「はよ出てけ」
「ここどこなの?!」
「いいから出てけや」
アスミの体を乗り上げて武臣が助手席側の扉を開けて素早くアスミのシートベルトを外して彼女を追いやる。
「痛い!」
アスミは必死に抵抗する。
見知らぬ町の道路。照明も少ない。車通りもないところで下され、公共交通機関もない、所持金もそこまでない彼女はシートを掴むが、無駄な抵抗だった。
武臣がアスミを更に蹴ると彼女は扉に一回頭を打ち、さらに落ちた道路のアスファルトにも体を打ちつけられた。
「い、いだぁ」
言葉にならない。
そしてアスミが車から落ちてすぐ扉は閉められエンジンのけたたましい音が鳴って去っていく。
アスミは予感はしていた。これは今日のデート前の頃。
夕方、武臣とデートをするために待っていた。
社会人である武臣は大学生になったばかりのアスミと付き合って一年目だったが1年経つ頃にはもう出会った頃の優しさはなかった。
予感というのはもう今日で別れる、という話が出るだろうということだ。
アスミはすごく好きだ。武臣のことが。いくら本性が出てもそれが嫌でも何故か別れようとは思わなかった。
彼女の二人目の彼氏になるが一人目の同級生よりも武臣は社会人ともあってしっかりして将来のこともしっかり考えてくれていた。
しかしそれは武臣自身のことであってアスミとの未来の話ではないことをだんだんわかっていく。
アスミはひんやりとしたアスファルトに横たわる。やはり車通りも人通りもない。もしここが抜け道とかで全速力で車が来たらもう終わりである。体は動かない。
その時だった。
キキキーっと車の音。このまま轢かれてしまうか。
いや、自分を助けてくれる人がいる。アスミはそちらの方を願った。しかし音が鳴っても来ない可能性もある。だんだん音が近づく。
なんとアスミの思い通り来てくれた。
キイイイイイイ!
とブレーキの音。アスミはもうだめだ、と目を瞑った。
車はアスミを避けるように横に曲がって止まった。と同時にアスミの体は動いた。動かせたのだ。
バタン
扉を開く音。
「大丈夫か?!」
男の人の声である。
「大丈夫かね」
方言で同じ地域の人だ、とわかるほどアスミは意識がはっきりしている。
「あなたこそ」
声が出た、とアスミはびっくりする。
「うわ、顔に怪我しとるやないか。病院行こか」
と声の持ち主は若い男性というのはわかった。
「もしもし、救急お願いしたいんですけど、ええ。あ……1時間かかる? ええ、はい。〇〇病院、ええ。わかります」
彼は電話を切った。
「病院行くから僕の車に乗って」
その男に抱えられアスミは車の中に。
あのまま誰にも見つけられず轢かれるか野垂れ死ぬか何もないまま虚しい朝を迎えるかどれかだった。
車内の明かりがつく。横の運転席に座る男がはっきり見えた。
武臣どころか前に付き合っていた男性よりもかっこいい。
「頭打ってるかもね。どうしてあそこにいたん」
シートベルトをかけてくれた。たったそれだけでも優しさがアスミの心に染みる。
「荷物無いね。強盗にでもあったんか」
男は慎重に運転しているようだ。こんな細やかな気遣いは武臣にはなかった、と自分を蹴って捨てた男と比較してしまうアスミ。
「あの、お名前聞いていいですか」
「聞く必要なんてあるん?」
「聞いておきたいです」
「そか」
男は鼻で笑った。
「まず君は」
「音羽アスミ」
「アスミ……ちゃんでええかな? 年下っぽいし」
「はい」
「高校生やったらここまで連れてきた大人は逮捕されるやろ、だから大学生やろ」
アスミは童顔な故に高校生に間違わられる。何度か大学の午後からの授業で駅の校内にいたら補導されたことがあった。
だからその後髪の毛を染め化粧もした。そしたら武臣と出会った。
