とある中東の巨大ハブ空港にて。
内鏡原真奈はゆっくりと歩いていた。
仕事で展示会や打ち合わせがあり、ドイツまで出向いた真奈。
入社僅か三年目なのにも関わらず、一人で海外の展示会や打ち合わせを任せてもらえるようになった。実際には一人ではなくドイツのミュンヘン支社の人と一緒ではあったが。
日本からのドイツ直行便が取れなかったので、中東を経由しているのだ。
まだ昼間で、夕方の搭乗まで時間がある。そこで真奈はゆっくりとこのデパートのような空港を見て回ろうとしていた。
その時、何者かに肩を叩かれた。
「Excuse me. Is it yours?」
黒目にパーマっぽい黒髪、アジア系の青年だった。流暢な英語である。
ゆったりとしたジャージ姿で少しだらしない印象である。
しかし真奈もこれから日本まで長時間フライトなので、スウェットにサンダル姿であるからお互い様である。
青年はネックピローを真奈に差し出す。
それは確かに真奈のものであった。
リュックに結びつけてあったのが取れて落ちたのだろう。
「Oh yes. It's mine. Thanks」
真奈は青年からネックピローを受け取る。
「Hey, where are you from?」
青年からそう聞かれた。
「I'm from Japan」
真奈がそう答えると、青年は大きく目を見開く。
「Oh, Japan! Me too! I'm from Japan too! I'm from Tokyo!」
テンション高めである。
「I'm from Yokohama」
真奈は少し表情を綻ばせた。
「ん? あ、これ日本語で良いやつですよね」
青年は真奈が日本人だと分かり、日本語に切り替えた。
「確かに」
真奈は苦笑した。
「今から日本に帰るところですか?」
青年からそう聞かれたので真奈は頷く。
「はい、そうですけど」
「俺もです。何か遠い異国で日本人に会えるなんて凄いです。何か安心しました」
青年は明るくハハっと笑う。
真面目そうな雰囲気の真奈とは違い、いかにもチャラそうな感じだった。
「確かに、日本語が話せますからね」
真奈も少し肩の力を抜くことが出来た。
「もしかして一人旅とかですか?」
青年が興味ありげに聞いてきた。
「いえ、仕事です。展示会と打ち合わせでドイツに行ってて、その帰りです」
「何の仕事してるんですか?」
青年は割とグイグイくる。
「えっと、薬品の研究開発を」
真奈は少し引き気味に答えた。
「え! 研究! 女性の研究者って何かめちゃくちゃカッコいいですね!」
青年は目を輝かせた。
「そうなんですかね?」
真奈は少し困ったように苦笑した。
「俺も仕事で早朝までイギリスにいました。イギリスの会社と商談ですよ。少しトラブルもあったけど何とかまとまって」
ハハっと笑う青年。
「良かったですね」
「はい、本当に」
青年は明るくチャラそうに笑う。
「それじゃ、俺、またお土産買うんで」
青年はサッとその場を離れるのであった。
(まさか日本人に会うとは……)
真奈は意外に思いながら周囲を見渡した。
巨大ハブ空港ということで、白人、黒人、アジア人と様々な人種でごった返していた。
そんな中で日本人と会えるだなんて思ってもいなかった。
(まあ、何かチャラそうで私の苦手なタイプだったけど……)
真奈は苦笑した。そしてリュックに落ちないようネックピローを結びつけ、搭乗時刻に近付くまでお土産やなどを覗き、時間を潰すのであった。
◇◇◇◇
「あ」
「また会いましたね」
夕方、飛行機に乗り込んだ時。何と真奈の隣の席にあの青年がいたのだ。
「ここで会えたのも何かの縁かもしれませんし、名前教えてもらって良いですか? あ、俺、杉本賢斗って言います」
青年ーー賢斗は相変わらずチャラそうに笑っていた。
「内鏡原です」
真奈はやや苦笑しながら苗字だけを言った。
すると賢斗は目を丸くする。
「え? 内鏡原さん? 長いし珍しい苗字ですね。どういう漢字使うんですか?」
「内側の『内』に、鏡はミラーの『鏡』、原は原っぱの『原』です」
「へえ……。呼びにくいから下の名前教えてくださいよ」
「真奈です」
「じゃあ真奈さんって呼びます。良いですよね?」
「……良いですよ」
少し考えてから、真奈はそう答えた。
