僕は脳に障害を持っている。その日のことを次の日まで覚えていられない。だから、日記に書いて明日の自分に繋げている。

ちょうど一年前、自転車で下校しているとき交通事故に遭った。相手の車はそのまま去ってしまったが、たまたま通りかかった人のおかげで命は助かったらしい。
目覚めたとき、僕が最初に見たのは真っ白な天井だった。眼の前には、泣いている女性と、そっと彼女の手を握る男性。この人たちは誰だろう?僕の両親だろうか?そんなことを考えていると、僕は突然抱きしめられた。やはり、二人は僕の両親みたいだ。二人が僕に泣きながら言ったことが理解できなかった。
「友輝、落ち着いて聞いてほしいんだけど、あなた事故に遭ったときに頭を強くぶつけたせいで脳損傷が起こっちゃったのよ。だから、あなたは次の日までその日のことを覚えていられない。紙に書いて明日の自分に繋げよう…」
記憶障害?そんな映画みたいなことが僕に?あり得ない、と初めは思ったが、段々と実感していった。

記憶障害があるといっても、メモを見れば昨日のことがわかるので学校には普通に通っている。記憶障害のことは先生と幼なじみの剣翔にしか言っていない。僕は、普通の高校生活を送っていた。

毎日僕と同じ電車で登校する子がいる。そんなの、数え切れないほどいるだろうが、僕は彼女に釘付けになった。彼女は、いつも二両目の二番目のドアの前で本を読んでいる。今日は、松風美聖の『あの日』という本を読んでいた。放課後、駅前の本屋で彼女と同じ本を買おう。僕は瞬時にそう思っていた。
放課後、委員会が長引いて結局本屋には行けなかった。駅に着いたのが七時頃で、帰るのが遅くなって親に心配をかけたくなかったからだ。俯きながらホームへ向かって歩いていると、見覚えのある人影が見えた。間違いなく彼女だ。彼女はいつもこの時間の電車で帰っているのか。彼女のことを一つ知れてちょっと嬉しかった。僕は帰宅してすぐに、今日のことを日記に書いた。別に今日、学校でこれといったことがほとんど無かったので、日記に付け足されたのは彼女のことだけだった。明日こそは絶対に本屋へ行こう。そう考えながら僕は眠りについてしまった。
次の日、彼女はいつもの場所で参考書を読んでいた。テスト前なのだろうか?制服から見て私立?そんな事を考えながら彼女の方を見ていると、彼女が僕に気づいたようでこちらに歩いてきた。何を言われるのだろうか、とオドオドしていると、彼女はニコっと笑ってこう言った。
「どうかしましたか」
「い、いえ、なにもないです。」
僕はとっさにそう返していた。彼女は
「そうですか」
と言って、何事もなかったかのように定位置に戻ろうとした。でも、ちょっと待てよ。これ、彼女と話すチャンスなんじゃないか?そう思った僕は勇気を出して、歩き出す彼女の手をつかんだ。
「やっぱり、あの、ちょっと良いですか」
「はい」
「いつも小説を読んでいるのに、今日は参考書なんだなと思って」
「あ、そんなことでしたか。実は来週からテストで、そろそろ勉強しないと取り返しがつかなくなるので」
「あ〜、なるほど。僕は先週終わったばかりです。頑張ってください。」
「ありがとうございます。」
「あの、さっきと話が変わってしまうんですけど、昨日読んでた本って面白いですか」
「松風美聖の『あの日』のことですか。あれは感動しました。昨日なんて涙が止まらなくて、親に心配されたんですよ笑」
「へぇ〜、そうなんですか。実は僕もあの本買おうかと思ってまして」
「絶対読んだほうが良いですよ。あ、でもあの本普通の小説より分厚いのでちょっと高いんですよ。もし良ければ、お貸ししますけど。」
僕は耳を疑った。彼女が本を貸してくれる!?そんな嬉しいことはない。
「いいんですか。では、お言葉に甘えて」
「いえいえ、全然。あ、後で連絡したいので、お名前と連絡先教えていただけますか」
「あ、はい。宮下友輝です。電話番号はこれです。」
「ありがとうございます。私は、加藤結華といいます。よろしくおねがいします」
「こちらこそ」
「あ、私降りないと。じゃあ、友輝さん、また明日」
彼女は僕に手を振って電車を降りていった。友輝さん、だって。彼女に名前読んでもらえた。それだけで嬉しかった。僕が喜びに浸っていると、いつの間にか学校の最寄り駅まで来ていた。その日の授業は何も頭に入ってこなかった。
放課後、僕は電車に乗りながら、朝の彼女との会話を思い出していた。あのシーンを頭の中で再現するだけでニヤけてしまう。そのとき、僕はふと思った。彼女、降りるとき、また明日って言ったよな。あれ?言わなかったっけ?いや、絶対言った。ってことは、僕が毎朝同じ電車乗っているの知ってたってこと?そう思った途端、ニヤニヤが止まらなくなった。帰ってから、僕は昨日と同じように今日のことを日記に書いた。今日も授業は上の空だったので、書いたのは彼女のことばかり。僕は夢中で書き続けた。そのとき、僕のスマホがピロンとなった。結華さんから連絡が来た。僕は嬉しくて思わず飛び跳ねてしまった。
「明日もいつもの電車に乗りますよね。そのときに本渡しますね」
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
楽しみにしてますって何を楽しみにしてるんだ?彼女に会えること?それとも本を借りること?その答えは言うまでもなかった。

