最後のデートは遊園地だった。

 きらめくイルミネーションをいつまでも見ていたくて、帰り際に少しだけ泣いた。

 二人手を繋いで辿る家路、ふと見上げた冬の夜空はまるで星が降るようで……

 もう何十年も昔のあの光景を、私はまだ忘れることが出来ない。


 コン、と控えめなノックに私は勉強の手を止める。時計に目をやれば、ちょうど零時をまわったところだった。

 部屋のドアを振り向けば、下の隙間から一冊のノートが差し込まれている。私はそれを胸にぎゅっと抱きしめると、いそいそと机に戻ってページをめくった。

『まゆこへ』

 彼特有の角張った筆跡に思わず微笑む。

『こんな雨の夜は、君が死んだ日を思い出します。まゆこ、君は自分が死んでもどうか他の人と家族を作って幸せになって欲しいと手紙を残してくれたけれど、結局僕には無理な話でした。君のいない十八年間、僕はずっと生きながら死んでいた』

 ……長い長いため息が、しとしとと雨音に沈んだ部屋の空気に溶けていく。私は彼の想いの上に手を置いたまましばらく動けずにいたが、やがて返事を書くべくペンを手に取った。

誠一(せいいち)へ』

 愛しい名前をゆっくりと、刻み込むように。

『今丁度、あなたと行った遊園地のことを思い出していました。もう一度、一緒にあの観覧車に乗りたい……』


理沙(りさ)ー! さっさと起きなさい、遅刻しても知らないからねー!」

 階下から飛んできた母の声で私は重い体をむくりと起こした。眠い目を擦り擦り、リビングへ向かう。

「ほら、さっさと食べちゃいなさい。智樹(ともき)はもうとっくに準備出来てるわよ」

 正面に座る兄はこちらを一瞥もせずコーヒーを飲んでいる。私も俯くようにして無言で食べ始めた。

「あんた達ねえ、毎朝毎朝、おはようの一言くらい言ったらどうなの?」

「……行ってきます」

 母の小言を遮るように椅子を鳴らして兄が立ち上がる。

 バタンと音を立てるドアを見やり、母はため息をついた。

「昔はあんなにベッタリだったのにねえ。まあ年頃の兄妹なんてそんなものか」

 違う。そんなありふれた話ではない。誰にも言えない、あのノートに綴られた二人だけの秘密が、私たちの口を閉ざすのだ。

 まゆこ。閉じられた世界で彼が呼びかけるその名前は、私の前世のものだった。


 今から四十年前、私と同じ十六歳のまゆこは誠一という同級生に出会った。二人は惹かれ合い恋に落ちて……結婚式の直前、まゆこの死を以てその愛の物語に幕を下ろした。享年二十四だった。

 物心ついた頃からその記憶を持っていた私は、やがて兄もまた誠一の記憶を受け継いでいることを知ったのである。

 恋人達の思いがけない再会は、けれど喜ぶにはあまりにも大きな障害が立ちはだかっていた。

 ちょっとした癖や仕草、大好きだった笑い方……諦めるしか術がないと分かっていても、心は兄の中に誠一を求めてしまう。誠一として見てしまう。それは兄も同じだったようで、ある時こう提案してきた。

「これからはこのノートでやり取りをしよう。昔に戻るのはこの中でだけ。その他の場所では、俺達は普通の兄妹だ」

 どうして兄妹として生まれてきてしまったのだろう。兄が誠一とわかった日から、何度も繰り返した疑問だ。

 もし、他人だったら。

 そうすればもう一度やり直せただろうに。幸せで幸せでたまらなかった、あの、まゆこの時間を……


「理沙、理沙ってば!」

 ポンポンと肩を叩かれてはっと顔を上げる。

「もう、聞いてなかったでしょー」

「ごめん陽菜(ひな)。何だったっけ?」

「だからぁ、昨日先輩が二組の子と帰ってるの見ちゃったんだってば! もうどうしよう、私失恋しちゃうかもー」

 言うなりわあっと顔を覆う。部活の先輩に片想いしているというこの友人を中心に、彼氏への愚痴や惚気を抱えた女の子も寄り集まって、最近の昼休みは決まってこういった話題で盛り上がっていた。

