満月は二日後。また明日来ると言った加地くんの言葉に、なぜか期待している自分がいる。
教室で見る彼は、やっぱりたくさんの友達に囲まれていて、楽しそうに笑っていた。
あんなに寂しそうな顔をしていたのはなんだったんだろうと、疑うほどに。
つい、目で追ってしまっていると、一瞬だけ目が合う。慌ててそらそうとして、持っていたプリントをばら撒いてしまった。
焦ってかき集めていると、頭上に影ができた。散らばったプリントを揃えて差し出してくれる加地くんの姿に驚く。
「はい」
「あ、ありがとう……」
すぐに元の場所に戻っていく加地くんから、視線を外した。
やっぱり、昨日の笑顔とはなにかが違う気がする。今ここにいる加地くんは、演じて作り出された加地くんなのかもしれない。本当の加地くんは、どんな風に笑うんだろう。なんだかすごく、気になった。
いつもよりも早く生徒会室へと向かったあたしは、今日やることを早急に終わらせて、加地くんが来るのを待った。
時計の針が一周する。
もう、今日は来ないのかもしれない。
そう思って、帰る支度をして生徒会室を出た。
ちょうど昇降口あたりまできた時に、聞こえてきた声。
「月斗って、見た目に反してなんか重いんだよね。束縛激しいし。別れたいんだけどなんか怖くってさぁ」
「マジ悩みじゃん」
「顔いいし見た目は彼氏として完璧なんだけどね、ちょっと、疲れる」
「まじか……別れるの?」
「最近それっぽいことは言ってるから、察してほしいんだけどねー、無理かなぁ」
「なんか贅沢な悩みだなー」
「こっちは結構本気なんですがっ、さっきも笑いながらだけど核心付いてきたんだけど、伝わってることを願うしかない」
「あはは」
遠目に見えたのは、加地くんの彼女の福永さんだった。
手入れの施された艶やかなストレートの髪の毛、短めのスカートから伸びた細い足。誰もが可愛いと噂する彼女が、加地くんと付き合っていることはみんなが知っている。
教室でも、あたしには二人には特別なオーラが纏って見えていた。
お互いに本当に大好きなんだろうなと、話しかける言葉や仕草が、こちらが照れてしまうくらいに近い気がしていた。
ふと、昨日の加地くんの表情を思い出した。
もしかして、加地くんは福永さんの気持ちに気がついているのかもしれない。だから、あんな悲しそうな顔をしていたのかな。
福永さんたちが出て行った後、立ち止まっていた足を動かして、あたしも靴を履き替える。
「あれ? 今日はもう帰るの?」
靴に踵を入れ込み、下を向いていた頭上に落ちてきた声。顔を上げると、残念そうに眉を顰めた加地くんの姿があった。
「ごめん、ちょっと色々あって遅くなっちゃった」
謝る加地くんの顔。つい、じっと見つめてしまった。
「あ、あんま見ないでくれる?」
大きな手で慌てて目元を隠す加地くん。
違和感を感じたのは、やはり目だった。二重瞼のぱっちりとした瞳はいつもは切れ長でキリッとしている印象を持つ。だけど、今日の加地くんは、なんだかひどく目尻が重たそうに見えた。もしかして。
「プラネタリウム、もう見れない?」
また、昨日と同じ悲しい表情をする加地くんに、戸惑ってしまう。
「少し、だけなら」
一度履いた靴を脱いでから、小さく呟いたら、目の前の加地くんが幼い子供みたいにとても嬉しそうに「ありがとう」と笑った。
もう一度生徒会室に戻って、資料室を開ける。今日は加地くんが来るのをひたすらに待ち続けたから、あたしはプラネタリウムを見ていない。
「あれ、今日は見なかったの?」
まとめていた電源コードを解いて準備をするあたしに、加地くんが驚いたように聞いた。
「加地くんが来たらと思っていたから。今日は、見なかったの」
加地くんのせいにして、少しだけ、意地悪に聞こえてしまったかもしれない。
コンセントを差し込み、頼りにしていた明かりが漏れている入り口ドアを閉めた。
一瞬にして部屋の中が真っ暗になる。目が慣れていないから、電源スイッチを手探りで探した。
いつもは大体の場所を把握してからドアを閉めるのに、加地くんがいることでそれを忘れてしまった。スイッチの在処に手間どっていると、右腕にそっと触れる感触。
「ドア閉める前に電源入れたら良かったのに」
耳元で加地くんの声が聞こえて、一気に心拍数が上昇する。
止まってしまったあたしの腕を辿るように、加地くんの手が下がってきて、プラネタリウムの機械を見つける。
「ここかな?」
手探りでスイッチを探す加地くんの距離が、見えていないのに近い気配で心臓が持ちそうにない。
一度で発見したスイッチを押すと、部屋の中に星空が映し出された。
無数の人工的な星屑は、あたしと加地くんの顔も僅かに照らす。
