「あーもうっ、ほんと最悪!」


お昼休みでザワザワしている教室内に、瑠々ちゃんの怒鳴り声が響く。
クラスメイトが何事だとこちらを見るけど、声の主が瑠々ちゃんだと分かるとすぐに視線を戻した。


「ま、まあまあ瑠々、落ち着きなよ~っ」


ひまわりちゃんがなだめようと手を伸ばす。
だけど瑠々ちゃんはその手を振り払った。


「やめてよ! どうせひまちゃんには瑠々の気持ちわからないから!」
「そ、そんな言い方っ……」


ひまわりちゃんは傷ついた顔をして、大きなため息を吐く。
そしてすぐに呆れた表情に変わり、自分の席に戻っていった。

今の私たちの空気は最悪だ。
それもこれも瑠々ちゃんが付き合っていた彼氏と別れたから。
彼女の機嫌は恋愛事情に直結してる。
彼氏と喧嘩した別れたとなると、こうして周りに当たり散らす。

これで何度目だろう。
瑠々ちゃんがこうなったときどう対応したら正解なのか、私にはずっとわからない。
すると七瀬ちゃんの厳しい声が響いた。


「瑠々、あんたいい加減にしな。失恋して傷心中なのはわかるけど、そんな態度じゃ友達いなくなるからね」
「……っ」


瑠々ちゃんは苦しそうに下唇を噛んだ。
だけど七瀬ちゃんはそれ以上何も言わず、ひまわりちゃんの元へ歩いて行った。

……私は、どうしたらいいだろう。
七瀬ちゃんとひまわりちゃんのところに行くか、瑠々ちゃんのそばにいるか……

正直、今の瑠々ちゃんのそばにはいたくない。
だけど私が七瀬ちゃんたちのところに行ったら、瑠々ちゃんは独りになってしまう。

私なら……理想の自分なら、どっちを選ぶ?
ざわざわとした教室の中、私は小さく深呼吸して1歩踏み出した。


「瑠々ちゃん」


名前を呼ぶと、彼女がちらりと私の方を見る。
まだイラつきは収まっていないようで表情は怖い。
だけどさっきとは違って、少し不安そうに見えた。


「何があったの? 私でよかったら話聞くよ」


自分の気持ちを押し殺して、できるだけ柔らかい声を出す。
でも瑠々ちゃんの表情はますますこわばった。


「なにそれ、どうせゆいぴーも瑠々のことめんどくさいとか思ってるんでしょ!?」
「そ、そんなこと……」
「それなのに瑠々に優しくしようとするの? 自己満の偽善者じゃん!」


彼女の言葉を受けて、カッと頭に血が上る気がした。

なんなの、私は瑠々ちゃんが寂しいだろうと思ったからそばにいようと思ったのに。
それに瑠々ちゃんはもう高校生だっていうのに幼稚すぎる。
自分の思う通りにならなかったからって、我慢もせずに感情のままに怒って、周りに八つ当たりするなんて。
私だったら嫌われないようにもっと気を遣うのに、どうして瑠々ちゃんはできないの。

私だったら、私だったら。
……私は、私はずっと、我慢してるのに。

怒りのまま心の中で愚痴って、ふと思考が止まる。
私、瑠々ちゃんに図星を突かれたからイラついてるんだ。
彼女に優しくするのは、彼女のためじゃなかったから。
Ⅰmmも瑠々ちゃんのことを思っていないわけじゃない。
だけど大部分を占めているのは、その行動をして自分が満足できるか、周りの人に良い印象を持ってもらえるか。
それを瑠々ちゃんに指摘されて、バレていると焦って、怖くなってイラついて。

私は自分を落ち着かせるために、大きく息を吐いた。
まだイライラしてる。
自分が悪いとわかっていても、彼女も悪いところがあると、まるで責任転嫁するみたいに考えてしまう。
だけど私は瑠々ちゃんを羨ましがってるだけだ。

