……まだ眠くないな。普段寝るのは日付が変わる頃だったからまだ早い。
そうだな、ピナレラちゃんをぽんぽんしながら従兄弟の話の続きでもしようか。
叔父さんちには息子が二人で、早くに死んじまったのは俺と同い年の上の長男だ。
下の弟はふつうに生きてるはずだが叔父さんは離婚して元嫁の叔母さんが親権を取ったので、その後どうなったかわからない。ばあちゃんも心配してるんだが連絡を拒否されていると聞いた。
俺と同い年で、中学までは夏休みや冬休みにばあちゃんちにお互い家族で帰省してよく遊んでたっけ。
俺も従兄弟も御米田家の血が濃く出た黒髪と黒目、なかなか整った端正な顔立ちだ。性格はだいぶ違ったな。あっちはばあちゃん似でのんびりした奴だった。
お前も生きてたら、一緒に異世界転移してエンジョイしてたかもしれんのになあ。
めんこい幼女のいる優しいほうの異世界転移だ。飯も旨いし人も親切。ばあちゃんも家も一緒。あいつ絶対喜んだろうに。
ラノベ好きでよく読んでたっけ。遺品になっちまったお気に入りの文庫本は俺が形見分けで貰ってまだ持っている。
表紙イラストが中央に勇者、左手に賢者、右手に大魔道士がいる。俺たちが中学の頃ブームになったファンタジー物語だ。
立場は違えど友人同士の三人は、勇者の親の仇である共通の敵を倒すため、協力して旅に出る。オーソドックスな英雄の旅の物語だった。
シリーズ最強の大魔王が後に勇者たちのお師匠様になる胸熱展開や、そのお師匠様の少年時代のスピンオフが女の子たちの間で大人気になって手作りぬいぐるみの推し活がSNSのトレンドになったり。
モンスターが足の生えた魚類だったり(これもぬい化が流行った)、第二の魔王として勇者たちの前に立ち塞がったブサ可愛いウーパールーパー星人に翻弄されたり。
大魔王の生き別れの姉が元カレと再会したときは世界が滅びかけたっけ……
大魔道士は絶対一度は勇者への裏切りをやらかすと思ってたのに、結局一度もイベントがなくて勇者パーティーは真のラスボスを倒してたなあ。
……今思えばなんであんなに俺たち夢中になってたんだろう? という謎展開の多い小説だった。
ただ、作中のごはん描写がものすごい美味そうで夜中に読むと腹が減って仕方なかったのを覚えている。サーモンパイとかどこへ行けば食えたんだろう。
そのライトノベルは俺は従兄弟が死んでから読まなくなっていたが、順調に十年近くかけて完結まで刊行されたらしい。
そして最終巻のあとがきで作家が衝撃的な告白をしたとSNSでバズってたので、俺は持ってなかった分とあわせて全巻、電子書籍で購入した。
で、噂のあとがきを読んでみた。
『この作品はわたしがチャネリングして見た、地球とは異なる世界の出来事のオマージュです』
オマージュ、敬意をもって何かから特定の影響を受けて作品を創ることだ。品の良い二次創作みたいなものか。
チャネリングとは霊的交信、霊とか天使とか神様とか、人間より高次の存在とコンタクトしてメッセージを受信する行為をいうそうで。
……なんかここでもオカルトスピリチュアル話が出てきたな。
意外にも作者のとんでも告白は読者や世間に好意的に受け入れられたそうだ。世相が合っていたとでも言うべきか。
昔はスピ系といえばエジプト神話やギリシャ神話、北欧神話ネタ、あとやはり西洋魔術系をよく見た。
題材にした漫画やアニメ、ゲームも多かったしそこからスピリチュアルに興味を持つ人は多いだろう。俺も据え置き機のゲームであれこれ覚えた口だ。
近年だと考古学研究の発展でメソポタミア文明ネタが人気らしい。メソポタ系を題材にしたスマホのソーシャルゲームのヒット作なんかの影響もあって、メソポタ系の神様の名前はいま若い世代でもふつうに知っている。イシュタルとかギルガメッシュとか。
そういえば、メソポタミア系の神話には他の神話と比べて、ある面白い顕著な特徴がある。
――宇宙人が地球人を作ったという記述があるのだ。そして地球人は彼らの奴隷として作られたとも。
そして宇宙人の中には、地球人の敵となる種族もいれば、味方になる種族もいるらしい。
「……あの虹色キラキラの宇宙人たちはどっちだったんだろうな」
美味いお茶は飲ませてくれたが、結局チートはくれないままだった。
なんかこう、遺伝子操作して特殊能力をくれるとか、目からビームが出るようになるとか、寿命が伸びるとか女性にモテまくるとか……
異世界転生や転移にハーレムやチーレム(チート能力+ハーレム)は基本じゃないのか!?
俺だけ特別なスキルで無双するストレスフリー展開はどこへいった?
そんなことを思いながら、俺は眠りに落ちていったのだった。
その夜、俺は不思議な夢を見た。
どこか大きな宮殿の中にいる。ヨーロッパの王宮みたいなイメージの建物だ。
視点が何度か切り替わって、やがて大きな肘掛け付きの黄金の椅子のある部屋で止まった。椅子は本物の黄金っぽい……デザインといい真紅の布貼りなところといい、王様が座る玉座そのものだ。
ここは玉座の間なのだろうか?
