いつからか、ありのままの自分で人と接すことができなくなっていた。
その原因も理由もわかっている。
だけどなおし方がわからない。
いや、正直に言うと怖くてできなかった。
本当の自分を愛してもらえるとは思えなくて隠したのだから。


「しいちゃん」
「にゃー」

家の最寄り駅すぐ近くのガレージ。
そこには自転車やソファーが置いてあって、ちょっとした物置になっている。
そして、三毛猫であるしいちゃんが住んでいる猫小屋でもあった。


「……しいちゃん、今日も話聞いてくれる?」


いつものように佇んでいる隣に座り、ふわふわの毛並みを撫でる。
返事はないけれど、こうしてそばにいてくれるからいいのだろうと勝手に解釈して口を開いた。


「今日ね、小テストがあったんだ。100点とれたんだけど、それを見た瑠々(るる)ちゃんが『優等生はいいな~』って。優等生だからとかじゃなくて、昨日勉強したから満点とれたのに」


話すとイライラした気持ちを思い出すのと同時にスッキリする。
しいちゃんがこっちを見向きもせず撫でられ続けているのをいいことに、遠慮なく吐き出していく。


「あとね、今日の授業もみんなすっごくうるさくて。そのくせテスト前になったら『ノート見せて』って言ってくるんだよ。虫が良すぎるよね」


私はいつのまにか、誰に対してもいい顔をするようになった。
優しくて、ほどほどにノリが良くて、いつも笑顔で明るくて。
言い出したらきりがない、そんな理想の自分を演じて接する。

特に学校では顕著だった。
だけど気持ちも全部ごまかせる訳じゃない。
表の顔をしているうちに、どんどんどんどん不満が溜まっていく。
そんな誰にも話せない愚痴をしいちゃんに聞いてもらうのが日課だった。


「優しいね、天使だねって、今日も言われたよ。嬉しいけど、それって私じゃない私への褒め言葉だなって思っちゃうの。なーんて、そんな風に言うなら全部さらけ出せよ~って、しいちゃんもきっと思ってるよね。私も思ってる、わかってる……だけどできないの」


撫でる手を止めると、しいちゃんがこっちを向いた。
それが嬉しいのに虚しくって。


「……本当の私のことを好きになってくれる人なんているのかなあ」


気づいたときには身動きもできないくらいに膨らんだ不安をぽつりとこぼす。
するとしいちゃんが私の手から離れ、ガレージの奥の方を見つめた。


「……どうしたの? もしかしてご飯が置いてある、と、か……」


不思議に思って、しいちゃんの視線の先を立って確認する。
すると思わずひゅっと息を呑んだ。
だってそこには人がいたから。


「……桐谷(きりたに)、くん?」
「あー……そうだけど」


ソファーの上で、ばつが悪そうに頭をかきながら彼は返事をした。
全く気付かなかった。
ガレージの奥の方は光があまり当たらなくて暗いし、ソファーの手前には自転車が停まってて死角になっているし、そもそも人が寝ているなんて考えないし。


「……私の話、聞こえて、た?」


とんでもない恐怖がじわじわと体を蝕んでいくのが嫌でもわかる。
それでも一縷の望みにすがるしかない。
寝てて聞いてなかった、声が小さくて聞こえなかったって。
だけどそんな希望は、彼の一言であっけなく崩れる。


「……悪い」


この場面での謝罪の言葉がどんな意味を持つのかなんて、きっと誰でもわかるだろう。
何か言わないと。

さっきのは全部嘘、聞かなかったことにして、忘れて、誰にも言わないで、嫌わないで。

いろんな言葉が浮かぶのに、パニックになってどれひとつも声にできない。


「……あのさ、早坂(はやさか)。ほんとごめん。声かけようと思ったんだけど」
「っ……!」
「あ、おい! 早坂!」


気付いたら逃げ出していた。
走って走って、そのまま消えてしまいたい気分だった。
よりによって……よりによって聞かれた相手が桐谷くんだなんて。


『……ごめん、やくそく守れなくて』


もしも神様がいるのなら心底恨む。
彼には、彼だけには知られたくなかったのに。
自分の心を犠牲にしてでも必死に保っていた日常が崩れてしまった。





次の日。
どれだけ絶望していたって普通に朝が来るのだと当たり前のことを知って、また苦しくなる。

……学校、休んでしまおうか。
そしたら桐谷くんに会うこともないし、もし私の本性が学校中に知れ渡っていたとしても気づかずにいられる。

……なんて、今日やこの先一週間くらいは逃げられたとしても、ずっと休むわけにはいかないし、すぐ学校に行かないとけなくなるのに。
それにもし昨日のことが広まっているならすぐにフォローしたほうがいい。
今日休んでしまったら『本当のことだから逃げたんじゃ?』って疑惑が深まるかも。
後から言い訳を並べたって、信じてもらいにくい気がする。

