ありったけの荷物をカバンに詰めて、逃げるように部屋を飛び出した。準備をしているうちに手間取って、いつの間にか太陽は西の空に沈んでしまった。
夜の街は昼とは違う顔をしている。ぎらぎら光るネオンや、レーザー光線のようなライトを放って走る車は、まるで獰猛な獣のようだ。光に照らされないように闇に紛れて駅まで走り、勢いよく電車に飛び乗った。最初はたくさん人が乗っていたけれど、夜が深まるにつれ、ひとり、またひとりと電車から降りて、いつの間にか、わたしとりせしかいなくなった。
電車に揺られている間、わたしたちは一切言葉を交わさなかった。これからどこに行くの、どうするの、なんて、りせは何も聞いてこなかった。わたしも何も言わなかった。ただ、離れぬように、離さぬように。お互いの手を鎖のように繋ぎ続けた。
りせのすすり泣きは、時間が経つにつれて小さくなって、やがて微かな寝息に変わっていた。起こさないように気をつけながら、頬に伝った涙をそっと指で拭った。先のことなんて、何も考えていない。でも、あのままあそこに居続けたら、きっとりせは死んでしまう。そんな、予感がしたのだ。
りせを、助けなければ。
考えたのは、それだけ。
どのくらい電車に揺られていたのだろう。終着駅に着いたわたしたちは、駅員さんに特急券を渡して改札を出た。駅から離れるにつれてどんどん人気はなくなって、十五分ほど歩く頃には、民家の明かりすら数えるほどになっていった。空から降る淡い月明かりが、やけに眩しくわたしたちを照らしていた。
たどり着いたのは、古い、小さな一軒家だった。寂れた表札、傷んだ木造の壁。少し、寂寥すら感じさせる。暗く光った灯火には、小さな虫が何匹も集まっていた。りせが戸惑うようにわたしを見た。わたしは答えるより先に、インターホンを鳴らすことにした。夜遅いせいか、なかなか扉が開く気配がない。懲りずにもう一度押したら、遠くからゆっくりと歩く音が近づいてきた。少しためらいがちに、扉が開く。
「……しーちゃん?」
久しぶりに再会したおばあちゃんは、わたしの顔を見ると、驚いたように目を丸くした。
「どうしたのいきなり! 東京から来たの?」
「いきなりごめん。この子、友だちのりせ。しばらくかくまってほしいの」
「すいません、夜分に……」
りせがおずおずと頭を下げる。おばあちゃんはまだ驚いたまま、わたしとりせを交互に見たけれど、何かを察したのか、すぐにうなずいてくれた。
「いいわ。お入りなさい」
わたしとりせは、互いの意思を確認するように顔を見合わせた。言葉を交わすことなくうなずいて、靴を脱いで家に上がった。
おばあちゃんの家を訪れるのは久しぶりだ。おじいちゃんが生きていた頃は頻繁に遊びにきていたけれど、今では正月とお盆くらいしか訪れる機会がなくなってしまった。それに、受け入れたくなかったのだ。おじいちゃんが死んだという現実を。
客間に入ったわたしたちは、ようやく、背負っていた重たい荷物を肩から下ろした。久々に嗅ぐ畳のにおいは、どこか懐かしい感じもする。おばあちゃんは「お湯、入れてくるわね」と言って、慌てた様子でお風呂場に行ってしまった。
「いいのかな、いきなり……」
部屋の隅っこで縮こまりながら、りせが不安そうにつぶやいた。わたしはしゃがみ込んで、安心させるように微笑んだ。
「りせは何にも気にしなくていいの。それより、ごめんね。遠くまで連れてきちゃって」
「ううん……」
りせは力なく首を振り、失敗作のような微笑を浮かべた。
壁にかかっている時計を見ると、もう0時をまわっていた。四時間近く電車に揺られていたのだ。そう自覚したら、今まで気づかなかった疲労が、一気に体の芯から溢れ出てきた。全身がだるくて、頭も重たい。汗が服に張りついて気持ちが悪かった。
しばらくすると、遠慮がちに襖が開いて、おばあちゃんがひょっこり顔を出した。
「しーちゃん、お風呂入れましたよ」
「ありがと」
「これ、タオルね。あと、一応寝間着……浴衣しかないけど。下着はあるの?」
「うん、大丈夫」
おばあちゃんはわたしにタオルと浴衣を渡すと、ちらりとりせの方を見た。りせが慌てた様子で立ち上がる。おばあちゃんはにっこり笑って、
「疲れたでしょう。ゆっくりあたたまってね」
「ありがとう、ございます」
りせがまた深々と頭を下げた。わたしはりせにお風呂セットをそのまま渡して、浴室まで案内した。
「シャンプーとか、自由に使っていいから。先入って」
「うん。ありがと、何から何まで……」
「気にしなくていいの。じゃあ、ゆっくりしてね」
りせがうなずいたのを見届けて、わたしは脱衣所から出た。古びた廊下が、歩くたびぎしぎしと音を立てる。不安定なわたしの心を表しているようで、こわくなる。
部屋に戻ると、おばあちゃんが敷布団を出しているところだった。わたしも協力して、ふたり分の布団を畳の上に敷いた。さっきつけたクーラーがようやくきいてきて、肌に滲んだ汗をさらさらと乾かしていく。
「ごめんね、いきなり来ちゃって」
「ううん。それよりあなたたち、ご飯は食べたの?」
「大丈夫。……たぶん、今は食べれないと思う」
お昼から何も口にしていないけれど、ふしぎなくらいおなかはすかなかった。きっとりせも一緒だろう。今はただ、胸が苦しい。
「きれいな子ね。お友だち」
「でしょ」
ふふ、とおばあちゃんが微笑んだ。
久しぶりに会うおばあちゃんは、前会った時より少し背が縮んでいた。……ううん、違う。きっと、わたしの背が伸びたんだ。髪も以前より灰色の部分が増えて、目尻のしわも深くなっている。疲れたように深く息を吐く、その仕草に少し胸が痛んだ。
「おじいちゃんもびっくりしてるわ。こんな夜中に訪ねてくるなんて」
「そうだよね……」
「しばらくゆっくりしていきなさいね。久々にしーちゃんに会えて嬉しいわ」
「うん、ありがとう。あの、お母さんには……」
「分かってる。内緒にしておくわ。おやすみなさい」
「おやすみ……」
おばあちゃんは事情を聞くこともなく、寝室へと戻っていった。ひとり残されたわたしは、疲れを吐き出すように長く息を吐いた。
勢いでここまで来てしまったけれど、いろいろ問題は山積みだ。明日は平日だし、学校にも連絡しておかなきゃ。さぼっていることをお母さんに知られたら……想像するだけでおそろしい。
考え込んでいたら、襖が開いて、浴衣姿のりせが部屋に入ってきた。
「あの、お風呂、ありがと……」
髪から滴る雫が、肩にかけたタオルを濡らしていく。わたしはうん、とうなずいて、ドライヤーをりせに渡した。
「これ、使って。あと、お布団すきな方使ってね」
「うん」
「じゃあ、わたしもお風呂入ってくる。眠たかったら先に寝てていいからね」
「うん」
普段とは違い、りせは口数が少ない。よほど疲れているのだろう。体も――心も。
「雫」
お風呂場に向かおうとしたわたしを、りせが呼びとめた。わたしはなぁに、と振り向いた。りせは何か言いたげにわたしを見つめたけれど、やがて力なく首を振った。
「何でもない」
「……そう」
わたしは何も言うことなくお風呂場へと向かった。
シャワーが弾丸のように全身を打ちつける。汗を洗い流したら、少しだけ気分がすっきりした。
髪を洗いながら、わたしは先ほどのりせの様子を思い出していた。りせの胸元に見えた、三日月型のネックレス。きっとあれは、柊さんからもらったものだろう。小咲さんとのことを知ってもまだなお、捨てられずにいたんだ。そう考えると、ちくりと胸が痛んだ。
こうなることは分かっていた、と、りせは言ったけれど。それはわたしも同じだった。幸せそうなりせを見て納得していたけれど、そんな状態がいつまでも続くわけがない。いつかりせが傷つくことになるんじゃないか。そう思っていながら、何もできなかった。わたしは部外者だから。助けて、あげられなかった。
湯船に体を沈めたら、心がじんわりとあたたまっていくのを感じた。ああ、あたたかい。疲れが、するすると体から染み出していく。
――そういえば、忘れてたけど。
わたしはそっと、指で自分の唇をなぞった。
キス、してしまった。りせと。女の子同士なのに。……ああ、きっとあれだ。ショック療法だ。泣いてる赤ちゃんを驚かせたら、泣きやむって言うし。それだよね。うん、きっとそう。
でも、奏真とはできなかった。それなのに、どうしてだろう。女の子だから? 友だち、だから?
――すき、だから?
