「あっつっ……」
鋭い刃のように肌を突き刺す太陽の光。人が地面を蹴るたびに広がる砂埃。若い女子たちの甲高い声が飛び交う中でうっすらと聞こえるウグイスの鳴き声。そして、たまに吹く風に乗ってわずかに揺れる新緑。
 拭っても拭っても吹き出る汗で服が身体に纏わりつく。その気持ちの悪さに幾度も鳥肌が立つ。私は息を切らせながら小走りで目的の場所へ向かう。
「マジ最悪ーっ、ふざけんなー」
 隣で私と同じように足を動かしている女子が掠れた声で叫んだ。友達の李咲(りさ)だ。首に巻かれた可愛らしい動物のキャラクターが描かれたタオルで顔を乱暴に拭っている。
「今日絶対雨降るって思ってたのにさーニュースでもやってたし。なのになにこの青い空。もうまじ最悪!マ・ジ!最悪っ!」
 彼女の顔には、めんどくさい、とはっきり書かれている。
「明日なら曇りでしかもあんま暑くなかったっぽいねー」
 私も彼女と同じような表情を作って言う。
 今日は、毎年五月の上旬頃に行われる『球技大会』の日だ。昨日まで、今日の天気は雨天だとテレビで知らされていた。だがどうだ。実際今は、雲一つない空が頭上に広がり、清々しいほどに太陽がにこにこ笑って輝いて、私たちから水分と栄養を奪っていっている。もし今日雨が降ったら、大会は延期日である明日に行われることになっていた。明日は曇天で気温もちょうど良いらしい。明日が良かったなー、とみんな溜め息を吐いている。
「中等部一年生はグラウンドAに一番近い待機場所に、中等部二年生はグラウンドBに近いところに、中等部三年生はグラウンドF、高等部一年生は………」
 大会の生徒代表がアナウンスで待機場所を示していく。たぶん高等部三年生だ。
 うちの学校は私立の中高一貫校で、女子校だ。そのため学年は全部で六学年。生徒数は合計千二百人とちょっと。平日は毎日、校舎に千人を余裕で超える人数の女が収まっているのだと思うと少しぞっとする。
 やっと待機場所に到着したと同時に、持ってきた手提げ袋から水筒を取り出して中身を一気に口に流し込んでいく。この暑さじゃ十五分に一度のペースで水分を身体に入れないともたないかもしれない。李咲も同じようにしていた。
 五分ほど経って担任から移動の指示があったので、一斉にグラウンド中央部に向かう。
学年ごとに整列する。移動中の際も列を整えている際も
女子の話し声がきんきんざわざわうるさい。まるで真夏のセミの鳴き声のように途絶えることなく耳に突き刺さる。
「おい高一!列一つ足りないぞー。中二!よれよれだから直せー。中三!そんなに列長くなんないはずだちゃんと詰めろー」
 イカつい見た目と雰囲気がゴリラで有名な男の体育教師が壇上でだみ声を上げる。指示がいちいち細かくてうざったい。
「うるさ……何なんもうマジで」
 李咲が体育教師をじとりと睨みつける。普段は優等生な彼女だが、今日ばかりは勘弁しろといった様子だ。数分に一回のペースで大きなため息を吐いている。
周りの生徒たちの喧騒が激しくなっていく。あの教師の偉そうな態度に悪態をついていたり、逆に話し方にツボって爆笑していたり。でも何よりも皆暑さにやられているようだ。呼吸が荒くなり、顔面が真っ赤になっている。とめどなく吹き出る汗を必死に拭っている人もいれば、服の襟の部分をパタパタして首もとに風を送っている人もいる。
 こんな状況で呑気に球技なんてやれるのか。熱中症で倒れる人が続出するのではないか。
不安な気持ちを振り払えないでいると、いつのまにか周りが静寂に包まれていて、開会式が始まっていた。
理事長挨拶、ラジオ体操、校長挨拶、選手宣誓、ルール説明、保健衛生委員会からの注意事項、の順にプログラムが進んでいく。変な順番だなと思う。式が終わるまで暑さに耐えながら時が過ぎるのを待つ。
 開会式が終わり、また各学年が待機場所に小走りで戻る。私と李咲も含め皆水を求めていたらしく、自分の定位置に到着するなり早速水筒の中身をがぶ飲みし始めた。
「こんなんで絶対出来んやろ球技会」
 関西出身でもないのに、先程から関西弁風な喋り方をする李咲に苦笑する。
「暑すぎるもんね。ちょっとやばいかも」
「いややばいなんてもんじゃないよ。倒れるって絶対」
「バスケコート移動しまーす」
 数分は休憩出来ると思っていたが、担任から早速次の指示が出てしまった。李咲が「は?」と言いたげな表情を私に向けてくる。私じゃなくて担任に向けろっ。
「A組とB組の一班準備してー。どっちかゼッケン着てー」
 指定のバスケコートに着くと、うちのクラスの担任が準備を促す声をあげた。一班は両クラスとも軽く円陣を組んで掛け声をあげている。お互いやる気満々のようだ。良かった。
「暑すぎて気ぃ散るけどいちおう勝負だから勝ちたいね」
 李咲が胸の前で両手をグーにする。私もそれに倣った。
「ねー頑張ろー」
 正直、この地獄のような炎天下の中での勝敗などどうでも良かった。とにかく早く終わってほしい。
手の甲で額の汗を拭き取る拍子に腕を見ると、ほんのり赤くなっていた。日焼けだ。そういえば日焼け止めを塗るのを忘れていた。
「おーいけいけ」
「パスパス、パスして!パス!」
「おしいおしい、頑張れー!」
 試合観戦中の生徒たちの声が重なる。一班はお互い猪突猛進タイプが多いようで、とにかく衝突し合っているためか点が入りづらくなっている。
「すげぇー、マウンテンゴリラみたーい」
 李咲が無機質な声と眠たそうな顔で言う。最初はいらいらモードで、それから段々やる気が出てきたと思っていたが次は無表情お化けのようになってしまった。情緒どうなってるんだ。
「いけるいけるいけるいけるいける」
 先程から隣に立つ担任の声が鼓膜を不快にさせる。腕を組んでいて偉そうな立ち居振る舞いの、無駄に若い男。いかにも女慣れしていそうな男。なぜだか分からないが、そういう教師の方が女子生徒からは人気らしい。
「あ、南沢先輩」
 弾むような声が聞こえたので振り返ると、李咲がバレーコートの方を見て嬉しそうにしている。視線の先は高等部三年生のバレーボールの試合だった。
「あ、推し」
「知ってる」
 思わず苦笑いをする。わざわざ教えてくれなくても分かってるよ。
 李咲はダンス部の先輩である南沢先輩という人が”推しの先輩”なのだ。女子校では特に、好きな先輩への愛が強烈なイメージがある。
私はどこの部活にも入っていない帰宅部の身なので、推しの先輩どころか先輩、後輩、同輩と呼べる人はもちろんいない。
 私はただ単に面倒くさいため帰宅部を選んだ。だが、身近に推せる人がいるのは、少し羨ましいと感じてしまう。
 もう一度、視線を試合中のクラスメートの方に向ける。そのうちの一人、ユウカちゃんが自然なドリブルをしながらゴールに向けて走っている。ユウカちゃんはうちのクラスで唯一、バスケ部員だ。期待の星。
「ユウカいけるよー!」
 そのかけ声を合図に、ユウカちゃんがゴールの目の前で止まる。
ボールを構える。そして、腕を伸ばす_____その瞬間。
入る__。綺麗に、バックボードにもどこにも当たらずに__。
 心の中でそう呟いたと同時に、ボールが振り上げられる。そして、美しい軌道を描いたボールは、ゴールの真上で一度静止し、真っ直ぐと下へ、ネットを揺らした。
 わっと歓声が湧き上がる。「よくやった!」という担任の声が鼓膜を突き刺す。反射的に耳を片手で押さえてしまった。
「なんであんな綺麗に入れられんの?意味わからんてー」
 あ、李咲がさっきの調子に戻ってきた。