正直、上手い言い訳はあまり思いつかないけれど、あれくらいの愚痴ならまだなんとかなる……と思いたい。
こうしてすぐに自分を守ろうとするところ、そのためなら嘘をついたっていいと思っている自分のこと。
いまさら始まった訳じゃないのに、そのことに改めて気づいてまた自分が嫌いになる。


「……いってきます」


玄関を出る直前に鏡に映った私の顔は、驚くほど暗かった。



「あ、結衣(ゆい)。おはよ」
「おはよー結衣!」
「ゆいぴー、今日来るの遅かったね?」


教室に着くと、仲のいい友達が挨拶してくれる。


「おはようみんな。今日はちょっと寝坊しちゃって」


まだ何も言われないことにほっとしながらも、緊張したまま笑顔を作った。
学校に行く前はあんなに暗い顔だったのに、今は完璧な笑顔で話せている。
どこでそんなスイッチが入るのか、自分でもわからない。
それが誇りでもあり、恐怖でもあった。


「結衣がねぼー!?」
「ええ~、あんまり無理しないでよ~?」
「ちょっと夜更かししちゃっただけだから大丈夫だよ。ありがとう」


話が上手く進むように、何があったのか話さないですむように、すらすらと嘘を吐く。
ほとんど無意識だ。
だけどもし昨日のことがバレているなら、そろそろツッコまれるだろう。
緊張して体が固くなる。
このグループでいちばん物事をはっきり言う七瀬(ななせ)ちゃんと目が合うと、心臓が嫌な音をたてた。


「結衣、今日は早く寝なよ」
「えっ、あ、うん。ありがとう……」


あれ……
誰にも何も言われない。
もしかして、知ってるけど知らないふりしてくれてる……?

ますます不安になって教室を見回すけれど、そこにはいつもの日常が広がっているだけで、誰一人私のことを見ていない。
どういうこと……?


「あ、そういえばね、見てこれ~」
「なーにこれ? ネックレス?」
「そーだよお。昨日彼氏がプレゼントしてくれたんだ~」


どれだけ困惑していたって、目の前ではどんどん話が進んでいく。
今日も瑠々ちゃんの惚気話が始まった。

丸江(まるえ)瑠々ちゃん。
彼女は少しかわい子ぶるところがあるけれど、性格は割ときつい。
恋愛体質で気分屋。
今みたいに彼氏と上手くいっているときは機嫌がいいけれど、別れると手が付けられなくなる。


「へえー、わたしブランド物とかわかんないけど、よかったじゃん!」


瑠々ちゃんの惚気話を笑顔で聞いているのは、(あずま)ひまわりちゃん。
彼女は金髪が似合う元気っ子だ。
なにかと鈍感……というか天然なところがある、かわいい女の子。


「うわこれ高いやつ。てゆーかそれ、彼氏からもらったら別れるって有名なやつじゃん」
「そーだけど、瑠々は気にしないもん! ずっとラブラブだし~」
「ああそう」


そして瑠々ちゃん相手にもビシバシ言うのは、青木(あおき)七瀬ちゃん。
彼女はザ・ギャルって感じの人だ。
自分をしっかり持っていて、瑠々ちゃん相手でも怯まないし、素直に物事を言う。
私はそんな彼女が羨ましくて憧れていて、怖かった。


「結衣?」
「え、あ、ごめんね。寝不足で頭まわってなかった」


七瀬ちゃんに声をかけられてはっとする。
それにしても、昨日私が瑠々ちゃんたちの愚痴を言っていたことを本当に知らないのだろうか。
不安で気になって仕方がない。
いっそ遠回しに聞こうかと考えるけれど、そんな勇気はでなかった。

