蝉の鳴く声が重なり合って、窓の外でこだましている。部屋の中にいても分かるほど強い直射日光。熱気でぼやける庭の景色。コップから滴り落ちる透明な水滴と、低く唸る扇風機の音。不規則なシャープペンシルの音が、二つ。
そのうち一つがゆっくりと速度を落とし、やがて空気の中に消えていった。
「もうむり。ギブ」
わたしはシャープペンシルを手から離し、匙を投げるように机に突っ伏した。小一時間座りっぱなしのせいで腰が痛い。もうこのまま眠ってしまおうか。頬が冷たくて気持ちがいいし、課題が終わる気配もないし。落ちそうになる目蓋を阻んだのは、聞き慣れた声だった。
「どこ?」
わたしはちょっとだけ頭を上げて、無造作に広げたテキストを指差した。
「ここ。全然分かんない」
反対側からでは見づらかったのか、奏真はわたしの隣に移動して、まじまじと数式をのぞき込んだ。数センチの距離に奏真の横顔がある。ああ、意外とまつげ長いんだなぁ。近くにいすぎて気づかなかったけど、よく見るとかわいい顔立ちをしている。そういえば、昔から近所のおばちゃんたちに人気あったもんなぁ。
「……そしたら、こう。……なぁ、聞いてる?」
「え?」
はっと我に返ると、奏真がじろっと目を細めてこっちを見ている。ノートにはびっしり解説が書き込まれていた。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「せっかく教えてやったのに。じゃあ、もう一回な」
これはXに3を代入して……と、普段からは想像もできないほどすらすらと問題を解いていく。わたしはなんとか理解しようと、真剣に耳を傾けた。言われた通りの順序でシャープペンシルを動かす。
「……できた」
「だろ?」
「すごい、すごいね奏真。こっちも教えて」
「ん、こっちはこう。この式を展開すると、こうなる」
「じゃあ、これ」
「うーん、これは……」
次々と問題を解いていく奏真の手がぴたりととまった。じろりと不審そうな目でわたしを見る。
「もしかして、全部おれにやらそうとしてない?」
わたしは唇を尖らせて、奏真から目を逸らした。奏真はしかたないなぁーと息を吐いて、大きく伸びをした。
「ちょっと休憩する?」
「する!」
わたしは大きくうなずいて、久々に手に入れた自由を大きく吸い込んだ。ずるずると扇風機の前まで這っていき、あああああーっと無意味に声を出してみる。ゆらゆら揺らいだぶさいくな声が反響する。見慣れた部屋。いつものわたしの部屋。違うのは、奏真がいることだけ。
天体観測から二週間後。夏休みに突入したわたしたちは、気が遠くなるほどの課題を一つ一つ片づけていく作業を進めていた。高校生の男女が部屋でふたりきり。この前までならちょっと抵抗した。でも今は何もおかしくない。
わたしたちは、付き合っている。
「そうだ、こないだの写真現像したんだ。データで送ろうとも思ったんだけど、せっかくなら、と思ってさ」
すっかり休憩モードに切り替わった奏真が、カバンから封筒を取り出した。さっきまでノートが広げられていた机の上に、溢れんばかりの写真が並べられた。
「わぁ、すごい……!」
視界を埋め尽くした数々の写真を見て、疲れはどこかに吹っ飛んでしまった。まるで現実世界を閉じ込めたような仕上がりだ。透き通るような風景も、りせの笑顔も、すべてが生き生きと写っている。木々の揺れる音や川の流れる音、笑い声まで聞こえてきそうだ。わたしはそのうちの一枚を手に取った。夜空に浮かぶ無数の星がきらきらと輝いている。
「きれいに撮れてるね。星空撮るのって難しいんだよ」
「雫に教えてもらったおかげだよ。ほら、りせと雫もたくさん撮ったよ」
「ほんとだ」
示された先にある写真を見て、自然と笑みがこぼれた。ふたりでポーズを決めている写真。いつ撮られたか分からないような、何気なくおしゃべりしている写真。日常の一コマ一コマが、鮮明に、生き生きと切り取られている。
ふと、机の上にある一枚の写真が目に留まった。壊れものに触れるようにそっと、その写真を手に取る。薄暗闇の中、肩を並べて星を眺める柊さんとりせの姿。きっと見知らぬ誰かがこの写真を見たら、間違いなく勘違いするだろう。
「こうして見ると、ほんとにカップルみたいだよなぁ」
「うん……」
奏真の声が、右耳から左耳へと抜けていく。一枚一枚確認するように、ふたりが写っている写真を目で追っていく。わたしとの写真ももちろん楽しそうだけれど、その笑顔とは違う。もっと幸せで、もっと楽しくて、もっと繊細。幸せの先にある何かを悟ったような、そんな微笑みだ。
りせの笑顔はすきだ。太陽のように、ぱっとまわりが明るくなる。りせが楽しいとわたしも自然に笑ってしまう。だけどこの写真に写っているのは、どれもこれも、危うい儚さを持った笑みばかりだ。
どうしてそんな顔をするの。涙の理由は分かる。悲しいから人は泣くんだ。だけど、この笑顔の理由はなんだろう。何がそんなに悲しいんだろう。
「そういえば、奏真が全然写ってないね」
「あー、おれはずっと撮る側だったから」
数十枚もある中で、奏真が写っている写真は一枚もない。奏真は大して気にしていないようだけれど、なんだか申し訳なくなった。
「奏真も撮ってあげればよかったね。ごめん」
「いいんだよ。写るのより、撮る方がすきだし」
「そっか」
あ、わたしと同じだ。共通点を見つけて、心の中でそっと笑った。
わたしも昔から、写真を撮られるより撮る方がすきだった。自分の顔立ちがすきじゃないから、自分の姿を見るのがいやだった。この世にはわたしよりもきれいな人がいる。きれいな風景がある。だから、わたしはきれいなものを撮りたかった。ほら、きれいでしょ。そう自信を持って言えるものを撮りたかった。
「なぁ、今度ふたりでどっか行こうぜ」
「どっかって?」
「水族館とか、プールとか。映画とかもいいよな」
「でも、どこも写真撮れないじゃん。何しに行くの?」
「何言ってんだよ。そりゃ、写真も撮りたいけどさ。おれたち付き合ってるんだろ?」
「……うん、まぁ、たぶん」
「だったら、デートしようって話。せっかくの夏休みだしさ」
デート。なじみのない単語に、わたしは目をぱちくりさせた。頭の中で咄嗟に辞書をめくる。デート。親しい男女がふたりで出かけること。ああ、そうか。デート、デートね。
奏真は何枚かの写真を手に取って、「やっぱきれいに撮れるよなー」と早速話題を変えている。その楽しげな横顔が、なんだか余裕の表情にも見える。
「……デートって何するの?」
「ふたりで出かける」
「それ、付き合う前からしてたよね」
「うん。まぁ、そーいうこともあるよな」
「じゃあ、別に今までと変わんないじゃん」
「変わるだろ。付き合ってるんだし」
奏真がようやく顔を上げた。大きな二つの目に、まぬけな顔のわたしが映っている。
扇風機の音が、ごおおおと強まった気がした。蝉の鳴き声が警告音のように大きくなって、耳の奥をつんざいていく。
あ、なんだか。
吐息、が、交わりそう。
「……奏真って、今まで付き合ったことあるの?」
「あるよ。中学の時」
「えっ」
「初めて付き合ったのは小五だけど」
「えっ、えっ」
「何だよ、その反応。絶対失礼なこと考えてるだろ」
奏真は机に置いてあったコップを手に取り、ぐいっと麦茶を喉に流し込んだ。絶え間なく襲いかかる衝撃的な事実。放心状態になりながら、わたしもつられてコップを手に取る。溶けかけの氷が喉に引っかかって、むせ返りそうになった。
「告白したの? されたの?」
「うーん、したことはないな。告白されて、まぁいっかなって」
「それって、そんなにすきでもなかったけど、とりあえず付き合ってみたってこと?」
「まぁ、そうだな」
「それってどうなの? 向こうは奏真のことが本当にすきだったんでしょ?」
そこまで言って、はっとした。奏真に向けたはずの言葉は、見事に自分に跳ね返ってきた。投げたナイフが心にぐさぐさと刺さって、罪悪感という痛みが広がる。わたしだって似たようなもんだ。別に告白されたわけじゃない、と、思うけど。……あれ、じゃあ何で付き合ってるだろ、わたしたち。
奏真はうーんと考え込むように腕を組んだ。
「付き合ってすきになるかもしれないかなと思って。ただの友だちのままでは分かんない、その人のいいところが見つかるかもしれないじゃん。気遣いができるとか、優しいとか。愛情ってやつが見えやすくなるっていうか……うまく言えないけどさ」
「……そんなもん?」
「どうだろ。考え方は人それぞれだと思うけど。若いうちにいろんな経験しとけって、ねーちゃんが言ってた」
「お姉さん、結構年離れてたよね。何歳だっけ」
「今年で二十八。大人になったら、軽々しく恋愛なんてできないんだからって言ってた。学生のうちにしかできないことをたくさんしなさいって。遊びも勉強も」
わたしはまったく新しい数式を教えられたような気持ちになった。そういう考え方もあるのか。思ったより奏真の考えがしっかりしていたことにびっくりした。今まで子供だと思っていたけど、奏真の方がずっと大人だ。それなのにわたしは、自分のエゴで奏真を利用している。ずるい、情けない。恥ずかしい。
何も言えずに目線を落としたら、柊さんとりせの写真が目に入った。一枚、二枚、三枚……数え切れないくらいの、ふたりの笑顔。
奏真の言いたいことは分かるよ。分かるけど。わたしは両手を強く握り締めた。じゃあ柊さんは? りせのことどう思っているの? りせを受け入れて、そのあとは? 小咲さんのこと、どう考えてるの?
――いつか、りせを突き放すの?
「雫」
「え?」
名前を呼ばれて顔を上げた。奏真の顔がものすごく近くにあった。っていうか、近すぎて顔全体が見えない。真剣な瞳に吸い込まれそうになる。なに、何なのこれ。
「ちょ、ちょっと!」
わたしは咄嗟に奏真を突き放した。どんっ、と鈍い音がして、「いたっ」と奏真が声を上げた。どうやらクローゼットに頭をぶつけたらしい。
わたしはベッドに逃げ込み、怯えた猫のように布団にくるまった。
「な、な、何すんの!」
「いや、恋人っぽいこと、してみようかなって思って」
奏真が頭を押さえながら立ち上がった。一歩一歩、距離が縮まる。奏真の手がベッドに沈み込んで、スプリングがぎしっと軋んだ。
「だめ?」
「いや、だめっていうか……」
わたしは言葉を濁し、逃げるように目を逸らした。どうしよう、よく知っているはずなのに。昔から知ってる男の子なのに。なんだか知らない男の人に見える。
奏真の顔が近づいてきた。心臓がばくばくとうるさい。どうしよう、付き合ってるし、彼氏なんだし、受け入れるべきなのかな。付き合っているのに何もしない方が変なのかな。だったら、いや、でも――
「……ごめんっ!」
わたしは奏真の肩に両手をついて、弱い力で押し返した。
「やっぱ、まだむり……」
緊張で声が震えた。室温が二度くらい下がったみたいだ。奏真はベッドから離れ、すとんと床に座り込んだ。
「いいよ。おれもいきなりごめん」
おそるおそる顔を上げると、奏真はちょっと申し訳なさそうに笑っていた。わたしはほっと息を吐いた。ああ、よかった。いつもの奏真だ。
「せっかく付き合ったんだから、特別なことしたいなって。でも、さすがに早かったよな。おれたち、恋人ってより友だちって感じだし」
「う、うん」
わたしはどぎまぎしながらうなずいた。被っていた布団から出て、奏真の隣に腰を下ろす。奏真の手が、優しくわたしの頭に触れた。子供をあやすように、ぽんぽん、と軽く叩く。
「おれは単純に雫といるのが楽しいし、すきだからさ。とりあえず、今度出かけてみない? 写真も、アドバイスくれると嬉しい」
「うん……ありがと」
なぜだか瞳が潤むのを感じて、うつむいた。自分の情けなさが悔しくて、きゅっと唇を噛む。
何でだろう。奏真のことはきらいじゃないのに。わたしたち、付き合ってるのに。どうして何もできないんだろう。
蝉の声が騒々しさを増した気がした。コップの中の氷が、臆病なわたしを嘲笑うように、からん、と音を立てて溶けていった。
結局課題は予定の三分の一しか終わらず、恋人らしいこともしないまま、わたしたちは解散した。
夜。お風呂上がり。火照った体を冷ますためベランダに出ると、大きな満月が、空にあいた穴のように浮かんでいた。うさぎが餅をついているとか、大きな蟹だとか諸説あるけど、濁ったわたしの瞳にはただの幾何学模様にしか見えない。
はぁーっとありったけの息を心から吐き出す。だめだ、胸に鉛が詰め込まれたみたいだ。自分の幼さに腹が立つ。
恋人ができたら、りせの気持ちが少しは分かると思っていた。だけど結局何も変わらない。早く大人になりたいのに。少しでもりせに近づきたいのに。どうしてこんなにうまくいかないんだろう。わたしはいつも、溺れる鳥のようにもがくことしかできない。
ふと、庭の隅っこにある離れが目に入った。相変わらず明かりはついていない。そういえば、天体観測の日からりせを見かけていないな。こんなに近くにいるのに、わたしたちの距離は相変わらずだ。わたしもりせも、積極的に「会おう」と声をかけるタイプじゃないから、仲よくなっても会う頻度は変わらないのだ。
りせは元気だろうか。こんなに近くにいるんだから、会いにいってみようかな。そんな思いつきで、わたしは離れを訪ねることにした。
庭に出ると、生ぬるい風が全身に絡みついてきた。あれほど艶やかに花を咲かせていた桜は、もうすっかり青葉になっている。時が少しずつ進んでいる証拠だ。
わたしはちょっと緊張しながら、離れの扉を軽くノックしてみた。しん、と沈黙が帰ってくる。やっぱり今夜はいないのだろうか。諦めて帰ろうとしたら、扉の向こうで物音がした。そのまましばらく待っていると、警戒するようにじわじわと扉が開いた。
現れたりせの顔を見て、ぎょっとした。かわいらしい二つの目は、暗闇でも分かるほど赤く充血している。クマもひどいし、髪もぼさぼさ。いつものりせとは別人みたい。
「ど、どうしたの?」
「拗ねてるの」
りせはぶっきらぼうに答えると、ふいっと背中を向けて部屋の中に戻っていく。わたしは慌ててりせに続いて扉を閉めた。薄暗い部屋の中、相変わらず明かりは淡いキャンドルだけだ。りせはふらふらとベッドに近寄ると、そのまま倒れるように沈み込んだ。
「寝てた?」
「さっき起きたとこ」
声色が冷たい。これは相当機嫌が悪いな。わたしはおそるおそる、持ってきた写真をりせに差し出した。
「これ、奏真から」
「……何それ」
「こないだの写真。現像してくれたの」
「あっ! ありがと!」
ガバッと勢いよく跳ね起きて、わたしの手から奪うように写真を受け取る。りせはぴょんっとベッドから飛び跳ね、テーブルの上に写真を広げた。
「わーっ、すごい! 全部きれいに撮れてる」
「奏真に感謝しなきゃね」
「ほんとだね。あっ、でもこのわたしぶさいく。これはいらない」
「十分かわいいよ。ほら、これとか。柊さんもいっぱい写ってる」
柊さんの姿を見つけた瞬間、りせはぱっと顔を輝かせたけれど、すぐにむすっと頬を膨らませた。
「こんな男、もー知らない。きらい!」
「え?」
予想外の反応に、わたしはぽかんと口を開けた。りせはぽいっと写真をテーブルの上に放り投げ、勢いよく立ち上がった。
「カラオケ行こ」
「い、今から?」
「うん。行こう!」
りせは目の端をつりあげたまま、強引にわたしの腕を引っ張った。
「世の中くそくらえだ――!」
狭いカラオケルームに、りせの声がぐわんぐわんと響き渡った。彼女には似合わないロックを、荒々しい声で歌いまくる。マイクがハウリングするのもおかまいなし。もう歌っているのか叫んでいるのか分からない。なんだか、いつになく荒れてるなぁ……。髪の毛を振り乱してシャウトするりせの横で、わたしはおとなしくジュースをすすった。
「雫も歌って!」
「へ?」
「いいから、歌うの!」
りせは強引にもう一本のマイクをわたしに手渡した。
「わたし、この曲知らない……」
「じゃあ知ってる曲入れて! ほら!」
今度はデンモクをぐいっと押しつけてくる。これは歌わないと気がおさまりそうにないな。わたしはしかたなくデンモクを操作し、適当に知っている曲を入れた。
狭い密室で、ふたりの声が重なる。画面に映る文字を追いながら、ぎゃんぎゃんとぶさいくな声で歌う。肩を組んで左右に揺れて、さみしさを紛らわせるように叫んで、怒鳴って、その繰り返し。タイムリミットが迫る頃には、息も絶え絶えになっていた。
「……柊くん、旅行してるの」
テーブルに突っ伏しながら、りせがかすれた声でつぶやいた。
「小咲さんと?」
わたしはがらがら声で尋ねた。りせは何も答えない。否定しないのが、肯定の合図だ。
「こんなこと思う権利なんてないし、当然のことなんだけどね、やっぱりいやだよ……」
長い髪が机にだらりと垂れ下がっている。いつになく弱々しい彼女を見たら、わたしは黙るしかなかった。りせは頭を起こすと、弱さを振り払うように息を吐いた。
「ごめん。雫に愚痴ってもしかたないのに」
「ううん……」
わたしは首を振りながら、自分のボキャブラリーと経験値のなさに肩を落とした。
りせのこういう感情、嫉妬、っていうのかな。すきな人が別の女の人と一緒にいたら、いやになるものなの? 悲しくて、辛くて、さみしくなるものなの? もし奏真がりせとふたりで出かけたら、わたしは悲しい? さみしくて涙が出ちゃう? ……今のわたしには分からない。
「……りせは、柊さん以外の人をすきになったこと、ある?」
「え? そうだなぁ……小六の時、一週間だけ付き合った人ならいる。サッカー部の和哉くん」
りせはへへ、と恥ずかしそうに頬を掻いた。
「でも今思うと、それは本当の恋心じゃなかったなって。幼すぎたから、好意を愛情だと錯覚してたのよ。柊くんとは全然違うもん」
「付き合うって何するの? どんな感じ?」
「うーん……和哉くんとは特に何もしてないけど、普通はキスとか、デートとかかな。あと……」
りせの艶めいた唇がわたしの耳元に近づいてくる。吐息の隙間からささやかれた単語に、耳の奥がぞくっとした。
「えっ、えっ?」
「恋人なら、するでしょ」
りせはきょとんと首を傾げる。からかっている様子はない。あくまで普通のことを述べました、って感じだ。
「ほ、他には?」
「まだ聞きたいの? やらしーい」
「そうじゃなくて、そういうこと以外で!」
にやりといじわるく笑うりせの前で、わたしは大きく両手を振った。りせはつまらなさそうに唇を尖らせる。わたしははぁーっと大きく息を吐いて、ジュースの入ったグラスを両手で包み込んだ。
「……付き合うって、よく分からないの。手を繋ぎたいとか、キスしたいとか思わないし。どこかに出かけるのだって、友だちでいる時と何が違うの? わたしはまだ、全然分かんないや」
「なに、奏真と付き合ったの?」
「……えっ!」
「あ、そうなんだ」
「な、な、何で?」
「仲よさそうだったから。恋人同士って感じでもないけどねー」
りせはけらけらとおかしそうにおなかを抱えた。言い訳する間も与えてはくれない。彼女には嘘は通用しない。わたしは観念してうなずいた。
「きらいじゃ、ないんだけど……」
「分かるよ。恋愛の『すき』とは、また違うんだよね」
わたしは驚いてりせを見た。りせはすべてを包み込むように、優しく目を細めた。
「どうして付き合うことになったのかは分からないけど、雫が思うようにしたらいいんじゃない? どんな関係になっても、きっとふたりは大丈夫だよ。奏真、いいやつだもん」
ああ、どうして何も言わなくてもほしい言葉をくれるの。わたしはりせに何も言ってあげられないのに。溢れそうになる涙を、隠すようにうつむいた。
「うん。ありがと」
かろうじて声を絞り出す。ちょっとかすれて不自然になってしまった。りせはそっとわたしに体を寄せ、小さくつぶやいた。
「……わたしだって、ほんとは……」
わたしは耳をすませたけれど、その続きが聞こえることはなかった。
「だめだ、暗くなる! 歌おう!」
りせは突然立ち上がると、ものすごいスピードで曲を入れた。再びマイクを持って、ぴょんぴょん跳ねながら激しいロックを歌い始める。髪を振り乱しながら、全力で愛を叫ぶ。その無邪気な瞳。強い意志。きれいな声で歌うりせに、わたしは呼吸を奪われた。
ああ、きらきらしてるな。
笑ってる顔も泣きそうな顔も尊いな。りせはいろんな表情を持っている。どれもこれも眩しいくらい輝いていて、美しい。
すきって何だろう。わたしにはまだ分からない。人を愛するって何だろう。わたしにはまだ理解できない。
でも、一つ。たった一つだけ、確かに思ったことがある。
――わたし、この子を撮りたいな。
カラオケから出て、コンビニで買ったアイスを食べながら帰路に着いた。夜風が汗を乾かすように全身を撫でて気持ちがいい。わたしたちは酔っぱらいのように歌いながら、ふらふらと夜道を歩いていった。
アパートが見えたところで、普段はからっぽの駐車場に、車が停まっていることに気がついた。中から二つの人影が出てくる。わたしたちは顔を見合わせ、小走りで車に近づいた。
「柊くん、お姉ちゃん!」
「……あ、りせ」
小咲さんは弱く微笑むと、気分が悪そうにうつむいて口を押さえた。柊さんが支えるように腰に手を添える。
「どうしたの? 大丈夫?」
「大したことないんだけどね。ちょっと、体調悪くて帰ってきたんだ……」
小咲さんは申し訳なさそうに柊さんを見上げた。
「ごめんね、せっかくの旅行だったのに」
「そんなの気にすんなよ。ほら、歩けるか?」
柊さんはゆっくり小咲さんを玄関まで誘導し、「りせ、鍵開けて」と家の鍵をりせに渡した。りせはぎこちなく玄関を開け、真っ暗な部屋に明かりを灯した。
「ちーちゃんは?」
「日付が変わるまでには戻ってくると思うけど……。今日デートなんだって」
デート。子供がふたりいるのに、デート、とは。わたしは三人の後ろでぎょっと飛び上がった。なんというか、見た目通りの人だ。
ふたりが小咲さんをベッドに連れていく間、わたしはそわそわと玄関で待っているしかなかった。十分ほどして、ふたりが玄関に戻ってきた。
「小咲さん、大丈夫ですか?」
尋ねると、柊さんは返事に困ったように頭を掻いた。
「最近ずっとあんな感じだからなぁ」
「だから、天体観測も来れなかったの?」
りせの顔が険しくなった。自分を責めるように強く、両手を握ったのが分かった。柊さんは安心させるように、りせの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「まぁ、あんま心配すんなよ。そうだ、ちょっとこっち来て」
柊さんは思い出したように車に向かった。わたしとりせは戸惑いながら、柊さんについていく。柊さんは車の後部座席から大きな袋を取り出すと、わたしに「はい」と差し出した。
「これ、雫ちゃんにお土産」
「えっ、いいんですか?」
袋の中をのぞくと、そこには甘夏ゼリーの箱が入っていた。
「うん。奏真にもあげといて」
「ありがとうございます」
「わ、わたしには?」
りせがぎこちなく柊さんに尋ねる。柊さんはふしぎそうに首を傾げた。
「え? ないよ」
「ええ――っ!」
「うそうそ、これ」
柊さんは苦笑しながら、小さな紙袋をりせに渡した。りせがそわそわしながら中身を取り出す。それは、星の形をしたキーホルダーだった。
「……かわいい!」
「三百円な」
柊さんがいじわるく言う。しかしりせの耳にはもう届いていないようだった。
「わーい、わーい!」
無邪気な子供のようにぴょんぴょん飛び上がって、最大限の喜びを表現している。柊さんは大げさだなぁ、と目を細めた。
わたしは、その眼差しがとてもとても優しいことに気づいた。他の人に向けるものとは違う、愛しそうな瞳。嘘つきなこの人の、素直な心が表れているようだった。
柊さんはわたしの目線に気づくと、愛しさを振り払うように、運転席に乗り込んでエンジンをかけた。
「じゃーな、おやすみ」
「おやすみ、柊くん!」
「おやすみなさい」
開け放たれた窓から挨拶を交わすと、微笑みを置き去りに、車はどんどん遠ざかっていく。曲がり角で消えて見えなくなるまで、わたしたちは柊さんを見送った。
車のエンジン音が消えると、波が引いたあとの浜辺のように、すーっと静けさが満ちてきた。
「……都合いいでしょ、わたし」
キーホルダーを胸に抱きながら、りせが静かにつぶやいた。風で乱れる髪を押さえながら、わたしはりせの方を見た。さっきまでの無邪気な笑みとは違う。静かで、物悲しい、大人っぽい微笑みがそこにはあった。
「些細なことで悲しくなったり、喜んだりするの。これが、恋」
「……お似合いだよ、ふたりは」
心の底から、そう思った。
「すごく、きらきらしてる。お互い大切なのが伝わってくるの。お似合い、なのに……」
「いいの。わたし、今すっごく楽しいの。ちょっとでも会えたら幸せで、小さなプレゼントでも嬉しいの。柊くんのことが、すごく、すごく大切なの……」
手の中のキーホルダーを、大切そうに見つめる。たった三百円のお土産も、百カラットの宝石に変わる。世界のすべてが色づいて、どうしようもなく、愛しく、なる。
「……どうしたの?」
りせが、驚いたように目を見開いた。
「何で泣いてるの?」
彼女の言葉で、わたしは初めて自分が泣いていることに気がついた。
「どっか痛い? 風邪でもひいた?」
りせがおろおろしながらわたしの背中をさする。わたしは首を振りながら、何度も何度も手の甲で涙を拭った。
違うの、りせ。そうじゃないの。
こんなに彼を想っているのに。こんなに大切にしているのに。それは彼も同じはずなのに。
だからこそ、柊さんが憎らしくなった。どうしてふたりは結ばれないの。どうしてりせを選ばないの。こんなに、こんなにすきなのに。涙はやまない雨のように、頬を伝ってとまらない。
恋人なのにキスすらできないわたしと奏真。恋人じゃないのに、愛し合っているりせと柊さん。
付き合うって何。恋人って何。人を愛するって、どういうこと。
恋人の定義を、教えてほしいよ。
翌朝。わたしはめずらしく早起きをして、引き出しの奥に閉まってあった、古いカメラを取り出した。年季が入っているせいで、シャッター部分がうまく動かない。気合いを入れるように深呼吸し、よし、とつぶやいた。直射日光にやられないよう帽子を被り、外に一歩、踏み出す。
「あ、おはよー雫ちゃん」
庭に出たわたしは、名前を呼ばれてぎょっとした。じりじりと焼けるような太陽の下、花壇に水を遣っている女性が、ひとり。わたしは慌てて小咲さんに駆け寄った。
「おはようございます。もう大丈夫なんですか?」
「ごめんね、心配かけちゃって。寝たらよくなったの。あっ、柊くんからお土産受け取った?」
「はい。ありがとうございました」
「よかったぁ。ちゃんと渡してくれたか不安だったんだ」
小咲さんは額の汗を拭いながら、ほっとしたように微笑んだ。昨日よりずいぶん顔色がいい。どうやら、本当に体調は回復したようだ。
「今からお出かけ? もしかして、デート?」
「ち、違います!」
「ふふ、冗談。気をつけてね」
わたしはぺこりと一礼して、小走りでその場を離れた。
わたしが向かったのは、カメラ修理のお店だった。年季の入ったわたしのカメラは、長年封印していたせいでところどころ調子が悪くなっている。今まで、そのことに気づきながらも目を逸らしてきたのだ。だけど、いつまでも立ちどまったままではいけない。そう思い始めたのはたぶん、未熟な自分に気づいたから。
カメラを修理に出し終えたわたしは、ちょうどお昼時ということもあり、適当なカフェで昼食を取ることにした。
サンドイッチとアイスティーを購入し、スマートフォンをいじりながら窓際の席に腰かけた。夏休みというだけあって、まわりはおしゃれをした女の子たちでいっぱいだ。制服を脱ぎ捨てたカップルばかりがやたらと目につく。誰もかれも、こんなに暑いというのに手を繋いだり、ぴったりと体を寄せ合ったりと、見ているだけで暑くなっちゃう。
そうか、普通の恋人ってあんな感じなんだ。目一杯のおしゃれをして、ふたりで出かけて、手を繋いで、幸せそうに笑い合う。わたしと奏真と、全然違う。手すら繫げないわたしたちは、まるで恋人ごっこをしているみたい。昨日だって、何にも、できなかった。
アイスティーの水面に、冴えない女の子が映っている。ちょっと眼鏡を外してみたからって、おしゃれ女子とはほど遠い。スカートって足がスースーして苦手だ。今日着てるレースのシャツだって、りせの方が数倍似合う。りせはいつだって、道行くどんな女の子よりもおしゃれで、どんなアイドルよりもかわいい。
どうして同じ人間なのに、こうも違うんだろう。わたしは時折、りせがひどくうらやましくなる。かわいくて、恋をしていて、きらきらしているりせが。
外を見たわたしは、人混みの中に見慣れた影が紛れ込んでいることに気がついた。どんなに遠くても分かる。色白で、目が大きくて、栗色の髪を一つにまとめた、きれいな女の子――りせが、歩いている。
ああやっぱり、りせのかわいさって別格だ。夜の闇にぽっかりと浮かぶ月のように、どこにいても目立つ。そして彼女のそばにいるのは、小咲さんの恋人である柊さんだった。
柊さんの後ろを子犬のようについていくりせ。その表情は、まるで溶けたアイスみたい。全身から幸せが溢れているのが、こっちにも伝わってくる。
わたしはぼんやりと、ふたりが消えた方向を眺め続けた。柊さんがどんな顔をしていたかは分からない。だけど、なんだか、他のどの恋人より仲睦まじげで、絵になっていたから。ほんの一瞬だったけど、まるで映画のワンシーンみたいにきらめいていたから、見入ってしまったのだ。
お似合いって、こういうことを言うんだなぁ。わたしはサンドイッチを両手でつかみ、思い切り口に放り込んだ。ああ、今日もりせが眩しい。りせと柊さんって、本当に――
……あれ?
わたしはかじりかけのサンドイッチをお皿の上に置いた。りせのことばかり考えて忘れていたけれど、柊さんは、小咲さんの恋人なんだよね。小咲さんは、このことを知っているのだろうか。いや、知っているわけないか。知ったらきっと、あんな穏やかに笑えないだろう。
――もし、知ってしまったら?
起こりうる未来を考えたら、急に心がひやっとした。
りせのことばかり考えていた。わたしはりせの友だち、だから。りせの喜びや悲しみを多く知っているから、りせが幸せになればいいと願っていた。それに、きっとりせの恋を否定したら、りせはわたしの元から離れてしまう。そんな気がしたから。だけど、りせの幸せは小咲さんの不幸なんだ。
……これって、よく考えたら、いや、よく考えなくても「浮気」ってやつだよね。何で今まで深く考えなかったんだろう。柊さんは、浮気している。恋人の妹と。それって、すごくすごく悪いことじゃないか。
今だって、小咲さんは体調を崩している。今朝だって笑っていたけれど、顔色は決していいとは言えなかった。それなのに柊さんとりせは、のうのうとデートを楽しんでいる。
あ、れ?