その二文字を思い浮かべたら、背筋がぞくっとした。わたしは、りせがすき。そりゃそうよ、友だちだもん。でも、りせはただの友だちとはどこか違う。もっと、もっと大切で、いとおしい。この感情の意味を、自覚していいのかな。少し、おそろしい気もする。
部屋に戻ると、りせはすでに深い眠りについていた。しゃがみ込んで顔をのぞき込む。長いまつげに雨粒のような涙がついていた。このまま泣き続けたら、涙が養分となって、まつげが育ちそうだ。わたしは起こさないようにそっと、透明な雫を指ですくった。
かわいそうに。どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないのかな。頭もよくて、かわいくて、スタイルもよくて。りせは、女の子があこがれるものを全部持ってるのに。性格だっていいのにさ。りせは、すべてを手に入れすぎたのかな。だから神様は、一つだけ、大切なものを与えてくれないのかな。
わたしが男だったら、もっとうまくできたのかな。そんな、ありもしないことを妄想して、自分の愚かさにあきれた。
わたしが落ち込んでいる場合じゃないんだ。ようやく、りせをあのお城から連れ出すことができたんだから。柊さんも小咲さんもいない。追われる心配もない。
これから、ここで。
あなたの呪いを、解いてあげなくちゃ。
翌日。疲れ果てていたわたしは、十一時すぎに目を覚ました。こんなに長く眠ったのはいつ以来だろう。寝ぼけた目をこすって、隣の布団をのぞき込む。りせは布団に潜ったまま、息絶えたように眠っていた。本当に死んでいるんじゃないかと不安になったけれど、呼吸に合わせて上下する布団が、生きていることを証明していた。
起こさないようにそっと、忍び足で部屋を出た。顔を洗って居間に行くと、おばあちゃんが新聞を読んでいた。
「おはよう、しーちゃん」
「おはよう……」
大あくびをしながら、扇風機の近くに座る。テレビに映るお天気お姉さんが、今日も残暑が厳しくなるでしょう、と聞きたくもない事実を告げてきた。毎年似たようなフレーズを聞いている気がする。暑さに反抗するように、扇風機に向かってあああああーっと無意味な音を叫ぶ。
「あの子は? まだ寝てるの?」
「うん。すごく疲れてるから……」
体だけじゃない。きっと、心も。
昨晩、子供のように泣くりせを思い出した。りせはどんな時も泣かなかった。泣かない、強い子だと、そう思い込んでいた。わたしはりせに騙されていたんだ。あの子は、嘘がとてもうまい。
「……ねぇ、しばらくここにいてもいい?」
振り向かずに尋ねた。後ろで、おばあちゃんが微笑む気配がした。
「もちろんよ。でも、学校にはちゃんと連絡しなさい」
「……あ」
すっかり忘れていた。もうとっくに授業は始まっている。先生が不審に思ってお母さんに連絡を取っていたら一発アウトだ。わたしは慌てて学校に電話することにした。
ひとまず風邪がまだ治らないということにしたら、担任教師は特に疑わずに「ゆっくり休めよ」と実に優しい言葉を投げかけてくれた。昨日も結局行かずじまいだったし、もう、完全に不良の仲間入りだ。
おなかの虫がぎゅるぎゅると鳴った。そういえば、昨日の昼から何も食べていない。おばあちゃんが昨晩の残りだという肉じゃがを出してくれた。りせはまだ起きてこなかったので、テレビを見ながらふたりでだらだらと昼食を取ることにした。
「どう? 高校生活は?」
お昼のワイドショーを見ながら、おばあちゃんが尋ねる。
「うーん、大変だよ。勉強は難しいし」
ほくほくのじゃがいもを口に運びながら、わたしは答える。横並びで会話をするのって、なんだか変な感じだ。ふたりとも、目線はワイドショーに向けたまま。大物俳優が不倫をしたらしく、今まさに謝罪会見がライブ中継されていた。
『ふたりとも愛していました』
男前の俳優は、まっすぐな瞳でそんなことを口から吐き出す。
『ぼくは、どちらも、捨てることなどできませんでした』
贅沢な話だなぁ、と思う。
モテる人って、みんなこんな感じなんだろうか。ひとりの人にすきになってもらうのだって、相当な奇跡なのに。愛して、愛されて。それでも満足しないって、一体何様のつもりなの。心の中で吐いた毒は、全部自分に返ってくる。
「そういえば、奏真くんとまた同じ学校になったんだって? よく遊んでた、あの子よね」
わたしの心を察したように、タイミングよくおばあちゃんが言った。大きなお肉をつかもうとしていた箸が、自然ととまった。
――考えないようにしていたこと。りせの衝撃が大きすぎて、一旦保留にしていたこと。
わたしは黙って箸をテーブルに置いた。
昔から、奏真が怒ったところを見たことがない。友だちにおもちゃを壊された時も、先輩から理不尽なことを言われた時も、文句一つ言わずににこにこしていたのが奏真だった。わたしにだってそうだ。わたしがどれだけぶっきらぼうにしても、決して奏真は怒らなかった。付き合うのを了承したのはわたしなのに、手さえ繫げないわたしを、咎めることもしなかった。ゆっくりでいいと、言ってくれた。すき、と、伝えてくれた。
それなのにわたしは、奏真の気持ちを踏みにじったんだ。大人になる手段に利用して、奏真を傷つけた。最後に見た、奏真の表情が目に焼きついて離れない。奏真は今どうしているだろう。怒ってるかな。怒ってるよね。そして、悲しんでる。もう、友だちには戻れないかもしれない。
「奏真くんと喧嘩でもした?」
「……喧嘩、じゃないと思う」
わたしは力なく首を振った。
「わたしが自分勝手だっただけ。奏真の優しさに甘えちゃったの。奏真はいつもわたしのことを一番に考えてくれてたのに、わたしは奏真のこと、大事にしてあげられなかった」
「そう。それは失敗したわねぇ」
おばあちゃんはのんべんだらりとわたしの心臓にナイフを突き刺した。分かっちゃいるけど、人に言われるとぐさっと来る。わたしがしゅんと肩を落としていたら、おばあちゃんは慰めるようにぽんぽんと背中を叩いてきた。
「若いんだから、たくさん失敗しなさい。おばあちゃんがしーちゃんくらいの時は、たくさん失敗したわよ。そうやって、失敗して、お互い傷つけ合って、それでもそばにいてくれるのが、本当にあなたの味方でいてくれる人よ」
「……おばあちゃん、いいこと言う……」
「そりゃ、おばあちゃんだもの」
えっへん、と誇らしげに胸を張る。そのかわいらしい動作に、わたしは思わず笑みを漏らした。
「そうだ、写真は? しーちゃん、写真は最近撮ってないの? おばあちゃん、また見たいな」
「……写真は、もうやめたの。やめてたの」
「やめてた、ってことは、また始めるのね」
「うん」
わたしは力強くうなずいた。
「一番素敵な瞬間に、シャッターを押すつもり」
以前のわたしなら、言えなかったこと。できなかったこと。撮りたいものが見つかった今なら、きっとできる気がする。
「そう。楽しみにしてるわ。あ、おじいちゃんにご挨拶してね」
おばあちゃんのその一言で、わたしはおじいちゃんの部屋へと足を運んだ。
そこは、埃っぽい過去のにおいと、太陽の光が混じり合った、ふしぎな空間だった。この部屋に入るたび、わたしは胸がぎゅうっと締めつけられたように感じる。本棚にぎっちりと敷き詰められた、有名な写真家の写真集。幾千もの写真が挟まった大量のアルバム。壁にかけられた何枚もの風景写真。今にも舞い落ちてきそうな満開の桜、青い空を飛ぶ鳥、太陽を求めるように背伸びしたひまわり。秋の紅葉も、白い雪も。この部屋には、一年がぎゅうっと詰め込まれている。
わたしは畳の上を擦るように、おじいちゃんの仏壇の前まで歩いた。
小さな額縁の中にいるおじいちゃんは、相変わらず無表情だった。元々、感情を表に出さない人だった。無口で、だからこそ、たまにぽつりぽつりと雨粒のように漏れる言葉が、じんわりと心に染み渡った。
わたしは鈴を鳴らすと、両手を合わせて目を閉じた。
おじいちゃん。
あのね、本当はね。
こうして仏壇の前に来たくなかった。だからお葬式の時も、お正月も、ずっとおじいちゃんを避けていたの。だって、おじいちゃんはもういないんだって、思い知らされるような気がしたから。写真を撮れなくなったわたしを、怒るんじゃないかって、こわかったから。
わたしはずっと逃げていた。おじいちゃんの死から。弱い自分から。だけど、今は違う。わたしは、わたしよりずっと守りたいものを見つけた。撮りたいものを、見つけたのだ。
そっと、目を見開いた。写真の中のおじいちゃんが、わたしの背中を押すように、微笑んだような気がした。
小学生の頃、夏休みの大半をおばあちゃんの家で過ごした。都会でもなく田舎でもない、中途半端なこの場所を、お母さんはとても不便だという。でもおばあちゃんは「適度に静かで、適度に便利で、とても住みやすいわよ」と話すのだ。わたしもそれには同感で、若者が遊ぶようなショッピングモールなんてないけれど、交通量は少なくて、それゆえ空気が澄んでいる。東京で見る空は、背の高いビルのせいでとても狭く感じるけれど、ここで見る空はとっても広い。心なしか、透明度も高いような気がする。
