コスモス畑の中に足を踏み入れると、むせかえるような甘い香りに包まれた。

   *

 沈みかけの太陽が、山の頂に乗っていた。
 辺りは、薄闇に支配され始めていた。観光客の姿はいっさいなかった。乃蒼がいるとしたら、たぶんあそこだ、と不安な気持ちを宥めながら歩いていく。
 道の左右に咲いているコスモスは満開だ。ピンク色の花が、視界のすべてを埋め尽くしていた。
 天気の良い日の昼下がりにでも、この景色を乃蒼と二人で見たかった。
 コスモス畑の真ん中にある、展望台の一番上まで登った。果たしてそこに乃蒼はいた。
「よくここがわかったね」と乃蒼が笑う。「物語のラストシーンは、変わらないものだから」と僕は答えた。

「ここを、最期の場所として乃蒼が選ぶ気がしていたんだ。ここは、乃蒼にとって特別な場所だから。去年抱えた未練が、残っている場所だから」
「うん、そうだね。やっぱり立夏は、私のことがよくわかっている」

 彼女が湛えた微笑は、これまで見てきたどの女性のものより綺麗だった。

 周囲より少し高くなっているその場所から、二人で満開のコスモス畑を見下ろしていた。

「一年前のあの日、思い詰めたような表情をしていたのは、なぜ?」

 うーんと呟き、乃蒼が遠くに目をやった。

「重大な告白をするつもりだったから、緊張していた。それだけのことだよ」
「重大な告白って?」
「いじわるだなあ……。ここまで言ってもわからない?」

 乃蒼が、僕を見た。

「立夏のことが好きだって、告白するつもりだったんだよ」
「じゃあ、僕と同じだね。僕も乃蒼に好きだと伝えようと思っていた」
「ずっと前から、相思相愛だったんだね」
「そうだな」
「なら、もっと早く言ってくれたら良かったのに。意気地なし」
「何を言う。そんなのお互い様だろ?」

 そうだね、と乃蒼がほほ笑む。

「私のこと、好きだって言ってくれて嬉しかったよ」
「なら良かった。勇気を出した甲斐があったよ」
「一度しか、エッチしてあげられなくてごめんね」
「プラトニックな関係のままで終わっていたら、もっと切ない恋になっていたかもな」
「ここでもう一度する?」
「からかうなよ……。できるわけないだろ、無茶言うな」
「そうだね。一度きりだからこそいいんだよ。立夏、もうこれからずっと私のこと忘れられなくなるね」
「これが最期みたいに言うなよ」
「実際、最期だよ」
「そうだな……」
「タイムリミットがあることも、このままでは世界が崩壊してしまうのもわかっていた。どうやったら、それを回避できるのかもね」

 そうか。やっぱり乃蒼は、思っていた以上に正確に現状を把握しているみたいだ。

「立夏。私を殺しに来たの?」
「なぜわかった?」
「立夏がここに来るのは、そういうタイミングのときだと、予想はついていたからね」
「いや、殺そうとしているのは僕じゃない。そういう手段にうったえようとしている連中がいるから、それを阻止するために僕はここに来たんだ」
「でも、それが一番いい方法なんだよ」
「そんなわけない。そんな悲し過ぎる結末なんて」
「じゃあ、どんな方法があるの?」
「それは……わからないけれど」

 ほらね、と乃蒼が苦笑いをした。
 方法ならあるさ。僕に任せて。けれど、乃蒼に自覚させないほうがおそらくいい。だから、まだ詳細は語らずにおいた。

「命を絶とうと、何度か思った。でも、できなかった。もう一度立夏に会いたいと願ってしまったから。弱いね、私。自分から姿をくらましておいて中途半端だ」

 おそらく、死んだら戻れる。しかし、それだとこの世界を去らなくてはならない。どっちも選べなくて、彼女は悩んでいたんだ。

「弱くなんてないよ、乃蒼は。乃蒼は僕のことを救ってくれたじゃないか」
「救えていたかな、私。だったら、嬉しいけど」
「もちろんさ」

 一陣の風が吹く。コスモスの花が揺れる。

「乃蒼は、僕が不甲斐なかったから、この世界に来たんだよな?」
「え?」
「世界がふたつに分かれたとき、それぞれの世界で、悲しみを抱えながらも僕たちは一人で生きていかなければならなかったんだ。それなのに、僕はうじうじと悩んで塞ぎ込んでばかりいたから、乃蒼をこっちの世界に呼んでしまったんだよ。たぶんね」

