あれは、ある夏の日のことでした……。
 僕は健康のためでもありますが、気分転換やネタ探しのためによく散歩をするようにしています。
 まあ1万歩を超えられない歩数なのですが。

 好きな音楽を聴きながら地元を歩いていると、ひとりの若い女性が僕の前をゆっくりと歩いていました。
 リュックサックを背負っていますが、さほど重そうに感じません。
 あまりの歩く遅さに僕はしびれを切らして、その女性を追い越そうとした瞬間でした。
 僕はそれに気がついたのです。

 その独特な歩き方を見て、ようやく気がつきました。

(この人、ひょっとして赤ちゃんを妊娠しているんじゃ?)

 僕の考えは当たっていました。背負っていたリュックサックに”赤ちゃんマーク”がついていたからです。
 ここで僕は幼き頃から、実の兄にかけられた”刷り込み”が発動します。

『お前は男だ。女の子に優しくしろ。できなかった時は死ね』
『なに? 女の子を優しくする優先順位だと……? それなら妊婦さんを一番にした方が良いかもしれないな。その次が生まれた赤ちゃん』
 
 それまで追い抜こうとしていた僕ですが、兄によって長年刷り込まれた「女の子には優しくしろ」モードが自動で発動するため、思考が停止してしまいます。
 相手は女性。しかも、お腹に赤ちゃんを妊娠している女性です。
 のちに出産という命をかけた大仕事が待っています。
 もし僕がここでこの人を追い抜いたら、ショックから流産してしまうかもしれない。

 それに僕の地元は歩道がとても狭く、人ひとりがようやく歩けるようなところです。
 追い抜いた際に肥満体型の僕の肩が奥様に当たったら、衝撃でお腹の赤ちゃんにも影響を及ぼすと思った僕は……。
 悩んだ挙句、その奥様と歩調を合わせることにしました。

 きっとお産が近いので産婦人科まで歩いていかれるのでは? と思った僕は、少し離れた後ろからしばらく一緒に歩くことにしました。

 ~数分後~

 僕の思った通り、途中の交差点で奥様は反対側の歩道へ渡り、向かわれた場所は産婦人科でした。

(よかったぁ~ せっかくだから、元気に赤ちゃんが生まれることを祈っておこう!)

 とその場で手を合わせて、安産を願っておりました。

 良いことをしたなと思うと、僕はその後のウォーキングがとても気持ち良かったです。
 しかし、その日の夜に晩酌しながら、妻や娘二人に朝起きた話をすると……。

「いや、普通に気持ちの悪い人でしょ? 私が妊娠している時にそんなことされたら怖い」
「あと味噌くんも、ちゃんと追い抜きなよ。それぐらいで流産するわけないでしょ?」
 
 と妻に言われ、娘たちからは……。

「パパがやったことはストーカーじゃない?」
「全然優しくない。むしろキモすぎ」

 とまで言われ、僕はとても落ち込みました。
 良かれと思ってやったことですが、とにかくその奥様が無事に赤ちゃんが産まれたことを願うばかりです。

 今回は事後にわかったことなので、通報されていません……。