私が見落としていただけで、違和感はそこら中に落ちていたのかもしれない。


 バイトが急遽お休みになり、半同棲している彼氏の家に行った日のこと。
 
 彼とは大学のサークルで出会い、1年生の終わりに彼の方から告白された。そして3年生になるころには、遅くまでバイトがない限り一緒に過ごすことが当たり前になっていた。お互い上京組ということもあり、何かと助け合っているうちに今の形に落ち着いたのだ。サークル内でも公認で、最近では「結婚式には呼んでね~」とノリで言われることも増えてきた。

 だから私も何となく彼との将来を考えていたんだけど――几帳面な彼が玄関のカギを閉め忘れるなんて珍しいな、なんて思いながら扉を開けた途端――すべてがガラガラと崩れ去った。

 だっていつも彼が履いているスニーカーのほかに可愛らしい女性もののサンダルが脱いであったから。しかも急いで入ったからなのか、左右バラバラで散らかっている。
 中では仲睦まじそうな男女の声が聞こえた。

 たったそれだけで首を絞められたかのように息が苦しくなった。

 っは、っは、と短い呼吸を繰り返す。

 震える身体を抱きしめ、音を立てないようにリビングの扉を少し開けると――私の予想通り、男女が淫らに絡み合っていた。

 サーと血の気が引いていく。ぐらりと視界が歪み、そのまま倒れそうになったのを寸前で耐えた。

 そうか。私は浮気されたのか。しかも彼のお相手は私たちと同じサークルの、後輩女子。

 状況を理解したと同時に、心に一滴の雫が落ちた。それは渇いた心に染みわたり、どこからか蒼炎が燃え始めた。どうやら雫の正体は水ではなく油だったらしい。悲しみが怒りの炎に飲み込まれていくのを静かに感じた。

 ――このままやられっぱなしで終わるとでも? 私が?

 答えはノーだ。

 トートバックに入っていたスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動させた。息を大きく吸い込み、勢いよくリビングの扉を開け放った。

 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ
「きゃっ、なにっ!?」
 カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ
「み、充希(みつき)!? なんで、バイトじゃっ」
「店長がお腹壊して休みになったんだよね。それで、他に言いたいことは?」

 写真を撮るのを止め目を細めて高圧的に出ると、小心者たちは黙り込んだ。

「とりあえず服でも着てよ。発情期の猿みたいでみっともない」

 二人がいそいそと服を着る間、口の中が苦くて苦くてたまらなかった。


  ◆


 彼らが服を着終わったところで、ローテーブルを間に挟み、向き合って座った。何から言おうか逡巡(しゅんじゅん)していると、彼の方からこう切り出した。

「ごめん充希。⋯⋯俺と、別れて欲しい」

 彼の言葉が心に重く響いた。

 なんで浮気した側がされた側よりも先に別れを切り出すんだろう。それは私のセリフじゃないのか。

「充希先輩ごめんなさいっ。わたし達の仲を許してください!」

 彼女の言葉が私の心を切りつけた。

 どの面下げて言ってるんだろう。こんな浮気男なんてこっちから願い下げなのに。そんな言い方をされたら私が彼に縋りついてるみたいじゃないか。

 そう問いただしそうになったが、喉がカラカラでうまく言葉が出ない。でも彼に申し訳なさそうに出された麦茶を飲むのはもっと嫌。

 無理やり唾を飲み込み、口を開こうとしたが、それよりも先に彼女が泣き始めてしまった。

「は、博人(はくと)さんは悪くないんです! わたしが2番目でもいいからって無理やりお願いして、それでっ⋯⋯。全部わたしが、博人を好きになったせいで⋯⋯」

 小動物のようにプルプルと震えながらも、一生懸命彼をかばっている。それに感銘を受けたのか、彼が彼女の肩にそっと手を置いた。

「あーちゃん。悪いのは全部俺だよ。君は何も悪くない」

 彼の声は聴いたこともないくらい温かく、頼もしいものだった。私と話すときとは全く違う。いつもはもっと頼りなくって、私が支えなきゃってついつい思っちゃうような、そんな声なのに。

 彼の言葉に彼女も感銘を受けたのか「博人さん⋯⋯」と感極まったようにつぶやいた。私は何を見せられているんだろう。少なくとも彼らの陳腐な恋愛話の中では、私は恋の障害そのものだ。

 彼は震えて泣く彼女を守るように、私を正面から見つめてきた。私が好きだった、真っすぐな目で。
 
「充希。見て分かったと思うけど、この子は俺がいないと本当にダメで⋯⋯。でも充希は強いから俺がいなくても――」
「ふざけんな」

 じゃあ博人がいなくても大丈夫な私は浮気されて傷つけられてもいいの?