しばらくすると、一人の黒髪の男が部屋に入ってくる。顔は遠くてよくわからないが今年二十八の俺と同じくらいに見えた。
随分背が高めで背筋もピシッと伸びている。これはスポーツというより何かの武道や武術をやってる筋肉の付き方だな……歩き方にも油断がない。
男は黒い軍服を着ている。デザインやジャケットの飾りを見るに、重要な地位にいる人物なのがわかる。こりゃ本物の王様だな。
その部屋には男だけがいる。
おもむろに男が軍服のジャケットを脱いで玉座に放り投げ、その場でストレッチぽいものを始めた。全身の筋をまんべんなく伸ばしたり、関節をバキボキ鳴らしている。
最後に深呼吸して両手を下腹部――下丹田の位置に当てておしまい。やはり何かの武道っぽい作法だ。
男はジャケットを着直して玉座に深く腰掛けた。そのまま軽く長い脚を組んで目を閉じる。
その間、俺は部屋の中を見回していた。
窓の外はまだ暗い。遠くが少しずつ明るくなってきている。夜明け前だろう。随分と早起きの王様だ。仕事熱心……には見えないな。始発で出勤してデスクで仮眠を取る会社員時代の俺みたいな感じだ。
突如、部屋の中全体が満天のプラネタリウムのように変わる。
一瞬だけ夜空のように星々が瞬いた後、現れたのは……俺!?
室内プラネタリウムには俺が異世界転移するまでと、してきてから数日間の光景が映し出されている。しかも平面的じゃない。3D的な立体映像として目の前にリアルに現れている。
「ふむ。〝オコメダ・ユウキ〟か。妙な名前だな」
余計なお世話だよ!
……この王様、低いがよく響くいい声をしている。耳元で囁かれたら男の俺でもビクッとしてしまうかもしれない。
「だが家名に聞き覚えがある。どこのものだったか? ――ああ、〝ど田舎村〟なら…………の旧姓か」
誰かの名前を呟いている。だが声が低すぎて聞き取れない。
俺が目の前で見てる3D映像を、この王様は目を閉じた瞼の裏で見てるようだった。
目の前に男爵やど田舎村の人々、それにピナレラちゃんが現れた。
ピナレラちゃんが映像の中の俺に駆け寄って、着ていた作業着の太ももあたりを掴んで見上げてにっこり笑った。……くっ。めんこいなや!
映像の中の俺も同じことを思ったようで内心悶えてるのが見え見えの態度でしゃがんで、熱に負けたチョコレートのようなゆるゆるの顔でピナレラちゃんのキャラメル色の頭を撫で撫でしていた。
「いとけない女児を前になんという顔だ。今にも溶け落ちそうではないか。……大丈夫なのか、この男。まさか幼女趣味などということは……。だとしたら危険だな」
違います! 危険じゃありません! 俺には小さい子供に手を出す趣味はありません!
必死で訴えようとしたが声が出ない。そもそも俺の姿は王様には見えていないようだった。
目の前には次々映像が変わる。もなか村の自然豊かな光景、村長、ベンさん、それに俺のばあちゃんを映して映像がそこで止まる。
その後、何度か王様は俺、ばあちゃん、村長、ベンさんの順で人物を移しては小さく唸っていた。
「過去の記録の人物のように見えるが……むう、加齢のせいで判別がつかん。わかるのはオコメダ・ユウキだけだな」
何がどうわかるのか俺に理解できるように説明してほしい。
だが王様は目を瞑ったまま見えてる映像に独り言を呟いてるだけだ。ギャラリーに不親切すぎるだろ。
やがて、王様は肘掛けに腕をついたまま笑い出した。
「ンッフフフ……フハハ……! なるほど、これが話に聞いていた彼の先祖か!」
誰だよ。誰が誰の先祖だって? え、まかさピナレラちゃん? 嘘だ、うちの娘は生半可な男にはやらんぞ、やらんからな!?
しかもなんかすげえヤバい笑い方してるぞこの王様。俺にはわかる。こいつ絶対ムッツリ系だ。俺より若いのに権力をかさにきて女遊びとかしてないだろうな。
イラッときたので、どうせ見えてないならと俺は玉座に近寄った。
王様の黒髪の頭をぺしっと叩こうとして、――ちょうど目を開けた王様と目が合ってしまった。み、見えてるのか? 俺が!
「!?」
王様は自分を叩こうと腕を振り上げた俺に驚いた顔を見せる。だがすぐに納得したと言わんばかりのニヒルな笑みを見せた。
「ほう。夢を歩いてきたと見える。ようこそ、我が前世。いや来世か? あるいは――」
あるいはなんだ。そういう含みのある言い方は好きじゃないハッキリ言ってほしい。
いや待て、前世とか来世とか言ったか? こ、この王様は……
――俺と同じ顔をしている!
アッ、声も出るようになってる!?
「き、気づいたらここにいたんだ。俺は不審者じゃない」
「わかっている。だが、次に夢を歩くときは〝服を着た自分〟をイメージしておくべきだろう」
「え?」
俺は咄嗟に下を見た。肌色だ。二つのビーチクに鍛えた腹筋。……服どころかパンツも靴下も何もない。
ちょうど夜明けの陽光が窓からカーテンのように差し込んで、俺の下半身を照らす。ヤバいわ。これはヤバい、掲示板の連中の言葉じゃないがおまわりさんを呼ばれてしまう!
「わー!?」
「わめくな。これでも着ていろ」
呆れた王様が黒い軍服のジャケットを脱いで投げて寄越した。
ほんのりあたたかい王様の体温……やだ……こんなイケメンムーブかまされたら惚れてまうっぺや……ってそんなわけあるか!