それでも高校生がメイクしてるだけと武臣に笑われたことも思い出した。
「やっぱり高校生に見えますか」
「迷ったけどね。もしも高校生やったら僕も途中警察の検問に引っ掛かったら捕まってしまうやろ」
そんな理由か、とアスミはふふっと小さく笑った。
「笑った、ようやく」
「で、あなたは」
「26歳、フリーター、兼山大佑。ダイでええよ」
「ダイさん」
「ダイでええって」
「ダイ、なんであそこに来たの」
「あ、ここからわかる」
とダイはアスミの返答をせず右にハンドルを切るとアスミも見覚えのある景色だ、と。
アスミはダイの横顔を見る。
「君みたいな若い子をあんなところでこんな怪我させて」
ダイも知ってる場所だからかホッとして少し声の抑揚も上がってきた。
アスミはダイの問いかけに答えるか悩んだ。言ったところでどうなるのか、見ず知らずの人に。
「病院でなんて答えるん」
「……」
「答えたく無いんか」
「彼氏」
「……」
答えた瞬間ガタガタ道が続き車は減速した。
「ごめん、ここ舗装されて無かったわ。大丈夫か」
「そんなに心配しなくていいよ」
「心配する」
一旦車は止まった。少し奥にはアスミも知ってる店の看板が光っていた。コンビニの灯りも見える。
「喧嘩か」
「というのかな」
「あと少しや、病院でも聞かれるで。気持ち整理しておいたほうがええ。あと少し抜ければ川沿いの橋の上やしまっすぐだから、景色でも見て」
アスミは思った。なんでこの人はこんなに優しいのだろう、と。
また車はゆっくり加速した。
『お腹の赤ちゃんのお父さんは誰かしら』
数日前、病院に行った時に女性の医師にそう言われた。エコー写真と共に。
武臣、彼しかいない。
10何週目だなんて言われてもわかんない、アスミは写真を車の中で武臣に見せたら蹴られて出された。
「彼氏……か」
「はい」
「暴力振られてたのか」
「いいえ」
「こんなことするなんて立派な暴力だ。気付かぬうちに受けてたはずだ。酷すぎる」
ダイの口調が強くなった。
橋を通る。川の上を走る。車通りも深夜だが増えてきた。
「他に隠してることあるやろ」
「……」
「こんな真夜中に初めて会った男には話せないか」
「……」
夜の川、暗く、もしこの上で事故して落ちたら……川の流れが強かったら……。
「もうこれっきり会うことはない、そう思えば話せるんじゃ無いか?」
「……」
そうなんだろうか、アスミはどうしても話せない。
「もう一度言う。話をしてくれないか」
「……」
「もし病院に行って元の生活に戻ったら君はまた同じことが繰り返される。今度は怪我だけでは済まない。辛いことが待っている」
ふと武臣を思い出した。さっきまでのこと。
『もう一度言う、お前とは結婚するつもりはない、子供をおろせ』
アスミはブワッと涙が込み上げてきた。だんだん呼吸も荒くなり声を上げて泣き出した。
「ごめん、アスミ」
自分は呼び捨てされた、と思いながらも涙は止められなかった。
橋を渡り終わり、車は近くのコンビニに。
「大丈夫。もう僕らはもう会わない、もう二度と会わないから……全てを話してくれ」
「うううっ」
「約束する、誰にも言わない。病院に着いても僕の口からは言わない、誓うよ」
アスミは体を震わせて声にならない声と共に泣き喚くとダイがアスミを抱きしめた。
「大丈夫だから……」
「うあああああっ」
温かいダイの身体。武臣のタバコ臭い服の匂いとは違った石鹸のいい匂い、アスミは顔をうずめた。
子供がお腹の中にできれば武臣も気持ちを変えてくれる、そんなことを思ってたがそんな容易いことで気持ちが変わるものではなかった。
「さぁ、行こう……君の体が心配だ」
と身体を離そうとするダイ。