それならもう彼に聞くしかない。
そう思って無意識に目で桐谷くんを探すとすぐに見つかった。
今日も友達に囲まれて楽しそうな彼。
視線を感じたのか桐谷くんがこちらを向き、ぱちっと目が合う。


「っ……」


だけど怖くなって、不自然に目をそらしてしまった。
やっぱり無理……!
だって彼には知られてしまったのだ。
もう嫌われたに違いない。
そう思うと、心臓がぎゅうっと締め付けられて苦しかった。



今までの人生でいちばんドキドキそわそわした授業を終えて、昼休み。
いつものメンバーでご飯を食べるため、お弁当箱と水筒を持って席を立った。


「おい」
「え?」


声が聞こえて思わず振り返ると、そこには桐谷くんが立っていた。
ドキッとしたが、それを笑顔で隠す。


「どうしたの?」
「ちょっと来い」
「えっ」


ぐいっと手首を引っ張られて連れていかれる。
と思ったら、桐谷くんは七瀬ちゃんの前で一度止まった。


「こいつ昼休みの間借りるから」
「いいけど、なんか用事?」
「そ」
「わかった。結衣、今日は別々で食べよっか」
「えっ」


いやだ、なんて思っても言えるはずなく、その気持ちを押し殺して頷いた。
それと同時に桐谷くんが歩き始め、仕方なくついて行く。


「……あの、みんなの目が気になるし、手離してくれないかな?」


廊下に出ても手首は掴まれたままだった。
無難な理由をつけて、できるだけ優しい言い方をしてお願いする。
しかし振り向いた桐谷くんが手を離すことはなかった。


「無理。離したらお前逃げるだろ」


まるで私の気持ちがわかっているかのような言い方。


「逃げないよ」


ここで急に走り出したらみんな何事だって思うだろうし、その理由をごまかすのも大変だし。
というかまず、桐谷くんが走って追いかけてきたらあっけなく捕まるだろうし。

……なんて、冷静に考える私もいるけれど、本当はドキッとした。
ここまで来たら逃げようとは思ってない。
それは本当。
桐谷くんが私と話したい事柄は絶対昨日のことだろうし、私自身も話したかった。

だけど頭の片隅では、桐谷くんの手を振りほどいて逃げてしまいたいって思う自分がいた。
だから彼への返答は、本当と嘘の気持ちが混じったものだ。


「あんま人来ないだろうし、ここでいいか」
「……うん」


たどりついたのは屋上に繋がる階段だった。
返事をするのと同時に、やっと彼の手が離れる。
喧噪が遠くて、まるでふたりだけの世界みたい。
でも私にとってはちっともロマンチックに感じなくて、すごく居心地が悪かった。


「座ったら?」
「……うん」


すでに階段に腰を下ろしている桐谷くんに促されて、彼とは距離をとって座る。
そんな私を見て桐谷くんが訝し気な顔をした。


「すげえ警戒すんじゃん」
「……そんなことないよ」


嘘だけど嘘じゃない。
彼はそれを見抜いているのかいないのか、ただ興味がないだけか、それ以上は何も言わなかった。
そのことに少しほっとしていると沈黙が流れる。
この空気はもう話すしかないだろう。
ぐっと覚悟を決めて顔を上げると、桐谷くんと目が合った。


「俺が何話したいのかわかってるよな?」
「……うん」
「そか。じゃあ……」


腹をくくったはずなのに、彼の言葉の続きが怖くて聞きたくなくて、思わず体に力が入る。


「……ごめん」
「……え?」


い、今なんて言った?
予想外すぎる言葉だったせいで、しっかり聞こえていたのに信じられなくて聞き返す。
するとそんな私を見た桐谷くんも顔をしかめた。


「は? なにその反応……」
「えっ、ご、ごめん。なんか思ってたのと違ってて、びっくりしたといいますか……」
「はあ? じゃあお前は何て言われると思ってたわけ?」
「そ、それは……“お前腹黒すぎ”とか、“失望した”とか……?」