俺は全裸モードにパニックに陥って、脳内で普段あまりやらないノリツッコミで思考が暴走していた。
だがジャケットはありがたく頂戴した。長めの上着を慌てて羽織ると、ギリギリ息子は隠れた。ほんとギリギリ。
ちょっとでも動くと見えてしまいそうなので俺は諦めて部屋の床に座った。う、高そうな絨毯に裸の尻のまま座る罪悪感……俺は無言で体育座りから正座に切り替えた。なんとなく気分の問題で。
「くっ、はは! 落ち着いたか?」
「え、ええ。おかげさまで」
すると玉座の王様は正座する俺を見下ろす形になった。長い足を組んで指を顎に当てながら、面白そうに俺を見ている。
見た感じ俺より数歳年下だが、黒い目の眼光が強めで視線にはかなりの圧を感じた。これが王者の覇気というやつか。
「〝チート〟とはなんだ? オコメダ・ユウキよ」
「へ?」
「神人の方々の前で叫んでいただろう。『チートをください!』と」
「あ、それはですね」
俺は王様にチートの概念を説明した。元は反則やずる、ごまかしという意味だが、今では『ヤベェくらい圧倒的で最強無敵の無双状態』になること、あるいはそのような状態をもたらすスキルのことだと。
「……お前、よくあの方々にそのような要求ができたな?」
「青銀の髪の美少女には剣で串刺しにされそうになりました! いやーヤバかったです!」
「……悪運の強い男だ」
王様の顔色が悪くなる。だが深く溜め息をついて組んでいた脚を戻し、玉座に座り直して改めて俺を見下ろした。
「その〝チート〟級とはいかずとも、スキルなら私が伝授してやろう。オコメダ・ユウキ、ステータスを開示せよ」
「!?」
俺と王様の間に半透明で縦長のボードが現れた。こ、これは……異世界ものにお約束のステータスボードじゃないか!
き、「キタ――(゚∀゚)――!!」!!
俺の脳裏によくネット掲示板で見かける喜びの顔文字が鮮烈に浮かんだ。
こ、この世界、お約束中のお約束、『ステータスオープン!』のある異世界だったか!
名前 御米田ユウキ(オコメダ・ユウキ)
所属(出自)
日本国○○県もなか郡もなか村
称号・職業
元会社員(総合商社営業)
表計算ソフト職人
もなか村次期村長候補
保有スキル
普通自動車免許 第一種
簿記 2級
実用英語技能検定 1級
TOEIC 880点
体力 7
魔力 5
知力 7
人間性 7
人間関係 7
幸運 5
「見方はわかるか? 能力値は十段階評価で己のポテンシャルを表している。さすがというべきか、すべて平均値の5以上持っておるな」
「すごいんですか? これって」
「もちろん。一番低いのは1。もっとも優れた能力は10になる。この数値ならお前は典型的なバランス型と言えよう」
能力値欄の増えた履歴書みたいだった。
しかし『表計算ソフト職人』とはいったい……俺は普通に業務で表計算ソフトを使ってただけなんだが。
「このタイプは独学でも大抵のことが学べる。目が覚めたら、ど田舎村で領主から魔法書や魔術書を借りると良いだろう」
確かに俺は独学タイプだ。簿記も英検もTOEICもぜんぶテキストやネット学習だけで取得している。
「基本はやはり、鑑定スキルだろう。鑑定スキルには主に三種類ある。人物鑑定、物品鑑定、魔力鑑定。すべての鑑定スキルを使いこなす総合鑑定もある」
「総合鑑定一択でお願いします!」
「……私が伝授できるのは人物鑑定のみだ。この世界で鑑定は非常に習得難易度の高いスキルなのだ。あまり期待せぬほうが良いだろう」
「そ、そうですか」
「スキルランクは初級を与える。適性があれば使い続けることで中級へとランクアップするはずだ。それ以上は運次第だな」
「ありがとうございます」
初級か。これはレベル1から順に上げていくやつだな。俺の脳裏に、ファンタジー系RPGゲームの木の棒と普通の布の服を装備した〝始まりの村〟の主人公ぽい自分のイメージが浮かんだ。
まずはスライムを倒して1ゴールドゲットからだな。
「見たところ、お前は防具作成の才があるようだ。利き手は右か?」
「はい、右利きです」
「ならば反対の左手に小さな盾をイメージせよ。このように」
王様は玉座から立ち上がると左手を掲げて見本を見せてくれた。
その左手が真紅のモヤ、魔力らしきものにボワっと包まれる。魔力はそのまま見る見るうちに丸型で中サイズの黒光りする鉄鍋、いや盾に代わり、左腕に装着されていた。手首側には小型サイズの剣の刃が飛び出ている。
「これはバックラーという盾と剣を備えた攻守両用の防具だ。大きさや形はイメージ次第で好きに変えられる。自分の扱いやすいよう試してみることだ」
言って王様は丸型の盾を、縦に長方形の大型サイズに変更した。先端にあった小さな剣は槍の刃ほど長く伸びている。
そりゃもうバックラーとは言わないだろって改変っぷりだ。
「王様! 鑑定、防具ときたら、武器も頂戴できないでしょうか?」
「なに?」
前世なのか来世なのかよくわからない王様に、俺は下手に出てお願いした。彼シャツならぬ王様ジャケ一枚の心許ない姿で正座のまま頭を下げる。
「異世界っぽい聖剣とか英雄の剣とかでお願いします!」
「お前な。資格もないのに聖剣など持てば下手すると持った瞬間に蒸発するぞ……?」
呆れた王様はバックラーを魔力に戻して消し、片手を軽く自分の胸の前に翳した。
直後、王様の胸回りに、真紅に輝く光の帯がフラフープのように出現した。イメージとしては土星の輪みたいなやつだ。
その真紅の光の帯に指先で触れる。と次の瞬間、王様は自分の肩辺りまでの巨大な大剣の柄を握っていた!