「もっとこうしていたい」
アスミがそういうと
「わかった」
とダイも抱きしめてくれた。
いつから自分と武臣の間にほつれ目ができたのだろう。
会った時にこんなふうになるとは思わなかった、とダイの温もりの中で思い返すアスミ。
「もう行こう」
ダイは体を離した。アスミは名残惜しい。
「ねぇ、どこか空気のいいところに……連れてって」
「病院行こう」
「ううん、お願い……あなたと二人でいたい」
ダイは困った顔して苦笑いした。
「少しだけだよ、もう困らせないでくれよ」
アスミも笑った。自分自身、何してるのかわからないがまだダイとはいたい、それが本能的にあるようだ。
ダイは車を移動させてさっきの道を戻りアスミは分からない場所に。暗いからよりわからない。
「君も物好きだ。僕に惚れたのかい?」
「そんなことないっ」
「たった一度きりの関係、変な意味ではないよ」
辿り着いたのは川の目の前であった。夜だが川の流れはある。
「確かに空気のいいところね」
「外、出てみるか?」
先にダイが車を出て助手席に回りドアを開けてエスコートした。
本当にいい空気だ。さっき乗り捨てられた時と同じ夜なのに空気が違う……とアスミは感じた。
川はすぐそこだった。照明は無いわけではないが暗く、月明かりがあるだけだ。
「君をあそこに捨てた彼氏さんはどんな人なの」
「えっ」
「ほんとひどいよな、君みたいなこと付き合ったのにひどいことしてさ」
「ダイくらいの年齢の人」
「まじか」
「普段は優しいよ」
「……普段は、か」
「うん」
ダイは川の方を見てた。
「嫉妬するなぁ。こんな可愛い子と付き合ったのによ」
「嫉妬って」
「だよな。見たことないけど、てカバンないからスマートフォン無いよな」
「うん」
するとダイは川を指差した。
「知ってる? この川の噂話」
何度か見たことはあった川。10年前に一度大雨で崩壊したのは知っていたが事故も聞いたこともないし、噂話も知らない、とアスミは首を横に振った。
「ここに幽霊が出るって噂」
「怖い、そんなところ連れてきたの」
ダイは首を傾けニヤッと笑う。その笑顔がアスミは怖さを感じる。
「ごめん、怖がらせちゃったね」
「怖いよ」
「君が涼しいところ連れてけっていうからさ。普通怖くないの? 見知らぬ男に車乗せてもらってさ」
「……武臣……彼氏もさ、そんな感じだった」
とふとアスミは思い出した。
川の流れは二人の間のよくわからない感情のように荒くもなく静かでもなく流れる。
「とある食事会で声かけられて、コンビニ行こうかって言われて」
「……ほぉ」
「その帰り道にセックスした」
「……」
「したというか、うん」
「襲われた」
「うん」
今となれば彼氏と彼女の関係だがあの時は怖かったとアスミは思う。初めてではなかったがただ送ってもらうはずが家とは逆方向の見知らぬ街を走り、どこか知らぬ場所に車を停められ武臣に体を覆いかぶさられた。
「今、同じシチュエーションになるよね。君はガードが甘いよ」
ダイがそう言う。
「話戻すけどさ」
「あまり深く聞かないんだ」
「聞きたくないよ、そんな話。許せない」
ダイはアスミをじっと見た。
「じゃあダイの話、聞かせて」
ダイを見るアスミ。
「話半分で聞いて欲しい」
「わかった」
「この川にね、夜、女の子の幽霊が出るって噂でね」
「幽霊?」
「ほら、だから言ったろ」
だがアスミはダイの目をしっかりと見た。
「もうこれは僕が高校生の頃の話だ、この幽霊の話が出たのも」
「そんな前から」
「ああ。これはとある夜。僕の元に幼馴染の女子から連絡が来たんだ。ここに来てくれと」
ダイはじっと川を見ている。幽霊の話とダイの話はどう繋がるのだろう、アスミは彼の横顔を見た。
