あの日――桐谷くんの前で情けなくも泣いてしまった日から、私が苦しいまま抱きしめていたものは両手に収まるくらいに小さくなった。
人に悩みを話したって、自分が行動しないと問題の解決はできない。
それでも誰かに話を聞いてもらうというだけで、思いのほか心が楽になるんだと実感した。


「あれ、なーちゃん今日はコンビニなの~?」


午前の授業が終わったお昼休み。
いつものメンバーで卓を囲んでいると、瑠々ちゃんが七瀬ちゃんのお昼ご飯を見て言った。


「ああ、今日は寝坊したから」
「えっ七瀬が!? 珍しいねー!」


ひまわりちゃんが驚いている通り、七瀬ちゃんが寝坊なんて珍しい。
彼女は毎朝早起きして自分のお弁当を作っている人だから。
それも、そのあとメイクをしてから登校する、というのを毎日続けている努力家だ。
だけど、だからこそひっかかる。


「七瀬ちゃん、体調悪かったりするの? 大丈夫?」


心配になって声をかけると、彼女は優しく目を細めた。


「大丈夫。彼氏と電話してたら寝るの遅くなっただけだから。ありがと」
「ううん、それならよかった」


ほっと安心しながら、羨ましいという気持ちがひょこっと顔を出す。
七瀬ちゃんは2年付き合っている彼氏さんがいる。
相手はバイト先の先輩だそうで、会ったことはないけれど写真を見せてもらったことがある。
美人できれいな七瀬ちゃんに似合う、かっこいい人だった。


「あっ、結衣! このおにぎり、今CMでやってるやつでしょ!?」


ひまわりちゃんはいつの間にか、私がコンビニで買ったお昼ご飯をキラキラした目で見ていた。
その言葉と表情に一瞬口ごもる。
だけど今日は、ほんの少しの勇気を吸う息いっぱいに込めて吐き出した。


「ううん違うの。これ似てるんだけど、CMのとは別のやつなんだ」
「えっそうなの!?」
「私も買うとき似てるなあって思ったんだけどね、CMのおにぎりよりもこっちの方が美味しそうだったから」
「言われてみればたしかにそうかも! わたしもこっちのおにぎり買ってみよっかな~」


ひまわりちゃんはいつもと変わらない、明るい表情で笑っていた。
隣で七瀬ちゃんが「なんでCMのやつより似てるやつが人気出てんの」とツッコむ。
それを聞いていた瑠々ちゃんが「ウケるう」と声を出して笑う。

――誰も、私が違うと否定したことを気にしてなんかいない。
誰も、不機嫌になんかなっていない。

……なんだ、こんな簡単なことだったんだ。
今思えば当たり前なことが、胸の中にすとんと落ちてくる。

ずっと、人の言葉を違うと否定するのが怖かった。
相手がどんな風に反応するのかわからなくて、言えなかった。
だからさっきみたいに声をかけられたときや、私の気持ちをわかったように話して決めつけられたとき、そうじゃないと言うことができなかった。

そうかも、と曖昧に誤魔化して。
あはは、と愛想笑いをして。
そうやって無難な返しをして、平和に時が過ぎるのを待つ。
だけど、だけど今日は。


「ゆいぴー、そのおにぎりそんなに美味しいの~?」
「えっ?」
「いいなあー! わたし帰りに買って帰ろー!」


瑠々ちゃんに指摘されて、ひまわりちゃんの言葉を聞いて、あははっと笑みがこぼれる。
きっとほかの人からしたらなんてことないことだ。
だけど私はやっと一歩踏み出せた。
それが嬉しくて、心の底からぶわあっと気持ちがあふれ出す。

話したい。
動けなかった私に勇気をくれた桐谷くんに、言えたよって話したい。
ちらっと教室を見渡すと彼はすぐに見つかった。
仲のいい友達と一緒に、楽しそうにお昼ご飯を食べている。


「結衣、あいつらになんか用事?」


見すぎてしまっていたのか七瀬ちゃんが聞いてくる。
どう言おうか迷っていると、瑠々ちゃんが先に口を開いた。


「桐谷くん、今日もかっこいい~」
「たしかにイケメンだよねー! 性格はちょっときついとこあるけど!」


桐谷くんの話題になって、すぐに視線をひまわりちゃんたちの方へ戻す。

ガレージのことがあって少し仲良くなったからか、彼がクラスの人気者だということを一瞬忘れていた。
桐谷くんは顔がイケメンだということもあるけれど、リーダーシップがあって、意見をしっかり言ってくれる人だからという理由で「かっこいい!」とよく話題に上がる。