「もう思い切って告白しちゃえば?」

「えーっ、そんな勇気ないよー! それにもし振られちゃったら部活でもやりにくいし……」

 きゃあきゃあと騒ぐ彼女達は叶わぬ恋の悩みさえこの年頃特有のきらめきに変えて、綺麗なかけらとして足元に振りまいていく。報われるとも報われずともしばらく後の未来には、きっとそれらを穏やかに振り返りながら微笑むのだ。

 それが分かっているからこそ、余計に羨ましさが胸に溢れた。

「……いいな」

 無意識のうちに零れていたようだ。さっきまで嘆き合っていた陽菜たちは途端わくわくと目を見開いてこちらに注目した。

「えっなにそれ、理沙好きな人いるの?」

「誰? 私の知ってる人?」

 誠一って名前なんだよ。とっても優しくて、私のこと大事にしてくれるの。婚約もしていて……でも、もういないの……

 言ってしまえたらどんなにいいだろう。私は膝の上の手をギュッと握り込む。早く家に帰りたい。帰って、あの二人の世界に……

「ダメダメ、お子様の理沙ちゃんには彼氏なんてまだ早い」

 後ろから髪をぐしゃぐしゃと撫でられる。振り向くと、幼なじみの優太が立っていた。

「ちょっとやめてよー! ボサボサになっちゃったじゃん」

「どうせ今日もギリギリに起きてセットなんかしてないんだろ? あっほら、寝癖」

「ついてません! もうあっち行っててよ! しっしっ」

 ちぇっと唇を尖らせて自分の席まで帰っていく。やり取りを終えてみんなに向き直ると、何やら顔を寄せてヒソヒソやっている。

「ねえ、柳田(やなぎだ)ってさー、絶対理沙のこと好きだよね」

「それ思った! 何かと絡んで来るしさぁ。小学校からの付き合いなんでしょ? 幼なじみラブってやつ?」

「そんな訳ないじゃん、あいつ誰にでもあんなノリだし、ただの腐れ縁だよ」

 ええー、と不満げな声がチャイムに重なる。渋々と離れていくみんなに、とりあえず話題がそれてよかったと大きく息をついた。


「よっ」

 放課後。靴箱の影からいきなり顔を出した優太に、私は靴を取り落としそうになった。

「ちょっと、びっくりさせないでよ」

「逆になんでそんなに驚くんだよ。一緒に帰ろうぜ」

「いいけど……」

 優太とは家の方向が同じだ。特に用事がない限り、こうやって一緒に帰っている。

『柳田ってさー、絶対理沙のこと好きだよね』

 頭に浮かんだ陽菜の台詞に、分かってるよと返事をする。

 本当は分かっていた。優太が自分に好意を持ってくれている事。

 私と一緒に帰るためにわざと教室を出るタイミングを合わせていることも、話しかけてくる時のちょっと照れたような顔も。そしてそれを、「理沙」は満更でもなく思っていることも……


 そっと横目で見ると、優太は嬉しさを隠そうともしない笑顔でたわいもない話を続けていた。

 優太の横にいると安心する。そう思う一方で、私の中のまゆこが違う、違うと否定する。あの人とは全然違うと。そして私の本心は、泣きながら首を振るまゆこにいつも乗っ取られてしまうのだ。

 このままじゃ駄目だ。誠一への恋心に埋め尽くされた中に少しだけ残る理性でそう自覚する私は、一つ、ずるい賭けをしていた。

 ――もしも優太に告白されたら、その時は誠一の事を忘れよう。

 我ながらひどい発想だと思う。けれどこうやって外側から強制的に変化を促さなければ、私は永遠にまゆこを手放す勇気が出せそうになかった。

「あのさ、ちょっと聞いてもいいか」

 急に神妙になった声に、私はドキリと体をこわばらせる。

「昼休みの事なんだけど、理沙、あれからちょっと様子がおかしいよな……沢田達が言ってたの、本当?」

「陽菜が言ってたのって……」

「理沙に好きな人がいるって話」

 息を飲む。こんなにはっきりとした単語を優太が使うのは初めてだ。足を止めた私に優太が振り返って向かい合う。

「俺の知ってる奴?」

 震える足がすくんで動かない。本当は今すぐここから逃げてしまいたいのに。

「今まで言えなかったんだけど、俺」

 やめて。やめて。言わないで。まだ終わらせたくない。

「理沙のことがずっと好きだったんだ」

 私たちの歪な、愛しい時間を……


 誠一は四十二歳の時、交通事故で死んだという。

 昨夜のノートに書いてあった通り一人で生きてきた彼は、死ぬ間際にホッとしたのだと語ってくれた。これでやっと、まゆこに会えると。

 初めてそれを聞いた時は嬉しかった。生前、彼に幸せになって欲しいと言ったのは自分のくせに、彼の人生を占めるのが自分だけだったという事実に、どうしようもないほどの喜びを覚えた。