「幼馴染の咲希、高校も同じだった。クラスは違うんだが……幼馴染といってもずっと同じ幼稚園から高校まで同じで。中学の時にようやく話をするようになった。僕の遺失物を拾ったということがきっかけでね」
「そうなんだ。友達、という感じ?」
「そうだね、クラスも多かったからね。人数も多いから……」
まだダイは話を続ける。
「いつかは会いたい、そう思ってわざと落とし物をしたってのもあったけどね」
「え、ダイってそんなことするの」
「……好きな人だから、そうするしかないかなって」
「大胆」
「へへ……てかこうして君を連れてこうやって話すこともかな……。それからすぐ仲良くなった。だったらもっと早く出会いたかったなぁってね、僕らの共通点は小説を書くことでね」
「書く……読むじゃなくって?」
「珍しいだろ、まさか彼女もそうだったなんて。驚いたよ」
アスミは読むどころか書くこともしない故に何かダイとは住む世界は違うのかとふと思った。
「一眼見た時から素敵な人だと思ってたのに彼女の小説読んだら彼女の小説のディテール……細やかさは本当に素敵で、さらに僕は彼女にのめり込んでいった」
「そんなに素敵な人なんだ。咲希さん」
「あぁ」
目を細めて遠くの方を見るダイ。アスミはその目線の先には何があるのか。そしてこの川の噂話は何なのか、どう結びつくのか、自分も何か一つの物語の一部に踏み入れているそんな感覚だった。
「図書館で互いのおすすめの本を交換したり遠くの図書館に行ったり、本屋巡りもした」
「デートじゃん」
「そうだよ、僕は少なくともそう思ってた」
「僕は……」
アスミはそこに引っかかった。
「そう、僕はね」
ダイの目は瞬きもせず真っ直ぐ見ている。するとふとアスミは気づいた。自分の手はダイの手を握っていた。無意識だった。
「彼女に呼ばれたんだ。ここに来て欲しいって」
アスミはここ、と聞いた瞬間に何かひんやりとしたものを感じた。
「こんな暗い時に?」
「そうだね、こうやっていきなり電気が灯されることもなかったとき」
電気は消えた。
「駆けつけたさ、こんな夜にメールで「お願いだからはやく」って」
「そりゃ心配よね」
アスミはますますハラハラしてきた。
夜中に意中の相手から助けを求められ、襲われた、そのキーワードだけでも不穏でしかない。
「駆けつけるとあそこに車を置いたように車が置かれていた。黒い車」
「彼女は?」
「ここに立っていた」
ゾワッとするアサミ。
「どうしたんだって答えたんだが彼女は涙を流してここに立っていた。だが車を指差したんだ」
「その車は誰のものなの」
「その指差す車の窓から覗いたんだ」
「……」
「その中に1人の男が横たわっていた」
アスミは声が出なかった。
「僕は何が起こったかわからなかった。彼女は泣きじゃくって話せる状態じゃなかった。だから僕は彼女を抱きしめた。初めて女性を抱きしめた」
「ねぇ車の中の人」
アスミはダイの話にどんどん引き込まれていく。これは本当の出来事なのかわからないのに。
「その車の中にいたのは担任の畠中だった」
「先生? なんで咲希さんと先生が……」
ダイはアスミを見た、いつの間にか彼は泣いていた。
「彼女は畠中と付き合っていた」
「……」
「彼は彼女と体の関係を持ってて、その夜も彼女を車の中で関係を持って……腹上死したんだ」
「フクジョ……ウ?」
ダイは目を瞑り口をぐっと閉じて何か考えていた。体が震えている。
「女の子にこういう時はどう言う言葉で言えばいいのか……」
「私、ダイみたいに本を読んだり書いたりしないから……言葉あまり知らなくてごめん」
「セックス中に畠中は死んだんだ」
アスミは言葉が出ない。