外に出ると、目に映るものすべてが懐かしかった。おばあちゃんの家は、柳並木と石畳が美しい小径のはずれにある。「ペリーロード」と呼ばれるこの道は、大正時代に作られた石造りの洋館や古民家が数多く残っていて、異国情緒を感じさせるレトロな雰囲気を醸し出している。
一歩外に出ると、大きなカメラを首から下げておじいちゃんと歩いた場所が、そこら中に転がっていた。長楽寺や黒船ミュージアム、版画はがきを売る小さなお店。
そよそよと踊るように揺れる青柳が、わたしはすきだった。そのしなやかな葉が風に揺れる瞬間を、生き生きと切り取ることができたらどんなにいいか。小川のせせらぎを一枚の写真に閉じ込められたらどんなに素敵か。そんなことを話しながら、ふたりで並んで歩いたあの時間が、とても尊いものだったことに気づく。失ったものは取り戻せない。だからこそ、もう誰も、失ってはいけない。
夕方、ベランダですずんでいたわたしの元に、突然電話がかかってきた。スマートフォンに表示された名前を見て、心臓が一回転した。ちょっとためらったけれど、わたしは通話ボタンを押すことにした。
『雫』
いつも通りの声で名前を呼ばれた。わたしは奏真、と、いつもよりぎこちなく名前を呼んだ。
『学校、来てないから心配してさ。……体調、大丈夫?』
「うん、平気」
『そっか。それなら、いいけど』
あんこのないあんぱんみたいな会話は、すぐに途切れた。何て言おうか。何を言おうか。頭の中で言葉を組み立てようとしたけれど、自分をきれいに見せる都合のいい台詞は何にも思いつかなかった。
「……昨日は、ごめん」
電話の向こう側で、奏真の息がとまった気がした。沈黙は一瞬で消え、『いいよ。おれもごめんな』と、優しい声が返ってきた。
何に対して謝っているのか、何を謝られる必要があるのか。それはお互い、ほんのちょっとだけあいまいだった。言い訳を並べて取り繕うこともできたけれど、きっとそれはもう意味を持たなくて、何を伝えても、もうごまかせない気がした。
「わたし、しばらく学校行かない」
『え? そんなに体調悪いのか?』
「ううん、そうじゃないけど……」
『……もしかして、りせ?』
わたしはぐっと口をつぐんだ。
付き合う前までずっと、奏真のことを鈍いやつだと思っていた。だけど距離が近くなって、それはとんでもない間違いだったことに気づいた。奏真はいつだって誰より大人で、誰よりも賢くて、誰よりも鋭い。さすが、学年主席なだけある。わたしは奏真のことを、ちっとも理解していなかった。
『……りせのことが、すきなの?』
「……分かんない」
この気持ちが恋だと確かめるすべはどこにもない。だけど、一つ、分かってしまった。
「でも、奏真のことはきっと、『すき』じゃない」
『……そっか』
電話の向こうで、奏真はどんな顔をしているんだろう。声はいつもの優しい響きのまま、決して仮面を外さない。でも、きっと傷ついているんだろうな。悲しんでいるんだろうな。だからこそ、もうこれ以上何も言えなくなった。
『戻ってくる時は、連絡しろよな。まだ見せてないけど、夏休み中たくさん写真撮ったんだぜ。またいろいろ教えてくれよ』
「……うん。教える。教えるよ」
『秋になったら紅葉もきれいだよな。また一緒に見にいこうぜ。りせと、三人でさ』
「うん。……ありがとう」
いつも通りの会話をして、わたしたちは電話を切った。不自然なくらい自然なやりとりは、鼓膜に微かなさみしさを残した。
そよぐ木々を眺めながら、わたしはぼんやり、奏真のことを想った。四月に再会して、一緒にカメラを買いにいったこと。動物園に行ったこと。一緒に星を見にいったあの日も、水族館に行ったことも。何でもないようなことが、なくなった途端に色づいて、どうしようもなくさみしくなるのはなぜだろう。どうして、こんなに切なくなるのだろう。
瞳が潤むのを感じて、慌てて空を見上げた。青さがぐっと濃くなった広い空。ああ、しまった。涙を堪えようとしたのに逆効果だった。慌てて両目を閉じる。
恋、だったのだろうか。奏真とのことも。恋に、ちゃんと含まれているのだろうか。わたしはどうしようもなく子供で、愛とか恋とかよく分からなかったけれど、これも一つの「恋」だったんだろう。本当にすきじゃなくても、確かに、特別だった。
後ろから、襖の開く音がした。慌てて目をこすって振り向くと、浴衣姿のりせが立っていた。
「ごめん、寝すぎた……」
「おはよう」
りせはちょっと照れたように笑って、わたしの隣に腰かけた。ぱっちり二重はまだまだ腫れぼったいけれど、涙はもうとまったようだ。これから、何を話そう。何から話そう。わたしはうまく言葉が出なくて、りせの端正な横顔をただ眺めた。風が吹いて、栗色の長い髪がふわりと宙に舞った。こんなことを思うなんて不謹慎だけど、悲しみをまとったりせは、いつもの数倍美しく見えた。
「空気がきれいなところだね」
りせが、静かに口を開いた。
「ごめんね、学校休ませて」
「いいの、そんなこと。……不良娘の仲間入りだね」
わたしたちは顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「雫のおばあちゃん、どこにいるの? ちゃんとご挨拶しなきゃ」
「買い物に行ってる。もうすぐ帰ってくると思うよ」
「そっか」
空を流れる雲のように、時間がゆっくりと過ぎていく。頬を撫でる風は夏の名残を含んで、どことなく過去のにおいがした。穏やかな空気に包まれているのに、心の中は篝火がゆらゆらと揺れているような、そんなくすぶりが確かにあった。それはきっとたぶん、りせも同じ。りせの小さな体には、きっと想像もできないような炎が燃え盛っているのだろう。焼け焦げた思い出が、灰となって積もっているのかもしれない。
「……ねぇ、雫」
空をぼんやりと見上げたまま、りせが名前を呼んだ。
「どうしてわたしにキスしたの?」
電気ショックを受けたように、全身が飛び跳ねた。わたしは真っ青な空を見つめたまま硬直した。考えないようにしていたのに。話題に出されたら、昨日の出来事がまざまざと目の前によみがえってきた。静まり返った部屋。熱い吐息。やわらかな、唇。
りせの大きな瞳が、まっすぐにわたしを捉えた。
「ねぇ。どうして?」
わたしは、逃れられなかった。まるであの日見た星空のような、きらめく瞳。気を抜いたら、吸い込まれそうになる。
何か、言わなきゃ。そう思うのに、喉がきゅうっと狭まってなかなか言葉が出てこない。頬がかぁっと熱くなって、心臓が爆発しそう。追い詰めるようなりせの視線に耐えられなくなって、わたしはすぐに目を逸らした。
「……わ、分かんない」
やっとの思いで、それだけ、絞り出す。りせは探るようにわたしを見つめ続けていたけれど、やがて諦めたように、
「……雫はずるいね」
「え?」
小さすぎる声はよく聞き取れなかった。りせは「何でもなーい」とからかうように首を振った。何かを振り払うように大げさに伸びをして、脱力するように息を吐く。その様子は、無邪気な少女そのものだ。
「ふしぎだよね。昨日までどこにも行けなかったのに」
「そうだね……」
「逃げ出すのって、こんなに簡単だったんだね……」
本当に、ふしぎなことだ。昨日までわたしは、普通に制服を着て、普通に学校に行っていたのに。ちょっと行動を起こしただけで、非日常に飛び込んでしまったみたい。いけないことをしているのに、思ったより落ち着いている。
「このまま、ずっと……」
りせの言葉は、完成する前に空気に溶けていった。その続きなんて、聞かなくても分かったから、わたしは聞き返すことをやめた。
分かってる、このままじゃだめだって。このまま穏やかに、何も考えずにいられたらいいんだけど。きっとそうはいかない。でも、今は、今だけはまだ――
「しばらく、ここにいよう」
気がついたら、そんな言葉が口から出ていた。
「おばあちゃんひとり暮らしだし、わたしのことは別にいいから。学校にも休むって言ってあるし。りせは何も気にしなくていいから。……ね?」
言い聞かせるように、りせの手をつかんだ。りせはちょっと戸惑ったような、困ったような顔をしたけど、やがて小さくうなずいた。
「……ありがと」
お礼を言われたら、なぜか心がずきん、と痛んだ。力強く言ってみたものの、これからどうしたらいいのかなんて、ちっとも頭に浮かんでこなかった。先が見えない。何もない。どうしたらいいのか分からない。ぎこちなく笑ってみたけれど、真っ暗闇に吞まれたように、心は不安で満たされていた。
「おいしい!」
夕食の時間。おばあちゃんの作ったナスの煮びたしを口に含んで、りせが驚いたように声を上げた。
「そう? それならよかった。たくさん食べてね」
おばあちゃんがふふ、と嬉しそうに目を細める。ふたりのやりとりを見ていたら、なんだかわたしまで嬉しくなった。