普段の真奈なら絶対に頷いたりしない。初対面の男性に下の名前を呼ばせることはないのである。
しかし、日本とは違う空気のせいか、真奈は頷いていた。
「じゃあ俺のことも賢斗って呼んでください。俺だけ真奈さんのこと名前呼びじゃ何かフェアじゃない感ありますし」
賢斗はニッと笑う。
「分かりました、賢斗さん」
真奈も表情を少しだけ綻ばせた。
日本までのフライトは十一時間。真奈は隣の席の賢斗と話すことにした。
「え、真奈さんも二十七歳! 俺と同い年ですね」
「そうですね。でも賢斗さんは大学卒業後すぐ商社に就職でしたよね?」
「はい。入社五年目です」
「私は大学院の修士課程まで行ってるのでまだ入社三年目です」
「え!? 入社三年目で海外とのやり取り任せられるのって凄いですね」
賢斗が目を大きく見開いている。
「まあ……そうかもしれませんね。たまたま英語が話せるのが私だっただけかもしれませんが。国際的な展示会なので基本ドイツ語じゃなくて英語を使うことが多かったので」
真奈は苦笑した。
「確かに真奈さんの英語、何かネイティブっぽかったですよ。もしかしてアメリカとかイギリスとか英語圏で暮らしてたことあります?」
「えっと、十二歳までアメリカのニューハンプシャー州にいました。父の仕事の都合で」
「え! 何か凄い! 俺、初めて帰国子女に会いました」
賢斗はテンションが上がっていた。
賢斗はチャラチャラとした感じで、真奈が普段は絶対に関わろうとしないタイプの人間だった。しかし遠い異国ではそんなことは関係ない。日本人というだけで安心して心を開いてしまうのであった。
「あれ? 真奈さん、ひょっとして眠くなって来ました?」
ふああ、とあくびをした真奈に対し、賢斗がそう聞いてくる。
「はい……。ドイツを出たのが早朝だったので」
真奈は再びあくびをした。
「ああ、やっぱりそうですよね。日本までまだかなりありますし、時差のこともあるから寝ておいた方が良いですよね。ゆっくり休んでください」
「はい。ありがとうございます」
真奈はネックピローと耳栓とアイマスクを装着し、眠ることにした。
ウトウトと浅い眠りに落ちていた時、不意に隣から軽く肩を叩かれた。
(ん……? もう何……?)
アイマスクと耳栓を外し、眉間に皺を寄せて目を細める真奈。その表情は不機嫌そうに見える。
「真奈さん、何か機内食来てます」
賢斗が示した方向にはアラブ系の客室乗務員がいた。
「Excuse me?」
客室乗務員は真奈の顔を覗き込んでいる。
「何かこのメニューから選べってことです」
賢斗が真奈にメニューを渡す。
どうやら真奈が眠っていた時に配られていたらしい。
要は牛肉か鶏肉か魚を選べということだ。
正直放っておいて寝かせてくれと思う真奈であった。
「I'll have beef」
真奈は少し寝ぼけながらもそう答えた。
するとすぐに牛肉の機内食が渡された。ついでに飲み物も聞かれたので水を頼んだ。
「寝ぼけながらも何か丁寧な英語フレーズが出て来るって凄いですね」
賢斗が真奈に尊敬の眼差しを向ける。
「そうですか? 賢斗さんも英語が話せるからイギリスの会社との商談任されたんでしょう」
寝ぼけながら機内食を食べる真奈。
「俺はちょっと英語系の検定の点数が良いだけですよ」
ハハっと笑いながら機内食を食べる賢斗。賢斗は鶏肉を選んでいたようだ。
「……何か、食べてたら目が覚めました」
真奈は水を飲んで苦笑する。
「良いじゃないですか。また喋りましょう。あ、一緒に映画見ます? どっちかのモニターとかイヤホン共有して」
賢斗は座席前のモニターを操作する。
「お互いモニターもイヤホンもあるのに共有する意味あります?」
真奈は苦笑した。
「いや、何か面白いじゃないですか」
楽しそうに明るく笑う賢斗である。
「まあ……やってみますか」
真奈はクスッと笑った。
(何だろう……? 普段は絶対に賢斗さんみたいなチャラめな人とは距離を置いて必要最低限のこと以外話すことはなかったけど……。何か、楽しくなってきた)
真奈は自身の変化に少し戸惑いつつも、どこか賢斗との時間が心地良くなっていた。
「あ、この洋画、ずっと気になってたんですよ」
賢斗が真奈のモニターを操作する。
「ああ、その映画有名ですよね。私もまだ見たことがなかったです。これにします?