 そんなわけないでしょう。

 一人でもやっていける私が、それでも博人と一緒にいたかった理由を少しでも、ほんの少しでも考えたことはあるのかな。

 ――あぁ、ダメだ。

「⋯⋯ちょっと頭冷やしてくる」
「あ、充希!」

 博人の呼びかけを無視して部屋を出た。

 早く、早く、早く、じゃないと――⋯⋯。

 はやる気持ちに駆られるままマンションから出て誰もいない路地裏に行きついたところで、堰を切ったかのように涙が溢れだした。そのままビルに背にうずくまる。

 私は昔から人前で泣けないし、泣きたくもない。博人にだって一度も涙を見せたことがなかった。そういうところがあるから「強い」なんて言われるのだろう。最後まで可愛くない。

 だから、浮気されたのかな。


  ◆


 どれくらいの時間、そうしていただろう。

 時間感覚も曖昧になるほど泣いていると、上から声が落ちてきた。

「え、蝶野(ちょうの)? こんなとこで何してんの?」

 透き通った男性の声だった。涙を拭ってから顔を上げると、そこには見知った顔があった。

壬生(みぶ)⋯⋯」

 枯れた声でそう呼びかけると、壬生はわずかに目を見開いた。声に驚いたのか、それとも泣き腫らした酷い顔をしていたのか、もしくはその両方かもしれない。

 壬生は同じゼミに所属する男子で、年齢も同じだ。そのこともあってか何度か話したことがある。確か博人のことも世間話程度に言った気がする。あと、特定の子を作らず遊んでいるって噂も聞いたような⋯⋯。

 そんな壬生に今の状況を訊かれる前に、無理やり捻り出した疑問を口にした。

「なんで⋯⋯、スーツ着てんの」
「インターン行ってた。今その帰り」
「へー⋯⋯」

 会話が終わった。気まずい。

 次に沈黙を破ったのは壬生だった。

「あー⋯⋯、俺これからテキトーに飲みに行こうと思ってたんだけど、よかったら来る?」

 てっきり泣いていた理由を訊かれると思っていたが、歯切れが悪そうに言われたのは飲みのお誘いだった。

 ――そういえば喉が渇いてたんだっけ。

「行く」

 泣いて泣いて思考力まで流れ去った頭でそう答えた。


  ◆


 壬生に連れてこられたのは大通りの外れにあるバーだった。どうやら壬生の行きつけらしく、自然な流れでギリギリ証明が当たらない席につき、壬生と同じカクテルを頼み、それを口にした。度数はそんなに高くなく、すんなりと喉を滑り落ちた。

 ――博人だったらこれでも酔ってたんだろうな。

 無意識にそう考えてしまった自分に嫌気がさした。さっきその彼の浮気が発覚したばかりなのに。どうやら博人の存在は私の中でかなり深く根付入れいたらしい。

 ようやく喉を潤わせることが出来たというのに、今度は心の渇きを自覚する羽目になった。さっきまでごうごうと燃えていた蒼炎は涙によって消された。残ったのは真っ白な灰だけ。