わたし、りせのこと、応援していいのかな。
小咲さんの笑顔がよみがえった。優しくて、穏やかで、素敵な女の人。食べかけのサンドイッチには、もう手をつける気になれなかった。
何をするわけでもなくカフェで時間を潰し、夏服やら生活雑貨やらを買っていたら、家に帰る頃には夕方になっていた。こんなに長時間ひとりで出かけたのは久しぶりだ。外の暑さに反比例するように、ショッピングモールはクーラーがききすぎていて肌寒かった。
かわいい服を選んでいる時も、雑貨を見ている時も、わたしの頭の中は小咲さんでいっぱいだった。並んで歩くりせと柊さんの、楽しそうな表情がちらつく。幸せは、すべての不幸の上に成り立っている。そのワンフレーズが、カビみたいにこびりついて離れない。
帰宅して、荷物を整理したわたしは、道すがら購入したプリンを片手に再び部屋を出た。一階に行き、チャイムを鳴らす。はぁい、という高い声とともに、すぐに玄関の扉が開いた。
「あれ、雫ちゃん。おかえりなさい」
小咲さんが出てきてくれたことに、ほっとした。智恵理さんはどうも苦手だ。わたしは軽く頭を下げ、手に持っていたプリンを差し出した。
「あの、お土産ありがとうございました。これ、お見舞い」
「えっ、いいの? 気遣わなくていいのに、ごめんね」
小咲さんは眉を下げながらも、わたしのプリンを受け取ってくれた。今朝に比べて、ずいぶん顔色がよくなっている。
「高校生に心配されるなんて情けないな。ありがとう」
小咲さんの屈託のない笑みを見た途端、ぎゅうっと胸が締めつけられた。お礼を言われる資格なんてないのに。だって、わたしは秘密にしている。りせと柊さんのこと、ないしょにしている。りせの幸せを願っている。今こうしている間にも、りせと柊さんは――そう考えたら、小咲さんの顔がまともに見られない。
――小咲さんが、このことを知ったら。
「あの……」
言葉にしようとしたら、声が震えた。動揺を抑えるように、両手をぎゅっと握り締める。小咲さんのためにも、知らせた方がいいんじゃないの。間違っているのはりせの方なんだから、小咲さんのことを考えるべきじゃないの。そうだ、それが世間一般的には正しいんだ。だったら、言った方が……。
「どうしたの?」
小咲さんがふしぎそうに顔をのぞき込んでくる。わたしは肩を震わせ、慌てて首を左右に振った。
「いえ、あの……いつもりせに仲よくしてもらってるんで、そのお礼も兼ねてるんです」
「やだ、お礼を言うのはこっちの方よ。雫ちゃんに会ってから、なんか楽しそうだもん、あの子」
雫ちゃん、しっかりしてるね。小咲さんが感心したように言うので、わたしはもう引きつり笑いを浮かべるしかなかった。
「今日はりせと一緒じゃないのね。夕飯誘ったんだけど返事が来なくて。どこ行っちゃったんだろう、あの子」
「あ、えっと……たぶんバイト、だと思います」
「そう。ならしかたないか。あ、ちょっと待ってて」
小咲さんは何かを思いついたように、パタパタと部屋の奥に消えていった。
ひとり残されたわたしは、緊張の糸がぷつんと切れたのを感じて、長く息を吐いた。危なかった。勢いで言ってしまうところだった。言うべきだったのかもしれない。だけど、言わなくてよかったという気もする。結局、わたしは「他人」なんだ。わたしが何を言ったって、信じてもらえないかもしれない。小咲さんの心をむだに傷つけてしまうだけかもしれない。軽率な行動をとってしまうところだった。わたしは額に滲んだ汗を拭った。
小咲さんを待つ間、わたしはかかとを伸ばしたり、地面につけたりを繰り返した。無意味に周囲を見渡してみる。白い天井。整列された靴。虹色の傘。
ふと、玄関に飾られた数枚の写真が目に留まった。これは、若い頃の智恵理さんだろうか。今とあまり容姿が変わっていない。隣にいる男の人は、亡くなったという旦那さんかな。ふたりが腕を組んで幸せそうに写っている。別の写真には小さな女の子が写っていた。きっと小咲さんだろう。楽しそうにピアノを弾いている。
そして一番奥の写真立てには、小咲さんと柊さんが写っていた。ベンチで寄り添い、仲睦まじく肩を寄せ合っている写真だ。とてもお似合いで、とても幸せそうで、とても、自然。
わたしはなぜか、自分がものすごくいけないことをしているような感覚に襲われた。知らなくていいことを知ってしまったような、見てはいけないものを見てしまったような後悔が、波のように押し寄せてきた。
「ごめんね、お待たせ!」
小咲さんが玄関へと戻ってきたので、わたしははっと顔を上げた。
「これ、あまっちゃったからよかったら食べて」
「えっ?」
そう言って差し出されたのは、大きな紙袋だった。中をのぞくと、タッパーが三つくらい入っている。
「余計なお世話かもしれないけど、ひとり暮らしだと栄養偏っちゃうでしょ。体壊さないように……って、わたしが言えることじゃないけど……」
「い、いえ。ありがとうございます。いただきます!」
「おいしいか分からないけどね」
小咲さんは自信なさげに頬を掻いた。
「わたし、あんまり料理得意じゃないから。柊くんの方が何倍もおいしくできるんだけど」
「そうなんですか……」
わたしはバーベキューの時のことを思い出した。確かに、あの時の柊さんは手際がよかった。前に食べたハンバーグもおいしかったし。きっと何事も卒なくこなすタイプなんだろう。
小咲さんが、ふっと微笑みを薄めた。何かを伝えたいような、そうでないような。愛しさのような、哀れみのような。わたしを見ているけれど、その瞳にはわたしなんて映っていないような、そんな顔だった。
「りせのこと、これからもよろしくね。あの子がつらい時は、そばにいてあげてね」
わたしはなぜだかその言葉が、上辺だけのものではなく、遠くない未来を予期しているように思えた。いつか、確実にりせが辛くなる。そのことを知っているような笑みだった。
わたしは黙ってうなずいた。うなずくことしかできなかった。紙袋を胸に抱き、逃げるようにその場をあとにした。
筑前煮と、ほうれん草の胡麻和え、それにサラダ。それが、わたしの夕飯になった。料理は苦手だと言っていたけれど、筑前煮は味が染み込んでいてとてもおいしい。優しさがじんわりと広がって、心が落ち着く。本当は、りせに食べてもらいたかったんだろうな。体調が悪いのに、一生懸命りせのためを思って作ったんだろう。りせが、今誰といるかも知らずに。
シャワーを浴びたら、夏の暑さと相まって体が火照った。昼間はあれほどうるさく鳴いていた蝉たちも、夜になるとかくれんぼをするように息を潜めている。ベランダに出ると、ぬるい夜風が全身を撫でていった。空には三日月と、薄灰色の雲。そして心もとない星の光。
手の中のスマートフォンが陽気な音を立てた。見ると、奏真からメッセージが届いている。
『魚ってすき?』
いきなり何を聞いてくるのだろう。付き合い始めてから、こういう内容が増えた気がする。世の中の恋人たちって、こういう中身のないやりとりをするのかな。わたしはちょっと面倒に思いながら返信をした。
『すきだよ。マグロのお刺身とか』
『食べる方じゃなくて、見る方な!』
……なんだ、そっちか。日本語って難しい。
『今度、水族館行こうぜ。魚の写真展もやってるらしいよ』
魚のスタンプとともに、デートのお誘い。友だちとしてじゃない、恋人として出かけようと言っているのだ、奏真は。
彼女なら思い切り喜んで、すぐに返事をしなければならないだろう。だけど、わたしの指はなかなか動いてくれない。今、どこかに出かけたいとか、そんなことを考える気分じゃない。数秒悩んだ末、わたしはスマートフォンをパジャマのポケットにしまった。
ベランダの柵に寄りかかりながら、目をつぶって耳をすませた。葉の揺れる音。鈴虫の鳴き声。遠くを走る車の音。長くて短い夏の気配が、五感を揺さぶる。夏の音の合間に、微かに混ざって、歌が聞こえてきた。わたしはそっと目を開けた。
やっぱり、帰ってきた。
「りせ!」
庭を歩いている少女に向かって、大声で叫んだ。りせはぼんやりと顔を上げ、安心したように微笑んだ。わたしはいてもたってもいられなくなって、サンダルを履いて庭へと飛び出した。
「……どうしたの?」
息を切らしているわたしを見て、りせはおかしそうに首を傾げた。月明かりの下で見る彼女は、やっぱりいつかと同じように美しかった。彼女には夜が似合うと、そう、思った。
「歌が、聞こえたから」
荒い呼吸の隙間で、途切れ途切れに答えた。りせはくすっとおかしそうに笑った。そのあどけない笑顔に、ほっとした。なんだか、泣いているような気がしたから。
そのまま、わたしは流れるようにりせの部屋に転がり込んだ。部屋に入るやいなや、りせはカバンをベッドに放り投げ、疲れを吐き出すように床に座り込んだ。
「ずいぶん遅かったんだね」
わたしは向かい側に腰かけて、探るように言った。
「うん。出かけてたから」
「……柊さんと?」
「そう!」
りせはえへへ、と照れたように顔をふやけさせた。
「今日はね、久しぶりにデートしたんだぁ。すっごく楽しかった」
「……小咲さん、体調崩してたのに?」
言ってから、しまった、と思った。いやな言い方をしてしまった。おそるおそるりせの顔色をうかがう。キャンドルの光に照らされたりせの顔から、表情が消えた。さっきまでの笑顔は死んで、代わりに、顔の筋肉がぴんと強張っていた。だけど、それも一瞬のこと。
「……軽蔑した?」
ちょっとさみしそうな、悲しそうな、傷ついた微笑みだった。わたしは慌てて両手を振った。
「ごめん、そういうつもりじゃないの」
「いいよ、分かってるから」
りせは立ち上がると、着ていたシャツを唐突に脱ぎ始めた。白い肌と、ピンク色の下着が露わになる。わたしは慌てて顔を背けた。
妙な沈黙が流れた。空気が肩にのしかかって重たい。クーラーがまだきいていないのか、汗がじんわりと額に滲む。わたしはためらいながら、もう一度りせの方を見た。さっきまで着ていた服は床に落ち、代わりにラフなシャツに着替えていた。その背中がとても小さくて、さみしそうで、何か言わなければ、という衝動に駆られた。
「わ、わたしはりせの味方だよ」
「ほんとにぃ?」
りせは肩越しに振り返ると、疑うようににやりと笑った。シャツのボタンを留め終えて、脱力したようにベッドに倒れ込む。わたしは立ち上がって、そっとベッドに腰かけた。りせは大きな目を見開いたまま、じっと天井の星を見ていた。
「嘘じゃないの。嘘じゃないけど……」
「うん」
りせは静かにうなずく。わたしは戸惑いながら、言葉を続けた。
「小咲さんに言われたの。『りせのこと、よろしくね』って。すごくりせのことを大事にしてる。いい人だなって、思うの……」
「……お姉ちゃん、すごく優しいの。優しくて面倒見がよくて、かわいくて……わたしの命の恩人なんだ」
「恩人?」
「うん。わたし、本当は生まれてくるはずじゃなかったの」
「……どういう意味?」
「わたしとお姉ちゃんね、半分しか血が繋がってないの。お姉ちゃんのお父さんは、お姉ちゃんが生まれてすぐ死んじゃったんだって。それが、このアパートの管理人。だからちーちゃんが代わりに管理人になったの。ちーちゃん、あんな感じだけどさ、頑張ってお姉ちゃんを育てたんだよ。そこはえらいと思うんだ。苦労もしただろうし」
りせは笑うでもなく、泣くでもなく、淡々と事実を語っていった。
「で、旅行先で知り合った男とワンナイトして、ついうっかりできちゃったのがわたし。名前も知らないらしいよ、ありえないよね。だからもうやだ、おろすって駄々こねたらしいの。それをね、お姉ちゃんがとめたんだって。きょうだいがほしいから、産んでって。りせって名前も、お姉ちゃんがつけてくれたの。お姉ちゃんがいなかったら、わたしは生まれてきてないの」
「そうだったんだ……」
わたしは初めて聞かされる事実に、ただ相槌をうつことしかできなかった。知らなかった、何も。わたしが知っていいことじゃないけれど、こういう時思い知らされる。わたしはりせのことを何も知らない。
「なのにわたし、最低だよね……」
りせは自虐的にそう言うと、逃げるように両腕で瞳を隠した。ああ、りせは本当に小咲さんのことがすきなんだ。自分の命を救ってくれた、たったひとりの姉。それなのに――
「そんなにすき? 柊さんのこと」
「……すき、なんてもんじゃないの」
細い喉から絞り出された声は、強い意志を持っていた。
「愛してるの。……他のどんなものを捨ててもいいって思えるくらい」
「傷ついても、いいの?」
「覚悟してるから。これまでも、これからも、ずっと」
「……りせは泣かないね」
「泣かないよ。泣いたらみじめになるでしょ」
りせは勢いをつけて上半身を起こした。その瞳に涙は浮かんでいない。強がるようにわたしに笑いかける。いつもの、りせだ。
その笑顔を見た瞬間、わたしは無性にりせを抱き締めたくなった。触れようと伸ばした手は、直前のところで臆病に負けて届かない。今触れてしまったら、りせの精一杯の強がりが壊れてしまうような気がした。
「あっ、また泣いてる!」
りせが、ぎょっとしたように声を上げた。
「もぉー、何で泣くの」
「……りせの代わりに泣いてるの!」
わたしはうつむいて、声を上げないように唇を噛んだ。
りせのために何もできない、自分の無力さがやるせなかった。自分の幼さが悔しくて、奏真にも顔向けできない。りせのことも、小咲さんのこともすきだ。何が正解か分からない。全員が幸せになる方法なんてないのかもしれない。だけど、だからこそ、幸せになってほしいと思う。柊さんを責めるのは簡単だけれど、きっとりせはそれを望まない。望まないから、行き場のないこの悔しさが、涙となって溢れ出るんだ。
りせは何も言わず、そっとわたしを抱き締めた。わたしができなかったことを、りせはいとも簡単にやってのけるのだ。りせの体はとても細くて、強い力で抱き返したら、ぽきんと折れてしまうくらい弱々しかった。
早く、大人になりたいな。りせの悲しみも苦しみも、すべて受けとめられるくらいの存在になりたい。りせに頼られたい。りせの、力になりたい。
壊れないようにそっと、りせの背中に腕をまわした。りせは安心させるように、わたしの背中を優しく叩き続けた。
この時、わたしは知らなかった。名前のない関係の脆さも、小咲さんの言葉の意味も。そして、これから来る別れも。
それは、とてもとても些細なこと。
すきになった人に、恋人がいた。
たった、それだけ。
「……あ」
重ねていた唇の隙間からあなたの息が漏れた。ゆっくりと目蓋を開けてみたら、わたしを見つめていたはずの瞳は藍色の空を映していた。
「なぁに?」
「流れ星」
「えっ、どこ?」
「あの辺流れてた」
わたしは慌てて柊くんの人差し指の先を辿った。けれどそこには静止した星が瞬くだけだ。わたしは、あーあ、と大げさに肩を落とした。
「もう一回流れないかなぁ」
「流れるといいな」
柊くんはおもしろそうに口の端を上げる。ちょっと眠たそうに目をこするその仕草で、夜が深まっていくのを実感した。
夏の夜、ベランダに吹く風は生ぬるい。こうしてふたりでぼんやりと夜空を眺めるのは何度目だろう。ゆるやかな時間の流れを確かに感じるのに、時計を見ると驚くほど時が過ぎている。だからいつも時計は見ない。タイムリミットを気にしたくないから。別れを切り出されるのがこわいから。わたしはねだるように柊くんの横顔をじっと見つめた。
「なーに?」
「……月がきれいですね」
「そーだね」
使い古された愛の台詞も、柊くんはあっさり受け入れるだけで、応える素振りなんて見せやしない。そういうところがすきなのもまた事実だけれど、もどかしさに自然とほっぺたが膨らんでしまうのも、また事実。
「なに、拗ねてんの」
「別に」
わたしは子供っぽく顔を背け、不機嫌を背負って部屋に戻った。シングルベッドにダイブして、枕に顔を埋める。あ、柊くんのにおいがする。
煙草のにおいって落ち着く。きらいって言う人も多いけど、昔からちーちゃんが吸ってたせいかな、わたしは全然気にならない。大人って感じがするし、たぶん、吸っている仕草がすきなんだと思う。火をつける動作とか、口から白い煙を吐く流れとか、その一つ一つが大人っぽいと思う。自分で吸おうとは思わないけれど、なんか、あこがれる。
「なに寝転がってんだよ」
「眠たいの!」
柊くんの足音とベランダの窓を閉める音が聞こえる。絶対に無視してやる。そう決意していたのに、ベッドに沈む体重を感じて、思わず顔を上げてしまった。瞬間、あやすように短く、唇が重なる。目をつぶる暇もない、ついばむみたいなキスだった。
「もう、おかえり」
「……キスだけ?」
柊くんは困ったように微笑んだ。
「そうだよ。キスだけ」
「けち!」
「だって、終電間に合わなくなるじゃん。明日おれ仕事なの」
「……朝イチで帰るもん」
わたしはごろりと仰向けになって、柊くんの首に腕をまわした。所有権を主張するように引き寄せると、柊くんはしかたないなぁ、と抱き締めてくれた。
「起きれるの?」
「起こして」
「起こせるかなぁ」
試すような会話をして、部屋の電気を消す。
静まり返ったここは、まるで深海の底のよう。誰にも見られない。誰にも邪魔されない。今だけは、わたしだけのものだ。見せつけるように、まわした腕に力を込める。
この恋は、流れ星。一瞬でも逃したら消えてしまう。すぐに覚める夢のよう。分かっているから楽しくて、分かっているから苦しい。罪悪感を消すように、わたしはそっと目を閉じた。
太陽よ、昇ってくれるな。そんなことを考えては、無情にやってくる朝に絶望する。その繰り返し。
翌朝。わたしはむりやり柊くんに起こされて、荷物のように車に乗せられた。そんなに焦らなくてもいいのに、と寝ぼけたふりをして言ったら、ほっぺたを思いきりつねられた。
「学校も行ってない不良娘と、社会人を一緒にするな」
ごもっともな意見である。
駅までは車で三分ほど。短すぎるドライブは流れ星のように過ぎて、あっという間にお別れの時間が来る。
「じゃあな、気をつけて」
車を降りたわたしに、柊くんはお決まりの台詞を告げる。うん、とうなずいて、わたしは手を振る。さみしそうに眉を下げてみるけれど、柊くんが留まってくれることはない。黒いステップワゴンが見えなくなるまで、わたしはその場を動かない。もしかしたら、何かの気まぐれで引き返してくれるかも。そんな百億分の一の可能性を夢見ているから。
数十回目の絶望を味わったあと、電車に乗って自宅へと戻った。
わたしの家は、「フラワーガーデン」という二階建てのアパートだ。色とりどりの花が咲く大きな庭。その真ん中に立っている大きな木は、春になるとピンク色の花弁を身にまとう。小さい頃は、よくお姉ちゃんと一緒に木登りをしたっけ。そのたびにちーちゃんに怒られて、ふたりで抱き合って泣いていた。あの頃はまだ、何のわだかまりもなく、お姉ちゃんの目を見ることができた。素直に甘えて、笑い合うことができた。新緑に衣替えした桜をじっと眺めて、わたしは眠たい目をこすった。あの頃は無垢な子供だったのになぁ、とばばくさい懐古をして、アパートの一階を睨む。
わたしの家。そう胸を張って言えたのはもうはるか昔のこと。わたしの居場所はあそこにはない。生まれた時からなかったけど、それでもなんとか生きられたのは、お姉ちゃんが居場所を作ってくれていたから。わたしを産む気なんてさらさらなかったちーちゃんを説得して、「りせ」って名前を与えてくれたのは、他でもないお姉ちゃんだ。ちーちゃんの代わりに一緒に遊んでくれたり、勉強を教えてくれた。お姉ちゃんの方がよっぽど母親らしい。優しくて賢くてかわいい、自慢のお姉ちゃん。
それなのに、その居場所を奪ったのはわたし。お姉ちゃんを裏切ったのはわたし。
柊くんをすきになった瞬間からね、わたし、裏切り者なの。大切にされた。優しくされた。それなのに、その恩を返すより先にごみ箱に捨てちゃった。その罪悪感に耐えきれず、わたしは家を出ようと決意した。
どこか遠くへ行きたかった。空気のおいしい山頂とか、海の見える田舎町とか。わたしのことを誰も知らない場所で、ひとりで生きていきたかった。でも、未成年のわたしはあまりにも無力で、経済力なんて持ち合わせていない。きっとドラマや漫画なら、ひとりで旅をしたりするんだろうな。親戚もいない。友だちもいない。そんなわたしがひとりで行ける範囲なんて、あまりにも限られていた。
無力なわたしの精一杯の反抗が、同じ敷地内にある離れだった。元々、死んだ父親の両親が暮らしていたらしい。わたしの父親じゃなく、お姉ちゃんの父親。その人が死んでしばらくして、ちーちゃんは両親と大喧嘩をしたらしく、それからずっと空き家だった。わたしが距離を置くにはぴったりの物件だったというわけだ。
離れで暮らし始めると同時に、わたしはバイトを始めた。せめて食費くらいは自分でまかないたい。少しでも家から独立したい。そしていつかは、この場所から離れられるように。焦る気持ちが先走って、学校を休んで働く日が増えた。その結果、勉強についていけなくなって、学校に行くのがますますいやになって、結局留年。二回目の一年生。ほんと、いやんなっちゃう。
わたしは大あくびをしながら、アパートの二階を見上げた。
真新しい空も、ぎらぎら照りつける太陽もきらい。ぜーんぶ、わたしと柊くんを切り裂くもの。すべてを覆い隠してくれる夜が、永遠に明けなければいいのに。
ああ、眠たいな。もう寝ちゃいたいよ。でも、なんだかさみしいな。ひとりがすきなはずなのに、孤独を感じるのはきらいなの。柊くんと別れた直後はいつも、迷子の子供になった気分だ。
そんな時は、歌を歌う。こんな早朝に、こんな小さな声で歌っても、きっと誰も気づきやしない。だけど、一パーセントの奇跡を信じて、わたしは歌う。
一曲歌い終えても、人が出てくる気配はない。じんわりと体が汗ばんできた。しかたないから、おとなしく籠城しよう。そう思うのに足が動かない。ねぇ早く。早く気づいて。脅迫するようにベランダを睨む。
勢いよく窓が開いて、大きな布団が現れた。日向ぼっこをするように半分に折れる。
布団を干し終えた雫の目が、わたしを捉える。ああ、やっぱりあなたは気づいてくれるね。驚いた雫の顔を見て、わたしはにっこりと笑った。
転がり込むように雫の部屋へ行って、朝ご飯をごちそうになった。七畳一間の狭い部屋で、おしゃべりをしながらご飯を食べる。最近ではもうすっかりおなじみの光景だ。
「ちゃんと栄養のあるもの食べなきゃだめだよ」
お母さんみたいな台詞を言うのは、雨宮雫。瑞々しい名前の女の子。わたしの、唯一の友だち。
出会ったのは四ヶ月ほど前。一目見た瞬間に仲よくなれると分かった。女の子同士なのに変かもしれないけれど、運命だって思ったの。根拠なんてない。女の勘ってやつだ。
歌が聞こえたら会いにきて。冗談で言った約束を、雫は律儀に守ってくれる。悲しい時、さみしい時、つらい時。わたしは決まって口ずさむ。柊くんがすきなメロディーを。ふたりで歌ったあの曲を。そうすると雫がやってきて、さみしさを埋めてくれるから。ご飯を作ってくれたり、看病してくれたり、甘やかしてくれるから。
そう、まさに。
都合のいい、友だち。
「ずいぶん眠そうだね」
大きなあくびをしたら、食器を洗い終えた雫が戻ってきた。
「寝たの遅かったからなぁ」
「何時に寝たの?」
「何時だろ……三時くらいかな」
「そんなに? 何してたの?」
「うーん……」
わたしはあいまいに唸って、真っ白な天井を見上げた。昨日あった出来事を、一つ一つ順に思い出してみる。柊くんの部屋に遊びにいって、夕ご飯を一緒に食べて、星を見た。時計を見たら日付を超えそうで、帰りたくないとねだった。仕事あるのにむりさせちゃったかな。柊くんの疲れた笑顔を思い出したら、申し訳なさが募った。と同時に、口の端がにやける。はっとして雫を見たら、彼女はものすごく不審そうに顔をしかめていた。
「何にやにやしてるの?」
「な、何でもない、何でも……」
わたしはぎこちなく笑って、逃げるようにベッドに転がった。横向きになって、床にちょこんと座っている雫を眺める。最近、雫は眼鏡をかけなくなった。服装も以前よりおしゃれになった気がする。
「そういえば、最近奏真には会ってる?」
そう尋ねると、雫は気まずそうに目を逸らした。
「あ、会ってない……」
「デートしてみたらいいじゃん。誘われてるんでしょ?」
「うーん……あんまり気が進まないっていうか」
「何で? 前からふたりで出かけてたんじゃないの?」
「それはそうだけど……でも、デートって、ただ出かけるだけじゃなくてさ……」
「手を繋いだり、キスするかもしれないってこと?」
返事がない。唇をきゅっと結んで、照れるようにうつむく。ああ、ウブだな。純粋だな。枕に頭を委ねたら、目蓋がどんどん重たくなった。雫の姿が、暗転しては現れ、現れては、また暗転。
「だって、奏真は小さい頃から知ってるし、いざそうなると、なんか恥ずかしいっていうか」
「そんなのすぐ慣れるって。っていうかさぁ……」
――だったら、どうして付き合ってるの。
心で思ったことは言葉にならず、口の中でもごもご消えてしまった。あ、だめだ。声がどんどん溶けていく。
「りせ? 寝るの?」
「うーん……」
「寝るなら自分の部屋で寝なよ」
あきれた雫の声に答える気力はもうなかった。睡魔に抗うことをやめ、わたしはそのまま我が物顔で眠りについた。
とっても変な夢を見た。
透明な水の中、わたしはひとり地上を見ている。まわりには何もない。色鮮やかな珊瑚礁も、自由に泳ぎ回る魚たちも、暗い深海のどこかに身を潜めている。どんなにもがいても浮かび上がれない。手足を動かせば動かすほど、重たい水が絡まって、体がどんどん沈んでいく。呼吸がどんどん苦しくなって、酸素不足で目が霞む。地上から降り注ぐわずかな光すら、
――見えなく、なる。
「……あ、やっと起きた」
ぼんやりと目蓋を開けたら、本を読んでいる雫が目に入った。あれ、ここどこだっけ。何で雫がいるんだろ。思考を巡らせていたら、だんだん記憶がよみがえってきた。
ああ、そうか。わたし、雫の部屋で寝ちゃったんだ。どれくらい眠っていたんだろう。早く起きないと、遅刻しちゃう――
そこまで考えて、わたしは勢いよく上半身を起こした。
「今、何時?」
「一時半。お昼だよって言ったのに、全然起きないんだもん」
やばい。やばいやばいやばい。全身からすぅーっと血の気が引いていく。わたしは転がるようにベッドから下りた。
「どうしたの?」
「バイト行ってくる!」
身支度を整える暇もなく、風のように玄関を出た。バイトは午後一時から。大遅刻確定だ。
時間通りに来ないバスに苛立ち、乗ったら乗ったで何度も行く手を阻む赤信号に苛立ち、ようやくバイト先に着いたわたしを待っていたのは、店長のしかめっ面だった。
「おはよう、ございます……」
「早く、着替えてこい」
店長は声を荒げることもなく、更衣室を顎で示すだけ。それが逆におそろしい。わたしは逃げるように駆け足で更衣室へ行き、制服に着替えた。
カフェとファミレス。それがわたしのバイト先。今日の仕事場は、ファミリーレストラン「ハッピーベア」だ。知り合いに会わないように、片道三十分かかる場所を選んだ。街中にあるから、家族連れや学生でいつも混んでいる。時給は高くないけれど、人手不足だから、結構シフトを入れてくれる。わたしにとって最高の稼ぎ場だ。
ランチのピークは過ぎたけれど、お客さんが減る気配はない。次から次へと鳴るベルに、目がまわりそうになる。
「こちらハンバーグ定食になります」
注文の品を届けると、それまでスマートフォンを見ていた男がぱっと顔を上げた。軽く会釈をして、わたしをじーっと見る。ん、いや、これ見すぎじゃないの。訝りながらも、とりあえずマニュアルに倣って営業スマイル。そのまま去ろうとしたら、あの、と引き留められてしまった。
「はい?」
振り向いた途端、何かをむりやり渡された。手の中を開いてみたら、ぐちゃぐちゃに丸められた紙だった。一瞬ごみかと思ったけれど、中を開いてみたら連絡先が書いてあった。思わず眉間にしわが寄る。殴りつけてやろうかと思ったけど、ここはぐっと堪えてあげる。どうにか口の端を上げて、足早に厨房へと戻った。客に見えないように、連絡先をごみ箱に放り投げる。何なの、こっちは仕事中だっつーの!