「はい。あれ……? 日本語字幕がない……!」
映画の言語設定で日本語字幕がないことに驚く賢斗。
「じゃあ英語のを英語字幕で見ます?」
真奈は楽しそうに笑う。
「いや、真奈さん英語得意だから問題ないけど俺は英語系の検定の点数が高いだけでそんなに分かるわけじゃないですよ」
困ったように笑う賢斗。
「まあでも、何事も挑戦ですね。英語で更に英語字幕で行きましょう!」
賢斗はそう意気込みながら字幕を選び、二人で一つのモニターと一つのイヤホンを共有して映画を見ることにした。
選んだ映画は最近上映され、割と世界的に人気になったラブロマンス。ドキドキ、ワクワク、ハラハラ、そして切ない展開に引き込まれるものであった。
真奈のモニターを使用しているので、自然と賢斗が真奈に近付く。
ほんの少しドキリとし、真奈は落ちかけた左耳のイヤホンを押さえるのであった。
映画に集中しながらも、左側にいる賢斗の存在が気になり始めていたのだ。
◇◇◇◇
映画のエンドロールが流れ始めた頃、窓の外はすっかり暗くなっていた。
国際便の長時間フライトなので、一夜を飛行機で過ごす。
「いやあ、最後めちゃくちゃ良かった。案外何となく英語字幕でも分かるものですね」
賢斗は映画の余韻に浸っていた。
「何か凄く……ロマンチックでしたね」
真奈も満足げな表情だ。
賢斗が気になりつつも、何だかんだ映画にどっぷり浸っていた真奈である。
「まだ東京まで八時間ありますね」
賢斗は自身のモニターに戻り、飛行経路を見ていた。
「今どの辺ですか?」
真奈が賢斗のモニターを覗き込む。
経路にある地名は英語で書かれていた。
「えっと……どの辺でしょう? 位置的に多分まだ中央アジアとかですね」
賢斗はモニターを操作してこの先の経路も確認していた。
「やっぱり時間かかりますね」
真奈はクスッと笑い、席に深くもたれた。
二人の間に沈黙が流れるが、それがどこか心地良く感じる真奈である。
隣で賢斗があくびをしたのが分かった。
「眠くなって来ました?」
真奈がそう聞くと、あくびにより出た涙を拭いながら頷く賢斗。
「はい。やっぱり体が疲れてたみたいです」
止まらないあくびに苦笑する賢斗。
「日本まで八時間ですし、丁度良い時間ですよね。日本には朝に着きますし。私も寝ようかな」
真奈もあくびが出た。賢斗のあくびがうつったのか、眠いのかは分からない。
こうして、二人は眠りにつくのであった。
◇◇◇◇
「Excuse me?」
真奈は再び機内食の時間に起こされた。
(いや、『Excuse me?』じゃなくて放っておいて欲しい)
そう思いながらも、アイマスクと耳栓を外す真奈。
今回の機内食は日本食もあるらしい。客室乗務員曰く、うどんもあるそうだ。
真奈はうどんを選んでみた。
同じく、眠っていた賢斗も起こされていた。彼もうどんを選んだようだ。
「おはようございます、真奈さん」
賢斗はそうあくびをした。
「おはようございます、賢斗さん」
真奈は苦笑した。
「うん、正直寝かせてくれって思いますね」
賢斗は再びあくびをしながら苦笑する。
「多分日本の航空会社だと寝ているお客さんにはそのまま放っておいてくれるはずです」
真奈は苦笑したまま答えた。
「ですよね。それにしてもうどん……これうどんですか?」
賢斗は機内食を見て苦笑する。
客室乗務員はうどんと言っていたが、どう見ても焼きそばだ。おまけに箸がないのでフォークとスプーンでパスタのように食べないといけない。
何とも不思議な感覚である。
「まあ海外から見たらうどんも焼きそばも同じに見えるかもしれないですね」
真奈も苦笑しながらフォークとスプーンを駆使してパスタのように食べるのであった。
「俺らも海外のこと完全に分かるわけじゃないですし、ある意味仕方ないってことですね」
賢斗はハハっと笑い、モニターを操作した。
「おお、もう東京まで三時間。今多分韓国上空ですよ。しかも東京は午前五時」