「ねー、すごー」
「なんで投げる前に入るって分かったの?すごくない?」
「え?」
「ん?えー言ってたやんけー!綺麗に入るって言ってたじゃん」
 笑いながらからかうような口調で肩をつんつんされる。
 心の中だけでの呟きのはずだった。でも、いつのまにか声に出してしまっていたのか。
 気をつけないと。また“あの頃”のような失態を犯してしまう。
「はい、終了してくださーい!」
 ビー!という電子ホイッスルの音と共に、審判が声をあげる。得点板を見ると、一対ゼロと示されていた。一点は、先ほどユウカちゃんが入れた一点だ。
 一時間半ほどでA組、C組、D組との対戦を終え、うちのクラスはいったん待機場所に戻った。
「あー疲れたー!あつー」
 李咲が、携帯用扇風機を顔の前でぶらぶらさせながら言う。彼女が持っているのはライトが結構強めに光る扇風機だったはずだが、今は日光が眩しすぎてまったく見えない。
「ていうかっ、3組連続で試合はだいぶしんどかった」
 日焼け止めを塗りながら言う私に、李咲は意外そうに眉を上げた。
「え、そう?あたしまとめてやってくれた方がありがたいかも」
 あーやっぱり違うなー、と思う。こういうところが優等生の彼女とそうではない私の違い。 
宿題を最初にぱぱっと終わらせる彼女と、提出期限がぎりぎりまで迫ってからやり始める私の違い。
「ていうかさーさっきのあんたすごかったね」
「えぇ?何が?」
「だって何回もボール奪ってたやん。普通にすごかったよ」
 C組との対戦で、私は案外活躍できていたらしい。
「まあめんどくさいからあの一回だけにした、出るの」
「あたしもE組だけだよ。運動そんな得意じゃないから」
 李咲が首をふるふると横に振りながら言う。
「でも勉強できるから良いじゃん」
 目を細め不服そうな声音をつくってみたが、彼女はスルーして、「今んとこ何点だ?うちら」と話題を逸らした。
「五十一。今んとこ三勝だから、あとE組に勝てば……全勝じゃん!一位」
「でもさ、E結構強いらしいよ。Cのやつらが言ってた」
「……………まあ大丈夫だよ!うちらだから」
「うちらなら勝てる?」
「うちらなら勝てる」
「はははっ、さっきまで全然やる気なかった人の発言じゃない!」
 お腹を抱えてひとしきり笑った李咲が、日光に目を細めながらグラウンドを見渡す。私も同じようにする。
 バレーボールの試合でも見ようかな、と思い、バレーコートの方に視線を移す。サーブからスタートしてボールがネットを越えるが、速すぎて誰も取れていない。ほかのコートも見てみたが、全然試合になっていなかった。バレーボールは難しい。
 バレーコートがある方とは反対側の入り口付近に視線を移すと、テントの下で教師と得点を計算している生徒たちが複数人見える。球技大会と体育祭の得点係のシフトは図書委員会が担当することになっているため、私の目には全員頭が良い人として映ってしまう。
うちのクラスは今のところ好成績だから、そうと分かっていても集計されているところを想像するとちょっと嬉しくなる。
 ついでに、入り口に一番近いバスケコートに目を走らせてみる。バスケが上手な生徒が多いらしく、走りながら華麗にボールをパスし、それをジャンプしながら自然に受け取っている。その動作がたびたび繰り返されているため、ボールは止まることなくピョンピョン動き続けている。
「あ」
 ボールがあやまってコートをはずれ、テントに当たる情景がもわっと浮き上がってきた。私は日焼け止めスティックを握りしめたまま反射的に立ち上がってしまった。
 案の定、ピョンピョン跳ねていたボールはその勢いのままテントに直撃した。そして最後は柔らかく跳ね返ってぽとっと地面に落ちた。図書委員の人たちと教師は驚いて固まっている。試合に参加していた生徒二人が、ボールを拾い上げるのと同時に「すみませんでした!」とぺこぺこお辞儀をしている。
 誰も怪我しなくて良かったな、と思うのと同時に、勝手に身体が動いたことにため息を吐く。さっきは口で、今は身体。いい加減気を引き締めなければいけない。
「まの?」
 突然耳元で声がしたのでぱっと横を向くと、いつのまにか立ち上がっていた李咲が不思議そうに私の顔を見ていた。眉を上げながら「どうしたん?」と軽い口調で訊ねてくる。
「あ、ううん何でもない」
「もう移動だって。はやない?さすがに」
「え!はやっ」
 いつも通りの調子で返事をする。周りを見ると、クラスメートたちはグラウンドシューズを履き直して準備をしていた。
 コートに移動する。さきほどと同様一班から試合がスタートした。
「ねえ、さっきから変だよあんた」
 試合が始まってすぐに、李咲が私を怪訝そうに見つめながら話しかけてきた。
「ん?別になんもないよ。だいじょぶ」
 澄ました顔を意識して作る。だが無駄に鋭い彼女は、なおも私の顔をしつこく覗き込んでくる。しつこくと言っても、うざったい感じではまったくない。むしろ安心できるレベルだ。彼女は決して人が嫌がるようなことはしない。
 だから一瞬、絡まった心の糸が解れそうになった。だが咄嗟にぎゅっと糸と糸とを締め付ける。
「………ふーん」
 しばらく私から離れようとしなかった彼女の視線が、試合中のコートに向けられる。李咲のまっすぐな眼差しから逃れられてほっとする。
 いい勝負が続いた。一班の試合は五点差でこちらの勝ち。二班は同点。三班は一点差で負け。四班は六点差という大打撃。今のところ一点差で負けている。ということは勝敗は五班にかかっている。
「李咲、五班出るんだったよね?」
「うーんそうだよ〜、やばいかも普通に」
「だいじょぶだいじょぶ、いってらっしゃい」
 顔を歪ませた李咲の背中をコートの方に押しやる。B組E組それぞれ五班に対する眼差しが熱い。
 一列に並んでそれぞれ相手方にお辞儀をする。それから一分ほど作戦会議を行い、いよいよティップオフの体制に入った。ジャンプボールは李咲が担当するらしい。嫌そうな表情で構える姿が面白くて吹き出す。
 審判がボールを宙に放り投げる。それを最初に打ったのは李咲だった。クラスメートたちの「ナイッス〜」という声が重なった。
 李咲とは中学二年の時クラスが一緒になって、一学期ではほとんど交流はなかったが、夏休みの修学旅行で班が同じになってから急速に仲良くなった。二学期に入ってからは毎日一緒にお弁当を食べるほど親密な仲になった。
 中二が終わる頃、「うちらいつも一緒にいたからさすがに中三は別々のクラスになるよね〜」と話していたが、なぜだかまた一緒のクラスになった。クラス発表の際は、嬉しすぎて手を合わせて喜び合ったものだ。
 彼女は普段表情が豊かな方ではないが、頭の回転が速いためか言葉がすらすら口から出てくる。勉強でもダンス部でも好成績を残していて、人の気持ちを汲み取るのも上手だから、隣にいて安心できる友達だという印象がある。
 コートでは案の定激戦が繰り広げられていた。両クラスとも一点でも多く点を取ることに必死だ。これで勝敗が決まるわけだから当たり前だ。
「李咲頑張れー!いけるよー!」
 クラスメートたちの声援に加わり、私も李咲に向かって叫ぶ。
 相手チームに二点を取られてからなかなか進展する気配のなかった試合に転機が訪れたのは、試合終了まで残り一分を切った時だった。相手チームの一人が仲間に向けてパスをしたボールを、うちのチームの一人がジャンプをしながら奪い取った。ゴールネットにとても近い位置で。
