたも~ん」

「ええ!?」

「だからわざわざ結衣に質問させてたんだ」

「そ~! だから……瑠々はもうフラれたから、ゆいぴーは気にせず頑張ってね」


瑠々ちゃんの言葉に目を見やる。
嫌味でも悲しそうでもない、ただただ優しい顔で微笑まれた。
そしてそんな表情もすぐに変わる。


「もしゆいぴーもフラれたら、桐谷くんの悪口一緒に広めよ~ね!」

「こらあ! 結衣をそんな悪いことに誘っちゃダメ!」

「あははっ、冗談だよお~。合コン一緒に行こ~ね!」

「結衣は合コン行っても疲れるだけじゃない?」

「あはは……がんばる、ね!」


ぎゅっと握りこぶしを作ると、七瀬ちゃんもふふっと笑う。
秘密を打ち明けたあとの会話は、少し緊張したけれど気持ちが楽だった。

それになにより今までの何倍も楽しい。
自分の恋バナをするのもほとんど初めてだったけれど、言いたい話を聞いてもらえるのはこんなに嬉しくて楽しいんだと実感する。

公園にはずっと私たちの笑い声が響いていた。







七瀬ちゃんたちと別れたあと、すっかり夜も更けて静かになった道を歩く。
いつもの癖でガレージに目を向けると、そこには見覚えのある人影が見えて驚いた。


「桐谷くん? もう遅い時間なのに、帰らなくて大丈夫なの?」


思わず声をかけると、じとっとした目で見られる。


「それはお前もな。こんな時間にひとりで歩いたらあぶねえんじゃねーの」

「え、あ……うん、そう、かも」


反論できず素直にうなずくと、桐谷くんは口元を緩めた。
その反応になにかおかしいことを言ったかと首をかしげる。
桐谷くんは私が疑問に思っていると気づいたのか、口を開いた。


「自分のこと、卑下しなくなったなと思って」


そう言われて、そういえばそうかもしれないと気づいた。
もし言いそうになっても、最近は言うのを途中でやめていた。

――だって。


「それは……桐谷くんのおかげ、かな」

「俺?」

「うん。私なんかって思ったときとかにね、桐谷くんが出てくるの。『自分のことそんなふうに言うな』って」


素直に本当のことを話すと、目の前の彼は目を見開いた。
私が自分のことを卑下したときにいつも怒ってくれていたのはまぎれもなく彼自身なのに、そんなに驚くことだろうか。

最初は桐谷くんに怒られたくないという恐怖心だった。
だけれど最近は、そう言うことで怒らせたくない、悲しませたくないという気持ちの方が大きいかもしれない。

そう思えるようになったのは、きっと彼の優しさのおかげだ。


「……じゃ、これからも俺のこと忘れんなよ」
「……うん」


なんだか言葉だけ聞くとロマンチックなことを言われてドキッとする。
そして桐谷くんに振られたと言っていた瑠々ちゃんを思い出す。

一週間前に告白という大イベントがあったというのに、私が気づかないくらいに彼はいつもと変わらない様子だった。
告白されるのにも、こんな女の子が勘違いしてしまいそうなことを言うのにも慣れているんだろうな。


……ダメだ、瑠々ちゃんに仇を討ってこいと応援されているのに。
表に出ないよう必死に取り繕っていると「つーかさ」と声をかけられた。


「帰ってくんの遅い。長くなるだろうなとは思ってたけど、母さん心配すんじゃねえの」

「あはは……話してたら盛り上がっちゃって。お母さんには連絡したから大丈夫。たぶん先に寝てると思う」

「……ふーん」


まただ。
桐谷くんの方から聞いてきたのに返事がそっけない。
だけれど最近、こういうとき彼は存外いろいろなことを考えているんだと気づいた。

これを言うべきか、言わないべきか、とか。
私は悩んでいる間も当たり障りのないことを話して無言にならないよう必死になるけど、桐谷くんは違う。

少し考えれば当たり前かもしれないけれど、彼のそういった部分に気づけるようになったのが嬉しい。


「……じゃあさ、家まで送る」
「え?」
「から、ちょっと話したい」


思ってもみなかった申し出に目を見開く。
嬉しい。
まさか桐谷くんもそう思ってくれているとは思わなかった。
えへへ、と笑いながらいつものように彼の隣に座る。


「ありがとう、私も話したいなって思ってたんだ」
「その割には帰ってくんの遅かったけど」


まるですねた言い方に、なんだかかわいいと思ってしまう。
……もしかして待っててくれたんだろうか。
……こんな時間まで?
気になるけれど、聞いて違ったら恥ずかしい。


「にゃー」


結局なにも聞けず無言になっていると、しいちゃんが近くに来て鳴いた。
おかえりって言ってくれているのだろうか。
いや、きっと違うのだろうけれど、それでも。


「ただいま、しいちゃん」
「にゃあ」
「文化祭、なんとか無事に終わったよ」


いつものように報告すると、しいちゃんは私たちとは違う方向を向いて座る。
興味なんてないんだろうなと思うけれど、それでも近くにいてくれるのが嬉しい。
そんなしいちゃんから少し勇気をもらって桐谷くんの方を見る。