 乃蒼が少し考える時間をおいた。

「そうかもしれないね。再会した当初の立夏、ほんとにだらしなかったもん。あれじゃ放っておけなくなるってものですよ」
「他人事みたいに」
「うふふ」
「でも、もう大丈夫だから。二人で小説を書いてみて、これからやりたいことが見つかったし、乃蒼に告白できたから、あの日抱えた未練も消えてなくなった。もう大丈夫なんだ。乃蒼のおかげだよ」
「私は何もしてないよ。ただ、立夏と一緒に過ごしたかっただけ。こっちでもあっちの世界でも、ただそれだけなの」

 ようやく、乃蒼の本心が聞けた。僕の気持ちを伝える準備が整った。

「だから――」

 僕の声は、「どうしてかな」という乃蒼の呟きによって遮られる。

「どうしてかな。私、今少し苛々している。立夏が独り立ちできたことを喜ばなくちゃいけないのに、なぜか苛々している。身勝手だな、私」
「……」

 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。タップして確認すると、メールが一通届いていた。

「文学賞の、受賞報告メールだ。特別賞だってさ。やったな」
「ほんとに? そっか、良かった……頑張ってきた甲斐があったね。私も嬉しい。でも、私いなくなっちゃうし、これから立夏忙しくなるね。ごめんね」
「いいんだよ、それは。たぶん書籍化できると思うけど、それは僕一人でなんとかするからさ。……うん。なんとなくいけるって予感はあったんだ。蓋を開けてみるまでわからないから、怖かったけれどね」
「よろしく」
「……まだ姿が消えないってことは、これは、乃蒼が抱えていた未練とは違うってことだよね?」

 返事はなかった。沈黙の長さが、発言をためらっている様を如実に伝えてくる。

「最初に出会った頃、乃蒼がこの世界にやって来たのは、事故に遭ったとき抱えた未練を解消するためなんじゃないかと言ったけど、あれ、たぶん正解なんだよ」
「私の、未練?」
「そう。去年、乃蒼がなぜこの場所に来たがっていたのかと考えたら、おのずと答えがわかったんだ。乃蒼が抱えていた未練がなんだったのかの答えが。それが解消されたら、乃蒼は元の世界にきっと戻れる」
「そう、なのかな?」

 乃蒼の輪郭が少し曖昧になった気がする。夜の闇に溶けようとしている。日は、いよいよ沈もうとしていた。

「僕のことをお願いって、朝香に言ったらしいね」
「そうだよ。私はいつか消えてしまう存在。私がいなくなったそのあとで、また塞ぎ込まれちゃ困るもん。私がいなくなったあとで立夏のことを任せられるの、朝香しかいないからね」
「そういうの、余計なお世話なんだよな」
「だって、しょうがないじゃない……!」
「そうだな。これまでの僕だったら、きっと取り乱していた。乃蒼がいなくなったら、自暴自棄になって自殺しちゃっていたかもね」
「やめてよ」
「うん。そんなことは、もう二度と考えないよ。君が、僕に強さを与えてくれたから。生きる希望を与えてくれたから。だから、乃蒼ももう強がらなくていいんだ」

 乃蒼はこういうタイプだ。どうせ朝香の前でも強がってみせていたはずだ。自分の辛い気持ちや悲しい気持ちに蓋をして、誰かのためを思って行動し、結果、自分一人で抱え込んでしまう。だから、母親が死んでしまったことも自分のせいだと思い込んだ。だから、僕にも強がろうとする。

「家計を支えなければならないと、気負って無理ばかりしていた母親に、ちゃんと声をかけてやらなかったこと、後悔しているんだろ? 私のことを愛してほしいって甘えなかったことを、後悔しているんだろ?」
「……」

 乃蒼の表情が歪んだ。夕立が降る、直前みたいな空の色――そういった顔色になってから、瞳に涙が盛り上がっていく。静かに零れ始めた涙を、僕はただ見ていることしかできない。

「いいんだよ、僕の前では強がらなくて。辛いことを、全部僕には吐き出していいんだ」
「本当はね、朝香に立夏のことお願いするの嫌だったんだ」
「うん」
「私は、立夏のことが大好きだから。絶対に、忘れてほしくないから」
「うん」
「でも、私はこの世界にずっといることはできない。いつまで、とかではなくて、それがそんなに先の未来の話じゃないと今はわかっているから。だから、忘れてもらわなくちゃいけないの。立夏に告白してしまったことを、後悔しているの」