 さっきたくさん泣いたからか、じわじわと眠気も襲ってきた。

「私、彼氏に浮気された」

 だから、普通なら言いづらいことも零れ落ちた。

 いきなり思いことを言われて壬生はどんな反応をしているだろうと思い顔を上げると、苦虫を嚙み潰したような顔をしていた。思っていたのと違うリアクションに面を食らう。

「うーわそいつ最低だな。気持ち悪い」

 意外にも壬生は同調してくれていた。

「ね。でもそれまでは誠実ないい人だったんだよ。今回だって、相手の子が言い寄った感じだし⋯⋯」

 ――あっ。

 言ってから後悔した。なんで私が博人のフォローしてんだろ。

 目の前の壬生はこれでもかと言うほど眉をひそめた。

「誠実? 浮気したやつが? ないわー。蝶野男見る目ないだろ」

 ぐうの音も出ない。
 そんな私を追撃するかのように壬生は続けた。

「普段ちゃんとしてる奴だろうがいざってときに流される奴はちゃんとしてねーんだよ。悪いことだって分かった上で身体重ねて寝た時点でクズ決定なんだよ。そこに同情の余地なんかねーよ」

 言い方はキツいが、博人をかばった私ごとばさりと切ってくれて少しすっきりした。
 でも全部を素直に受け取ることは出来ない。

「壬生だって色んな子と遊んでるくせに」

 喉が渇いてたからって着いてきた私が言うのもなんだけど、私からすれば博人も壬生も同類だ。
 フラフラして女の子を振り回すクズ。
 そういう意味を込めて視線を向けると、壬生は挑発的に笑った。

「そりゃ遊んでるけどわざわざ彼女作って浮気するヤツより誰とも付き合わない俺の方がよっぽどいい男じゃない?」

 開き直った言い方をしているが、その目にはどこか哀愁のようなものを感じた。

 もしかしたら壬生も私と同じような経験をしたのかもしれない。だからさっきも同調してくれたんじゃ⋯⋯。

 そんな私の思考を読み取ったのか、壬生の方から口を開いた。

「あー俺の両親ダブル不倫して離婚してんの。だから浮気とか不倫する人間吐くほど嫌い」
「――え」
「しかも田舎だったから周りの人間は俺もまとめて希少種扱いしてきやがった。いや知らねーよ、親がやったことだろ俺関係ねーよって思いながら逃げるように東京来たら浮気不倫が日常にあって吐き気した。で、もう何も信じられねー考えたくねーって自暴自棄になって今こんなんなってんだよ」
「え、じゃあ特定の子作らないのも裏切られるのが怖いからとか?」
「⋯⋯痛いとこ突いてくるね」

 壬生が自嘲気味に笑ったところで、自身の失言に気づいた。いくらなんでも今のは無神経すぎた。

「⋯⋯ごめん。今のは私が悪い」
「いーよ別に」

 それから壬生はグイッとアルコールをあおり、ウェイターに2杯目を頼んだ。

「悪いって思うならさ」
「え、うん」
「蝶野の愚痴でも聞かせて。俺も愚痴るから」
「気分悪くなんないの?」
「なるよ。でもその分毒吐くから結果的にスッキリする。ほら嫌いな人の話わざと出して愚痴って貶すってやったことない?」

 正直心当たりがないわけじゃないけど、認めるのは抵抗がある。だって自身の性格の悪さを認めるようなものだし。
 でも、人を悪くいうことでしか癒えない傷があることも知っている。
 だから今日だけはいいや、と理性よりも感情に身を任せた。


  ◆


「はぁああ?『私は2番目でいい』とかなんなん? 本気で好きなら2番目に甘んじなくね? それただただ可哀想な私♡それでもクズな彼を愛しちゃう私♡に酔ってるだけだろきっしょ。物分りいいふりしてんじゃねーよ。悲劇のヒロインぶるなよ。切ない恋っつって美談にすんなよ。自分も蝶野を傷つけてることを自覚しろよ、お前も加害者だよ」

「それな? で、結局『わたし達の仲を認めてください!』って私に言ってくるっていうね」
「はい無理ー。全部俺の地雷」

 今日まで知らなかったが、壬生はお酒が回ると饒舌になるらしい。こんな感じで私がヤツらの話をすると勢いよくぶった切ってくる。それが痛快で面白い。クズの上でタップダンスを踊っているかのような感覚だった。

「なんか最近クズ男子っての? ほら『どしたん? 話聞こか』の奴とか流行ってるけど⋯⋯あれ今も流行ってるっけ? ま、いいや。とにかくあれさ、ただ自分がクズなことに酔ってる男ばっかだろ。真性クズは蝶野の元彼みたいなやつのこと言うんだよ」