 そしてそのままゴールにボールを投げ入れようとする。だが、目の前に相手チームが立ち塞がる。
「あ、クソ!」
「パスだよ、パス!」
「あ、時間ない」
「大丈夫大丈夫、いけるいける」
 生徒たちの叫び声が、急に真剣な声音に変わる。
 ボールが、宙に放り投げられる。どうやらパスを選択したようだ。
 だが、ボールが落ちるであろう場所には誰もいない。 今現在の得点はゼロ対二。このまま相手チームに奪われて、仕切り直しになるかゲームが終了してしまうのだろうか。
 たぶんほとんどの人が諦めかけたその時、大量の砂埃を撒き散らしながら誰かがコートを走り抜けた。李咲だった。
 彼女は必死に手を伸ばしてボールをキャッチする。そしてそのまま、ボールをゴールの方に掲げながら構える。
___いけ__!
「………‼︎」
 心の中での叫びと、頭の中での衝撃は、ほぼ同じタイミングだった。
 考える隙なんてなかった。私の足はとっくに動いていた。
 一直線にコートを駆ける。視界の端に、罪悪感に満ちた、苦しそうな顔をした相手チームの一人が映る。そのまま李咲に駆け寄り、彼女の腕をがしっと掴む。そのまま思いっきり引っ張った。
 え、という誰かの呟きが耳に入るまで、私は四つん這いになりながら乱れた呼吸を落ち着かせていた。
 顔を上げた瞬間、氷水を全身に浴びたように身体全体が硬直した。
試合中の生徒、審判、観戦中の生徒、教師が、唖然とした様子で私を見ている。
 そして、私が引っ張った勢いで転倒した彼女___李咲は、地面に座るような体勢になったまま目を大きく見開いて、ただひたすら呼吸を繰り返していた。その瞳に、今の私はどう映っているのか。考えるのが怖かった。たくさんの人たちの視線が私の全身を貫く。すごく痛くて、苦しくて、吐きそうだった。
 時が止まったバスケコートを走り抜け、そのまま待機場所に行き、荷物を必死に掻き集める。そして視界が滲む中、何とかグラウンドの出口を見分けて全速力で走った。

❄︎

 バスを降りて、重い足を引きずりながら何とか歩みを進める。
 あの後、私は校舎に戻り教室に駆け込んで、着替えを終えるとそのまま学校を出た。余計なことは考えないように、グラウンドから、学校から逃げることを第一に行動していた。
 どうして、こうなるんだろう。どうして、すぐに動いてしまったんだろう。
 自分が考えていることを冷静に分析しようとすることで、惨めな思いや羞恥心を抱いていることを誤魔化そうとしている自分を、鼻で笑った。今さら何だよ。考えたって無駄なんだ。
 そもそも、私は正しいことをしたはずだ。いつだってそうだ。私の“能力”は在るべきもので、発揮するべきものだ。
 私には、“予知能力”というものがある。先のことが読める能力。だが、予知できる時もあれば、できない時もある。できない時の方が断然多いけれど。
 自分の能力に気がついたのは、四歳の時で、幼稚園の庭でおにごっこをしていた子が転ぶ未来を予知した時だ。その時私は相当戸惑っていて、それが予知能力だと瞬時に判断できていたら助けられたかもしれないが、小さな頭では到底不可能だった。結局その子は全治一ヶ月の怪我を負った。
 どうして逃げてしまったんだ。堂々としていれば良かったんだ。
 私のしたことは正しいんだ。
 李咲がボールを投げる直前に、E組の一人が彼女に体当たりをする未来が見えた。それもかなり強い力で
。何としてでも勝ちたかったのだろう。強い意志が、表情からはっきりと感じ取れた。だがそれと同時に、罪悪感も顔に浮かんでいた。そんなことやっても意味がないのに。そのせいで私は今こんな惨めな思いをしているんだ。
 ぐっと唇を噛む。無意識に拳に力をこもる。今頃グラウンドでは何が起こっているのだろう。その場から逃げた私のことを、生徒や教師、そして李咲はどう思っているのだろう。
 不安に押しつぶされそうになっている時、ある嫌な予感が胸を掻きむしる。
 もしかしたら、教師が私のことを追ってきているかもしれない。家に電話をかけてくるかもしれない。どのみち、電話に関してはきっと現実になるだろう。
 鼻がつん、とする。視界が滲む。慌てて上を向いた。
 気がつけば、目的の場所に辿り着いていた。『仁科法律事務所』と書かれた一メートルほどの長さの看板が視界に入る。そして、ドアに掛けられた〈Close〉というお洒落な筆記体で書かれたお洒落な模様の木の板も。カフェか、と思わずツッコみたくなるレベルに違和感がすごい。
 腕で目を乱暴に擦りながら短く息を吐く。苦しさに耐えながらドアノブを握る。
 いる___。これは、絶対にいる。
 時々だが、こんな小さなことでもいちいち予知してしまうのであれば(そもそもこれを予知というのかは分からないが)、もっと大きな、重要なことをたくさん予知した方が何倍も得じゃないかと思っていた。幼い時は。
 ドアをゆっくりと開ける。と同時に、中から見知った人間の顔がぱっと現れた。
「うわっ!」
 驚きのあまり思わず声が出る。
「え!ごめん大丈夫⁉︎」
 後ろに傾いた私の身体を、その人は慌てながら支えてくれた。そしてゆっくりと起こしてくれる。
「やっぱりいた」
 私はわざとらしく溜め息を吐きながら百瀬さんを見つめる。彼は後頭部をぽりぽりと掻きながら、照れ臭そうな微笑みを浮かべる。
「まのさん学校午前中で終わるって聞いたから、会えるかなーって思って」
「よくそんなこと恥ずかしげもなく言えますね」
 私は困り顔を作ったまま、百瀬さんの横を通り過ぎて中に入る。冷房ががんがん効いた室内は、天国のような空間だ。でも今日は、その天国さえも、李咲たちよりも先に味わったものだと思うと苦痛に感じた。
 「あ、ちょっとー、表から入んないで裏から入れっていつも言ってんじゃん」
 奥の部屋から現れたお母さんが眉間に皺を寄せながら私を見る。仕事関係の資料がまとめてあるファイリングを抱えている。
「別に今日休みだから良いじゃん」
「いや、人が入ったら、あ、今日開いてるのかってなっちゃうじゃん。ちゃんと考えて」
 そう言うと、仕事用デスクの上にファイリングを置いて、また奥の部屋に戻ってしまった。
 私は苛立ちながら、ソファに鞄を乱雑に置く。そしてその横に腰掛ける。百瀬さんはソファーテーブルを挟んだ、私の向かい側のソファに座った。そして、先ほどドリンクサーバーで淹れていた二杯分のお茶の片方を私の前に差し出す。ありがとうございます、と言って受け取りひと口喉に通す。冷たい麦茶だった。
「疲れたでしょ、たっくさん休憩しな!」
「もとからするつもりでした」
「あははっ、そっかそっか〜」
 百瀬さんはへらへら笑いながら麦茶を口に放り込む。カップの角度があまりに急なので、ちょっと面白かった。
「あ、そうそう!久しぶりに薫さんと共同でお仕事させてもらうことになったんだ」
