秋も終わり、徐々に冬が近づいてきているのを肌で実感する。吹きつけてくる風は冷たくて、衣服から出ている場所の体温を奪っていく。ぼくは鞄を持っていないほうの手をスーツのポケットに突っ込み、寒風をやり過ごす。
 社会人三年目ともなると、任せてもらえる仕事の幅はどんどん広くなっていく。ぼくが勤めているのは中小企業だから、大手企業に比べたら人数はずっと少ない。その分、一人がこなさなければならない仕事量も増えているのではないかと感じている。人が少ないから、ぼくはこんな時間まで残業を強いられているのではないか、と。
 その日は終電よりわずかに早いくらいの電車に乗ることができた。いつもは終電に乗って帰っているから、普段よりは早く帰ることができている。ああ、さっさと風呂に入って、酒を飲んで、寝てしまおう。明日は休みだけれど、夜更かしする元気もない。むしろ今日早く寝て、明日早く起きて休みを満喫するほうがよいように思う。
 ぼくは最寄り駅を出て、自宅のアパートまで歩いて帰る。徒歩十数分の距離だ。もう少し駅から近い家に住みたかったけれど、家賃の問題もあり、ぼくは部屋の広さを取った。おかげでぼくの家はワンルームではなく、リビングと寝室が分かれている。
 さあ、早く帰ろう。もう日付は変わってしまっている。ぼくは急ぎ足で歩いていく。
 しかし家の近くの公園を通りがかった時、ぼくは足を止めざるを得なかった。
 とても軽装の女性が泣いていたのだ。ベンチに座り、泣いている彼女が着ているのは、半袖のTシャツとハーフパンツだった。この寒い中の格好としてはかなり心許ない。凍死するのが何度からなのかは知らないけれど、体調を崩すのは間違いないだろう。
 びゅう、と風が吹く。彼女は風すら気にせず泣いているようだった。泣いて、泣いて、泣き疲れた時には、身体の芯まで冷え切ってしまっているのではないだろうか。その時、彼女は生きていられるのだろうか。
 見てしまった以上、無視するわけにはいかない。明日以降のニュースで、凍死体が発見されました、なんて報じられてしまえば、それはぼくが殺したようなものだ。ぼく以外に人影はないし、この時間にこんなところを通る人なんてごくわずかだろう。声をかけるのは気が引けるけれど、ぼくしかいないのだ。
 ぼくは公園に足を踏み入れて、ぐすぐすと泣いている彼女に近寄る。ぼくが近づいてくることにも気づかず、彼女は涙を流していた。
「あの」
 ぼくが声をかけると、ようやく彼女は顔を上げた、大きな瞳が印象的な、若い女性だった。大学生くらいだろうか。ミディアムヘアはまだ湿っているし、この格好だし、どうやら風呂上がりらしい。どうしてこんなところにいるのだろうか。
「風邪引きますよ」
 ぼくはスーツのジャケットを脱いで、彼女に被せた。彼女はそこで初めて寒さを感じたかのように身を震わせて、ぼくのジャケットを羽織った。
 そして、また泣き始める。話が始まらない。ぼくは長期戦を覚悟して、彼女の隣に腰を下ろした。早く帰りたかったのになあ。
「どうしてこんなところに? 帰りましょう。家はどこですか」
「帰れません。出てきたんです」
「はい?」
「彼氏と一緒に住んでるんです、でも、あいつ、浮気してて」
 長い話になりそうなことはわかった。強い風がぼくの体温も奪っていく。ジャケットがなくなったせいで、ぼくは一段と寒さを感じるようになった。これではぼくが風邪を引いてしまう。
 終電がなくなった今、取れる選択肢はひとつしかない。こんなところで彼女の長話を聞いていたらぼくが凍えてしまう。ぼくはまだ嗚咽をこぼしている彼女の背を撫でながら、優しい口調で提案した。
「とりあえず、ぼくの家に行きましょう。ここは寒すぎます」
 そこで初めて彼女はぼくのほうを見た。涙で目が腫れているけれど、可愛い子だった。
「温まったら気分も変わるかもしれない。ここで泣いているよりは、きっといい。寒くて死んでしまいますよ」
「……はい」