私も彼のそんな部分に救われた。
だけどだからこそ今話しには行けない。

……ガレージで会ったら伝えよう。
そう決めて残りのおにぎりを食べていると、七瀬ちゃんに「結衣」と声をかけられた。


「いいの?」


それはさっきの用事の話の続き、かな。
そう思って変な心配をかけないように笑う。


「うん、大丈夫だよ。ありがとう」
「そう。ならいいけど」


にこにこと笑いながら、今すぐ話したい気持ちをぎゅっと抑えて、学校の時間を過ごした。





待ちに待った放課後。
今日はバイトがないから、そのままガレージへと向かう。
だけど中にしいちゃんの姿はない。

もしかして……

しいちゃんの居場所に思い当たる節があって、ガレージを一度出る。
そして近くのお弁当やさんを見てみると、やっぱりそこにしいちゃんはいた。
お弁当を買いに来たであろう親子と一緒に、楽しそうに戯れている。
その光景がとても平和であたたかいものだったから、思わずふふっと笑ってしまう。
するとすぐ後ろから「なに笑ってんの」と低い声が響いた。


「わっ! な、なんだ桐谷くんか……」


驚いて振り向くと、桐谷くんがじとーっとこっちを見てくる。


「なんだって失礼な」
「だって知らない人かと思ってびっくりしたから」
「あー、それは悪い悪い。で、なに見てたの」


あまり謝罪する気はないのか棒読みで、すぐに話を流された。
あはは……と笑いながら、しいちゃんを指さす。


「ほら、あそこ」
「ん? ああ、今日はガレージじゃなくてあんなとこにいんのか」
「うん。かわいいなあって思って見てたの」


すると桐谷くんは「へー」と、興味があるのかないのか、よくわからない声をもらした。
そしてすぐにガレージの中に入り座ってしまう。
私も後をついていって、いつもの場所に腰を下ろす。
何気なく桐谷くんを見ていると、コンビニの袋を持っていることに気付いた。


「なにか買ったの?」
「晩飯」
「そうなんだ……あ!」
「は? なんだよ、びっくりした」
「ご、ごめん。桐谷くんに話したいことがあったんだって思い出したから」


お昼のときはあんなに話したかったのに、時間がたってしまったからか、頭の中からすっぽぬけていた。
自分のことながら呆れて笑ってしまう。
だけど桐谷くんは真剣な表情で私の方へと近づいてくる。


「なに? またなんかあったのか」
「あ、ううん、 違うの! いいことがあったから話したくて……!」


桐谷くんが思いのほか近くまで寄ってくるからドキドキしてしまう。
すすっと後ろに下がると、桐谷くんは「なんだ」と言って元の体勢に戻った。


「あ、ありがとう、心配してくれて」
「べつに。で、話したいことって?」
「え、えっと……今日ね」


お昼休みにあったことを順番に話す。
私が買ったおにぎりをCMのものだと思っているひまわりちゃんに、これは別のものだとちゃんと話せたこと。
ずっと人の言葉を否定するのが怖くてできなかったけれど、今日は違うことは違うと言えたこと。
すぐに桐谷くんにこのことを伝えたかったこと。

隣にいる彼は、相槌を打ちながら最後まで聞いてくれた。
そして「よかったじゃん」と優しく微笑んだ。


「頑張ったんだな」
「うん。でも頑張れたのは桐谷くんのおかげでもあるから、お礼が言いたくて。ほんと、ありがとう」
「どーいたしまして」


ここで『俺はなにもしてないよ、君が自分で頑張ったからだよ』なんて、漫画でよく聞くセリフを言わずに、お礼を素直に受け取ってくれるのが桐谷くんらしいな、と感じる。


「早く話したいなって思ってたの。言えてスッキリした」


やりたいことリストにひとつチェックをつけることができて満足だ。
私はただそういうポジティブな気持ちで言っただけなのに、隣の桐谷くんはちらりとこちらを見る。


「それなら学校で言ってくれればよかったのに」
「え? そ、それはちょっと……」


まさかそこに引っかかるとは思わなかった。
なんて言ったらいいかわからず曖昧に返すと、桐谷くんの眉間にしわが寄る。


「は? なんで?」
「う、うーん、その……」


桐谷くんは私の答えをじっと待っている。
どうしよう……
正直に言う?
でもそれは少し恥ずかしいし、気まずいし、言いにくい……
かと言って誤魔化せるような雰囲気でもない。