三人で囲む食卓は、いつかの時と違って穏やかだった。誰かの手料理を食べるのはいつ以来だろう。久しぶりに食べるおばあちゃんの料理は、自分で作るよりも数倍おいしい。おばあちゃんは、突如やってきたきれいな女の子に興味津々のようだった。
「りせさんは、いつから雫ちゃんのお友だちなの?」
「四月からです。雫が越してきたアパートの、大家の娘なんです」
「あら、そうなの。よかったわね、しーちゃん。ひとり暮らしって聞いて心配してたんだけど、こんなかわいいお友だちができて」
「うん」
わたしはちょっと照れながらうなずいた。りせはいつだってわたしの自慢だ。隣にいることが誇らしい。
「わたしもひとり暮らしだから、久しぶりに賑やかで嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
「ふたりがいると、食卓が賑やかになるわね。きっとおじいちゃんも喜んでるわ」
「そういえば雫のおじいちゃんって、写真家なんだよね」
ふと、りせが思い出したように尋ねてきた。
「写真ないの? 見たいなぁ」
「……あるよ。じゃあ、あとで見る?」
「いいの? 楽しみ!」
いとも簡単にうなずいてしまったことに、自分自身驚いていた。どうしてだろう。ついこの間まで、わたしはおじいちゃんの写真を見ることすら避けていたのに。ふと見ると、おばあちゃんがわたしをあたたかい目で見つめていた。ああ、きっと気づいていたんだ。おじいちゃんが死んでから、わたしが写真を遠ざけていたことに。この家を訪れなくなった理由に。
壁にかかっているカレンダーを見たら、どうして自分が平気になったのか、分かったような気がした。
時が、流れていたのだ。いつの間にか痛みは過去のものになっていて、傷口はかさぶたになっていたのだ。おじいちゃんがいなくなった三年前、わたしはえんえんと声を上げて泣いた。文字通り涙が枯れるまで、両手で顔を覆っていた。誰とも話したくなかった。何も楽しいと思えなかった。逃げるようにカメラから離れた。おじいちゃんを連想させるものすべてから遠ざかって、やわらかい繭の中に閉じ籠っていた。でも、気がついたらもう三年以上経っていて、こうして普通におじいちゃんの話ができるようになっている。忘れたわけじゃ決してない。別れの痛みは消えない。それでも、着実に、前に進んでいる。きっとこれが、生きるということなんだ。
ご飯を食べ終えたわたしは、りせを連れておじいちゃんの部屋に入った。古いアルバムを引っ張り出して、床に広げてみる。
「わぁ、きれい……」
写真を見たりせが、感嘆の息を漏らした。
「これ、全部雫のおじいちゃんが撮ったの?」
「そうだよ。すごいでしょ」
わたしは誇らしくなって胸を張った。まどろむような朝の空、優雅に飛ぶ鳥。絵の具を塗り潰したように一面に咲く芝桜。無邪気にじゃれる猫の親子。日常の何気ない光景から、息を呑むような絶景まで、全部ここにおさめられている。まるでその場所に自分がいるような、そんな感覚。
「風景の写真が多いね」
「あんまり人の写真は撮らなかったかなぁ」
ぱらぱらとアルバムをめくってみるけれど、人物がはっきりと写っているものは一枚もない。あるとしたら、すごく遠くにいるとか、後ろ姿のみ。特定の人にピントを合わせたものは何もないのだ。何千枚も写真があるのに、それは少し不自然な気がした。
撮った人がいなくなっても、こうして写真は残る。だからこそ、写真がすき。わたしがいなくなっても、わたしの撮った写真は永久的に残る。そして、人の記憶に残るような写真を、わたしは撮りたい。
「雫の撮った写真は?」
顔を上げると、りせが試すようにじっとわたしを見つめていた。
「雫の写真が見たいな」
「……いいよ。でも、ここにあるのはカメラを始めたばかりの頃の写真だから、下手くそだよ」
「それが見たいの」
数ヵ月前に拒否したその行為を、わたしはあっさり承諾した。なぜだろう、今なら、りせになら、見せられる気がする。
わたしはおじいちゃんの本棚に近づいた。まだ新しいピンク色のアルバムは、予想通りそこにあった。
ページをめくると、記憶の彼方にしまってあった、かつてわたしが撮った風景たちが、当時のままそこに存在していた。あまりにも拙くて、ピントが合っていないものも多々ある。
「下手くそだから恥ずかしい」
「そんなことないよ、素敵だよ。……これとか、すき」
りせが指で示したのは、海の写真だった。朝焼けに照らされ、宝石を散りばめたように広がる透明な海。一体いつ頃撮ったものだっけ。あいまいな記憶をたどってみる。
ああ、そうだ。確か小学生の夏休みに、おじいちゃんと朝日を見にいったんだ。まだ夜が明けていない暗い道を、カメラを片手にふたりで歩いた。夜明けの海岸は誰もいなくて、波の音だけが鳴り響いていたのを覚えている。
「海が、すきだったの」
忘れていたことを思い出した。子守歌のような波の音とか、きらきらと光る海面とか。さらさらとした砂の感触も、潮のにおいも。
「海に行くと、いやなこと全部忘れられる気がして。朝日を見たら、生まれ変わるような気分になるの」
「生まれ変わる……?」
りせが、興味深げに繰り返した。傷ついたビー玉みたいな両目に、ぽっと光が灯る。何か言いたげに、桃色の唇が動いた。聞き取ろうと耳をすませたけど、りせは何でもないというように目を伏せ、それから、もう一度わたしを見た。
「……ねぇ、カメラ、持ってきてる?」
「え? うん」
「出して」
少し、強い口調だった。わたしはちょっと動揺したけれど、すぐにうなずいた。りせと一緒に寝室へ移動し、カバンの中からカメラを取り出す。
「のぞいてみて」
向かい合って座った途端、りせが言った。
「今のわたし、どう映る? わたしのこと、もう知ってるでしょう。ファインダー越しのわたしはどう見える?」
あの夜と同じ台詞だった。
あの時、わたしはファインダーをのぞけなかった。りせのことを何も知らなかったから。でも、今は違う。わたしとりせは「友だち」だ。ちゃんと、名前のある関係だ。
わたしはちょっとためらいがちにカメラを構え、ファインダーをのぞいてみた。小さくて、だけど広い視界に、きれいな女の子が見える。
雪みたいに白い肌と、流れるような栗色の髪。潤んだ瞳はまるで夜の海みたい。強くて、きれいな、「特別」な女の子。最初は、そう思ってた。
だけど、違うの。本当は違ったの。もっと早く、気づいてあげればよかったの。
りせは、特別なんかじゃない。
「さみしそうに、見える」
絞り出すように答えたら、りせは大きく目を見開いて、納得したように「……そっか」とうなずいた。
「そうか。そうなのかもね」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
もうすっかり日は暮れて、あれだけ強かった太陽光は見る影もない。わたしたちの不安を表すように、部屋の空気はみるみるうちに重たくなっていく。緊張の糸をぴんと張りつめて、その先にある会話を待っている。
先に口を開いたのは、りせだった。
「ごめんね、こないだ。ひどいこと言ったね……」
「……わたしの方こそ、ごめん」
ああ、どうしてあなたが謝るの。悪いのは全部わたしなのに。あなたの気持ちを全然分かってあげられなかった。あなたは嘘がうまいから。あなたの悲しみに、気づいてあげられなかった。
「わたし、りせにあこがれてたの。わたしよりずっといろんなことを知ってて、かわいくて、りせみたいになれたらって思ってた。もっとりせのことが知りたくて、人を愛する気持ちを知りたくて、だから奏真と付き合ったの。自分のためだけに、奏真の好意を利用したの。奏真がまさか、あんなに真剣な気持ちでわたしのことをすきだなんて思わなかったの。でも、結局奏真を傷つけただけだった。何にもうまくできなかった。りせのことも傷つけた。わたし、全然だめなの。カメラも恋愛も友情も上手にできない。な、何にも。何にも、できない」
「……どうして、雫が泣くの」
りせが、ばかにしたようにせせら笑った。わたしはまた、その言葉で自分が泣いていることに気がついた。りせはそっとわたしに手を伸ばし、頬に伝う涙を、きれいな指ですくい上げた。
「泣かないでよ。泣きたいのはいつだってわたしの方なのに。何で雫が泣くの。……やめてよそういうの。同情してるの?」
「違う。だって、りせが泣かないから」
「雫が泣くから泣けないのよ。わたし、泣くのきらいなの。ぶすになるから」
「十分かわいいよ」
「知ってるよ、そのくらい」
わたしはそっとりせの手を取った。りせの手はぞっとするくらい冷たくて、そして微かに震えていた。
大きな瞳から、透明な涙が溢れてしまいそうだった。あと一言。たった一言。何かを言ったら、言われたら、ギリギリを保っていた涙腺が決壊して、りせの精一杯の強がりは、粉々に砕けてしまうだろう。
――ああ、なんて脆い!