 彼女は小さな声で返事した。ぼくが立ち上がって彼女に手を伸ばすと、彼女はおずおずとその手を取ってくれた。
 まさか会社帰りに女の子を引っ掛けることになるとは思わなかった。ぼくたちは並んで歩き、ぼくの家を目指す。ここからなら五分もあれば着く。
 歩いている間に話を聞こうかとも思ったが、泣きながら歩かれても面倒だと思い、ぼくからは何も話を振らなかった。彼女も、一言も発さなかった。その沈黙は決して不快なものではなかった。
 アパートの二階にぼくの部屋がある。ぼくは鍵を開けて、彼女を迎え入れた。人を招いても大丈夫なくらいには片付いている。そういう習慣があってよかったと思う。
 彼女は玄関でぼんやりと立っていたので、ぼくは電気ポットで湯を沸かしながら彼女をリビングに誘導した。
「どうぞ。あの公園よりはマシだと思います」
「ありがとう……ございます」
 彼女はきょろきょろと見回しながら、リビングのローテーブルの前に座る。
 明るいところで見てみると、やはり可愛い。こんな可愛い子を家に連れ込んでしまうだなんて、今日のぼくはいったいどんな徳を積んだのだろうか。実は美人局なのではないかと疑ってしまう。この後に怖い男性が入ってきて、金銭を要求されるのかもしれない。
 不安になったぼくは、彼女に尋ねた。
「大学生、ですか?」
「はい。大学二年生です」
 未成年ではないことに安堵する。これで高校生と言われたら警察を呼ぼうかと思っていた。未成年者の誘拐とか言われたらたまったものではない。こちらは善意で家に迎えているのだというのに。
「そうですか。ええと、コーヒーしかないんですが、いいですか?」
「はい。ありがとうございます」
 ぼくはマグカップ二つにインスタントのコーヒーを入れる。本音を言えば今すぐビールを飲みたかったが、彼女にコーヒーを出して自分はビールを飲むという勇気はなかった。彼女の話を聞く間は、コーヒーで我慢しよう。
 コーヒーの芳醇な香りが、仕事で疲れきった頭を冴えさせる。さあ、もう一仕事だ。なんとかして彼女を自分の家に帰さなければならない。このままぼくの家に泊めるようなことがあれば、ぼくは自分の欲望と戦わなければならないからだ。
 一方で、ぼくは心の中ではワンナイトラブを期待していた。彼女を家に泊める代わりにセックスをするというのは、物語ではよくあるものだろう。現実世界にどれだけそういうシチュエーションがあるのかは知らないが、今はまさしくそれを期待してよい展開になっているのではないだろうか。
 彼女はとても可愛いし、ワンナイトラブを経験できるなら最高だ。むしろそちらに舵を切っていくほうが、ぼくにとってメリットがあるのではないか。毎日残業して疲れているぼくに、神様がご褒美をくれたのではないか。そう思ってしまう。
 でも、実際のぼくは真面目だった。マグカップを彼女の前に置いて、ぼくは言った。
「これで温まったら家まで送りますよ。帰りましょう」
 彼女は複雑に入り混じった感情を瞳に浮かべて、ぼくを見た。そこにどんな想いが隠されているのかは計り知れなかった。
「あの」
「なんですか?」
「泊めてくれませんか」
 彼女はぼくをじっと見つめたまま、ぼくに言った。
 ほら、彼女のほうから泊めてほしいって言ってきているじゃないか。ぼくの心の悪魔が騒がしくなる。彼女を泊めて、その代わりにセックスを迫ればいいじゃないか。
 けれど、ぼくは天使に従った。欲望は溶岩のように熱く流れているけれど、ぼくにはそれを制御できるだけの冷静さが残っていた。
「だめです。見ず知らずの男の家に泊まるだなんて、何を考えているんですか」
「お願いします。わたし、もう、帰れなくて」
 彼女の瞳にまた涙が浮かぶ。ぼくはティッシュの箱を彼女の前に置いた。
「彼氏だってあなたを探しているかもしれない」
「ううん、そんなこと絶対ないです。あいつにはもう、別の女がいるんです。わたしなんていなくなったほうがいいんです。わたしなんて、わたしなんてっ」