「僕も彼女を好きだったように彼女は畑中が好きだった。そして2人は付き合い僕にはないきらきらとした青春を謳歌していたんだ、先生と生徒……その関係を超えて。悔しかった。彼女に事情を聞かなくても車内で畠中は半裸だった、みっともない身体をしていたよ……既婚者で子供もいる40過ぎのおっさんがよ……生徒に手を出しただなんて」
アスミも車の中で武臣と体を持ったことを思い出した。ほぼ無理やりだった。
「彼女が泣いていたのは……畠中が死んだことだった」
それが自分と違う、アスミは思った。
「なんで僕を呼んだんだろう、呼びやすかったんだろうな。で、どうしようって泣き喚いてさ。病院でもよかったろうになぁ……でも病院にあのまま通報していたら、あの格好で通報したらさぁ大変なことになる」
「そうよね、家族の人も……ただことじゃないって」
「それか襲われたことにしよう、そう僕が言ったら……それだけは嫌だって」
アスミは思った。ダイの好きな人はもうダイのことは考えていなかった。
アスミはダイの息が上がっているのに気づく。手もさらに強く握られる。
「僕は気づいたら咲希の首を締めていた」
「……!!!!!」
手を離そうとしたが離さないダイ。
「畠中も車から引きずり出して……ここに2人の遺体を並べて……今よりも流れの早い川の流れ……あの中に入れてしまおうと……そしたら」
アスミはダイに押し倒された。
「咲希は生きていた。手を畠中の方に伸ばしていた……なんで僕じゃないんだ……なんで……」
ダイの涙がアスミに落ちる。
「僕は恋人どころか友達もいなかった、落とし物を落として……あんな姑息な真似をしないと近づいてもらえないような人間だった。彼女は優しかった。親身に乗ってくれた、僕が友人がいないと言ったらじゃあ私が友人になってあげる。いろんなところ行った。一緒にいろんな本を読んで書いた小説を読みあって……でも思えばそれ以上のことはなかった、そして彼女が神社に行った時に僕らの友情は永遠不滅だ、その言葉の時に気づけばよかったんだ。僕1人で勝手に浮かれていたんだ……」
文字が流れるようにダイの口から出てくる。アスミは心拍数が異常に高まっていた。
彼女も同じ状況だった武臣とのこと。武臣に無言で上から覆いかぶさられ襲われそのまま恋人同士になった。最初のきっかけは最悪だったがだんだん武臣と共にいることで彼の繊細を知りそれに気づけば惹かれていた。
だがやはり武臣は性格に欠陥があった。そしてさっきみたいにアスミを夜に捨てた。子供ができただけで。
ダイはアスミの両手首を掴んだ。
「僕はそれを見て彼女を……彼女を……ここで犯した、レイプした!」
「……!!!」
ダイの目は真っ赤になっている。それは定期的に着く灯でわかった。
「同じことをするの?」
「……」
アスミがそういうとダイは彼女の胸元に突っ伏して泣き出した。
「……後から知った……咲希は……無理矢理畠中と関係を持たされ……苦悩したいた」
「……」
「レイプされた、それを誰にも言えなかった……僕は思い出した。彼女の書いた小説にレイプされた女性が……レイプした相手をどう許し、自分はどう進むべきか」
アスミはダイを抱きしめた。
「僕だったら殺すのにって言ったら彼女はそれだけはダメ、悲劇を生むだけ……そう言った、その時の……彼女の顔は本当に優しく……でも手は震えていた。彼女は畠中を許した。でも僕は……殺してしまった。彼女は優しすぎたんだ……」
ダイが咲希に一番近い相手だったのだ。彼女は小説の中でSOSを求めていた、そう言うことなのだろう。
「咲希さんは……許したくなかったんだよ、恨みたかった殺したかったけどもそんなことはできなかった。でもダイが殺してくれたから……ほっとしたのかもしれない、ダイは悪くない」