スマホを見ていると突然切ない気持ちになった。僕は彼女のことを明日覚えていない。そう思うと急に悲しくなってきた。記憶障害なんて無ければ、彼女との時間をずっと覚えていられるのに…いつの間にか涙がこぼれて制服が濡れていた。彼女との時間だけでも覚えていられたらどんなに良いことか。僕は、家族に涙を見られないように、そおっと風呂に向かった。五分で浴室をでて、またそおっと部屋に向かった。今日はもう寝よう。そうつぶやいて、僕は目をつぶった。

次の日、彼女はいつもの電車にいなかった。僕は何か事情があるのかと思い、気にしなかった。彼女からの連絡もなかったし、まぁ明日は会えるだろう。そう思った。後に、僕は彼女の大きな秘密を知ることになるとも知らずに…

放課後、僕は駅の近くの病院に向かった。おばあちゃんが入院しているからだ。こうやって週に一度はお見舞いに行くようにしている。おばあちゃんは
「友輝ちゃんいつも悪いね〜。友達と遊びたい年頃なのに」
と申し訳無さそうに言った。
「いいんだよ。友達と遊ぶよりおばあちゃんと話してる方が楽しいし」
「優しいね〜、友輝ちゃんは」

おばあちゃんは二時間くらい話してから、僕は病室を出た。そのとき、院内のベンチに座る一人の女子高生に目が行った。見覚えがあった。彼女はどう見ても結華さんだ。こんな時間に病院なんて、彼女も誰かのお見舞いだろうか。とりあえず話しかけてみよう。
「あの、結華さん」
「あ、友輝さん!?今朝はすみませんでした。連絡もせず… どうしてここに?」
「僕はおばあちゃんのお見舞いに」
「そうでしたか」
「結華さんもお見舞いですか?」
「いや、私は…」
「あ、言いたくなかったら別に言わなくても良いですよ」
「友輝さん、驚かないで聞いてほしいんですけど、私病気なんです。今までも何度か入院してるんだけど、今日からまた検査で入院してて。長くてあと三ヶ月…」
彼女は泣き出してしまった。僕は信じられなかった。彼女が病気だなんて。しかも、余命もあとわずか。僕はなんと言えばいいかわからず、
「そ、そうなんですか…」
としか言えなかった。情けない。彼女は病気と闘っていたのだ。僕も記憶障害のことを言うべきだろうか?でも、それは今じゃない。