「桐谷くん、今日は本当にありがとう。桐谷くんが助けてくれなかったら、きっとあのときと同じことになってたと思う」


ふわりと嫌な記憶が思い浮かぶ。
いつだってそのことを思い出せば、胸が苦しくなって自分が嫌になって、もうどうすることもできないのに逃げ出したくなる。

だけど今は少し違う。
今日の出来事によって、いいように上書きされたのかもしれない。


「ドレスが破れちゃったときパニックになって動けなくなったけど、桐谷くんが大丈夫って言ってくれたから、頑張れたんだ」


あのときの言葉と笑顔は、私にとって魔法だった。
人魚姫だけじゃなく、私にも王子様に見えた。


「だから……ありがとう、桐谷くん」


にこりと笑ってお礼を言うと、彼も笑った。


「どーいたしまして」


その笑顔がやっぱりかっこいいなと思っていると、桐谷くんは言葉を続ける。


「つーかさ、結局は俺のおかげじゃなくて、早坂が頑張った結果だから」

「え?」

「俺はたしかに助けはしたけど、そのあと自分の力で動いたのは早坂だ。だから俺は……あのとき早坂が頑張ってる姿見て、かっこいいなって思ったよ」


予想もしていなかったことを言われてびっくりする。
私がかっこよかった?
私からしたら、桐谷くんの方が何倍もかっこよく見える。

だけど……
その言葉は素直に嬉しかった。


「ふふ、ありがとう。私も自分のことちょっとだけかっこいいなって思えたよ」


今日の出来事のおかげで、私はまた少し自分のことを好きになれた気がする。
それが嬉しくて、なんだか照れくさくもあった。

ふと顔を上げると、真っ暗な空の中、きらきらと星が瞬いているのが見える。
そういえば、桐谷くんの前で初めて泣いたときもこんな空だった。
あのときはまだ桐谷くんとは仲がよくなくて、自分のことも大嫌いだった。

だけどこのガレージで出会って、彼が気にかけてくれて、いつも真っすぐな言葉をくれたから。
だから変われた。
変わる勇気をもらえて、頑張ることができた。


「……桐谷くんとここで会えてよかったな」

「最初は絶望した顔してたけどな」

「あはは……だけど桐谷くんのおかげで、最近ちょっとずつ自分のこと好きになれてる気がするの。七瀬ちゃんたちにも自分のこと話せたし、お母さんを文化祭にも誘えたし……もう、いいこといっぱい、だよ」

「……ふーん」


たくさんありがとうを伝えたいのに、桐谷くんの反応はまたそっけない。
ちらりと表情を伺うと、なんだか嬉しそうで笑ってしまう。
これは照れているから、ということに勝手にしておこう。


「にゃー」


鳴き声がして振り向くと、しいちゃんはてくてくと歩いて私の膝に乗ってきた。
こんなことは初めてで感極まり、桐谷くんと目を合わせる。


「えっ、か、かわいい!」
「文化祭頑張ったから、ごほーびなんじゃねえの」
「え~っ、そうなのしいちゃん~!」


嬉しくて顔を近づける。
するとしいちゃんも近づいてきて、そのまま私の唇にふにっと当たった。
まさかの出来事に口を抑える。


「えっ、今、ちゅーしてくれた……!?」


そんなことをしてくれるとは思わず、テンションが上がってしまう。
もしかして自分が思っていたよりも、しいちゃんと仲良くなれていたのだろうか。
この気持ちを共有したくて桐谷くんの方を見る。

するとまた予想外なことに驚いた。
彼も一緒に喜んでくれているかと思えば、じとっとした目つきでこっちを見ていたのだ。


「え、ええっと……」
「そんな喜ばれたら嫉妬する」
「え?」


し、嫉妬?
言葉の意味はわかっても、彼がどういう意味で言っているのかがわからずはてなが浮かぶ。

いや、正直言うと少し期待してしまった。
だけどまさかと怖くなってふたをしてしまう。
だって間違っていたら恥ずかしいし惨めなだけだ。

でも……


「それってなんだか……私のこと、好き、みたい」


心からあふれたものが口から言葉になって出ていってしまった。
こんなこと、前までの私だったら絶対に言えなかった。
今でも言ってしまったことに驚いている。
顔が赤いのを隠すこともできないまま、桐谷くんと目が合う。


「そうだよ」
「え……」
「早坂のこと、好きだよ」


きらり、とまた星が輝く。
私の熱がうつったのか、桐谷くんの顔も赤い気がする。
だけどお互い目を離すことはせず、見つめ合ったまま時間が進む。


「……なあ、返事は?」


そう聞かれて心臓がまたドキッとする。

ありえない。
桐谷くんが私のこと好き?
どうしよう、嬉しい。
だって。


「……私も、桐谷くんのこと好き、です」


自分の気持ちを伝えるのはいつだって勇気がいる。
だけど伝えることができた。
だってそれは間違いなく彼のおかげだから。

私の返事を聞いて、桐谷くんは嬉しそうに笑った。
その顔に見惚れていると、そのまま近づいてきて――


ちゅっと優しくキスされた。


「上書き」


にやりと笑われて、胸がぎゅうっと苦しくなる。
桐谷くんの表情も言葉もなんだか全部甘く感じてしまう。
このままだと心臓が爆発しちゃいそうだ。


「……私、ほんとは短気でネガティブで臆病で、天使でも女神でもないけど、それでもいいの?」

「いいよ、それでも。そんな早坂だから好きになったんじゃん」


ふたりを見守っていた猫は優しい声で鳴くと、もう興味をなくしたのか、ベッドで静かに眠りについた。








それでもそんな君が好き

fin.