彼女はありのままの自分の感情を怖がらずにさらけ出せるから。
我慢せずとも彼女を愛してくれる恋人が今まで何人もいて、なんだかんだ許して面倒をみてくれる友達がいるから。
勝手に我慢して苦しくなってる自分とは、反対だから。


「……瑠々ちゃん」


彼女が荒れているせいで、周りの席には誰も座っていない。
それをいいことに、瑠々ちゃんの隣の席の椅子を借りて、彼女のすぐ近くに持って行って座った。


「……そうだね、私、瑠々ちゃんの言う通りだと思う。だけど、瑠々ちゃんの話を聞きたいのは本当だよ」
「……なにそれ開き直り? 瑠々、そういうのうっざい!」
「……うん」
「うんってなんなの! どうしてゆいぴーってなにも言い返してこないの! そういうところアイツとそっくり!」


瑠々ちゃんの怒りの矛先が、少しずつ私から元カレへと変わっていく。
そのことにほっとしながら、心臓がずっと痛いのを、今にも泣きそうなくらい苦しいのを我慢した。





日頃に比べて長く感じる授業と休み時間を過ごし、やっと放課後を迎える。
私はスーパーに寄っていつもの品を購入し、ビニール袋を提げてガレージの中に入った。


「にゃー」


いつもは塩対応なしいちゃんだけど、私がご飯を買ってきたとわかると、テクテクと寄って来てくれる。


「しいちゃん、用意するからちょっと待っててね」


そう伝えてもしいちゃんは私についてくる。
それがかわいくて嬉しくて、疲れきった心が少し癒される気がした。


「よいしょっと……」


ガレージの奥の方に置いてある、しいちゃん専用のお皿を借りる。
それと同時に、ここには私たち以外誰もいないことを確認した。


「おまたせ、しいちゃん」


ご飯の用意をして、しいちゃんへ差し出す。
するとしいちゃんはすぐに食いつき、私の方を全く見なくなった。
その瞬間、ずっと張っていた気が緩む。


「はあ~……」


今日辛かったこと全部を吐き出すかのように、大きなため息をつく。
そのまま自分の魂まで飛んでいってしまいそうな気がして、少し怖くなった。

もしそうなったら、しいちゃんは助けてくれるかな。
それとも気づかずにご飯を食べ続けるかな。

そんなくだらないことを、ガレージ外の景色を眺めながら考える。
足早に駅へと向かう大人の女性や、杖を持ったおじいさんがゆっくり歩いていく。

そのことに関してなにか考えるわけでもなく、ぼーっと風景を見続けた。
するとご飯を食べ終わったのか、しいちゃんが突然「にゃー」と鳴く。
返事をしようとしたとき、足音がすぐ近くでして振り返った。


「よ」
「桐谷くん」


彼はさも当然のようにガレージに入ってきて、私の隣に座る。


「今帰ってきたところ?」
「ん。早坂は?」
「私はちょっと前だよ。しいちゃんのご飯買ってから来たから」
「ふーん」


彼から聞いてきたのに、私の答えには興味がなさそうだ。
それとも話の流れ的に社交辞令のようなものだったのかな。

瑠々ちゃんのことがあったからか、気分が沈んでいるせいでほんのちょっとしたことでも不安になる。
そんな私に気付いているのかいないのか、桐谷くんは私をちらっと横目で見て口を開いた。


「もう今日は愚痴ったのか?」
「え?」
「こいつに」


桐谷くんの視線を追いかけると、ご飯を食べてお腹いっぱいになったのか、眠そうなしいちゃんがいた。
それでやっと彼が何を言いたいのか気づく。


「……ううん、まだ」
「あー……そう」


桐谷くんはなぜかばつが悪そうに頭をかく。
どうかしたのか聞こうとしたけれど、それより早く彼が口を切った。


「俺、あと30分で帰るわ」
「え? う、うん、わかった」


なぜわざわざ教えてくれたのかわからず、語尾にはてながついたような口調になってしまった。
だけどその疑問について質問する勇気が出ず、沈黙が流れる。

ちゃりんちゃりんと自転車が走る音、とんとんコツコツと人が歩く音。
目の前の景色から織りなされる音しか聞こえない。

自分の秘密を知られてしまったからといって、特別親しいわけでもない彼との沈黙はまだ少し気まずかった。
視線をどこに置いたらいいかわからなくなり、結局私たちの間に座っているしいちゃんを見る。
いつもの通り撫でさせてもらい、少しでも心が落ち着くように願う。