「あ、本当ですね。今ソウル付近……確かに外も明るくなってますね」
真奈はモニターと窓の外を確認した。
(賢斗さんといられるのも後三時間か……。苦手なタイプのはずなのに……)
真奈は少し寂しくなっていた。
まだこの感情が何かは分からない。
そして時間を惜しむように賢斗と話すのであった。
賢斗が真奈と同じ気持ちであったかは定かではない。
◇◇◇◇
「……着いちゃいましたね、東京」
賢斗はほんの少し名残惜しそうな表情である。
無事に着陸し、二人は飛行機を降りて歩いていた。
「そうですね」
真奈は少し寂しそうである。
(着いちゃった……。もう日本だ)
真奈は内心ため息をついた。
絶対に合わないタイプだと思っていた賢斗との時間が楽しかったのである。
「真奈さんは今から横浜に帰るんですか?」
「はい、そうです。今日は時差ボケとかがありそうで有給取りましたので」
真奈はハハっと笑う。
「有給、羨ましいですね。俺、午後から出社です。時差ボケで眠りそう」
賢斗はあくびしながら苦笑した。
「大変ですね」
真奈は若干憐れむような表情だ。
「はい。でも、今回真奈さんに会えて楽しかったです。ありがとうございました」
賢斗は真奈を見て満足そうに微笑んでいた。
真奈の胸の中に、温かくも切ない感情が溢れ出す。
「私も……賢斗さんと過ごせて良かったです。ありがとうございました」
真奈はどこか切なさを含みながら、穏やかに微笑んでいた。
入国審査を終えた二人は、そこで別れたのである。
遠い異国で出会い、一晩のフライトを共にした。ただそれだけの関係。
しかし真奈にとって、それは少しだけ特別になりつつあったのだ。
◇◇◇◇
数日後。
真奈は出社してドイツ出張の報告書をまとめていた時のこと。
「内鏡原さん、今日の午後にA商社が来るんだけどさ、内鏡原さんも出てくれない? 何でもその商社、今後薬品も取り扱う予定なんだ。多分海外事情も知りたいはずだからさ。内鏡原さんはこの前ドイツの展示会にも行ったし海外事情とか詳しくなったでしょう? その件を商社に話してもらいたいんだ」
上司からそう頼まれた真奈。
「承知しました。何時からでしょうか?」
真奈は快く頷き、予定時刻を聞く。
「午後二時半だ。よろしく頼むよ。もちろん、僕も出るから」
上司はホッとしたような表情だった。
「はい」
真奈は頷き、再び報告書をまとめていた。
それと共に、今後の研究計画もまとめるのであった。
そして午後二時半。
商社との打ち合わせ時間になった。
「あ……!」
会議室に入った瞬間、真奈は目を大きく見開いた。
何と賢斗がいたのである。
「ああ! この前の飛行機振りですね!」
賢斗も真奈の存在に気付き、目を見開いていた。
「杉本くん、彼女と知り合いかい?」
賢斗の上司が意外そうに目を丸くしている。
「はい。この前イギリス出張あったじゃないですか。経由地の空港で偶然出会って席が隣だったんですよ」
賢斗は明るくそう話す。
「ほう、こりゃ偶然ですね」
真奈の上司も高らかに笑う。
「えっと、改めまして、B薬品工業の内鏡原と申します」
「A商社の杉本です」
真奈と賢斗は名刺交換をした。
また新たに何かが始まる予感がするのであった。
内鏡原真奈はゆっくりと歩いていた。
仕事で展示会や打ち合わせがあり、ドイツまで出向いた真奈。
入社僅か三年目なのにも関わらず、一人で海外の展示会や打ち合わせを任せてもらえるようになった。実際には一人ではなくドイツのミュンヘン支社の人と一緒ではあったが。
日本からのドイツ直行便が取れなかったので、中東を経由しているのだ。
まだ昼間で、夕方の搭乗まで時間がある。そこで真奈はゆっくりとこのデパートのような空港を見て回ろうとしていた。
その時、何者かに肩を叩かれた。
「Excuse me. Is it yours?」
黒目にパーマっぽい黒髪、アジア系の青年だった。流暢な英語である。