聞かれて思わずそのまま素直に答えると、目の前の彼の表情はますます引きつる。


「へー、早坂サンは俺がそんなひでーこと言うやつだと思ってるんだー」


いかにも怒ってますという言い方で、心臓がまた焦りだす。


「ち、ちがっ、そうじゃなくて! あんなこと言ってるの見たら、誰でもそう思うだろうなって思って……!」


なんとか取り繕うと必死に話すと、桐谷くんの表情はまた変わる。


「は? なんで? 愚痴くらい誰でも言うだろ」
「……え?」


どこかでなにかがキラッと光った気がした。
驚いて桐谷くんをじっと見つめていると、彼がまた口を開く。


「ま、いつもは仲いいように見えても、女はやっぱいろいろめんどくせーなとは思ったけど。でも、仲いいからってなんでも許せる訳じゃねーし、普通だろ」


桐谷くんはあたかも当たり前のことを言ってますという口調だった。
まさか彼がそんな風に言ってくれるとは思わなくて、なんだか胸が痛い。


「……でも、いつもはあんな態度の私が悪口言ってたら引かない?」
「それは、誰にでも笑顔振りまいて、まるで天使だ女神みたいだって言われてる早坂結衣がってこと?」


彼の言う通りだったけれど、その言葉に頷くことはできなくて黙る。
するとそんな私を見て何かを察してくれたのか、桐谷くんは返事を待たずに言葉を続けた。


「……早坂だろうと俺の意見は変わんねーよ。別に引いたりしない」


強い意思を感じる真っ直ぐな瞳だった。
私にはとても眩しく見えて、それでも逸らすことはできない。


「……からかったりもしない?」
「しねーよ。現に俺は何も言ってねーだろ」
「……うん」


たしかにそうだった。
私が愚痴を吐いたのを見たのに『早坂さんって悪口言うんだ……』って引かれてもないし『ええっ、黒いところ出てるよ! ブラック早坂じゃん!』とか言ってからかわれたりもしてない。

それどころか桐谷くんは謝ってくれたんだ。
それなのに私は嫌われたんじゃないかって怖がって、自分の保身のことばかり考えていた。


「……ごめんなさい、桐谷くん!」
「はっ? なに急に」
「えっとその……桐谷くんのこと誤解してたなって……」


ぺこりと頭を下げると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。


「……あーそうだな。どうせ、このこと他のヤツにも話してるって考えてたろ」
「えっ、それは……!」


正直すごく気になっていたことを言われて、がばっと顔を上げる。
桐谷くんはすごく不満そうな表情をしていた。


「心配しなくても誰にも話してねーよ、当たり前だろ」
「え、そ、そうだったんだ……」


てっきりみんなに話しているんだと思っていた。
こういうネタはやっぱり誰でも面白いと感じるだろうし、私だってそうだ。
だから今日は学校に来るのが、教室に入るのがすごく怖かった。
だけど。


「……ありがとう、桐谷くん」
「別にお礼言われるようなことしてねーよ。それにあれは……勝手に聞いてた俺が悪いだろ」


そう話す彼はさっきまでと違ってなんだか弱弱しく見える。


「え、いやいやそんな、私が周りも気にせず愚痴ってたから……!」
「……早坂さ」
「えっ?」


彼の罪悪感を少しでも拭うことはできないかと考えていると、急に名前を呼ばれて思考が止まる。


「なんでそんなに愚痴言ってんの聞かれたくなかったの」
「え? そ、れは……」


答えたくなくて言葉が詰まる。
桐谷くんは悲しそうな目で私を見た。


「……俺が言いふらすと思ったから、あのときあんな泣きそうな顔したのかよ」
「え、えっと……」


その通りだけど、理由はそれだけじゃない。
でもそれを説明するのはやっぱり怖くて、彼から目をそらした。


「だ、誰だって話そうと思ってない相手に愚痴を聞かれるのは嫌じゃないかな?」
「それはそうだろうな。でもあのときのお前は……この世の終わりみたいな顔してた」


頭の中に昨日の出来事が浮かぶ。
まさか彼にはそんな風に見えていたなんて驚いた。


「あはは、心配してくれたの? ありがと――」


笑顔を作ってお礼を伝えようとしたけれど、桐谷くんに腕を掴まれて言葉が途切れる。


「お前、誤魔化すなよ。俺は真剣に話してんだけど」
「っ……」


焦ってこの場を乗り切られる言葉を探すけどひとつも出てこない。
いつもは無意識でも嘘がぽんぽん吐けてしまうのに何も話せない。
こんな風に言われたことないから、誤魔化すなってこうして迫られたことなんてなかったから。