するとそんな私を助けようとしてくれたのか、余計に乱そうとしたのか、スマホが着信を告げる。


「あ……」


反射で画面を見ると、そこには『瑠々ちゃん』と映されていた。
応答ボタンを押すことができず、心が揺れたまま画面をじっと見つめることしかできない。
それでも手の中でスマホはずっと鳴り続けている。
逃げるように顔を上げると桐谷くんと目が合った。
心臓がドキリと恐怖で音をたてる。


「……べつにいいんじゃねーの」
「え……?」
「出んのが辛いなら」


そう言われて、また視線をスマホに戻す。


「……うん」


そして静かにかばんの中にしまった。
本当にごめんなさい、瑠々ちゃん。
もしかしたら大切な用事かもしれない、何かあったのかもしれない。
瑠々ちゃんに対してひどいことをしているとわかっていながらも、それでも指が、心が動かない。

あとで……あとで、かけなおそう。
必死に言い訳をして、まぶたを閉じる。
しばらくして少し落ち着いたかとほっと息を吐く。
すると隣の彼が動いた気配がして目を開けた。


「ん? なに、食う?」


彼が差し出してくれたのは、瓶の形をした中に入っているラムネ菓子だった。


「……ほしい」
「どーぞ」


彼から一粒もらって、ありがとうとお礼を言う。
口にいれると酸味がして、そういえば久しぶりにラムネを食べたと気づいた。


「……桐谷くん」
「なに?」


彼は私を見るだけで、特になにか言いたそうではない。
桐谷くんなら絶対なにか言ってくると思っていたのに。


「……ううん、なんでもない」


そう話しながらも少しドキドキしていた。
今にも瑠々ちゃんに関してのことを聞かれるんじゃないか、言われるんじゃないかって。
でも彼はずっと黙ったままで、そのまま時が過ぎていく。
そのことに驚きながらもほっとする。

桐谷くんは、今なにを考えているんだろう。
今日の瑠々ちゃんの様子は、出席していたクラスメイトならきっと誰もが知っていることだ。
それはもちろん彼も入るわけで。
私が瑠々ちゃんにいい顔をしていたのを、桐谷くんも含めてみんな見ていたと思う。
クラスメイトのみんなはきっと、少なくとも私が印象操作したとおりに感じてくれているはずだ。

だけど桐谷くんは違う。
私の本心をもう知ってしまっているから。
瑠々ちゃんに必死にいい顔をして、周りにどう思われるか計算して行動する様子は滑稽に見えただろうか。
それとも。

『……べつにいいんじゃねーの』
『出んのが辛いなら』

私のことを心配してくれただろうか。
だからさっきはああいう風に優しく声をかけてくれた?
……なんて、いいように考えすぎかな。
自分で自分の考えに笑ってしまう。

私と瑠々ちゃんは似てないけれど、少し似ているなと思うところがある。
それは、自分を愛してくれるひとを求めているところだ。
瑠々ちゃんは家庭環境が少し複雑で、だから幼いころからの愛情不足を恋人で満たそうとしてるんだと思う。

そして私は、仮面を外したありのままの自分でも愛してくれるひとを欲してる。
瑠々ちゃんが恋愛のことで荒れるのは困るし怖いし嫌だけど、彼女の気持ちがわかるから、嫌いになれない。