「落ち着いて。ほら、コーヒー飲んで」
 ぼくは彼女にコーヒーを勧める。彼女は涙を流しながらコーヒーを啜った。ふうっと深い息が自然と出ていく。
「彼氏と喧嘩したんですね?」
 ぼくが尋ねると、彼女は無言で頷いた。喧嘩して家を飛び出すというのは、決して少ない話ではない。問題は今が冬だということだ。気持ちを落ち着かせてから帰るには、外は寒すぎる。
「一緒に住んでるんですか?」
「半同棲です。わたしは実家暮らしで、あいつの家にわたしが行ってるんです」
「あなたの実家は遠いですか? 近いなら、そこまで送っていきますよ」
「もう終電の時間は過ぎましたよ。歩いていける距離じゃないです」
「じゃあ、彼氏の家に帰るしかない、と」
「泊めてください。あいつと一緒の空間で寝るなんて嫌です」
 彼女は頑として譲らなかった。声をかけて連れてきてしまった手前、今更外に追い出すわけにもいかない。ぼくは困って頭を掻いた。
「彼氏と仲直りするわけにはいきませんか?」
「無理です。だってあいつ、浮気してたんですよ。わたしがいるのに、他の女を抱いたんですよ。そんなやつと仲直りできますか? 無理でしょう?」
「うーん、まあ、確かにねえ」
 彼女の言い分は理解できるし、どうやら悪いのは彼氏のようだった。彼女にも非があるようであればまだ説得できたかもしれないが、これは一方的に彼氏が悪い案件だと思う。浮気するなら相手にバレないようにやってほしいものだ。
 彼女はまた俯いて涙を流した。ぼくは彼女が少しでも落ち着くように、背中を撫でてやる。
「付き合ってどれくらいなんですか?」
「三か月です。たった三か月で浮気するって、どれだけ移り気な男なんですかね。わたしはどうしてそんな男を好きになっちゃったんでしょう」
 ぼくは反応に窮して苦笑いを浮かべた。三か月で浮気するのは、確かに早すぎる。それはもともと浮気するつもりがあったのではないだろうか。最初から二股をかけるつもりで動いていたように思えてしまう。それを彼女に言うことはできなかった。
 さて、どうしようか。この様子だと、彼女をここに泊めるか、追い出すかの二択しかない。追い出すという選択肢は心が痛むから、やはり彼女を泊めるしかない。
 こんな可愛い子を部屋に泊めることになるだなんて思いもしなかった。これは、そういう流れに持っていくことができたら、そんなことになるのではないだろうか。彼女の傷心に付け込むようで少し気が引けるけれど、寝床を提供する代金だと言えば従ってくれるのではないだろうか。
 でもなあ。そんな嫌な男になるのは、嫌だなあ。彼女の思い出の中で、負の遺産になってしまうような気がする。全く知らない相手だとしても、負の思い出になるのは嫌だった。
 彼女は手で涙を拭い、ずずっと鼻水をすすりあげた。
「迷惑なら出ていきます。いきなり泊めてもらうなんて、無理ですよね」
「他に行くところもないでしょう。気持ちが落ち着くまでここにいてください」
「いいんですか? 明日の朝までいるかもしれませんよ」
「あなたに声をかけたぼくには、あなたを保護する責任がある。こんな寒い中にそんな格好の女性を放り出すほど、ぼくは非道な人間ではありませんよ」
 ぼくがそう言うと、彼女はまた涙を流した。ぼくは子どもをあやすように、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。とても柔らかい髪だった。
「すみません。ありがとうございます」
 彼女は涙声でぼくに礼を言った。この子はきっと礼儀正しい良い子なのだと思った。
「ただ、彼氏に連絡してくれませんか。友人の家に泊まるから、探しに来るな、とか」
「どうして? あんな奴、探させればいいんです。ていうか探してないと思います」
「それでも。ぼくはあなたを誘拐したと言われたくありません。お二人の喧嘩に巻き込まれたくないんですよ」
 ぼくが懇願すると、彼女はしぶしぶポケットからスマートフォンを出した。メッセージアプリに大量の通知が来ていたのが見えた。彼氏からだろうか。