 百瀬さんがうきうきとした表情でそう告げる。薫とは、私のお母さんの名前だ。
「へぇ。どんな内容なんですか?」
「えっとそれはね〜……」
「ちょっとー百瀬くん?」
 奥の部屋のキッチンにいるお母さんが割り込んでくる。扉が開け放たれた状態だったためか、私たちの会話が聞こえていたらしい。
「あんまり余計なことは言わないでね。娘だとしても仕事と家庭の区別はちゃんとつけたいから」
「あ、そうでしたね。すみません」
 百瀬さんは眉を下げて申し訳なさそうな顔になる。それから私の方を見て苦笑いを浮かべた。
 私の母は弁護士をしている。私が六歳の時に父が亡くなり、それから一年ほど経って個人弁護士事務所『仁科法律事務所』を立ち上げた。ここは、母と私の家であり、そして事務所だ。
 一方の百瀬さんは、大手探偵事務所に勤める探偵さん。弁護士と探偵は、一人の依頼人を通して仕事上で繋がることがあるらしい。
 六年前、私が小学三年生の時、母から百瀬さんを紹介された。どのような経緯で二人が知り合ったかは未だに知らないが、たぶん仕事上関わる機会があったという感じなのだろう。当時はよく一緒に遊んだりデパートに三人で出かけたりしていたが、私が小学六年生になる頃にはぱったりとなくなった。中学受験を控えていたからである。
 百瀬さんは、暇な時はたびたびうちにひとときの休息のためにやってくる。というより、遊びにやってくると言った方が近い気がするが。
「お昼サンドウィッチかクレープかパンケーキどれが良いー?」
「クレープ」
「百瀬くんはー?」
「俺はサンドウィッチでー!」
 こんな会話も、もはや日常茶飯事になってしまっている。
「今日も社員食堂には行かなかったんですね」
 意味もなく片手でカップを時計回りに回して液体の表面がくるくるするのを眺めながら、私は訊ねた。
「うん。社員食堂は落ち着かないからね。安心してご飯楽しめないから」
 安心して、という言葉にどこか引っ掛かりを覚えたが、特に気にせず、「そうなんですね」と相槌を打つ。
「でも薫さんに作ってもらうのはちょっと申し訳ないかな」
 笑いながら言う彼に、溜め息を吐いてみせる。
「そう思ってるんだったら食堂で食べてくださいよ」
「まあね〜、でもここ落ち着くからさ」
 百瀬さんはエアコンの方に顔を向けて気持ちよさそうに目を細めている。暑いんだったらコート脱げば良いのに、と心の中で呟きながら、こっそり彼の服装に視線を向ける。
 黄土色のチェスターコートの中から、グレーのスーツと紺色のネクタイが覗いている。腕には、安くもなければ高くもなさそうな腕時計をはめている。ドラマやアニメなどでよく目にする探偵の身だしなみそのままだったので、最初に見た時は驚いたものだ。
「はーい、お待たせ〜」
 キッチンから出てきたお母さんが、いちごクレープと三種類のサンドウィッチが載った皿を持ってこちらにやってくる。
「ありがとうございます!うっわぁ〜美味しそ〜」
 百瀬さんがぱっと顔を輝かせてテーブルに置かれた皿を引き寄せると「いっただっきま〜すっ」と言いながら早速ひとつを頬張り始める。
「う〜、うわぁ〜い(ん〜、うま〜い)」
 私も、ありがと、と言って受け取ったクレープを口に運ぶ。ホイップクリームの柔らかな食感と程よい甘みが口全体を包み込む。いちごの酸味とマッチしてとても美味しい。
 書類棚から何かを取り出して整理をし始めたお母さんが「あ、ねえ」と私の方を振り向く。
「上履きと体操着ちゃんと持って帰ってきた?」
 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
「……ごめん、忘れた」
 そう言うと、お母さんは「え〜⁉︎」と大袈裟に溜め息混じりの声をあげる。
「月曜体育あるの?」
「……ない。水曜ある」
「じゃあ月曜必ず持って帰ってきて」
 それは、月曜日に学校に行く前提の話だ。想像すると、とてつもなく苦しくなる。
 考える余裕なんてなかったのだ。一刻も早くあの場から逃げ出すことしか頭になかったんだ。
 分かってよ。何の事情も話していないくせに生意気な気持ちが口から出そうになったが、すんでのところで呑み込んだ。
「まのさんは他のことたくさん頑張ってるみたいだから、そういうの忘れちゃう時もあるもんね」
 百瀬さんは微笑みながらよく分からないことを言った。ふっと少しだけ荷が軽くなったような気がする。
「俺ももっと青春謳歌したかったな〜。手放したくなかった」
 百瀬さんが組んだ腕を真上に伸ばしながらソファにだらりと寄りかかる。
 どう言う意味だろう。彼は大学を卒業していると聞いたが、違うのだろうか。もしくは中退したとかなのだろうか。
「あ、ちょっと。ソファ汚くなっちゃうじゃん。やめてよねー」
「え、大丈夫ですよ〜。このソファは生地が良いし、何より頑丈だから」
「それと汚くなるは別じゃないのかなー勇人(はやと)くん?」
「お、名前呼びっ」
「はぁーもうそんなのどうでも良いから早く姿勢正して」
「はーい」
 仲が良いなぁと思いながら、ふと考える。
 二人はただの仕事仲間に過ぎない。いや、仕事仲間というのは普通、同じ職場の人間同士のことを指す場合がほとんどだ(中学生の私が思うには)。だからなおさら、どうやってここまで親密な関係になったんだろうと不思議に思ってしまう。
 百瀬さんは二十六歳。私の母とは二十歳くらい歳が離れている。六年前に知り合ってから、依頼者を通して定期的に関わっていたのなら、確かに納得できる。だが、やはり疑問は残ったままだ。
 二人がぴーぴー会話をしている端で、私はぼーっとしながらひたすらクレープにかぶりついていた。
 しばらくすると、プルル、プルル、という音が室内に響いた。
 何だろうと思い顔を動かすと、私の目は、お母さんの仕事用デスクの上に置かれた電話に留まった。
 心臓が止まりそう、という言葉がこんなにもぴったりな状況があるだろうか。
 鼓動が嫌というほど、ばくばくと鳴る。呼吸が荒くなっていくのを自覚したが抑える術もない。
 振り返ったお母さんが、そのままデスクの方に向かって歩く。そして、真面目な表情で受話器を取った。
「はい。こちら仁科法律事務所でございます」
 お母さんの一トーン高くなった声が響く。私は無意識に胸を押さえていた。
「あ、はい、真鍋様。……はい。……あ、そちらの件につきましてはまた改めて私の方からご連絡させていただく形になるかと……はい。……はい、ありがとうございます。失礼致しまーす」
 心の底から安堵する、という言葉がこんなにもぴったりな状況も、なかなかないものだ。
 私が予想していた最悪な事態は、現時点では起こらなかった。緊張していつのまにか強張っていた身体が、一気に脱力していくのを感じる。
 制服のスカートを見ると、大きく傾いていたクレープからホイップクリームがひと塊落ちていた。