この瞬間が好きだから、いつも真っ暗にしてから電源を入れているんだ。
「あー、そっか。真っ暗からこれが見えると、なんかエモいね」
ふふ、と納得するように腕を組んで、すぐ側で加地くんが微笑む。暗がりが熱を放出させているあたしの顔を、うまく誤魔化してくれていることを願うしかない。
「俺ね、フラれたんだ」
「……え」
しばらく無言のまま二人で天井を見上げていると、突然加地くんが感情の乗らない声で言った。
「なんかね、気持ちが重いらしい。好きだからそばにいたいし、触れたいし、何してるのかとか、どこにいるのかとか、俺のことちゃんと好きでいてくれてるのか、全部気になっちゃって。無意識に聞き過ぎていたみたい。そしたら、なんか、そういうの聞いてくるの重いって言われた」
止まらずに喋り続ける加地くん。触れそうな程近くにある腕が、震えているような気がして、視線を天井から加地くんへと下ろした。
ようやく暗闇にも目が慣れてきて、頬を伝う加地くんの涙が、星を投影する光に反射して煌めいて見えた。
やっぱり、さっき感じた目元の違和感は、泣いたような跡だったんだ。
見つめていたあたしに気がついた加地くんが、慌てて涙を拭っている。
そっと、加地くんの背中に手を当てた。
泣いていいんだよ。と、言葉にはしなかったけれど、優しくさすってあげると、堰を切ったように加地くんは泣き出した。
「ここには、あたしと加地くんしかいないから」
だから、思う存分に泣いていいんだよ。そう思いながら言うと、わんわんと子供が泣くように声を上げて加地くんは泣いた。小さくしゃがみこんだ加地くんを見つめる。
こんなに想われている福永さんが、羨ましいと思った。だけど、あの会話を聞いてしまったら、福永さんにとっては、加地くんの気持ちは嬉しいものではなかったのかもしれない。
あたしには、まだ恋がなんなのかよくわからない。だから、こんなふうに真っ直ぐに純粋に人を好きになれる加地くんのことが、すごいなって思った。
◇
落ち着いた加地くんと資料室から出ると、すでに外は真っ暗だった。
廊下の電気で室内が照らされている。
「イケメンが台無しだから暗くてよかったね」
少しでも笑いをと思って言ったあたしの言葉に、加地くんはきょとんとした顔をしている。
「汐谷さんそんなこと言うんだね」
「え? だから、あたしだって年中真面目なわけじゃないんだよ」
これ以上落ち込まないようにと、言ったつもりなのに。思ったよりもあっけらかんとしている加地くんに呆れてしまう。
「ごめん。優しいね、汐谷さんって。ありがとう」
「いいえ、もう暗いし遅いから気を付けて帰ってください」
荷物を手にして帰ろうとして言うと、なぜか加地くんが笑った。
「なに?」
「……いや、なんか女の子に気をつけて帰ってなんて、言われたことないからびっくりしちゃって」
「……あー、そうなんだ」
「汐谷さんこそ、こんな暗くなるまで付き合わせちゃったし、送っていくよ」
「え!? いや、大丈夫!」
「遠慮しないでよ。俺教室に荷物取りに行ってくるね」
「え、あ、ちょ、大丈夫だから!」
泣き顔はどこへやら、颯爽と行ってしまった加地くんにはやっぱり呆れてしまう。
男の子と、しかも人気者の加地くんと一緒に帰るなんて、あたしに出来るはずが無い。何を話せばいいのかもわからないし、もしかしたら福永さんに対する愛を延々と語られる可能性だってある。
それはちょっと無理。恋愛経験値のないあたしには頷くことも無理がある。
だから、ごめんなさい。
心の中で謝って、あたしは急いで家へと帰った。
そう言えば、今日は満月だ。
あの公園のブランコから見える満月がとても綺麗だった。また、行ってみようかな。
思い立ったら即行動。あたしの唯一の長所かもしれない。
夜に外出をするってだけで、なんだか引け目を感じてしまうのはあるけれど、別に公園に行くだけで、何か悪いことをしようだなんて思っていない。
だから、たどり着くまでは色々と考えてしまうんだけど、きっとこの前みたいに空を見上げて綺麗な満月が見れたら、あたしはまた頑張ろうって思えるはず。
誰もいない公園。ブランコにそっと手を伸ばした。キィッと、小さな音さえも大きく響くから、より慎重に座って、真っ直ぐに空を見上げた。
ちょうど真ん中に、満月が光り輝いている。
眩しいくらいに月面に反射させた光に目を細めた。
「あ、やっぱり汐谷さんだ」
突然、名前を呼ばれた方へと視線を下ろした。手を振りながら、公園の入り口から駆け寄ってくるのは、加地くん。
「加地くん……? なんで?」
この公園はうちからも、うちの学校からも距離がある。知り合いに会うことはまずないだろうって、ずっと思っていた。
それなのに、どうして加地くんが?