……明日、学校行きたくないな。


「早坂」
「っえ?」
「ん」


突然名前を呼ばれて、彼が手を出せと仕草で訴えてくる。
なんだろうと思いながら促されるまま手を出すと、さっき食べたラムネ菓子がころころとてのひらに転がった。


「疲れたときは糖分とればなんとかなる」
「え? う、うん、ありがとう……」


糖分でなんとかなる……だろうか。
少し横暴に感じるけど、私のことを心配してくれているのだとわかって心が温かくなった。


「……ふふ、ありがとう桐谷くん」


彼が今ここにいてくれてよかった。
漠然とそう思った。





「ねえ! すっごくイケメンでしょ〜」


今日の朝までずっと憂鬱だった学校は、行ってしまえばなんとかなるということはよくあって。
悩みの種だった瑠々ちゃんは、昨日のことが嘘のように、スマホを片手に笑顔で話している。


「わ! ほんとだ! すっごくかっこいい!」
「だよねえ、ひまちゃん! 昨日行ったカフェの店員さんなの~」


瑠々ちゃんはどうやら、昨日憂さ晴らしに行ったカフェで新たなイケメンを見つけたらしい。
その彼のおかげで瑠々ちゃんの機嫌はすごくよくて、話を聞いている七瀬ちゃんたちも穏やかだ。


「昨日いっぱい相談のってくれたゆいぴーに一番に教えたくて電話したのに、ゆいぴーは出ないしぃ」
「ご、ごめんね……」
「いいよ〜、ゆいぴー忙しかったんでしょ?」


気にしないで〜、と私を気遣うように笑う瑠々ちゃん。
昨日は結局、家に帰ってから瑠々ちゃんに連絡した。
そのときの返事で、彼女の善意を私の勝手で踏みにじってしまったことを知った。
みんなが笑って話している横で、私の心はずっと痛いままだ。


「瑠々、イケメン追いかけるのはいいけど、今日の小テスト勉強したの?」
「ふっふっふ、昨日のカフェで勉強したからだいじょ~ぶだよう」
「待って待って! 今日小テストあるの!?」
「もう、バカひまわり。留年しても知らないからね」


すぐ隣にいるのに、みんなの声が膜を張ったように遠く聞こえる。
七瀬ちゃんがひまわりちゃんの頭を叩くところを、じっと見つめていた。

仮面を被ってない私なら、ひまわりちゃんのことを笑って、七瀬ちゃんみたいにもっと砕けた雰囲気で接していただろうか。
わからない。
仮面を被ってない自分って、どうやって友達と話してたっけ。
どこからが私のもともとの性格で、どれが私の隠したい部分なんだったっけ。

本当の自分って、いったい――


「ねえ結衣! おねがい、勉強教えて!」
「っえ?」
「あ、ずるーい! 瑠々はひとりでがんばったのにい」
「瑠々はどうせフジュンな理由でしょ! 結衣~、イチゴミルクおごるから! だめ?」


両手を顔の前で合わせて必死なひまわりちゃんに、横でふくれっ面な瑠々ちゃん。
そして、私のことをじっと見つめている七瀬ちゃん。
別に気絶していたわけではないのに、急に現実にかえってきた気がして思わず小さく息を吸った。
そのままいつものように笑って、お決まりの言葉を吐く。


「私でよければもちろんいいよ。イチゴミルクは大丈夫だから、自分に使ってあげて」
「わ~結衣! ほんと天使だよ! ありがとう!」


友達から感謝されることをして、実際にありがとうと言われて。
嬉しいのに、まだ痛い。


「あ、そういえばねえ~、好きなアイドルのライブ決まったの~」
「ええ! 瑠々の好きなって、あのイケメンの!?」
「そうだよ~。でね、だれか一緒に行ってくれないかなあって」
「え! 行きたい行きたい!」
「わ――」


私も行きたい、そう言いかけて口ごもった。
自分の気持ちを、人の目を異常に気にする怖がりな自分がフタをする。
もし、もしこれでまた笑われたら、バカにされたら、嫌われたら。
瑠々ちゃんたちはそんな人たちじゃないって、あの人たちとは違うってわかってるのに、信じてるのに、それでもあの日々がフラッシュバックする。

仮面を被った私って、アイドル好きだっけ。
好きだって言って引かれないかな、みんなはどう思うんだろう。
意外だって笑うかな、それとも一緒だって喜んでくれる?
わかんない、怖い、怖い、怖い、考えたくない。
だからこういうときはいつも――