 彼女はふんと鼻で笑って、スマートフォンを操作する。
「どこにいるんだ、俺が悪かった、戻ってきてくれ、だそうです」
 彼女はぼくにスマートフォンの画面を見せてくれた。大量の謝罪と、戻ってきてほしいという嘆きがずらずらと並んでいる。彼氏はめちゃくちゃ後悔しているようだった。
 なんだよ。この子が怒っているだけなのか。じゃあ、早く彼女を帰してあげたほうがいいじゃないか。少しでも期待したぼくが馬鹿だった。
「ほら。彼氏はこう言ってるんですから、戻ってあげたほうがいいんじゃないですか」
 しかし、彼女はぼくの声に応えず、ささっとスマートフォンを操作してメッセージを送ってしまった。
「優しい男の人が泊めてくれるって言うから、その人の家に泊まる……って」
 ぼくは開いた口が塞がらなかった。こんなメッセージを送られた彼氏は、いったいどんな気持ちになるのだろうか、想像もつかない。
 そこで彼女は初めて笑った。良い気味だとその顔が言っていた。
「事実でしょう? 優しい男の人、あっ、お名前は?」
「タクロウです。彼氏がこんなに謝ってるんだから、彼氏の家に帰りなさい」
「わたし、アヤミです。一晩だけですけど、よろしくお願いしますね」
 すっかり彼女のペースに乗せられてしまっている。ぼくは頭が痛くなった。
「あのですね、アヤミさん」
「アヤミでいいですよ。タクロウさんのほうが年上でしょう?」
「アヤミ、きみは、彼氏の家に帰ったほうがいい。あんな挑発的なメッセージを送ったら、彼氏だって怒ってしまうよ」
「いいんです、もう別れるんですから。あとは家に荷物取りに行ってばいばいです」
 アヤミはつんとした口調で言った。半同棲状態だったということだし、アヤミは今スマートフォンくらいしか持っていないから、荷物はそれなりに残っているのだろう。
「もう送っちゃいましたし、あいつの家には帰れません。タクロウさん、泊めてください」
「訂正すればいいだろ。仲直りすればいいじゃないか」
「タクロウさんは浮気されたことないんですか? こんな屈辱的なことはないですよ」
 ぼくは何も言えず、黙ってしまう。付き合っていた彼女に振られたことはあるが、浮気されたことなんてない。だからアヤミの怒りを理解することができていないのだ。そんなに怒らなくても、相手は非を認めているわけだし、許してやってもいいんじゃないかと思ってしまう。
「とにかく、わたしは帰りません。声をかけた自分を恨んでください」
「うーん……まあ、いいよ、じゃあ」
 他の選択肢はあるようで、存在しない。ぼくの家に泊めるのがいちばん良心が痛まない。ぼくはやむを得ず、ここに泊めることを承諾する。アヤミはぱっと笑顔になった。その顔がとても可愛くて、ぼくの心臓がどくんと脈打った。
「ありがとうございます、タクロウさん」
「とりあえずぼくはシャワー浴びてくるから、ゆっくりしてて」
「お背中、流しましょうか?」
 はいと答えたら本当にやりそうな雰囲気だったから、ぼくはあえて冷たい声で答えた。
「結構です」
「はぁい。じゃあ、待ってますね」
 何を待つのかわからなかったが、ぼくは脱衣所に行く。アヤミが新手の泥棒だったらどうしようかと頭をよぎったが、そんな子ではないだろう。実際に彼氏とのやりとりもちらりと見せてもらったし、嘘をついている様子はない。
 ぼくはシャワーを簡単に済ませる。本来なら熱い湯を浴びて、湯船に浸かって、一週間の疲れを癒すはずだったのに、こんなことになってしまった。いや、金曜日だったことを喜ぶべきだ。これが週半ばだったとしたら、ぼくはきっとアヤミに声をかけなかっただろう。
 どうしよう。この後の展開はいったいどうなるのだろうか。ぼくが押せば、アヤミはセックスを承諾しそうな気がしている。アヤミの心の傷につけこめば、ぼくはあんなに可愛い子を抱くことができる。それはとても魅力的な話だ。
