「あの……どちら様でしょうか」

 朝起きてきて、開口一番。彼の発するその言葉に、私が驚くことはない。
 机の上に置いてあるノートを手に取り、淡々と彼に渡して言った。

「ここに、私が知る限りのことを書いてあるから、読んでみて。あ、朝食作ってるから、そこに座って少し待ってて」

 彼は戸惑いながらも、食卓の席に着いて、ノートを読み始めた。



 彼と出会ったのは、数か月前のことになる。酷い雨の日、私の家の前で倒れこんでいる彼に、慌てて声をかけたのが始まりだ。彼は、救急車を呼ぼうとする私の前で、「お腹すいた……」と小さく呟いた。
 
 仕方がないので一旦家にあげ、簡単な料理で彼の腹を満たした後、質問攻めを開始。
 
 結論から言えば、彼は自分のことを何も喋らなかった。一日しか記憶が持たない病気なのだそうだ。
 寝て起きた時には、前日の記憶が消えている。ゆえに、自分がどうやって過ごしてきたのか、過去を何一つ覚えていないという。ただ、消えるのはエピソード記憶だけで、歩き方や箸の持ち方といったような、基本動作は覚えているのだそうだ。

 以来、彼は私の家で居候を続けている。



「少し、質問してもいいですか?」
「はい」
 
 朝食を食べながら、彼の質問に答えるのも、いつものことだ。ちなみに、質問内容は毎日大体同じだが、日によって多少異なるときもある。
 
 いちいち口で全て説明するのも面倒なので、ある時から、私は自分との関係が分かるように、これまで過ごした日々を簡単にまとめ、ノートに書き留めておくことにした。先ほどまで彼が読んでいたのが、そのノートだ。

 私が答えられるのは、もちろん彼と出会った日からのことだけで、それより前のことは分からない。それでも、彼にとってはありがたいらしく、いつもノートを読んだ後は、少し落ち着いた様子を見せる。


 身支度を済ませながら、彼の質問に一通り答えたところで、会社に行く時間となった。

「お昼は冷蔵庫に入れてあるから。夕飯は私が仕事から帰ってきてから作るけど、お腹空いていたらコンビニとかで何か買って食べて」
「あ、はい」
「じゃあ、行ってきます」
「い、いってらっしゃい」

 ぎこちない作り笑いを浮かべ手を振る彼を尻目に、私は会社へと向かった。



「それで、例の男とは?」

 ランチタイム。一緒にご飯を食べている彼女は同じ大学から同じ会社に入った同僚で、私の事情を知っている。

「進展なんて無いよ。相変わらず手は出してこないし。まぁ、彼の体質を考えると、信頼関係を築くのなんて無理なんだろうけど」

 未だ彼は私に触れたことはない。一日でそこまで距離が縮まることは無いのだろう。
 休日に、何度かデートみたいなことをしたことはある。でも、彼のよそよそしい態度は変わることは無かった。

「何か、彼が積極的になってくれる方法ってないかなぁ」
「あるわよ。おすすめはしないけど」
「え? あるの?」
「ていうか、あんた意図的に避けているものとばかり思ってたわ」
「……どういう意味?」
「別に。それより、例の男。まだ、家にいるんでしょ?」
「うん」
「働いてもいない」
「まぁ、そうだけど」
「それ、もうヒモじゃん。働いてもらいなよ。うちだってそこまで給料高いわけでも無いんだし、あんたの給料だけで二人分の生活費賄うの、しんどいでしょ」
「うーん……。でも、難しいんじゃないかなぁ」

 仕事を覚えたとしても、次の日には、忘れてしまっているだろうし。
 あたふたして先輩に怒られる彼の姿が、容易に想像できる。

「あ、日雇いとかならいけるんじゃない? それか、せめて家事をやってもらうとか。主夫って言うんだっけ?」
「正直言って、家のことはしてほしくない。私のルールを崩されるくらいなら、自分でやった方がまし」
「ダメダメじゃん」
「でも、かっこいいよ」

 そう言って、私が彼の写真を見せると、「そこなんだよなぁー」と、彼女は頭を抱えた。

 彼がダメ男だという話をした後、でもイケメンというオチで締める。
 一連の流れだ。淀みない既定路線の会話の流れ。ノンストレス。

「でもさ、真面目な話、このままでいいの?」

 彼女の声のトーンが、少し下がる。

 胸がざわつく。今日は、あの写真じゃ終わらないのかな。

「その男さ、あんたのことどう思ってるの? 自分がどうしてあんたの家に置いてもらえてるのか、ちゃんと分かってるの?」
「……どうだろうね」
「そんでさ、あんたはその男のことを、どう思ってるの?」
「どうって……もちろん、好きよ。そうじゃない相手と、一つ屋根の下で暮らさないでしょう?」