「今日もモテるねぇ、君は」
後ろからからかうような声が聞こえた。振り向いた先にいたのは、女子大生の先輩だ。にやにやしながらこっちを見ている。
「やだ、やめてくださいよ」
わたしはぎこちなく笑顔を作って、そそくさと更衣室に逃げ込んだ。微かな期待を胸に抱きながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。
新着メッセージ、0。
膨らんでいた胸が、空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。別に用事があるわけじゃないし、こっちから連絡したわけでもないんだけどさ。
男の人って、あんまり連絡を取らないものなのかな。普通の恋人って、どのくらいの頻度で連絡を取っているんだろう。仕事の愚痴とか、今日あったおもしろかったこととか、そういうの、あんまり言わない方がいいのかな。そもそも、ちゃんと付き合っているわけでもないし……。
ぐるぐると考えを巡らせても、答えなんて出るわけがない。違う、違うの。結局わたしは連絡をもらうことによって、「求められてる」って実感したいだけなのよ。わたしばっかりすき。そう思いたくないだけなの。分かっていることだけど、この想いが一方通行であると、思い知らされるような。そんな虚しさを感じるから。わたしはポケットにスマートフォンを戻し、さみしさを振り払うように仕事へ戻った。
今日のシフトは二十時まで。せわしなく動き回ったあとの体は、重力が三倍になったみたい。のろのろとタイムカードを切ったら、待ちに待ったまかないの時間だ。制服を着替えて休憩室に行くと、ふたり分のご飯と店長が待っていた。
「オムライスとチャーハン、どっちがいい?」
「チャーハン!」
勢いよく席に着くと、店長は苦虫を噛み潰したような表情で自分側にあったチャーハンをわたしに差し出した。いただきます、と同時に手を合わせ、スプーンを握る。
古びたエアコンから、ごおお、と埃っぽい風が唸る。慌ただしい店内から隔離された休憩室は、別世界にいるみたいでなんとなく落ち着く。いつも通りのまかないも、疲れた胃袋にはまるで極上キャビアだ。
「蓮城さぁ、学校、ちゃんと行ってんの?」
チャーハンを口に放り込んでいると、店長が突然尋ねてきた。
「行ってませんよ。夏休みだし」
「まぁそうだけど、そーゆーことじゃなくてさ」
その続きにある言葉を予測して、わたしはじろりと睨んでやった。店長はぐう、と怯んで、ま、いいけど……と口を濁した。
ハッピーベアの店長、本名永瀬博仁さん。推定年齢四十歳、独身、彼女あり。見た目は冴えないおじさんって感じ。髪もぼさぼさだし、無精髭生えてるし。全然かっこよくないけれど、なんとなく雰囲気が柊くんと似てる。あくまで、雰囲気だけ。
「でもなぁ、お前の高校、進学校だろ? せっかく受かったのに、もったいないよ」
「その話、もう百回くらい聞きました。いいんです。わたし、自立したいから。早くちゃんとひとり暮らししたいの」
「うん、分かった。分かってるよ……」
語気を強めたわたしに気圧されたのか、店長は半ば投げやりにうなずいた。
ろくに高校にも行っていないわたしを雇ってくれたのは、他でもないこの人だ。そこは感謝しているし、何かと面倒を見てくれるのもありがたい。でも、わたしはわたしで、どうしても譲れないものがある。若気の至りとか、考えが甘いと言われても曲げられない。浅はかな青春をやりきりたいのだ。
「お前、まだ母ちゃんとうまくいってないの」
「店長には関係ないでしょ」
「じゃああっちは? 男の方」
「ますます関係ないじゃん! それ、セクハラ!」
「いや、変な意味じゃなくて。お前、危なっかしいから心配になるんだよ。面接に来た時だって切羽詰まっててさ……おれ、落としたら自殺するんじゃないかって思ったよ」
「そんなに?」
「うん、もう、こんな顔」
店長が目を見開いて、唇を真一文字に結ぶ。そのあまりにも深刻な面持ちにドン引きした。うわ、わたしこんな顔してたのか。
「そんなぶさいくじゃないもん。っていうか、バイトの面接に落ちたくらいで死なないもん」
「例えだよ、例え」
オムライスを口に運びながら、店長が肩を落とした。
「こんなおっさんのお節介なんて、迷惑だと思うよ。おれだってお前くらいの年だった時は、うるせぇ、ほっとけ! って思ってたし。でもさ、お前が何を抱えてるか知らないけど、幸せになってほしいって思うんだよ」
「……どうして?」
「どうしてって、そりゃ、あたりまえだろ」
さも当然のような顔をされて、わたしは言い返す言葉が思いつかなかった。あたりまえ、なのかな。ただのバイトのわたしにこんなに優しくしてくれるのって、世間では普通なのかな。わたしは店長に何も話していないのに。バイトを始めた理由も、抱えている悩みも、言っていないのに。苦しい時って、何も言わなくてもまわりの人に伝わってしまうものなのだろうか。
わたしは今、幸せ。
そう言い聞かせているのに、わたしは自分を騙せずにいる。
「……ただのおっさんのくせに」
「あっ、てめぇ、このやろ」
ピコン、とゲームの効果音のような通知音が鳴った。店長はポケットからスマートフォンを取り出すと、画面を見てちょっとだけ表情をゆるめた。
「……彼女からですか?」
「うん」
最後の一口をそのままに、スプーンを置いてスマートフォンを操作する。わたしと話している時には見せない、優しい顔。特別な表情。
急速に心が冷えていくのを感じた。残りのチャーハンを一気に口に詰め込んで、「ごちそうさまでした」と席を立つ。
「あれ、もう食べたの?」
「はい。おつかれさまでした」
「あ、うん。おつかれ」
食べ終わった食器を片づけ、わたしは足早にその場を離れた。ご飯を食べたばかりなのに、なんだかおなかが膨らまない。食べる前より満たされない。心が、体が、からから、からっぽ。
逃げるようにファミレスから出たら、急に瞳が潤み出した。おかしいな、何でだろうな。慌てて手の甲で目をこする。店長のことなんて全然すきじゃないのに。何でこんなに悲しいんだろう。
この人もどうせ、他に大切な人がいる。どれだけわたしのことを気にかけてくれても、どれだけ大切にしてくれても、やっぱりわたしは一番じゃない。わたしは、いつもひとりぼっち。それを思い知らされた気がしたんだ、きっと。
二番目でもいいなんて嘘です。さみしかったらさみしいと言いたい。会いにきてと言える資格がほしい。わたしはいつだって、最優先の権利がほしい。
ポケットに入れたスマートフォンは死んだように黙り込んで、ほしい知らせを運んではくれなかった。
若者の日常なんてそうそう変わるもんじゃない。学校に行って、授業を受けて、部活動をして、帰る。夏休みというイレギュラーを除けば、その繰り返し。
一方、不登校児のわたしの日常はもっと単調だ。
「こちら、ハニーロイヤルミルクティーになります」
翌日、午後三時。本日のわたしは、「リトル」という小さなカフェで接客中だ。昨日とメニューが違うだけで、仕事内容は変わらない。わたしの、二つ目のバイト。「ハッピーベア」と違って、都会の喧騒から外れた場所にあるため、それほど客数は多くない。時給もよくはないけれど、店の雰囲気とゆるさが気に入っていて、もう半年ほど続いている。労働時間も特に決まっていない。自分のすきな時に働いて、すきな時に帰る。それが定番。
「りせちゃん、もう上がっていいよ」
この日はオーナーの一言で、十九時に店をあとにした。
「おつかれさまでしたー」
あまったクッキーを手土産に帰路に着く。空を見上げると、太陽が西の空を赤色に染めていた。薄い雲が長く伸びて、空を泳ぐ魚のようだ。頬を撫でる生ぬるい風が、夏のにおいを連れてやってくる。夏草の青さと、元気をなくした蝉の声。もうおかえり、と急かすように、カラスが頭上を飛んでいく。スマートフォンの通知を気にしながら、河川敷をだらだらと歩いた。
結局、昨日は柊くんから連絡が来ることはなかった。仕事が忙しかったのだろうか。教師って、夏休みは一体何をしているんだろう。部活とか、補習かな。連絡をする時間もないくらい忙しいのかな。何度目か分からない杞憂を繰り返す。通知なしの通知を見て肩を落とす、そんな自分がきらいだ。
分かっている。忙しさは関係ない。いつも連絡が途絶えないのは、わたしが連絡しているからにすぎない。柊くんは返事をしているだけ。わたしが連絡をしなければ、柊くんも連絡してこない。柊くんにとってこのやりとりは、わたしほど特別な意味を持たないのだ。
「不安になるくらいなら、自分から連絡をすればいいのに」
こんなことを雫に話したら、きっと彼女はそう言うだろう。変な意地を張らないで、素直に甘えてみれば? って。そんなの、わたしだってそうしたい。だけどわたしにはその権利がない。素直に甘える権利を持つのは恋人だけ。特別な存在だけ。その名を持たないわたしが、頻繁に連絡なんてできないの。
そこまで考えて、わたしはぎゅうっと両目をつぶった。涙を目の奥に引っ込めて、ぱっと開く。やめよう、考えてもしかたない。そう思うのに、自然と歩行速度が落ちていく。バイトに行く時は急ぎ足なのに、家に帰るときはいつもそうだ。
帰りたくないなぁ。
誰に言うわけでもなく、心の中でつぶやいた。帰りたくない。帰る場所なんてない。お姉ちゃんの近くに、いたくない。幸せそうな顔なんて見たくないから。わたしが知らない柊くんを、知りたくないから。
でも、それでも会ってしまうのは。
姉妹だから、かな。
「りせ」
背後から名前を呼ばれ、両足をとめた。胃がきゅうっと締めつけられる。夜に怯える子供のようにおそるおそる振り向いたら、もう逃げることはできなくなった。
「お姉ちゃん」
わたしはいつも、その名を呼ぶたび呪いを吐き出すような感覚に陥る。すきな人に愛されない呪い。すきな人と、結ばれない呪い。それをかけた張本人。
だいすきな、わたしの姉。
小咲お姉ちゃんは、口の端に穏やかな笑みを携えてわたしに近づいてきた。
「偶然ね。バイト帰り?」
「うん……」
わたしはぎこちなくうなずいて、お姉ちゃんを頭のてっぺんからつま先まで眺めた。一つにくくった髪の毛、控えめな化粧、上品なシャツに黒のタイトスカート。手に持っている買い物袋は、仕事も家事もできる女の証。バイトくらいで自立した気になっているわたしとは違う。
「荷物、半分持つよ」
「そう? ありがと」
せめてもの背伸びをするように、お姉ちゃんの手から買い物袋を奪い取った。仲よし姉妹を装って、肩を並べて歩いていく。
こんな風にふたりで歩くのは何年ぶりだろう。小さい頃、わたしはお姉ちゃんがだいすきだった。ちーちゃんがわたしに辛くあたるたび、守ってくれたのはお姉ちゃんだった。テストで満点を取った時、褒めてくれるのはちーちゃんじゃなくてお姉ちゃんだった。友だちと喧嘩をした時、楽しいことがあった時、お姉ちゃんはいつも話を聞いてくれた。優しくて、頭がよくて、かわいい。わたしの自慢のお姉ちゃん。
わたしは今、あなたの目を見ることができない。
「今日もバイト?」
「うん」
「毎日大変ね。わたしより働いてるんじゃない?」
「そんなこと、ないよ」
スムーズに答えているはずなのに、どうしてだろう。一言一言口にするたび、空気が冷えていくように感じる。コンクリートに伸びた二つの影はどこかいびつで、永遠に重なることはない。背後に迫る太陽が、じりじりと背中を焦がしていく。
ああ、暑いな。呼吸が苦しいな。
喉が、乾くな。
「……ねぇ、りせ」
改めて名前を呼ばれると、わたしの肩は跳ね上がる。何か、重要なことを言われるような――隠しごとが、見つかったような。
そんな、予感、が。
「やっぱり、うちには戻りづらい?」
だけど、お姉ちゃんが口にしたのは、予想と全然違う言葉だった。わたしは思わずお姉ちゃんを見た。お姉ちゃんは困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべていた。
「もうずいぶん経つよね、りせが離れで暮らすようになってから」
「そう、だね」
「最初はびっくりしたけど、むりもないかなって思ったよ。お母さん、わがままだし、りせにばっかり辛くあたるし……。りせのこと、きらいってわけじゃないのよ。大切には思ってるの。だからこそ、わたしができるだけフォローしなきゃって思ってたんだけど……うまくできなくてごめんね」
「そんな……お姉ちゃんのせいじゃないよ」
わたしは慌てて首を振った。どうやら、わたしが家を出たのはちーちゃんとの確執が原因だと思っているらしい。
「わたし、ちーちゃんのことそこまで気にしてないもん。確かに仲よくはないけど……」
「そう? それならいいんだけど……」
「別に、特別な理由はないの。元々ひとりの方がすきだし、居心地がいいの。ちーちゃんと顔合わせると喧嘩しちゃうし……だから、今のままがいいの」
言い訳を並べると早口になった。悟られてはいけない。本当の理由を、知られてはいけない。そしたらわたしは、きっとすべてを失ってしまう。お姉ちゃんはそう、とうなずいたきり、何も聞いてはこなかった。
「今日、しょうが焼き作ろうと思うの。よかったら手伝ってくれない?」
「え、でも……」
「いいじゃない、たまには。家族なんだから」
家族。なんだか脅しのような単語だ。わたしと同じ色の瞳が、脅迫のようにわたしを見つめる。わたしはいつもこの瞳に怯えている。すべてを見透かしたような、大きな瞳。
「……うん、分かった」
なるべく自然を装おうとしたら、頬の筋肉がつった。痛い。逃げ出すことに失敗して、心臓がきゅうっと締めつけられるのを感じた。ばか、何で了承したの。もうひとりの自分が怒っている。傷つくのも、傷つけるのも分かってるでしょ。
その時、ポケットにしまっていたスマートフォンが震えた。取り出して見ると、柊くんからメッセージが届いていた。震える心を押し殺して、お姉ちゃんに気づかれないようメッセージを見る。
『夕焼けがきれいですね』
短いメッセージとともに添えられていたのは、燃えるような夕焼けだった。わたしは振り向いて空を見た。
写真と同じ、息を呑むほど深い、赤。薄く延びた雲。沈む太陽。頬を撫でる風すらも、夕焼けのにおいがしそう。
「りせ?」
足をとめたわたしを、お姉ちゃんが呼ぶ。もう、わたしの耳には届いていない。
そう、こうして世界は色づいていく。何気ない風景も、途端に価値のあるものに変わってしまう。あなたの言葉一つで世界が変わる。心が震える。喜びも悲しみも、幸福も不幸もあなた次第。
その理由をわたしは知ってる。
恋を、しているからだ。
自分の家なのに、靴を脱ぐ時ちょっとためらってしまうのはなぜだろう。たぶん、答えは分かっている。玄関に飾られた写真が、わたしを責めているような気がするからだ。
「あれ、あんたたちふたりでいるの。めずらしい」
リビングに入ると、ちーちゃんがソファに座ってテレビを見ていた。煙草の煙が目に染みる。わたしはむっと顔をしかめた。
「いい加減、煙草やめたら」
「やーよ。あんたこそ、いい加減学校行ったら」
「もう、やめてよ。親子なんだから」
ギスギスした空気を破くように、お姉ちゃんがわたしたちを制した。ぷん、と子供のように顔を背けるちーちゃん。わたしは目を合わさず、お姉ちゃんと一緒にキッチンへ移動した。買い物袋から食材を取り出して、夕飯の準備を始める。
こんな風にふたりで料理をするなんて、なんだか気恥ずかしい。わたしがキャベツを切って、お姉ちゃんが豚肉を焼く。姉妹の分担作業だ。ちーちゃんはめったに料理をしない。わたしたちが子供の頃は、いつもスーパーで買ったお惣菜か出前のピザだった。栄養が偏らないように、と、お姉ちゃんが家事を始めたのは高校生の時。わたしにとって家庭の味は、お姉ちゃんの手料理だ。
できたてのしょうが焼きを、何年かぶりに家族三人で食べた。大抵の私物は離れに移したのに、ちゃんと今でもわたしの分のお皿があって、コップがあって、箸がある。どれだけ足掻いたって逃れられない。ここは、わたしの生まれた場所。
「あんた、料理なんてできたの?」
しょうが焼きを口に含みながら、ちーちゃんが目を真ん丸くした。
「ちーちゃんよりはね」
「あっ、また生意気言って! ほんとむかつく」
「ふたりとも、落ち着いて食べなさい!」
キャットファイトを繰り広げようとしたら、お姉ちゃんの怒鳴り声が飛んできた。こうなったら、わたしもちーちゃんもおとなしくなるしかない。昔から、この家の大黒柱はお姉ちゃんだ。
結局、会話らしい会話もせず、あっという間にお皿がからっぽになった。働き疲れた胃袋はいっぱいに膨らんで、食欲が満たされたのを実感する。
「あんたにしては、おいしかったんじゃない」
ちーちゃんはぶっきらぼうに吐き捨てると、さっさと自分の部屋にこもってしまった。相変わらず素直じゃない。幼稚な母親にあきれてしまう。
わたしたちは、昔からこうなのだ。他の親子より仲が悪いけれど、他人から見るほど深刻じゃない。たぶん、わたしとちーちゃんは親子というより「ちょっと仲の悪いクラスメイト」みたいな距離感で、気は合わないけれどさして問題ではなく、ほんのちょっとのきっかけで仲よくなれる可能性を秘めている。そんな、関係なのだ。だから別に、愛してほしいとも思わないし、仲よくなりたいとも思わない。わたしにとってちーちゃんは、親でもなく友だちでもなく、だからといって他人でもない。おなかから産み落とされた以上、この縁が強いことを、わたしは知ってる。そして、ちーちゃんも。
食事を終えたあとは、再びキッチンに戻って洗い物を手伝った。お姉ちゃんが洗って、わたしがタオルで拭く。こうしていると、昔に戻ったみたいだ。何もかも忘れられるような安心感に包まれて、自然に顔がほころんだ。お姉ちゃんの横顔をちらりと見る。ショートボブの髪がふんわりと揺れて、いいかおりがする。ああ、やっぱり、だいすき。
「お母さん、あれでも一応心配してるのよ。分かりづらいけど」
「うん、分かってる」
「ふたりにはもっと仲よくなってほしいな。いつまでも三人でいられるわけじゃないんだから……」
お姉ちゃんの何気ない言葉に、心臓がどくん、と跳ねた。お皿を拭いていた手がとまる。
あ、だめだ。わたしは直感的に考えることをやめた。深く考えちゃだめ。その言葉の意味を、理解しては、だめ。
「りせは、気になる子とかいないの?」
「えっ?」
わたしは危うくお皿を落としそうになった。
「い、いるわけないじゃん! 学校もろくに行ってないのに……」
「バイト先の先輩とか、中学の同級生とかは?」
「もぉ、やめてよ。そんな簡単にすきにならないもん」
必死に否定すると、お姉ちゃんはふふ、とおかしそうに笑った。
「りせはかわいいから、すぐにいい人見つかるよ。大切にしてもらえるだろうし……」
不自然に途切れた言葉が、空中に溶ける。「どうしたの?」と尋ねたら、お姉ちゃんはううん、と首を振った。
「ちょっとうらやましいなぁって」
「何で?」
「だって、りせはまだ若いし、いろんな出会いがあるじゃない。柊くんとはもう付き合って長いから、ときめきなんか感じないもん」
「……そうなの?」
無意識に、眉と眉の間が近くなった。お皿を拭く手は、もう完全にとまってしまった。お姉ちゃんは不満そうにうーんと唸った。
「優しいは優しいんだけどさ、それだけだよね。もう家族って感じで。女としては見られてない気がするもん。ま、それはそれでいいんだけどさ、たまにむかつくかな」
「へぇー……」
わたしは平然を装って相槌をうった。微かな苛立ちがむくむくと育って、今手に持っているお皿を、思い切り床に叩きつけたくなった。
「この間もさ、せっかく柊くんの部屋に行ったのに、ただ寝てるだけなんだもん。昔はかまってくれたのに……」
――うるさいなぁ!
心の中のわたしが、わたしの代わりに咆哮した。
やめて、やめてよ。わたしの知らない柊くんなんて聞きたくないの。今すぐ耳を塞ぎたいのに、弱虫なわたしはそれすらできない。ねぇ、その話前も聞いたよね。悪口を言うくらいなら別れればいいのに。どうしてそれをしないの。どうして、わたしを飼い殺しにするの。
心の中で吐いた暴言も、生まれた疑問も、どうしようもない虚しさも、音にならず消えていくだけ。誰にも伝わらない。苦しみも悔しさも、理解してもらえない。だからこうやって、唇をぐっと噛み締めて、作り笑いの準備をする。
ちょうど洗い物を終えた頃、お姉ちゃんのスマートフォンが愉快な音を立てた。
「もしもし、柊くん? ……え?」
電話の相手は柊くんのようだった。それにまた、いらいら。洗い物も終わったし、離れに戻ろうかな。リビングを出ようとしたら、お姉ちゃんがこっちを向いた。
「柊くんが、今からお土産持ってきてくれるって」
「えっ!」
思いがけないサプライズに、喉の裏側から声が出た。
「な、何で? お土産? 何の?」
「なんか、生徒のお母さんにケーキもらったらしいよ。でも、柊くん甘いものあんまりすきじゃないから」
知ってます。苦手なものは甘いもの、すきなものはオムライスです。
ああ、どうしようどうしよう! もう当分会えないと思っていた! でも、いきなり会うとなると、それはそれで困る。だって、こんなに髪もぼさぼさだし、メイクもしてないし、服だって安いシャツとショートパンツだし。全然、かわいくないんだもん!
お姉ちゃんによると、あと十分ほどで到着するということなので、わたしは洗面所にこもり、できる限り不自然にならないようメイクをした。
ピンポーン。
タイムリミットを告げるチャイムが鳴る。はぁい、とお姉ちゃんが玄関に向かう。これが自分の部屋だったら真っ先に飛び出すのだけれど、ここではそうもいかない。わたしは洗面所からこっそり様子をうかがった。
「悪いな、いきなり」
玄関から柊くんの声が入ってくる。低くて優しくて、まぁるい声。いつまでも聞いていたい、心地よい音色。もっと近くで聞きたくて、おそるおそる玄関に出た。
「し、柊くん」
お姉ちゃんの後ろから、おずおずと声をかける。柊くんはぱっとこちらを向いて、満面の笑みを浮かべた。
「久しぶり、りせ」
「……久しぶり、柊くん」
口の端をくいっと上げて、いつもお決まりの台詞を言う。最後に会ったのは昨日。でも、公式には二週間前。
あなたに出会ってからわたしは、嘘がうまくなったわ。
柊くんにもらったケーキを体に取り込んでから、わたしは離れに戻った。
キャンドルに光を灯すと、天井に人工の星が浮かび上がった。ちゃんと電気は通っているのだけれど、薄暗い方が落ち着くので、大抵こうしている。深海にたまったごみくずのように、床にはありとあらゆるものが散乱していた。さすがにそろそろ掃除をしなければ。近くに捨てられていたスカートを足で払いながら、わたしはげんなりと肩を落とした。
ほんの数ヵ月前までは、もっと片づいていたのにな。最近、柊くんはうちに来てくれない。まあ、元々頻繁に来ていたわけじゃないけれど。わたしが風邪をひいていた時、お見舞いに来てくれたのが最後。桜が満開だったから、あれは確か四月のこと。
部屋は心を表すと思う。心が落ち着いている時はきれいで、悲しかったり苦しかったりすると、部屋の中も荒れていく。最近のわたしは台風が停滞しているように荒れ狂っていて、その証拠に、部屋の中はぐちゃぐちゃだ。もうこの状態に慣れてしまったけれど、座る場所くらいは確保しなければ。
わたしはしゃがみ込んで、手の届く範囲にあるものから片づけ始めた。大抵は服だった。この一年で、がらりと服の好みが変わった。昔はレースとか、花柄とか、女の子らしいものがすきだったけれど、最近はロングスカートとか、大人っぽい服を好むようになった。おかげで服が溢れてしかたない。適当に畳んでは、衣装ケースの中に戻す。洋服が一段落したら、今度は本やCDだ。大抵は柊くんから薦められたもの。「コペルニクス」というアーティストも、知ったのはつい最近だ。柊くんに教えられるまで、名前すら知らなかった。今では知らない曲はないくらい、歌詞を見なくても歌えるくらい、心の奥に刻み込まれてる。
CDの山を崩していったら、ぼろぼろのノートがひょっこりと顔を出した。わたしはタイムカプセルを掘り起こした気分になって、素早くノートを手に取った。色褪せたノートの表紙には、子供っぽいまん丸な字で、「家庭教師のぉと」と書かれている。そばにはぶさいくな猫のマーク。柊くんの落書きだ。わたしは懐かしさに目を細めた。
わたしと柊くんが出会ったのは三年前。当時わたしは中学二年生、絶賛反抗期。長年積み重なったちーちゃんへのいらいらがとうとう爆発し、ご飯も食べない、勉強もしない、お姉ちゃんにすら牙を向けるとんでもない女の子だった。
その時わたしはまだ、お姉ちゃんたちと同居していた。六畳ほどのわたしの部屋はとても狭かったけれど、広いリビングにちーちゃんといるよりは全然息苦しくなかった。お姫様みたいなベッドと、用途を守っていない勉強机、クローゼット。たくさんのぬいぐるみがぎゅうぎゅうと敷き詰められた、わたしのお城。ちーちゃんもお姉ちゃんも踏み込ませないその空間に、ある日、侵略者が現れた。
その年の九月九日は金曜日だった。窓から見えた月がテカテカと白く輝いていたのを覚えている。凶暴なわたしの元にお姉ちゃんが家庭教師として送り込んだのは、当時大学生だった恋人、柊くんだった。スクランブル交差点のようにごちゃごちゃしたこの部屋で、柊くんはまるで避暑地に来ている金持ちみたいにリラックスしていた。初対面だというのに勝手にベッドに腰かけて、手元にあったぬいぐるみをミキサーのようにこねくりまわし、
「よぉ、りせ」
と、まるで昔からの知り合いみたいに、わたしの名前を呼んだのだ。
狂犬みたいに荒れていたわたしは、その失礼な声にものすごく警戒した。なによ、馴れ馴れしくしないでよって。どうせあんたもわたしの栗色の髪をめずらしそうに見て、むだに整った顔を褒めて、つまんない話をするんでしょ。分かってんのよ、そんなこと。わたしは世界を斜めに見るくせがついていた。でも柊くんは、もっと傾いた角度でわたしを見ていた。誰しもが賞賛するわたしの美貌を見て、柊くんが最初に放ったのは、「おい、ぶさいく」という痛烈な一言だった。
「何ふてくされてんだよ。根暗な美人より明るいブスのがモテるんだぞ」
「な、何それっ!」
わたしはかちんときて、二つに縛った髪の毛をびゅんって鞭のようにしならせた。柊くんはくっくって喉で笑って、おいでおいで、と自分の隣に手招きをした。わたしは警戒しながらじりじりと柊くんに近づいて隣に座った。
その時の会話は、一字一句覚えてる。
家庭教師として雇われているにもかかわらず、柊くんは最初、まったく勉強を教えてくれなかった。代わりに柊くんが教えてくれたのは、星の話だった。
「星がどうやって生まれるか知ってる?」
わたしは情けない声で、「そんなの分かんないよぉ」と首を振った。柊くんはちょっと待てよぉ、と言いながら、スマートフォンをわたしに見せてくれた。
「これ、オリオン大星雲。こういうとこで、奇跡みたいな化学反応が起こるの。おもしろいだろ」
「へぇーっ、詳しいね」
「そりゃ、先生だからな!」
わたしのきらきらした眼差しを受けて、柊くんは得意げに笑った。その少年みたいな笑顔に、わたしはすっかり懐いてしまったのである。
毎週金曜、十九時。わたしのゴールデンタイム。学校が終わってもなかなか帰宅しないわたしだけれど、金曜は風を切るように家に帰って、部屋を片づけて、ちょっと軽めのメイクをして柊くんを待った。
教員免許を持っているだけあって、柊くんはとても教え方が上手だった。わたしが分からないところは丁寧に教えてくれて、テストでいい点数を取ったらまんべんなく褒めてくれた。相変わらずわたしをぶさいくって言うし、いじわるばっかりするけど、褒める時に頭を撫でてくれる、その手がすきで。最下位に近かったわたしの成績は風に乗った凧のように急上昇、十二月の期末テストでは、なんと学年五位になってしまった。
「すげーな、りせ。やるじゃん!」
いつものゴールデンタイム。成績表を見せると、柊くんは大きく仰け反って、それからムツゴロウさんのようにわたしの髪をぐちゃぐちゃにした。もうっ、せっかくかわいくセットしたのに! いつもなら怒るところだけど、この日のわたしはもう、空にも飛べそうなくらいの気持ちだったから、えへへ、ってはにかむことしかできなかった。
「頑張ったご褒美あげないとなぁ。何がいい?」
「えっと、えっとね」
「ん?」
「……ほんとに、何でもいいの?」
「いいよ。何?」
柊くんが、隣に座ってるわたしの顔をのぞき込んでくる。わたしはもう、どうにでもなれ! って思って、勢いよく願いを告げた。
「柊くんと、遊びたい!」
「え? 何して?」
「それは、それは、な、何でも!」
「そんなんでいいの?」
わたしは何度もうなずいた。顔が真っ赤になって、柊くんをまっすぐ見れない。柊くんはうーんと唸ってから、「明日暇?」と聞いてきた。
「ひ、暇。朝から晩まで暇」
「じゃあ、おれんち来る?」
「へっ」
「前、星の写真見たいって言ってたろ。うちにいっぱいあるから、見せたげる」
「……行く!」
わたしはとんでもなく飛び上がって、大げさだなぁと笑う柊くんをにこーって見つめた。この時すでに、わたしは柊くんのことをすきだったんだと思う。そりゃ、お姉ちゃんの恋人ってことは分かっていた。でも、なんというか、奪いたいとか付き合いたいなんてちっとも考えていなくて、一緒にいるのが楽しいから、もっともっと一緒にいたいな、って、本能のままに行動していたの。
わたしはそれまで、人をすきになったことがなかった。告白はされたことがある。付き合ったことも、一応ある。でもわたしはやっぱりすきって感情が分からなくて、キスをしたいとも思わなかったし、させなかった。柊くんのことも、別にキスしたいとか、そういうやましい感情は一切なくて、子供が親戚のおにーちゃんに懐くような感じだったんだと思う。この時までは。
忘れもしない、十二月三日、土曜日。その日はインクをこぼしたように濃淡がある空で、わたしはお気に入りの白いニットとセットアップのスカートを履いて、柊くんの家の最寄り駅でそわそわ待っていた。風で乱れる前髪を直していたら、寒そうに首を縮めた柊くんが現れた。緊張しているわたしを見て、「なんか、外で会うと変な感じだな」とぎこちなく笑った。あれ、もしかして柊くんもちょっと照れてる? そう思ったのは一瞬で、すぐいつもの余裕綽々の顔に戻った。
ちょうどお昼時だったので、近くにあったレストランでランチをした。男の人とふたりでランチなんて初めてだから、デートみたいだなぁと思った。柊くんは、そんなこと思ってないんだろうけど。わたしの分までさらりとお金を出してくれるところとか、道路を歩く時車道側に立ってくれるところとか、細かいところに感動したの。あ、ちゃんと女の子扱いされてるって、嬉しくなったの。
レストランを出たあとは、スーパーで買い物をしてから柊くんの部屋に行った。柊くんは五階建てのアパートの三階に住んでいた。どうぞ、と招かれるままに足を踏み入れた瞬間、あ、もしかしてこれって悪いことなんじゃないかな、って、初めて不安が襲ってきた。こういうの、お姉ちゃんに見られたら怒られるんじゃないかな。普段は優しいお姉ちゃんだけれど、怒るととってもこわい。わたしとちーちゃんが喧嘩すると、優しい目を鬼のようにつり上げて、ぐわっと雷様のように怒る。地震、雷、火事、お姉ちゃん。そんなレベル。
だけど別に、付き合ってるわけじゃないし。家庭教師のお兄ちゃんと、場所を変えておしゃべりするだけ。別に悪いことじゃない。そう納得させて、わたしは柊くんの部屋にお邪魔した。
柊くんの部屋は、すごくごちゃごちゃしていた。わたしの部屋がおもちゃ箱だとしたら、ここは宇宙空間だった。衣服の惑星、カバンの惑星、CDの惑星、本の惑星。それぞれ場所が決まっていて、でも、ぐちゃぐちゃ。壁にはいろんな星の写真が飾られていた。わたしは緊張も忘れて、その壮大な宇宙に見入った。出会った時に見せてくれた、オリオン大星雲。デネブ、アルタイル、ベガ。夏の大三角形。まるで魔法みたいな流星群の写真。目を奪われていたら、柊くんが後ろから「座れば?」と声をかけてきた。わたしはぎこちなくその場にしゃがみ込んだ。
「すごいね、写真。きれい」
「そーだろ。もっとあるよ。その前に、煙草吸っていい?」
「柊くん、煙草吸うの?」
「うん。実はヘビースモーカー」
柊くんはベランダに出ると、煙草を一本取り出して、ぽっとライターで火をつけた。わたしはもぞもぞと四つん這いになりながらベランダのそばまで行って、ぼーっと煙草の火を見つめた。柊くんが、ん、とこっちを見て、大人っぽく目を細めた。
風が、強く吹いた。
オレンジ色の灯を見た瞬間、ああ、素敵だなと思った。同級生の男の子よりずっと大人で、いじわるなこの人を。心の底から、愛しさがこみ上げた。その長い腕に抱き締められたい。もっとこの人を知りたい。そう、思ってしまったのだ。
突如生まれた感情をどうしたらいいか分からずに、わたしはじっと柊くんを見上げた。「待て」と命令された犬のように、柊くんが煙草を吸い終わるのを待った。柊くんはのんべんだらりと煙草を吸いながら、「流れ星ってさぁ」と口を開いた。
「肉眼では見えないけど、毎日二兆個くらい降り注いでるんだって」
「えっ、そんなに? どこ?」
「だから、見えないんだってば」
柊くんはわたしのおでこを指で弾いた。ぐぃん、と頭がのけぞる。結構痛い。柊くんは煙草を灰皿に押しつけて、ベランダから部屋に戻ってきた。ぴしゃりとベランダの窓を閉めたら、風の音がシャットアウトされて、静けさが響いた。
柊くんが脱力するようにベッドに腰かけたので、わたしもそそくさと隣に移動した。柊くんはぼんやりと壁にかかっている星の写真を眺めた。
「時々思うんだよ。流れ星が全部目に見えたら、すっげーきれいなんだろうなぁって。ま、そんなこと絶対むりなんだけどさ……」
「流れ星は、どこに行くの?」
「ん? 流れ星は、地球に落ちてるんだよ」
「えっ?」
「でも、地上に落ちる前に大気圏で燃やされちゃうの。たまに燃やされないものもあって、それが隕石」
「へぇーっ! 柊くん、物知り!」
「ま、先生だからな」
いつものように誇らしげに、柊くんが胸を張る。それからちょっとばかにしたように、
「りせは何にも知らないんだなぁ」
「うん。だから、もっと教えて。わたしの知らないこと、もっと知りたい」
「星のことだけ?」
試すように、聞かれた。わたしはびっくりして、魔法にかかったようにぴたりと動きをとめた。ふっと、柊くんの目が細くなる。
最近、柊くんはわたしを見る時こういう目をする。なんというか、子供を見つめる時のような、愛しくてたまらないって瞳。その顔を見るたびに、鼓動が高鳴るのを感じる。
「……ううん」
わたしは小さく首を振って、柊くんの顔をのぞき込んだ。
近くで見た柊くんは、まつげがとっても長かった。まん丸な目は、小さな宇宙みたいにきらきらしていた。柊くんがおいで、って言うみたいに微笑んだので、わたしはどきどきしながら、柊くんの膝に手を置いた。
「柊くんの、ことが知りたい」
「ほんとに?」
わたしは何度もうなずいた。柊くんはけらけら笑って、わたしの腰に両腕を回すと、まるでぬいぐるみを抱きかかえるみたいにぎゅっと抱き締めた。わたしはひゃあっと飛び上がって、でも逃れることなんかできなくて、親に甘えるみたいに抱き締め返した。そしたら世界があっという間に反転して、気づいたら、天井が正面にあった。影の入った柊くんの顔は、知らない男の人みたいだった。わたしはちょっぴりこわくなって、これから起こるすべてのことを想像して、どきどきした。でも、柊くんが安心させるように微笑んだから、わたしはそっと、両目を閉じることにしたのだ。やわらかい唇と唇が重なって、それから、わたしのちっぽけな意識は宇宙の果てまでぶっ飛んだ。これからどうなるのかとか、どうするのが正解だとか、そんなこと、どうでもよかった。
この時わたしは、世界のすべてを知った気になったのです。
いろんなことを思い出したら涙がじんわり染み出してきたので、わたしは慌ててシャワーを浴びた。髪を乾かす気力もなく、ばたんとベッドに倒れ込む。暗い部屋で、スマートフォンの明かりだけが、夜の電灯みたいに青白く光っている。
『ケーキありがと』
メッセージを送ったら、すぐに返事が来た。
『喜んでくれてよかった。髪乾かして寝ろよ』
わたしはがばっと起き上がって、きょろきょろと周囲を見渡した。じっと目を凝らしてみるけれど、当然のことながら人の気配はない。あーあ、何でもお見通しだなぁ、と息を吐いて、しぶしぶドライヤーを手に取った。
ごおおおお。
乱暴な風が吹く。
テーブルの上に開きっぱなしのノートが、過去からわたしを見ている。拙い方程式と、赤ペンで書かれた花丸。この頃は、考えることなんて何もなかった。罪悪感も抱かず、未来に悲観することもなく、今感じる幸せがすべてだと思えた。目の前にある幸福を、素直に楽しいと思えた。涙も一緒に乾かすみたいに、時折、ドライヤーを顔にあてる。ぶわぁっと熱い風が両目を襲って、目の奥がじぃんと痛くなった。八割ほど髪を乾かし終えたら、乱暴にドライヤーを放り投げて、もう一度、ベッドにダイブした。しぃん。しぃん。さみしさが鳴って、ああ、うるさい。耳を塞ぐように、枕に顔を押しつけた。
まだほんの少ししか時は流れていないのに、どうしてこんなに悲しくなってしまったんだろう。きっともう、すぐそこに迫ってる。雪はもうすっかり溶けて、春の桜も散ってしまった。夏の太陽も、もうすぐ沈んでしまう。
ふたりでいる時、柊くんはたくさんわたしを甘やかす。頭を撫でて、ぎゅうっと優しく抱き締めてくれる。言葉で伝えてくれることは少ないけれど、愛だけは確かに感じる。この間だってそう。口では面倒そうに言うけれど、顔を近づけたらにこって笑って、わたしを優しく受けとめてくれた。それでいい。それだけでいい。頭を撫でて顔を触って、猫じゃらしのように目の前で愛情をぶら下げるの。
――そうやって、わたしを犬猫みたいに扱って。
目覚めた時には何もなくなる。分かっているの、そんなこと。
枕がじんわりと濡れていった。悲しいな。切ないな。伝わらないな。今日もわたしは、泣きながら夢に潜り込むのだ。
八月の中旬になると、気温も蝉の鳴き声もピークを迎えた。
夏といえば入道雲。海にプールにかき氷。夏祭りに線香花火。ラブソングの歌詞みたいな単語を並べれば並べるほど、自分には無関係だと思い知らされる。
「いらっしゃいませー」
今日も今日とて、わたしは「ハッピーベア」で仕事に精を出す。
柊くんは顧問であるバスケ部の合宿で一週間いない。教師って、夏休みは暇なものだと思ってたけど、どうやらそうでもないらしい。補講をしたり、部活の顧問をしたり。柊くんがいないさみしさを紛らわせるように、わたしはバイトをぎゅうぎゅう詰めにしていた。
「……蓮城、最近太った?」