ゆったりとしたジャージ姿で少しだらしない印象である。
しかし真奈もこれから日本まで長時間フライトなので、スウェットにサンダル姿であるからお互い様である。
青年はネックピローを真奈に差し出す。
それは確かに真奈のものであった。
リュックに結びつけてあったのが取れて落ちたのだろう。
「Oh yes. It's mine. Thanks」
真奈は青年からネックピローを受け取る。
「Hey, where are you from?」
青年からそう聞かれた。
「I'm from Japan」
真奈がそう答えると、青年は大きく目を見開く。
「Oh, Japan! Me too! I'm from Japan too! I'm from Tokyo!」
テンション高めである。
「I'm from Yokohama」
真奈は少し表情を綻ばせた。
「ん? あ、これ日本語で良いやつですよね」
青年は真奈が日本人だと分かり、日本語に切り替えた。
「確かに」
真奈は苦笑した。
「今から日本に帰るところですか?」
青年からそう聞かれたので真奈は頷く。
「はい、そうですけど」
「俺もです。何か遠い異国で日本人に会えるなんて凄いです。何か安心しました」
青年は明るくハハっと笑う。
真面目そうな雰囲気の真奈とは違い、いかにもチャラそうな感じだった。
「確かに、日本語が話せますからね」
真奈も少し肩の力を抜くことが出来た。
「もしかして一人旅とかですか?」
青年が興味ありげに聞いてきた。
「いえ、仕事です。展示会と打ち合わせでドイツに行ってて、その帰りです」
「何の仕事してるんですか?」
青年は割とグイグイくる。
「えっと、薬品の研究開発を」
真奈は少し引き気味に答えた。
「え! 研究! 女性の研究者って何かめちゃくちゃカッコいいですね!」
青年は目を輝かせた。
「そうなんですかね?」
真奈は少し困ったように苦笑した。
「俺も仕事で早朝までイギリスにいました。イギリスの会社と商談ですよ。少しトラブルもあったけど何とかまとまって」
ハハっと笑う青年。
「良かったですね」
「はい、本当に」
青年は明るくチャラそうに笑う。
「それじゃ、俺、またお土産買うんで」
青年はサッとその場を離れるのであった。
(まさか日本人に会うとは……)
真奈は意外に思いながら周囲を見渡した。
巨大ハブ空港ということで、白人、黒人、アジア人と様々な人種でごった返していた。
そんな中で日本人と会えるだなんて思ってもいなかった。
(まあ、何かチャラそうで私の苦手なタイプだったけど……)
真奈は苦笑した。そしてリュックに落ちないようネックピローを結びつけ、搭乗時刻に近付くまでお土産やなどを覗き、時間を潰すのであった。
◇◇◇◇
「あ」
「また会いましたね」
夕方、飛行機に乗り込んだ時。何と真奈の隣の席にあの青年がいたのだ。
「ここで会えたのも何かの縁かもしれませんし、名前教えてもらって良いですか? あ、俺、杉本賢斗って言います」
青年ーー賢斗は相変わらずチャラそうに笑っていた。
「内鏡原です」
真奈はやや苦笑しながら苗字だけを言った。
すると賢斗は目を丸くする。
「え? 内鏡原さん? 長いし珍しい苗字ですね。どういう漢字使うんですか?」
「内側の『内』に、鏡はミラーの『鏡』、原は原っぱの『原』です」
「へえ……。呼びにくいから下の名前教えてくださいよ」
「真奈です」
「じゃあ真奈さんって呼びます。良いですよね?」
「……良いですよ」
少し考えてから、真奈はそう答えた。
普段の真奈なら絶対に頷いたりしない。初対面の男性に下の名前を呼ばせることはないのである。
しかし、日本とは違う空気のせいか、真奈は頷いていた。
「じゃあ俺のことも賢斗って呼んでください。俺だけ真奈さんのこと名前呼びじゃ何かフェアじゃない感ありますし」
賢斗はニッと笑う。
「分かりました、賢斗さん」
真奈も表情を少しだけ綻ばせた。