「じゃあふたりで行ってきたら?」
「ええ~、なーちゃんは行ってくれないの~」
「ごめんパス。金欠だから」
「じゃあふたりで行こ、瑠々!」
「え~、ありがとうひまちゃんっ」


こういうときはいつも、何も言わないことを選ぶ、選んでしまう。
だから私だけ遠いところにいる。
自分の本当の気持ちを隠してみんなと接しているから当たり前だ。
それでよかったはずだった。
ううん、本当はこんなこと考えてなかった。


「あたしトイレ行ってくる」
「あ、わたしも!」
「ええ~、じゃあ瑠々も行く~」


自分はどうしようかと迷っていると3人は教室を出て行ってしまう。
追いかけようと足を踏み出したとき、ぐっと手首を掴まれた。


「え? 桐谷くん?」


振り向いたらすぐ近くに桐谷くんがいて驚く。
だけど彼はそんな私のことをお構いなしに口を開いた。


「今日も来んの」
「え?」


いったいどこに、と一瞬悩むけど、すぐにしいちゃんのところだとわかった。


「えっと、今日はバイトだから行くとしても遅くなる、かな」
「あそ」


桐谷くんはそれだけ言うと、すぐに手を離して友達のもとへ帰っていった。
なんだったんだと不思議に思いながら、私も七瀬ちゃんたちを追いかける。
心臓はまだ少し痛かった。





バイト終わり、もうすっかり暗くなった道を歩く。
いつもの癖でガレージへと視線を移すと、そこに誰かいるのがわかった。
素通りするのも変な気がして近づくと、彼はすぐ私に気付いて顔を上げた。


「お疲れ」
「う、うん……ありがとう」
「座れば?」
「……じゃあ、お邪魔します」


コンクリートの上に座ると、その冷たさが肌に伝わる。


「……ずっといたの?」
「まあ、暇だったし」


そう言う桐谷くんは前に比べてずいぶんしいちゃんと仲良くなったみたいで、抱っこしながら頭を撫でた。
しいちゃんは気持ちよさそうにゴロゴロと鳴いている。


「こいつに愚痴るだけで楽になるんだったらいいけど」
「え……?」


顔を上げると、どこか真面目な顔をした桐谷くんと目が合う。


「でもこいつ、聞いてくれるだけでなにも言わねえだろ」


目の前の彼がなにを言いたいのかわからず、じっと見つめたまま言葉を待つ。


「俺だったら、お前が変にネガティブなこと言い出したときツッコめるなと思って」
「え……」


そこまで聞いて、やっと桐谷くんの言いたいことがわかった。
だけど信じられなくて、思わずぱちぱちと瞬きする。


「ま、べつに無理に話せとは言わねえけど」


そう言うと彼はふいっと横を向いてしまう。
桐谷くんの言葉を聞いて、理解して、受け取って。
心がじんわりじんわりと時間をかけて温かくなる。


「……心配、してくれたの?」
「はあ? 当たり前だろ、あんな話聞いたら誰だって気になるわ」
「う……ご、ごめんね」
「べつに謝んなくてもいーけど……」


居心地悪そうに頭をかく桐谷くんが何故かおかしくて笑ってしまう。
すると眉間にしわを寄せた彼に睨まれた。


「なに笑ってんだよ」
「ごめん、なんか笑えてきちゃって」


素直に謝ると、桐谷くんは小さくため息をついた。


「ま、笑う元気があるならいいけど」


その言葉で、本当に心配してくれていたのだとわかって心臓が優しく痛む。


「……ありがとう、桐谷くん」


いつもは冷たくも見える彼の優しさに気付いて、そしてそれが嬉しくて口元が緩む。
……やっぱり優しいんだなあ。
その温かさが今の私にはすごく沁みて、そのまま目からこぼれてしまいそうだった。