 朝香が言った通りだった。乃蒼は僕に忘れられようとしていた。一年前のあの日、言えなかった願いを抱えたまま、消えてゆく道を選んだ。だから僕の前から姿を消した。
 だが、その感情を自分でもうまく整理できていないのだ。

「僕は忘れたくないよ」

 乃蒼からの返事はなかった。彼女は少し困った顔をしていた。
 一年前のあの日。乃蒼が僕に伝えたかったこと。それは――。

「私だけを見てほしいと、誰かにそう伝えたかったんだよね。無条件に自分を愛してくれる相手がほしかったんだよね。全力で甘えることができる相手を、ずっと欲していたんだよね? だから一年前のあの日、乃蒼は僕に好きだと伝える以上の、その先までを伝えようかと本当は思っていたんじゃない?」

 それは図星だったのか。乃蒼が唇を真一文字に結んだ。

「そっか……そこまでわかっちゃっていたんだ。恥ずかしいな」

 手の甲で涙を拭う。

「甘ったれた考え方だよね。自分からうまく心を開くこともできないくせに、甘やかしてはほしいだなんて」
「いいんだよ。幸せになる権利は、誰にだってあるんだ。そうありたいと、ただ願えばそれでいいんだ」
「私ね、高校のとき、お義母さんと喧嘩になったことがあるの。あっ……実の親じゃなくて、育ての親のほうね。『血が繋がってもいないのに、母親顔しないで』って、お義母さんにそう言ってしまったの」
「うん」
「あの時、お義母さんは寂しそうだった。ごめんねって後悔したみたいに言った。でも、私は謝ることができなかったの。だって、あのときは間違いなくそれが私の本音だったから」

 それは、乃蒼が高校三年生のときだった。

「お義母さんが、結婚したい人がいる、と相談をしてきたの。それで、相手の男性の方を紹介されて、私、その人と会って話をしたの。いい人だと思ったよ。お義母さんとも仲が良さそうだったし、私にも気さくに話しかけてくれた。だから……結婚してもいいと思っていたのに、私は素直になれなかった」
「うん」
「私は、お義母さんのことを家族だと思っていなかったから。家族じゃないからと、距離を置いてしまっていたから。だから、好きにしたらいいじゃない、と冷たい言い方をしてしまったの。私は、あなたの子どもじゃないから関係ないって」
「それでどうなったの?」
「お義母さんと喧嘩になった。……ううん、私の気持ちも考えてよ、なんて、私が一方的に罵って責めただけだった。それが元で、結婚の話はなくなってしまった。きっと、相手の人に愛想を尽かされちゃったんだろうね」

 乃蒼がまた少し唇を噛む。

「私ね、そんな風にしか感情を表現できない自分が大嫌いだったの。私はお義母さんに引き取られて育ったんだけど、その頃から自分の感情を出すのが苦手だった。いつも無口な子どもだと思われていたんじゃないかな。身寄りがなくなって、誰も私を引き取りたがらなかったとき、うちの子になりんじゃいと言ってくれたのがお義母さんだったのに、私は素直になれなかった。私のせいで忙しくなったはずなのに、親を亡くした子どもなんだから、気を遣っていたはずなのに、生活が苦しくなったはずなのに、こぶ付きになって、結婚だって諦めていたかもしれないのに。それなのに私は」
「もういい。自分を責める必要なんてないさ。乃蒼は自分の気持ちを素直に伝えただけだ」
「お義母さんは、私なんていなくなればいいって思っていたに違いないよ。だって、そうでしょ? お義母さんにとって私は邪魔者だったんだから」
「それは違う!」

 思わず声が大きくなった。でも、僕はそれを訂正しなければならないと思ったんだ。

「違うよ。乃蒼のお義母さんが結婚しなかったのは、自分が幸せになりたかったからじゃないと思う。血が繋がってなくたって、親子は親子なんだよ。他人のフリして、他人みたいに生きてきたって、ホントは相手のことを大事に思っていたんだよ。だから、結婚はしなかったんだ」