日本までのフライトは十一時間。真奈は隣の席の賢斗と話すことにした。
「え、真奈さんも二十七歳! 俺と同い年ですね」
「そうですね。でも賢斗さんは大学卒業後すぐ商社に就職でしたよね?」
「はい。入社五年目です」
「私は大学院の修士課程まで行ってるのでまだ入社三年目です」
「え!? 入社三年目で海外とのやり取り任せられるのって凄いですね」
賢斗が目を大きく見開いている。
「まあ……そうかもしれませんね。たまたま英語が話せるのが私だっただけかもしれませんが。国際的な展示会なので基本ドイツ語じゃなくて英語を使うことが多かったので」
真奈は苦笑した。
「確かに真奈さんの英語、何かネイティブっぽかったですよ。もしかしてアメリカとかイギリスとか英語圏で暮らしてたことあります?」
「えっと、十二歳までアメリカのニューハンプシャー州にいました。父の仕事の都合で」
「え! 何か凄い! 俺、初めて帰国子女に会いました」
賢斗はテンションが上がっていた。
賢斗はチャラチャラとした感じで、真奈が普段は絶対に関わろうとしないタイプの人間だった。しかし遠い異国ではそんなことは関係ない。日本人というだけで安心して心を開いてしまうのであった。
「あれ? 真奈さん、ひょっとして眠くなって来ました?」
ふああ、とあくびをした真奈に対し、賢斗がそう聞いてくる。
「はい……。ドイツを出たのが早朝だったので」
真奈は再びあくびをした。
「ああ、やっぱりそうですよね。日本までまだかなりありますし、時差のこともあるから寝ておいた方が良いですよね。ゆっくり休んでください」
「はい。ありがとうございます」
真奈はネックピローと耳栓とアイマスクを装着し、眠ることにした。
ウトウトと浅い眠りに落ちていた時、不意に隣から軽く肩を叩かれた。
(ん……? もう何……?)
アイマスクと耳栓を外し、眉間に皺を寄せて目を細める真奈。その表情は不機嫌そうに見える。
「真奈さん、何か機内食来てます」
賢斗が示した方向にはアラブ系の客室乗務員がいた。
「Excuse me?」
客室乗務員は真奈の顔を覗き込んでいる。
「何かこのメニューから選べってことです」
賢斗が真奈にメニューを渡す。
どうやら真奈が眠っていた時に配られていたらしい。
要は牛肉か鶏肉か魚を選べということだ。
正直放っておいて寝かせてくれと思う真奈であった。
「I'll have beef」
真奈は少し寝ぼけながらもそう答えた。
するとすぐに牛肉の機内食が渡された。ついでに飲み物も聞かれたので水を頼んだ。
「寝ぼけながらも何か丁寧な英語フレーズが出て来るって凄いですね」
賢斗が真奈に尊敬の眼差しを向ける。
「そうですか? 賢斗さんも英語が話せるからイギリスの会社との商談任されたんでしょう」
寝ぼけながら機内食を食べる真奈。
「俺はちょっと英語系の検定の点数が良いだけですよ」
ハハっと笑いながら機内食を食べる賢斗。賢斗は鶏肉を選んでいたようだ。
「……何か、食べてたら目が覚めました」
真奈は水を飲んで苦笑する。
「良いじゃないですか。また喋りましょう。あ、一緒に映画見ます? どっちかのモニターとかイヤホン共有して」
賢斗は座席前のモニターを操作する。
「お互いモニターもイヤホンもあるのに共有する意味あります?」
真奈は苦笑した。
「いや、何か面白いじゃないですか」
楽しそうに明るく笑う賢斗である。
「まあ……やってみますか」
真奈はクスッと笑った。
(何だろう……? 普段は絶対に賢斗さんみたいなチャラめな人とは距離を置いて必要最低限のこと以外話すことはなかったけど……。何か、楽しくなってきた)
真奈は自身の変化に少し戸惑いつつも、どこか賢斗との時間が心地良くなっていた。
「あ、この洋画、ずっと気になってたんですよ」
賢斗が真奈のモニターを操作する。
「ああ、その映画有名ですよね。私もまだ見たことがなかったです。これにします?
