「………ゆき」
真っ黒の夜空から、ふわふわと白い綿毛のような雪が落ちてくる。
誰しも、雪をみたら手を上げてそれを掬おうとするはずだ。
纏依は手で一粒溶け込ませたあと、手を逆さにして、すっと腕ごと下ろす。雪はとけて、滑り落ちてしまった。
透明だったそれは、明るいイルミネーションをよく反射する。
「……また、この日」
世間では幸せな一日、クリスマス。
ーー今年も、取り残されたまま。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
カランコロン、と静かに響く入店の合図。完全に鳴り終わる前に、纏依は迷いもせずカウンターの一番端に腰を下ろした。
周りを見渡すと、席はだいたい埋まっている。どうやら、静かにこのイベントを終えたい人は、彼女だけではないようだ。
「リッキーを、……いつもの」
もうすっかり顔見知った店主が、にこりとひとつ微笑んだ後、手早くグラスを差し出す。
ほんのり赤みが混ざったお酒。その正体は真っ赤なラズベリー。まるく、でもごつごつと実った果実は、丁寧にグラスに飾られている。
ひやりと冷たいグラスに触れると、外から持ち出してきた愉快な空気がパキ、と音をたてて凍った気がした。
「(……今日で、最後にする)」
絶対に、ぜったいに。
グラスを持ち上げるとカランと氷が揺れた。冷たい爽快感が喉を通ったけど、胸にそれは広がらず。
纏依はそれを誤魔化すようにカウンターにうつ伏せになり、意識を手放した。
『ー…じゃあな、纏依も幸せに』
真っ暗な中で、ひとつの声が響いたあと。
ふわふわと意識が戻ってくる。
「ーーーさん」
「(……ん、……なに)」
「おねーさん、起きて」
若い店員の柔らかい声が耳を撫でて、纏依を起こす。うつ伏せになっていた状態から、ゆっくりと顔を上げた。
「……いま、なんじ?」
「もう日付変わってますよ」
その言葉にほっと胸を撫で下ろす。纏依のその様子を見た店員は、きゅっとグラスを拭きながら、呟いた。
「俺、クリスマス出勤初なんですけど」
「(ー…私に、話してるよね?)」
「よく常連のお客さんから耳にするんです。クリスマスに、必ずカウンターで寝ながら次の日を迎える女性がいるって」
店員の顔は下を向いたまま、瞳だけが纏を捉える。ガラスみたいなそれに纏依の姿が映って、目を反らした。
「クリスマス、嫌いなんですか?」
「(どうせ、来年には彼は忘れてるだろうし……いいか、)」
起きたばかり、まだ寝ぼけていたのだろう。口がすんなりと開いて。
「ーー…好きな人と、離れた日なんです……クリスマスが」
纏依はこの台詞を言った後、相変わらず胸が痛んでいる自分に冷笑する。
いつまでもこの思いが、氷の結晶みたいにパキパキと侵食していくのだ。
別に、付き合っていたわけじゃない。片思いだった。
『俺、彼女できたんだ』
五年前の、まだ大学生のとき。たまたま、クリスマスに会えた、話せた。そのことにひとり舞い上がっていたときに……凍りついた。頭が真っ白になって。
ピシリと固まる纏依には気づかず、目の前の好きな人はそれは嬉しそうに彼女のことを語るものだから。
『……私も、彼氏できたんだ』
そんな、見苦しい嘘をついた。
焦りでとっさに飛び出した言葉。言ったあとですぐに後悔するのは分かっていたはずのに。
『これからデートなの』
なんて、続けて薄っぺらい笑みを重ねる。
ーー私、何してるんだろう。
頭のどこかでは冷静だった。だから、誤魔化した。
『(……っ)』
この恋が、伝えられずに終わることを。
『ーーそうなのか!おめでとう!俺知らなかったわ〜』
『(…ちがう、ちがうの)』
『ー…じゃあな、纏依も幸せに』
『(私、ほんとうは)』
ーー本当は、ずっとあなたのことが好きなの。
「……なーんて、馬鹿でしょう?」
「その人とはもう会ってないんですか?」
「嘘ついたらもう会うことすら怖くなっちゃったもので。だから毎年この日だけバーに来て、寝ながらクリスマスを過ごしてるんです。」
自分から、告白する資格を投げ捨てたんだから。
そうヘラリと笑うと、なぜか目の前の店員は真面目な顔をして黙り込む。