 乃蒼が驚いたように僕の顔を見た。その瞳に僕が映っている。僕はそれをしっかりと見つめ返すことができた。

「……だといいな」

 乃蒼は、義母の結婚に不満を抱いていたのではないのだと思う。ずっと自分の心を押し殺してきたのが、この日抑えられなくなっただけなんだ。

「その日から、お義母さんのことをずっと叔母さんって呼んできたの。良くないことだとわかっていたんだけど、うまく心を開くことができなくて。ひどいでしょ? 私」
「気持ちはわかるよ。血の繋がっていない相手に、うまく心を開けなくなるのはしょうがないことだ」
「そんな自分のことを変えたくて、この間、お義母さんに再会したとき、初めて『お母さん』と呼んでみたの。そしたら、すごい泣かれちゃって。そのとき気付いたんだ。ああ、私がうまく心を開けなくて悩んでいたのと同じように、お義母さんもずっと悩んでいたんだなって。寂しい気持ちを隠して、ずっと耐えてくれていたんだなって」

 血が繋がっていないとはいえ、乃蒼を大切に育ててくれたあの人が、なぜ娘のことを忘れてしまったのかと疑問に思っていたがこれでわかった。おそらく、娘に対して抱いていた未練が解消されたからなんだ。心の中にあった引っ掛かりが消えたことで、忘れてしまった。
 皮肉な話ではあるが。
 やはり乃蒼は待ち人がいる世界に帰らないといけないんだ。強くそう思った。

「私、お義母さんに謝りたい。あの日、ひどいことを言ってしまってごめんなさいと。私のことを、育ててくれてありがとうと」
「ああ、いくらでも言ってあげたらいいさ。今度会えたら、好きなだけ『お母さん』と呼んであげたらいいさ」
「そうだよね。ありがとう」

 風が強くなってきた。コスモスたちがざわざわと波打っている。空高くを飛んでいる鳥たちは、危険を察知したのか高度を上げて飛んでいく。雲が足早に動いていた。

「もし、もしもだよ、もし明日世界が終わるとしたら、乃蒼は何がしたい?」
「えっ? うーん……なんだろう? 改まって考えるとよくわからないかも。立夏は?」
「質問に質問で返すのずるいぞ。まあ、言ってもいいけど。たぶん、乃蒼が今思っていることと同じだよ」

 乃蒼は他人に甘えるのが本当に下手だ。だからいつも話が回りくどくなってしまう。
 ――もう、全部わかったよ。

「乃蒼と一緒にいたい。この先も、ずっと」

 乃蒼が小さく息を呑んだ。「うん」と小さく頷いた。

「私も、同じことを考えていたよ。でも、それは無理だよ」
「一年前のあの日。僕に告白をしたかったんだと、さっき乃蒼はそう言った。でも、少し違うよね? 本当は、ずっと一緒にいたいと、そう伝えようとしていたんだよね?」

 潤んだ瞳を見開いて、唇をかみしめてから乃蒼は小さく頷いた。「うん」と。
 乃蒼の願い事は、とてもシンプルだったのだ。
 僕とずっと一緒にいたい。ただ、それだけだったのだ。
 それを伝えられなかったのが、叶わなくなったことが、彼女の未練だったのだ。叶わない願いだと気付いてしまったから、君は僕の前から姿を消した。さよならをするのが辛かったから。
 そういうこと、なんだよね?

「でも、それは」
「無理じゃない。その願い叶えよう」

 物理的に、ずっと一緒にはいられないだろう。それでも、方法ならある。
 簡単なことだ。たとえ君が消えてしまっても、触れることができなくなったとしても、僕は君を愛することができるのだから。
 ――だから、この言葉は僕のほうから言うよ。

「僕と結婚してください」

 乃蒼が一つ息を呑んだ。そして泣いた。
 今年何度か乃蒼が泣く姿を目にしてきたが、初めて見る、悲しみに由来しない涙だったと思う。ほろほろとこぼれ落ちていく、滂沱の結晶だった。

「……ありがとう。でも、それはやっぱり無理だよ」
「いいんだ、返事はしなくていい。僕は、乃蒼がいなくても一人で生きていくし、乃蒼は、僕がいなくても一人で生きていかなくてはならない。それぞれの世界でね。だから、返事はしなくていい。これは、僕が一方的に伝えただけの言葉だから。胸の奥に、大切にしまっておいてくれたらそれでいいんだ。叶うことはないかもしれない。けれど、破棄されることもない、そういう約束だ」
「ずるいよ。最後の最後で、そんなカッコいいこと言うなんてさ」