客入りのピークがちょっと過ぎた時間帯。休憩室で一息ついていたら、店長がいきなりとんでもないことを言ってきた。
「えっ、うそ!」
「いや、元々細いんだけど。なんつーか、腹回りが」
「やだー! 何でそんなこと言うの! そういうこと言うからモテないんですよ」
「今更モテなくてもいいもん」
店長はふんっと鼻を鳴らした。わたしは自分のおなかを摘まんで、うっと唸った。最近、柊くんに会えないストレスで甘いものを食べすぎたかもしれない。
「ストレスためてんだろ、まかないめちゃくちゃ食ってたもんな」
「そんなとこ気づかなくていいんですけど」
「心配してんだよ」
「わたしの体重なんて心配してくれなくていいの」
「いや、そっちじゃなくて」
店長はうーん、と、ちょっと言いづらそうに口を開いた。あ、またおっさんくさいことを言おうとしてるな。わたしは身構えて、そっと店長から距離を取った。
「めちゃめちゃ働いてくれるのはありがたいんだけどさ、ちゃんと遊んでるか? 働くのなんて社会人になったらいやでもするんだからさ、夏休みくらい遊んどけよ。将来働き口がなかったら、ちゃんとおれが面倒見てやるから……」
「えぇ、わたし、一生ファミレス?」
「文句言うな。おれだって、今はしがない店長だけど、金が貯まったら……」
そこで店長は、しゃべりすぎた、というように口をつぐんだ。
「何で黙るの? お金が貯まったらどうするの?」
「いや、別に、大したことじゃないけど……」
「何でそこまで言ってはぐらかすんですか。教えてくださいよ、ねぇねぇ」
よれよれのエプロンを引っ張ったら、店長は観念したように「分かった、分かった」と語り始めた。
「おれの実家、和菓子屋でさ。でも、数年前の大地震で家が壊れてから休んでるんだよ。だから、金が貯まったらリフォームして、和菓子屋継ぎたいなって……」
「……へぇーっ、夢があるんですね」
ちょっと意外だった。店長はいつもだらだらしていて、夢とか将来とか、そういうのには無縁な人だと思っていたから。
「和菓子屋って、かわいいなぁ。再開したら行ってみたい」
「おー、うまいぞうちは。ぜひ来てくれよ」
店長は嬉しそうににやりと笑った。
「だから、行くあてなかったらちゃんと大人を頼れよ。そんな片意地張らなくてもいいんだ、子供は」
「またそんなこと言って! 何でそんなに、わたしのこと心配してくれるの?」
「そりゃするだろ」
「……でも、一番じゃないでしょ」
わたしはちょっと声を低くした。エプロンを翻し、店長に背を向ける。レジでお客さんの呼ぶ声がする。ああ、もう行かなきゃ。
「一番じゃないなら、いらない」
吐き捨てたら、店長の苦い視線が背中に突き刺さった。あーあ、やだやだ。最近涙腺がやけにゆるい。些細なことで悲劇を連想しては、ぽろっと涙が転がり落ちる。
――あなたに愛されてからわたしは、嘘がうまくなったわ。
あれも嘘。これも嘘。今のも、嘘。
一番じゃなきゃいやなんて、他の人には言うくせに。だったらなぜあの人に縋るのよ。会えない時間が長引くと、気分がどんどんセンチメンタルになっていく。憂鬱になっていく。愚痴を言いたくなってしまう。
会えない時間が愛育てるのさ、って言うけど。それは名前のある関係だから言えることだ。会えなくなって、連絡も取らなくなったら、わたしみたいなちっぽけな存在は、忘れられちゃいそうな気がしてこわい。忘れられても、責められない。何で会ってくれないの、って。そう主張してもきっと、望んだ答えなんて得られないから。さみしさを訴える権利を、わたしは持たない。
本日のバイトは十六時に終了。一直線に家まで帰ったわたしは、庭に着くと同時に雫に電話をした。
『もしもしぃ?』
たった三コールで出てくれる。ちょっと疲れたような声だ。
「ねぇ、今部屋にいる?」
『え? うん』
「ベランダに出てきて」
少し強引な口調で言った。ベランダの窓が開いて、スマートフォンを耳にあてた雫が出てくる。わたしはスマートフォンを耳から離して、大きく息を吸い込んだ。
「プール行こ!」
「え、今から?」
「今から!」
むだに視力がいいおかげで、雫が驚いているのがよく分かる。そうよね、普通の女の子なら、前日からちゃんと計画を立てて、朝から遊びにいくものよね。でも、そんな常識関係ない。わたしたちには意味がない。
「……いーよ」
「え?」
雫の声が聞き取れなくて、聞き返す。雫はちょっと恥ずかしそうにしたあと、夕方のぬるい風を思い切り吸い込んで、
「行く――っ!」
その絶叫みたいな大声に、わたしは声を出して笑った。
自転車で十分ほどのところにある区民プールは、ひとり五百円で何時間でも入れる、学生に優しいスポーツ施設だ。二十五メートルのレーンが八列。夕飯時の時間だからか、人はまばらだった。体力作りを目的とするお年寄りとか、大学生がちらほら。
店長に言われた憎い言葉を思い浮かべながら、わたしはがむしゃらに泳いだ。クロール五十メートル、平泳ぎ百メートル、バタフライ五十メートル。ついでに背泳ぎで五十メートル泳いだところで、ようやく足を床につけた。ふぅっと息を吐きながらゴーグルを外したら、隣のレーンにいる雫が、ぽかんと口を開けてわたしを見ていた。
「……りせは、人魚姫みたいね」
「え?」
「歌もうまいし、泳ぎもうまいし。きれいだし……」
「――叶わない恋をしてるのが?」
声に出してから、はっとした。雫の顔から表情が消えた。わたしはゆるく笑って、
「ごめん。じょーだん」
「ううん……」
雫は微かに首を振って、ゆっくりと水中を歩き出した。わたしは息をとめて水中に潜り、雫のレーンに移動した。
重力のない空間を、ゆっくりゆっくり歩いていく。冷たすぎない水の重さが心地いい。ふわふわ浮かぶような感覚が、非現実さを誘う。
こうして水の中を歩いていたら、現実なんて至極どうでもいいことのように思える。肌に絡みつくぬるい水。高い天井。非現実的な今も、水着を脱げば現実に戻る。家に帰って泣きながら眠って、なかなか来ないメッセージを待ちながら、朝から晩までバイト、バイト、バイト。
季節はどんどん変わっていく。きっと、わたしの知らないところで状況はどんどん進んでいる。なのにわたしは、明日も明後日も何の変哲もない日々が続く。わたしだけ、何も変われないまま。
「あーあ、楽しいことないかなぁ!」
叫ぶだけじゃ何も変わらない。分かっているけど、叫ばずにはいられない。少し前を歩いていた雫が、「楽しいこと?」と振り返った。わたしは強く床を蹴って、雫の隣までひとっ跳びした。
「雫はないの? 楽しいこと」
「うーん、別に、ないかなぁ……」
「奏真とどっか出かけたりしないの?」
びくっと肩が飛び跳ねた。ああ、実に分かりやすい。
「……今度、水族館行く」
「そうなんだ。いいじゃん、わたし、水族館すき」
雫はうぅん、と低く唸って、困ったように肩を水中に沈ませた。あ、またこの反応。
「どうしたの? 楽しみじゃないの?」
「……やっぱり、よく分かんないの」
雫は消え入りそうな声で言った。濡れた頬が紅潮している。
「奏真のことはきらいじゃないし、一緒にいて楽しいんだけど……。友だちだった時の方が、気楽だったかなって」
「キスとか、まだしてないの?」
「で、できるわけないじゃん、そんなの!」
「何で? 付き合ってるんでしょ」
「それは……」
雫はぐっと言葉に詰まった。わたしは追い詰めるように、わざと首を傾げてみる。雫の濡れた肩に手を置いたら、自然と、ふたりの足がとまった。
「……わたし、恋人ってよく分かんないよ。キスすらできない恋人って、付き合ってるって言うのかな。恋人の定義って、何なんだろう」
「そんなの……」
――そんなの、わたしが教えてほしいよ。
喉から出そうになった言葉を、わたしは慌てて飲み込んだ。
恋人じゃなくても、恋人らしいことはできる。手を繋いだりとか、キスしたり、とか。でもたぶん、それは永遠じゃない。恋人っていう肩書きがない限り、また同じことができるとは限らない。それを保証されているのが、付き合うっていうことだと思う。
わたしは立ちどまっている雫を置いて、少し早足で歩き出した。水の重みで足がうまく進まない。りせ、と雫が呼びかけてくる。わたしは肩越しに振り返って、いたずらっぽく笑って見せる。そうすると、雫は慌てたようにわたしを追いかけてきた。わたしは追いつかれないように、わざと歩調を速くする。ゆるすぎるわたしの涙腺が、また、疼き出したから。
雫がデートに乗り気じゃない理由を、わたしは知ってる。雫は本当の恋を知らない。奏真とどうして付き合い始めたのかは分からない。でも、雫の「すき」は友だちとしての「すき」で、男の人としての「すき」じゃない。だから、デートにもそんな乗り気じゃないんだ。
わたしはぐっと唇を噛み締めた。いいな、ずるいな。堂々とデートできるなんて、うらやましいな。「恋人」って言葉、あこがれるな。わたしの方が、何倍も焦がれているのに! ほしくてほしくてたまらないものを、雫は持ってる。望んでもいないくせに簡単に手に入れて、それで「友だちの方がよかった」なんて! ずるいなぁ。贅沢だなぁ――うらやましいなぁ。
こぼれた涙をごまかすため、わたしは水中に潜り込んだ。このまま、海の底まで沈み込めたらいいのに。
プールを出る頃には、空は赤色に染まっていた。夏の夕焼けって、なんだか哀愁が漂っていてきらいだ。楽しい一日をリセットされてしまうような虚しさがある。肌に絡みつく風はプールと同じぬるさで、水分を含んだ髪や肌をするりと乾かしては去ってゆく。遠くで騒ぐ虫たちが、太陽を急かして、夜へと向かわせているようだ。
雫のこぐ自転車の後部座席に乗って、坂道を勢いよく滑り落ちていく。きゃあきゃあ叫びながら校則違反をするのは青春の証。若さゆえの過ち、で片づけられるこの瞬間に、目一杯の悪さをする。それが、わたしたちの特権。
「夜ご飯、作ってあげる!」
自転車をこぎながら、雫が叫んだ。
「いいの?」
「野菜炒めくらいしかできないけど!」
「食べたい! 食べる!」
まるで喧嘩をしているような怒鳴り声。それがなんだかおかしくて、わたしたちは思い切り笑った。
自転車でのドライブは十分ほどで終わった。自転車から降りた瞬間に、ポケットの中にあるスマートフォンが音を立てた。取り出して画面を見てみると、柊くんからメッセージが届いていた。
「どうしたの?」
前を歩いていた雫が振り返った。わたしは咄嗟に、スマートフォンの画面を胸にあてた。
「……今から、来ないかって」
消え入りそうな声で伝えたら、雫の顔から笑みが消えた。
「柊さんから?」
わたしは少しためらったあと、無言でうなずいた。どうしよう。こういう時、どうするべきなのか、どうするのが正しいのか、ちゃんと分かっているのに。気持ちがついていかない。
雫は短く息をついて、諦めたように微笑んだ。
「いいよ。行っておいで」
「……ごめんね」
「気にしないで。わたしとはいつでも会えるんだから」
その声はちょっとさみしそうだった。わたしはもう一度ごめん、と頭を下げて、逃げるように離れに戻った。水着を置いて、お泊まりセットをカバンに詰め込む。髪の毛をくるくる巻いて、軽めにメイクをしてから、猛ダッシュで柊くんの部屋に向かった。
友だちより男を取るなんてきらわれちゃうかな。雫の、さみしそうな笑みを思い出す。いやな女だな、わたしって。恋をするほどずるくなる。心も体も汚くなってく。でも、わたしたちには時間がないから。こうして一緒にいられるのも、きっともう永くないから。
だからごめんね、許してね。今だけは、あなたを優先していたい。
たとえあなたが、わたしを優先してくれなくても。
今まで何度も辿ったはずの道なのに、いつもとっても遠くに感じる。なかなか速度を出せないこの両足がもどかしい。柊くんの部屋の前に到着する頃には、せっかく整えた髪もぼさぼさになっていた。震える指でインターホンを鳴らす。黒い扉がすぐに開いて、煙草をくわえた柊くんが現れた。
「来たー」
「おまたせ!」
「こらこら、抱きつくな」
飛びつこうとしたら、柊くんが慌てて煙草を口から離し、手を高く上げた。わたしはおかまいなしにぎゅうっとその胸に飛び込んだ。
「暑い、暑いから」
磁石のようにくっついたわたしをずるずる引きずりながら、柊くんはのろのろと部屋の中に戻った。
「腹減ってる? 何か食った?」
「ううん、食べてない。おなかすいてる、何か食べたい」
「いっぺんに言うな。とりあえず離れて」
わたしははぁい、とふてくされた返事をして柊くんから離れた。大きすぎる座椅子に腰かけると、柊くんは煙草を灰皿に捨てて、キッチンへと消えていった。ごそごそと何かを取り出す音がする。一体何をしているんだろう、そわそわしながら待っていたら、柊くんがひょっこり顔を出した。
「じゃじゃーん」
「あっ!」
柊くんが持っているものを見て、わたしは思わず立ち上がった。
「流しそうめん!」
「そーだよ、買っちゃった」
それは、小さな流しそうめんセットだった。プラスチックの滑り台みたいな形をしている。柊くんは器用にそれをテーブルまで運ぶと、再びキッチンに戻った。わたしは子犬のように柊くんのあとに続いていった。鍋にたっぷり水を注いで火にかける。沸騰してからそうめんを入れて、ふにゃふにゃになるまでぐつぐつ茹でる。
「見てても何も楽しくないよ」
じぃっと鍋を見つめるわたしを見て、柊くんがあきれぎみに笑う。違うの、別に楽しいからここにいるわけじゃないの。言葉で伝える代わりに、背中からぎゅっと抱きついてみる。
「ほらー、暑いから」
柊くんはいやがる素振りを見せるけど、決して腕をほどこうとはしない。胸焼けするほど甘やかされる。それが、日常。
茹だったそうめんをざるに移して、テーブルの上に運んだ。ふたり分のお皿と、箸、それに麦茶も。
「いただきまーす!」
ふたりで同時に手を合わせたら、楽しい流しそうめんの始まりだ。
「いくぞー」
おもちゃみたいな機械に、柊くんがするするとそうめんを流していく。必死でつかみ取ろうとするけれど、あれ、意外とうまくできない。何度チャレンジしても、するりするりと箸の間を滑っていく。え、何これ。何だこれ。
「もぉ、全然つかめない!」
「下手くそだなー、ほら、交代」
今度はわたしがそうめんを流す番だ。するすると流れていくそうめんを、柊くんは器用に箸でキャッチした。
「はい、つかめたー」
「ええー、ずるい!」
「ずるくない、実力」
柊くんは少年のようににこにこしながら、そうめんをおいしそうにすすっていく。ぎゅるぎゅるとおなかをすかせて見ていたら、柊くんが「じゃあ、もう一回交代な?」と言ってくれた。
「つかめないなら、下の方で待ち構えてみな。いくよ」
「うん!」
わたしは大きくうなずいて、柊くんのアドバイス通り、箸を動かさずにそうめんを待ち構えた。流れ落ちてきたそうめんが、箸のところでぴたりととまる。
「やったー! つかめた!」
「よかったなー。いっぱいお食べ」
わたしはようやくそうめんを口にすることができた。流しそうめんなんて、よく考えたら人生で初めてかもしれない。コシのある麺が喉元を過ぎて、おいしさが広がる。
「おいしい。柊くん、天才」
「茹でただけだけど」
のんべんだらりと会話をしながらも、どんどん箸が進んでいく。三十分も経つ頃には、ざるの中身はすっからかんになっていた。
「おなかいっぱい……」
ごちそうさまをしたわたしは、はち切れそうなおなかをさすって、ぐでーっとベッドに倒れ込んだ。柊くんも座椅子に腰かけてリラックスしている。
「おいしかったな。よかった」
「うん……あっ!」
「どうした?」
「ダイエットしてたの、忘れてた」
「もう遅い!」
柊くんが鋭くつっこむ。せっかくプールで泳いだのになぁ、と先ほどの努力を憂いた。まぁ、でもいいや。おなかいっぱいの今は、何も考えられない。わたしはぼんやり柊くんの部屋を眺めた。壁一面に飾られた宇宙の写真。隅っこに置かれた天体望遠鏡。ぐちゃぐちゃに畳まれた服やカバン。もう何度も見た景色。あと何回見られるだろう。
ふと気がつくと、柊くんがじっとわたしを見ていた。何か言いたげに、薄い唇が震えた。なぁに、と問いかけるように顔を上げたら、何でもないよ、と言うように、瞳がすうっと細くなった。
「あのさ、来週の水曜日あいてる?」
「うん」
「おれ、行きたいところあってさ。もしよかったらついてくる?」
それって、もしかしてふたりきり? わたしは勢いよく飛び起きた。
「行きたい! どこ?」
「星がすっごくきれいな場所」
「えー、どこだろ! 楽しみ!」
「りせは星がすきだからなー。小咲は全然興味ないから」
小咲。その一言で、わたしの表情が固まった。抱き着こうと伸ばした腕を引っ込めて、「……ふぅん」とつぶやく。
だったら何で、付き合ってるの。
喉まで出かけた言葉を飲み込んで、わたしは枕に顔を押しつけた。やめてよ、お姉ちゃんの名前なんて出さないで。本音を言ったらきっと気まずくなる。あなたに、きらわれてしまう。だからこうやって、枕で口を塞ぐの。
柊くんが座椅子から身を起こして、わたしの方に近づいてきた。ぎし、とベッドのスプリングが軋む。
「なに拗ねてんの」
「拗ねてない」
「拗ねてるじゃん」
「……拗ねてます」
降参して本音を言ったら、ぷっと柊くんが吹き出した。ちらりと見上げると、柊くんはくっくっと喉を鳴らして笑っていた。
「ばかだなぁ」
「ばかって言った! 柊くんきらい」
「嘘つき」
「嘘じゃない。きらい」
「はいはい。じゃあ、知らない」
突然笑みを引っ込めて、柊くんがふんっと顔を背けた。そのままキッチンに行こうとするので、わたしは慌ててベッドから下りた。勢いよく背中に飛びつくと、柊くんは「ぐえっ」とカエルが潰れたような声を出した。
「何だよ」
「嘘、嘘です。きらいなんて嘘」
早口で捲し立てたら、柊くんがくるりとこちらを向いた。口元をにやつかせた、いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「ほんとは?」
「……すき」
もう何度目か分からない告白をすると、柊くんは思い切り笑って、ご褒美のようなキスをした。
――あなたに愛されてからわたしは、ずるい女になったわ。
照れる自分を演出するのが得意です。自分をかわいく見せる手段を知っているから。後ろからぎゅって抱きついたり、上目遣いで見つめたり、キスをする時背伸びをしたり。そういうの、全部計算済み。つまらないことに嫉妬したり、わざと「きらい」と言ってみたり。そうやって、柊くんの望む「りせ」を演じるの。かわいいって思ってもらえるように。都合がよくて、頭の悪い、清純な女の子を演じるのよ。
優しくて、あたたかくて、いじわるな柊くん。わたしにとって最高の人。でもたぶん、他人から見たら最低の男。お姉ちゃんの、恋人。
こうしてキスをして微笑んで、恋人みたいな顔をする、あなたを見ていつも思う。だいすきなの。大切なの。そばにいたいの。愛してるの。
でも、それでも。
罪悪感のかけらも見せずにわたしを抱く。あなたってちょっと歪んでる。
悪いことは、人に隠れて行うもの。
授業中にスマートフォンをいじったり、禁止されているバイトをしたり。制服のスカートを短くするのも、隠しごとだから楽しいんだ。
夜の闇は、すきだ。わたしたちを隠してくれるから。誰にも邪魔されない。罪悪感なんて見えない。新鮮な朝より、汚れた夜がいい。ぐちゃぐちゃになった日中の想いや、いやな出来事も、全部包んでくれるから。
――りせは、泣かないね。
雫から言われた言葉に、わたしはまた嘘をついた。泣かないなんて嘘。本当は些細なことで涙が出るの。一生分の幸せを知ったわたしは、一生分の涙を流してる。
深夜、人も虫も寝静まった時間。隣で穏やかな寝息を立てる柊くんを、わたしは息を潜めて見つめていた。かち、かち、かち、と、規則的に進む時計が憎らしい。どうして時間ってとまらないの。何で太陽が昇るのを急かすの。そう思うだけで、瞳からつぅーっと涙が流れる。
わたしは、柊くんがすき。それ以外どうだっていい。だから何も、考えないようにしよう。来るはずのない幸せな未来を夢見ながら、わたしはそっと目を閉じるのだ。
朝よ、来ないで。ふたりの時間を奪わないで。何千回祈っても、いじわるな神様は今日も願いを叶えてくれない。その証拠に、起きたら朝をすっ飛ばしてお昼になっていた。
寝過ぎたねぇ、なんて寝ぼけ眼で笑い合って、近くのレストランで昼食を取った。柊くんも一日休みだと言うので、そのまま部屋でだらだらと過ごした。別に何をするわけでもないけれど。お気に入りのDVDを見ながらくっついたり、楽しそうに星の話をする柊くんに、うんうんとうなずいたり。そんな些細なことが、幸せだと思うのだ。
夜。夕飯を食べ終えたら、あっという間にお別れの時間になった。
「じゃあね、柊くん」
大きな荷物を背負ったわたしは、玄関でにこりと微笑んだ。
「駅まで送らなくて平気?」
「大丈夫。柊くんお酒飲んでるし、お風呂も入っちゃったでしょ」
「気をつけろよ、顔はかわいいんだから」
「かわいいって言った!」
「うるせー。浮かれるな、ぶさいく」
喜ぶわたしの頭をくしゃくしゃと撫でて、柊くんはおかしそうに目を細めた。
「また、水曜日な」
「うん!」
わたしは大きくうなずいて、別れを惜しむようにじっと柊くんを見つめた。柊くんはすぐに察して、上からちゅっと唇を重ねた。拙い、ままごとみたいなキスだった。
「おやすみ柊くん」
「おやすみ、りせ」
恋人にささやくような甘い声で、束の間の別れを告げ合った。後ろ髪を引かれながらも、くるりと踵を返して走り出す。カンカンカン、と鉄の階段を軽快に下りて、人の寝静まった街に飛び出した。さみしさを吐き出すように、大きく深呼吸をする。都会でも田舎でもないこの場所では、中途半端なネオンと車のライトが、ちかちかと夜を照らしている。本日の天気は曇り。空に浮かぶ光は何もない。ぬるい風が、洗い立ての肌を撫でる。
わたしは振り返って、柊くんのアパートを眺めた。楽しい時間って流れ星みたいだ。大気圏で燃やされて、地上に着くまでに消えてしまう。なんて、脆い。ひとりぼっちで帰る時、必ず悲しさがつきまとう。だけど、今日は少し違った。水曜日、柊くんとまた会える。あと三回眠ったら、また会えるんだ。それだけでわたしは、生きていける。
どんな服を着ようかな。どんなアクセサリーを着けようかな。少しお金が貯まったから、新しい服を買おうかな。そう考えただけで、小さな胸がスーパーボールみたいに弾む。わたしはにやけながら、再び前を向いて歩き出した。
その、時だった。
「りせ」
踊り出しそうなほど軽い足取りが、突然、鉛のように重くなった。横断歩道の信号が赤に変わり、わたしの逃げ道を奪った。
ゆっくりと、振り向いた。
そばを走る車のライトが、警告のようにちかちかと光った。車が横を過ぎ去るたび、彼女の姿が見え隠れした。眩しいほどの白い肌。ぞっとするくらい、穏やかな瞳。
「……お姉、ちゃん」
声を出したら、唇が、震えた。お姉ちゃんは無邪気に微笑んで、ゆっくりとわたしに近づいてきた。
「こんな遅くに、こんなところで何してるの?」
じんわりと汗が滲むのは、きっと暑いからじゃない。心臓が蛇のようにうねって、叫び声を上げている。
嘘を、つかなきゃ。
わたしの得意な、嘘を。
「バイト、してたの」
わたしは口の端をくいっと上げて、ぎこちなく笑って見せた。
「五時間くらい働いたから、もうへとへと。今から帰るとこなんだ」
「そんなに働いてたの? 大変ね、おつかれ」
「ありがと。……お姉ちゃんは?」
「柊くんの家、ここの近くなの。ちょっと用事があって」
「へぇ、そうなんだ……」
話を続ければ続けるほど、喉の奥がぐっと塞がれていくような気がした。真綿で首を絞められているような、やわらかな閉塞感、が。どんどん、呼吸を奪っていく。
わたしの緊張とは裏腹に、お姉ちゃんはいつもとまったく変わらない。肩まで伸ばした髪が、さらさらと夜風に揺れている。瞳だって、口元だって、確かに笑みを浮かべているのに。すごくこわいのはなぜだろう。
「そうだ、柊くんのとこ、一緒に行く?」
「え?」
「だって、柊くんのことすきでしょ」
びくっと肩が跳ねた。お姉ちゃんがふしぎそうに首を傾げる。わたしはしまった、と思った。
だめだ。動揺を、悟られるな。わたしが柊くんのことをすきなのは周知の事実でしょ。子供が親戚のお兄ちゃんに懐くような、そういう「すき」でしょ。だから全然不自然じゃない。分かっていることを言われただけ。わたしは慌てて首を振った。
「ふたりの邪魔しちゃ悪いよ。それに、もう疲れちゃったから。早く帰って寝たいの」
「そう? でも、夜道は危ないよ」
「平気。慣れてるから」
わたしはちらっと後ろにある信号を見た。お願い、早く青になって。早く、早く。わたしをここから助け出して。
祈りが通じたように、ぱっと信号の色が変わった。わたしはほっと息をついて、重たい足を浮かせた。
「じゃあ……」
「楽しかった? 今日」
逃げ出そうとしたわたしを、心ごとつかむ声だった。
「……え?」
「楽しかった?」
わたしは、どう答えたらいいのか分からなかった。楽しかった、って、何が? バイトのこと? それとも――別のこと? この時わたしは、張り巡らされた罠にかからないよう、必死で思考を巡らせていた。だけどもう、むだだったんだ。
もうとっくに、捉えられていた、のだ。
お姉ちゃんは微笑んでいた。だけど、瞳はちっとも笑っていなかった。いつもよりずっと暗くて、それがすごくこわかった。
「ちゃんと分かってるよ。でも、どうせなら、もっとうまくやりなよ。せっかく気づかないふりしてあげてるんだから……」
「……何の、こと」
「りせ、昔からそうだもん。わたしね、これでもかわいいって言われてたんだよ。でも、りせを見ると、みんなりせに夢中になるの。わたしは大したことない子になっちゃう。勉強も、容姿も、全部普通になっちゃう」
お姉ちゃんは少女みたいに背中の後ろで手を組んで、風に流されるように数歩、歩いた。
「別にいいの。りせはわたしの自慢だから。だけどね、だからこそ、思ったの。りせの一番すきなもの、これだけは譲れないって」
優しさを含んだ目が、鋭く光った。わたしは、怯えることしかできなかった。
「柊くん、りせの家庭教師をやってた頃ね、よくりせの話してたの。あいつかわいいな、飲み込みも早いし、素直ないい子だなって。ちょっと嫉妬しちゃうくらい、楽しそうにりせのこと話すのよ。ふたりでいる時なんか、わたしよりずっと、本当の恋人同士みたいだった。うらやましかった。わたしよりお似合いだった。今だって、りせの方が愛されてると思う。敵わないなって思ったの」
「お姉ちゃん……」
「でもね」
突然、声が大きくなった。
「肩書きって、強いの」
ぴたりと両足をとめて、まっすぐにわたしを見る。もう笑顔は浮かんでいない。刃のような眼差しが、わたしを突き刺す。
「どれだけ愛されていても、どれだけ大切にされていても、肩書きがある限りわたしは一番なの。安定した位置にいるの。わたしが今までどれだけあなたに搾取されてたか、考えたことある? わたし、後悔してるの。お母さんに、りせを産んでって言ったこと。そしたら全部、わたしが一番だったのにって」
お姉ちゃんはどんどん早口になる。まるで呪いを吐き出すかのよう。わたしはもうこわくて、とてもとてもこわくて、全身を子猫のように震わせることしかできなかった。
「ねぇ、全部あげる。美貌も、賢さも、全部あげる。だけどその代わり、一つだけわたしにちょうだい。わたしに、一番愛する人をちょうだい。絶対に渡さないから。……覚えておいてね」
わたしは逃げるように走り出した。点滅する青信号に滑り込んで、全速力で横断歩道を駆け抜けた。走って、走って、走って、走った。振り返ることはしなかった。短距離走のように夜の街を駆け抜けて、地下鉄の階段を勢いよく下りて、ちょうど来た電車に飛び乗って、ようやく、足をとめた。
ぜえぜえと獣のような呼吸をして、倒れるように座席に腰かけた。全身の震えがとまらない。汗が滝のように流れ落ちて、体中を冷やしていく。
ばれて、しまった。ううん、違う。ばれていたんだ、最初から。お姉ちゃんは全部知っていた。わたしと柊くんの関係を。知っていて、今まで普通に接していたんだ。
どうしよう。これからどうなるんだろう。お姉ちゃん、わたしに会ったことを柊くんに言うんだろうか。そうしたら、柊くんはどうするんだろう。もう、会ってくれないかもしれない。ああ、でも、どうなるにせよ。もう、今までとは違うんだ。
電車が揺れるたび、ぎりぎりまでためた涙が、ぽろっと頬にこぼれていく。唇をぐっと食い縛って、漏れそうになる嗚咽を押し殺した。
震える息の隙間に、こっそりと、歌を歌った。わたしと柊くんのすきな歌。今まで何度も口ずさんだ、あのメロディー。
「何で、来てくれないのぉ……」
――歌が聞こえたら、会いにきてね。
そう、約束したのに。今までずっと、すぐに気づいてくれたのに。こんな閉鎖的な電車の中じゃ、誰にも歌は届かない。雫。雫。わたしの、たったひとりの、友だち。
傷だらけのメロディーと透明な涙は、誰にも気づかれることなく、ゆらゆらと電車に揺られ続けた。
どこか遠くに行きたい。そう思うのに、呪いがかかったわたしは自分のお城から出られないまま。できることと言えば、お姉ちゃんを避けることだけだった。
あのあと、お姉ちゃんと柊くんがどういう会話をしたのかは分からない。だけど、部屋に戻ったわたしに、柊くんは「無事に帰れた?」という、いつも通りのメッセージをくれた。ぼろぼろ泣きながら、「帰れたよ」と精一杯の強がりを送ったら、「よかった、ゆっくりおやすみ」って言ってくれた。お姉ちゃんは、何も言わなかったんだ。それが逆に、責められているような気がしておそろしかった。
約束の水曜日は、あっという間にやってきた。三時間かけて服を決めた。ピアスも決めた。前夜には顔パックもした。ただ最悪だったことは、目がうさぎのように腫れていることだった。二重の幅がいつもより広い。全然、かわいくない。
そんなことを言ってもしかたないので、できる限りのメイクをして、お姉ちゃんに会わないように気をつけながら、待ち合わせ場所に向かった。人気の多い、駅前のロータリー。ここがいつもの待ち合わせ場所。人混みが、わたしたちを隠してくれるから。
そわそわしながら待っていたら、見覚えのある車が目の前に停まった。わたしはむりやり笑顔を張りつけて、助手席に乗り込んだ。
「おはよ、柊くん!」
「おはよ、お待たせ」
三日ぶりに見た柊くんは、いつもと同じように甘ったるく笑った。勢いよくアクセルを踏み込めば、ふたりきりのドライブが始まる。BGMはもちろん、「コペルニクス」の曲だ。
「あれっ、これ、新曲?」
「そう。昨日買った」
「いいなー、貸して!」
「いいよ。帰る時持ってきな」
「やったー!」
こうしてふたりで遠くにいくのは久しぶりだ。ドライブにぴったりなポップスをBGMに、高速道路をびゅんびゅん走っていく。わたしたちを祝福するように、空は雲一つない快晴で、自然と気分も高揚する。
「今日はどこ行くの?」
「ふふん。内緒」
「えーっ、まだ?」
「行ってからのお楽しみ」
柊くんはいたずらをしかける少年のように、含みのある笑い方をした。わたしはわざとほっぺたを膨らませて、機嫌を損ねたふりをする。だけどそんな演技はすぐにばれて、ふたりで笑い合ってしまうのだ。お気に入りの音楽を口ずさみながら、まっすぐな道をどこまでも走る。どこまでも、どこまでも、走っていく。
――考えないようにしよう。
流れていく景色を眺めながら、わたしは心の中で言い聞かせた。お姉ちゃんのことも、未来のことも。考えないようにすればいいんだ。柊くんがすき。その気持ち自体は、悪いことじゃないんだから。そのことだけを、考えていよう。
ドライブは、いつもよりものすごく長かった。東京を出たと思ったら、いつの間にか山梨も過ぎていて、高速道路の標識に示された地名は、まさか、まさかの。
「えっ、長野?」
「そーだよ」
柊くんはあっさりと肯定する。いやいや、聞いてない。さすがにこんな遠出するなんて聞いてないよ。いや、嬉しいけど。これって、デートってレベルじゃない。旅行じゃん! そう意識したら、なんだか急に鼓動が速くなってきた。車のミラーをちらっと見て、前髪を軽く手で整える。朝、あれだけセットしてきたのにもう乱れてる。ピアスはこれでよかったかな。このワンピース、子供っぽくなかったかな。そわそわと体を揺らしているうちに、ふたりを乗せた車は一般道に下りていた。
「腹減ったなぁ、何か食べるか」
「は、はい!」
緊張して声が上ずった。「何でいきなり敬語?」柊くんがふしぎそうに笑う。
松本城の近くにあるパーキングに車を停めたわたしたちは、洋食屋さんに行ってハンバーグを食べた。おいしいはずなのに、緊張が胃に溢れていまいち味がよく分からない。柊くんは「うまいなぁ」とおいしそうにハンバーグを食べ、白米を二回もおかわりしていた。
「時間に余裕あるから、松本城寄る?」
「う、うん!」
松本城は「烏城」という別名の通り、真っ黒な外観が印象的なお城だった。水堀にかかった朱色の橋がとてもきれいだ。柊くんは「かっこいいなぁ」と言いながらパシャパシャと写真を撮っていた。わたしはというと、水面に映る松本城と、ゆらゆら泳ぐ鯉を眺めながら、夢の中にいるような浮遊感と幸福感に浸っていた。
ああ、なんて、幸せなの。
おそるおそる柊くんの腕に抱きついてみる。柊くんは振り払わない。子供っぽいなぁ、と笑って、わたしの頭をくしゃりと撫でる。そうだ、ここでなら、他人の目なんて気にしなくていい。思う存分甘えていいんだ。道行く人たちは、わたしたちのことを恋人だと思っているのかな。そうだといいな。
神様、ねぇ、今日だけは、柊くんの恋人でいさせて。この恋が叶うなら、わたし、死んだってかまわないから。
松本城をあとにしたわたしたちは、スーパーで飲み物とおつまみを買ってから宿へと向かった。
「ここが本日のお宿でございます」
車から降りた柊くんが、芝居がかった口調で言った。わたしは助手席から降りて、ぽけーっと目の前に建っている立派な旅館を見上げた。
本日の宿、ってことは、やっぱりお泊り? お泊りですよね。普段柊くんと出かけるところといえば、家の近くのスーパーとか、あと、ほんのたまーに映画館に行くくらいだ。それなのにいきなり長野県で、しかも、こんな温泉宿に泊まるだなんて。試しにほっぺたをつねってみる。痛い。確かに痛い。
「何してんの。行くよ」
柊くんは荷物をトランクから出すと、わたしを置いてすたすたと旅館に入っていく。わたしは慌てて柊くんを追いかけた。
チェックインを済ませて部屋に入ると、畳の上に小さなちゃぶ台と座椅子が二つあった。ちゃぶ台の上には和菓子と緑茶が用意されている。こんな、絵に描いたような「旅館」に泊まるのって初めてだ。旅行なんて修学旅行くらいしかしたことがない。部屋の隅を見たら、ふたり分の浴衣が畳んであった。
「夕食まで時間あるから、それまで休憩な。そのあと、また出かけるから」
柊くんは荷物を畳の上に置くと、どかりと座椅子に腰かけた。わたしはきょろきょろとせわしなく部屋を眺め、窓の外を眺め、無意味に箪笥を開いたり閉じたりした。
「何してんの、さっきから」
「今日はここに泊まるの?」
「そーだよ、さっき言っただろ。もしかして、明日予定でもあった?」
「ううん、ない」
わたしは慌てて首を振った。実は「ハッピーベア」のシフトが入っていたけれど、店長にむりを言って変更してもらったのだ。「まぁ、お前はシフト入れすぎなくらいだからいいけど」と、店長はいやな顔をすることなく了承してくれた。
「泊まりって、言ってなかったっけ? 着替え持ってきた?」
「……持ってきた」
「下心あるな」
「いや、だって、もしものために」
「もしもって何だよ。すけべ」
柊くんがにやにやといじわるく笑う。わたしは恥ずかしくなって唇を噛み、「そ、そーいえば」と話題を逸らした。
「どうして今日はここに来たの?」
「もちろん、星を見るためだよ」
柊くんはおいでおいで、と小さく手招きをした。わたしは柊くんの元に駆け寄ってしゃがみ込んだ。スマートフォンを操作し、地図をわたしに見せてくる。長野県阿智村。ここがわたしたちの現在地らしい。
「ここ、阿智村。小さい頃一回来たことあるんだけど、あんま覚えてなくてさ。日本一の星空って有名なの。夜はヘブンズそのはらってとこに行くよ」
「へぇーっ、今まで見た星よりすごいの?」
「すっごいよ。今日は満月だし、雲もない。こないだのより、もっときれい」
「わぁ! 楽しみ。すっごく楽しみ!」
星空は何度も見たことがあるけれど、それを超える美しさなんて想像もつかない。そして何より、そんな最高の星空をわたしと一緒に見ようとしてくれていることが嬉しい。柊くんはわたしをじぃっと見つめると、髪をくしゃくしゃと撫でてきた。
「なぁに?」
「ありがとな、いつも付き合ってくれて」
「ううん、連れてきてくれて嬉しいよ!」
満面の笑みを浮かべたら、柊くんも嬉しそうに微笑んだ。そのまま目を閉じようとしたら、邪魔するみたいに柊くんのスマートフォンから音楽が流れた。
「ごめん、ちょっとだけ待ってて」
柊くんは立ち上がると、会話が聞こえないように早足で部屋の外まで出ていった。ただの電話なら、この場で出ればいいのに。それをしないのは、きっと相手が悪いから。ちらりと見えた、スマートフォンに表示された名前。……お姉ちゃんの、名前だ。
たった今溢れたはずの高揚感は、しゃぼん玉のようにパチンと弾けて消えてしまった。恨むように部屋の扉を睨む。どんな会話をしているんだろう。どんな言い訳を並べているの。聞きたい、でも、聞きたくない。わたしは両手で耳を塞いだ。
こうして、何も知らないふりをしていよう。ふたりの思い出とか、愛、とか。知らないなら、ないのと一緒。何も感じていないふりをして、柊くんが戻ってきたらにっこりと微笑もう。わたしさえ我慢していれば、きっと幸せでいられる。わたしが何も望まなければ、きっと仲よしでいられるから。さみしがり屋のこの口は、嘘で、塞いでしまおう。
五分も経たないうちに電話は終わって、柊くんがひょっこり戻ってきた。わたしは練習していた笑顔を張りつけて柊くんを見上げた。そうしたら、柊くんは何でもないようにそっと笑って、ぽんぽんと頭を軽く叩いた。
両腕を、差し伸べた。
柊くんは何のためらいもなく、さもあたりまえのように受け入れて、わたしの背中に腕をまわす。何かを守るみたいに、ぎゅうっと強く抱き締める。
柊くんの体温を感じるたび、目蓋の裏にいろんな人の顔が浮かぶ。お姉ちゃんが、ちーちゃんが、わたしを責めてる。雫はいつも何も言わない。何かを言いたげに見つめるだけで、絶対にわたしを責めない。
だけどね、わたし、分かってるの。応援してくれてないって。本当は、わたしたちをとめたいんだって。ちゃんと、分かってるの。
「いけないことでしょ。こんなこと、しちゃ、いけないでしょ」
どうして?