どうしよう、どうしたらいいの。
心臓が耳の横にあるんじゃないかって思うくらい、ドキドキした音が響く。
もうろくに考えることもできなくて、感情のままに口を開いた。


「ほ、本当のこと話しても、桐谷くんは嫌わないでいてくれるの?」
「は?」
「私、誰かに嫌われるのがすごく怖いの! 嫌われてるって気づいたらそれだけですごくストレスになる、だから嫌なの!」


私と性格が真逆な彼にはきっと理解してもらえない。
この世の人全員に好かれるのは無理だということはもちろんわかっている。

たとえば「2:7:1」という法則が有名だ。
10人いれば2人が気の合う人、7人はどちらでもなく、1人は気の合わない人になるという考え方で、誰かから嫌われることは自然なことなのだという。

でも私はそのことを知っていてもなお無理だった。
私にも嫌いな人はいる。
周りの人は、自分が嫌いな人には好かれたって迷惑だと、嫌われたいと話す。

だけど私は、嫌いな人からすらも好かれたかった。
その感覚はおかしいのだと、変えた方が生きやすくなるということは痛いくらいわかっていた。
それでも、ああそうですねと変えることなんてできない。
できたらこんなに悩んでなんてない。


「……だからあんなに愛嬌よく振舞ってんの?」
「……うん」


桐谷くんの言葉に小さく頷くと、沈黙が流れた。
彼が今いったいどんなことを考えているのかまるでわからない。
すごく怖かった。
こんなことを誰かに話すのは初めてだったから。


「じゃあ、ずっと嘘ついてるってこと?」
「……うん。ほんとは私、あんなに優しくないよ。口だって悪いときあるよ、イライラすることだってあるよ」


早坂結衣はどんな人ですか?
そう聞いたらほとんどの人がこう答える。
女神みたいに優しい、暴言も愚痴も吐かない、明るくてよく笑う人だって。
出てくるのはいつも誉め言葉ばかりで、それはやっぱり嬉しかった。
心をすり減らしてでも理想の自分を演じられてるって証拠だったから。

誰にでも優しく見えるように、よく笑って見えるように、暴言も愚痴も言わない女性に見えるように。
ずっとずっと印象を操作してきた、努力してきた。
人から嫌われないために。
だからそれでよかったはずだった。
だけど今はこんなに苦しい。


「……すごいな」
「……え?」


彼から予想外の言葉が聞こえて、びっくりして顔を上げる。
桐谷くんは珍しく地面を見つめていて、憂いを帯びた表情をしていた。


「俺、よく言葉がキツイって言われるから。嘘もそんな上手くつけねーし。だからそれができる早坂はすげーなって、素直に尊敬する」
「……え」


周りの音がしーんと聞こえなくなる。
それくらい彼の言葉は衝撃的だった。
本当のことを言って貶されるだろうと思っていたのに、まさか褒めてもらえるなんて思わなかったから。


「また変な顔してる」
「えっ」


くすっと笑われて、一瞬どこかにいっていた意識が戻ってくる。


「とにかくそんな深く考えすぎなくてもいいんじゃねーの」


そう言うと桐谷くんは座っていた階段から立ち上がる。


「ま、早坂はそれができないから悩んでるんだろうけど」


少しぶっきらぼうに聞こえる言葉は、どこか優しかった。
もう話は終わりなのかな。
桐谷くんの様子からして、少なくとも嫌われたということはなさそうで、ほっと安心する。
お昼ご飯はもうここで食べてしまおうか。
桐谷くんはどうするんだろうと考えていると、「早坂」と名前を呼ばれる。


「ん」
「くれるの?」


桐谷くんから差し出されたのは、ピンクの紙パックがかわいいイチゴミルクだった。


「お前それ好きだろ。愚痴聞いちまったお詫び」
「え、あ、ありがとう…………」


まさかここまでしてくれるなんて。
私は彼に何も用意してない。
また今度ジュースでもプレゼントさせてもらおう。

――なんて考えてる間もずっと、胸がチクチクと痛い。
彼が善意で用意してくれたものだし、いつものように黙っていればいい。
そうすれば変に気を遣わせることもないし、罪悪感を感じさせることもない。
もともとは私が悪いんだから。
……だけど。