それから僕は、ほとんど毎日彼女のお見舞いに行くようになった。花が好きだと言っていたので、来る前に花屋によってから。おばあちゃんと同じ病院なのでおばあちゃんのお見舞いにも行くようにしている。僕が病室に入るとき、彼女はいつも笑顔で迎えてくれる。でもきっと、僕を困らせないように無理してるんだろう。僕は今日、彼女に記憶障害のことを言うと決心してきた。彼女はどんな顔をするだろうか。
「あのさ、突然なんだけど僕の話をしていいかな」
「うん、いいよ」
「今まで黙ってたんだけど、実は僕記憶障害なんだ。一年半前、交通事故に遭って、命は助かったんだけど頭を強打したせいで脳損傷を起こしちゃって。だから…」
「?…」
「僕には昨日までの記憶がないんだ。その日のことは次の日起きたら忘れてる。日記に書いて残してるから一応今までの出来事はわかるんだけど…」
「そうだったんだ。じゃあ、大変なのは私だけじゃないんだね」
彼女はそう言って、窓の方を向いた。その日は雲ひとつない晴天だった。
「お互い、頑張ろうね」
そう言った彼女の目からは涙がこぼれていた。その涙を僕は綺麗だと思った。

僕が彼女のお見舞いに行くようになってちょうど三ヶ月後、彼女はこの世を去った。その日もいつものように僕はお見舞いに行った。余命が三ヶ月と言っていたので、もうそろそろかとは思っていた。でも生きていてほしかった。病室に入ると、彼女の両親らしき人物が、安らかに眠る彼女の手を握りながら泣いている。彼らは僕に気づいたようで、こちらを振り返ってこう言った。
「もしかして、宮下友輝さん?」
僕は驚いた。なんで僕の名前を?彼らはまるで僕の考えていたことを見透かすように
「結華がよくあなたの話をしてたのよ。いつも朝同じ電車に乗る高校生と仲良くなったって」
と言った。結華が僕のことを…
「それと…これをあなたに渡すように頼まれて…」
僕が渡されたのは分厚い本と一冊の日記。手紙の内容はこんな感じだった。

―今日、毎朝同じ電車に乗る高校生から声をかけられた。友達のいない私にとってはとっても嬉しいことだった。松風美聖の『あの日』が読みたいと言うので貸してあげることにした。まぁ、お母さんのだけど。
今日、久しぶりに発作が起こって学校に行けなかった。だから友輝くんに本を渡すことも…連絡するべきだったことはいやというほどわかっていたけどどうしてもできなかった。病気のことを知られるのが嫌だったから。夕方、私が病院のベンチに座っていると、奥の病室から友輝くんにそっくりな男子が出てきた。私はバレないように、友輝から顔が見えない位置に移動した。だけど無理だった。声をかけられたしまった。私は何事もなかったかのように返事をしたのだけど、やっぱり不自然だったかしら。
今日も友輝くんはお見舞いに来てくれた。しかも私の好きなお花を持って。彼のおばあちゃんもこの病院に入院しているらしい。会いに行こうかな。友輝くんが急に自分のことを話し始めた。何かあったのかな?と思ったけど、黙って聞くことにした。彼は記憶障害らしい。その日の記憶を次の日まで覚えていられない。だから、私のことも覚えていない。日記で次の日の自分に繋げているとは言っていたけど、やっぱり何か悲しい。そう思うと、なんだか急に切なくなってきた。彼が病室を出てすぐ、私はこらえきれず泣いてしまった。二時間くらいは泣いたかな。
今日でとうとう三ヶ月だ。私は死ぬんだろう。その前に友輝くんに本を渡さないと。結局、まだ渡せていない。どうせ死ぬなら、日記に書いておこう。
『私は、宮下友輝くんが好きです』―

僕は日記を読んだ瞬間、涙が止まらなくなった。結華が僕のことを好きだなんて。僕だって彼女が好きだ。ずっとずっと前から。この想いを彼女に伝えるべきだった。

僕はふと、窓の外を見た。今日は、あの日と同じ空で、一瞬、ニコっと笑う結華がこちらを見た気がした。