両刃で幅広の刃の剣だ。両手でないと持てないからツーハンドソードと言われるタイプのはずなのに、この王様ときたら片手で軽々持ってやがる!
「え、ちょ、それ何する気ですか!?」
一歩、二歩、と王様が黒い革の軍靴の底をカッカッと鳴らして近づいてくる。
ヤバい! 俺は本能的に危機を感じて正座から慌てて立ち上がり、逃げようとしたのだが……
――王様が大剣を振り下ろすほうが早かった。
そのまま脳天からバッサリ斬られた俺は絨毯の上に脳漿や血肉を飛び散らせ……たりはしなかった。
斬られた感触がない??? でも刃は確かに俺の中にざっくり入ったはずなのに。
恐る恐る王様を見ると、握っていたはずの大剣が消えている。――剣は俺の中に消えたのだ。
「お、俺、生きてる?」
「私の手持ちの剣の中でも、最も〝チート〟とやらに近い剣を授けた。神人四人と数多の聖女聖者の祝福を賜った究極のプレミアものだぞ。イメージしてみろ」
と言われたので王様が俺を斬った剣をイメージする。途端、目の前に王様が持ってたはずの大剣が現れた。
しかも、――軽い。見た目だけなら何十キロもありそうなのに不思議と重みを感じない。持てる重さだ。
「込められた祝福がお前に、不可能を可能にする力を与える。刀身を見よ」
大剣の銀色に輝く刀身の中央付近に、三つ横に並んだ透明な丸い小さな石が嵌め込まれている。
「ただの石ではない。ダイヤモンドの上位鉱物アダマンタイトだ。究極の魔石でもある。お前の手に余る問題を解決したいとき、一つずつ使うといい」
「それって三つ使い切ったらどうなるんです?」
「そのときは、…………、…………、……………………」
王様の声が遠くなっていく。いや俺の意識が薄れていったのだ。
え、ちょっと待ってくれ。まだアダマンタイトの使い方も聞いてないのに……。
* * *
「おにいちゃ! あさだよ! おさんぽ! やまにいこ!」
「ピナレラちゃん……?」
俺は朝から元気いっぱいのピナレラちゃんに起こされた。
うーん。なんか不思議で濃ゆい夢を見ていた気がする……。
「やま! やまだよ、おにいちゃ!」
「ん、ちゃんと早起きしたんだな。偉いぞピナレラちゃん」
「えっへん、なのだ」
先に寝巻きから普段着に着替えていたピナレラちゃんが自慢げに胸を張る。まだ四歳児のぽんぽんの柔らかそうなお腹のほうが出てるところも……くう、めんこい!
「ん? 風が強いな」
ピナレラちゃんが期待たっぷりに大きなお目々をキラキラさせているので、俺は慌てて布団から飛び起き、今日も作業着の黒いつなぎに着替えた。
だが家の中にいてもビュービュー吹いてる風の音が聞こえる。こりゃ山に登るのはちょっと無理じゃないか?
「ユキちゃん、起きたのけ。いま清治さんからLINEきてな。嵐になりそうだから早めに男爵さんのお屋敷来てけろって」
「村長が? やっぱり」
「ええー!? あらちぃー? ……ちかたないのだーやまはまたこんど!」
駄々をこねるかと思ったピナレラちゃんは、やはりど田舎村の住人だ。自然の厳しさをよく知っている。残念そうにしながらも今朝の山登りを諦めてくれた。
「朝は昨日の残りご飯で焼きおにぎりの出汁茶漬けだあ。さ、二人とも早く来い」
「はーい!」
ピナレラちゃんがよい子のお返事でばあちゃんと一緒に居間に向かう。
俺も欠伸しながら二人の後を追おうとして。
ふと、自分の左手を見た。
「バックラー、出てこい」
すると真紅のもや、魔力が左手から肘の間にもわっと出現して、見る見るうちに丸くて黒い、小剣付きの小型盾が出現した。
「……大剣は家の中じゃ無理だな。畳が傷ついちまう」
夢でお会いした王様、この御米田ユウキ、確かにチート頂戴しました!
ユウキ先輩が退職して、戻った田舎の村ごと行方不明になった後。
オレ、元後輩の鈴木はしばらく経ってから異世界にいるというユウキ先輩とスマホが繋がったっス。
異世界ってあのアニメとかよくやってるやつ? 先輩ってそういう厨二っぽいこと言う人だったっけ?