……笑って、軽くしてくれたらいいのに。
どうせなら、お酒の肴にでもすればいい。彼はお酒飲んでないんだけど。
どうして初対面の奴の話を、そんなに真摯に聞いてくれるのか。
そう思った直後、店員がやっと閉じていた口を開く。
「俺、あなたとは出会ったばかりですけど、分かったことがあります」
「……なに?」
「大胆に見えるのに、意外と臆病なこと」
『纏依はなんでも積極的っぽいよな〜』
「何だか心配になる性格をしてること」
『めちゃくちゃ頼りにしてる』
「誤魔化すのが下手なところ」
「……それは悪口じゃないですか?」
「違いますって」
今度は纏依が黙り込む番。
自分のことをこうも真っ直ぐに伝えられると、こんなに恥ずかしいのか。
ストレートに伸ばした焦げ茶の髪が、じっとりと頬に貼り付く。
じっと彼を見つめると、ふわりと柔らかく微笑まれた。
「……なんでそんな、真逆のことを言うの」
「え?」
「何でもないです」
そんなに自分のことを目の前で言われると、照れてしまう。
ぜんぶ、あの人とは違うことを言っているのに。
「……あの、名前は?」
「俺ですか?」
「そうです」
何で名前を尋ねたのか、自分でも分からない。自然に言葉が溢れていた。
照れ隠しも含まれていた気がするから、若干語尾が強くなる。
「晴です、笹川(ささかわ)晴(はる)」
「……はる」
「はい、まあ好きに呼んでください」
ー好きな人の名前は雪だった。
はる、と、ゆき……なんて。
「(……名前まで真逆なのね)」
なんだかおかしくて、面白くなってきてしまった。
この一瞬で慣れてしまった自分にも驚く。
「あと言い忘れました。さっきの、もう一つ言いたいことがあります」
はるというものは、雰囲気が包まれるような、温かさを呼ぶ。
少し色素の薄い瞳が、何を訴えるような強さを灯した。
「あなたは臆病でも、ちゃんと向き合う強さを持ってる」
「ーー…え」
向き合う、なんて。
もう十分というほど向き合っていると思うけれど。
晴の言っている意味が分からなくて怪訝な視線を送ると、その澄んだ瞳に見つめられた後、ふと目線を下げられてしまう。長いまつげが影を作っていた。
『誤魔化すのが下手なところ』
「(……私は、何を誤魔化していたの?)」
晴に話したときに湧き上がってきた後悔?
「(ずっと言いたかった。誰かにちゃんと、気持ちを受け止めてもらいたかった)」
ずっと後悔して放置している恋?
「(いつの間にか、バーに来ることが当たり前になっていて、深く思い出に触れることはしていなかった。……怖かったから)」
ーー今の私の戸惑い?
「(……私はもしかしたら雪に、ありのままの自分を曝け出していなかったのかもしれない)」
だって、晴に言われたことが図星だったから。
ずっと溶けずに凍っていた恋心。
今は、少しずつ前に進めている気がする。
纏依は数秒前よりも晴れやかな気持ちで晴を見て、思う。
「……あの?」
「(……彼の、おかげかな)」
何が何だか、という様子で困りながら微笑を浮かべる晴に伝えたいことができた。
「ありがとうございます、晴さん」
「……?はあ…?」
一段深く困惑した様子だったが纏依は今日、初めての笑顔を浮かべる。そこに憂いはなかった。
「……あ、そういえばあなたの名前を聞いてもいいですか?」
「木苺(こもう)纏依(まとい)です。きいちごって書いて、こもう」
「へえー。ラズベリーですね、珍しい……あ、だからリッキーも?」
「あー…まあ、そんなところです。ラズベリーの花言葉って知ってますか?」
「花言葉ですか……あんまり詳しくなくて、すみません」
「いいんです。それに、これからは別のカクテルを頂こうと思うので、……エバ・グリーンとか」
「……そうですか。次来店された時も会えたらいいですね」
晴はふわりと微笑む。本当に、春が似合う男だ。
つられて纏依も笑顔を見せる。
胸が日だまりのようにポカポカと温かくなって、返事をした。
「はい!」
「(ラズベリーの花言葉は"深い後悔"。エバ・グリーンのカクテル言葉は"晴れやかな心で"……ですよね)」
さようなら、天邪鬼だった私。
fin.