❄︎

 葉桜の並木道を抜けて、街の中心部に出る。まだ午前中の早い時間にもかかわらず、ほとんどの店がオープンしており、人の姿も多く見られた。
 今日は金曜日だが、憲法記念日のため学校は休みだった。今朝早くに目が覚めて一階のリビングに降りると、もう起きて朝ごはんの準備に取り掛かっていたお母さんに、今日はお客さんが来ることになっていて忙しいから、代わりに外に買い物に行ってほしいと頼まれた。 依頼人のことを、私の前ではわざわざ「お客さん」と呼ぶことが、未だに幼い子供扱いをされているようであまり気に食わない。
 昨日の失態が頭にこびりついて離れない。そんな時に家でじっとしてなんていられるはずがない。だから、外出することで少しでも気が紛れるかもしれないという希望は少なからずある。
 大通りに出てしばらく歩くと、大きな広場のような場所が視界に広がった。木々がぽつんぽつんと立っており、ブランコや滑り台などの典型的な遊具が少しある、開放的な広場。見た感じ東京ドーム三個分ほどの広さだろうか。子供連れの家族や、犬と散歩しているお年寄りがちらほら見られる。初めて通る道なので、こんなに素敵な場所が住んでいる地区内に存在していたのだと思うと、嬉しくなる。
 広場を素通りしてしばらく歩を進めると、あっという間に目的の場所にたどり着いた。『ビヤンミニモール』という塔屋看板が見える。もちろん名前はあらかじめお母さんから聞いているが、独特なので意味を調べてみると、『ビヤンとは、フランス語で、おいで、という意味で、たくさんの人で賑わってほしいという意味が込められている』とあった。
 おいで。地味に怖い名前だ。
 自動ドアから中に入ると、冷気に包まれた空間が心地良くてひとつ深呼吸をした。それにより自分が喉が渇いていることに気づく。あとで麦茶か何か買おう、と心の中で呟きながら、とりあえず目的の店を目指して足を動かす。
 歩きながら周りを見渡す。小さなショッピングモールのわりには結構広くて人も多い。天井が高いためか人々の声がよく響く。こういう場所にはなかなか足を運ぶ機会がない私にとっては、慣れていないためか少し息苦しい。
 途中で、素敵なお店を見つけた。
 それは、木製のおもちゃや飾り用の小さな家具が売られているお店だ。
 腰をかがめて売り物をひとつひとつ確認してみる。ドールハウス、からくり人形、小さな木琴など、可愛らしい物がたくさん並んでいる。
 ドールハウスの中に置かれていた木の机を持ち上げてみる。想像以上の軽さに驚いたが、そのまま引き寄せてもう片方の手で撫でる。感触が心地良い。
 そういえば、お父さんもこういうのが好きだった。観賞用のミニピアノを私に作ってくれたり、時にはちゃんとした使える丸椅子を作ってお母さんにプレゼントしたりしていた。
「あれ、まのさん?」
 懐かしさに浸っていると、後ろから声をかけられた。驚いて振り返ると、そこには見知った顔があった。
「……百瀬さん」
 彼は相変わらず満面の笑みを浮かべている。
「驚いた、まさか知り合いに会うとは思わなかったよ。今日はどうしたの?」
「今日は母に頼まれて買い物に来ました」
「へえ、そうなんだ。偉いな〜」
「百瀬さんは?」
「俺は同僚に手土産買って帰ろうと思って」
 彼はそう言うと、周りをきょろきょろ見回した。それから私に向き直り、さらに笑顔になる。
「もし良かったら、一緒にお茶とかしない?」

 私たちが入ったのは、一階にある喫茶店チェーンだ。百瀬さんはアイスコーヒーとマカロンを、私はバニラシェイクとハムチーズサンドを注文し、カウンター席に並んで座った。
「あ、私今日朝ごはん食べるの忘れてたっ」
 唐突に思い出したので思わず呟くと、隣の百瀬さんが「え⁉︎」とこちらを振り向く。
「誘って良かったー。まのさん倒れちゃうところだった」
「そんな一回朝食抜いたくらいで倒れませんって」
「そんなの分かんないじゃんっ」
「まあそうですね」
 笑い合いながら、それぞれマカロンとサンドを手に取る。いただきます、と二人同時に言うと、目の前のそれにかぶりついた。
 窓から外の景色を眺める。今日も相変わらず晴れていた。
「どうしたの?そんな顔して」
「え」
「元気なさそうだよ」
 百瀬さんは心配そうに私の顔を見つめてくる。私は首を振った。
「いやなんか……晴れてるなぁって思って」
「そうだね。いい天気だ」
 百瀬さんは優しく微笑みながら空を眺めている。
「晴れ、好きですか」
 言ってから、私は何を質問しているのだろう、と呆れる。そんなこと言われても、と怪訝な顔をされるだけだ。そう思っていたが、
「うん、好きだよ」
 あっさりと答えてくれた。
「曇だとちょっとテンション下がるし、雨だったら尾行中とかちょっと大変なんだよね。視界が悪くなるし、人が差してる傘で見失うこととか結構あるから」
 いきなり仕事の話が出てきて少し驚いた。だが、探偵、という仕事に興味がある分、話が少しでも出たからにはこの機会に色々と聞いてみたかった。
「探偵さん、って、普段どういうことされてるんですか?」
 百瀬さんが驚いたようにこちらを振り向く。唇の端にマカロンの食べかすがくっ付いていた。少し呆れながら指で拭ってやると、彼は照れたように「ありがと」と笑ってから姿勢を正した。
「んーどんな仕事、かー。なんかね、うちの会社は基本二十四時間三六五日営業だけど、俺みたいな新人の若造はみんな、結構休みが与えられてる。とにかく色々調査しまくるんだよね。面接したり、聞き込みしたり、尾行したり。尾行する時は一回三〜五時間が目安なんだ。内容は様々だよ」
 つまんだアイスコーヒーのストローをくるくるしながら百瀬さんは話してくれる。
「なんか、警察みたいですね」
 そう言うと、彼はあははと笑いながら手をひらひら振る。
「そんなんじゃないよ。確かに似てるけど、根本的に違うんだ。警察の方は刑事事件でこっちは民事だからね」
「へえ」
 探偵という仕事をしている人は、周りに職業を聞かれた時には曖昧に濁すものかと思っていたが、少なくとも百瀬さんはあっけらかんと話してくれた。
「すごく、楽しそうですね」
 思わずそう呟くと、彼は驚いたようにこちらを振り向き、音が出そうなほど長いまつ毛をぱちぱちと瞬かせてから、またすぐに笑顔になった。
「うん、そうだね……楽しいなあ……」
 何か考え込むように前を見つめたまま呟く彼の隣で、私は考えていた。
 私は、学校が楽しくない。せっかく受験をして入れた学校なのに、もう楽しいだなんて思えなくなってしまった。
 だから、百瀬さんのことが羨ましかった。何も躊躇する素振りを見せずに楽しいと言える彼が羨ましい。
 私はバニラシェイクのストローを掴んで引っ張り、口に差し込んだ。