 でも、それは倫理的にどうなのだろうか。大人がするようなことだろうか。ぼくの中で欲望と良心が激しく殴り合っている。どちらが勝つのかはぼくにもわからなかった。
 浴室から出て、部屋着に着替える。ぼくがリビングに戻ると、アヤミは先程の位置から動いていなかった。背を丸めて、スマートフォンを弄っているようだった。ぼくが帰ったきたことに音で気づいて、アヤミは顔を上げた。
「おかえりなさい、タクロウさん」
「ああ、はい、ただいま」
 ただ挨拶されただけなのに、それがとても新鮮で、嬉しかった。彼女がいるというのはこういうことなのだろうと、疑似体験した気分だった。これが夜道で保護した女性ではなく、本当の彼女だったとしたら、どれだけ嬉しいことだろうか。
 アヤミを帰すことを諦めたのだから、ビールを飲んだって構わないだろう。ぼくは冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを手に取り、アヤミの隣に座った。ぷしゅっという小気味良い音とともに缶を開ける。
「やっぱり社会人になったらビールなんですか?」
「お酒を飲むようになったらわかるよ。アヤミはまだ飲めないだろ」
「十九ですからね。ビールのおいしさはわかりません」
「炭酸水ならあるけど、飲む?」
「いただきます。あぁ、自分でやりますよ」
 アヤミはスマートフォンをローテーブルの上に置いて、立ち上がって冷蔵庫のほうに行く。まるで勝手知ったる我が家のような動きだ。ぼくがシャワーを浴びている間に家探しでもしたのだろうか。
 アヤミがコップを出し、炭酸水を注いでいる。ぼくがビールを口に運ぶと、突然アヤミのスマートフォンが震えた。電話だ。男性の名前が表示されている。
「アヤミ、電話が」
「はいはい。あっ、彼氏ですね」
 アヤミはコップをローテーブルに置いて、スマートフォンを操作した。どんな修羅場になるのだろうか。頼むからぼくは巻き込まないでほしい。
「心配しないで、泊めてくれる人いたから。それじゃ」
 それだけ言って、アヤミは電話を切った。役目を終えたスマートフォンの画面は暗かった。
「いや、心配するだろ、今の」
「知りませんよ、そんなの。浮気するほうが悪いでしょう」
 アヤミは俺の隣に腰を下ろして、炭酸水を飲む。先程まで泣いていたとは思えない変わりようだった。怒りが募り、悲しみを超えたのかもしれない。
「ねえ、タクロウさん」
「なに? ああ、何か食べる?」
「後でいいです。それよりも」
 アヤミは静かな瞳でぼくをじっと見つめて、言った。
「タダで泊めてくれるんですか?」
 ぼくはすぐに答えられなかった。
 やはりアヤミも同じことを思っていたのだ。ぼくがやろうとしていたことを、アヤミも察していた。そして、たぶんそれを受け入れようとしてくれている。
 アヤミから言ってきたのなら、ぼくに断る理由なんてないんじゃないのか。ぼくから強要したわけでもないし、アヤミが体で払うというのだから、ぼくは何も悪くない。
 アヤミが身を寄せてくる。ふわりと良い香りが鼻をくすぐる。
「わたし、その覚悟があって、泊めてくださいって言いましたよ」
 ほら。いいじゃないか、あっちがいいって言ってるんだから。ぼくはその誘いに乗っただけ。ぼくが罪悪感を抱く必要はない。
 ぼくの口から出たのは、ぼくの思いとは真逆の言葉だった。
「だめだ。アヤミ、きみは自分を大切にしたほうがいい」
「……えっ?」
 アヤミが意外そうな顔でぼくを見た。ぼくだって自分がどうしてこんな好機を逃したのかわからなかった。しかし、吐き出してしまった言葉は、もう元には戻らない。
「ぼくがきみを泊めるのは、人助けのつもりだよ。何も求めてない」
「だって、こういう時って、そういうことをするものでしょう?」
 そうだ。ぼくもそう思う。アヤミは間違っていない。
 でも今のぼくにとっては、違う。今ここでアヤミを抱くのは、間違っていると思うのだ。
「わたし、女として見られてないんですか?」