 私がそう言うと、彼女は視線を逸らし、諦めたように「……だったら、いいんだけどさ」と小さく呟いて、そのまま続けて言った。

「私は、ハムスターの方が、安上がりだと思うけどね」
「え?」
「……何でもないわ。それより、方法教えてあげる」



 夕食を食べた後、私たちはいつも別々の部屋で寝る。

「おやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
 
 同じ部屋で寝ることは無い。
 こうして、また記憶がリセットされるのだ。

 その晩、部屋に戻った私は、仕事用の鞄のチャックを開け、中から小さな箱を取り出した。
 中には、光り輝く指輪が入っている。

 迷っていた。彼女の言っていた、その方法を試すかどうか。
 昼間、話した彼女の「このままでいいの?」という言葉が、脳裏をよぎる。

 意を決した私は、いつものノートを開いた。



 次の日の朝、私はいつものように戸惑った顔の彼にノートを渡し、何食わぬ顔で朝食の準備を続ける。

「あ、あの、質問なのですが……」

 来た。

「どうぞ。あ、敬語止めてね。なんかよそよそしいから」
「ま、まず、この行ってきますのキスっていうのは……」
「毎日やってる」
「仕事終わった後は」
「デートしてる」
「……夜は」
「同じベッドで寝てる」
「さ、最後に……この、私たちは新婚っていうのは……」
「ええ。ほら、あなたも指輪ついているでしょう?」
 私はそう言って左手の薬指を彼に見せる。
「そう……あなたが、私の妻……」
「何よ。不服?」

 私は、澄ました顔で答える。心臓がバクバク音を立てているのがバレないように、精いっぱいの虚勢を張る。
 すると、彼は微笑んで「いや、そんなことは無いよ。こんな綺麗な方と結婚できたなんて、とても嬉しい」と言った。

 胸にズキッと、痛みが走った。

「じゃ、じゃあ、行ってくるから」

 なんだか居たたまれなくなり、急いで外に出ようと玄関へ向かおうとする。

「あ、ちょっと待って」

 その日、彼は初めて私にキスをした。

 

 午前中、何の仕事をしていたのか、よく覚えていない。
 少し乾燥した唇の感触が、何度もフラッシュバックする。

 そう。完全なでっち上げだ。

 私は昨日、彼女に言われたとおり、嘘の情報をノートに書き足した。
 私たちは結婚していて、仲が良くて、仕事終わりはデートして、夜は一緒に寝ていると。
 


 家に帰ると、彼はいつものスウェットではなく、ちゃんと外行き用の服を着ていた。

「お帰り。じゃあ、行こうか」
「行くって、どこへ?」
「デートだよ。仕事帰り、いつも行ってるんでしょう?」

 しまった。自分で書いていたくせに、すっかり忘れていた。

「……え、ええ。そうだったわね。行きましょうか」
 

 彼に案内されたのは、イタリアンレストランだった。
 美味しい料理に舌鼓を打ち、綺麗な夜景を楽しんだ後、当たり前のように会計に向かおうとする私を、彼が遮った。

「いいよ、僕が払うから」
「え? でも、お金は?」
「日雇いのアルバイトで稼いだんだ。さすがに、妻だけを働かせるわけにはいかないよ。昨日までの僕も、たまにそういうことをしていたみたい」
「そう…なんだ」

 どうしてだろう。嬉しいことであるはずなのに、素直に喜べない自分がいる。


 帰り道で、ペットショップを見つけた私は足を止めた。
「ちょっと、見ていっていい?」
「いいよ」
 
 あ、いた。ハムスター。
 しばらく見ていると、店員さんに声をかけられた。

「いま、餌やり体験できるんですよぉ。やってみますかぁ?」
「じゃあ、お願いします」

 餌をあげると、一生懸命頬張るハムスター。

「……?」
「口に一杯入れて、可愛いね」
「……うん」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない」