 その後も、最近好きなアーティストは誰々〜、苦手な動物は何々〜、この前何々道で指輪を見かけた〜など、他愛のない話に花を咲かせ、二人とも食べ終わったタイミングで席を立った。
 ペーパーやストローを分別してゴミ箱に捨てている時、隣から小さな笑い声が聞こえた。
 隣を向くと、百瀬さんが私に笑いかけていた。
「どうかしましたか……?」
「いやなんか、今日久々にまのさんと会話できたなぁって思って」
「何ですかそれ。昨日も一緒に話したじゃないですか」
「まあそうなんだけど、でも今日はさ、昔みたいに色々遠慮せず話せたから」
 百瀬さんが懐かしむような表情を浮かべる。
「え、いつもこんな感じじゃありません?」
 私が首を傾けて尋ねると、彼は一瞬唇を尖らせた。
「だって、まのさんの受験勉強本格的にスタートしてから、なかなか三人で遊べる機会がなくて、それは当たり前のことなんだけど、」
 そう言ってから、今度は眉を下げてはにかむ。
「まのさんの受験が終わって、無事志望校に受かったって聞いて嬉しかった。だからまた前みたいに遊べるかなーとか思ってたけど、なんかまのさん大人になっちゃって、そういう雰囲気じゃなくなっちゃったから」
 彼の言い方を気持ち悪く感じないのは、おっとりとした喋り方と、今、ちょうど良い物理的な距離感を彼が作ってくれているからだ。
「……楽しかったです」
 そう言うと、彼は穏やかな笑みを浮かべる。
「うん、俺も。じゃあまた今度ね。気をつけて」
 店の前で彼と分かれてから、私はお母さんに頼まれていたものと、さきほど可愛いお店で見かけたドールハウスの木の椅子をひとつ買い、『ビヤンミニモール』を後にした。

❄︎

 日曜日の夜、お母さんと私は食卓を囲んでカレーライスを頬張っていた。
「一昨日の買い出しありがとうね。忙しかったから助かった」
 お母さんがサラダを口に運びながら言う。私は「うん」と頷いた。
「この間百瀬くんが言ってた共同で仕事することになったっていうやつ、順調に進みそう。本当に、弁護士が、依頼者に相談を受けた探偵に話をもらったっていうだけの話なのに、あの人、共同でーなんて大袈裟に言っちゃってさー」
 お母さんが困ったように眉を下げる。私も苦笑いを浮かべた。
「そういえばビヤンで百瀬さんに会ったよ。同僚さんにお土産買ってったらしい」
「へー、そう」
「うん。一緒にちょっとだけお茶した。色々話したよ」
 そう言うと、お母さんが「百瀬くんから誘われたんだよね?」と尋ねてきた。
「うん。もし良かったらって」
 お母さんは苦笑いを浮かべて「前からそうなんだよね」と言った。
「なんかあの人、知り合いにばったり会っちゃった時とか、すぐにその場でお茶とか誘っちゃったりするらしいんだよね、前に言ってた。特に悩みを抱えた人とかは、それで安心できるんじゃないかーなんて大袈裟なこと言って。どうしてそういう思考に辿り着くのかが未だに分からないわ」
 確かに、百瀬さんの考え方は独特だ。人とは違う空気を常に纏っている彼だけれど、考え方も私たちとは異なるらしい。私の彼に対する印象は、おしとやかでちょっと浮世離れした細身の男の人。
「百瀬さんがね、私が大人になっちゃったから、最近一緒に遊ぼうみたいな雰囲気じゃなくなっちゃったってちょっと寂しそうだった」
 私の言葉に、お母さんが口に含んでいた水を噴き出しそうになっていた。
「らしいわー」
 お母さんが口元に手を当てて笑った。だが、数秒経って、いきなり真剣な顔つきに変わった。
「……ねえ」
 私はその表情に怯えながらも「何、どうしたの」と答える。
「……いや、何でもない」
 私をじっと見つめていたお母さんの視線が、手元のカレーライスに移る。ほっとしたのも束の間、急に不安に駆られた。
「……なんか聞いたの?」
 掠れた声で訊ねると、お母さんは意外そうに「どうして?」と眉を上げた。その反応を見て、思わず拍子抜けしてしまう。
「いや、忘れて」
 何も聞いていないのであればそれで良い。確かめられて良かった。
 その後も黙々とカレーライスを頬張っていると、視界の端に小さな紙袋が映った。
 ふと思い出して、席を立つ。紙袋を開けて中身をお母さんに掲げて見せる。
「見て。可愛いお店あったから買ってきた」
 ドールハウスの中にあった小さな木の椅子だ。お母さんは目を大きくして「おー可愛いね」と言ってくれる。
「お父さんも好きだったよね、こういうの」
 ほとんど無意識のうちに口が動いた。数秒経って、しまった、と後悔に襲われる。
 恐る恐るお母さんの顔を見る。その表情は完全なる真顔だった。
「……うん、そうだったね」
 そう言ってから、またすぐに下を向いてカレーを掻き集め始める。私も静かに腰を下ろして、ひたすら手と口を動かした。
 その後もお互い何も喋らずに食べ続け、お母さんよりも早く食べ終えた私は、食器を水につけた後早々にリビングを出た。
 二階に上がり自室に入る。ドアを背にして立ち、目を閉じてしばらく深呼吸をした。
 目を開ける。通学用リュックが視界に入る。
 明日からまた、学校が始まる。私が必死な思いで逃げて、頭から消し去ろうとした学校に。
 何と言われるか分からない。そもそも責められるかどうかも分からない。
 みんな気を遣って、球技会のことには一切触れずにいてくれるかもしれない。だがそれがいちばん嫌だ。
 教室には入らない。だが、別の場所なら、安心して足を運べるかもしれない。

❄︎
 
「失礼します」
 コンコンコン、と三回ノックをして、ドアをゆっくりと開ける。
 はーい、という柔らかい声で返事をしながらこちらに駆け寄ってきた養護教諭の佐崎先生が、奥に置かれているソファに誘導してくれた。
「待ってたよ」
 そう言ってにこやかに微笑む先生の隣で、私は少し罪悪感を覚えていた。
 私は、保健室登校をしている。今日は三日目だ。
 教師から嫌なことを言われたわけでも、生徒にいじめを受けているわけでもない。それなのに、自分の心だけの問題でわざわざここに来ることが、申し訳なく思えてくる。
 だが、なら教室に行けばいい、とはならない。なれない。
「はい」
 佐崎先生が折り畳み式のテーブルを持ってきて広げてくれた。ありがとうございますと返事をしながら、リュックの中から数学の教材と筆箱を取り出す。
「今担任の先生に連絡しますね〜」
 佐崎先生はそう言いながら、デスクの上に置かれた教師専用の携帯を手に取る。
 複雑な気持ちになるが、仕方がないことだ。
「あ、長谷部先生、仁科まのさん来ました。……はい……はい、よろしくお願いしまーす」
 一昨日と昨日は、担任は私用により学校にはいなかったという。今日は出勤しているので、私と話をしにここへやってくるだろう。考えただけで気が遠くなりそうだ。
 気を紛らわすために、数学の問題集の応用例題のページを開いて解き始めた。難解だが、解きごたえのある問題がずらりと並んでおり、萎えるどころか緊張感が走った。
