お風呂上がり。始まって約一ヶ月ちょっとの大学生活と初めての一人暮らしに疲れてベッドの上で横になっていると、彼氏である隼斗からメッセージが来ていることに気がついた。

『今から家行っていい? 話したいことあるんだけど』

 ふと時計を見ると長い針はとっくに十二時を回っていた。
 明日も大学で会えるのに、こんな夜遅くになんの用だろうと思いながらも、承諾のメッセージを返す。
 隼斗が来るまで溜まりに溜まったレポートでもやっておこうと、机の上にノートパソコンを開けた。

 するとその三十分後、インターホンが鳴らされた。予想していたよりも早い到着に、慌ててパーカーを被る。
 隼斗をあまり待たせないようにドタドタと足音を立てて、玄関に通じる廊下を走った。

「ごめん。おまたせ」
「こっちこそこんな時間にごめん」
「全然大丈夫だよ。部屋汚いけど入る?」

 そう言いながら隼斗を迎え入れるように扉を開ける。けれど、彼は「いや、その……」と歯切れの悪い言葉を並べるばかりで一向に入ろうとしない。

「どうかしたの?」

 明らかにいつもと違う彼の様子に疑問を抱く。顔を覗き込もうとしても、気まづそうに視線を逸らされてしまった。

「……あのさ、ちょっと歩かない?」

 やっと口を開いたと思ったら急にそんなことを言いだした。嫌な予感が脳裏をよぎる。まだそう決まったわけじゃないと自分に言い聞かせて、隼人の提案に首を縦に振った。

 街灯の明かりが照らす夜道を二人で歩く。いつもは心地いいはずの沈黙も、今日は私の鼓動を早める原因にしかならない。

「そういえば、サークルもう決めたんだよね? なににしたの?」

 この不穏な空気をどうにかしたくて、隼斗に話題を投げかける。いつもなら笑顔を見せてくれるはずなのに、彼はこっちも見ずに俯いたまま答えた。
 
「ああ、うん。テニスだよ」
「……そっか。高校のときからやってるもんね」

 彼は頷くだけで、それ以上口を開こうとはしなかった。冷たい夜風が私たちの間を吹き抜ける。
 私は堪らず、足を止めた。それに気がついた彼も私の二、三歩先で立ち止まった。隼人がゆっくりとこっちに顔を向ける。すると、意を決してように私の目を見据え、沈黙を破った。
 
「言わなきゃいけないことがある」

 隼斗がこれから言おうとしていることなんて分かりきっているはずなのに、その先の言葉に怯えて体が硬直する。自然と肩に力が入った。

「俺たち、別れよう」

 その瞬間、頭が真っ白になった。夜の街に彼の声だけが異様に響く。お風呂にはいって温かくなったはずの手も、今は冷めきってしまっている。

「……どういうこと?」

 聞きたいことは山ほどあるのに、そんな言葉しか出てこない。もう一度、彼に好きだと言ってほしい。けれど、そんなに想いは届くことなく消えていく。

「ごめん。俺ほんとに優奈のこと好きかわからなくなった」

 その言葉が私を絶望に追いやる。
 なんで? どうして?
 そんな答えの出ない疑問ばかりが頭を巡った。
 あんなに好きだと言ってくれてたのに。あんなに寝落ち電話もしてたのに。

「なんでか……教えてよ」

 手をぎゅっと握りしめ絞り出されたその声は、自分でも驚くほどか細かった。隼斗は少しの間のあと、話し始めた。

「……別に他に好きな人ができたわけじゃない。優奈のこと嫌いになったわけじゃない。ただ……一緒にいて好きかわからなくなった」

 ときどき口篭る様子が私を傷つけないように言葉を選んでいるようにも見えて、その優しさが痛かった。街灯がちかちかと点滅し、その光が私を嘲笑う。

「もうやりなおせないの? 悪いところがあったなら私なおしてみせるよ。だから、だから……お願い」

 縋るように一歩また一歩と隼斗に歩み寄る。今の私にはそれしかできることがなかったから。けれど彼が首を縦に振ることはなかった。

「優奈に悪いところなんてなかった。でも無理なんだ。こんな自分勝手な俺でごめんな」

 隼人は泣きそうな顔でそう言った。振られているのは私なのに、なんで貴方がそんな顔をするの。私だってまだ泣いていないのに。

――いや、違う。私が泣いていないのは、まだこの現実を受け入れることができていないから。本当に弱いのは私の方だ。

「ちゃんと大好きだった。優奈にはきっと俺よりいい人がいるよ」

 そう呟くように言ったあと、私に背を向けて歩き出した隼斗を呼び止める。

「待って! 返事くらい聞いてくれてもいいでしょ!」

 自分だけ言いたいこと言って逃げるなんて許さない。最後なんだ。私だって言ってやる。決意を固め、声をあげた。

「私、私は隼斗のことずっと好きだよ。今までも、これからもずっと好きだから。それに……隼斗よりいい人がいることくらい知ってる。それでも私が好きになったのは黒梛隼斗なんだよ! だから、だから私を振ったこと絶対に後悔させてやる!」

 声が枯れるほど叫んだ。未練たらたらの女は嫌われる。そんなこと知ってる。だけど、本当にもう終わってしまうのなら、今の私の想いを全部伝えたかった。
 なにかが吹っ切れたように涙が零れ落ちて、アスファルトに溶けていく。
 私の言葉に彼は「ありがとう」と返すだけだった。それ以外の言葉を期待していたわけじゃないけれど、やっぱり傷ついてしまうものだ。
 今度こそ振り返ることなく私の元から去っていった隼斗を引き止めることはできなくて、彼の姿が見えなくなるそのときまでただ眺めていた。

 それから薄暗い道をひとり、とぼとぼと歩いて家まで帰った。開けたままのノートパソコンを片ずける余裕なんてなくて、そのままベッドに飛び込んだ。
 なんだか不思議な感覚だ。昨日まで当たり前のように隣にいた人と明日からは会うこともなくなるんだから。
 ずっと一緒にいようね、という約束は絶対じゃない。それを思い知らされる。
 寝返りをひとつ打って、ふと机の上を見ると写真立てに飾られている二人で撮った写真が視界に入ってきた。腕を組んで、とても幸せそうに笑っている。
 このときの私はまさか別れるなんて思ってもいなかったな、なんてどこか他人事のように考えてしまう。

 ――だけど心は正直で一筋の涙が頬をつたった。

 それは止まることを知らず、溢れ出てくる。涙なんてあのとき全部出し切ったと思っていたのに。
 布団に顔を押しつけ、必死に涙を拭う。
 隼斗が私に何度も何度も言ってくれた『好き』と『愛してる』が耳にこびりついて離れない。
 まだ別れたくない。あの頃みたいに二人で笑い合いたい。そんな叶うはずもない願いを未だに唱えてしまっている。

 二人で過ごして来た日々を振り返って、後悔がないと言ったら嘘になる。
 けれど隼斗と付き合ったことに関してだけ言えば、一ミリの後悔もしたことはない。儚い夢だったのだとしても、ほんの一瞬だっだのだとしても彼は私に幸せをくれたのだから。

 気分を入れ替えたくて、窓を開けた。肌寒い風が部屋に流れ込んでくる。夜空を見上げると、憎いほど綺麗な満月が私を見下ろしていた。その周りには無数の星々が散りばめられている。いつもは強い輝きを放つ星々も今は、鈍く光って見える。
 これはきっと隼斗に対する私なりの愛の照明だ。