「え、待ってそれは自分を正当化したいだけでしょ」
「は?」

 たまに自分に都合のいい解釈を始めるが、それも込で今の私のツボだった。

 今日の最悪な出来事を洗いざらい話終えると、今度は壬生の持論は展開され始めた。

「なんかさー、最近ネットで3年付き合ってた彼とお別れしました的なの流れてきてへぇーって思ってよくよく読んだら不倫カップルだったんよね。えっ無理。不倫してるのを堂々とネットに晒す感覚も理解できんし周りもよく決断した!頑張ったね!ムーブかましてんのキツすぎる。んで同じ不倫仲間が『私もお別れできたら⋯⋯』とかポエムってて鳥肌たった。多分蝶野のクズ元彼の現彼女も同じ人種だと思うから探せばアカウント見つかるのかもね。きしょ」

「それ絶対あるパターンじゃん」
「見つけたら教えてね」
「壬生が探しなよ」

 そして壬生の持論はお酒が進むにつれ色んな方面に向かって喧嘩を売り始めた。

「不倫されたとか自分が浮気相手だったとかそういうドロドロ系の内容を爽やかに歌った曲流行るのもまじで謎。そんで共感できる〜♡エモ〜い♡って軽ーく言う奴もなんなん? ガチで共感出来る境遇にいる奴はそういう系の曲聴くだけでフラバして吐きそうになって純愛ものの曲に切り替えて精神保つイメージあるけど違うん?」

「少なくとも今はどっちも聞く気にならんかな」
「なるほど」

 時にはこうして私の意見を興味深そうに聞いてくれた。

「そもそも浮気とかセフレ込みで大人の恋愛ってまとめるのなんなんだろ。そんなんだから大人はうす汚いってイメージがつくんじゃね? そんでそういう系に20代あるある♡大人の恋愛♡って肩書きつけるのまじで頭悪いと思う。特に浮気入れんなカス。よくあることにすんなよ。世間からどえらい目で見られるぐらい異常なことであれよ」

 こんな感じで中には両親に向けた皮肉もあった。

「ってかさ、少女漫画のヒロインにありがちなライバルちゃんのこと応援するって言ったけどやっぱり私ヒーローくんのことが好き!ってやつ? アレ読む度思うけどヒロイン健気なふりしてなかなかの性格してるよね。みんながみんなバカ正直に誰々が好きって言う必要ないと思うけどライバルちゃんのこと応援するとか言っておきながら裏でヒーローと仲深めて最終的に結ばれるとか普通に性格悪いでしょ。ライバルちゃんかわいそすぎ」

「ごめん何の話?」
「俺の嫌いな人種の話」

 そして3杯目を飲み終わる頃には完全に話が脱線していた。本当に何の話だ。

 人は自分よりも感情を大袈裟に表している人がいると冷静になる、というのは本当らしく、私は今更ながらに周りの目が気になり始めた。一応声をはらないように気をつけていたが、先程ならチラチラと見られている気がする。主に壬生が。

「⋯⋯壬生、もうここ出よ。目立ってる」
「えー⋯⋯」
「いいから。ほら財布出して」
「500円しか入ってないけど」
「は? じゃあ電子マネーは?」
「300」
「チャージしたらどう?」
「手数料かかるからヤダ」
「え、飲もうって誘ったの壬生だよね? ねぇ? 1回殴っていい?」
「普段はそこらのおねーさんに奢ってもらうからタダなの」

 忘れていたが、博人と毛色が違うだけで壬生も相当クズだった。

 ただ、話を聞いてもらった手前1人ここに残すわけにはいかないので、壬生も分も払ってバーを出た。

「まだ飲みたいんだけど」

 人に会計してもらっておいてまだそんなことを言うか。
 でも私も話し足りないので視界に入った居酒屋の看板を指した。

「⋯⋯あそこの居酒屋行く? お金は明日利子付きで返してもらうから」
「俺居酒屋嫌いなんだけど。うるさいし酒臭いし」
「今の壬生なら馴染めるよ」
「どういう意味だよ」

 拗ねる壬生をたしなめながら腕時計を確認すると、当に日付は変わっていて2時半を指していた。
 時間なんて見るんじゃなかった。また日常に戻らなきゃいけないことを思い出したじゃないか。