きっと、これはとても些細なことなんだ。一つの恋が終わる。誰にでもある苦い経験。だけどそれは、若いわたしたちには世界が終わることのように思えるんだ。与えられた愛を世界のすべてだと思い込む。それはとても危険でおそろしいこと。世界中でただひとりにしか与えられないとっておきの愛を、突如取り上げられ、捨てられ、どうしたらいいのか分からなくなっている。猛獣が潜むジャングルに、ひとり取り残されたような。自分の居場所さえ分からず、行くべきところも見つからず、地図も持たずに立ち尽くしている。
縁側に座り、真っ暗になった空を睨んだ。重たい雲に隠されて、星一つすら瞬いていない。わたしたちの明日を暗示するかのように、空気はどんよりと重く、濁っている。
「恋って、つらいね」
膝を抱えながら、りせがぽつりとつぶやいた。
「どうしてこんなに心が痛むんだろう」
行き場がない。することもない。どうすべきかも分からない。十代のわたしたちは、どうしようもなく弱くて小さい。
「……生きてるからだよ」
抵抗するように、わたしは答えた。こんなことで、りせを壊してなるものか。こんな、誰にでもある、些細なことで。
愛は、弾丸だ。朝のまどろみのように優しく、夜の暗闇のようにおそろしく。
わたしの心を撃つのです。
夜の街は昼とは違う顔をしている。ぎらぎら光るネオンや、レーザー光線のようなライトを放って走る車は、まるで獰猛な獣のようだ。光に照らされないように闇に紛れて駅まで走り、勢いよく電車に飛び乗った。最初はたくさん人が乗っていたけれど、夜が深まるにつれ、ひとり、またひとりと電車から降りて、いつの間にか、わたしとりせしかいなくなった。
電車に揺られている間、わたしたちは一切言葉を交わさなかった。これからどこに行くの、どうするの、なんて、りせは何も聞いてこなかった。わたしも何も言わなかった。ただ、離れぬように、離さぬように。お互いの手を鎖のように繋ぎ続けた。
りせのすすり泣きは、時間が経つにつれて小さくなって、やがて微かな寝息に変わっていた。起こさないように気をつけながら、頬に伝った涙をそっと指で拭った。先のことなんて、何も考えていない。でも、あのままあそこに居続けたら、きっとりせは死んでしまう。そんな、予感がしたのだ。
りせを、助けなければ。
考えたのは、それだけ。
どのくらい電車に揺られていたのだろう。終着駅に着いたわたしたちは、駅員さんに特急券を渡して改札を出た。駅から離れるにつれてどんどん人気はなくなって、十五分ほど歩く頃には、民家の明かりすら数えるほどになっていった。空から降る淡い月明かりが、やけに眩しくわたしたちを照らしていた。
たどり着いたのは、古い、小さな一軒家だった。寂れた表札、傷んだ木造の壁。少し、寂寥すら感じさせる。暗く光った灯火には、小さな虫が何匹も集まっていた。りせが戸惑うようにわたしを見た。わたしは答えるより先に、インターホンを鳴らすことにした。夜遅いせいか、なかなか扉が開く気配がない。懲りずにもう一度押したら、遠くからゆっくりと歩く音が近づいてきた。少しためらいがちに、扉が開く。
「……しーちゃん?」
久しぶりに再会したおばあちゃんは、わたしの顔を見ると、驚いたように目を丸くした。
「どうしたのいきなり! 東京から来たの?」
「いきなりごめん。この子、友だちのりせ。しばらくかくまってほしいの」
「すいません、夜分に……」
りせがおずおずと頭を下げる。おばあちゃんはまだ驚いたまま、わたしとりせを交互に見たけれど、何かを察したのか、すぐにうなずいてくれた。
「いいわ。お入りなさい」
わたしとりせは、互いの意思を確認するように顔を見合わせた。言葉を交わすことなくうなずいて、靴を脱いで家に上がった。
おばあちゃんの家を訪れるのは久しぶりだ。おじいちゃんが生きていた頃は頻繁に遊びにきていたけれど、今では正月とお盆くらいしか訪れる機会がなくなってしまった。それに、受け入れたくなかったのだ。おじいちゃんが死んだという現実を。
客間に入ったわたしたちは、ようやく、背負っていた重たい荷物を肩から下ろした。久々に嗅ぐ畳のにおいは、どこか懐かしい感じもする。おばあちゃんは「お湯、入れてくるわね」と言って、慌てた様子でお風呂場に行ってしまった。
「いいのかな、いきなり……」
部屋の隅っこで縮こまりながら、りせが不安そうにつぶやいた。わたしはしゃがみ込んで、安心させるように微笑んだ。
「りせは何にも気にしなくていいの。それより、ごめんね。遠くまで連れてきちゃって」
「ううん……」
りせは力なく首を振り、失敗作のような微笑を浮かべた。
壁にかかっている時計を見ると、もう0時をまわっていた。四時間近く電車に揺られていたのだ。そう自覚したら、今まで気づかなかった疲労が、一気に体の芯から溢れ出てきた。全身がだるくて、頭も重たい。汗が服に張りついて気持ちが悪かった。
しばらくすると、遠慮がちに襖が開いて、おばあちゃんがひょっこり顔を出した。
「しーちゃん、お風呂入れましたよ」
「ありがと」
「これ、タオルね。あと、一応寝間着……浴衣しかないけど。下着はあるの?」
「うん、大丈夫」
おばあちゃんはわたしにタオルと浴衣を渡すと、ちらりとりせの方を見た。りせが慌てた様子で立ち上がる。おばあちゃんはにっこり笑って、
「疲れたでしょう。ゆっくりあたたまってね」
「ありがとう、ございます」
りせがまた深々と頭を下げた。わたしはりせにお風呂セットをそのまま渡して、浴室まで案内した。
「シャンプーとか、自由に使っていいから。先入って」
「うん。ありがと、何から何まで……」
「気にしなくていいの。じゃあ、ゆっくりしてね」
りせがうなずいたのを見届けて、わたしは脱衣所から出た。古びた廊下が、歩くたびぎしぎしと音を立てる。不安定なわたしの心を表しているようで、こわくなる。
部屋に戻ると、おばあちゃんが敷布団を出しているところだった。わたしも協力して、ふたり分の布団を畳の上に敷いた。さっきつけたクーラーがようやくきいてきて、肌に滲んだ汗をさらさらと乾かしていく。
「ごめんね、いきなり来ちゃって」
「ううん。それよりあなたたち、ご飯は食べたの?」
「大丈夫。……たぶん、今は食べれないと思う」
お昼から何も口にしていないけれど、ふしぎなくらいおなかはすかなかった。きっとりせも一緒だろう。今はただ、胸が苦しい。
「きれいな子ね。お友だち」
「でしょ」
ふふ、とおばあちゃんが微笑んだ。
久しぶりに会うおばあちゃんは、前会った時より少し背が縮んでいた。……ううん、違う。きっと、わたしの背が伸びたんだ。髪も以前より灰色の部分が増えて、目尻のしわも深くなっている。疲れたように深く息を吐く、その仕草に少し胸が痛んだ。
「おじいちゃんもびっくりしてるわ。こんな夜中に訪ねてくるなんて」
「そうだよね……」
「しばらくゆっくりしていきなさいね。久々にしーちゃんに会えて嬉しいわ」
「うん、ありがとう。あの、お母さんには……」
「分かってる。内緒にしておくわ。おやすみなさい」
「おやすみ……」
おばあちゃんは事情を聞くこともなく、寝室へと戻っていった。ひとり残されたわたしは、疲れを吐き出すように長く息を吐いた。
勢いでここまで来てしまったけれど、いろいろ問題は山積みだ。明日は平日だし、学校にも連絡しておかなきゃ。さぼっていることをお母さんに知られたら……想像するだけでおそろしい。
考え込んでいたら、襖が開いて、浴衣姿のりせが部屋に入ってきた。
「あの、お風呂、ありがと……」
髪から滴る雫が、肩にかけたタオルを濡らしていく。わたしはうん、とうなずいて、ドライヤーをりせに渡した。
「これ、使って。あと、お布団すきな方使ってね」
「うん」
「じゃあ、わたしもお風呂入ってくる。眠たかったら先に寝てていいからね」
「うん」
普段とは違い、りせは口数が少ない。よほど疲れているのだろう。体も――心も。
「雫」
お風呂場に向かおうとしたわたしを、りせが呼びとめた。わたしはなぁに、と振り向いた。りせは何か言いたげにわたしを見つめたけれど、やがて力なく首を振った。
「何でもない」
「……そう」
わたしは何も言うことなくお風呂場へと向かった。
シャワーが弾丸のように全身を打ちつける。汗を洗い流したら、少しだけ気分がすっきりした。
髪を洗いながら、わたしは先ほどのりせの様子を思い出していた。りせの胸元に見えた、三日月型のネックレス。きっとあれは、柊さんからもらったものだろう。小咲さんとのことを知ってもまだなお、捨てられずにいたんだ。そう考えると、ちくりと胸が痛んだ。
こうなることは分かっていた、と、りせは言ったけれど。それはわたしも同じだった。幸せそうなりせを見て納得していたけれど、そんな状態がいつまでも続くわけがない。いつかりせが傷つくことになるんじゃないか。そう思っていながら、何もできなかった。わたしは部外者だから。助けて、あげられなかった。
湯船に体を沈めたら、心がじんわりとあたたまっていくのを感じた。ああ、あたたかい。疲れが、するすると体から染み出していく。
――そういえば、忘れてたけど。
わたしはそっと、指で自分の唇をなぞった。
キス、してしまった。りせと。女の子同士なのに。……ああ、きっとあれだ。ショック療法だ。泣いてる赤ちゃんを驚かせたら、泣きやむって言うし。それだよね。うん、きっとそう。
でも、奏真とはできなかった。それなのに、どうしてだろう。女の子だから? 友だち、だから?
――すき、だから?
