「蘭先輩。先輩のうち、どこですか? タクシー拾いますから」
「あっち!」

 無邪気な笑顔を満面に浮かべて言われて、僕は戸惑ってしまった。

 蘭先輩ってこんな人だっただろうか?
 
「あっちじゃ分かりませんよ」
「あっち~!」

 自分でまともに歩けない蘭先輩に肩を貸して僕はため息をつく。
 スマホを見ると、8時37分と表示されていた。この時間でこんなに酔っている人は回りには見当たらない。

「しゅう君~。私、院に行きたいんだ~」

 唐突に蘭先輩に言われて意味がわからなかった。

「いん?」
「うん。大学院」

 蘭先輩は、僕の肩にかけていない方の手でバッグを高々と掲げてそう言った。

「ああ、大学院ですか。そうなんですね。行けばいいじゃないですか」
「でもね~、うちの両親は反対なの~」

 何がおかしいのかケラケラ笑いながら蘭先輩は続ける。僕はどう相手していいか戸惑いながらも、

「なぜです?」

 と先を促した。

「うちの実家田舎でさあ~。女は早く結婚しろ、みたいなのがあるのね~」
「え?」

 なんだか驚いた自分に驚いた。女性の生き方の一つの選択として結婚があるのは分っているのに。蘭先輩はまだ当分しないような、出来ないような、そんな勝手な印象を抱いていた。まだ研究室に一緒にいられることを疑いもしなかった。
 それに今時、女だから早く結婚しろなんて、時代錯誤も甚だしい。

「……それは、大変ですね。もしかして、相手がいるんですか? 幼馴染とか?」

 僕の言葉に蘭先輩は驚いた顔をして、また笑い出した。

「いるように見える~? あははは! いないいない~! どうせお見合いでもさせられるんだよ~」

 蘭先輩は笑ってはいるけれど少し悲しそうに見えて、なんだか僕は複雑な気分になった。

「しゅう君~、お酒って美味しいよね~! ねえ、私まだ飲み足りない~、あはは~!」

 両親に何か言われたのだろうか。それで蘭先輩は悪酔するまで飲んでしまったのかな。

「そんなふらふらな状態で、飲み足りない、じゃないです。だめですよ、もう」
「ええ~、しゅう君のいじわる~」

 子供のように駄々をこねる蘭先輩。

「家に帰りましょう。ほら、住所ぐらい言えるでしょ?」
「うん! ○○県○○市~」

 蘭先輩が言い出した住所は大学のある県ではない所だった。きっと実家の住所だろう。

「違いますよ。今住んでいる住所です」
「今? うんとね……」

 蘭先輩は突然そこで言葉を切ると、前屈みになった。

「き、気持ち悪い……」
「えええええ!?」

 お約束のように急に具合の悪くなった蘭先輩に僕はあたふたした。

「は、吐きますか?」
「う、う……」
「ちょ、ちょっと待ってください! ここではまずいです。トイレ、トイレ……」

 そういえばすぐ近くに公園があったはずだ。

「公園の公衆トイレに行きましょう。待ってくださいよ?」

 僕は蘭先輩を抱えるようにしてトイレに連れて行った。

 トイレで背中をさすり、そして、吐くだけ吐かせて、口をすすがせ……。やっと蘭先輩を公園のベンチに横たわらせて、僕は脱力した。

 はあ……。とんでもない日だ。

「蘭先輩、大丈夫ですか?」
「う……」

 蘭先輩はぐったりとして、そしてなんだか眠そうだった。

「駄目です。ここで寝たら風邪ひいちゃいます」 

 9月も下旬になって、夜は急に冷え込むようになった。僕は蘭先輩の肩を揺さぶりながら声をかける。
 それでも蘭先輩はうとうとして、返事もしなくなった。

 僕は満天の星空を見上げて、大きなため息をついた。

 このままじゃいけないよな。

 僕はたくさんの星が見守る中、蘭先輩を負ぶって歩き出した。
 蘭先輩本当に結婚するのかな。

 それはなんだか嫌だなと思った。