ただ、先輩のふるさと〝もなか村〟が突然、前ぶれもなく東北某県から消失したのはガチだった。
しかも先輩、ネット掲示板に『村ごと異世界転移したけど質問ある?』なんてクソスレまで立てて暇なネット民たちに話題、いや燃料を投下してた。
その上、実名まで晒したものだからもう祭りだよね……最初は国内テロかと騒がれてたけど、すぐに調査は警察から国へと管轄が移されて本格的な調査に入ったとニュースで見た。
一方、まだまだ平和なユウキ先輩の退職後の我が社っス。
一応、噂のもなか村人の先輩の元勤め先ってことで警察が何度か来たけど、行方不明になったのは退職後だったからその後は静かなもんスよ。
退職後、先輩はスマホのメッセージアプリで八十神に、企画パクりやデータ盗みと削除の件を「俺はわかってるぞ」と警告を送ったそうだ。
警告っていうかそれもう脅しでしょ。
オレはそれを知ってにんまりした。ようやく先輩らしくなってきたじゃないですか。あの人、味方にはオカン的頼もしさがあるけど敵には容赦ないからな。
その話をメッセージで教えられて、俺は最近八十神が社内で様子がおかしかった理由を知った。
そりゃそうだ、お前の所業ぜんぶバレてるぞって企画パクった相手から直接メッセージ貰っちゃあね。ガクブルもんでしょ。
オレは、いやオレたち社内の仲良しメッセージグループではそんな挙動不審の八十神の情報を次々共有していった。
ユウキ先輩やオレ以外にも八十神に彼女を取られたり、狙ってた子を先に取られた男は案外多かったので恨みを持った協力者はそれなりにいたのだ。
その後、ユウキ先輩は同じ内容を我が社のシステム部にもメールで送ったそうだ。やるじゃん。
ていうか辞める前にやれよって感じだけど、彼女さんに振られてそれどころじゃなかったとは本人談。
先輩が異世界(笑)からシステム部に送ったメールの内容は、オレが以前教えられたものと大差なかったようっス。
コンペへの応募企画のアイデアを八十神に盗まれたこと。
八十神がコンペでプレゼンに使ったプレゼン用のスライドは、ユウキ先輩が表計算ソフトで作った書類をベースに巧妙に加工したものであること。
どの辺をどう作り変えてオリジナルに見せかけたのかなど、細かい根拠データと指摘付き。
そして企画書データが盗まれた証拠について。
これは先輩が退勤したタイムカードの時刻と、その後、社内から先輩のIDとパスワードでログインされた時刻を照合すればいい。
先輩が作った企画書データは削除されていた。もちろん消したのは八十神だ。
けど、いつどのファイルを移動したか、コピーしたか、消したかは、システム部なら確認できる。
そんでユウキ先輩はさらに具体的な指摘をしたようだ。
『私のIDでログインした時刻の、社内の監視カメラ映像を確認してください。
私のパソコンのあった営業部のものを。
恐らくそこに私のパソコンを操作する八十神君が映っているはずです』
うちの会社、セキュリティシステムの一環でどの部屋にも監視カメラがあるんだよね。社員の精神衛生を考えて見えにくいとこにだけど。
もちろん会社の上層部はユウキ先輩のメール内容を重く見て、調査に乗り出した。
ところが、だ。そのまま八十神破滅ルートかと思ったら、そうはならなかった。
ユウキ先輩のメール内容を元に、システム部はまず先輩の削除されたという企画書データを復元しようとした。
だが原因不明のエラーが出て、八十神がコピペして盗んだことも、削除したことも記録が確認できなかったそうで。
じゃあ監視カメラのほうは?
こっちも確認できなかったそうだ。たまたま八十神が営業部に来てユウキ先輩のデスクに来たときに限って、取り扱い商品のサンプルの段ボールが手前にあって何をしているか判別できなかったらしい。
チッ。八十神め、運のいい男っスね。いや、わかっててやった……か?
そんで証拠不十分のため、八十神へはひとまず本人への注意も何もしなかった、いやできなかったらしい。
ただ、告発したのはあのユウキ先輩だ。年上受け抜群のあの仕事超できる男が急に退職して、しかも告発内容が内容だったわけで。
事実確認こそできなかったけど、重大なトラブルがあったことは会社側もしっかり把握しただろ。
少なくとも八十神の、上層部からの印象が落ちたの間違いなしっス。
八十神は相変わらず社内で増長してるし。くそつまんねえ。ほんと潰れろあの男。むしろもげろ。腐れ落ちろ。
「いつまでも澄ましたツラしてられると目障りっスよねえ」
会社帰り、オレは社内のユウキ先輩派閥の友人たちとファミレスでプチ報告会だ。
あーあ。先輩がいたら一緒にワイン飲みながら今日もまったり趣味のソシャゲの話をしたり、仕事のコツとか聞けてたのになあ。
あの人、趣味の範囲が広くてオレみたいなゆとりの陰キャも輪に入れてくれるからほんと……ありがたい先輩だったよ。
「あ。先輩が彼女さんに振られた理由、指輪がお目当ての高級ブランドじゃなかったからだってメッセ送っとこ」
「ちょっと鈴木君ー。それ御米田君にとどめ刺しちゃわない?」
「いいじゃないっスか。金かかる女と切れてよかったですね、と」
メッセージ送信。あ、既読付いた。……あれ? 返信がない?
……来た。なんか泣き崩れて溶けてるスライムのスタンプが来たんスけど。
そこからもう先輩からのメッセージは止まってしまった。
ピコン!
代わりに仕事の取引先のお偉いさんからのメッセージが入った。これは……御米田先輩がお気に入りだった会社のお社長だ。
東南アジア一帯で化粧品事業を手掛けている、日本の中堅企業の社長でもある。
『ちょっと後輩君! あちしの可愛いユウキ君が会社やめたってどゆこと!?』
ああ、ようやく情報が届いたんスね。
オレは怒ってるパンダのスタンプを送ってきた、そのお社長のメッセージをその場で御米田派閥の皆に回覧した。
「ユウキ先輩の担当取引先のいくつかは、八十神さんが引き継ぐはずよ。この社長も多分、八十神さんの担当になるわね」
「皆、どう思います?」
今日アフターファイブにイタリアン系のファミレスに集ったのはオレ入れて四人。八十神が嫌いな男三人と、ユウキ先輩と元カノさん共通の友人の女の先輩が一人。
メッセージを送ってきたお社長はかなり癖のある人だ。影響力の強い人なので言動には気をつけろと会社側から言われていたが……
「お社長にユウキ先輩のこと、教えちまえ」
「それな」
ナイスアイデアが飛び出した。オレはマルゲリータピザを食う手を止めて、お社長宛に長文メッセージを打って送った。一応社内の秘密は上手くボカしたよ。
ピコン!