その二文字を思い浮かべたら、背筋がぞくっとした。わたしは、りせがすき。そりゃそうよ、友だちだもん。でも、りせはただの友だちとはどこか違う。もっと、もっと大切で、いとおしい。この感情の意味を、自覚していいのかな。少し、おそろしい気もする。
部屋に戻ると、りせはすでに深い眠りについていた。しゃがみ込んで顔をのぞき込む。長いまつげに雨粒のような涙がついていた。このまま泣き続けたら、涙が養分となって、まつげが育ちそうだ。わたしは起こさないようにそっと、透明な雫を指ですくった。
かわいそうに。どうしてこんなにつらい思いをしなきゃいけないのかな。頭もよくて、かわいくて、スタイルもよくて。りせは、女の子があこがれるものを全部持ってるのに。性格だっていいのにさ。りせは、すべてを手に入れすぎたのかな。だから神様は、一つだけ、大切なものを与えてくれないのかな。
わたしが男だったら、もっとうまくできたのかな。そんな、ありもしないことを妄想して、自分の愚かさにあきれた。
わたしが落ち込んでいる場合じゃないんだ。ようやく、りせをあのお城から連れ出すことができたんだから。柊さんも小咲さんもいない。追われる心配もない。
これから、ここで。
あなたの呪いを、解いてあげなくちゃ。
翌日。疲れ果てていたわたしは、十一時すぎに目を覚ました。こんなに長く眠ったのはいつ以来だろう。寝ぼけた目をこすって、隣の布団をのぞき込む。りせは布団に潜ったまま、息絶えたように眠っていた。本当に死んでいるんじゃないかと不安になったけれど、呼吸に合わせて上下する布団が、生きていることを証明していた。
起こさないようにそっと、忍び足で部屋を出た。顔を洗って居間に行くと、おばあちゃんが新聞を読んでいた。
「おはよう、しーちゃん」
「おはよう……」
大あくびをしながら、扇風機の近くに座る。テレビに映るお天気お姉さんが、今日も残暑が厳しくなるでしょう、と聞きたくもない事実を告げてきた。毎年似たようなフレーズを聞いている気がする。暑さに反抗するように、扇風機に向かってあああああーっと無意味な音を叫ぶ。
「あの子は? まだ寝てるの?」
「うん。すごく疲れてるから……」
体だけじゃない。きっと、心も。
昨晩、子供のように泣くりせを思い出した。りせはどんな時も泣かなかった。泣かない、強い子だと、そう思い込んでいた。わたしはりせに騙されていたんだ。あの子は、嘘がとてもうまい。
「……ねぇ、しばらくここにいてもいい?」
振り向かずに尋ねた。後ろで、おばあちゃんが微笑む気配がした。
「もちろんよ。でも、学校にはちゃんと連絡しなさい」
「……あ」
すっかり忘れていた。もうとっくに授業は始まっている。先生が不審に思ってお母さんに連絡を取っていたら一発アウトだ。わたしは慌てて学校に電話することにした。
ひとまず風邪がまだ治らないということにしたら、担任教師は特に疑わずに「ゆっくり休めよ」と実に優しい言葉を投げかけてくれた。昨日も結局行かずじまいだったし、もう、完全に不良の仲間入りだ。
おなかの虫がぎゅるぎゅると鳴った。そういえば、昨日の昼から何も食べていない。おばあちゃんが昨晩の残りだという肉じゃがを出してくれた。りせはまだ起きてこなかったので、テレビを見ながらふたりでだらだらと昼食を取ることにした。
「どう? 高校生活は?」
お昼のワイドショーを見ながら、おばあちゃんが尋ねる。
「うーん、大変だよ。勉強は難しいし」
ほくほくのじゃがいもを口に運びながら、わたしは答える。横並びで会話をするのって、なんだか変な感じだ。ふたりとも、目線はワイドショーに向けたまま。大物俳優が不倫をしたらしく、今まさに謝罪会見がライブ中継されていた。
『ふたりとも愛していました』
男前の俳優は、まっすぐな瞳でそんなことを口から吐き出す。
『ぼくは、どちらも、捨てることなどできませんでした』
贅沢な話だなぁ、と思う。
モテる人って、みんなこんな感じなんだろうか。ひとりの人にすきになってもらうのだって、相当な奇跡なのに。愛して、愛されて。それでも満足しないって、一体何様のつもりなの。心の中で吐いた毒は、全部自分に返ってくる。
「そういえば、奏真くんとまた同じ学校になったんだって? よく遊んでた、あの子よね」
わたしの心を察したように、タイミングよくおばあちゃんが言った。大きなお肉をつかもうとしていた箸が、自然ととまった。
――考えないようにしていたこと。りせの衝撃が大きすぎて、一旦保留にしていたこと。
わたしは黙って箸をテーブルに置いた。
昔から、奏真が怒ったところを見たことがない。友だちにおもちゃを壊された時も、先輩から理不尽なことを言われた時も、文句一つ言わずににこにこしていたのが奏真だった。わたしにだってそうだ。わたしがどれだけぶっきらぼうにしても、決して奏真は怒らなかった。付き合うのを了承したのはわたしなのに、手さえ繫げないわたしを、咎めることもしなかった。ゆっくりでいいと、言ってくれた。すき、と、伝えてくれた。
それなのにわたしは、奏真の気持ちを踏みにじったんだ。大人になる手段に利用して、奏真を傷つけた。最後に見た、奏真の表情が目に焼きついて離れない。奏真は今どうしているだろう。怒ってるかな。怒ってるよね。そして、悲しんでる。もう、友だちには戻れないかもしれない。
「奏真くんと喧嘩でもした?」
「……喧嘩、じゃないと思う」
わたしは力なく首を振った。
「わたしが自分勝手だっただけ。奏真の優しさに甘えちゃったの。奏真はいつもわたしのことを一番に考えてくれてたのに、わたしは奏真のこと、大事にしてあげられなかった」
「そう。それは失敗したわねぇ」
おばあちゃんはのんべんだらりとわたしの心臓にナイフを突き刺した。分かっちゃいるけど、人に言われるとぐさっと来る。わたしがしゅんと肩を落としていたら、おばあちゃんは慰めるようにぽんぽんと背中を叩いてきた。
「若いんだから、たくさん失敗しなさい。おばあちゃんがしーちゃんくらいの時は、たくさん失敗したわよ。そうやって、失敗して、お互い傷つけ合って、それでもそばにいてくれるのが、本当にあなたの味方でいてくれる人よ」
「……おばあちゃん、いいこと言う……」
「そりゃ、おばあちゃんだもの」
えっへん、と誇らしげに胸を張る。そのかわいらしい動作に、わたしは思わず笑みを漏らした。
「そうだ、写真は? しーちゃん、写真は最近撮ってないの? おばあちゃん、また見たいな」
「……写真は、もうやめたの。やめてたの」
「やめてた、ってことは、また始めるのね」
「うん」
わたしは力強くうなずいた。
「一番素敵な瞬間に、シャッターを押すつもり」
以前のわたしなら、言えなかったこと。できなかったこと。撮りたいものが見つかった今なら、きっとできる気がする。
「そう。楽しみにしてるわ。あ、おじいちゃんにご挨拶してね」
おばあちゃんのその一言で、わたしはおじいちゃんの部屋へと足を運んだ。
そこは、埃っぽい過去のにおいと、太陽の光が混じり合った、ふしぎな空間だった。この部屋に入るたび、わたしは胸がぎゅうっと締めつけられたように感じる。本棚にぎっちりと敷き詰められた、有名な写真家の写真集。幾千もの写真が挟まった大量のアルバム。壁にかけられた何枚もの風景写真。今にも舞い落ちてきそうな満開の桜、青い空を飛ぶ鳥、太陽を求めるように背伸びしたひまわり。秋の紅葉も、白い雪も。この部屋には、一年がぎゅうっと詰め込まれている。
わたしは畳の上を擦るように、おじいちゃんの仏壇の前まで歩いた。
小さな額縁の中にいるおじいちゃんは、相変わらず無表情だった。元々、感情を表に出さない人だった。無口で、だからこそ、たまにぽつりぽつりと雨粒のように漏れる言葉が、じんわりと心に染み渡った。
わたしは鈴を鳴らすと、両手を合わせて目を閉じた。
おじいちゃん。
あのね、本当はね。
こうして仏壇の前に来たくなかった。だからお葬式の時も、お正月も、ずっとおじいちゃんを避けていたの。だって、おじいちゃんはもういないんだって、思い知らされるような気がしたから。写真を撮れなくなったわたしを、怒るんじゃないかって、こわかったから。
わたしはずっと逃げていた。おじいちゃんの死から。弱い自分から。だけど、今は違う。わたしは、わたしよりずっと守りたいものを見つけた。撮りたいものを、見つけたのだ。
そっと、目を見開いた。写真の中のおじいちゃんが、わたしの背中を押すように、微笑んだような気がした。
小学生の頃、夏休みの大半をおばあちゃんの家で過ごした。都会でもなく田舎でもない、中途半端なこの場所を、お母さんはとても不便だという。でもおばあちゃんは「適度に静かで、適度に便利で、とても住みやすいわよ」と話すのだ。わたしもそれには同感で、若者が遊ぶようなショッピングモールなんてないけれど、交通量は少なくて、それゆえ空気が澄んでいる。東京で見る空は、背の高いビルのせいでとても狭く感じるけれど、ここで見る空はとっても広い。心なしか、透明度も高いような気がする。
外に出ると、目に映るものすべてが懐かしかった。おばあちゃんの家は、柳並木と石畳が美しい小径のはずれにある。「ペリーロード」と呼ばれるこの道は、大正時代に作られた石造りの洋館や古民家が数多く残っていて、異国情緒を感じさせるレトロな雰囲気を醸し出している。