 賭けとして決めていたとはいえ、本当にこんな想いが目の前の幼なじみと付き合うことで消えるのだろうか。いざその局面になってみると戸惑いしかない。それ以前に優太と付き合う資格なんてないだろう。

 ノートの中でだけ与えられる、『愛してる』の文字に毎晩縋るような気持ちでいる、こんな私に。

「返事は今じゃなくていいんだ。ごめん、いきなりこんな事言って困らせただろうけど……俺、本気だから。少しでも恋愛対象として考えてもらえたら嬉しい」

 何も言えずに俯く私に、優太はそれ以上何も言わなかった。静けさが心を押しつぶす。

 夏の面影が消えた風は、もう随分と冷たくなっていた。

「……あ」

 優太の呟きにつられて顔を上げて……息が、止まるかと思った。

 目の前に兄がいる。掠れたオレンジに伸びる彼の影が、私の足首にそっと触れていた。

「あ……智兄、久しぶり」

「久しぶり」

 どこから聞いていたのだろう。涼しい顔で答える兄に、泣きたい気持ちになる。

「じゃあ理沙、また……えっと、月曜日に」

 優太は気まずそうに笑って、足早に角を曲がっていく。振り向くと兄の姿はもうどこにもなかった。


 重い足取りで帰宅すると、リビングは別の話題で持ち切りだった。

「あら、おかえりなさい。ねえ理沙聞いて。智樹、K大の指定校推薦取れたんだって」

「まだ学内選考に通っただけだよ」

 ぶっきらぼうに言う兄は、こちらを見ようともしない。

「もう受かったようなものじゃない。良かった、今夜はお祝いね」

 うきうきとキッチンに向かう母をよそに、こわばった空気の中2人取り残される。

「……よかったね。おめでと」

「ありがとう。母さんはちょっと気が早すぎるけどな」

 口元だけで笑う兄に、こんな兄妹らしい会話をするのはいつ振りだろうとぼんやり思っていた。


 幸せムード一杯の食卓に耐えきれず、先に部屋に戻った私はそのままベッドに倒れ込んだ。

「東京の大学かあ……」

 ここからだと、電車を乗り換えて飛行機に乗って……

「遠いなあ……」

 簡単に会いに行ける距離ではない。

 優太からの告白。春から東京へ行く兄。まるで神様が諦め時だと言っているようだ。私は枕に顔を埋める。

 終わらせるにはどうすればいい? 私は誠一を好きなだけであって、自分の兄とどうこうなりたいわけじゃない。いや……誠一はすなわち兄なのか。もう自分でもよくわからない。

 トントン、と階段を上がってくる足音が聞こえた。それは廊下を歩くと私の部屋の前を通りすぎて、隣の部屋に入っていった。兄だ。

「そうだ、ノート渡しておかなきゃ」

 起き上がって部屋を出る。誰もいないことを確かめて、ノックを一回。それから下の隙間にノートを差し入れて……

儀式のようないつもの行為。けれど今日はその瞬間、向こう側から扉が開いた。

「……理沙」

 兄が立っている。こわごわと顔を上げると、真剣な眼差しがこちらを真っ直ぐに見つめていた。

「明日空いてるか」

「う、うん……」

「じゃあ一緒に出かけよう。もう一度あの場所に」

 何も言えないでいる私に、兄は視線をそらさないまま言う。

「俺達が最後に出かけたあの遊園地。昔二人で過ごしたあの街へ行こう……誠一とまゆことして」


 最寄りの駅から電車に揺られること二時間。私たちが大切に大切に心に閉じ込めてきた思い出の地は、案外すぐに行ける距離だった。

 段々田んぼと畑だけになる窓の外に、すごい場所だなと隣に座る兄は苦笑している。

 どうして今日まで来なかったのだろう。流れていく景色をぼんやり見ながらそう考える。ノートの中ではあれが懐かしいこれがもう一度見たいと散々言い合っていたのに。その気になればいつだって来れるその場所に、けれど今まで避けてきたのはやっぱり怖かったのだろうか。大切な宝物のような場所に、土足で踏み込んでしまうのが。

――土足?