「だって、柊さんには恋人がいるんだもん。りせは、遊ばれてるだけなんだよ。付き合ってないってことは、結局、遊びでしかないんだよ」
そっと目を開けたら、誰もいないはずの空間に、雫がぼんやりと浮かび上がった。やるせない、悲しげな表情でわたしを見ている。わたしはじっと彼女を見つめる。
こんなわたしたちを見ても、それが言えるの?
こんなに甘やかされているのに、愛がないなんて言えるの?
見せつけたい。全部ばらしたい。わたし、こんなに愛されてるのよって。愛して、愛されて、境目がなくなるまでどろどろに溶けて、作りものみたいな幸せとか、筋書き通りの未来とか、全部めちゃくちゃに壊したいのよ。シャツにすりつけたチークとか、おそろいの香水とか、そんな、蝶の羽ばたきみたいに些細なことで、明日は簡単に変わるから。
――でも、それができないのはきっと、惚れた弱みってやつなのでしょう。
雫の幻は諦めたように、すぅっと空気に溶けて見えなくなった。
夕食は、大広間での囲炉裏会席だった。目の前の囲炉裏で、旅館の人が野菜や信州牛を焼き上げてくれるのだ。お酒がだいすきな柊くんは、「酒が飲めないのがつらい」と嘆いていた。これから、わたしたちは車に乗って星を見にいくのだ。
免許を取りたいな、と、ふと思った。そうしたら、柊くんを助手席に乗せて、どこにでも連れていけるのに。終電の時間を気にせず、柊くんと一緒にいられるのに。この旅行が終わったら、バイトをもっと増やそう。そして、教習所に通えるお金を稼ごう。
夕食を食べ終わった、午後八時。夏の日の入りは遅いといえど、この時間になるとさすがに空は真っ暗だ。わたしたちは車に乗り込んで、ヘブンズそのはらまでの山道を駆け抜けた。「コペルニクス」の「星を見にいこうよ」という曲を流して、ふたりでカラオケにいる時のような大声で歌うと、テンションはどんどん高まっていった。
車を二十分ほど走らせたところで、ようやく、ヘブンズそのはらに到着した。
「わぁ、すごい!」
夜空を見上げると、そこには無数の星がダイアモンドのように輝いていた。やっぱり、街中で見るものとは比べものにならない。
「まだ、これが本番じゃないからな」
柊くんはぽんぽんとわたしの頭を軽く叩き、足を進めた。わたしも慌ててあとについていく。
お盆ということもあり、駐車場には車が溢れていて、チケット売り場にも長蛇の列ができていた。ヘブンズそのはらは阿智村の中にあるスキー場だ。スキー場としての運営が休止している春から秋にかけては、「天空の楽園ナイトツアー」が開催されているらしい。ゴンドラに乗車して、余分な光が届かない標高一四〇〇メートルの高原に移動し、満天の星空を楽しむことができる。
なんとかチケットを購入したわたしたちは、スタッフの誘導に従ってゴンドラに乗車した。ゴンドラは約十五分、真っ暗な上、人が多くてなかなか外を見ることができない。混んでるなぁ、と柊くんが辟易したようにつぶやいた。わたしはうなずくのに精一杯で、少なくなっていく酸素を取り入れようと、口をぱくぱくさせていた。
やっとの思いで山頂に着くと、夏場なのに空気がひんやりとしていた。ドリンクやチュロスを販売している売店が二店舗あり、その近くにはヘブンズそのはらの星見マップがあった。「おすすめスポット」「カメラ、三脚ならここ」「カップルでゆっくりするならここ」などが書かれている。
「ど、どこにする?」
ちょっと試すように聞いてみた。柊くんは「うーん」と唸って、
「今日、三脚持ってきてないんだよなぁ。人の少ないところに行こうぜ」
「……はぁーい」
「何でそんな不満そうなの」
「別に」
わたしはツンとそっぽを向いて、柊くんの前を歩いた。別に、いいんだけど。カップルって言ってほしかったわけじゃないけど。
わたしたちは比較的人の少ないところにレジャーシートを広げた。空は視界に収まりきらないほど広い。じっと星を見続けていたら、自分の瞳に焼きつかないかな。そうしたら、いつまでもいつまでも、この景色を覚えていられるのにな。
ぼんやりと星を眺めていたら、ガイドの人から注意事項などの案内があり、そのあと唐突にカウントダウンが始まった。
「えっ、何?」
わけも分からず柊くんを見る。柊くんはいつものようににやっと笑って、まわりに合わせて数を唱えている。
「三、二、一……消灯!」
ふっ、と、一斉に照明が消され、あたりが真っ暗になった。
夜空の星がひときわ輝きを放った。光を邪魔するものが何もないからだ。その、見たこともない美しさに、息をするのを忘れた。
一億の星が、降ってくる。
「すごいな。感動するなぁ」
隣にいる柊くんの声も興奮ぎみだ。
ガイドさんは手に持っていたライトで星を示しながら解説を始めた。まさに、天然のプラネタリウムだ。
わたしたちは肩を寄せ合って、ぼんやりと星空を眺め続けた。ガイドさんの説明は、BGMのようにゆったりと耳を通過するだけで、あまり脳まで浸透してこなかった。
わたしはなぜだか、じんわりと瞳が潤ってくるのを感じた。ああ、これは、一生の思い出になるな。何年経ってもきっと思い出す。この、天国みたいな星空と、少年みたいな柊くんの横顔を。わたしはそっと、柊くんの手に手を重ねた。柊くんは指を絡めて、わたしの手をぎゅっと包んだ。
あたりが暗くてよかったと思った。涙が頬を伝って、膝の上にぽたりと落ちた。こんな些細なことで幸せを感じるなんて。それで安心するなんて。ばかみたい、こんなの。
「そーだ、りせ。これあげる」
「えっ、なに?」
突然、柊くんがカバンから小さな袋を取り出した。わたしはふしぎに思いながらそれを受け取った。
「開けてみて」
急かされるまま、こわごわと袋を開けてみた。中には長細いケースが入っていた。期待で膨らむ胸を押さえながら、ゆっくりとケースを開ける。
「わぁっ……」
そこには、三日月型のネックレスが入っていた。
「誕生日、おめでと」
「……覚えててくれたの?」
「そりゃ覚えてるよ。お前、アクセサリーすきだろ」
さもあたりまえのように、柊くんが言うけど、全然あたりまえなんかじゃない。だって、誕生日プレゼントをもらったのは初めてだもん。去年もその前も、ほしかったけれどねだれなかった。誕生日すら伝えることができなかった。
「ねぇ、つけてつけて!」
涙を振り払うように、無邪気にねだった。柊くんはいいよ、って笑うと、丁寧にネックレスをつけてくれた。まるで、神聖な愛の儀式みたいだった。
「よかった、似合ってる」
胸元にきらめいたネックレスを見て、柊くんが満足そうにうなずいた。わたしはぎゅっとネックレスを握った。
「……ありがとう、一生大切にする」
「しなくていいよ、安物だよ」
「やだ、ずっと大事にするの」
「はいはい、ありがとな」
柊くんの大きな手が、わたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。少し哀愁を含んで、その手が離れた。
「りせ」
改まったように、名前を呼ぶ。
「今、幸せ?」
「幸せだよ」
わたしは大きくうなずいた。これが幸せじゃないのなら、きっと世の中に幸せなんてない。そう思えるくらい、満たされている。
「わたし、柊くんと出会わなかったら何にも知らなかったもん。空がこんなに広いってことも、星がこんなにきれいだってことも。だからわたし、幸せ。柊くんが幸せなら、もう何もいらないって、そう、思うんだ……」
わたしは星空を見上げて、歌うように嘘をついた。幸せなのは本当、だけど、あなたが幸せなら幸せだというのは真っ赤な嘘です。わたしは、もっと幸せになりたいです。わたしはあなたの幸せになりたい。わたしの「すき」は、「全部ほしい」の「すき」です。あなたが思うほど、健気な女じゃないんです。
「そうか」
柊くんは小さくつぶやいて、そっとわたしを引き寄せた。呼吸を奪うみたいに、ぎゅうっと強く抱き締めた。
「……どうしたの?」
柊くんから抱き締めてくるなんて、めずらしい。いつもわたしから抱きついて、しかたなく受け入れてくれる。それが普通なのに。
いつもなら喜ぶはずなのに、なぜか、背中に腕をまわすのをためらった。わたしは白い両腕をだらりとぶら下げたまま、弱々しい柊くんに戸惑っていた。柊くんの息が耳にかかる。何かを、わたしに、伝えようとしている。
それは、今に始まったことじゃなかった。振り返ってみればずっとそうだった。こないだ会った時も、その前も、ずっと、伝えようとしていた。だけどわたしは知るのがこわくて、無邪気を装って気づかないふりをしていた。
ずっと、覚悟していた。
その瞬間が、きっと、今。
「りせ。おれな」
やめて。聞きたくない。聞きたくないよ。そう願うのに、耳を塞ぐことはできない。体が石のように固まって動かない。何にも、抵抗、できない。柊くんのことがすきだから。柊くんの弱々しい声に、耳をすまさなくてはいけない。
震える息の隙間に、聞こえてきた、言葉は。
「おれ、小咲と結婚するよ」
薄暗い空間は、深海のようにひっそりとしていた。水槽の中にはさまざまな種類の魚が、自由を見せつけるように悠々と泳いでいる。突然、ぬっと白いものが視界に入ってきた。と、思ったら、それは巨大なエイだった。驚いているわたしを嘲るように、すいすいと目の前を横切っていく。
「でっかいなぁ」
隣にいる奏真が、感心したようにつぶやいた。わたしはそうだね、とあいまいにうなずくだけで、目を合わせることはしなかった。
夏休み最終日。訪れた水族館は、ささやくような人の声に満ちていた。手を繋いで歩く恋人、仲睦まじい家族連れ、仲よしグループ。わたしたちはどこにも属さない。恋人だけど、恋人じゃない。だから、手も繋がない。空から落ちる雨粒のように、ぽつりぽつりと会話をするだけ。
「すげーな、この写真」
訪れた水族館では、海の生き物の写真展が開催されていた。壁にかけられたさまざまな生き物の写真は、今にも動き出しそうだ。大きなウミガメ、ジンベエザメ、かわいらしいイルカやペンギン。名前も知らない小さな魚まで、生き生きと写っている。
「すごいな、迫力あるなぁ」
「ほんとだ、どうやって撮ったんだろ……」
わたしはぼんやりとイルカの写真を眺めた。水色に染まった海中で、悠々と泳ぐイルカ。すごく、のびのびしている。
「こういうの見ると、撮りたくなってくるんだよなぁ。ちくしょ、カメラ持ってくればよかった」
「今日は何も撮るものないでしょ」
「そんなことないよ」
「なに?」
「雫」
突然、真剣な声色で名前を呼ばれた。わたしは怯えを隠すように、「え?」と引きつった笑いを浮かべた。
「雫の写真が撮りたい」
「な、なに言ってんの」
「だって、彼女だし」
手持ち無沙汰なふたりの手が、触れるか触れないかくらいの距離で揺れている。わたしは無意識に重心を片足に移して、奏真から距離を取った。
「……もっと奏真が上達したらね」
「ちぇっ、厳しいなー」
奏真が不満そうに口を尖らせる。作り笑いでごまかして、わたしは逃げるように歩き出した。
奏真と付き合い始めて、約一ヶ月。相変わらず手も繋がない。キスもできない。それに、少しずつ広がっていく、この違和感。
奏真って、こんな感じだったっけ? こんな、積極的なタイプだったっけ? わたしの知っている奏真って、もっと子供で、キスとか、歯の浮くような台詞を言うような子じゃなかったのに。奏真を知れば知るほど、どんどん距離が開いていくような気がする。
水族館から出ると、ぎらぎらと激しい太陽が鋭い光を浴びせてきた。ああ、眩しいな。忘れていた暑さがじんわりと肌を汗ばませる。喉が乾いて、呼吸がしづらい。
「……ねぇ、奏真」
わたしは動かしていた足をぴたりととめ、振り向いた。奏真はいつもと変わらない顔で首を傾げた。小さい時から知っている、わたしの幼なじみ。わたしの、こいびと。
「奏真は、何であんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「……『恋人になる?』って」
奏真の表情が固まった。いつもの楽しげな笑みが消え、大きな瞳はまばたき一つしない。わたしたちだけ、時間がとまったみたい。恋人たちが、隣を流れるように歩いていく。わたしと奏真は、立ちどまったまま。
奏真はちょっと悲しそうな、諦めたような顔をした。それから何でもないって言うように、いつもみたいな能天気な笑顔を張りつけた。
「雫と一緒にいたら、楽しいだろうなって」
「……楽しい?」
「付き合っちゃえば、気兼ねなく一緒にいられるし。それに、写真も教えてもらえるだろうしさ。いいことづくし」
「な、なにそれ。下心ある!」
奏真はへへっと照れたように頭を掻いた。
「正直言うとさ、おれも『すき』とか『付き合う』って、よく分かってないんだよね。雫もそうじゃない?」
「それは……」
見事に言いあてられて、言葉に詰まった。言い訳なんてできない。奏真はやっぱりな、と、少し残念そうに笑った。
「いいよ、難しく考えなくて。おれはただ、雫と一緒にいるのが楽しいんだ。だから一緒にいる。今はそれでいいよ」
「……ほんとに?」
「うん。雫がいやなら別だけど……」
「そんなことない。そんなことは、ないの……」
わたしは何か言おうとしたけれど、言葉が見つからずにまた黙った。奏真のことはいやじゃ、ない。ただ、どんどん変わっていく日常に、関係に、順応できないだけ。奏真はわたしの背中を軽く叩いて歩き出した。
「すずしいとこ行こうぜ。外にいたら、熱中症になりそう」
「うん……」
わたしは重たい足を動かして、奏真の隣を歩いた。太陽にあたためられたコンクリートは熱を孕んで、足元からわたしをじりじりと焦がしていく。まるで責められているみたい。
奏真が今言ったことは、本心なのかな。本当にこのままでいいって思ってるのかな。奏真の優しさに甘えっぱなしの自分がいやになる。
すきって、何だろう。付き合うって、何なんだろう。未熟なわたしは、今日も答えが出ないままだ。
夏休みはあっという間に過ぎていった。修理に出していたカメラが戻ってきても、わたしはまだシャッターを押せずにいる。どこにも行けない。踏み出せない。いつまで経っても、わたしは子供のまま。
りせは、何をしているんだろう。以前もらった金平糖を口に含むたび、彼女のことが気になった。最近全然会っていない。連絡も取っていないし、部屋をノックしても出てこない。
新学期、始業式。
再会は、思いがけない場所でやってきた。
夏休み明けの教室は、新学期が始まった絶望感と、再会の喜びが入り混じっていた。日焼けをしたクラスメイトたちが、夏休みの思い出を語り合っている、例年の風景。自分の席に座って、近くの友だちとしゃべっていた時。突然、教室の空気が変わった。
教室の後ろ側の扉から、ひとりの女の子が入ってきた。栗色の長い髪。耳にあけたピアス。それはもう、地球に隕石が落ちたってくらいの衝撃だった。教室は、一つの社会だ。閉鎖的で、排他的な、一つの世界。その世界に、突然異邦人が現れたのだ。しかも、とびきりかわいい女の子が。
その女の子は、周囲の視線なんて気にも留めず、なんなら髪を掻き上げたりもして、堂々と教室に入ってきた。きょろきょろと周囲を見渡して、わたしを見つける。その端正な顔が、途端に年相応のものに変わった。
「雫!」
「り、りせ!」
わたしはびっくりして席から立ち上がった。その瞬間、クラスメイトの目が一斉にわたしに向けられた。「あれ、誰?」「雨宮さんの知り合い?」みんなのひそひそ声が鼓膜に響く。りせはわたしに駆け寄ってにっこりした。
「おはよ。よかった、雫がいて」
「どうしたの、いきなり!」
「また留年するのもいやだからさ。雫もいるし、来てもいいかなぁって思ったの。ところで、わたしの席どこ?」
わたしは戸惑いながらも、廊下側の一番後ろの席を指差した。「なーんだ、雫の近くがよかったぁ」りせは残念そうに唇を尖らせながら、自分の席へと向かっていく。長い髪が香水のにおいを振り撒きながら揺れている。登校してきた奏真と挨拶を交わして笑うりせを見ていたら、心の隅が疼くのを感じた。
ずっと、りせが学校に来ればいいなと思っていた。そしたら、毎日楽しいだろうなって。
――制服が、きらいなの。
そう言っていたのに、どうしていきなり学校に来たんだろう。学生が学校に来る。そんな、至極普通のことが、とても奇妙に感じる。嵐が来る前のような、妙な静けさに心がざわつく。
何かが、変わってしまったような。
そんな、予感、が。
わたしの杞憂を嘲笑うかのように、日常は異常なくらい通常運行だった。りせは、まるで最初からそこにいたように、あっという間にクラスに溶け込んだ。二回目の一年生だからか、今まで授業を受けていないとは思えないほど優秀だし、アイドルみたいな容姿はみんなを引きつけるには十分で、わたしの交友関係をあっという間に追い越してしまった。
りせは、太陽みたいな女の子だ。誰とでも気さくに話せて、すぐに仲よくなれる。だけど、なぜだろう。その完璧なまでの笑顔が逆に不自然で、ぎこちない。
「……りせ、むりしてない?」
教室の片隅でそっと尋ねても、りせは「何が?」ととぼけた笑みを浮かべるだけだ。
「今まで学校ってきらいだったけど、雫と一緒なら楽しめるかなって思ったの。奏真もいるしね」
「……それなら、いいんだけど」
わたしはそれ以上聞く勇気を持てなかった。一歩。あと一歩、踏み込んだら、何かが変わったのかもしれない。彼女の孤独に、気づいてあげられたのかもしれない。だけどわたしは、りせに拒否されるのがこわくて、一歩も動けなかったのだ。
皮肉なことに、りせが学校に来るようになった途端、今までのように部屋で会うことがなくなった。りせは朝が弱いことを理由に一緒に登校することはなかったし、バイトを言い訳に一緒に帰宅することもなかった。別に、避けられているわけじゃないと思う。その証拠にお弁当は一緒に食べるし、他のどんな子といる時だって、りせはわたしに話しかけてくれる。
例えるならそう、水槽の中にいる無数の魚のうち、一匹がどこかに行ってしまったような。些細な、でも、大きな変化だ。違和感と、不安と、正体不明の焦燥が、わたしの心を絶えず揺らし続けた。
りせが学校に来るようになって、一週間ほど経った日。
放課後、図書館に本を返し終わったわたしは、いつもより少しだけ遅く校舎を出た。
九月とはいえ、太陽はまだまだ夏の顔をしている。半袖シャツが眩しい教室から一歩出ると、部活動をしている生徒たちの声が、波のように押し寄せてくる。こんなに暑いのに、よくやるなぁ。帰宅部のわたしは、照りつける太陽から逃れることに精一杯だ。早く部屋に帰ってクーラーにあたろう。そう思っていたのに、体育館のそばにいた人影に気づき、衝動的に方向転換をしてしまった。
「柊さん?」
柊さんはわたしに気がつくと、くわえていたタバコを口から離した。
「雫ちゃん? 久しぶり」
「どうしたんですか? 何でうちの高校に?」
「顧問のバスケ部の練習試合。おれはただの付き添いなんだけど、煙草吸いたくなってさぼり中」
見つかっちゃったな、と大して困ってない様子で笑って、再び煙草を口にくわえる。木漏れ日が夏の名残のように降ってきて、地面をまだら模様にしている。校庭に不釣り合いな白い煙が、空中をたゆたう。
そういえば、こうしてふたりきりで話すのは初めてだ。聞きたいことはたくさんあるのに、いざ話そうとすると言葉が出てこない。わたしの戸惑いを察したのか、不自然な空白を埋めるように、柊さんが口を開いた。
「元気? りせとは相変わらず仲いいの?」
「はい、もちろん。……最近、りせは学校に来るようになったんです」
「へぇ、そうなの?」
「知らなかったんですか?」
「今知った。そうか、ようやく不良娘も更生したか」
なんだか他人事みたいな台詞だと思った。伏し目がちなその様子は、どこか距離を感じさせる。若葉が、さぁ、とそっけない音を立てている。わたしの心を、揺らしていく。体育館から聞こえるバスケ部のかけ声が、どんどん遠ざかっていくように感じた。わたしの立っている場所が、日常からどんどん離れていくようで、急に、こわくなった。
「……りせと何かあったの?」
「何かって?」
柊さんは素知らぬ顔で尋ねる。わたしと、目を合わせないまま。その横顔を見ていたら、なんだかやけに冷静になった。今までりせに対して抱いていた違和感。薄々勘づいていたその正体を、突きとめたような気持ちになった。
ああ、やっぱり、原因はこの人だ。りせが学校に来たのも、悲しみを隠して笑っているのも、全部、この人のせいなんだ。
「りせを泣かせたら、わたし、柊さんのこと許さない」
自分でも驚くくらい、はっきりと言い放った。まるでナイフを彼に突き刺したみたいだ。柊さんも驚いたようで、それまで伏せていた顔をこちらに向けた。いつも余裕な柊さんの仮面が、少しだけ剥がれた。
だけどほころびはすぐに戻って、一秒後には嘲るような笑みが張りついていた。
「……恋人みたいな台詞。りせのこと、すきなの」
「えっ」
思いがけないことを言われて、心臓が喉まで跳ね上がった。
「そ、そりゃ、友だちだし」
「奏真とりせ、どっちがすき?」
絶句した。わたしは捕らえられた魚みたいにぽかんと口を開けた、まぬけな顔で柊さんを見つめた。柊さんはおもしろそうに喉で笑って、それから眉を下げた。
「いじわるしてごめんな。雫ちゃんがいれば、りせは安心だよ。……これからも、守ってやって、あいつのこと」
「……そ、そんなの、ずるい!」
わたしは慌てて叫んだ。
「りせが一番必要としてるのはわたしじゃなくて、柊さんなのに。どうしてそういうこと言うんですか。どうして、どっちかを選んであげないの。小咲さんとりせ、どっちのことがすきなの?」
背を向けた柊さんの表情は見えない。少し黙ったあと、柊さんは「すきの種類が違うんだよ」とつぶやいて歩き出した。
「わたし、柊さんのこといい人だと思います。でもやっぱり許せない。絶対、許してあげないから!」
柊さんはちょっとだけ振り返ると、困ったように微笑んだ。そのまま何も言わずに右手を上げて、わたしの前から去ってしまった。
ひとりになった途端、急に夏の暑さがぶり返してきた。部活動中の生徒の声が、テレビのボリュームを上げたように大きくなる。消えていった背中が、瞳に焼きついて消えない。わたしはぐっと唇を噛み締めて、ポケットからスマートフォンを取り出した。
たった三コール。まるで鳴ることが分かっていたかのように、奏真はすぐに電話に出てくれた。
『雫? どうしたの』
「ねぇ、まだ学校にいる?」
『いるいる。後ろ向いて』
振り返ったら、スマートフォンを耳にあてた奏真が、遠くの方から歩いてくるところだった。わたしは通話を終了して、奏真に駆け寄った。
「今から少し時間ある?」
「え? あるけど」
「行きたいところがあるの。ついてきてくれる?」
それは本当に衝動だった。きょとんとしている奏真の手を取って、帰り道とはまったく別方向へ進んでいく。
わたしたちがたどり着いたのは、隣町にあるファミレスだった。
「ここがりせのバイト先?」
「うん、たぶん……」
「ハッピーベア」の看板を確認して、わたしはファミレスの扉を押した。店内は適度に混んでいた。きょろきょろ周囲を見渡してみる。りせの姿を確認する前に、大学生くらいのお姉さんに「いらっしゃいませ」と声をかけられた。
「二名様ですね。お席にご案内します」
わたしたちは窓際の席に案内された。ここからだと、奥の方がよく見えない。奏真はメニューを広げながら、「何食おっかな、おなかすいてきた」と呑気なことを言っている。
「ハンバーグうまそう。でも、パスタもいいなぁ。雫はどれ食べる?」
「何でもいいよ。それより、りせ探して」
「でも、とりあえずなんか頼もうぜ。デザートも食っていい?」
「こんな暑いのによく食べられるね……」
特に運動をしているわけでもないのに、なぜそんなにおなかがすくのだろう。男子高校生の食欲にあきれていると、水を運んできたウェイトレスが、わたしたちを見て声を上げた。
「えっ、雫? それに奏真も!」
「りせ!」
「びっくりした、どうしたの? 何でこんなとこにいるの?」
ウェイトレス姿のりせは、全然知らない女の子みたいに見えた。さっきまで、わたしと同じ制服を着ていたのに。
「りせがバイトしてるの、見にきたんだよ。な、雫」
「う、うん」
「やだ! 恥ずかしいなぁ。来るなら先に言ってよね」
「蓮城ー」
話し込んでいるわたしたちの元に、男の店員さんが近づいてきた。りせは「あ、店長」と背筋を伸ばした。
「どしたの、友だち?」
「そうです、すいません」
「めずらしいな、知り合いが来るなんて。早く上がってもいいぞ」
「いえ、いいです! 大丈夫!」
「そう? ならいいけど」
店長と呼ばれた男の人は、わたしたちに向かってにっこりと笑いかけ、ひらひらと手を振って去っていった。りせは申し訳なさそうに両手を合わせると、
「ごめんね。今日はあと二時間くらいで終わるから、ゆっくりしてって」
それから忙しそうに別のテーブルへと向かっていった。
「なんか、元気そうだな」
「そうだね……」
せわしなく歩き回るりせの姿は、一点の曇りもないように感じた。とびきりの接客スマイルだって、他のどの店員さんよりもきらきらしている。
「奏真も、最近のりせ、変だなって思ってた?」
「まあ、ちょっとな」
奏真はりせから目を離さずに答えた。
「おれは雫ほどりせのこと知ってるわけじゃないけどさ。天体観測した時となんか違うっていうか、むりしてるっていうか……」
「……そう、だよね」
普段は鈍感な奏真も、こういうことには妙に鋭い。衝動的にここまで来てしまったのは、りせのことを少しでも知りたかったからだ。わたしが知らないりせ。柊さんが知っているりせ。流れ星に祈るだけじゃ叶わない。自ら行動していかなきゃ。
わたしたちは少し早い夕食を食べながら、りせを待つことにした。りせはいつもと変わりなく、元気な様子で働いていた。時折男性のお客さんに声をかけられて困った顔をしていたけれど、いたって元気。いたって普通。悲しみなんてかけらも見せない。その、健気な仮面に、いつも騙されてきた気がする。あの、柊さんの様子。そして学校でのりせ。ふたりの間に何かあったのは明らかだ。だけど、わたしは何も聞けない。それはわたしが、ただの、友だちだから。
「ごめん、おまたせ!」
午後七時半。制服に着替えたりせを加え、わたしたちは帰路に着いた。まだ暑いとはいえ、日が沈む時間は確実に早くなっている。ついこの間まで赤色に染まっていたはずの空には、今は星すら瞬いている。
「ごめんね、いきなり来て。ウェイトレス姿、似合ってたよ」
「ほんとほんと。おれもバイトしたくなったよ」
奏真とふたりで褒めると、りせは照れくさそうに「やだ、もぉ!」と笑った。
「本当にびっくりしたんだから。誰もわたしのバイト姿見たことないのに」
「そういえば、うちの学校バイト禁止だろ? 許可取ってんの?」
「そんなわけないでしょ。ばれたら停学」
りせは学生カバンをぶんぶんと振り回しながら、酔っ払いみたいに道の真ん中を歩いた。眩しい白の半袖シャツ。チェックのスカートが、ふわりと風に広がる。同じ制服を着ていても、りせはきらきらしている。だけどその後ろ姿は、やっぱりなんだかさみしげで、こんなに笑っているのに、どこか切なくなる。
「わたし、もう永くないから」
空を見上げながら、宣言するように、りせが言った。
「学校に来たのもね、ほんのちょっとなの。ほんのちょっと、気を紛らわせたかっただけなの。もうちょっとしたら、目標の額に届くから。そしたら、バイトも辞めるつもり」
言葉の意味がよく分からず、わたしと奏真は顔を見合わせた。永くないって、どういう意味だろう。声に出さず問いかけてみるけれど、奏真も首を傾げるだけだ。
「何かほしいものでもあるのか?」
「お金じゃ買えないものがほしいの」
矛盾している台詞を、りせは言う。ますますわけが分からなくなった。表情すら、髪に隠れて分からない。
「りせは、自立してるな」
何も言えないわたしの隣で、奏真がぽつりとつぶやいた。
「おれなんか全然だめだ。ほんとはさ、親にちゃんと塾に行きなさいって言われてるんだ。いい大学入って、いい会社に就職しなさいって。だから、カメラも反対されてるんだよ」
「えっ、そうだったの……」
突然の告白に、わたしはびっくりした。そんなの、全然知らなかった。奏真は「実はね」と困ったように頬を掻いた。
「だからさ、もっと上達して、コンテストとかで入賞したら認めてくれるかなって思ってるんだけど……。なかなかうまくいかないな。上達しないし、金ばっかかかるし」
「そんなの、知らなかった……」
「言ったら、心配かけると思って」
奏真は何でもない、という風に笑うけれど、わたしにとっては地球がひっくり返りそうなくらい衝撃的だった。そんなに真剣に、写真のことを考えていたんだ。思えば、最初からそうだった。カメラを買うために勉強を頑張っていること、ちゃんと知っていたのに。わたしは自分がカメラと関わりたくないあまり、その真剣さに向き合おうとしなかった。それに、奏真は、何でも話してくれると思っていた。なのに、わたしの知らない奏真がいる。そんなあたりまえのことすら、忘れかけていた。
りせはううん、と首を振った。
「えらいのは奏真の方だよ。ちゃんと目標があって努力してるもん」
「りせだってそうだろ?」
「わたしは、違うの。逃げるための努力をしてるの」
「逃げる……?」
わたしは急に不安になってりせを見た。りせはわたしに目線を移すと、いたずらっぽく笑った。
「逃げる時は全力ダッシュしなきゃね」
わたしは笑い飛ばすことも、真剣に聞き返すこともできなかった。奏真は「何だよ、それ」とふしぎそうに首を傾げた。りせは何でもないように笑って、それ以上何も言うことはなかった。
奏真と別れてふたりきりになると、ぷつりと不自然に会話が途切れた。いつもなら気にならない沈黙が、鋭い針のようにちくりちくりと肌に刺さった。どうしてだろう、いつもと何も変わらないのに。なんとなく、りせの雰囲気が硬い気がする。聞きたいことはたくさんあるのに、核心を突いてしまうのがこわい。わたしの少し前を歩くりせの後ろ姿が、どことなく拒絶しているみたいに見える。りせは今、どんな顔をしているのだろう。何を考えているのだろう。
「……今日、柊さんに会ったよ」
苦し紛れにそんなことを言ってみる。りせは振り向かずに、「どこで?」と尋ねた。
「体育館裏。バスケ部の練習試合なんだって」
「そう」
「柊さんと……」
何かあったの。
そう尋ねようとして、口をつぐんだ。何かあったことは明確だし、わたしが聞いていいことじゃないと思った。
ああ、こうして距離が開いていくのはいやだ。助ける手は持っていないし、お節介だと思われたくもない。何か言わなきゃと思うのに、何を言えばいいのか分からない。こういうところが、自分のだめな部分なんだ。人生の経験値が低いんだ、きっと。
「さっき、本当にびっくりしたんだよ!」
作ったように明るい声で、りせが叫んだ。
「奏真とふたりで来るなんて。教室じゃあんまり話してなかったから。……やっぱり仲よしなんだね」
「そんなこと、ないよ」
わたしはぎこちなく口角を上げた。どうしていきなりそんなことを言うのか、意図が読めない。りせは「……いいなぁ」と、小さな声でつぶやいた。
「雫は今、幸せ?」
「え?」
「死んでもいいくらいの幸せ、感じたことある?」
「……たぶん、ない」
「恋人がいるのに?」
肩越しに、りせが振り向いた。その瞳はぞっとするくらい冷たくて、軽蔑の色が浮かんでいた。わたしはちょっとこわくなって、歩調をゆるめた。
「……何が言いたいの」
「別に。奏真がちょっと、かわいそうだなって思っただけ」
「かわいそう……?」
「でも、そんなものなのかもね。『きらいじゃない』って、ずるい感情だよね。そんなの、繋ぎとめておきたくなっちゃうもん」
りせはごまかすようにうーんと大きく伸びをした。りせが何を言いたいのか分からない。けれど、もしかして、もしかしなくても、怒っているのかもしれない。何で? どうして? 動揺と混乱で何も言えずにいると、りせはさらに話を続けた。
「今日、どうしてふたりで来たの? 放課後デート?」
「やだ、何言って……」
「仲のよさでも見せつけにきたの? ……大して、すきでもないくせに」
りせが体をこちらに向けた。わたしはびっくりして立ちどまった。
りせは、笑っていた。穏やかで、無邪気な、いつもの笑みだ。今まで意識していなかったけれど、笑った顔、小咲さんにそっくり。だけど、大きく見開かれた二つの瞳は、遠くから見ても分かるくらい、からからに乾いていた。
「……雫は柊くんのこと、あんまりよく思ってないでしょう。最低な男だと思ってるでしょ。でもね、雫だって同じだからね。自分に与えられた愛に本気で応えてない。奏真は優しいから何も言わないだけだよ。あんまり本気に見えないかもしれないけどね、まわりから見たら、ああ、本当に雫のこと大事にしてるなぁって分かるよ。特別扱いされてるよ、雫は。ほしくても手に入らない人間から見ると、簡単に人の好意を手に入れてもてあましてるのを見るのって、すごく気分が悪いよ」