一歩外に出ると、大きなカメラを首から下げておじいちゃんと歩いた場所が、そこら中に転がっていた。長楽寺や黒船ミュージアム、版画はがきを売る小さなお店。
そよそよと踊るように揺れる青柳が、わたしはすきだった。そのしなやかな葉が風に揺れる瞬間を、生き生きと切り取ることができたらどんなにいいか。小川のせせらぎを一枚の写真に閉じ込められたらどんなに素敵か。そんなことを話しながら、ふたりで並んで歩いたあの時間が、とても尊いものだったことに気づく。失ったものは取り戻せない。だからこそ、もう誰も、失ってはいけない。
夕方、ベランダですずんでいたわたしの元に、突然電話がかかってきた。スマートフォンに表示された名前を見て、心臓が一回転した。ちょっとためらったけれど、わたしは通話ボタンを押すことにした。
『雫』
いつも通りの声で名前を呼ばれた。わたしは奏真、と、いつもよりぎこちなく名前を呼んだ。
『学校、来てないから心配してさ。……体調、大丈夫?』
「うん、平気」
『そっか。それなら、いいけど』
あんこのないあんぱんみたいな会話は、すぐに途切れた。何て言おうか。何を言おうか。頭の中で言葉を組み立てようとしたけれど、自分をきれいに見せる都合のいい台詞は何にも思いつかなかった。
「……昨日は、ごめん」
電話の向こう側で、奏真の息がとまった気がした。沈黙は一瞬で消え、『いいよ。おれもごめんな』と、優しい声が返ってきた。
何に対して謝っているのか、何を謝られる必要があるのか。それはお互い、ほんのちょっとだけあいまいだった。言い訳を並べて取り繕うこともできたけれど、きっとそれはもう意味を持たなくて、何を伝えても、もうごまかせない気がした。
「わたし、しばらく学校行かない」
『え? そんなに体調悪いのか?』
「ううん、そうじゃないけど……」
『……もしかして、りせ?』
わたしはぐっと口をつぐんだ。
付き合う前までずっと、奏真のことを鈍いやつだと思っていた。だけど距離が近くなって、それはとんでもない間違いだったことに気づいた。奏真はいつだって誰より大人で、誰よりも賢くて、誰よりも鋭い。さすが、学年主席なだけある。わたしは奏真のことを、ちっとも理解していなかった。
『……りせのことが、すきなの?』
「……分かんない」
この気持ちが恋だと確かめるすべはどこにもない。だけど、一つ、分かってしまった。
「でも、奏真のことはきっと、『すき』じゃない」
『……そっか』
電話の向こうで、奏真はどんな顔をしているんだろう。声はいつもの優しい響きのまま、決して仮面を外さない。でも、きっと傷ついているんだろうな。悲しんでいるんだろうな。だからこそ、もうこれ以上何も言えなくなった。
『戻ってくる時は、連絡しろよな。まだ見せてないけど、夏休み中たくさん写真撮ったんだぜ。またいろいろ教えてくれよ』
「……うん。教える。教えるよ」
『秋になったら紅葉もきれいだよな。また一緒に見にいこうぜ。りせと、三人でさ』
「うん。……ありがとう」
いつも通りの会話をして、わたしたちは電話を切った。不自然なくらい自然なやりとりは、鼓膜に微かなさみしさを残した。
そよぐ木々を眺めながら、わたしはぼんやり、奏真のことを想った。四月に再会して、一緒にカメラを買いにいったこと。動物園に行ったこと。一緒に星を見にいったあの日も、水族館に行ったことも。何でもないようなことが、なくなった途端に色づいて、どうしようもなくさみしくなるのはなぜだろう。どうして、こんなに切なくなるのだろう。
瞳が潤むのを感じて、慌てて空を見上げた。青さがぐっと濃くなった広い空。ああ、しまった。涙を堪えようとしたのに逆効果だった。慌てて両目を閉じる。
恋、だったのだろうか。奏真とのことも。恋に、ちゃんと含まれているのだろうか。わたしはどうしようもなく子供で、愛とか恋とかよく分からなかったけれど、これも一つの「恋」だったんだろう。本当にすきじゃなくても、確かに、特別だった。
後ろから、襖の開く音がした。慌てて目をこすって振り向くと、浴衣姿のりせが立っていた。
「ごめん、寝すぎた……」
「おはよう」
りせはちょっと照れたように笑って、わたしの隣に腰かけた。ぱっちり二重はまだまだ腫れぼったいけれど、涙はもうとまったようだ。これから、何を話そう。何から話そう。わたしはうまく言葉が出なくて、りせの端正な横顔をただ眺めた。風が吹いて、栗色の長い髪がふわりと宙に舞った。こんなことを思うなんて不謹慎だけど、悲しみをまとったりせは、いつもの数倍美しく見えた。
「空気がきれいなところだね」
りせが、静かに口を開いた。
「ごめんね、学校休ませて」
「いいの、そんなこと。……不良娘の仲間入りだね」
わたしたちは顔を見合わせて、ふふっと笑った。
「雫のおばあちゃん、どこにいるの? ちゃんとご挨拶しなきゃ」
「買い物に行ってる。もうすぐ帰ってくると思うよ」
「そっか」
空を流れる雲のように、時間がゆっくりと過ぎていく。頬を撫でる風は夏の名残を含んで、どことなく過去のにおいがした。穏やかな空気に包まれているのに、心の中は篝火がゆらゆらと揺れているような、そんなくすぶりが確かにあった。それはきっとたぶん、りせも同じ。りせの小さな体には、きっと想像もできないような炎が燃え盛っているのだろう。焼け焦げた思い出が、灰となって積もっているのかもしれない。
「……ねぇ、雫」
空をぼんやりと見上げたまま、りせが名前を呼んだ。
「どうしてわたしにキスしたの?」
電気ショックを受けたように、全身が飛び跳ねた。わたしは真っ青な空を見つめたまま硬直した。考えないようにしていたのに。話題に出されたら、昨日の出来事がまざまざと目の前によみがえってきた。静まり返った部屋。熱い吐息。やわらかな、唇。
りせの大きな瞳が、まっすぐにわたしを捉えた。
「ねぇ。どうして?」
わたしは、逃れられなかった。まるであの日見た星空のような、きらめく瞳。気を抜いたら、吸い込まれそうになる。
何か、言わなきゃ。そう思うのに、喉がきゅうっと狭まってなかなか言葉が出てこない。頬がかぁっと熱くなって、心臓が爆発しそう。追い詰めるようなりせの視線に耐えられなくなって、わたしはすぐに目を逸らした。
「……わ、分かんない」
やっとの思いで、それだけ、絞り出す。りせは探るようにわたしを見つめ続けていたけれど、やがて諦めたように、
「……雫はずるいね」
「え?」
小さすぎる声はよく聞き取れなかった。りせは「何でもなーい」とからかうように首を振った。何かを振り払うように大げさに伸びをして、脱力するように息を吐く。その様子は、無邪気な少女そのものだ。
「ふしぎだよね。昨日までどこにも行けなかったのに」
「そうだね……」
「逃げ出すのって、こんなに簡単だったんだね……」
本当に、ふしぎなことだ。昨日までわたしは、普通に制服を着て、普通に学校に行っていたのに。ちょっと行動を起こしただけで、非日常に飛び込んでしまったみたい。いけないことをしているのに、思ったより落ち着いている。
「このまま、ずっと……」
りせの言葉は、完成する前に空気に溶けていった。その続きなんて、聞かなくても分かったから、わたしは聞き返すことをやめた。
分かってる、このままじゃだめだって。このまま穏やかに、何も考えずにいられたらいいんだけど。きっとそうはいかない。でも、今は、今だけはまだ――
「しばらく、ここにいよう」
気がついたら、そんな言葉が口から出ていた。
「おばあちゃんひとり暮らしだし、わたしのことは別にいいから。学校にも休むって言ってあるし。りせは何も気にしなくていいから。……ね?」
言い聞かせるように、りせの手をつかんだ。りせはちょっと戸惑ったような、困ったような顔をしたけど、やがて小さくうなずいた。
「……ありがと」
お礼を言われたら、なぜか心がずきん、と痛んだ。力強く言ってみたものの、これからどうしたらいいのかなんて、ちっとも頭に浮かんでこなかった。先が見えない。何もない。どうしたらいいのか分からない。ぎこちなく笑ってみたけれど、真っ暗闇に吞まれたように、心は不安で満たされていた。
「おいしい!」
夕食の時間。おばあちゃんの作ったナスの煮びたしを口に含んで、りせが驚いたように声を上げた。
「そう? それならよかった。たくさん食べてね」
おばあちゃんがふふ、と嬉しそうに目を細める。ふたりのやりとりを見ていたら、なんだかわたしまで嬉しくなった。
三人で囲む食卓は、いつかの時と違って穏やかだった。誰かの手料理を食べるのはいつ以来だろう。久しぶりに食べるおばあちゃんの料理は、自分で作るよりも数倍おいしい。おばあちゃんは、突如やってきたきれいな女の子に興味津々のようだった。
「りせさんは、いつから雫ちゃんのお友だちなの?」
「四月からです。雫が越してきたアパートの、大家の娘なんです」
「あら、そうなの。よかったわね、しーちゃん。ひとり暮らしって聞いて心配してたんだけど、こんなかわいいお友だちができて」
「うん」
わたしはちょっと照れながらうなずいた。りせはいつだってわたしの自慢だ。隣にいることが誇らしい。
「わたしもひとり暮らしだから、久しぶりに賑やかで嬉しいわ。ゆっくりしていってね」
「ありがとうございます」