返信は数秒後すぐに来た。……えっ。
『あんた、今どこにおるの? 話聞きたいから場所教えんしゃい』
「どうしよう。お社長、ここに来るって」
「「「どういうこと!?」」」
とても楽しい予感がする……!
* * *
私はブランチウッド男爵モーリス。
魔法魔術大国アケロニア王国の誉れ高きアルトレイ公領を任されている貴族だ。
……まあ国内では『ど田舎領』の別称のほうが有名なんだけどねえ。
ど田舎領はアケロニア王国の最果て、最北部に位置する飛び地だ。ど田舎郷、ど田舎村、ど田舎町で形成されている。
幸い、周囲が山と川に囲まれて魔物の被害も少ないため、突発的な災害や他国の侵攻さえなければ穏やかで住みやすい土地である。
元は王家の直轄地で、必ず王族や王家の親族が大公として治めていた。
しかし百年ほど前、当時の幼い次期大公や関係者らが次々と行方不明になる事件の後、王族は皆、失意のまま王都に引き上げてしまった。
王族がいた頃は保養地の一つとして栄えていたって話だけどねえ。良い温泉もあるから湯治もできるのに。今では老人ばかりの緩やかに滅びを待つだけの僻地となってしまった。
先日、我が領内の『ど田舎村』に異世界人がやってきた。しかも村ごと。
この世界に異世界の来訪者は珍しくないが、さすがに土地ごとは私も初めて聞くね。
〝観〟たところ悪人は一人もいなかったから、国際法の『異世界人保護条例』に則って我が領でそのまま全員保護することにした。たった四人だけどね。
今日の午前中はそのうちの一人、ツトムという男性を案内していた。他の異世界人たちは彼をベンと呼んでたけど、本人に確認したらどちらで呼んでも良いと言うので私もベンと呼ばせてもらおう。
ど田舎村の特産、薬草のポーション加工を担当する、私の部下でもある薬師のもとへだ。
ベンは年齢は五十代後半。目が見えないほど分厚いレンズの丸い黒縁眼鏡をかけた男だ。痩せぎすで顎はやや四角く無精ヒゲが少し。
短い髪は薄くて細く、半分以上白髪になっている。
残った髪の色が問題だ。『黒』この色はアケロニア王国では王族特有の貴色とされて、王族の血を持たない貴族や平民に出ることはない。他国だと別々ならいるんだけどね。
それを言ったらあのユウキという若者なんて髪も目も真っ黒で、私は見た瞬間思わず息を飲んだよね……王都の学園に通ってた頃、今の国王陛下と同級生だったんだけどまったく同じ色だもの。
「おい。いつからこの村は中級ポーションまで作れるようになったんだ?」
「どうしたんです、ベン」
「ええがら! いつからだ!」
昔の思い出に浸っていると、鋭く声をかけられた。随分と圧の強い口調だ。同じ異世界人のユウキ君や祖母君のクウさんはあんなに穏やかで柔らかな話し方なのにね。
「ここ百年ほどでしょうか。領から王族が引き上げてしばらくした頃に、急に領内で育てていた薬草の品質が上がったんです」
「理由は」
「不明ですが、当時の記録によるとダンジョンだった〝龍の眠り穴〟が大地震の崩落で陥没して閉鎖された後からですね。何か関連性がないか当時も調べたみたいですが、やはり原因は不明のまま」
「……ほが」
頷いて、ベンは薬師工房の室内を見回した。生のままや乾燥させた薬草の束、すり鉢、加熱用のビーカーや出来上がったポーションを入れる瓶などが雑多に溢れている。
ツトムのぶ厚い眼鏡越しの視線が、出荷前のポーションの完成品の収まった木箱を見つけたようだ。
「領主。悪いがこれ一本くれ。ほんで点眼器あったら貸してけろ」
彼ら異世界人とは言語が通じるが、この四人は独特の訛りがあって少し聞き取りにくい。だが集中して聴くと不思議と理解できる。
ベンが指さしたのは話していた中級ポーションだ。これ一本で大銀貨一枚するが、……そうか、彼は足が悪いようだから効果を試したいのかな。
でもなぜ点眼器?