「はい。あれ……? 日本語字幕がない……!」
映画の言語設定で日本語字幕がないことに驚く賢斗。
「じゃあ英語のを英語字幕で見ます?」
真奈は楽しそうに笑う。
「いや、真奈さん英語得意だから問題ないけど俺は英語系の検定の点数が高いだけでそんなに分かるわけじゃないですよ」
困ったように笑う賢斗。
「まあでも、何事も挑戦ですね。英語で更に英語字幕で行きましょう!」
賢斗はそう意気込みながら字幕を選び、二人で一つのモニターと一つのイヤホンを共有して映画を見ることにした。
選んだ映画は最近上映され、割と世界的に人気になったラブロマンス。ドキドキ、ワクワク、ハラハラ、そして切ない展開に引き込まれるものであった。
真奈のモニターを使用しているので、自然と賢斗が真奈に近付く。
ほんの少しドキリとし、真奈は落ちかけた左耳のイヤホンを押さえるのであった。
映画に集中しながらも、左側にいる賢斗の存在が気になり始めていたのだ。
◇◇◇◇
映画のエンドロールが流れ始めた頃、窓の外はすっかり暗くなっていた。
国際便の長時間フライトなので、一夜を飛行機で過ごす。
「いやあ、最後めちゃくちゃ良かった。案外何となく英語字幕でも分かるものですね」
賢斗は映画の余韻に浸っていた。
「何か凄く……ロマンチックでしたね」
真奈も満足げな表情だ。
賢斗が気になりつつも、何だかんだ映画にどっぷり浸っていた真奈である。
「まだ東京まで八時間ありますね」
賢斗は自身のモニターに戻り、飛行経路を見ていた。
「今どの辺ですか?」
真奈が賢斗のモニターを覗き込む。
経路にある地名は英語で書かれていた。
「えっと……どの辺でしょう? 位置的に多分まだ中央アジアとかですね」
賢斗はモニターを操作してこの先の経路も確認していた。
「やっぱり時間かかりますね」
真奈はクスッと笑い、席に深くもたれた。
二人の間に沈黙が流れるが、それがどこか心地良く感じる真奈である。
隣で賢斗があくびをしたのが分かった。
「眠くなって来ました?」
真奈がそう聞くと、あくびにより出た涙を拭いながら頷く賢斗。
「はい。やっぱり体が疲れてたみたいです」
止まらないあくびに苦笑する賢斗。
「日本まで八時間ですし、丁度良い時間ですよね。日本には朝に着きますし。私も寝ようかな」
真奈もあくびが出た。賢斗のあくびがうつったのか、眠いのかは分からない。
こうして、二人は眠りにつくのであった。
◇◇◇◇
「Excuse me?」
真奈は再び機内食の時間に起こされた。
(いや、『Excuse me?』じゃなくて放っておいて欲しい)
そう思いながらも、アイマスクと耳栓を外す真奈。
今回の機内食は日本食もあるらしい。客室乗務員曰く、うどんもあるそうだ。
真奈はうどんを選んでみた。
同じく、眠っていた賢斗も起こされていた。彼もうどんを選んだようだ。
「おはようございます、真奈さん」
賢斗はそうあくびをした。
「おはようございます、賢斗さん」
真奈は苦笑した。
「うん、正直寝かせてくれって思いますね」
賢斗は再びあくびをしながら苦笑する。
「多分日本の航空会社だと寝ているお客さんにはそのまま放っておいてくれるはずです」
真奈は苦笑したまま答えた。
「ですよね。それにしてもうどん……これうどんですか?」
賢斗は機内食を見て苦笑する。
客室乗務員はうどんと言っていたが、どう見ても焼きそばだ。おまけに箸がないのでフォークとスプーンでパスタのように食べないといけない。
何とも不思議な感覚である。
「まあ海外から見たらうどんも焼きそばも同じに見えるかもしれないですね」