 彼から目を逸らしながら、私は返答する。

 
 家に帰ると、彼は「お風呂入ってきなよ。僕はもう昼間に入っているから。その間に、簡単なつまみでも作っておくよ」と言ったので、私は素直に風呂場へ向かった。
 
 シャワーを浴びながら、私はガラスに映る自分を見る。

 彼はノートに書かれた内容を、再現しようとしてくれている。
 でも、何かが違う。この違和感の正体は、何なのだろう。
 

 お風呂から上がると、机には小鉢とグラス、ビールが並んでいた。
「ちくわとキュウリを酢であえただけの、簡単なものだけど」
 
 恐る恐る食べてみたが、普通に美味しい。

「あれ、口に合わなかった?」

 不安そうな顔で聞く彼に、私は慌てて否定する。

「ううん、美味しいよ。ていうか、料理できたんだね」
「これの通り、作っただけだよ」

 彼はそう言って、料理の本を見せた。


 その後、当たり前のように、彼は私と同じ部屋の同じベッドに入る。

「……そっちにいってもいい?」
「う、うん」

 私の目と鼻の先に、彼の首がある。
 ボディソープの香りがする。

 私は、彼の胸に手を当てた。

「すごく、ドクドク鳴ってる」

 彼は苦笑した後、続けて言った。

「正直、緊張してるんだ。君にとっては、毎日当たり前のことかもしれない。でも、僕にとってはこれが初めてのことのようでさ」
「ううん、いいの」

 当たり前のことじゃないんだよ。
 私にとっても、これが初めてなんだよ。 

「でも、覚えていないはずなのに、君のそばにいると、どこかほっとした気持ちになるんだ。たぶん、あのノートに書いてあることでは収まりきらないくらい、君と一緒にたくさん時間を過ごしてきたのだろうね」

 すると、彼の腕が、私の背中に回る。
 細い腕なのに、抱きしめる力は思ったより強い。

「今日のことも、忘れちゃうのね」
「……」

 彼は、微笑んだだけで、その質問には答えなかった。その代わり、唇が押し付けられる。今朝と違って、しっとりとした唇の感触。


 やっぱり、何かが違う。
 昨日までの方がよかったと思っている自分がいる。
 
 どうして?

 私は、彼の腕の中で、今日一日を振り返る。

 彼がアルバイトをしていたこと、そして、料理を作れたことに、どうしてショックを受けたのか。
 餌を食べるハムスターに対して、どうして彼に対するものと同じような感情を抱いたのか。

 その瞬間、私は気づいてしまった。 

 どうして、私が彼に執着していたのか。

「ごめんね」
「ん? 何が?」
「……ううん。なんでもない」

 私は、涙を拭き取り、無理やり笑顔を作って、彼にそう言った。



 次の日の朝、またいつものように「どちら様ですか」と尋ねる彼に、私はノートを見せず、こう言った。

「昨日、外で倒れていたあなたを介抱しました。元気になってよかったです」

 すると、彼は少し驚いた顔を見せた後、微笑んで言った。

「そうでしたか。助けていただいて、どうもありがとうございました」
「ええ。じゃあ、私は仕事に行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」

 行きがけに、びりびりに破いたノートが入ったごみ袋を、所定の場所へ捨てる。



 あの酷い雨の日。彼は私にこう言ったのだ。

「僕さ、一日で記憶が無くなっちゃう病気なんです。身寄りも無いので、しばらく泊めてもらえませんか?」

 思わず、笑ってしまった。

 どこの世界に、それを信じる人がいるっていうのよ。
 嘘に決まってるじゃん、そんなの。


 でも私は、ひとしきり笑った後、「そうなんだ。じゃあ、しばらくうちに泊まっていきなよ」と、彼に言った。

 自分で言い出したくせに、私の予想外の返答にぽかんとしていた彼の顔が、何だか可笑しかったっけ。

 何のことは無い。ただ金のない男が、簡単そうな女のところに転がり込んでいただけ。

 男は、寄生先が見つかれば、きっと誰でもよかったのだ。そして私は、私がいないと生きていけない何かに、自分の存在を肯定してくれる存在が欲しかった。
 利害が一致したというわけだ。それを、いつからか恋していると勘違いし始めたのは、自尊心からだろうか。

 夫婦ごっこに付き合ってくれたのは、多少の情が湧いたのかも。働いたり、料理を作ってくれたりしたのは、私と一緒になることを真剣に考えてくれていたのかもしれないと思うのは、さすがに期待しすぎかな。
 


 仕事から帰ってきたとき、彼はもういなかった。
 ポストに鍵が入っている。
 
 机の上に書置き。

『今まで、ありがとう』
 
 こちらこそ、ありがとう。こんな茶番に付き合ってくれて。
 

 でもさ。これが恋でなく、私が彼のことを本当に愛していなかったのだとすれば。


 この胸の痛みの名前は、いったい何なのだろうね。