「ベン、足を治したいなら服用がベストですよ」
「足などどうでもええ! おらは目が先だ!」
「そ、そうなのですか?」
ベンの勢いに気圧されてる私を見かねて、配下の薬師が点眼器を持ってきた。ポーションを小瓶に入れ替えて、スポイト部分を取り付けるタイプのものだ。
ベンはおもむろに眼鏡を外した。私たちは彼が目が先だと言った理由を理解した。彼の両目は目の周りが陥没して半ば潰れていたからだ。眼球も濁っている。
「若い頃にな。派手に喧嘩してこの有様だ」
吐き捨てるように言って、点眼器でポーションを潰れかけた目に垂らしていく。顔の端に垂れた分は手で目の周りに塗り込めるように擦り付けている。
私たちは固唾を飲んで彼を見守った。彼の潰れかけた目や目の周りが少しずつ癒えていく。
そうして開かれた瞳に私は息を飲んだ。――黒。
慌てて部下の薬師とその場に跪いた。が、彼はすぐ立つよう言って、事情を説明してくれた。
話を聞いて、これまで彼ら異世界人たちに感じていた疑問が氷解した。
「やはり……そういうことでしたか」
「んだ。あんだ、勘がいいと思ってただよ」
そう。彼は、いや彼らは、かつてこの領から行方不明になった王族たちだ。
「おらはベントリー・ウェイザー。元は王家の親戚だ」
「記録にお名前が残っております。この領の当時の騎士団長閣下ですね」
そう思って彼を見れば、記録された人物特徴が一致する。髪の色、背格好、やや四角ばった顎の形、きつめの口調もだ。しかし足を悪くした痩せぎすの姿は苦労した生活を思わせ憐れみを覚えるほどだ。
ウェイザー家はかつて王女の降嫁した筆頭公爵家だ。だとすると残りの三人は……?
「清治は元神官。名前はセージ。まあそのまんまだ。遠縁だから目ん玉の色は黒くない。だが王家の血を引いとる」
「クウさんとユウキ君もですね?」
「空さんはクーティア・アルトレイだ。ほんとならおらたちのご主人様だ」
やはり。かつて神隠しに遭って行方不明のままの大公令嬢。当時の王弟のご令嬢で、間違いなく王家の姫君だ。
「ユウキは空さんの孫だが魔力が強い。それを利用して、こちらの世界に戻ってきだんだ」
ベンの話を要約するとだ。
約百年前、当時この地にあったダンジョンに大公令嬢クーティアが迷い込み、彼女の護衛だった騎士団長のベントリー、教師だったセージが後を追った。
令嬢を発見できたはいいが、戻れなくなった。
しかも転移したとき三人全員が元の年齢より若くなって転移したという。
それどころか、異世界〝ニホン〟に辿り着いた時期も年単位でバラバラだったそうだ。
「本当ならおらが一番年上、次がセージ、クーティア様はまだ幼な子だったんだ。逆になっちまっただ」
そこから三人は孤児として現地それぞれの一般人に引き取られ、もなか村の村民として現在まて生きてきたということだった。
「もうアケロニア王国に戻るのは諦めてただ。けんど、村民がおらたち以外おらんくなって、欲が出た。もなか村の土地の力を使って、セイジが覚えとった空間転移魔法の研究を進めとったんだ」
「土地の力、ですか?」
「あっちの世界では龍脈、ドラゴンパワーラインと言っとった。おらたちに言わせりゃ〝魔力の豊富な土地〟てだけだが」
この異世界転移術はベンとセイジ主導で、クウには話だけはしてあるそうだ。その孫ユウキ君にはこれから説明するつもりだということだった。
「しかし、だということはニホンなる異世界には他にもあなたがた王族の末裔が転移したと?」
「多分な。古い時代から互いに交流してた形跡があったべ。けんどおらたち三人を境に日本へやってくる者はおらんがった」
「こちら側のダンジョン崩落のせいでしょうね。もなか村側の次元の扉もダンジョンだったのですか?」
「神隠し伝説は洞窟だ。祠がある。だけんどもなか村にはもっと大事なものがある」
「他にも?」
「もなか村には龍脈が通ってる。その龍脈を集める媒体に、おらたち異世界人の遺骨が魔石代わりに使われたんじゃねえかって。だからいちばん重要なのは、――遺骨が集まった墓地だ」
私は思わず息を飲んだ。なんということだ。それは、その仕組みはまるで!
「ベン! それは禁じられた呪術だ!」
「そんだ。龍脈の力を遺骨にまとわせると、同じ血筋の子孫に福徳の恩恵が流れる。でもな、おらたち一世代目の異世界人ならともかく、現地人と交わった子孫たちはもう最初の呪術もなんも知らんのだ」
自力で異世界転移の術式を作り上げたことといい、さすが優秀で知られたアケロニア王族、と私は舌を巻く思いだった。
「もしや。ニホンにあなたがたやこの世界の人間が転移してしまうのは、魔力を狙った誰かが意図的に……?」
「古い時代に、多分な」
だがもうその仕組みを知る者もおらず、もなか村の力に気づいたかつての支配者たちも、いくつかの先祖の墓参りにくるぐらいだったそうだ。
「やはり、そこまでして……この国に、還りたかったのですか」
「本音を言うとそれほどじゃねがった。クーティア様も現地人とご結婚なすってご子息たちも儲けられてたし。けんど龍脈に絡め取られた魂が土地に縛られとったから。祖国に還してやりてえなってずっと思ってたんだあ」
ということは、この人たちは。
「もう、元の世界に戻るつもりはないんですね」
「んだな。まあ、ユウキはわからん。あれはまだ若い。戻るなら、もなか村の龍脈管理を教え込んでおかねえと」
ベンの話を聞き終えて、私は深い溜め息をついた。一緒に聞いていた薬師の部下も同じだ。