「そうじゃない。きみのことは可愛いと思うよ」
「じゃあ、どうして?」
「今のアヤミは傷ついている。正常な判断ができていない。きみが彼氏ときれいさっぱり別れて、落ち着いた時に、それでもぼくとセックスしたいと思うなら、ぼくは喜んでするよ」
 ぼくはそう言って、アヤミの肩を抱いた。これくらいなら許されると思った。
 アヤミの瞳にはみるみるうちに涙が溜まっていって、零れ落ちた。
「う、ううっ、タクロウさん、なんなの、どんだけ優しいの」
「今日はもう休んで、明日ちゃんと彼氏と仲直りしなよ」
「ほんとに、ほんとに、何もしないんですか?」
「しない」
「したい気持ちはあるんですか?」
「ある」
「じゃあ、します?」
「しないよ。ほら、ベッド使っていいから、早く寝なよ」
 ぼくはアヤミをベッドに追いやった。アヤミは素直にベッドに横になった。
「すみません、タクロウさん。ありがとうございます」
「いいえ。しっかり寝て、落ち着いてから、彼氏と話せばいい」
「はい。そうします」
 アヤミはすぐに寝息を立て始めた。疲れていたのだろう。
 ぼくはリビングで二本目の缶ビールを開けて、自分の行動を省みていた。
 ううん、やっぱり、手を出したほうがよかったかなあ。もったいなかったかなあ。


「荷物は取りに行くから。や、復縁とか絶対ないし」
 不機嫌そうな声で目が覚めた。昨日の夜の出来事がゆっくりと思い出されて、そういえばアヤミを部屋に泊めたのだと気づく。
「新しい彼女とごゆっくり。それじゃ」
 ぼくはそこで身体を起こした。寝る前に少しビールを飲みすぎたせいか、それともリビングで寝たせいなのか、頭が少し痛い。身体もすっかり凝り固まっていた。
 アヤミはぼくが起きたことに気づいて、にこやかに笑った。
「きれいさっぱり別れましたよ、タクロウさん」
「まだ荷物取りに行ってないだろ。彼氏は未練があるみたいだし、荷物を回収するまでは別れてないよ」
「えぇ? 厳しいですね」
「厳しくない。適当に上着着ていっていいから、早く彼氏の家に帰ったほうがいいよ」
 ぼくがそう言うと、アヤミは本当にぼくのクローゼットから上着を取り出した。アヤミが着ると、袖も裾もだぶだぶで、明らかにサイズが合っていないことがわかる。
「じゃあ、行ってきますね。タクロウさん、今日はお家にいますか?」
「用事はないけど、どうして?」
「上着を返すために戻ってこないといけないでしょう? あっ、人質としてスマホ置いていくので、安心してください」
「そこは心配していないから、スマホ持っていきなよ」
「そうですか? じゃあ、持っていきますね」
 アヤミはスマートフォンを手に取り、上着のポケットに入れる。まあ、最悪あの上着が返ってこなくてもいいか、安物だし。
 アヤミが彼氏と復縁することを祈ろう。たった一夜だったけれど、可愛い女子大生と話すことができて満足だ。
 ぼくはアヤミを見送るために立ち上がった。並んでみると、アヤミはかなり小柄で、背が低いのだとわかる。
 アヤミはぼくを見上げて、すっと背伸びをして、ぼくと唇を重ねた。ぼくは呆然としてしまって、何が起こったのか理解するのに時間がかかった。
「では、行ってきまぁす」
「ち、ちょっと、待って、今のは?」
 ぼくが今のキスについて問うと、アヤミは不敵に笑った。
「彼氏ときれいさっぱり別れてきます。そうしたら、わたしを抱いてくれるんでしょう?」
「いや、確かに、そう言ったけどさ」
「わたしだって誰にでも抱かれたいわけじゃないですよ。タクロウさんだから、いいんです」
「えっ、いや、それは、嬉しいんだけど」
「というわけで、行ってきます、タクロウさん。待っててくださいね」
 アヤミは風のようにいなくなった。ばたんとドアが閉まって、ぼくはひとり、家に取り残さられる。
 なんだって? これはいったい、どういうことだ?
 混乱するぼくに答えをくれる人はどこにもいなかった。ぼくはただ、アヤミの帰りを待つことしかできなかった。