異都の人々が待ち望んだ、収穫の季節がやって来た。
光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰る。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
その頃、名那は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、時々は言葉らしいものを口にした。
「名那?」
黒耀が糸を紡いで織物をしていると、眠っていた名那が身を起こして彼を見上げた。
名那は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに黒耀はうなずいて、織物には短すぎる糸束を名那の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ名那は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、名那が元気に過ごしているなら喜ばしい。黒耀は名那の頭をなでて、名那の思うままにしていた。
「……その形」
黒耀は名那の作った拙い結び目を見て思案すると、名那を抱いて立ち上がった。
名那を洞から連れ出すのは久しぶりだった。名那の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。黒耀は煙を吸わないように名那の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
名那を隠すように羽織で包みながら、黒耀は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、黒耀とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
黒耀は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
黒耀は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたのだな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、名那には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたが」
黒耀は石になった蝶々を見上げて、独り言のように名那に言う。
「……お前は清浄なんだ。とても綺麗な生き物なんだよ」
結局、名那は壁を一度も見ることはなく、黒耀の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。
光に当たらずに育った作物は色が乏しく、奇怪な形の実をつけるものではあったが、食料には違いない。坑道の中はにわかに人通りが多くなり、さざなみのような声がこだまする。
人々は自らの洞を出て、空いた洞に入っては中毒性のある草の煙を吸う。煙は普段は大人しい人々の目を濁し、偶然出会った他人の夫や妻を空洞にひきずりこむ。
他人の夫や妻と交わるのは、異都では罪となるものではなかった。それは人々にとって、さほど良いものとは思わないが体の生理現象として自然なものとされた。
罰する者などいなくとも、体から異物が出尽くせば自らの洞に帰る。たとえ他人との間で子が出来ていても、確かめる者などいない。子は常に夫婦の子で、異都では夫婦は絶対だった。
その頃、名那は起き上がって自力で食事を取ることができるくらいには回復していた。食事中でも眠ってしまうほど体力はなかったが、時々は言葉らしいものを口にした。
「名那?」
黒耀が糸を紡いで織物をしていると、眠っていた名那が身を起こして彼を見上げた。
名那は呼吸の音のような声で何かつぶやく。ほとんど言葉とは聞こえないそれに黒耀はうなずいて、織物には短すぎる糸束を名那の手に握らせた。
「最近はそれがお気に入りだな」
ここのところ名那は短い糸を丸めては引いて、結び目を作っていた。編み物というには拙く、子どもの戯れのようだった。
けれどたとえそれが仕事には至らなくとも、名那が元気に過ごしているなら喜ばしい。黒耀は名那の頭をなでて、名那の思うままにしていた。
「……その形」
黒耀は名那の作った拙い結び目を見て思案すると、名那を抱いて立ち上がった。
名那を洞から連れ出すのは久しぶりだった。名那の弱った体では自力で歩けなかったし、今の時期、余所の洞では有害な煙が立ち込めている。黒耀は煙を吸わないように名那の口元に布を当てて、なるべく空洞を通らない道筋を頭の中で思い描いた。
「目を閉じておいで」
名那を隠すように羽織で包みながら、黒耀は坑道を滑るように歩いた。何人かとすれ違ったが、黒耀とその妻とわかるとさっと目を逸らした。異都では夫婦が連れ添っているときは声もかけないのが決まりだった。
黒耀は半刻ほど無言で歩いて、やがて一つの空洞に入った。
「ここを覚えているか?」
そこは人が住んでいる気配もなく確かに空洞なのだが、蜜のような甘い匂いが漂っていた。その正体は洞の壁から張り出した枝で、白く濁った樹液がそこからこぼれていた。
「お前が赤子のときに住んでいた洞だ」
異都の赤子は母の乳では育たない。もっと粘性の強く、甘みのある食事を欲しがる。そのような赤子たちのために、異都の夫婦は子どもが幼い内は白い樹液の取れる洞に住んでいた。
「お前は結局一滴も樹液を飲んでくれなかった。他の子どもよりずっと痩せていて、病ばかり拾って……なぜなのか、あの頃はわからなかったが」
黒耀は洞の壁に近づいて、そこで化石になっているものに触れる。
美しく羽を広げたまま石となった無数の蝶。きっと幹にとまったときは、それが異都中に根を張る食虫植物だとは知らなかっただろう。
「怯えていたのだな。自分も食べられてしまうと」
実際は、この食虫植物は人間に危害を加えることはない。赤子にとっては何よりの恵みだが、名那には別のものに見えていたに違いなかった。
「お前は臆病で、病弱なのだと人に言われてきたが」
黒耀は石になった蝶々を見上げて、独り言のように名那に言う。
「……お前は清浄なんだ。とても綺麗な生き物なんだよ」
結局、名那は壁を一度も見ることはなく、黒耀の胸に顔を押し当てたまま動かなかった。