「……じゃあ、お言葉に甘えて愚痴ってもいいかな」
「どーぞ」


心配したとかなんとか言っておきながら、変わらずぶっきらぼうな桐谷くんに安心して、心のまま吐き出した。


「私、七瀬ちゃんたちのこと好きなの」
「は?」


桐谷くんは意味が分からないと言いたげに眉をひそめた。
そういう反応をされるんじゃないかと思っていたから思わず笑ってしまう。


「最初は……入学してすぐのときは、正直好きじゃなかったの。常識ないなって思うときもよくあったし、私と違ってキラキラしてて嫉妬もしちゃったし、ちょっと怖いし……」


私たちが通う高校は、教育困難校……いわゆる底辺校にあたる。
偏差値の低さはここらへんじゃ一二を争うし、実際みんなの学力も低い。
授業は授業にならないこともよくあるし、留年や中退をする人もいる。

つまり何が言いたいかっていうと、言葉は悪いが馬鹿が多いのだ。
そんな常識も知らないのかと驚くこともあるし、精神年齢が幼いと感じることもよくある。
だから好きじゃなかった。

一年生のころの私は正直、みんなのことを見下していたんだと思う。


「だけどね、みんなと過ごしてると、私が持ってないものをたくさん持ってる人たちだって気づいたの」


七瀬ちゃんたちは、学校では学べないことをたくさん経験している人たちだった。

たとえばアルバイト。
私たちの高校ではバイトが認められているから、ほとんどの人が働いている。
常識がないと感じていたけど、社会ではやっていける程度に身についているし、それを補うほどのコミュニケーション能力や愛嬌がある人ばかりだ。
そしてなにより、学校では学べないことを働いて経験して、みんな成長していく。

それから美容。
校則が緩いのもあってか、みんな学校にメイクをして来ている。
最初は驚いたけど、自分で実際にしてみて、毎朝メイクをするために早起きをすることも、かわいくなる努力をすることも大変なのだと知った。

そして恋愛。
少女漫画のように甘酸っぱくて幸せなものだと思っていたけど、現実は違う。
瑠々ちゃんのように怒る出来事もあれば、涙が枯れてしまうような悲しい出来事もいっぱいある。
なにより、恋人をつくるには行動しないといけないし、できたとしても関係を続ける努力というのは、幸せだとしても大変だ。


「バイトとかオシャレとか恋とか、みんなしてるし身近に感じるけど、全部簡単なことじゃない。それを当たり前かのように毎日続けてるみんなはすごいって、尊敬するようになって、好きになって……」


震えを隠すために、ぎゅっとこぶしを握った。
誰にも言ったことがない悩みを打ち明けるのは、少し勇気がいる。
だけど桐谷くんの優しい温かさを思い出して口を開いた。


「……自分を偽るんじゃなかったなって、いまさら後悔してるの」


本当の自分でみんなと接したいと思うくらい、いつの間にか七瀬ちゃんたちのことを好きになっていた。


「じゃあこれから素の自分で話せばいいじゃんって思うんだけどね、最近本当の自分ってどんな感じかわからなくなったりしちゃって」


私のことは私にしかわからない。
そうであるはずなのに迷子になってしまって、情けなくて恥ずかしい。
あはは、と笑ってみせるけど、すぐに空気になって消えていった。


「それに……やっぱり怖くて」


いちばんの理由はそれだった。
ネガティブな考えしか浮かばなくて、そしてそうなってしまう事実が怖くて動けない。
気持ちは膨らむばかりなのに解決できないままで、ずっと苦しい。


「……早坂はさ、誰にでも優しいよな」
「え?」


優しい。
何度も何度も言われた言葉。
だけど桐谷くんがそう言ってくれるなんて思っていなかったから驚く。


「誰にでも優しい人は誰にも優しくないって言うけどさ、俺はそうは思わない」


私のほうを向いた桐谷くんと目が合ってドキリとする。


「人に優しくするのって、少なくとも相手のことを想ってないとできないことじゃん。その目的が人に嫌われたくないからだったり、いいように見られたいからだったりしてもさ」


いつもより暗い世界の中、桐谷くんの表情はやわらかだった。


「優しくするって人として当たり前だとか言われるし、よく聞く言葉だし、簡単に感じるけどそうじゃない」
「……かんたんじゃ、ない?」
「そ、さっき早坂が言ってたことと被るけど。つまり優しいってすごいことだよ」