「あーーーーー働きたくなーーーーい。金だけ湧いてこないかなーーーーーーーー」
「分かるーーーーー」

 棒読みで嘆くと壬生も同調してくれた。

「宝くじ当てて豪勢な暮らししたーーーーーーい」
「今買う?」
「買う」

 今の時代はネットで24時間好きなタイミングで宝くじを引けるから便利だ。その場のノリで1000円分を買う。ちなみに壬生は300円分。

「あ、外れた。蝶野は?」
「えっ、わっ、当たった」
「まじ? 何円?」
「5000」
「浮気の慰謝料ゲットじゃんおめでと」
「だとしたら少ない。この100倍貰っても足りんわ」
「はは、言えてる」

 私もつられて笑うと、街灯に照らされたネックレスがきらりと光った。これは博人が私の去年の誕生日にくれたものだ。

「⋯⋯ねぇ壬生。ネックレスって燃えるっけ?」
「金属なら溶ける」
「そっか」

 なら不燃ごみかと思い、ふらりとゴミ箱の前に立った。ネックレスを外し、ぎゅっと握りしめる。金属に私の体温が伝わり、ぬるくなっていく。その分だけ私の気持ちが乗り移っていくようだった。


 ――私は、博人が好きだった。

 これは紛れもない事実だ。

 博人は頼まれたら断れないし、店員さんに服勧められたらついつい買っちゃうし、ファミレスでメニューなかなか決まらないし、リアクションがワンテンポ遅かったり人に怒れなかったりする。

 でも歩いてたら自然と車道側に立ってくれたし、店に入るときは扉を開けてくれたし、私のハマってるものに興味をもってくれたし、私がナンパされてたら助けてくれた。

 そういう優しいところが全部大好きだった。

 でもその優しさは他の女の子にも向いてたんだね。

 それで私のことは強いから大丈夫って軽んじてたんだね。

 だったらもういいよ。

 私を軽く見る人なんて、私は要らない。


 決別の意味を込めてネックレスを振り上げた。

「博人なんか、博人なんか! 勝手に落ちて勝手に逝っちまえぇ!!」

 思いっきりゴミ箱に投げつけると、いくらか気持ちが晴れた。

 この酔っ払いの行動を静観していた壬生は、いつの間にか隣に立っていた。

「蝶野」
「え、何。酔いが回った?」

 いきなり肩を預けてきたからびっくりした。壬生は動揺する私の顔を覗き込んだ。ほんとに近い。

「いやこの流れでキスしよーかなーと」
「無理」
「だろうね。蝶野のそういう流されないとこすげーツボ」

 いいから離れてよ、と肩で押すとはいはい、と笑われた。その目が嬉しそうに見える。

「残念だけどそれで落ちる私じゃないからね」
「知ってる」

 念を押して言うとまた笑われた。

「俺さー、蝶野の元彼が羨ましかったんだよね」
「え、なんで?」

 突然の告白にこれまた驚く。

「だって蝶野一途だったじゃん。誰に言い寄られても『彼氏いるんで』ってはっきり断ってたし」

 それは当たり前じゃ⋯⋯と言いかけてやめた。壬生にとってはそれが当たり前じゃなったと知ってしまったから。

 壬生は私と一歩距離をとって、続きを紡いだ。

「だから、蝶野を裏切った元彼は地獄に落ちるよ。ついでに浮気女も」
「ならよかった」

 壬生が口にすると本当にそうなる気がするから不思議だ。

 壬生はまるで眩しいものを見るかのように私を捉えた。きっと私に希望を見出しているのだろう。決して恋人を裏切らない、信じられる人がいるのだと。さっきキスしようとしたのも、それを確認するためだ。
 でも私は壬生のことが恋愛的に好きじゃないし、それは壬生も同じだろう。

 ややあって壬生が言う。

「あと、多分蝶野のこと好きになりそう」

 冗談半分の曖昧な予言がおかしくて、いたずらに1歩近づいた。

「私も壬生のこと好きになるかも」

 そっくりそのまま予言し返すと、壬生も破顔して笑った。




『クズを肴に夜ふたり、』〈了〉