真っ黒の夜空から、ふわふわと白い綿毛のような雪が落ちてくる。
誰しも、雪をみたら手を上げてそれを掬おうとするはずだ。
纏依は手で一粒溶け込ませたあと、手を逆さにして、すっと腕ごと下ろす。雪はとけて、滑り落ちてしまった。
透明だったそれは、明るいイルミネーションをよく反射する。
「……また、この日」
世間では幸せな一日、クリスマス。
ーー今年も、取り残されたまま。
ーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーー
カランコロン、と静かに響く入店の合図。完全に鳴り終わる前に、纏依は迷いもせずカウンターの一番端に腰を下ろした。
周りを見渡すと、席はだいたい埋まっている。どうやら、静かにこのイベントを終えたい人は、彼女だけではないようだ。
「リッキーを、……いつもの」
もうすっかり顔見知った店主が、にこりとひとつ微笑んだ後、手早くグラスを差し出す。
ほんのり赤みが混ざったお酒。その正体は真っ赤なラズベリー。まるく、でもごつごつと実った果実は、丁寧にグラスに飾られている。
ひやりと冷たいグラスに触れると、外から持ち出してきた愉快な空気がパキ、と音をたてて凍った気がした。
「(……今日で、最後にする)」
絶対に、ぜったいに。
グラスを持ち上げるとカランと氷が揺れた。冷たい爽快感が喉を通ったけど、胸にそれは広がらず。
纏依はそれを誤魔化すようにカウンターにうつ伏せになり、意識を手放した。
『ー…じゃあな、纏依も幸せに』
真っ暗な中で、ひとつの声が響いたあと。
ふわふわと意識が戻ってくる。
「ーーーさん」
「(……ん、……なに)」
「おねーさん、起きて」
若い店員の柔らかい声が耳を撫でて、纏依を起こす。うつ伏せになっていた状態から、ゆっくりと顔を上げた。
「……いま、なんじ?」
「もう日付変わってますよ」
その言葉にほっと胸を撫で下ろす。纏依のその様子を見た店員は、きゅっとグラスを拭きながら、呟いた。
「俺、クリスマス出勤初なんですけど」
「(ー…私に、話してるよね?)」
「よく常連のお客さんから耳にするんです。クリスマスに、必ずカウンターで寝ながら次の日を迎える女性がいるって」
店員の顔は下を向いたまま、瞳だけが纏を捉える。ガラスみたいなそれに纏依の姿が映って、目を反らした。
「クリスマス、嫌いなんですか?」
「(どうせ、来年には彼は忘れてるだろうし……いいか、)」
起きたばかり、まだ寝ぼけていたのだろう。口がすんなりと開いて。
「ーー…好きな人と、離れた日なんです……クリスマスが」
纏依はこの台詞を言った後、相変わらず胸が痛んでいる自分に冷笑する。
いつまでもこの思いが、氷の結晶みたいにパキパキと侵食していくのだ。
別に、付き合っていたわけじゃない。片思いだった。
『俺、彼女できたんだ』
五年前の、まだ大学生のとき。たまたま、クリスマスに会えた、話せた。そのことにひとり舞い上がっていたときに……凍りついた。頭が真っ白になって。
ピシリと固まる纏依には気づかず、目の前の好きな人はそれは嬉しそうに彼女のことを語るものだから。
『……私も、彼氏できたんだ』
そんな、見苦しい嘘をついた。
焦りでとっさに飛び出した言葉。言ったあとですぐに後悔するのは分かっていたはずのに。
『これからデートなの』
なんて、続けて薄っぺらい笑みを重ねる。
ーー私、何してるんだろう。
頭のどこかでは冷静だった。だから、誤魔化した。
『(……っ)』
この恋が、伝えられずに終わることを。
『ーーそうなのか!おめでとう!俺知らなかったわ〜』
『(…ちがう、ちがうの)』
『ー…じゃあな、纏依も幸せに』
『(私、ほんとうは)』
ーー本当は、ずっとあなたのことが好きなの。
「……なーんて、馬鹿でしょう?」
「その人とはもう会ってないんですか?」
「嘘ついたらもう会うことすら怖くなっちゃったもので。だから毎年この日だけバーに来て、寝ながらクリスマスを過ごしてるんです。」
自分から、告白する資格を投げ捨てたんだから。
そうヘラリと笑うと、なぜか目の前の店員は真面目な顔をして黙り込む。