 辺り一面の、色が変わった。
 視界をピンク色に染めていたコスモスの花のすべてから、眩い光が放たれていた。これで見納めとばかりに、全方位から光が放たれている。
 乃蒼の頬を伝って落ちた涙が、途中で光となって消えた。最期のときが近い。

「僕と乃蒼は、ずっと一緒にいることはできない。けれど、心でなら繋がっていられる。僕はずっと乃蒼のことを愛し続ける。この先、何があろうとも。たとえ、この先他の誰かと一緒になる日がきたとしても、君のことを愛し続ける」

 本音を言えば、僕だって怖かった。乃蒼がいなくなってしまうのを、ずっと恐れてきた。でも今は、二人で時間を共有できただけでも、良かったのだとそう思える。

「ダメだよ。それじゃ、その人に悪い」
「いいんだ。僕はその人のことも大切にする。その人も乃蒼もどちらも一緒に愛する。それならいいだろ?」
「ずいぶん器用になったものね」
「そうだな。とある知り合いの影響かもな」

 頭の中に木田の顔が浮かんだ。

「私の未練。全部消えたみたい……?」
「そうかもしれないね」

 乃蒼の体が光り始めた。乃蒼が指先で涙を拭った。拭っても拭っても、涙はとめどなく溢れた。笑顔が涙に濡れていく。

「人間には三つの死がある、と聞いたことがある。一度目は心臓が止まったとき。二度目は埋葬や火葬をされたとき。三度目は、人々がその人のことを忘れてしまったときだ。逆説的に言えば、僕が乃蒼のことを忘れなければ、乃蒼が僕のことを忘れなければ、僕たちはお互いの心の中で永遠に生きられるんだ。……でも、乃蒼が消えてしまったら、どうなるんだろう。僕はここで乃蒼と話したことを忘れてしまうのかもしれない。どうにかできないのかな?」
「どうなんだろう……? わからない。わからないけど、いろいろ考えて、いろいろなことを試してみるよ。でもこれだけは言える。私は絶対に立夏のこと忘れないよ」
「僕もだ」

 乃蒼の体が光を帯びていく。輪郭が少しずつぼやけて、彼女の存在が希薄になっていくのがわかる。
 もう時間がない。
 それなのに、伝えたい言葉はもどかしいくらいに出てこなかった。

「もう。お別れみたいだね」
「キスしていい?」と僕が言った。
「……うん」と乃蒼はそう答えてくれた。

 乃蒼が僕の首に腕を回した。乃蒼がそっと瞼を閉じた。長いまつ毛がゆれていた。まつ毛の色は、ほとんどが抜けてしまっていた。
 僕は乃蒼の唇を奪った。彼女の柔らかな唇を、自分の唇で優しく包み込んだ。それはまるで、お互いの心を確かめ合う儀式のようだった。

 この瞬間わかった。僕たちの運命は、この先交わることはないのだと。
 それでも続いていく。僕たちが、お互いのことを忘れない限りは。

 体温のようなものはもう感じなかった。光と化した彼女の輪郭をそっとなぞっただけだ。
 涙がまた一つ零れる。その涙があまりにも綺麗だったので、僕は指で優しく拭ってやった。
 彼女の姿は消えかかっていた。淡い光の粒が、輪郭線から解けるように散っていく。

「立夏のこと、ずっと忘れないよ」
「僕もだよ」
「愛してるって、最後に言って」
「愛しているよ。乃蒼」
「私も、立夏が好き。……ずっとずっと好きだったよ……!」
「ああ、うん……」

 ――愛してる。
 それが、乃蒼の最後の言葉となった。
 砂金をばらまいたときみたいな輝きが闇の中で一瞬弾け、乃蒼の姿は崩れた。空気中に溶け込むようにして見えなくなった。
 ここで初めて僕は気付いてしまう。乃蒼なしでは生きられないと。ぽろぽろと、涙が零れた。それでも、嗚咽を漏らさないように、肩を抱いて震える体をなんとかおさえた。僕は、乃蒼なしで生きていくと決めたのだから。
 ここで僕は最後の言葉を口にする。

 さようなら。またね、と。

 乃蒼の姿が、僕に一番色濃く見えていた理由。それはたぶん、この世界の誰よりも、僕が乃蒼のことを強く想っていたからなんだよ。
 たぶんね。
 ピシッと世界にきしみが入った音がした。
 創造主が消失して、世界の崩壊が始まる。
 夜空が、のしかかってくるみたいだった。

   *