 私は今の自分を汚れた靴だと思っているのだろうか。現世と前世は違うのだと言い聞かせてきたつもりだったけれど、いつの間にか理沙を押し退けてまゆこが本体になっていたのだろうか……

「まゆこ、次で降りるよ」

 兄の……いや、誠一の声で我に返る。駅に着いたら私達は、今日一日だけ昔のままの恋人同士だ。

 やがて改札もない、こぢんまりとした無人駅に降り立った私は、震える唇でああ、とため息を洩らした。

 懐かしい。なんて懐かしい。私がまだまゆこだった頃、毎日のように利用していた馴染みの駅だ。

「すごい。なんにも変わってない。全部あの頃のまま、ね……誠一」

 涙ぐむ私を甘やかな瞳で見つめ、誠一はそっと手を差し出す。一瞬ためらいつつも、私は手を伸ばしてそっとそれに重ねた。

「じゃ……行こうか」

 ひと回り大きな温もりが私を包み込む。

 ああ、帰ってきた。やっと帰ってきたのだ、私達の愛しいあの時間に。私の歩調に合わせてゆったりと歩く長い足も、見上げればいつも柔らかい微笑みをくれたその眼差しも、この胸のときめきも、何もかもが……

「ああほら、まゆこ。この道覚えてる?」

「覚えてる。高校の通学路だ……」

 一言一言噛み締めるように言葉を返す。駅を出て細い一本道を真っ直ぐ行くと、踏切の向こうに急な坂道が現れる。毎朝誠一と自転車をうんうん押しながら登っていたそのてっぺんに、私たちが通っていた高校があった。

「わあ、変わっちゃったなあ……」

 フェンスの向こうの白い校舎は、記憶していたものと随分姿が違う。

 と、おもむろに誠一は例のノートを取り出すと、ページを開いてクスクスと笑い出した。

「ああ、確かに変わっちゃったね」

 覗き込むとそこには私の描いた高校の絵。

「あー! それもうやめてよー!」

「ははは、さすが画伯。相変わらず腕は落ちてないようで」

 取り上げようとした私の手をかわして彼が笑う。昔もよくこうやってじゃれ合うように喧嘩してたっけ。美術の時間なんて、いつも隣に来てはからかって……

「うわっ」

 思いっ切り伸び上がった瞬間、足首ががくんと崩れた。バランスを失って身体が傾く。

「おっと」

 思わずギュッとつぶった目をゆっくり開くと、力強い腕に肩を支えられていた。思いがけず近づいたその距離に、どくんと心臓が跳ねる。

「まったく……そういうドジな所も、変わってないな」

「ご、ごめん……」

 慌てて体を引いたその瞬間、目の前の顔が何かに耐えるようにグッと歪むと……肩を引かれ、そのまま温かい胸に強く強く抱きしめられた。

「せ……誠一……」

 私の呼びかけに応えるように、より強く腕に力がこもる。ドクン、ドクンと彼の鼓動が押し当てた耳から私を震えさせる。

 ……これは終わりの旅だ。

 前世の恋を終わらせる旅。私は腕を彼の背に回して抱きしめ返す。

 昨夜部屋の前で目を合わせた瞬間から、ちゃんと分かっていた。分かっていて、ついてきた。

「誠一」

 ねえ、私やっぱりドジだね。あれだけ生まれ変わったらまた会いたいって願ってたのに、妹なんかに生まれてきちゃって。

 だいたい私の方が先に死んだんだから、せめて姉だろうに。

 きっとあの世でぼんやり待ちくたびれているうちに、先に誠一が生まれ変わっちゃって慌てて後を追いかけたんだ。ほんとに、ドジにも程があるね……

 泣き笑いの言葉は、けれど声にはならず、私はただ黙って彼を抱きしめ続けていた。


 通行人のジロジロとした視線に、誠一はようやく私を解放した。

「ごめん、そろそろ行こうか。日が暮れちゃうな」

「うん……」

 離れていく温もりが寂しい。ゆっくりと歩き出した私たちの間で揺れる指先が、一瞬微かに触れて離れて、それからどちらからとも無く絡め合った。

 毎晩のやりとりの中、二人で書き込んだ地図を見つつ、遊園地を目指す。坂を下って暫く行けば、懐かしいはずの町並みは随分と様子を変えていて、私たちは目印となるものを探してウロウロとさ迷った。