「国に、なんと報告したものか」
事実をありのまま報告するしかないんだろうな……
薬師小屋の外は強い風が吹き始めている。今日は午後から嵐になるだろう。
* * *
嵐の予兆を知らされ、俺はばあちゃん、ピナレラちゃんと一緒に服の着替えと、まだまだ残っていた備蓄用の食料や米をカートに載せて男爵の家に向かった。
備蓄は非常用持ち出し袋に入れて既に男爵の屋敷に預けた分以外の、非常食だ。
水やお湯を入れるだけで食えるアルファ化米のパックを段ボールに詰めた。もなか村はスーパーも雑貨屋も無くなってしまったから、これだけはばあちゃんにペットボトルの水と一緒に備蓄してけろって念押ししてたやつだ。
あとはお約束の缶入り乾パンや携帯食など。非常食用は三年から五年保存が可能で、これも必ず一定量を確保しとけって言ってあった。
朝飯を済ませて八時頃になると、外の風が少しやんだ。その隙に三人でピャーッと、いや、ばあちゃんとピナレラちゃんはカートに荷物と一緒に乗ってもらって俺がひたすら押しまくった。
農業用のゴムタイヤ付きリヤカーだから砂利道も走れるのは良かったよな。カゴタイプだから人が乗っても安定するとこもいい。
何せ空はもう黒い雲が覆ってたし、ぽつぽつと雨もパラついていたので、八十すぎのばあちゃんや四歳児ピナレラちゃんの足に合わせてたら男爵の屋敷に着く前に本降りになるかもしれない。
カートの耐荷重量は200キロ。アルミ製だからスチール製の半分以下だが、ばあちゃんは50キロちょっと、ピナレラちゃんも15キロほどだろう。荷物は米入れて40キロぐらい。
合計は……考えないことにして俺は頑張ってカートを押して男爵の屋敷を目指した。
屋敷に着くと案の定、一気に空は乱れて雨が降り始めた。
さあて、ピナレラちゃんに「御米田家の子にならんか?」ってお話を……と思ったらピナレラちゃんは屋敷の手伝いに行ってしまった。うう、働き者の良い子だああ……
後で男爵にも話を通しておかねえと。
ばあちゃんは持参したもなか村の米で、男爵家の料理人とおにぎりを作ることにしたようだ。おにぎりは温めなくても食えるから、夜の分もまとめて大量に握るらしい。
「来だか。ユウキ」
「勉さん、ポーションはどうなって」
男爵の屋敷で出迎えてくれた勉さんは、見た感じ、まだ杖を持ってるし足は治ってないようだ。
だが勉さんはニヤリと笑って、分厚いレンズの黒縁眼鏡を外した。
「どんだ? なかなかええ男じゃろ」
「あー! 勉三さん、顔! 顔治ってるー!?」
まだちょっと眉の辺りが歪んでるが……うっわ、さすが遠縁。痩せすぎなのと顎の形が違うのを除くと、うちの親父によく似てる。眼光が鋭くて睨まれるとチビりそうになる威圧感とかそっくり。
子供の頃は、目の周りが陥没した顔に従兄弟はビビッてたし、俺もちょっと怖かった。この人、口調もかなりきついしな。
だがこの人はばあちゃんちのご近所さんでもあって、俺も従兄弟もよく勉強や遊びで世話になったものだ。
特にものすごく頭がいい。今でこそ障害者年金と生活保護で生きているが、本当なら東京の大学に進学してエリート街道を邁進していたはずの人だ。
だがこの人が足を悪くして、デカい眼鏡のフレームと分厚いレンズで目元を隠さなきゃいけないほど酷い顔になった理由がある。
勉三さんは例の、もなか村の山の一つを外資に売り払った地主の息子と友人だった。もうその頃にはゴルフ場もできて村の湧水汚染は深刻だったそうだが……特に芝の除草剤だ。せめて環境汚染を軽減する薬剤に変えろと忠告するも友人やその親の地主は聞かず。
最終的に物理、友人やその取り巻きたちと殴り合いの喧嘩に発展し、片足がバキバキに折られて顔も目の周りが潰れて視力もガタ落ちした。
「一対一ならおらぁ怪我なんぞしながっだ!」が勉さんの口癖だが、相手は六人だったそうなので単純で数で負けたわけだ。
――いや負けてない、勝ったんだ。結果的に相手全員を病院送りにして、地主親子はもなか村にも、隣のもなか町にもいられなくなってどこかへ引っ越していった。
しかし喧嘩には勝ったが、合格していた東京の大学の入学式までに治らず、東京に行けなかった。
目も両目揃って、あのぶ厚いレンズの眼鏡でギリギリ物がぼんやり見えるぐらいの視力低下。足も骨はくっついたけど杖なしでは歩けない。
一年二年で回復するほど甘い怪我ではなかった。……泣く泣く、休学ではなく入学辞退した。それが顛末だ。
当時はまだご両親がいたそうだし、何とか家の中でできる仕事で生計を立てていたが、亡くなった後は村長の勧めで大人しく生活保護を申請して現在に至る。
「あとは毎日ポーション塗っで、飲めば治るとさ。足もな」
「よかったなあ、勉さん。眼鏡はまだ必要なのけ?」
「んだ。レンズはもちょっと度の低いのに変えるべさ。隣のど田舎町まで行けば眼鏡屋もあるそうだで」
こんなに嬉しそうにはしゃいでいる勉さんを初めて見る。何十年も不自由だった目や足が治るんだ、そりゃ浮かれもするよな。
「あ。この匂い」
厨房のほうから漂う生姜とニンニク、醤油の香ばしい匂い。これは――唐揚げだ!
浮き浮きした足取りで食堂にばあちゃんたちの手伝いに向かう俺を見送りながら、村長と勉さんがこんな話をしてたらしい。
「ユキちゃんにいつ話す?」
「まあ、いつでもよかんべ」
後から振り返れば、まだまだ異世界体験がイージーモードのうちに、ちゃんとチュートリアルは済ませておいてほしかったっぺ!