 ノートの上でシャープペンシルを走らせる。普段は周りにかき消されるこの音だが、生徒は私ひとりだけの空間なので、しーんと静まり返っている中に自分のペンの音が心地よく響く。とても落ち着くことができた。
 だが、それも束の間、ドアをノックする音とともに背筋がひやりとした。
「失礼しまーす」
 担任がひょこっと顔を出した。そしてそのまま中に入ってくる。
 目が合う。私は視線だけを下に向けたまま頭を下げて会釈をした。男性の中でも背が高い担任は、体格は普通だが地味に威圧感がある。
 シャーペンの芯を意味もなく擦っていると、担任がこちらに近づいてきて、私に目線を合わせるように膝立ちになった。
「……お久しぶりです」
 かろうじて声だけは出せたが、随分と上から目線な発言になってしまった。
 恐る恐る顔を上げると、担任は手元の紙に目線を落として枚数を数えた後、それをこちらに差し出してきた。
「これ今日の朝礼で配られたやつだから渡しときますねー」
「……ありがとうございます」
 お礼を言ってすばやく受け取る。用は済んだのだから、もう帰るだろうと思った。思いたかった。だが、
「この前のことなんだけど、」
 そんな甘いわけはなかった。
 担任は気を遣うように控えめな表情と視線を私に向けてくる。それが怖い。
「なんか、理由とかあったら、できたら教えてほしくって。事情がないと普通あんなことはしないと思うから、仁科さんは」
 もちろん、私でなくても、事情がなければあんなことはしない。それを叫びたかった。だが、すべてを話すわけにはいかない。どうせ信じてもらえない。
「……事情は、ちゃんとありました。でも……ちょっと言いにくいです……」
 正直、「試合中の相手チームの一人が李咲にタックルしようとしていたので、どうしても彼女を助けたかった」と言うのが無難だろう。間違っているわけではないのだから。
 だがそれも言えなかった。E組のその子が責められるかもしれないから。
 実際に起こっていたら加害者になっていたのだから、庇う必要なんてないと分かっている。だが、言う気にはなれない。
 いや、それは単なる言い訳に過ぎない。自分を信じてもらえないだけではなく、他人を悪者扱いする生徒だという認識になる可能性の方が圧倒的に高いから、私は言わないだけだ。
「……僕はまあ、仁科さんのペースでやってくれたらって思ってるので、もし話してくれる気になったら、教えてほしいな」
 嘘をついているようには見えなかった。本当にそう思っているという表情と声音だった。
「じゃあ」
 そう言って立ち上がり入り口のドアに向かって歩き出した担任が、ふいに思い出したようにこちらを振り返る。
「みんな心配してたよ」
 え、という自分の発した呟きが、思った以上に大きかった。
「そんなはずないですよ。だって私のせいでうちのクラスは負けたから、……」
「いや、うちのクラスは優勝したよ」
「え」
 どういうことだろう。李咲が最後の希望だと思っていたが、まさか違ったのか。
「C組と戦った時の点数に誤りがあったっぽくて、それでうちのクラスの得点が三点も上がったんだよね。だから、E組には負けたけど、得点で優遇されたらしい」
 そうだったのか。いや、そうだとしても、心から喜べなかった。
 結局、私が李咲に恥をかかせたことに変わりはない。そしてきっと、大会が終わった後も、みんな私に対しての嫌悪感は少なからずあったはずだ。
「だから安心して大丈夫だよ、本当に」
 担任はそう言った後、佐崎先生に「じゃあ失礼します」と軽くお辞儀をして、保健室を後にした。
「仁科さん」
 担任が去った後すぐに、佐崎先生がこちらに駆け寄ってきた。
「お母さんにはまだ言わない?」
 私は親に無断で保健室登校をしている。そのことを言っているのだろう。
「あ……はい、ちょっとまだ言えてなくて……」
「そっか、言いにくいんだったら無理強いはしないんだけど、お母様も知ってた方が安心するんじゃないかなって思って」
 そもそも知らなければ、本人にとっては安心するも何もないだろう。
「……はい、すみません……」
 佐崎先生は「え!謝んないでっ」と言ってくれたが、先生に心配をかけていることは事実だ。

❄︎

 保健室登校をし始めてから一週間以上が経過した。未だに、お母さんには言えていない。
 今日は木曜日なので、事務所は休みだ。私は一階のリビングで文庫本を読んでいた。
 お母さんはキッチンで洗い物をしている。手が空いているのだから手伝えばいい話だが、どうしても本から目線が離せない。薄情な娘だ。
 ある段階まで読み終えたところで一旦本を閉じた。そして、この前買った小さな木の椅子を手のひらに乗せてじっと見つめる。
 ドールハウス用のものなのでもちろんサイズは小さいが、脚の形や座面の模様がしっかりとしている。色は、榛摺(はりずり)。お父さんの好きな色だ。
 お父さんはごく一般的な会社員だった。だが、仕事とはまったく関係なく家の模様替えなどをよく好んでやっていた。友人が大工をやっていて、その影響でデザインにはまったと言っていたっけ。
 私が今座っている椅子も、お母さんが仕事用デスクとして使用しているものも、お父さんが作ってくれた。とても懐かしい思い出だ。
「ねえ、ちょっと話があるんだけど」
 いつのまにか洗い物を終えていたお母さんが、机を挟んだ私の真向かいに立っていた。そしてゆっくりと椅子をひくと、深呼吸をしながら腰を下ろした。
 こういう時に限って、私の予知能力は働かない。
「お母さん先週の土曜日休みだったから、あんたが家出ってってしばらくしてから車で買い物に行った。学校の前通ったんだけど……授業が始まるはずの時間より一時間も遅れて学校に入ってくあんたのこと見た」
 鼓動が早くなる。何を言われるか、予想はついていたがいざ目の前でそれが起こると、どう反応していいか分からない。
「……もしかしてだけど、保健室登校してるとか?」
 この人は無駄に鋭い。
「……そうだよ。悪い?」
 思わず攻撃的な声音になってしまった。お母さんは眉を寄せて、「何で?」と踏み込んでくる。
「いやなんか、授業受けたくないなーって」
 もうここまで来たら開き直るしかない。堂々とした姿勢を崩さずに平然とすることを心がけた。
「……明日は教室に行って」
 一瞬、耳を疑った。まさかそんな直接的に言われるとは思ってもいなかったので、さすがに戸惑った。そして、後から怒りが湧いてきた。
「は?どうして…」
「どうしてじゃない、行って」
 娘の気持ちをこれっぽっちも考えていない母親の態度に、私は苛立ちを隠しきれなかった。
 お母さんは「じゃあ、書類整理しなきゃいけないから」と言って席を立ちデスクに向かう。私は反射的に立ち上がり、その背中を睨みつける。握った拳が震えていることに気がつくのに、時間がかかった。