桐谷くんはそう言うと、抱いていたしいちゃんをそっと地面に下ろす。
するとしいちゃんはてくてくと歩いていき、ガレージの奥にあるベッドに寝転んだ。

優しいのはすごいこと。
彼にそう言ってもらえて嬉しいけど、いまいち納得できない。
すると目の前の桐谷くんが顔をしかめた。


「俺褒めてんだけど、全然しっくりきてねーな?」
「えっ、そ、そんなことないよ!」


慌てて首を振るけど、桐谷くんに「俺にまで嘘つくんじゃねーよ」と言われてしまい黙る。
彼は困ったように頭をかいたあと口を開いた。


「なんつーかさ、優しいか優しくないか決めるのって、受け止める相手側じゃん」
「……う、うん」
「だからさ、たとえば早坂が自分でどれだけ人に優しくしてたってそれが見当違いの優しさなら、相手は優しいじゃなくて余計なお世話だって感じる」


なるほど……
たしかにそうかもしれないと静かに頷いた。


「だけど早坂はみんなから優しいって言われてんじゃん? それって、早坂は間違ってないってことだと思う。優しくする理由がなんであれ、相手がそれで喜んだならそれは優しさだよ」


きらりと視界の端で星が光る。


「それに早坂って、自分のこと偽ってるっつーより、言ってないだけじゃね? まあ好きなもん嘘つくとかめんどくさいことはしてるけど……」


きらきらと暗い中で光が主張する。
自分を偽ってるのではなく、自分のことを言っていないだけ。
たしかにそうなのかもしれない。
いや、もし本当はそうじゃなかったのだとしても、私では考えつかないことだった。
桐谷くんは私を見て笑う。


「だからさ、そんな迷子になんなくてもいいじゃん。早坂はもとから優しい奴だよ」
「え……」
「ま、優しく見えるのは弱い奴だからだとか、いろいろ言うやつもいるけ、ど……は!?」


桐谷くんは私を見るなりぎょっとした顔をした。
どうしてなのか理由に気付いて、すぐに顔を伏せる。


「え? おいマジか……な、なんで泣くんだよ……」
「ご、ごめんっ、泣きたくなんかないんだけど勝手に涙が……」
「はあ? なんだよそれ……」


困惑した声が隣から聞こえてくる。
すると励ますように背中を撫でられた。
だけどその手つきがなんだかぎこちなく感じて、思わずふふっと笑ってしまう。


「なんで笑うんだよ……」
「桐谷くんって意外に女の子を慰めるの慣れてないんだなって思って……」
「はあ!?」


心外だと言わんばかりの声だったけれど、手はそのままだった。
それがまた優しく心に沁みる。


「……ごめんね、違うの、桐谷くんの言葉が嬉しくて」
「……うん」
「ありがとう……すごく、元気出た」


その言葉は本当だけど、いや本当だからこそ涙がまだ止まらない。
スカートが色を変えて水分を吸い取っていく。


「……私、がんばってみる」


桐谷くんが私の話を聞いてくれて、温かい言葉をくれたから。
勇気を出そうって、その頑張り方がわかった気がするから。


「……応援する、けど。ちょっとずつでいいんじゃね? いきなりだとまたしんどくなるだろうし……」
「……うん、じゃあちょっとずつがんばる」
「おう……がんばれ」


桐谷くんの声がまだちょっと困惑の色を含んでいて、やっぱり少しおかしかった。
背中の温かさの正体が彼だと思うと、どこか非現実的で、不思議に感じる。


「……桐谷くん。どうしてこんなに優しくしてくれるの?」
「え、そりゃ……俺が優しいから?」
「……ふふっ」
「あ、お前また笑っただろ! 実はもう泣き止んでんじゃねーだろーな!?」
「わっ、やめてやめて、まだダメだからーっ!」


きれいな星が瞬く夜、猫が呆れたように小さく鳴いた。