乾いていたはずの瞳から、急に、蛇口を捻ったように一気に涙が流れ出した。
「わたしがふたりのこと、何とも思ってなかったと思う? 素直に祝福してたと思う? わたし、ずっと雫のことがうらやましかった。誰とでも卒なく付き合えて、何の努力もしてないのにあっさり誰かの一番になれて、器用に生きてる。雫は『そんなことない』って言うと思うけど、わたしにはそう見えるの!」
わたしは石になる呪いにかかったように、指先一つ動かすことができなかった。りせの言葉を、意味のある言語として受けとめることができない。だって、分からないんだもん。今、目の前にいるのが、わたしの知っている「りせ」だなんて。信じられないんだもん、そんなの。
りせはぐっと唇を噛み締めると、逃げるように背を向けて走り出した。引き留めることもできず、わたしは呆然とその場に立ち尽くしていた。りせの背中が小さくなっていくのを、ただ、見送ることしかできなかった。
その夜は、悔しさと悲しさがぐちゃぐちゃになって、声を上げて泣きじゃくった。泣かないと言ったりせが、あんな風に泣くなんて思わなかった。それに、どうしてあんなことを言ったのかも分からない。わたしのことを、「うらやましい」だなんて。そんなの、わたしの台詞なのに。あれほどの美貌を持っているくせに、どうしてそんなことを言うの。友だちだってすぐにできるくせに。恋だって愛だって、十分するくらい知っているくせに。
りせはいつもわたしのはるか先を歩いている。わたしができないことを平然とやってのける、そんなりせを、いつもうらやましいと思っていた。だから近づいてみたかった。そのために奏真を利用した。だけどわたしは大人になれない。本当の愛を知らないから。永遠に距離は縮まらない。りせが学校に来るようになって、一緒にいる時間は増えたのに、どうしてだろう、心の距離は反比例していった。
明るくて、大人っぽくて、絶対に泣かない強い女の子。それがわたしの知っている「蓮城りせ」だ。だから、あんな風に泣き叫ぶ女の子を、わたしは知らない。りせのことを知りたいと願ったくせに、結局、何一つ本当の姿なんて分かっていなかったんだ。
そんなことをぐるぐる、ぐるぐると考えながら眠りについたら、案の定、翌朝は頭がひどく痛んで、起き上がることすらできなかった。それでもなんとか昼過ぎにはベッドから下りて、のろのろと制服に着替えたのは、きっと、りせに対する意地なのだろう。目が真っ赤に腫れていても、うまく声が出なくても、りせから逃げたと思われたくなかった。
四限目が終わった休み時間。教室に足を踏み入れたわたしは、すぐにその違和感に気がついた。視線を右から左へ動かして、ぐるりと教室内を見渡してみる。輝きが一つ、足りない。
りせの席を見ると、夏休み前と同じ状態になっていた。カバンがかかっていないのだ。りせ、来てないのかな。あれからどうしたんだろう。やっぱり、わたしのせいなのかな。悪い想像ばかりが頭に浮かぶ。席に着くのをためらっていると、いつの間にか奏真が目の前に来ていた。
「雫、大丈夫か?」
「うん、平気……頭、ちょっと重たいけど」
「あのあと、りせと何かあった?」
その質問に、はっとした。奏真は神妙な面持ちでわたしを見ていた。どうして、こういうことには鋭いんだろう。
――奏真が、かわいそうだなって。
やだ、何でこんな時に、昨日の言葉を思い出すの。わたしは「何でもない」と首を振った。
「りせ、今日来てないの?」
「それが……」
奏真は言いづらそうに目を逸らした。
「いや、今朝、職員室で見てさ。……あいつ、退学するかもしれない」
「……はっ?」
隕石が落ちたくらいの衝撃だった。わたしは奏真の言葉の意味を、すぐに噛み砕くことができなかった。
退学? りせが? どうして?
「な、何で? 何言ってんの? 昨日まで普通に来てたじゃん」
「だから、たまたま今朝職員室で聞いたんだよ。りせが先生と話してるの。聞き間違いかもしれないけど……」
奏真は困ったように頭を掻いた。そうだ、奏真だって同じだ。りせの真意はりせにしか分からない。昨日まで普通に学校に来て、普通にバイトをして、それで、いきなり今日退学だなんて。
――わたしの、せい?
「待てよ、雫!」
教室を飛び出そうとしたわたしの手を、奏真が強い力でつかんだ。
「おれも行くよ。りせのところだろ」
「う、うん……!」
うなずいたら、自分の声が震えていることに気がついた。永くない、とつぶやいた、りせの言葉が頭から離れない。何だろう、何が起こっているのかまったく分からないのに、悪い予感がとまらない。りせはどこにいるの? 何を考えているの? これから、どうするつもりなの? 全部、りせに聞かなくちゃ。
「一色!」
今度こそ走り出そうとしたら、また邪魔が入った。振り返ると、いつも奏真と一緒にいる男の子たちが、にやにやとこっちを見ている。
「なぁ、お前ら付き合ってんの?」
「はっ?」
わたしははっとして、繋いでいる、ようにも見える奏真の手を振り払った。
「な、何、いきなり」
「昨日、一緒に歩いてるの見たってこいつが言うんだよ」
「ばか、お前も見ただろ!」
昨日って、ファミレスに行った時のこと? りせに会いにいっただけだし、別にデートしていたわけじゃないのに。近くにいた女の子たちも、「なになに?」とおもしろがって集まってきた。わたしはかぁっと頬が熱くなるのを感じた。
「で、どうなの? 一色」
「あー、実は……」
「違うの!」
奏真の言葉をさえぎるように、慌てて叫んだ。
「奏真とはただの幼なじみだから! 付き合うとか、絶対にないから!」
「そうなの?」
「そうだよ。今日だってたまたま用事があるだけだから! ほら、行こう」
みんなの視線から逃げるように、わたしは奏真の手を引っ張って教室から出た。付き合ってるってだけで冷やかされるとか、好奇の目で見られるなんて、恥ずかしさでどうにかなりそう。
昇降口にたどり着いたところで、突然、奏真が繋いでいた手を振り払った。
「……奏真?」
振り向いたら、奏真はいつになく真面目な表情をしていた。いつも明るいその瞳は暗くくすんで、責めるようにわたしを見ている。肌に触れる空気が、ぴりぴりと痛い。
「前から思ってたけど、さ。雫って、何でおれと付き合ったの?」
「……え?」
「そんなにおれと付き合ってるって言うの恥ずかしい?」
「ちが、そういうことじゃ……今はそんなことより、りせが」
「そんなこと? 大事なことだと思うけど」
廊下を歩いている他の生徒たちの視線が気になった。まわりからは、ただの雑談をしているように見られているのか、わたしたちを気に留める人は誰もいない。
「確かにおれ、雫と一緒にいられるだけでいいって言ったよ。ゆっくりでいいとも言った。でも、雫はいつもりせ、りせって。りせのことばっかじゃん。付き合ってることも公言しなくて、手も繋がなくて、ただ一緒に出かけるだけって、それ、恋人って言えるの? おれって雫にとって何なの?」
わたしは何も言えなかった。悲しげに伏せられた瞳が、泣いているようにも見えた。そこで初めて、奏真が怒っているのではなく、傷ついているということに気づいた。
「はっきり言わないと、やっぱり伝わらないのかな。……おれ、雫がすきだ。雫の撮る写真だけじゃない。雫っていう女の子が、すきだったんだよ……」
まるで彗星みたいに、奏真の声が消えていく。心が、冬の日ように震えた。何か言わなきゃいけないのに、頭が雪のように真っ白になって、何も考えられなかった。混乱しているわたしの心に気づいたのか、奏真は下手くそな笑みを浮かべて、目を逸らした。
「ごめん。やっぱり、ひとりで行って」
立ちすくむわたしを置き去りに、奏真は早足に立ち去ってしまった。
急いでいたにもかかわらず、わたしはしばらくその場を動けなかった。
知らなかった。奏真がそんなこと思っていたなんて、分からなかった。だって奏真はいつだって、笑っていてくれたから。何もできないわたしを、笑って許してくれたから。奏真が傷ついていないわけないのに。
ああ、りせが言っていたのは、こういうことだったのね。わたし、柊さんにあんなことを言ったくせに、柊さんと同じことをしていたんだ。奏真の気持ちを知りながら、まっすぐ向き合ってあげられなかった。自己嫌悪が波のように襲いかかる。心が重い。でも、いつまでもこんなところで立ちどまっているわけにもいかなくて、重くなった足をなんとか動かして、わたしはりせの元へと急いだ。
「フラワーガーデン」に着く頃には、髪はぼさぼさ、肌は汗でぐちゃぐちゃになっていた。嵐が吹き荒れているような心境とは違って、庭は実に穏やかだ。花壇に咲く色鮮やかな花は、わたしの焦りを嘲笑うみたいにそよそよと風に揺られている。乱れた息を整えるより早く、コンコン、と離れをノックした。返事はない。扉に耳をあててみるけれど、やっぱり人の気配はない。スマートフォンを取り出して、りせに電話をかけてみた。でもやっぱり無機質なコール音が何度も繰り返されるだけで、わたしとりせを繋いではくれない。
もしかしたら、寝ているだけかもしれない。それか、バイトに行っているのかも。そうだったらどんなにいいか。りせが学校に来ないのなんて、元々はそっちが普通だったじゃない。学校に来ていないことが「あたりまえ」だったんだから。それなのに、どうしてこんなに不安になるんだろう。もう二度と、りせに会えないような。姿の見えない不安が、心を掻き乱していく。
その時、後ろでバタバタと物音がした。振り向くと、アパートの一階から、戸惑った様子の智恵理さんが出てくるところだった。慌てたように車道に飛び出て、きょろきょろと首を振っている。わたしは咄嗟に彼女に駆け寄った。
「智恵理さん、どうしたんですか?」
いつもばっちりセットしてある長い髪が、山姥みたいにぼさぼさになっている。智恵理さんは血相を変えてわたしを見ると、蜘蛛の糸を見つけたように目を見開いた。
「ねぇ、三尋木(みひろぎ)病院までの行き方分かる?」
「え? あの、はい」
「歩いて行けると思う? 遠い?」
「歩くと結構かかりますけど……どうしたんですか?」
「さっき小咲の会社から連絡があって、あの子、倒れて病院に運ばれたらしいの。タクシー呼んだんだけど、なかなか来なくて」
「えっ」
倒れた? 小咲さんが?
わたしは全身の血がぐぅーっと逆流していくのを感じた。そういえば、最近ずっと体調が悪かったっけ。どうしてこんなに次から次へといろんなことが起こるのだろう。今日は最低最悪の厄日だ。
「自転車ならたぶん十五分くらいです。わたしの自転車、貸しましょうか?」
「わ、わたし自転車乗れないもん……」
「じゃあわたしがこぎますから、後ろ乗ってください!」
わたしは停めていた自転車の鍵を外してサドルにまたがった。
「で、でも、わたし重いわよ? いいの?」
「いいから! 緊急事態なんだからつかまって!」
智恵理さんはためらいながらも後部座席に座り、わたしの体に腕をまわした。わたしはぐっとペダルを踏み込んで、勢いよく自転車を発進させた。ぎゃっと智恵理さんが潰れたカエルのような声を出した。
「やだ、やっぱりこわい、もっと静かにこいで!」
「急いでるんでしょ! 耐えてください」
「は、はい」
ああ、もうすべてにいらいらする。早くりせに会いたいのに。でも小咲さんも心配だし奏真との関係はぐちゃぐちゃだし、考えることが多すぎる。乱雑な思考を振り払うように、わたしは全速力で自転車をこいだ。
病院に着くと、病室にはすでに小咲さんの名前が記されていた。智恵理さんが看護師さんから簡単な事情を聞き、廊下で待っていたわたしに伝えてくれた。
「軽い脳震盪だって。大したことないから、明日には退院できるそうよ」
「よかった……」
わたしはほっと胸を撫で下ろした。智恵理さんはめずらしく申し訳なさそうに眉を下げた。
「ありがとね、わざわざ連れてきてもらって。あの子、小さい頃からいろんな病気で入退院を繰り返してて。今回は大したことなさそうだけど……」
「いえ、いいんです。わたしも小咲さんにはお世話になってるし……」
「それで、ついでに悪いんだけど、もう一つお願いしてもいいかしら」
「何ですか?」
尋ねると、智恵理さんはちょっと気まずそうに目を逸らした。
「りせに連絡してくれない? わたし、あの子の連絡先知らないのよ」
智恵理さんからりせの名が出たことに、びっくりした。ふたりはすごく仲が悪そうに見えたから。普段はいがみ合っていても、やっぱり親子なのかもしれない。わたしはもちろんうなずいて、スマートフォンを取り出した。
りせにもう一度電話をしたけれど、やっぱり彼女の声は聞けなかった。ひとまずメッセージを送って、わたしは智恵理さんと一緒に病室に入った。
白いベッドの上で、小咲さんは穏やかに眠っていた。りせの面倒を見ていたのは小咲さんだって、前に聞いたことがある。小咲さんはいつも明るくて、優しくて。だから、こんなに弱っていたなんて知らなかった。しばらく小咲さんを見つめていたら、ゆっくりと、目蓋が開かれた。
「小咲!」
智恵理さんが名前を呼ぶ。小咲さんは智恵理さんを見て、それからゆっくりとわたしに視線を移した。
「おかーさん、雫ちゃんも……」
「よかった、目覚めて。あんた、もう大丈夫なの? どっか痛くない?」
「大げさよ。大丈夫、ちょっと転んだだけだから。雫ちゃんも来てくれたの?」
「は、はい」
「雫ちゃんがわたしをここまで連れてきてくれたの。あ、先生呼んでくるわね」
智恵理さんはわたしを残して、慌ただしく病室を出ていった。
「ごめんね、雫ちゃんにまで心配かけて」
「いえ……むり、しないでください」
小咲さんは「ありがとう」と微笑むと、まわりを見渡すように頭を浮かせた。
「……りせは、いない?」
「さっき電話したんですけど、出なくて。でも、メッセージは送ってます。気づいたら、きっとすぐに来ると思います」
「そっか」
小咲さんは残念そうな、ほっとしたような、複雑な表情を浮かべて頭を下ろした。
「最近、りせに会ってる? あの子、元気?」
「それが……昨日まで学校に来てたんですけど、今日は来てなくて。部屋をノックしても出てこないし……」
「そう……」
「りせと、何かあったんですか?」
おそるおそる尋ねたら、小咲さんは何かを思い出すように、窓の外に顔を向けた。それから後悔するように、右腕を目蓋の上に乗せた。
「わたし、あの子にひどいこと言っちゃったの。あんなこと言うつもりなかったのに。りせのこと、傷つけちゃった。たったひとりの妹なのに」
「……りせは、小咲さんのことだいすきだって言ってました。自慢のお姉ちゃんだって」
「今は、どう思ってるかな……」
わたしはそれ以上、かける言葉が見つからなかった。ふたりの間に何が起こったのか、聞く権利すら、わたしは持たない。だけど、聞かなくても分かる。柊さんのことだろうなと、直感的に理解した。
だからこそ、わたしは何も言えなかった。わたしはただのりせの友だちで、完全なる部外者だった。どれだけりせと関わっても、どれだけ心配をしても、結局これは、彼女たちの問題なんだ。だからわたしは、そこに踏み込む権利を持たない。ずっと、感じていたことだった。
しばらくすると、智恵理さんがお医者さんと一緒に病室に戻ってきた。お医者さんは、「しばらく安静にすること。むりはしないこと」というアドバイスだけして、せわしなくどこかへ行ってしまった。
スマートフォンを確認すると、先ほど送ったメッセージに既読がついていた。やっぱり、来づらいのかな。今、どこにいるんだろう。まったく見当がつかない。それはきっと、わたしがりせのことをあまりにも知らないから。りせのことを知りたいと、流れ星に願ったはずなのに。何にも、前に進めていない。あんまり長居するのも申し訳ないし、そろそろこの場を去ろう。そう考えて帰ろうとした時、柊さんが病室に入ってきた。
「大丈夫か? 小咲」
「柊くん、来てくれたの」
小咲さんの顔が、花が咲くようにほころんだ。柊さんは智恵理さんに軽く会釈してからわたしに気づいて、ちょっと驚いたような顔をした。
「雫ちゃんも来てくれたのか?」
「そうなの。お母さんを病院に連れてきてくれたんだって。お母さん、自転車も乗れないし、方向音痴だから」
「し、しかたないでしょ。タクシーが来なかったんだから」
智恵理さんが少し恥ずかしそうに顔を背ける。柊さんは「ありがとな」とわたしの頭を優しく撫でた。
「それで、何ともないのか?」
「うん。ごめんね、心配かけて。仕事は?」
「仕事なんてしてる場合じゃないだろ。……いいんだよ、そんなの」
小咲さんが弱く手を伸ばす。柊さんは一ミリのためらいもなく、その手をそっと包んだ。
わたしはなんだか、ぎゅうっと心臓をつかまれたような気分になって目を逸らした。りせが来なくてよかったのかもしれない。ふたりのこんなやりとりを見たら、きっとまた傷ついてしまう。
「そういえば、りせは?」
智恵理さんが、思い出したようにわたしに問いかけた。わたしは力なく首を振った。
「連絡はしたんですけど、返事がなくて……」
「まったく、あの子ったら。実の姉が倒れたっていうのに、冷たい子」
「りせもいろいろ忙しいのよ。分かってあげて、お母さん」
「でもぉ……」
「もう、ちゃんと仲よくしてよね。わたしももうすぐいなくなるんだから……」
「えっ?」
さらりと重大なことを言われた気がして、わたしは思わず声を上げた。
「……いなくなるって、どういうことですか?」
その場にいる全員に向けて、問いかける。柊さんはわたしの方を見ようとしない。知られたくないことを聞かれたように、うつむいたままだ。
「報告、遅れちゃったね」
小咲さんは照れたように微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、心が、いやにざわついた。まるで、りせの心がわたしにリンクしたみたいだった。その先にある台詞が、分かってしまった。
小咲さんは、柊さんの手を繋いだまま、幸せそうに目を細めた。
「わたしたち、来月結婚するの」
――ガタン。
病室の入り口から物音がして、はっと振り向いた。曇りガラスに、人影が映っている。シルエットだけで、それが誰であるかすぐに分かった。
「……りせ?」
わたしが名前を呼ぶと、人影が逃げるように消えていった。
「待って!」
考えるより先に体が動いた。ぽかんとしている智恵理さんたちを置き去りに病室を出て、早足でりせを追いかけた。病院から出ると、自転車に乗ったりせの後ろ姿が見えた。わたしは慌てて駐輪場に向かい、自分の自転車に飛び乗った。
りせの向かう場所なんて一つしかない。帰りたくなくても、他に行き場がないことを、わたしは知ってる。赤信号に阻まれながらも、なんとかたどり着いたのは、どこでもない、りせのお城だった。
離れの前には、りせの自転車が乗り捨てられていた。わたしは自転車から降りて、ゆっくりと、離れの扉を開けた。
部屋の中には、いつも映し出されていたはずの星空は浮かんでいなかった。まだ外は明るいのに、本当に深海の中みたい。部屋に一歩踏み入れたら、まったく別の世界に入ったような気がした。
りせ、と名前を呼ぼうとしたわたしは、さざ波のようなすすり泣きに気づいて口をつぐんだ。目を凝らすと、岩礁に倒れ込む人魚のように、ベッドに寄りかかるりせが見えた。声が漏れないように、布団に顔を埋めている。肩が、凍えるように震えていた。
わたしはそっと靴を脱いで、りせに一歩、近づいた。
「……知ってたんだね」
りせは何も答えなかった。うなずくことも、首を振ることもしなかった。それが肯定だということも、ちゃんと、分かった。わたしは床に膝をついて、りせを背中から抱き締めた。
「う、う、うぇぇぇぇ……」
何かの弦が切れたように、泣き声が一層大きくなった。まるで迷子になった子供のようだ。抱き締めたりせの体はとても細くて、このまま消えてなくなってしまうんじゃないかと思うほど脆かった。
強く強く、抱き締めなければ。
きっと、りせは消えてしまう。
「な、納得しようとしたの。いつかこうなることは分かってたし、覚悟は、してたの。だから、ち、ちゃんと受け入れようって」
「……うん」
「でも、もうむり。ずっと我慢してきたの。ふたりがデートしてるのも、三人で一緒にいる時も。全部、全部我慢してたの」
「うん」
「ほんとは、ほんとはね、ふたりが一緒にいるのを見るのもいやだった。死んじゃいたくなった。バイトをしてたのだって、この家から離れるためだった。だからせめてお金が貯まるまではここにいようって、頑張ろうって思ってたの……思ってたのに! 何であんなことしたの? どうしてネックレスなんてくれたの? 最後の思い出にしようと思ったから? だから旅行に連れていったの? おめでとうって言うと思った? 言うわけないじゃん! 結局キスするしやることはやるし意味分かんない! 何でわたしに優しくするの? 一番じゃないのに! 一番にしてくれないくせに! 選んでくれないなら、あんな優しさいらなかった! 思い出なんて作ってほしくなかった!」
りせは床に転がっていたCDをつかんで、思い切り壁に投げつけた。「コペルニクス」のCDが、次々と粉々に砕けていく。ふたりの思い出が、壊れていく。
「これからずっと近くで幸せを見続けなきゃいけないなんて、想像しただけで吐き気がする! 式なんてしてほしくない! 一緒に暮らしてほしくない! 指輪、なんて、してほしくないよ……!」
りせの叫びが、狭い部屋に反響する。暴れまわる小さな体は、まるで言うことを聞かない馬のよう。離さないように、離れないようにぎゅっと押さえつけていたら、りせの苦しみが、肌を通じて伝わってきた。涙がぽろぽろとこぼれてきた。苦しい。つらい。絶対に泣かないと言ったりせが、こんなに泣いている。泣いたら、みじめになるでしょ。そう言って笑っていたのに。こんなにも、苦しんでいる。
叫びが終わると、りせの肩は激しい上下を繰り返した。まるで運動をしたあとのように息が荒い。りせがゆっくりと振り向いたので、わたしは思わず、抱き締めていた腕の力をゆるめた。
泣きじゃくったりせの顔は、涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。美しかった長い髪は頬に張りついてぼさぼさになっている。チャームポイントの大きな瞳はうさぎみたいに真っ赤だ。白い頬は、涙で濡れていない部分なんてどこにもない。ぼろぼろに傷ついた女の子が、そこにいた。
「ねぇ、雫」
りせの手が、縋るようにわたしの両肩をつかんだ。ぐっと近づいたりせの顔は、おそろしいくらい真っ白だった。大きな瞳に、動揺しているわたしが映っていた。
「わたしはどうしたらいいの? どうしたら幸せになれるの? これからずっと、ふたりの幸せを祝わなくちゃいけないの? おめでとうなんて言いたくない。こんな風に家族になんてなりたくない。きょうだいなんて、なりたくないの。……そんなのいらない。そんな形で、ずっと一緒にいたくない。そんな風になるくらいなら、もう、死んじゃいたい」
「りせ……」
「生きてるのがつらいの、苦しいの。わたしの方がすきって言うくせに。何で? 何でこうなっちゃうの? わたしのことだって大事にしてほしいよ。わたしの幸せ奪わないでよ、こんな思いを抱えて生きていくくらいならもう死んじゃいたい。……ねぇ、雫。わたしはどうしたらいいの? 教えてよ、しず……」
りせの言葉が、不自然にとまった。ううん、違う。
わたしが、言葉を、奪ったんだ。
気づいたらわたしは、悲痛な叫びをとめるように、りせの唇を塞いでいた。やわらかい、マシュマロみたいな感触が、わたしの唇に伝わる。ゆっくりと口を離したら、熱い吐息が混じり合った。
「……もう、いいよ」
ないしょ話をするように、そっと、ささやいた。
「いい子でいるのは、もうやめよう」
りせは何をされたのか分からないように、大きな瞳を見開いていた。つい今し方までの叫びは、かけらすら出てこない。まるで、言葉を失った人魚みたい。
わたしはまっすぐにりせを見つめた。初めて出会った時から、たぶんずっと分かっていた。満月の夜、逢引をしているあなたを見かけた。桜の下であなたに出会った。その笑顔に、その美しさに、ずっとあこがれていた。ずっと、惹かれていた。
悲しみの海に沈むあなたを救ってあげたい。痛みも苦しみも全部取り去って、もう一度笑顔を見せてほしい。
「逃げよう。一緒に。りせのこと、誰も知らない場所に行こう」
「……逃げて、どうするの?」
生まれたての雛のように、弱々しい声でりせが尋ねた。決まってるでしょ、とわたしは弱く微笑んだ。
「呪いを解きにいくの」
あなたのことがすきだから。
ありったけの荷物をカバンに詰めて、逃げるように部屋を飛び出した。準備をしているうちに手間取って、いつの間にか太陽は西の空に沈んでしまった。
夜の街は昼とは違う顔をしている。ぎらぎら光るネオンや、レーザー光線のようなライトを放って走る車は、まるで獰猛な獣のようだ。光に照らされないように闇に紛れて駅まで走り、勢いよく電車に飛び乗った。最初はたくさん人が乗っていたけれど、夜が深まるにつれ、ひとり、またひとりと電車から降りて、いつの間にか、わたしとりせしかいなくなった。
電車に揺られている間、わたしたちは一切言葉を交わさなかった。これからどこに行くの、どうするの、なんて、りせは何も聞いてこなかった。わたしも何も言わなかった。ただ、離れぬように、離さぬように。お互いの手を鎖のように繋ぎ続けた。
りせのすすり泣きは、時間が経つにつれて小さくなって、やがて微かな寝息に変わっていた。起こさないように気をつけながら、頬に伝った涙をそっと指で拭った。先のことなんて、何も考えていない。でも、あのままあそこに居続けたら、きっとりせは死んでしまう。そんな、予感がしたのだ。
りせを、助けなければ。
考えたのは、それだけ。
どのくらい電車に揺られていたのだろう。終着駅に着いたわたしたちは、駅員さんに特急券を渡して改札を出た。駅から離れるにつれてどんどん人気はなくなって、十五分ほど歩く頃には、民家の明かりすら数えるほどになっていった。空から降る淡い月明かりが、やけに眩しくわたしたちを照らしていた。
たどり着いたのは、古い、小さな一軒家だった。寂れた表札、傷んだ木造の壁。少し、寂寥すら感じさせる。暗く光った灯火には、小さな虫が何匹も集まっていた。りせが戸惑うようにわたしを見た。わたしは答えるより先に、インターホンを鳴らすことにした。夜遅いせいか、なかなか扉が開く気配がない。懲りずにもう一度押したら、遠くからゆっくりと歩く音が近づいてきた。少しためらいがちに、扉が開く。
「……しーちゃん?」
久しぶりに再会したおばあちゃんは、わたしの顔を見ると、驚いたように目を丸くした。
「どうしたのいきなり! 東京から来たの?」
「いきなりごめん。この子、友だちのりせ。しばらくかくまってほしいの」
「すいません、夜分に……」
りせがおずおずと頭を下げる。おばあちゃんはまだ驚いたまま、わたしとりせを交互に見たけれど、何かを察したのか、すぐにうなずいてくれた。
「いいわ。お入りなさい」
わたしとりせは、互いの意思を確認するように顔を見合わせた。言葉を交わすことなくうなずいて、靴を脱いで家に上がった。
おばあちゃんの家を訪れるのは久しぶりだ。おじいちゃんが生きていた頃は頻繁に遊びにきていたけれど、今では正月とお盆くらいしか訪れる機会がなくなってしまった。それに、受け入れたくなかったのだ。おじいちゃんが死んだという現実を。
客間に入ったわたしたちは、ようやく、背負っていた重たい荷物を肩から下ろした。久々に嗅ぐ畳のにおいは、どこか懐かしい感じもする。おばあちゃんは「お湯、入れてくるわね」と言って、慌てた様子でお風呂場に行ってしまった。
「いいのかな、いきなり……」
部屋の隅っこで縮こまりながら、りせが不安そうにつぶやいた。わたしはしゃがみ込んで、安心させるように微笑んだ。
「りせは何にも気にしなくていいの。それより、ごめんね。遠くまで連れてきちゃって」
「ううん……」
りせは力なく首を振り、失敗作のような微笑を浮かべた。
壁にかかっている時計を見ると、もう0時をまわっていた。四時間近く電車に揺られていたのだ。そう自覚したら、今まで気づかなかった疲労が、一気に体の芯から溢れ出てきた。全身がだるくて、頭も重たい。汗が服に張りついて気持ちが悪かった。
しばらくすると、遠慮がちに襖が開いて、おばあちゃんがひょっこり顔を出した。
「しーちゃん、お風呂入れましたよ」
「ありがと」
「これ、タオルね。あと、一応寝間着……浴衣しかないけど。下着はあるの?」
「うん、大丈夫」
おばあちゃんはわたしにタオルと浴衣を渡すと、ちらりとりせの方を見た。りせが慌てた様子で立ち上がる。おばあちゃんはにっこり笑って、
「疲れたでしょう。ゆっくりあたたまってね」
「ありがとう、ございます」
りせがまた深々と頭を下げた。わたしはりせにお風呂セットをそのまま渡して、浴室まで案内した。
「シャンプーとか、自由に使っていいから。先入って」
「うん。ありがと、何から何まで……」
「気にしなくていいの。じゃあ、ゆっくりしてね」
りせがうなずいたのを見届けて、わたしは脱衣所から出た。古びた廊下が、歩くたびぎしぎしと音を立てる。不安定なわたしの心を表しているようで、こわくなる。
部屋に戻ると、おばあちゃんが敷布団を出しているところだった。わたしも協力して、ふたり分の布団を畳の上に敷いた。さっきつけたクーラーがようやくきいてきて、肌に滲んだ汗をさらさらと乾かしていく。
「ごめんね、いきなり来ちゃって」
「ううん。それよりあなたたち、ご飯は食べたの?」
「大丈夫。……たぶん、今は食べれないと思う」
お昼から何も口にしていないけれど、ふしぎなくらいおなかはすかなかった。きっとりせも一緒だろう。今はただ、胸が苦しい。
「きれいな子ね。お友だち」
「でしょ」
ふふ、とおばあちゃんが微笑んだ。
久しぶりに会うおばあちゃんは、前会った時より少し背が縮んでいた。……ううん、違う。きっと、わたしの背が伸びたんだ。髪も以前より灰色の部分が増えて、目尻のしわも深くなっている。疲れたように深く息を吐く、その仕草に少し胸が痛んだ。
「おじいちゃんもびっくりしてるわ。こんな夜中に訪ねてくるなんて」
「そうだよね……」
「しばらくゆっくりしていきなさいね。久々にしーちゃんに会えて嬉しいわ」
「うん、ありがとう。あの、お母さんには……」
「分かってる。内緒にしておくわ。おやすみなさい」
「おやすみ……」
おばあちゃんは事情を聞くこともなく、寝室へと戻っていった。ひとり残されたわたしは、疲れを吐き出すように長く息を吐いた。
勢いでここまで来てしまったけれど、いろいろ問題は山積みだ。明日は平日だし、学校にも連絡しておかなきゃ。さぼっていることをお母さんに知られたら……想像するだけでおそろしい。
考え込んでいたら、襖が開いて、浴衣姿のりせが部屋に入ってきた。
「あの、お風呂、ありがと……」
髪から滴る雫が、肩にかけたタオルを濡らしていく。わたしはうん、とうなずいて、ドライヤーをりせに渡した。
「これ、使って。あと、お布団すきな方使ってね」
「うん」
「じゃあ、わたしもお風呂入ってくる。眠たかったら先に寝てていいからね」
「うん」
普段とは違い、りせは口数が少ない。よほど疲れているのだろう。体も――心も。
「雫」
お風呂場に向かおうとしたわたしを、りせが呼びとめた。わたしはなぁに、と振り向いた。りせは何か言いたげにわたしを見つめたけれど、やがて力なく首を振った。
「何でもない」
「……そう」
わたしは何も言うことなくお風呂場へと向かった。
シャワーが弾丸のように全身を打ちつける。汗を洗い流したら、少しだけ気分がすっきりした。
髪を洗いながら、わたしは先ほどのりせの様子を思い出していた。りせの胸元に見えた、三日月型のネックレス。きっとあれは、柊さんからもらったものだろう。小咲さんとのことを知ってもまだなお、捨てられずにいたんだ。そう考えると、ちくりと胸が痛んだ。
こうなることは分かっていた、と、りせは言ったけれど。それはわたしも同じだった。幸せそうなりせを見て納得していたけれど、そんな状態がいつまでも続くわけがない。いつかりせが傷つくことになるんじゃないか。そう思っていながら、何もできなかった。わたしは部外者だから。助けて、あげられなかった。
湯船に体を沈めたら、心がじんわりとあたたまっていくのを感じた。ああ、あたたかい。疲れが、するすると体から染み出していく。
――そういえば、忘れてたけど。
わたしはそっと、指で自分の唇をなぞった。
キス、してしまった。りせと。女の子同士なのに。……ああ、きっとあれだ。ショック療法だ。泣いてる赤ちゃんを驚かせたら、泣きやむって言うし。それだよね。うん、きっとそう。
でも、奏真とはできなかった。それなのに、どうしてだろう。女の子だから? 友だち、だから?