「……うああぁあああぁぁああああっ」
しばらく2人の間は無音であり、川の流れが後ろで流れていた。アスミは泣きじゃくるダイを抱いたまま川の音を聞いていた。きっとダイもあの頃泣きじゃくった咲希をこんなふうに抱いていたのだろう。
そういえば川に出てくる幽霊の話は……と考える。死んだ咲希がこの川で幽霊として出てくるのだろうか。咲希を犯しそこからどうなったんだろう。そしてこの話はどこまでが本当なのだろうか、本当だったらダイは……。と思いながらアスミは意識が飛んだ。
※※※
「アスミ……アスミ」
誰かが呼んでいる。アスミは目を覚ました。
「アスミ!」
いきなり明るい光が目に入り眩しさでまた目を閉じた。
「アスミ、目を覚ましたのね」
両親と姉がいた。姉は慌てて病室を出て医者を呼んだようだ。
「大丈夫か、大丈夫か」
父親が必死になって叫んでいる。
「……大丈夫よ、大丈夫」
とアスミが応えると母親は泣いた。
「夜になっても帰ってこないから……探し回ったのよ。そしたら川の……堤防の近くで倒れていたから」
という言葉でアスミは一気に記憶を取り戻した。
「……ダイは……」
と声を発するとそこに医者と姉がやってきた。看護師たちも。そして
「アスミ!」
そう叫んで入ってきたのは、武臣だった。
アスミは震えた、自分を捨てた男が目の前にいるのだ。
「武臣君も心配していたのよ……それに……ねぇ」
「アスミのお腹の中に赤ちゃんがいるって」
両親にこんな形でバレてしまったのかと。武臣は父の会社の部下でもあった。父の可愛がっている部下でもあって付き合ってることも知っていた。父からは孫はまだか、母からは花嫁姿を見たいと料理や家事を教えられてきた。
だが彼の裏の顔を知らない両親に好意的に思われていた武臣……妊娠を告げたあの時に捨てるような男だ。捨てた後にどうしてそんな泣きそうな顔をしているんだろう。
訳がわかならなかった。
「赤ちゃんがお腹の中にいるのになんで……辛かったんだね、戸惑ったんだろうね。ごめん、もっと親身になって聞けばよかったよ」
手を握られる。
「赤ちゃんは無事だって……アスミ」
武臣の目は笑ってなかった。
アスミはそれから退院をし、彼女と武臣の両親で顔合わせをして結婚が決まった。武臣とは普通に過ごしている。あれから彼は露骨に酷いことをアスミにはしてこなかった。
アスミはホッとしたもののこのままお腹の中の命を産み落とすのか、と違和感を感じていた。周りはどんどん結婚話やこれからの生活に花を咲かすのに自分はそんな自覚さえない。
もちろんあのあと、ダイと出会うことはなかった。彼はどうしたんだろう。自分をあの後どうしたかったのだろう、そしてなぜあそこにいたのだろう。謎だらけである。
「どうした、アスミ」
武臣がやってきた。
「ねぇ、私って誰に見つけてもらったの」
あの時の夜のことをまだ聞いていなかった。
「警察から通報があった」
「そうなんだ」
「なんだよ今更。それよりもさ」
なんだよ今更、あのことが今更に置き換えられた。そしてそれよりもさ、で上書きされる。アスミはそれに対してもう絶望を感じた。だが自分にはどうすることもできない。
でもあの川の話をあの川で武臣に話そうか、川にいる幽霊。
友人であるクラスメイトの男子にに殺されて川に流された女子生徒とその交際相手の幽霊が夜に現れる。そしてその幽霊に引き寄せられたかどうか知らないがここ数年で何人も死んでいる、とネットであれから調べたら出てきた。
噂は本当だった。
「ねぇ、今晩その川に連れてって」
「なんで、また」
「いいから」
その晩の川の荒れ方は異常だった。