……笑って、軽くしてくれたらいいのに。
どうせなら、お酒の肴にでもすればいい。彼はお酒飲んでないんだけど。
どうして初対面の奴の話を、そんなに真摯に聞いてくれるのか。
そう思った直後、店員がやっと閉じていた口を開く。
「俺、あなたとは出会ったばかりですけど、分かったことがあります」
「……なに?」
「大胆に見えるのに、意外と臆病なこと」
『纏依はなんでも積極的っぽいよな〜』
「何だか心配になる性格をしてること」
『めちゃくちゃ頼りにしてる』
「誤魔化すのが下手なところ」
「……それは悪口じゃないですか?」
「違いますって」
今度は纏依が黙り込む番。
自分のことをこうも真っ直ぐに伝えられると、こんなに恥ずかしいのか。
ストレートに伸ばした焦げ茶の髪が、じっとりと頬に貼り付く。
じっと彼を見つめると、ふわりと柔らかく微笑まれた。
「……なんでそんな、真逆のことを言うの」
「え?」
「何でもないです」
そんなに自分のことを目の前で言われると、照れてしまう。
ぜんぶ、あの人とは違うことを言っているのに。
「……あの、名前は?」
「俺ですか?」
「そうです」
何で名前を尋ねたのか、自分でも分からない。自然に言葉が溢れていた。
照れ隠しも含まれていた気がするから、若干語尾が強くなる。
「晴です、笹川(ささかわ)晴(はる)」
「……はる」
「はい、まあ好きに呼んでください」
ー好きな人の名前は雪だった。
はる、と、ゆき……なんて。
「(……名前まで真逆なのね)」
なんだかおかしくて、面白くなってきてしまった。
この一瞬で慣れてしまった自分にも驚く。
「あと言い忘れました。さっきの、もう一つ言いたいことがあります」
はるというものは、雰囲気が包まれるような、温かさを呼ぶ。
少し色素の薄い瞳が、何を訴えるような強さを灯した。
「あなたは臆病でも、ちゃんと向き合う強さを持ってる」
「ーー…え」
向き合う、なんて。
もう十分というほど向き合っていると思うけれど。
晴の言っている意味が分からなくて怪訝な視線を送ると、その澄んだ瞳に見つめられた後、ふと目線を下げられてしまう。長いまつげが影を作っていた。
『誤魔化すのが下手なところ』
「(……私は、何を誤魔化していたの?)」
晴に話したときに湧き上がってきた後悔?
「(ずっと言いたかった。誰かにちゃんと、気持ちを受け止めてもらいたかった)」
ずっと後悔して放置している恋?
「(いつの間にか、バーに来ることが当たり前になっていて、深く思い出に触れることはしていなかった。……怖かったから)」
ーー今の私の戸惑い?
「(……私はもしかしたら雪に、ありのままの自分を曝け出していなかったのかもしれない)」
だって、晴に言われたことが図星だったから。
ずっと溶けずに凍っていた恋心。
今は、少しずつ前に進めている気がする。
纏依は数秒前よりも晴れやかな気持ちで晴を見て、思う。
「……あの?」
「(……彼の、おかげかな)」
何が何だか、という様子で困りながら微笑を浮かべる晴に伝えたいことができた。
「ありがとうございます、晴さん」
「……?はあ…?」
一段深く困惑した様子だったが纏依は今日、初めての笑顔を浮かべる。そこに憂いはなかった。
「……あ、そういえばあなたの名前を聞いてもいいですか?」
「木苺(こもう)纏依(まとい)です。きいちごって書いて、こもう」
「へえー。ラズベリーですね、珍しい……あ、だからリッキーも?」
「あー…まあ、そんなところです。ラズベリーの花言葉って知ってますか?」
「花言葉ですか……あんまり詳しくなくて、すみません」
「いいんです。それに、これからは別のカクテルを頂こうと思うので、……エバ・グリーンとか」
「……そうですか。次来店された時も会えたらいいですね」
晴はふわりと微笑む。本当に、春が似合う男だ。
つられて纏依も笑顔を見せる。
胸が日だまりのようにポカポカと温かくなって、返事をした。
「はい!」
「(ラズベリーの花言葉は"深い後悔"。エバ・グリーンのカクテル言葉は"晴れやかな心で"……ですよね)」
さようなら、天邪鬼だった私。
fin.