「ふたりがいると、食卓が賑やかになるわね。きっとおじいちゃんも喜んでるわ」
「そういえば雫のおじいちゃんって、写真家なんだよね」
ふと、りせが思い出したように尋ねてきた。
「写真ないの? 見たいなぁ」
「……あるよ。じゃあ、あとで見る?」
「いいの? 楽しみ!」
いとも簡単にうなずいてしまったことに、自分自身驚いていた。どうしてだろう。ついこの間まで、わたしはおじいちゃんの写真を見ることすら避けていたのに。ふと見ると、おばあちゃんがわたしをあたたかい目で見つめていた。ああ、きっと気づいていたんだ。おじいちゃんが死んでから、わたしが写真を遠ざけていたことに。この家を訪れなくなった理由に。
壁にかかっているカレンダーを見たら、どうして自分が平気になったのか、分かったような気がした。
時が、流れていたのだ。いつの間にか痛みは過去のものになっていて、傷口はかさぶたになっていたのだ。おじいちゃんがいなくなった三年前、わたしはえんえんと声を上げて泣いた。文字通り涙が枯れるまで、両手で顔を覆っていた。誰とも話したくなかった。何も楽しいと思えなかった。逃げるようにカメラから離れた。おじいちゃんを連想させるものすべてから遠ざかって、やわらかい繭の中に閉じ籠っていた。でも、気がついたらもう三年以上経っていて、こうして普通におじいちゃんの話ができるようになっている。忘れたわけじゃ決してない。別れの痛みは消えない。それでも、着実に、前に進んでいる。きっとこれが、生きるということなんだ。
ご飯を食べ終えたわたしは、りせを連れておじいちゃんの部屋に入った。古いアルバムを引っ張り出して、床に広げてみる。
「わぁ、きれい……」
写真を見たりせが、感嘆の息を漏らした。
「これ、全部雫のおじいちゃんが撮ったの?」
「そうだよ。すごいでしょ」
わたしは誇らしくなって胸を張った。まどろむような朝の空、優雅に飛ぶ鳥。絵の具を塗り潰したように一面に咲く芝桜。無邪気にじゃれる猫の親子。日常の何気ない光景から、息を呑むような絶景まで、全部ここにおさめられている。まるでその場所に自分がいるような、そんな感覚。
「風景の写真が多いね」
「あんまり人の写真は撮らなかったかなぁ」
ぱらぱらとアルバムをめくってみるけれど、人物がはっきりと写っているものは一枚もない。あるとしたら、すごく遠くにいるとか、後ろ姿のみ。特定の人にピントを合わせたものは何もないのだ。何千枚も写真があるのに、それは少し不自然な気がした。
撮った人がいなくなっても、こうして写真は残る。だからこそ、写真がすき。わたしがいなくなっても、わたしの撮った写真は永久的に残る。そして、人の記憶に残るような写真を、わたしは撮りたい。
「雫の撮った写真は?」
顔を上げると、りせが試すようにじっとわたしを見つめていた。
「雫の写真が見たいな」
「……いいよ。でも、ここにあるのはカメラを始めたばかりの頃の写真だから、下手くそだよ」
「それが見たいの」
数ヵ月前に拒否したその行為を、わたしはあっさり承諾した。なぜだろう、今なら、りせになら、見せられる気がする。
わたしはおじいちゃんの本棚に近づいた。まだ新しいピンク色のアルバムは、予想通りそこにあった。
ページをめくると、記憶の彼方にしまってあった、かつてわたしが撮った風景たちが、当時のままそこに存在していた。あまりにも拙くて、ピントが合っていないものも多々ある。
「下手くそだから恥ずかしい」
「そんなことないよ、素敵だよ。……これとか、すき」
りせが指で示したのは、海の写真だった。朝焼けに照らされ、宝石を散りばめたように広がる透明な海。一体いつ頃撮ったものだっけ。あいまいな記憶をたどってみる。
ああ、そうだ。確か小学生の夏休みに、おじいちゃんと朝日を見にいったんだ。まだ夜が明けていない暗い道を、カメラを片手にふたりで歩いた。夜明けの海岸は誰もいなくて、波の音だけが鳴り響いていたのを覚えている。
「海が、すきだったの」
忘れていたことを思い出した。子守歌のような波の音とか、きらきらと光る海面とか。さらさらとした砂の感触も、潮のにおいも。
「海に行くと、いやなこと全部忘れられる気がして。朝日を見たら、生まれ変わるような気分になるの」
「生まれ変わる……?」
りせが、興味深げに繰り返した。傷ついたビー玉みたいな両目に、ぽっと光が灯る。何か言いたげに、桃色の唇が動いた。聞き取ろうと耳をすませたけど、りせは何でもないというように目を伏せ、それから、もう一度わたしを見た。
「……ねぇ、カメラ、持ってきてる?」
「え? うん」
「出して」
少し、強い口調だった。わたしはちょっと動揺したけれど、すぐにうなずいた。りせと一緒に寝室へ移動し、カバンの中からカメラを取り出す。
「のぞいてみて」
向かい合って座った途端、りせが言った。
「今のわたし、どう映る? わたしのこと、もう知ってるでしょう。ファインダー越しのわたしはどう見える?」
あの夜と同じ台詞だった。
あの時、わたしはファインダーをのぞけなかった。りせのことを何も知らなかったから。でも、今は違う。わたしとりせは「友だち」だ。ちゃんと、名前のある関係だ。
わたしはちょっとためらいがちにカメラを構え、ファインダーをのぞいてみた。小さくて、だけど広い視界に、きれいな女の子が見える。
雪みたいに白い肌と、流れるような栗色の髪。潤んだ瞳はまるで夜の海みたい。強くて、きれいな、「特別」な女の子。最初は、そう思ってた。
だけど、違うの。本当は違ったの。もっと早く、気づいてあげればよかったの。
りせは、特別なんかじゃない。
「さみしそうに、見える」
絞り出すように答えたら、りせは大きく目を見開いて、納得したように「……そっか」とうなずいた。
「そうか。そうなのかもね」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
もうすっかり日は暮れて、あれだけ強かった太陽光は見る影もない。わたしたちの不安を表すように、部屋の空気はみるみるうちに重たくなっていく。緊張の糸をぴんと張りつめて、その先にある会話を待っている。
先に口を開いたのは、りせだった。
「ごめんね、こないだ。ひどいこと言ったね……」
「……わたしの方こそ、ごめん」
ああ、どうしてあなたが謝るの。悪いのは全部わたしなのに。あなたの気持ちを全然分かってあげられなかった。あなたは嘘がうまいから。あなたの悲しみに、気づいてあげられなかった。
「わたし、りせにあこがれてたの。わたしよりずっといろんなことを知ってて、かわいくて、りせみたいになれたらって思ってた。もっとりせのことが知りたくて、人を愛する気持ちを知りたくて、だから奏真と付き合ったの。自分のためだけに、奏真の好意を利用したの。奏真がまさか、あんなに真剣な気持ちでわたしのことをすきだなんて思わなかったの。でも、結局奏真を傷つけただけだった。何にもうまくできなかった。りせのことも傷つけた。わたし、全然だめなの。カメラも恋愛も友情も上手にできない。な、何にも。何にも、できない」
「……どうして、雫が泣くの」
りせが、ばかにしたようにせせら笑った。わたしはまた、その言葉で自分が泣いていることに気がついた。りせはそっとわたしに手を伸ばし、頬に伝う涙を、きれいな指ですくい上げた。
「泣かないでよ。泣きたいのはいつだってわたしの方なのに。何で雫が泣くの。……やめてよそういうの。同情してるの?」
「違う。だって、りせが泣かないから」
「雫が泣くから泣けないのよ。わたし、泣くのきらいなの。ぶすになるから」
「十分かわいいよ」
「知ってるよ、そのくらい」
わたしはそっとりせの手を取った。りせの手はぞっとするくらい冷たくて、そして微かに震えていた。
大きな瞳から、透明な涙が溢れてしまいそうだった。あと一言。たった一言。何かを言ったら、言われたら、ギリギリを保っていた涙腺が決壊して、りせの精一杯の強がりは、粉々に砕けてしまうだろう。
――ああ、なんて脆い!
きっと、これはとても些細なことなんだ。一つの恋が終わる。誰にでもある苦い経験。だけどそれは、若いわたしたちには世界が終わることのように思えるんだ。与えられた愛を世界のすべてだと思い込む。それはとても危険でおそろしいこと。世界中でただひとりにしか与えられないとっておきの愛を、突如取り上げられ、捨てられ、どうしたらいいのか分からなくなっている。猛獣が潜むジャングルに、ひとり取り残されたような。自分の居場所さえ分からず、行くべきところも見つからず、地図も持たずに立ち尽くしている。
縁側に座り、真っ暗になった空を睨んだ。重たい雲に隠されて、星一つすら瞬いていない。わたしたちの明日を暗示するかのように、空気はどんよりと重く、濁っている。
「恋って、つらいね」
膝を抱えながら、りせがぽつりとつぶやいた。
「どうしてこんなに心が痛むんだろう」
行き場がない。することもない。どうすべきかも分からない。十代のわたしたちは、どうしようもなく弱くて小さい。
「……生きてるからだよ」
抵抗するように、わたしは答えた。こんなことで、りせを壊してなるものか。こんな、誰にでもある、些細なことで。
愛は、弾丸だ。朝のまどろみのように優しく、夜の暗闇のようにおそろしく。
わたしの心を撃つのです。