――すき、だから?
その二文字を思い浮かべたら、背筋がぞくっとした。わたしは、りせがすき。そりゃそうよ、友だちだもん。でも、りせはただの友だちとはどこか違う。もっと、もっと大切で、いとおしい。この感情の意味を、自覚していいのかな。少し、おそろしい気もする。
部屋に戻ると、りせはすでに深い眠りについていた。しゃがみ込んで顔をのぞき込む。長いまつげに雨粒のような涙がついていた。このまま泣き続けたら、涙が養分となって、まつげが育ちそうだ。わたしは起こさないようにそっと、透明な雫を指ですくった。
かわいそうに。どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないのかな。頭もよくて、かわいくて、スタイルもよくて。りせは、女の子があこがれるものを全部持ってるのに。性格だっていいのにさ。りせは、すべてを手に入れすぎたのかな。だから神様は、一つだけ、大切なものを与えてくれないのかな。
わたしが男だったら、もっとうまくできたのかな。そんな、ありもしないことを妄想して、自分の愚かさにあきれた。
わたしが落ち込んでいる場合じゃないんだ。ようやく、りせをあのお城から連れ出すことができたんだから。柊さんも小咲さんもいない。追われる心配もない。
これから、ここで。
あなたの呪いを、解いてあげなくちゃ。
翌日。疲れ果てていたわたしは、十一時すぎに目を覚ました。こんなに長く眠ったのはいつ以来だろう。寝ぼけた目をこすって、隣の布団をのぞき込む。りせは布団に潜ったまま、息絶えたように眠っていた。本当に死んでいるんじゃないかと不安になったけれど、呼吸に合わせて上下する布団が、生きていることを証明していた。
起こさないようにそっと、忍び足で部屋を出た。顔を洗って居間に行くと、おばあちゃんが新聞を読んでいた。
「おはよう、しーちゃん」
「おはよう……」
大あくびをしながら、扇風機の近くに座る。テレビに映るお天気お姉さんが、今日も残暑が厳しくなるでしょう、と聞きたくもない事実を告げてきた。毎年似たようなフレーズを聞いている気がする。暑さに反抗するように、扇風機に向かってあああああーっと無意味な音を叫ぶ。
「あの子は? まだ寝てるの?」
「うん。すごく疲れてるから……」
体だけじゃない。きっと、心も。
昨晩、子供のように泣くりせを思い出した。りせはどんな時も泣かなかった。泣かない、強い子だと、そう思い込んでいた。わたしはりせに騙されていたんだ。あの子は、嘘がとてもうまい。
「……ねぇ、しばらくここにいてもいい?」
振り向かずに尋ねた。後ろで、おばあちゃんが微笑む気配がした。
「もちろんよ。でも、学校にはちゃんと連絡しなさい」
「……あ」
すっかり忘れていた。もうとっくに授業は始まっている。先生が不審に思ってお母さんに連絡を取っていたら一発アウトだ。わたしは慌てて学校に電話することにした。
ひとまず風邪がまだ治らないということにしたら、担任教師は特に疑わずに「ゆっくり休めよ」と実に優しい言葉を投げかけてくれた。昨日も結局行かずじまいだったし、もう、完全に不良の仲間入りだ。
おなかの虫がぎゅるぎゅると鳴った。そういえば、昨日の昼から何も食べていない。おばあちゃんが昨晩の残りだという肉じゃがを出してくれた。りせはまだ起きてこなかったので、テレビを見ながらふたりでだらだらと昼食を取ることにした。
「どう? 高校生活は?」
お昼のワイドショーを見ながら、おばあちゃんが尋ねる。
「うーん、大変だよ。勉強は難しいし」
ほくほくのじゃがいもを口に運びながら、わたしは答える。横並びで会話をするのって、なんだか変な感じだ。ふたりとも、目線はワイドショーに向けたまま。大物俳優が不倫をしたらしく、今まさに謝罪会見がライブ中継されていた。
『ふたりとも愛していました』
男前の俳優は、まっすぐな瞳でそんなことを口から吐き出す。
『ぼくは、どちらも、捨てることなどできませんでした』
贅沢な話だなぁ、と思う。
モテる人って、みんなこんな感じなんだろうか。ひとりの人にすきになってもらうのだって、相当な奇跡なのに。愛して、愛されて。それでも満足しないって、一体何様のつもりなの。心の中で吐いた毒は、全部自分に返ってくる。
「そういえば、奏真くんとまた同じ学校になったんだって? よく遊んでた、あの子よね」
わたしの心を察したように、タイミングよくおばあちゃんが言った。大きなお肉をつかもうとしていた箸が、自然ととまった。
――考えないようにしていたこと。りせの衝撃が大きすぎて、一旦保留にしていたこと。
わたしは黙って箸をテーブルに置いた。
昔から、奏真が怒ったところを見たことがない。友だちにおもちゃを壊された時も、先輩から理不尽なことを言われた時も、文句一つ言わずににこにこしていたのが奏真だった。わたしにだってそうだ。わたしがどれだけぶっきらぼうにしても、決して奏真は怒らなかった。付き合うのを了承したのはわたしなのに、手さえ繫げないわたしを、咎めることもしなかった。ゆっくりでいいと、言ってくれた。すき、と、伝えてくれた。
それなのにわたしは、奏真の気持ちを踏みにじったんだ。大人になる手段に利用して、奏真を傷つけた。最後に見た、奏真の表情が目に焼きついて離れない。奏真は今どうしているだろう。怒ってるかな。怒ってるよね。そして、悲しんでる。もう、友だちには戻れないかもしれない。
「奏真くんと喧嘩でもした?」
「……喧嘩、じゃないと思う」
わたしは力なく首を振った。
「わたしが自分勝手だっただけ。奏真の優しさに甘えちゃったの。奏真はいつもわたしのことを一番に考えてくれてたのに、わたしは奏真のこと、大事にしてあげられなかった」
「そう。それは失敗したわねぇ」
おばあちゃんはのんべんだらりとわたしの心臓にナイフを突き刺した。分かっちゃいるけど、人に言われるとぐさっと来る。わたしがしゅんと肩を落としていたら、おばあちゃんは慰めるようにぽんぽんと背中を叩いてきた。
「若いんだから、たくさん失敗しなさい。おばあちゃんがしーちゃんくらいの時は、たくさん失敗したわよ。そうやって、失敗して、お互い傷つけ合って、それでもそばにいてくれるのが、本当にあなたの味方でいてくれる人よ」
「……おばあちゃん、いいこと言う……」
「そりゃ、おばあちゃんだもの」
えっへん、と誇らしげに胸を張る。そのかわいらしい動作に、わたしは思わず笑みを漏らした。
「そうだ、写真は? しーちゃん、写真は最近撮ってないの? おばあちゃん、また見たいな」
「……写真は、もうやめたの。やめてたの」
「やめてた、ってことは、また始めるのね」
「うん」
わたしは力強くうなずいた。
「一番素敵な瞬間に、シャッターを押すつもり」
以前のわたしなら、言えなかったこと。できなかったこと。撮りたいものが見つかった今なら、きっとできる気がする。
「そう。楽しみにしてるわ。あ、おじいちゃんにご挨拶してね」
おばあちゃんのその一言で、わたしはおじいちゃんの部屋へと足を運んだ。
そこは、埃っぽい過去のにおいと、太陽の光が混じり合った、ふしぎな空間だった。この部屋に入るたび、わたしは胸がぎゅうっと締めつけられたように感じる。本棚にぎっちりと敷き詰められた、有名な写真家の写真集。幾千もの写真が挟まった大量のアルバム。壁にかけられた何枚もの風景写真。今にも舞い落ちてきそうな満開の桜、青い空を飛ぶ鳥、太陽を求めるように背伸びしたひまわり。秋の紅葉も、白い雪も。この部屋には、一年がぎゅうっと詰め込まれている。
わたしは畳の上を擦るように、おじいちゃんの仏壇の前まで歩いた。
小さな額縁の中にいるおじいちゃんは、相変わらず無表情だった。元々、感情を表に出さない人だった。無口で、だからこそ、たまにぽつりぽつりと雨粒のように漏れる言葉が、じんわりと心に染み渡った。
わたしは鈴を鳴らすと、両手を合わせて目を閉じた。
おじいちゃん。
あのね、本当はね。
こうして仏壇の前に来たくなかった。だからお葬式の時も、お正月も、ずっとおじいちゃんを避けていたの。だって、おじいちゃんはもういないんだって、思い知らされるような気がしたから。写真を撮れなくなったわたしを、怒るんじゃないかって、こわかったから。
わたしはずっと逃げていた。おじいちゃんの死から。弱い自分から。だけど、今は違う。わたしは、わたしよりずっと守りたいものを見つけた。撮りたいものを、見つけたのだ。
そっと、目を見開いた。写真の中のおじいちゃんが、わたしの背中を押すように、微笑んだような気がした。
小学生の頃、夏休みの大半をおばあちゃんの家で過ごした。都会でもなく田舎でもない、中途半端なこの場所を、お母さんはとても不便だという。でもおばあちゃんは「適度に静かで、適度に便利で、とても住みやすいわよ」と話すのだ。わたしもそれには同感で、若者が遊ぶようなショッピングモールなんてないけれど、交通量は少なくて、それゆえ空気が澄んでいる。東京で見る空は、背の高いビルのせいでとても狭く感じるけれど、ここで見る空はとっても広い。心なしか、透明度も高いような気がする。
外に出ると、目に映るものすべてが懐かしかった。おばあちゃんの家は、柳並木と石畳が美しい小径のはずれにある。「ペリーロード」と呼ばれるこの道は、大正時代に作られた石造りの洋館や古民家が数多く残っていて、異国情緒を感じさせるレトロな雰囲気を醸し出している。
一歩外に出ると、大きなカメラを首から下げておじいちゃんと歩いた場所が、そこら中に転がっていた。長楽寺や黒船ミュージアム、版画はがきを売る小さなお店。
そよそよと踊るように揺れる青柳が、わたしはすきだった。そのしなやかな葉が風に揺れる瞬間を、生き生きと切り取ることができたらどんなにいいか。小川のせせらぎを一枚の写真に閉じ込められたらどんなに素敵か。そんなことを話しながら、ふたりで並んで歩いたあの時間が、とても尊いものだったことに気づく。失ったものは取り戻せない。だからこそ、もう誰も、失ってはいけない。
夕方、ベランダですずんでいたわたしの元に、突然電話がかかってきた。スマートフォンに表示された名前を見て、心臓が一回転した。ちょっとためらったけれど、わたしは通話ボタンを押すことにした。
『雫』
いつも通りの声で名前を呼ばれた。わたしは奏真、と、いつもよりぎこちなく名前を呼んだ。
『学校、来てないから心配してさ。……体調、大丈夫?』
「うん、平気」
『そっか。それなら、いいけど』
あんこのないあんぱんみたいな会話は、すぐに途切れた。何て言おうか。何を言おうか。頭の中で言葉を組み立てようとしたけれど、自分をきれいに見せる都合のいい台詞は何にも思いつかなかった。
「……昨日は、ごめん」
電話の向こう側で、奏真の息がとまった気がした。沈黙は一瞬で消え、『いいよ。おれもごめんな』と、優しい声が返ってきた。
何に対して謝っているのか、何を謝られる必要があるのか。それはお互い、ほんのちょっとだけあいまいだった。言い訳を並べて取り繕うこともできたけれど、きっとそれはもう意味を持たなくて、何を伝えても、もうごまかせない気がした。
「わたし、しばらく学校行かない」
『え? そんなに体調悪いのか?』
「ううん、そうじゃないけど……」
『……もしかして、りせ?』
わたしはぐっと口をつぐんだ。
付き合う前までずっと、奏真のことを鈍いやつだと思っていた。だけど距離が近くなって、それはとんでもない間違いだったことに気づいた。奏真はいつだって誰より大人で、誰よりも賢くて、誰よりも鋭い。さすが、学年主席なだけある。わたしは奏真のことを、ちっとも理解していなかった。
『……りせのことが、すきなの?』
「……分かんない」
この気持ちが恋だと確かめるすべはどこにもない。だけど、一つ、分かってしまった。
「でも、奏真のことはきっと、『すき』じゃない」
『……そっか』
電話の向こうで、奏真はどんな顔をしているんだろう。声はいつもの優しい響きのまま、決して仮面を外さない。でも、きっと傷ついているんだろうな。悲しんでいるんだろうな。だからこそ、もうこれ以上何も言えなくなった。
『戻ってくる時は、連絡しろよな。まだ見せてないけど、夏休み中たくさん写真撮ったんだぜ。またいろいろ教えてくれよ』
「……うん。教える。教えるよ」
『秋になったら紅葉もきれいだよな。また一緒に見にいこうぜ。りせと、三人でさ』
「うん。……ありがとう」
いつも通りの会話をして、わたしたちは電話を切った。不自然なくらい自然なやりとりは、鼓膜に微かなさみしさを残した。
そよぐ木々を眺めながら、わたしはぼんやり、奏真のことを想った。四月に再会して、一緒にカメラを買いにいったこと。動物園に行ったこと。一緒に星を見にいったあの日も、水族館に行ったことも。何でもないようなことが、なくなった途端に色づいて、どうしようもなくさみしくなるのはなぜだろう。どうして、こんなに切なくなるのだろう。
瞳が潤むのを感じて、慌てて空を見上げた。青さがぐっと濃くなった広い空。ああ、しまった。涙を堪えようとしたのに逆効果だった。慌てて両目を閉じる。
恋、だったのだろうか。奏真とのことも。恋に、ちゃんと含まれているのだろうか。わたしはどうしようもなく子供で、愛とか恋とかよく分からなかったけれど、これも一つの「恋」だったんだろう。本当にすきじゃなくても、確かに、特別だった。
後ろから、襖の開く音がした。慌てて目をこすって振り向くと、浴衣姿のりせが立っていた。
「ごめん、寝すぎた……」
「おはよう」
りせはちょっと照れたように笑って、わたしの隣に腰かけた。ぱっちり二重はまだまだ腫れぼったいけれど、涙はもうとまったようだ。これから、何を話そう。何から話そう。わたしはうまく言葉が出なくて、りせの端正な横顔をただ眺めた。風が吹いて、栗色の長い髪がふわりと宙に舞った。こんなことを思うなんて不謹慎だけど、悲しみをまとったりせは、いつもの数倍美しく見えた。
「空気がきれいなところだね」
りせが、静かに口を開いた。
「ごめんね、学校休ませて」
「いいの、そんなこと。……不良娘の仲間入りだね」
わたしたちは顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「雫のおばあちゃん、どこにいるの? ちゃんとご挨拶しなきゃ」
「買い物に行ってる。もうすぐ帰ってくると思うよ」
「そっか」
空を流れる雲のように、時間がゆっくりと過ぎていく。頬を撫でる風は夏の名残を含んで、どことなく過去のにおいがした。穏やかな空気に包まれているのに、心の中は篝火がゆらゆらと揺れているような、そんなくすぶりが確かにあった。それはきっとたぶん、りせも同じ。りせの小さな体には、きっと想像もできないような炎が燃え盛っているのだろう。焼け焦げた思い出が、灰となって積もっているのかもしれない。
「……ねぇ、雫」
空をぼんやりと見上げたまま、りせが名前を呼んだ。
「どうしてわたしにキスしたの?」
電気ショックを受けたように、全身が飛び跳ねた。わたしは真っ青な空を見つめたまま硬直した。考えないようにしていたのに。話題に出されたら、昨日の出来事がまざまざと目の前によみがえってきた。静まり返った部屋。熱い吐息。やわらかな、唇。
りせの大きな瞳が、まっすぐにわたしを捉えた。
「ねぇ。どうして?」
わたしは、逃れられなかった。まるであの日見た星空のような、きらめく瞳。気を抜いたら、吸い込まれそうになる。
何か、言わなきゃ。そう思うのに、喉がきゅうっと狭まってなかなか言葉が出てこない。頬がかぁっと熱くなって、心臓が爆発しそう。追い詰めるようなりせの視線に耐えられなくなって、わたしはすぐに目を逸らした。
「……わ、分かんない」
やっとの思いで、それだけ、絞り出す。りせは探るようにわたしを見つめ続けていたけれど、やがて諦めたように、
「……雫はずるいね」
「え?」
小さすぎる声はよく聞き取れなかった。りせは「何でもなーい」とからかうように首を振った。何かを振り払うように大げさに伸びをして、脱力するように息を吐く。その様子は、無邪気な少女そのものだ。
「ふしぎだよね。昨日までどこにも行けなかったのに」
「そうだね……」
「逃げ出すのって、こんなに簡単だったんだね……」
本当に、ふしぎなことだ。昨日までわたしは、普通に制服を着て、普通に学校に行っていたのに。ちょっと行動を起こしただけで、非日常に飛び込んでしまったみたい。いけないことをしているのに、思ったより落ち着いている。
「このまま、ずっと……」
りせの言葉は、完成する前に空気に溶けていった。その続きなんて、聞かなくても分かったから、わたしは聞き返すことをやめた。
分かってる、このままじゃだめだって。このまま穏やかに、何も考えずにいられたらいいんだけど。きっとそうはいかない。でも、今は、今だけはまだ――
「しばらく、ここにいよう」
気がついたら、そんな言葉が口から出ていた。
「おばあちゃんひとり暮らしだし、わたしのことは別にいいから。学校にも休むって言ってあるし。りせは何も気にしなくていいから。……ね?」
言い聞かせるように、りせの手をつかんだ。りせはちょっと戸惑ったような、困ったような顔をしたけど、やがて小さくうなずいた。
「……ありがと」
お礼を言われたら、なぜか心がずきん、と痛んだ。力強く言ってみたものの、これからどうしたらいいのかなんて、ちっとも頭に浮かんでこなかった。先が見えない。何もない。どうしたらいいのか分からない。ぎこちなく笑ってみたけれど、真っ暗闇に吞まれたように、心は不安で満たされていた。
「おいしい!」
夕食の時間。おばあちゃんの作ったナスの煮びたしを口に含んで、りせが驚いたように声を上げた。
「そう? それならよかった。たくさん食べてね」
おばあちゃんがふふ、と嬉しそうに目を細める。ふたりのやりとりを見ていたら、なんだかわたしまで嬉しくなった。
三人で囲む食卓は、いつかの時と違って穏やかだった。誰かの手料理を食べるのはいつ以来だろう。久しぶりに食べるおばあちゃんの料理は、自分で作るよりも数倍おいしい。おばあちゃんは、突如やってきたきれいな女の子に興味津々のようだった。
「りせさんは、いつから雫ちゃんのお友だちなの?」
「四月からです。雫が越してきたアパートの、大家の娘なんです」
「あら、そうなの。よかったわね、しーちゃん。ひとり暮らしって聞いて心配してたんだけど、こんなかわいいお友だちができて」
「うん」
わたしはちょっと照れながらうなずいた。りせはいつだってわたしの自慢だ。隣にいることが誇らしい。
「わたしもひとり暮らしだから、久しぶりに賑やかで嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
「ふたりがいると、食卓が賑やかになるわね。きっとおじいちゃんも喜んでるわ」
「そういえば雫のおじいちゃんって、写真家なんだよね」
ふと、りせが思い出したように尋ねてきた。
「写真ないの? 見たいなぁ」
「……あるよ。じゃあ、あとで見る?」
「いいの? 楽しみ!」
いとも簡単にうなずいてしまったことに、自分自身驚いていた。どうしてだろう。ついこの間まで、わたしはおじいちゃんの写真を見ることすら避けていたのに。ふと見ると、おばあちゃんがわたしをあたたかい目で見つめていた。ああ、きっと気づいていたんだ。おじいちゃんが死んでから、わたしが写真を遠ざけていたことに。この家を訪れなくなった理由に。
壁にかかっているカレンダーを見たら、どうして自分が平気になったのか、分かったような気がした。
時が、流れていたのだ。いつの間にか痛みは過去のものになっていて、傷口はかさぶたになっていたのだ。おじいちゃんがいなくなった三年前、わたしはえんえんと声を上げて泣いた。文字通り涙が枯れるまで、両手で顔を覆っていた。誰とも話したくなかった。何も楽しいと思えなかった。逃げるようにカメラから離れた。おじいちゃんを連想させるものすべてから遠ざかって、やわらかい繭の中に閉じ籠っていた。でも、気がついたらもう三年以上経っていて、こうして普通におじいちゃんの話ができるようになっている。忘れたわけじゃ決してない。別れの痛みは消えない。それでも、着実に、前に進んでいる。きっとこれが、生きるということなんだ。
ご飯を食べ終えたわたしは、りせを連れておじいちゃんの部屋に入った。古いアルバムを引っ張り出して、床に広げてみる。
「わぁ、きれい……」
写真を見たりせが、感嘆の息を漏らした。
「これ、全部雫のおじいちゃんが撮ったの?」
「そうだよ。すごいでしょ」
わたしは誇らしくなって胸を張った。まどろむような朝の空、優雅に飛ぶ鳥。絵の具を塗り潰したように一面に咲く芝桜。無邪気にじゃれる猫の親子。日常の何気ない光景から、息を呑むような絶景まで、全部ここにおさめられている。まるでその場所に自分がいるような、そんな感覚。
「風景の写真が多いね」
「あんまり人の写真は撮らなかったかなぁ」
ぱらぱらとアルバムをめくってみるけれど、人物がはっきりと写っているものは一枚もない。あるとしたら、すごく遠くにいるとか、後ろ姿のみ。特定の人にピントを合わせたものは何もないのだ。何千枚も写真があるのに、それは少し不自然な気がした。
撮った人がいなくなっても、こうして写真は残る。だからこそ、写真がすき。わたしがいなくなっても、わたしの撮った写真は永久的に残る。そして、人の記憶に残るような写真を、わたしは撮りたい。
「雫の撮った写真は?」
顔を上げると、りせが試すようにじっとわたしを見つめていた。
「雫の写真が見たいな」
「……いいよ。でも、ここにあるのはカメラを始めたばかりの頃の写真だから、下手くそだよ」
「それが見たいの」
数ヵ月前に拒否したその行為を、わたしはあっさり承諾した。なぜだろう、今なら、りせになら、見せられる気がする。
わたしはおじいちゃんの本棚に近づいた。まだ新しいピンク色のアルバムは、予想通りそこにあった。
ページをめくると、記憶の彼方にしまってあった、かつてわたしが撮った風景たちが、当時のままそこに存在していた。あまりにも拙くて、ピントが合っていないものも多々ある。
「下手くそだから恥ずかしい」
「そんなことないよ、素敵だよ。……これとか、すき」
りせが指で示したのは、海の写真だった。朝焼けに照らされ、宝石を散りばめたように広がる透明な海。一体いつ頃撮ったものだっけ。あいまいな記憶をたどってみる。
ああ、そうだ。確か小学生の夏休みに、おじいちゃんと朝日を見にいったんだ。まだ夜が明けていない暗い道を、カメラを片手にふたりで歩いた。夜明けの海岸は誰もいなくて、波の音だけが鳴り響いていたのを覚えている。
「海が、すきだったの」
忘れていたことを思い出した。子守歌のような波の音とか、きらきらと光る海面とか。さらさらとした砂の感触も、潮のにおいも。
「海に行くと、いやなこと全部忘れられる気がして。朝日を見たら、生まれ変わるような気分になるの」
「生まれ変わる……?」
りせが、興味深げに繰り返した。傷ついたビー玉みたいな両目に、ぽっと光が灯る。何か言いたげに、桃色の唇が動いた。聞き取ろうと耳をすませたけど、りせは何でもないというように目を伏せ、それから、もう一度わたしを見た。
「……ねぇ、カメラ、持ってきてる?」
「え? うん」
「出して」
少し、強い口調だった。わたしはちょっと動揺したけれど、すぐにうなずいた。りせと一緒に寝室へ移動し、カバンの中からカメラを取り出す。
「のぞいてみて」
向かい合って座った途端、りせが言った。
「今のわたし、どう映る? わたしのこと、もう知ってるでしょう。ファインダー越しのわたしはどう見える?」
あの夜と同じ台詞だった。
あの時、わたしはファインダーをのぞけなかった。りせのことを何も知らなかったから。でも、今は違う。わたしとりせは「友だち」だ。ちゃんと、名前のある関係だ。
わたしはちょっとためらいがちにカメラを構え、ファインダーをのぞいてみた。小さくて、だけど広い視界に、きれいな女の子が見える。
雪みたいに白い肌と、流れるような栗色の髪。潤んだ瞳はまるで夜の海みたい。強くて、きれいな、「特別」な女の子。最初は、そう思ってた。
だけど、違うの。本当は違ったの。もっと早く、気づいてあげればよかったの。
りせは、特別なんかじゃない。
「さみしそうに、見える」
絞り出すように答えたら、りせは大きく目を見開いて、納得したように「……そっか」とうなずいた。
「そうか。そうなのかもね」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
もうすっかり日は暮れて、あれだけ強かった太陽光は見る影もない。わたしたちの不安を表すように、部屋の空気はみるみるうちに重たくなっていく。緊張の糸をぴんと張りつめて、その先にある会話を待っている。
先に口を開いたのは、りせだった。
「ごめんね、こないだ。ひどいこと言ったね……」
「……わたしの方こそ、ごめん」
ああ、どうしてあなたが謝るの。悪いのは全部わたしなのに。あなたの気持ちを全然分かってあげられなかった。あなたは嘘がうまいから。あなたの悲しみに、気づいてあげられなかった。
「わたし、りせにあこがれてたの。わたしよりずっといろんなことを知ってて、かわいくて、りせみたいになれたらって思ってた。もっとりせのことが知りたくて、人を愛する気持ちを知りたくて、だから奏真と付き合ったの。自分のためだけに、奏真の好意を利用したの。奏真がまさか、あんなに真剣な気持ちでわたしのことをすきだなんて思わなかったの。でも、結局奏真を傷つけただけだった。何にもうまくできなかった。りせのことも傷つけた。わたし、全然だめなの。カメラも恋愛も友情も上手にできない。な、何にも。何にも、できない」
「……どうして、雫が泣くの」
りせが、ばかにしたようにせせら笑った。わたしはまた、その言葉で自分が泣いていることに気がついた。りせはそっとわたしに手を伸ばし、頬に伝う涙を、きれいな指ですくい上げた。
「泣かないでよ。泣きたいのはいつだってわたしの方なのに。何で雫が泣くの。……やめてよそういうの。同情してるの?」
「違う。だって、りせが泣かないから」
「雫が泣くから泣けないのよ。わたし、泣くのきらいなの。ぶすになるから」
「十分かわいいよ」
「知ってるよ、そのくらい」
わたしはそっとりせの手を取った。りせの手はぞっとするくらい冷たくて、そして微かに震えていた。
大きな瞳から、透明な涙が溢れてしまいそうだった。あと一言。たった一言。何かを言ったら、言われたら、ギリギリを保っていた涙腺が決壊して、りせの精一杯の強がりは、粉々に砕けてしまうだろう。
――ああ、なんて脆い!