「……桐谷くん」
「なんだよ」
「……私、ほんとはイチゴミルク好きじゃない」
「はあ?」


目の前の彼は予想通り、眉間にしわを寄せる。
その顔を見て、また胸が痛くなる。


「……お前、まさか好きなもんのことについても嘘ついてんの?」
「……うん。イチゴミルク好きな方がキャラに合ってるかなって、思って……」


罪悪感に苛まれながらも吐き出すと、彼は大きくため息をついた。


「お前、思った以上にめんどくせーな……」
「うっ、その通り、なんだけど……」


きっぱり言われるとやっぱり悲しくなる自分に、またひとつ嫌いが募る。
だけど思ったことをそのまま口に出してくれる桐谷くんにほっとした。
彼が気を遣って嘘を言ってくれたって、どうせ私はわかってしまうから。


「……それで? ほんとは何が好きなんだよ」
「え?」
「あるんだろ。それ買ってくるから正直に言え」


思わずぱちぱちとまばたきする。
めんどくさいと言いながら買い直して来てくれるなんて。
桐谷くんは私が思っていたよりも、ずっとずっと優しい人だ。
なんて、私がずっと見ないようにしていただけかもしれないけど。


小さく息を吸って、彼の目を見て口を開く。
「……コーラ」
「へえー……っ、はは、確かに意外かもな」


桐谷くんは予想外のものでおもしろかったのか、笑いがこらえきれずに吹き出した。


「そういう反応されるから嘘ついてたのに……」
「でも別に悪いことばっかじゃねえだろ、ギャップがあっておもしろいじゃん」


ええ、そうかな……
彼の言うことに素直に頷けなくて、何も言わずじとーっと見つめた。


「じゃあ買ってくるから待ってろよ」
「え、それなら私も行く!」
「はあ? なんで」
「私もお詫びとお礼に桐谷くんにジュース奢りたいから」
「それはどーも。つか、イチゴミルク飲みたくないならもらうけど」
「ううん、飲みたくないわけじゃないから大丈夫だよ。ありがとう」
「そうかよ、ならいいけど」
「だから2本奢るね」
「そんないらねーわ」


桐谷くんと話しながら売店に向かう。
彼の言葉はどちらかと言わずとも優しくない。
そういう相手と話すのはいつもなら気が滅入ってしまうのに、桐谷くんは違う。
その理由を頭の片隅で考えながら歩いた。





「しいちゃん」


その日の放課後、いつものようにガレージに来てしいちゃんを撫でる。
今日はいいことがあった。
そのことを話そうと口を開いた瞬間、ガタンと奥で物音がした。


「え……」


まさかと思って覗くと、そこには桐谷くんが気まずそうな顔をしてソファーに座っていた。


「お前今日も来んのかよ……」
「そ、それは私のセリフだよ!」
「俺はここのガレージのじいちゃんに好きなように使っていいって言われてんの」
「えっ、そうなの?」


まさかそんな事情があるとは思わず驚く。


「ま、だからといって俺のもんなわけじゃねーし、早坂も好きにしたらいいと思うけど」


桐谷くんはそう言って、私の方へ近づいてくる。


「けど、愚痴やらなんやら話す前に周り見るようにしろよ。俺はもういいとして、誰がいるかなんてわかんねーんだから」
「う、うん。ごめんね」


確かに彼の言う通り、また同じことをやってしまうところだった。
今日話そうと思っていたのは愚痴じゃないけど、本人に聞かれるのも恥ずかしい。
なんだかいたたまれなくて俯いていると、桐谷くんが私の横に座る。


「こいつの名前、しいっていうの」
「え、うん。みんなしいちゃんって呼んでるよ」
「ふーん」


返事は素っ気ないのに、しいちゃんを撫でる手は優しい。
桐谷くんと猫というのはなんだかアンバランスで、少しおかしかった。


「……ふふ」
「なんだよ」
「ううん、桐谷くんも猫撫でたりするんだなあって」
「お前それバカにしてるだろ」


こうして私たちふたりと一匹のヘンテコな関係が始まった。