夜風は頭を冷やしてくれるほど冷たくなくて、むしろ溶かしてしまうのではないかと思うほど、むわっとして、暑かった。
「送ってく。乗って?」
お言葉に甘えて軽自動車の助手席に座って、シートベルトを締める。近くなった顔に、思わずドキッと跳ね上がる鼓動。
「運転するの見るの、初めてです」
「そう?意外と俺、足だよ」
ハハッ、と楽しそうに笑う。買い出しとか、お酒の入らない打ち上げは、確かにあなたが車を出していたけど。私はいつも、乗れなかった。先輩たちがいる中に、私一人が入っていくのはさすがにできなかった。
「私、好きです」
慣れた手つきでギアを引き、ハンドルを握る。
その姿がかっこよくて、見ることができて嬉しくて。でも、いつもここに座って、何度も見られる彼女が羨ましくて。
……つい、口をすべらせた。
「……ごめん」
どう誤魔化そうかと考えている最中、耳に届いたのは拒絶だった。
いつか、彼女と別れたら。そのときに一番そばにいられたら。
ずっと考えていたのに、自分からその可能性を潰してしまった。もう笑えなかった。でも、泣くこともできなかった。勝手に告白して、勝手に泣いて迷惑だって、思われたくなかったから。
「知ってます。無理なことなんて、心でも頭でも、ちゃんと理解していますから」
可愛くない。いっその事、一筋だけでも涙を流したほうが可愛げがあってよかったのかな。止められないから、考えるだけでやりはしないけど。
赤信号の沈黙。スピーカーから流れてくる流行りの曲がストレートに耳に入り、抜けていく。
気まずくて苦しくて、今すぐ降りてしまいたい。確実に振られることくらい、考えなくてもわかるのに、なんで言っちゃったんだろう。
「彼女と、結婚するんだ。大学卒業したら、すぐに。一番最初に聞いてほしくて、誘ったんだ。きっと、一番なついてくれてたから、一番喜んでくれるって思ってから」
車を歩道側に寄せて、ハザードランプをつける。カチカチと決まったペースで鳴る音が、少しだけ現実を遠ざけてくれている気がした。
「羨ましい。こうして未来永劫、好きな人と一緒にいられるなんて」
儚く散る、なんて、綺麗な言葉では終わらせられない恋だ。この失恋は、手を滑らせて大切な花瓶を粉々にしたような、後処理の面倒臭い、誰も幸せにならない恋だった。
「そういう相手が、俺以外にもきっといつか現れるよ」
「そうかな、どうかな……。私、初めて人を好きになったんです。高校のオープンキャンパスで見かけた日から、ずっと追いかけてきました。二番目でも、妹でも、親友でも。彼女の次に近い存在になれたらどれでもよかったけど、そんなの困らせるだけって、心のどこかではずっと、わかっていました」
でも、結婚するならもう希望はない。いつか別れたら、なんて、もしかしたらもう永遠に来ないかもしれない。ただの邪魔者で、あなたから鬱陶しがられるくらいなら、消えたほうがマシだ。だって今、困った顔をしていることくらいすぐにわかる。出さないようにしてくれているけど、わかっちゃうんだよ。好きだから。ずっとあなただけを見てきたから。
「はー。最後にずっと心にしまってたことが伝えられて、すっきりしました。聞いてくれて、ありがとうございます」
あなたの答えを聞く前に、「また」ではなく、初めて「さようなら」と告げて車を降りた。もう、家は歩いてすぐ。暗い夜道は今の私にちょうど良かった。
車を降りて足を進めた途端、ずっと堪えていた涙が一気に押し寄せて、流れた。
すっきりしたなんて、嘘だ。喪失感と後悔で、今にも潰れてしまいそう。
お酒だって本当は好きじゃない。でも、飲み会に行ったら会えるから。飲みやすいものを選んで飲んでいた。
肩を出す服も、髪を巻くのでさえ苦手で、でも好かれたい気持ちには勝てなくて、必死に練習した。頑張って見せられる二の腕を作った。
うぅー……、なんて。情けない声にならない声が口から出ていく。
初恋は叶わないと聞くけど、恋がここまで残酷で、苦しいものだなんて知らなかった。
なにかに期待して振り向くけど、やっぱり追いかけてこない。それはきっと、私はもう、あなたの何にもなれないっていうことで、告白に対して「ありがとう」がなかったのは、きっと本当に迷惑していたからで。
あなたのためだけに作り上げられた今の自分がどれだけ痛いのか、考えると悲しくなる。その悲しさで、さらに涙は流れる量を増し、滲む視界を何度も腕で拭ってクリアにしながら家に着いたころには、腕は落ちたメイクでキラキラになっていた。
一人の部屋はいつもと同じ静けさのはずなのに、いつにも増してシンとしているように感じて嫌になる。
これから全て忘れないといけないのに。
あなたを初めて見たときのこと。
あなたと再会できたときのこと。
あなたの名前を知ったときのこと。
あなたと初めて話した日のこと。
あなたの好きなものを知ったときのこと。
あなたの優しさに触れた日のこと。
あなたに彼女がいると知ったときのこと。
まだまだたくさん。リセットしないといけないのに、忘れるための手段がこの部屋には何もない。
新しい恋なんてもちろんできっこないし、完全に忘れるにはきっと、何年もの時間をかけることになる。
それほど、大きな恋だった。温かくてどこか冷たい、この先も超えることはないような、良くも悪くも心に残る、初恋だった。
手始めに、さっきもらったばかりの誕生日プレゼントを開けた。
「俺のオススメはね、これ」
まるで目の前にいるかのように、まぶたを閉じるとさっきの情景が蘇る。ハートのチョコを指さすあなたが、はっきりと。
いただきますも呟かないまま、最初にそのチョコを手に取り、半分かじった。
「なにこれ……。苦っ」
甘味を感じさせない、苦みと酸味が口に広がった。味といい、半分になったハートといい、今の私にピッタリなチョコだった。
深夜に食べた一粒のチョコレートに名前をつけるとするなら、これは『失恋』が一番ピッタリだと、未だに止まらない涙を箱の上にぽたぽた落としながら、もう半分を口に入れた。