真奈も苦笑しながらフォークとスプーンを駆使してパスタのように食べるのであった。
「俺らも海外のこと完全に分かるわけじゃないですし、ある意味仕方ないってことですね」
賢斗はハハっと笑い、モニターを操作した。
「おお、もう東京まで三時間。今多分韓国上空ですよ。しかも東京は午前五時」
「あ、本当ですね。今ソウル付近……確かに外も明るくなってますね」
真奈はモニターと窓の外を確認した。
(賢斗さんといられるのも後三時間か……。苦手なタイプのはずなのに……)
真奈は少し寂しくなっていた。
まだこの感情が何かは分からない。
そして時間を惜しむように賢斗と話すのであった。
賢斗が真奈と同じ気持ちであったかは定かではない。
◇◇◇◇
「……着いちゃいましたね、東京」
賢斗はほんの少し名残惜しそうな表情である。
無事に着陸し、二人は飛行機を降りて歩いていた。
「そうですね」
真奈は少し寂しそうである。
(着いちゃった……。もう日本だ)
真奈は内心ため息をついた。
絶対に合わないタイプだと思っていた賢斗との時間が楽しかったのである。
「真奈さんは今から横浜に帰るんですか?」
「はい、そうです。今日は時差ボケとかがありそうで有給取りましたので」
真奈はハハっと笑う。
「有給、羨ましいですね。俺、午後から出社です。時差ボケで眠りそう」
賢斗はあくびしながら苦笑した。
「大変ですね」
真奈は若干憐れむような表情だ。
「はい。でも、今回真奈さんに会えて楽しかったです。ありがとうございました」
賢斗は真奈を見て満足そうに微笑んでいた。
真奈の胸の中に、温かくも切ない感情が溢れ出す。
「私も……賢斗さんと過ごせて良かったです。ありがとうございました」
真奈はどこか切なさを含みながら、穏やかに微笑んでいた。
入国審査を終えた二人は、そこで別れたのである。
遠い異国で出会い、一晩のフライトを共にした。ただそれだけの関係。
しかし真奈にとって、それは少しだけ特別になりつつあったのだ。
◇◇◇◇
数日後。
真奈は出社してドイツ出張の報告書をまとめていた時のこと。
「内鏡原さん、今日の午後にA商社が来るんだけどさ、内鏡原さんも出てくれない? 何でもその商社、今後薬品も取り扱う予定なんだ。多分海外事情も知りたいはずだからさ。内鏡原さんはこの前ドイツの展示会にも行ったし海外事情とか詳しくなったでしょう? その件を商社に話してもらいたいんだ」
上司からそう頼まれた真奈。
「承知しました。何時からでしょうか?」
真奈は快く頷き、予定時刻を聞く。
「午後二時半だ。よろしく頼むよ。もちろん、僕も出るから」
上司はホッとしたような表情だった。
「はい」
真奈は頷き、再び報告書をまとめていた。
それと共に、今後の研究計画もまとめるのであった。
そして午後二時半。
商社との打ち合わせ時間になった。
「あ……!」
会議室に入った瞬間、真奈は目を大きく見開いた。
何と賢斗がいたのである。
「ああ! この前の飛行機振りですね!」
賢斗も真奈の存在に気付き、目を見開いていた。
「杉本くん、彼女と知り合いかい?」
賢斗の上司が意外そうに目を丸くしている。
「はい。この前イギリス出張あったじゃないですか。経由地の空港で偶然出会って席が隣だったんですよ」
賢斗は明るくそう話す。
「ほう、こりゃ偶然ですね」
真奈の上司も高らかに笑う。
「えっと、改めまして、B薬品工業の内鏡原と申します」
「A商社の杉本です」
真奈と賢斗は名刺交換をした。
また新たに何かが始まる予感がするのであった。