「となり、座って良い?」
空いているもう一つのブランコを指さして聞かれるから、あたしは無言のまま頷いた。
「汐谷さんさ、先月もここ、来てなかった?」
「……え」
どうして。
「俺さ、もう先月の時点で気が付いてたんだ、フラれること。どうしようもなくなって家にも帰りたくなくて、フラフラしてたら、公園の中に空を見上げている汐谷さんを見つけた。俯いてばっかだったから、あの日が満月だって気づきもしなかった。だけど、真面目で優等生な汐谷さんが満月を見上げながら不安気な表情しててさ、汐谷さんでもあんな顔するんだって思った」
まだ目尻が赤くなっているような気がするのは、薄暗い月明かりだけが頼りの視界だから。
加地くんの微笑んだ表情はとても柔らかくて優しくて、まるで月の光に包まれているような、そんな美しさがあった。
「今度は、汐谷さんの悩みも聞かせてよ。ね」
無性に、泣きたくなった。
加地くんはもう、前に進もうとしている気がする。あたしも、真面目にばかり生きていたら、もしかしたらつまらないのかもしれない。
「じゃあ、明日からはありのままの自分をさらけ出していこうか、加地くんも、あたしも」
ふふ、と笑うと、驚いた顔をした後に加地くんも笑ってくれた。
きっと、明日の十六夜の月はもっともっと、輝いて見えて、特別な日になるような気がする。
次の日に現れた加地くんは髪の毛を暗くして、ピアスも外れていた。着崩していた制服もきちんとネクタイが締められていて、だけど、やっぱりカッコよさはだだ漏れしている。
むしろ、より格好良く見えてしまう気がするのは、あたしだけだろうか?
昨日の満月のように光り輝いて見えるオーラが眩しい。目を逸らしていつも通りに席についたあたしのところへ、加地くんがやってくる。
「汐谷さん、今日も行っても良い? プラネタリウム」
そっと囁かれて、全身が熱くなる。
何度も頷くあたしを見て、嬉しそうに微笑む加地くんは、自分の席に戻っていつものメンバーに囲まれている。
みんなが困惑するなか、加地くんはスッキリしたような表情をしているから、あたしは安心した。
きっと、福永さんのことは気持ちの整理が出来たんだろう。もう二度と、加地くんには悲しんでほしくないな。
心の中で感じて、また二人でプラネタリウムを見れることを嬉しく思った。
放課後がくるのが待ち遠しい。
今日は少しだけ、真面目を崩して来た。
いつもぴっちり後ろに低めに結んでいる髪の毛の黒いゴムは、薄いイエローのゴムに変えた。
リップも派手ではないほんのりと色づくリップクリームを塗ってみた。
きっと誰も気がつかない。
だけど、あたしにとってはとてつもない大冒険。誰にも気がつかれないままドキドキして過ごすこの時間が新鮮で、放課後が来ると一気に緊張感から解き放たれて、なんだか疲れてしまった。
加地くんが偽りの自分を演じて疲れた気持ちが、わかった気がする。
資料室で寝ていた彼を思い出して口元が緩んでしまった。
「今日機嫌いいよね、汐谷さん」
後ろから聞こえて来た声に驚いて振り返ると、加地くんが笑っていた。
「自分を変えるって、疲れるけど少し楽しいね」
思い切って、あたしは加地くんに言った。
「うん。今日の汐谷さん、かわいいと思ったよ」
「……え?!」
「あ、あー、まただ。ごめん、俺思ったことすぐ言っちゃうから。気にしないで」
慌てて資料室の奥に進んでいこうとする加地くんの制服の裾を、思わず、引き留めるように掴んでしまった。
「……ありがとう」
変じゃないかなって、ずっと気になってた。誰も何も言ってくれないし、いいのか悪いのかも分からなかったから、加地くんの言葉が、あたしには嬉しい。
「うん、かわいいよ、今日の汐谷さん。明日も明後日も、変わっていくとこ、見てみたい」
振り返って、微笑む加地くんは少し照れた顔をしている気がして、あたしは一気に熱の上がる頬を抑えた。
「が、頑張りますっ」
「うん、俺も頑張る」
今日も人工的な星屑を眺める。加地くんとの距離が近く感じて、ドキドキする。
来月の満月も、その次の満月も、あの公園でまた一緒に見れたらいいな。
そんなことを考えてしまっていることは、次の満月までは内緒にしておこう。
ーfinー