「えっと……」


私は半ば諦めて口を開いた。


「ほらその……桐谷くんって人気者だから……」
「はあ?」


当事者の彼は意味がわからないという顔をした。
うう、どうしてこういうところはわかってくれないの。
なんて桐谷くんに責任転嫁してしまう。


「人気者の人に気安く話しかける勇気はないの!」
「なんだそれ。また周りの目、気にしてんのか」


桐谷くんの表情は、呆れているようにも怒っているようにも、同情しているようにも見える。
私の心が揺れているから、彼の気持ちをそう決めつけてしまっているのか。
それとも彼自身が本当にそう思っているのか、全然わからない。

どう返事するのが無難だろう……
かと言って、桐谷くんに嘘をついてまた見破られるのも怖い。
結局、自分の心を偽らずに、うんと頷いた。


「……べつに誰も気にしねーよ」
「するよっ。私たち仲いい訳でもないのに急に教室で話しだしたら、少なくとも瑠々ちゃんは絶対に、そんな仲よかったっけって聞いてくるよ」


安易に想像できる。
桐谷くんの言う通り、まったく気にしない人だっているだろう。
だけど私の周りは――特に桐谷くん相手になると、気になるって人が絶対にいる。
自分が周りの目を気にしすぎているのはわかってる。
でもこの話は、考えすぎなんじゃなくて事実だ。
女の子というのは大抵、こういうことに敏感だから。

そう頭の中でぐるぐると思考していると、桐谷くんがなにも言ってこないことにふと気付く。
ちらりと横を見ると彼は不機嫌そうな顔をしていた。

……これは怒ってる。
さっきと違って確信があった。


「……“仲いい訳でもないのに”って」
「え?」
「なんか腹立つな。俺は俺なりにお前のこと気にかけて、相談のったりしてやったのにさ」
「え、あ、そうだね……ご、ごめんなさい」


たしかに桐谷くんにはすごくお世話になった。
それなのに仲はよくないなんて、失礼な言い方をしてしまった。


「それにさ、お前の話ってつまり、俺とつるんでるって知られたくないってことだろ? 俺とガレージでこうして話してるのも、俺たちの関係も」
「うう、えーっと……」


言葉をオブラートに包まなければそういうことになる。
肯定してしまえば彼をまた怒らせてしまうのではないかと怖くて頷けない。
だけどずっと返事をしないわけにもいかなくて口を開いた。


「……うん。そう、なる、ごめん」


桐谷くんがどんな顔をしているか見えないように下を向く。
なにを言われるかビクビクしていると、隣から「はあ~……」と大きなため息が聞こえた。


「いや、いいよ。べつにわざわざみんなに言う必要もねえよな。つか俺……」


彼に譲歩させてしまったのか、許されてしまった。
桐谷くんはもう別のことを考えているのか、おでこに手のひらを当てて真剣な顔で黙る。
待っていれば続きの言葉が聞けるかと思ってじっと見つめていたけれど、彼はまたため息をついてコンビニの袋を広げ始めた。


「……ご飯、食べるの?」
「腹減ったし。あ、隣で食わねえほうがいい?」
「え、ううん。大丈夫」


私の返事を聞くと桐谷くんはモグモグ食べ始めた。
どうやらさっきの言葉の続きを話す気はないらしい。
いったいなんだったのか気になるけれど、家に帰る頃には忘れているだろうと心の中にしまう。

『俺たちの関係』
桐谷くんはそう言っていたけれど、彼はこの少し変な関係に、はっきりと名前を付けていたりするのだろうか。
友達、クラスメイト、ガレージ仲間……とか?