「見て誠一、こんなところにスーパーなんてなかったよね? 前は何があったんだっけ」

「さあ……もう忘れちゃったな」

 歩けば歩くほど知らない町だ。心細さに、私はしがみつくような思いで繋いだ手に力を込める。あの頃の思い出を探しに来たはずなのに、私たちの拠り所に帰ってきたはずなのに、まるでがらんどうに二人きり、放り出されてしまったようだ。

「たしかこの先のバス停から乗り込んで五つか六つ行ったところだったと思うんだけど……参ったな、どこ行きに乗ればいいんだか」

「大学病院……」

 呟くのは、私が死んだ場所。

「あの日バスに乗りながら、ああ、次にこれに乗るのは入院する時なんだなあって思ったの、よく覚えてる」

 やがてやって来たバスに乗り込んで、一番後ろの席に並んで座る。手を繋いだまま、私たちは黙って窓の外を見つめていた。

 二人の目の前は行き止まり。けれどそこにはもう一つ別れ道がある。今の理沙と智樹を捨てて、永遠にこのままでいること。ノートを介して愛を語り合い、人生が終わるその時まで二人きり、過去だけをなぞっていくこと。

 まるで心中のようだ。

「ねえ誠一、遊園地についたらいっぱい乗り物乗ろうね。観覧車にも乗ろうね」

「ああ」

 生きていながら、共に死ぬこと。

 それはなんと甘美な夢なのだろう。これから乗る観覧車のように、閉じられた世界に二人きり、宵の中にキラキラと光って……

 私はそっと目を閉じる。あの日のきらめきが瞼の裏に広がって、いつまでも輝き続けていた。


 嫌な予感は目的の停留所についた時からしていた。歩いても歩いてもテーマパークがあるような気配がないのだ。

「バス停、一つ間違えたかな」

 誠一は苦笑するけれど、あれだけ大きな観覧車がどこにも見えないのはおかしい。

 と、見覚えのあるドームを見つけた。たしかこの向かいに遊園地があったはず。けれどどう見ても、目の前にあるのは巨大なショッピングセンターだった。

「あの、すみません。この辺に遊園地があったはずなんですけど……どこか分かりますか」

 誠一が通りすがりの女性に声をかける。たちまち怪訝な顔が返ってきた。

「遊園地? もしかしてドリームランドの事ですか? それだったらとっくの昔に無くなっちゃいましたよ。ほら、あのショッピングセンター、あれが代わりにできてね……」


 目の前が真っ暗だ。色を失った世界を、ただ誠一の手に引かれるままとぼとぼ歩く。私たちは互いに何もかける言葉を見つけられず、ひたすらに口をつぐんで自分の影に目線を落としていた。