きっと、これはとても些細なことなんだ。一つの恋が終わる。誰にでもある苦い経験。だけどそれは、若いわたしたちには世界が終わることのように思えるんだ。与えられた愛を世界のすべてだと思い込む。それはとても危険でおそろしいこと。世界中でただひとりにしか与えられないとっておきの愛を、突如取り上げられ、捨てられ、どうしたらいいのか分からなくなっている。猛獣が潜むジャングルに、ひとり取り残されたような。自分の居場所さえ分からず、行くべきところも見つからず、地図も持たずに立ち尽くしている。
縁側に座り、真っ暗になった空を睨んだ。重たい雲に隠されて、星一つすら瞬いていない。わたしたちの明日を暗示するかのように、空気はどんよりと重く、濁っている。
「恋って、つらいね」
膝を抱えながら、りせがぽつりとつぶやいた。
「どうしてこんなに心が痛むんだろう」
行き場がない。することもない。どうすべきかも分からない。十代のわたしたちは、どうしようもなく弱くて小さい。
「……生きてるからだよ」
抵抗するように、わたしは答えた。こんなことで、りせを壊してなるものか。こんな、誰にでもある、些細なことで。
愛は、弾丸だ。朝のまどろみのように優しく、夜の暗闇のようにおそろしく。
わたしの心を撃つのです。
すべての不安を押し殺すように、その日も早々とベッドに潜った。目を閉じても唇を噛み締めても、瞳の奥から溢れ出る涙はとまらない。どうして、だろう。りせの方がずっとつらいのに、りせよりもわたしが泣くなんて。
泣き虫なわたしを諭すように、夢の中におじいちゃんが出てきた。夢の中で、わたしは十歳くらいに戻っていた。写真がうまく撮れなくて泣いているわたしの頭を、おじいちゃんは優しく撫でてくれた。ほら、ごらん。風景はなくなるわけじゃない。だから焦らなくてもいいんだよ。そう言って夕焼けを指差して、きれいだろう、とつぶやいた。結局、自分の目で見る風景に敵うものはないんだ。その時自分が思ったこと、感じたことは、写真には写らない。
じゃあなぜ写真を撮るの?
幼いわたしは問いかけた。おじいちゃんはそっと微笑んだ。
それはね――
突然、体が激しく左右に揺さぶられた。はっとして目を開けると、隣で寝ていたはずのりせが、寝ているわたしの肩を揺すっている。
「りせ? おはよう……」
わたしはうーんと唸りながら起き上がった。視界と思考がはっきりしてきたら、りせの表情に気づいてぎょっとした。
「どうしたの?」
りせは、泣いてはいないものの、今にも不安と戸惑いに押し潰されそうな顔をしていた。ただでさえ白い肌はさらに色を失って、幽霊なんじゃないかと思うくらい。りせはスマートフォンを手に持って、カタカタと何かを打ち込むと、ずいっとわたしに画面を見せた。
『声が出ないの』
わたしははっとしてりせを見た。りせは口をぱくぱくさせて、必死で何かを伝えようとしていた。だけど、まるで魔女に奪われてしまったみたいに、そのきれいな声が聞こえてくることはなかった。
ひとまず、おばあちゃんのすすめで近くの病院に行くことにした。お医者さんからは「心因性」という診断を下され、精神安定剤を処方された。
「大丈夫。すぐよくなるわ」
家に戻ったわたしたちに、おばあちゃんはそっと笑いかけた。
「とりあえず、何も気にしなくていいからゆっくりしなさい。心を回復させるには、休養が一番だから」
りせは申し訳なさそうに頭を下げ、じっとうつむいた。わたしは言葉をかけることができなかった。こんな状況になっても、りせの目から涙が流れることはない。結局、彼女が泣いたのはあの夜だけ。わたしの方が、また泣きそうだ。
ちょっと休むね、とわたしに伝え、りせは寝室に戻っていった。うん、とうなずいてから、テーブルの上にりせのスマートフォンがあることに気がついた。渡そうと手に取ったら、ちょうど、ロックがかかっていなかった。いけないと思いつつも、わたしはそっとその画面をのぞき込んでしまった。
通話履歴に、柊さんの名前があった。時刻は明け方の三時半。やっぱりな、とわたしは思った。結局、りせの心はいつだって彼次第。そんなの、分かっていたことじゃないか。
ふたりで何を話したのかな。ひどいこと、言われたのかな。終わった、のかな、全部。ふたりの恋はふたりだけのものだから、どれだけわたしが想像を巡らせても絶対に分からない。わたしはりせのスマートフォンを元の場所に戻した。
心因性、とお医者さんは言ったけど。わたしはこれこそが、魔女の呪いなんじゃないかと思った。まるで人魚姫みたい。いつか、りせに言った言葉を思い出す。「叶わない恋をしてるのが?」あの時、りせはそう言って悲しそうに笑った。あの時、気づいてあげればよかった。りせは、恋が叶わないってことを予期していたんだ。だから、あんなことを言ったんだ。
だからこそ、わたしはここで、呪いを解いてあげなくちゃいけないの。
「食べられる分だけ食べたらいいからね」
夕方。ようやく起きてきたりせに、おばあちゃんは優しく言った。りせはぎこちなく微笑んで、箸を持ってみたけれど、なかなか口は開かない。テレビの音がやけにうるさく耳に響く。りせを元気づけようと話題を探してみたけれど、明るい話なんてあるはずがない。
重たい空気を破ったのは、おばあちゃんだった。
「実はね、わたしもりせさんと同じようなことがあったのよ」
「えっ?」
「わたしの場合、歩けなくなったんだけどね」
それまでうつむいていたりせがぱっと顔を上げた。おばあちゃんはふふ、と上品に笑った。
「わたしね、学生の頃演劇部に所属していて、卒業してから少しだけ劇団に入っていたの。ある時、顔にひどい怪我をしてね。もう跡はないんだけど。それが原因で、舞台に立つのがこわくなったの。お客さん全員に笑われているような気がして……。普段は普通に歩けるんだけど、舞台に立つと一歩も動けなくなってしまって。お医者さんには『心因性』って言われたわ」
「それ……どうやって治ったの?」
「おじいちゃんがわたしを撮ってくれたの。練習中のわたしや、普段のわたしを。それを見たら、『ああ、頑張ろう』って思えたのよ。そしたら、また演技ができるようになったの」
「えっ、おじいちゃんって、風景しか撮らないんじゃ……」
「そうね、確かに風景を撮ることが多かったけどね……よかったら、見る?」
わたしとりせは顔を見合わせ、同時にうなずいた。
食事中にお行儀が悪いわね、と言いながら、おばあちゃんは席を立つと、やがて一冊のアルバムを持って戻ってきた。わたしたちは食べるのを一時中断し、そのアルバムを開くことにした。
そこには、若き日のおばあちゃんがたくさん写っていた。舞台に立つ時の凛々しい表情、台本を読み込む懸命な横顔、親しい人にだけ見せるやわらかい笑顔。この写真を見ただけで、おばあちゃんがどんな気持ちでいたのか分かる。おじいちゃんがどれほどおばあちゃんを大事に思っていたのか、伝わってくる。風景しか撮らない人だと思っていたけれど、それは間違いだったんだ。おじいちゃんが、ただひとり、写真におさめていた人。それが、おばあちゃんだったんだ。
「……愛が、伝わってくるね」
ぽつりと、つぶやいた。りせはじっと写真を見たままうなずいた。
夢の中でおじいちゃんが伝えようとしたことが、なんとなく分かったような気がした。その時感じたこと、思ったことは、自分にしか分からない。写真には決して写らない。だけどこうして、何十年も経った時、写真を見たらよみがえる。その時自分が思ったこと。感じたこと。伝えたかったこと。そしてそれは、きっと誰かにも伝わるんだ。
「時間だったり、愛だったり、どれが薬になるかなんて分からないけどね、今がずっと続くなんてあるわけがないの。どんな時だって支えてくれる人はいる。大切なのは、逃げ出さないことよ」
おばあちゃんの言葉を噛み締めるように、りせはぐっと唇を噛んだ。おばあちゃんは「さ、ご飯の続きにしましょう」と席に戻り、夕ご飯を再開した。わたしはりせの隣で、若き日のおばあちゃんを穴があくほど見つめ続けた。どれもこれも、ため息が出るほど美しい。それは、容姿だけじゃない。おじいちゃんが本当に撮りたかったもの。それこそが、おばあちゃんなんだ。そう、伝わってくるような写真だ。「愛している」なんて言葉はいらない。何万回の「愛している」よりも、どんな言葉よりも、たった一枚の写真だけで愛が伝わってくる。わたしはりせの横顔をそっと見た。りせはすぐわたしの視線に気づいて、どうしたの、というように首を傾げた。わたしはううん、と首を振った。
わたしが、今一番したいこと。すべきこと。
――わたしは、りせの笑顔が見たい。
それから一日経っても、二日経っても、りせの声が戻ることはなかった。どこかに外出することもなく、一日中縁側に座ってぼんやりと空を見上げる。わたしはそんな彼女の隣で、ただひたすら、呪いを解く手段を考えていた。
そして三日目の昼、スマートフォンを見たら、お母さんから留守番電話が入っていた。学校から連絡がかかってきて、体調はどうだ、というものだった。限界が近いな、とひしひし感じた。
若いわたしたちは、すべてを捨てることなんてできない。学校だったり、家族だったり、いろんなものが足かせになる。お金もない。仕事もない。ちょっと反抗してみても、結局元の場所に戻るだけ。だったら、せめてもう少しだけ、年齢に抗わせてほしい。
その日の深夜、朝方の四時をまわった時間。
「りせ……起きて」
肩を揺すったら、りせはもぞもぞと寝返りをうち、不機嫌そうに目を開けた。上半身を起こし、眠たそうに目をこする。ごめんね、起こして。そう言うと、りせは混乱したようにわたしを見つめた。
「わたし、撮りたいものがあるの」
今、胸の中で燃えている炎を消さないよう、早口で言った。わたしは警戒心を解くように、そっと微笑んで手を差し出した。
「ついてきてくれる?」
りせはちょっと戸惑ったように眉を下げたけれど、弱い力でわたしの手をつかんだ。
夜明け前の街並みは、昼間とはまったく違う顔をしていて、全然知らない世界に迷い込んだみたいだった。しん、と黙り込んだ青柳。足音の響かない石畳。川のせせらぎすら、わたしたちを不安に陥れる罠のように鼓膜を揺らして、少しおそろしい。いつもは美しく感じる月さえも、初めて見る怪物に思えた。
はるか昔に、おじいちゃんとこんな風に歩いたことがある。その日は月すらも雲に隠れていて、心もとない電灯の光だけが頼りだった。怯えるわたしの手を、おじいちゃんは大丈夫、というように固く握ってくれた。
あれから何年も経った今、わたしは、真綿のようにやわらかいりせの手を握って、カメラを首から下げながら、同じ道をたどっている。違うのは、りせは一切怯える様子を見せていないということだ。どこに行くの、なんて疑問を一ミリも抱いていないかのように、ただじっと、無表情で、わたしの横を歩いている。
三十分ほど暗闇を歩いてたどり着いたのは、海だった。そこは、普段わたしたちが持つイメージと違い、どこまでも広がる黒々とした、得体の知れない魔物の住処のように思えた。じゃれるように寄せては返す波も、わたしたちを呑み込もうと、ぬぅっと手を伸ばしているようで、ひどく不気味だった。
あたりまえだけれど、まわりには人っ子ひとりいない。幼い頃から知っている場所なのに、こうして暗闇に包まれると、まるで世界の果てに来たような気分になる。生と、死。その境目に立っているような不安定さ。世界でふたりきりになったような、どうしようもないさみしさが、体中を揺らしてくる。
繋いでいた手が離れた。りせが、ふらふらと吸い寄せられるように波打ち際まで歩いていく。黒い波が誘うように足元に伸びて、そぅっと引いていくのを、他人事のように見下ろしていた。わたしはなんだかその様子がひどく幻想的に思えて、背筋がぞっとするのを感じた。彼女の不安定な心が、ゆらゆら揺れる海面にシンクロして、このままりせが、海の藻屑になってしまうような気がした。
――海の藻屑になる時を待っているの。
ずいぶん前に聞いた言葉が、警報のように鳴り出した。ああ、それ以上、先に行ってはだめ。
「……りせ!」
懇願するように名前を呼んだ。りせは幽霊のように振り向いて、しっとりと微笑んだ。その微笑みを見て、心の隅に抱いていた疑惑が、確信に変わった。わたしは首からカメラを下げたまま、りせに近づいた。
白いワンピースを着た華奢な体を、海に落とすように押し込んだ。軽い体はいとも簡単に傾いた。りせはきゃっと短い悲鳴を上げ、波の上に尻もちをついた。
「……声、出るじゃん」
自分のものとは思えないくらい低い声が出たことに、驚いた。初めて言葉を交わした夜、しゃがみ込むのはわたしの方で、りせは、見下ろす側だった。今、わたしは嘲るようにりせを見下ろし、弱い雛鳥を保護するみたいに手を差し伸べている。りせは、思考停止したようにわたしを見上げていたけれど、やがて、何かを諦めたように、うっすらと微笑んだ。
「……いつから気づいてたの?」
久しぶりに聞くりせの声は、風に揺れる風鈴のように、どこまでも凛と、澄んでいた。
わたしの手を取ることなく、りせは自分の力で立ち上がった。白いワンピースは、海水と砂でどろどろに汚れていた。
「おばあちゃんの写真を見た時くらいから。……なんとなく、そう思ったの」
「そう」
「……どうして、嘘ついたの?」
「ふふっ」
「笑ってないで答えてよ」
わたしはどうしてこんな状況で笑っているのか、りせが何を考えているのかまったく分からず、戸惑っていた。りせはいつだってそうだ。泣きたい時でも笑ったり、怒っているのに許したり。本当のりせが見えたのは、あの、逃げ出した夜だけ。あの日だけ。
「だって、永遠なんてないんだもん」
りせは背中の後ろで手を組んで、真っ黒な海を眺めた。
「柊くんとの幸せな時間が終わっちゃったみたいに、今、こうして雫といる時間も、いつか終わっちゃうんだもん」
「そんなこと……」
ないよ、と言おうとして、言えなかった。ずっとこのままでいられると思えるほど、わたしたちは楽観的でも幼くもなかった。
「わたしが病気になったら、ずーっと緒にいてくれるかなって! そんな、ばかなこと考えたの。……ずるいでしょ、わたし」
足先を海水に浸しながら、自虐的につぶやく。月明りに照らされた白い肌が、ぞっとするくらい美しく輝いている。塩っぽい海風が、栗色の長い髪をもてあそぶように揺らして、彼女の存在を、ますます幻想的なものにしていた。
りせは、ガラスの人形だった。きらきら輝いているけど宝石ではない。美しさも強さも全部まやかし。少しの衝撃ですぐにヒビが入って粉々に砕ける、危うさを持っていた。その証拠にほら、大きな瞳からはもう、今にも涙が溢れそうだ。
「わたし、柊くんと電話したの。柊くんすごく心配してくれてた。大丈夫か、むりするな、だって。びっくりするくらい、何にも変わらないの。優しいし、大切に思ってくれてるの。でも、でもね、きっともう何もできないって分かったの。もうキスもしてくれない。抱き締めてくれない。お泊りも、デートも、旅行も、できなくなっちゃったの。……雫だって、いつか何もしてくれなくなる。今はいいかもしれないけど、このまま学校に行かなかったら怪しまれるだろうし、雫は絶対に帰らなきゃいけない。でも、そうなったらわたし、またひとりになっちゃう。また置いていかれる。いつか突き放される。分かってるの、全部。もう、見捨てられるのはいやなの」
「……見捨てないよ」
「そんなの信じられない!」
「信じてよ」
自分に誓いを立てるように、強く言った。りせは反論するようにわたしを睨んだ。堪えられなくなったように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「わたし、りせに伝えたいことがあるの。だから、ここへ来たの」
ここに来てから、ずっと考えていた。ずっと悩んでいた。伝えるべきか、やめておくか。この気持ちが何なのかも、まだはっきりとは分かっていない。
でも、それでも。
伝えなきゃ、いけない。
「わたしもね、呪いにかかってたの。写真が撮れない呪いに。でもね、それはもう、とっくの昔に解けてたの。おじいちゃんが死んでから、撮りたいものになかなか出会えなかった。どんなにきれいな景色を見ても、撮りたいって思えなかった。だけど、りせに出会って、わたしは変われた。わたしが『撮りたい』って思うのは――りせ、あなたなの!」
りせが、驚いたように目を見開いた。わたしは気持ちを落ち着かせるように深呼吸した。今まで誰にも言わなかった言葉。みんなこうして、頭の中で何回も反復しながら、自分の想いを伝えているんだ。
奏真といても、分からなかったこの気持ち。
今なら、ちゃんと伝えられる。
「わたし、りせがすき」
雲に覆われていた月が顔を出して、りせの透明な肌を照らした。
「りせのことが、世界で一番すき。わたしが今抱き締めたいって思うのはりせ。手を繋ぎたいって思うのはりせ。幸せになってほしいって、大切だって、笑ってほしいって思うはりせなの。友情だって愛情だって、どっちだっていいの。今わたしが『だいすき』って思えるのはりせなの!」
愛情が、悔しさが、涙となってぽろぽろこぼれた。
「だからもう強がらないで。嘘つかないで。そんなんじゃ呪いなんて解けない。わたしのこと、柊さんよりもすきになって! わたし、りせにすきになってもらえるように頑張るから。あんな男、最低だったって笑えるくらい、柊さんよりもりせのこと、大切に、するから……!」
崩れ落ちそうになったわたしの体を、りせが思い切り抱き締めた。
わたしたちは波打ち際にしゃがみ込んで、声を上げて泣いた。苦しかった。さみしかった。どれだけ体温を分け与えても、体は冷たくなるばかりで、このままふたりで死んでしまいそうな気さえした。ああ、その方がいいかもしれない。どちらの想いも実らないのなら、いっそ、安楽死を。
愛は、理不尽だ。ずっと一緒にいられないのなら、永遠に続かないのなら、この恋に意味はあるの。あなたをすきになった意味はあったの。一時の楽しさなんて、そんな儚いもののために、すきになったわけじゃない。わたしたちは永遠を手に入れたかったのだ。すきな人との未来が、ほしかったのだ。
誰もいない浜辺で、こんな風に抱き合って泣いている。こんな日すらきっといつか、忘れてしまうかもしれない。りせをすきだというこの感情も、いつか消えてなくなるのかも。でも、この冷えた体を抱き締め合ったこの瞬間を、いつまでも覚えていたい。この記憶だけは、永遠に胸に抱いていたい。そう、強く願った。
涙も声も枯れ果てるくらい泣いた頃。水平線の彼方から、ゆっくりと朝日が昇ってきた。黒ずんでいた海が、どんどん光を帯びていく。
わたしたちは、ふと我に返ったように体を離し、ぼんやりと海を眺めた。新しい一日の始まりだ。こんなに太陽ってきれいだったっけ。白い光が海面をきらきらと輝かせて、まるで星をばらまいたよう。その美しい光景に、目を、心を、奪われた。
「……世界って、こんなにきれいなんだね」
ひとりごとのように、りせがつぶやいた。わたしは声もなくうなずいた。すべてを洗い流
してくれるような青と、希望の光。昔、おじいちゃんと見た光景と同じ。
その光景を見た瞬間、わたしは、心にたまったぐちゃぐちゃの想いが、すーっと浄化されていくような気がした。恋が叶わない痛みとか、想いが伝わらないさみしさ、とか。悔しさも情けなさも辛さも、すべてが透明になって、朝日の中に溶けていくようだった。
世界は今、生まれた。
わたしたちもきっと、昨日までのわたしたちじゃない。波音は海の呼吸音のように、ふたりの鼓膜を優しく揺らす。新しい一日を祝福するように、かもめが鳴き声を上げた。
わたしは手に持っていたカメラをそっと構えた。ファインダー越しにりせをのぞく。栗色の髪。白い肌。涙に濡れた、潤んだ瞳。そのすべてが、朝日を浴びて神々しいくらいに輝いている。空と海の青色が、りせを包むように広がって、まるで、美しい絵画のよう。
りせが、ゆっくりと振り向いた。逆光で、どんな顔をしているのかよく見えない。ただただ、とても、美しい。わたしは思わず、首に下げていたカメラを構えた。
その瞬間、わたしは三年ぶりにシャッターを押した。軽快な音と指の感触が、遠い過去と重なって伝わった。ああ、これだ。これなんだ、わたしのやりたかったことは。おじいちゃんがどこかで微笑む気配がした。シャッターを押したわたしを見て、満足そうに消えていく。
わたしたちは、手を繋いで海から離れた。優しい波の音が、どこまでもわたしたちを追いかけてきた。
おばあちゃんの家に帰ったあと、わたしたちはここに来て初めて遊びに出かけた。ペリーロードを散策したあと、駅前のロープウェイに乗って寝姿山のてっぺんへ行った。ソフトクリームを食べながら、下田市内を一望して、すごいねって笑い合った。たくさんの花に囲まれながら、どこまでも続く広大な海を眺める。わたしの、一番大切な女の子と。なんだかデートみたいだなと思った。この日のことを、一生、忘れたくないと思った。
そう思えるってことは、やっぱりこれは恋なんだろう。結ばれることはないけれど、でも、ふしぎと悲しくはない。友情の、延長にあるもの。きっとそれが愛だから。他の人に認められなくても、わたしはやっぱりこの子がすき。この子に、幸せになってほしい。
その日の夕方、わたしたちはおばあちゃんの家を出ることにした。
「お世話になりました」
玄関先で見送るおばあちゃんに、りせは深く頭を下げた。おばあちゃんは嬉しそうに笑った。
「またいつでもいらっしゃい。困ったことがあったら、りせさんだけでも来ていいからね」
「はい」
顔を上げたりせは、ちょっぴり恥ずかしそうにはにかんでいる。わたしはよいしょ、と重たいリュックを背負い直した。
「おばあちゃん、元気でね」
「しーちゃんも。お母さんによろしくね」
わたしたちは大きく手を振って、おばあちゃんの家をあとにした。曲がり角を曲がるまで、おばあちゃんはいつまでも手を振り続けていた。
逆再生のように、東京へと戻る電車に乗った。相変わらず電車の中は人が少なくて静かだ。窓を流れていく風景を眺めながら、わたしたちは、ぽつりぽつりと言葉を交わした。
「きれいだったね、海」
りせが、静かにつぶやいた。わたしもひとりごとのように、うん、とうなずいた。
「おばあちゃんの料理も、おいしかったし」
「雫の写真、素敵だったよ。もちろん、おじいちゃんの写真も」
「ありがとう。……わたしも、大切なものを思い出せた気がする。今は、撮りたいものがたくさんあるの。もっとシャッターを押したいって、そう思う」
カバンの中にあるカメラにそっと触れた。今まで撮れなかった分まで、これからりせをたくさん撮っていきたい。笑った顔も、怒った顔も、泣いている顔もだいすきだから。この愛しさを、写真におさめていきたい。
「そうだ。奏真ともう一回話し合ってみたら?」
「えっ! な、な、何でいきなり」
「雫が学校休んでることだって、きっと心配してるよ。あんないいやつ、なかなかいないよ。連絡くらいしてあげてよね」
「……分かったよ」
わたしはしかたなく、スマートフォンをポケットから取り出した。何と言おう。何を伝えたらいいんだろう。悩んだ末、おばあちゃんの家から今日帰るとメッセージを送った。会ったら、また元のふたりに戻れるだろうか。何を話そうか。そう考えて、すぐにやめた。悩んだってしかたないか。きっと伝えるべき言葉は、自然と出てくる。
何度か電車を乗り換えているうちに、あっという間に太陽が西に傾いてきた。会話のネタも尽きてきて、疲れがどっと肩にのしかかる。うつらうつらと頭を揺らしていると、雫、とりせに名前を呼ばれた。りせはわたしの手をぎゅっと握って、嬉しそうな、泣き出しそうな、どちらか分からない顔を向けた。
「……わたし、雫に会えてよかった」
その声は、微かに震えていた。
「雫はわたしの、一番大切な人だよ」
「……うん、わたしも」
わたしは、熱くなる胸を感じながら、りせのやわらかい手を握り返した。
恋人にはなれないけれど、きっとわたし自身も、そんな関係は望んでない。恋人じゃない。だけど、ただの友だちでもない。もっと大事で、大切な関係。
初めて会った時から分かっていた。その神秘的な雰囲気に惹かれていた。彼女のことを知りたいと思った。知れば知るほどすきになって、もっと一緒にいたいと思った。女の子同士なのに変なのかもしれないけど、運命だって思ったの。
目を閉じたら、目蓋の裏に、いろんな思い出が浮かんできた。桜の木の上から、りせが降ってきたあの夜。ふたりで歩いた商店街。流れ星をまっすぐに見つめていた、あの日。プールで泳いだ日も、カラオケで歌を叫んだ日も、全部、大切な思い出だ。
家に着いたら、何をしよう。小咲さんはもう退院したのだろうか。りせはちゃんと、柊さんと向き合えるだろうか。心配事はたくさんあるけれど、あとから考えることにしよう。きっと、何があってももう大丈夫。どんなにりせが傷ついても、わたしがそばにいて支えてあげるんだから。
意識がどんどん薄れていく。呼吸が深いものに変わっていく。まどろみのなかで、りせの手がそっと離れていくのを感じた。
ゆっくりと電車がとまった。終点を告げるアナウンスで、わたしはぼんやりと目を開けた。まわりの乗客がまばらに席を立ち、ひとり、またひとりと電車を降りていく。窓の外はもうずいぶん暗い。電車に揺られているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。目をこすりながら隣を見ると、そこにいたはずの女の子は、幻のように消えていた。
「りせ……?」
名前を呼んでも返事はない。まるで最初から存在しなかったみたいに、隣の席はからっぽだった。わたしはふらふらとおぼつかない足取りで電車を降りた。駅のホームにりせはいない。まわりを見渡しても、りせが降りてくる気配はない。電車のドアが音を立てて閉まった。
地面から一センチ浮いているような、ふわふわとした感覚があった。まだ夢の中にいるみたい。状況が飲み込めないまま改札を出たら、人混みの中に見知った顔があった。
奏真はわたしに気づくと、ちょっと遠慮がちに右手を上げた。
「……奏真」
わたしは夢見心地で奏真に近寄った。最後に会ってからそう日は経っていないのに、なんだか前より背が伸びた気がした。こんな短期間で伸びるわけないのに、そう思えるくらい、大きく見えた。
「りせが……」
それ以上、言葉が出てこなかった。声の代わりに涙が出て、つぅーっと静かに頬を伝った。
どうしてだろう。何が起こったか、まだ全然理解していないのに。どうしてこんなに涙が出てくるんだろう。繋いだ手のぬくもりはまだ残っているのに。奏真は、何も言わなくても全部分かっているように、うん、と小さくうなずいた。
「……おかえり」
その声は、あたたかいスープのように優しくて、何も知らないはずなのに、すべてを受け入れてくれたようだった。わたしはもう、涙をとめることができなくなった。
両手で顔を覆いながら、うん、と何度もうなずいた。涙が堰を切ったように流れ流れて、喉の奥が焼けたように苦しくなった。どうして、と考えることすら、もう意味を成さない。そんなことはもう分かっていた。わたしはもう、りせのことを理解していた。
行ってしまったのだ。嘘つきな人魚は、全部、捨てることを決めたのだ。海の藻屑になる時を待ってるの。その言葉通り、彼女はわたしの愛すら捨てて、ひとりになることを決めたのだ。
行くあてなんてないくせに。生きる方法なんて分からないくせに。一体、どこへ行こうと言うの。それともどこかに、わたしの知らない頼りがあるの。結ばれない恋の痛みを、誰よりも知っているあなた。だからこそ、あなたは姿を消したのね。わたしに、同じ想いをさせないために。
えんえんと泣くわたしの体を、奏真は優しく抱き締めた。何にも知らないくせに、何でも分かっているふりをして。「ごめん」も「ありがとう」も言うことができない。こんなわたしを許してほしい。
わたしの愛を、優しさを、りせは受けとめてくれた。ありがとうと微笑んでくれた。だけどやっぱり柊さんからもらったネックレスはまだつけたままだったし、彼への想いもまだ捨てきれなかったのだ。人はそう簡単に強くはなれない。そう簡単に断ち切れない。だって、りせと柊さんが過ごした時間は、わたしとふたりで過ごした日々よりずっと長い。だからこそきっと、すべてを捨てることにしたのだ。家も、家族も、そして、わたしも。
りせ。
りせ。
わたしの愛しい女の子。
あなたはわたしの一番の人だよ。きっとりせも、わたしを特別に思ってくれたよね。そう、信じていいんだよね。すぐには会えないかもしれないけれど、落ち着いたらまた、わたしと会ってくれるかな。最高の笑顔を向けてくれるかな。そしたらわたしは今度こそ、本当の一番になりたいな。カメラに残ったあなたの笑顔を、ずっと見つめ続けているから。あなたが本当に幸せになるまで、ずっと待っているから。
嘘つきで、強がりで、美しい。月明りが似合うあなた。人魚のように儚いあなた。恋に生きたあなたの姿を、わたしは絶対忘れない。
涙で濡れた目蓋の裏に、無数の星が浮かび上がった。涙の雫、なのだろうか。りせと一緒に見たあの日の星空が、きらきら、きらきら輝いている。涙を流せば流すほど、その輝きは強くなって、わたしの心を照らし続けた。