それとも――

頭に浮かんだ名前をすぐに消し去る。
少なくとも私は、桐谷くんとの間にしっくりとくる名前なんて付けられていない。





ガレージを後にして家に帰る。
ガチャリと扉を開けて、すぐに違和感に気がついた。
急いでリビングに向かうと母の背中が見える。
声をかける前に母がくるりと振り向いた。


「あ、おかえり結衣」
「ただいま……今日は早かったんだね」
「うん、珍しく早上がり。夜ご飯、からあげでいい?」
「え、うん。でも私作るよ」


急いでかばんを置いて、母の近くまで行く。
だけどお母さんは朗らかに笑った。


「いいのいいの。たまにはお母さんの手料理食べてもらわなくっちゃ」
「でも……」
「ほら、学校の宿題でもして待ってて、ね」


そう言ってキッチンから追い出されてしまった。
私の家は母子家庭だ。
母は私のために朝から夜遅くまで働いている。
こうして夕方に帰ってきたのはいつぶりだろう。
休めるときに休んでほしいから私が作るって言っているのに、母は譲ろうとしない。
それどころか手間がかかる油料理だなんて。

……私が、からあげ好きだから。
嬉しいのにどこか痛い。
母の背中になんだか胸が熱くなるのを知らんぷりして、リビングを後にした。





「いただきます」
「はい、めしあがれ」


サクッと音をたてたからあげは、昔と変わらない味がした。
ああ、これだ。
コンビニで買えるものでも、売店やレストランで食べられるものでもない。
母親が作ってくれるからあげは、どうして唯一無二の味がするんだろう。
ご飯がすすむ。
モグモグと食べ進めていると「ねえ結衣」と声をかけられた。


「最近、高校はどうなの?」
「普通だよ。友達……七瀬ちゃんたちの話したでしょ? 楽しくやってるから大丈夫」


母の心配が少しでも吹き飛ぶよう、にこりと笑って答える。
すると笑顔が返ってくるけれど、目はまだ心配だと訴えていた。


「あ、そういえばバイトは?」
「バイトも大丈夫。ホワイトだし、みんないい人だから」
「そう……」


母は頷くけれど、なにを思っているかはバレバレだ。
安心させるためになにか上手いことを言えたらいいんだけれど、いつも月並みなことしか話せない。
母親相手にも自分が迷子になっていると言ったら、桐谷くんは呆れるだろうか。


「結衣、いつもひとりにしてごめんね」


母の悲しそうな声で顔を上げる。


「もう、大丈夫だよ。友達もいるし――」
「結衣のこと寂しくさせてない?」


その言葉に一瞬息が詰まる。
だけどにこっと笑って誤魔化した。


「お母さん、私もう高校生だよ。平気だから気にしないで」


自分が今いちばん言いたくないことを、もうひとりの自分は軽々と口にしてしまう。
でもこの言葉を聞いて母が「そうだね」とおかしそうに笑うから。

寂しいと言ったら困らせてしまう。
高校生にもなって甘えたら困惑させてしまう。

そうやって遠慮しているからだろうか。
いつの間にか開いてしまったこの隙間が切ない。


「あ、そうだそうだ。これ、結衣にプレゼント」


嬉しそうに差し出されたのは手芸道具だった。
毛糸も一緒に買ってくれたのか、いくつか色が並んでいる。


「食材買いに行ったときに寄ったんだけどね、結衣好きそうだなあって思って買っちゃった」


ふふっと笑う母は少し自慢げで、嬉しそうだった。
相手がどんな反応を求めているかなんて、きっと私じゃなくともわかる。


「わー、ありがとう! 今はこんなのもあるんだね」
「ね、すごいよね。ほかにもあったんだけど――」


母が嬉しそうに笑うたび、私の心がズキズキと痛む。
桐谷くんに『本当はイチゴミルク好きじゃない』と言ったあの場面が頭をよぎる。
そして『自分を偽っているのではなくて、言っていないだけじゃないか』と言われた場面も。

手芸なんて本当は好きじゃない。
だけど母が幸せそうに買ってきてくれるから、小さい頃はその気持ちが嬉しくて喜んでいた。
それが何度も続いて、母は私が手芸が好きなのだと疑わなかっただろう。
そりゃそうだろうと自分でも思う。
だけど本当のことを言う機会を逃して、勇気を出すこともできなくて。

好きじゃないと言うことは簡単だ。
だけどこの状況は、桐谷くんのときと同じようで同じじゃない。
少なくとも私はそう思うから、なにも言うことができなかった。