 行くあてもなく、しかし戻る気にもならず、知らない街をうろうろと彷徨い歩く。あれだけ晴れ渡っていた空も橙に霞み、気がつけば辺りは深い藍に染まり始めていた。

 と、爪先に感じた痛みに私は立ち止まる。私たちの繋がりがくんっと引っ張られ、目の前の彼も足を止めた。

「どうした?」

「……足が痛い」

「ああ、一日中歩きっぱなしだったもんな。ちょっと座るか」

 脇道にそれたところに小さな公園が見える。水道とブランコしかない、ひっそりとした秘密基地みたいな空間だ。

 長いこと誰も揺らしていないだろう錆びたブランコに私を座らせると、誠一はその足元に跪いた。

「見せて」

 痛む右足をツイと差し出すと、大きな手が靴下を脱がせる。少しばかりの恥ずかしさに、私は顔を逸らした。

「ああ、ちょっと擦りむけてる。まゆこ、絆創膏持ってるか?」

 私から受け取ったそれを貼る手つきはどこまでも丁寧で、なぜだか鼻の奥がツンとする。

「ごめんな、気づけなくて」

 黙って首を横に振る私に、誠一は悲しげに笑いかけると、キイ、と軋んだ音をたてて隣に座った。長い沈黙。

「……ごめんな」

 最初に口を開いたのは誠一だった。

「どうして謝るの?」

「観覧車、乗せてやれなくて」

 約束したのにな、と呟く声が寂しい。

「仕方が無いよ、なくなっちゃったものはどうしようもないもん。それに今日ここに来たのだって、元々……」

 うん……と静かな頷きが闇に溶ける。口に出さなくても分かっていた。私たちの恋が今夜ここで終わることを。この小さな公園が、旅の終着点。

「誠一、私ここに来れてよかったよ。そりゃ随分色々と変わっちゃってたけど、私たちが過ごした思い出の場所なんだし。これでもう」

 悔いはないよ。続く言葉は、けれど喉の奥に詰まって息を塞いだ。代わりのように涙が溢れて止まらない。

 決心してきたつもりだった。けれどバスの中で夢見た甘美な世界はあまりにも幸せで、あまりにも離し難くて。あまりにも……

 ガシャン、と鎖のぶつかる音が響く。

「嫌だ、別れたくない。好き、誠一、大好き。大好き……」

 衝動のままに誠一の胸にすがりつく。彼は一瞬体を震わせて……強く強く力のこもった腕で私を抱きしめ返した。

 確かにここに私たちは存在するのに。こんなにも昔のまま。けれど私たちの帰る場所はもうないのだ。二人きり閉じこもる場所も、共に死ぬ場所も、もうどこにも。

 どうにもならない現実に、二人声を上げてただ泣き続けた。そういえば前世でも、こうやって身を寄せあってよく泣いたっけ。「まゆこの死」という現実に。

私がいなくなった後も誠一は一人ぼっち、こんな風に涙していたのだろう。

 全てが終わる今、二人一緒に最後の時を迎えられるのは、人生越しの願いがひとつ叶ったと言ってもいいのかもしれない。

そっと身体を離す。流れ込んできた冷たい空気が、涙に濡れた頬をひんやりと撫でていった。

「最後に言わせて」

 柔らかに滲んだ鳶色の瞳が私を見つめる。

「大好きだよ、まゆこ。ずっと、ずっと愛してた」

 大切な言葉を閉じ込めるようにゆっくりと瞬きをして、私はこくりと頷いた。

 触れるか触れないかで額を擦り合わせると、それを最後に私たちはそれぞれのブランコに座り直す。

 と、何気なく見上げた夜空に私たちは同時にわあ……と息を飲んだ。

 頭上には満天の星が広がっていた。澄んだ漆黒の空に、まるで息づくように星々が瞬いている。

「すごい……」

「うん、綺麗だね。まるで星が降ってくるみたいだ」

 ああ、あの時と同じだ。あの日の帰り道、二人で同じ空を見上げた。同じ会話をして笑い合った。

 ……やっと見つけた。微笑んだ頬に涙が伝う。

 やっと見つけた、二人の思い出。もう二度と帰ることはできないけれど、それでも最後に見られてよかった。この、まるで降るような星空を……

「そろそろ帰ろうか。母さん達が心配する」

 兄が腰を上げてこちらを振り向く。

「そうだね」

 頷いて、それから私はあっと声をあげた。

「ねえ、あのノート貸して」

 受け取ったノートの表紙を一撫ですると、さっきまで座っていたブランコの脇にそっと置く。弔うようにしゃがんだままの私を、兄がじっと見ていた。

「もういいの?」

 やがて立ち上がった私に兄が問いかける。

「うん。これは持って帰れないからね」

「そうか」

 ごみ箱に捨てる勇気は、まだ持てないけれど。

「行くか」

「うん」

 ゆったりと歩き出す兄の後ろについて公園を出る。

「そういえば理沙、お前優太の事どうするんだよ」

「うーん、ちょっと考えてみるつもり」

「そっか……まあちょっと抜けてるとこあるけど割といい奴だからさ、アイツ」

「うん、知ってる」

 歩みを進める並んだ足が、今日の一日を上書きしていく。

 駅まで戻る道すがら、兄妹として止まった時間を埋めるように、私たちはいつまでもいつまでも話し続けていた。

 もう、手は繋がなかった。