 お母さんが椅子に腰掛けたのと同じタイミングで、インターホンが鳴った。お母さんは立ち上がり、モニターを覗いた。
「百瀬くん……」
「え?」
 お母さんが玄関のドアを開けると、百瀬さんが笑顔でそこに立っていた。
 タイミングが良いのか悪いのか、百瀬さんは、手土産を持ってきました!と言って満面の笑みで私たちに袋を掲げる。
「わぁーありがと。あ、ちょっと待って。私もこの前買ったお菓子あるから持ってくるね」
 袋を受け取ったお母さんが、そこ座ってて、と彼に声をかけて奥の部屋に消えていく。
「まのさん」
 百瀬さんがじっと私を見つめる。私はゆっくりと彼の視線に自分の視線を絡ませた。
「笑って」
 穏やかな笑顔で、そう言われた。
「この世に、マイナスにしか働かないものなんてない。逆に、プラスだと思っていることでも、必ずマイナスな面も持ち合わせている。どんなことにおいても、長所と短所がある。だから、自分が選択した道を、安心して進んで良いんだよ」
 百瀬さんは、微笑みの中に真剣な眼差しを差し込んだ表情でそう言った後、今度は照れくさそうに頭を掻いた。
「もし悩んでることがあったら、今俺が言ったことを思い出してほしいなって思って……」 
 私は目を閉じて、彼の言葉を心の中で反芻する。
「……ありがとうございます」
 私の言葉に、彼はぱっと顔を輝かせた。
「うん」

❄︎

 翌日、バスを降りた私は、学校への道を歩いていた。
 今朝、家を出る直前に「ちゃんと授業受けてきなさい」とお母さんに念押しされた。もう逃げることは出来ないんだと悟った。
 足が重い。行きたくない。帰りたい。
 そんな衝動に駆られたが、正直もう何をしても一緒な気がした。
 唯一の救いは、昨晩の百瀬さんの言葉だった。彼は不思議な力を持っている。人を安心させる力を持っている。
 百瀬さんの言葉を心に留めて、私は一歩一歩進んでいく。
 学校が近づくにつれ、登校中の生徒の数が増えてきた。私は自然と顔を伏せる。
 門の前に到着する。そしてそのままくぐり抜けた。
 校舎の中に入ると、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。ばくばくと鳴る心臓の音が嫌というほど耳に届く。
 覚悟を決めて、歩き出した。中等部三年生の教室がある三階までの階段を一段一段上っていく。
 三階に到着する。ここまで来たのだから、引き返すことはできない。そんなのもったいない。
 教室に入ったら、まずみんなに謝る。とくに、李咲には、しっかりと頭を下げて謝罪をする。そして、担任にも挨拶をして、事情を説明する。完全には納得してもらえないと思うが、とにかく、今の私にできることは、それだけだ。
「え、マジでウケるんだけどっ」
「それなー、どうしたんだろうね」
「ちょっと怖くなってきたわ」
 女子トイレの入り口の前で、足が止まった。その瞬間、全身が猛烈に震え出した。
 ぎゃはぎゃはと騒ぐ女子複数人の声が中から聞こえてくる。聞くべきではない内容だと、すぐに予知できた。通り過ぎるべきだと、頭では分かっている。
 後ろから、登校した生徒が次々に私の横を通過していく。その先には、教室がある。
「李咲ちゃん?だっけ。前も言ったけどほんとかわいそーだなー」
「え、マジでほんとにさ、うちらもめっちゃ困ったよねあん時」
「先生とかやばかったもん。え、っていう空気だったよね。マジこっちが気まずかった」
「で、その子何組だっけ?」
「びーぐみびーぐみ。仁科まのちゃんって子」
 心を覆っていた分厚い壁が、一気に崩れ落ちていく。
 目の前が真っ暗になった。周りの喧騒は一切聞こえず、ただ、女子たちの甲高い声が鼓膜を鋭く突き刺してくる。
 無理だ。これ以上、私は前に進めない。
 一歩ずつ、後ろに下がる。数歩後ろに下がったところで、私はさきほど通った門に向き直り、走った。
 
 どれくらいの時間が経ったのか。
 私は学校から逃げた。また、逃げた。そしてあてもないまま、ふらふらと幽霊のように街を彷徨っていた。
 そして、ほとんど真っ白な頭で、何とか家の前まで帰ってきた。
 スマホを取り出すと、そこには『十五時三十分』と表示されていた。ろくに休憩もしないまま六時間以上歩いていたらしい。
 玄関の前に立つ。そして、震える手で何とかドアを開けて中に入った。
 視界に入ったのは、デスクの上で大量の紙束を整理していたお母さんの横顔だった。
 私はぼーっとしたまま、しばらくドアに寄りかかっていた。そして、二階に上ろうとした、その時。
「おかえり」
 冷たい声が、鼓膜を揺らした。
「どこ行ってたの」
 お母さんは作業する手を止めず、平坦な声で尋ねてくる。
「どこ行ってたのかって聞いてんの」
 答えたくない。
「またサボったんだね」
 また、という言葉が、胸にぐさりと突き刺さった。鼓動がありえないほどに大きく、速くなる。
 どういうこと、どうして。そう言いたかったが、声が掠れて喉元で消えてしまう。
「……球技会の時も、途中で一人で帰ったんでしょ」
「なんでっ、……」
「長谷部先生から聞いてたよ。当日に」
 ああ、やっぱり聞いていたのか。
 でも、それなら、どうして今の今まで私に伝えなかったのだろうか。分かっていて、何かあったのかと色々詮索してきたのか。どうしてそんな最低なことをしたのか。理解できなかった。
「まの。自分の口ではっきりと説明して。じゃなきゃ私も分からないでしょ」
 何でよ。全部聞いたんでしょ?だったら私に確認する必要なんてないじゃん。
「はぁ……授業料高いんだよ」
 信じられない言葉をお母さんは発した。私は目を見開いたまま、こちらを見ようともしない彼女の横顔を凝視する。
「良い加減にして……本当に何なの?小さい時から」
 お母さんの言葉一つ一つが、私の胸を切り裂いていく。
「そんな言い方ないじゃんっ……!」
 私は精一杯声を絞り出した。それでもお母さんは手を止めない。
「どうして……?そもそも受験したいって言いだしたのはあんただよ?最後まで責任持ってよ。具合が悪い日以外はちゃんと出席して。学校にも私にも心配かけないで。もう中三でしょ?いつまでも甘えないで」
 私は、この人に甘えたことなんて一回もない。お父さんが死んでから、親子らしいことは何一つしてくれなかった。
「うるさい……黙れっ……‼︎」
 乱暴な言葉を吐いても、お母さんはやはり振り向かない。だから、私はこの人にとって最も強烈な言葉を、わざとぶつけた。
「……お父さんだったら絶対にそんなこと言わない」
 お母さんの動きが止まった。そのまましばらく動かない。
 数秒経ってから、ゆっくりと私の方を振り向く。
 彼女の目は真っ赤だった。身体を小刻みに震わせながら私の方に向かってくる。
 気がつけば、右頬に衝撃が走っていた。それと同時に、懐かしい痛みを左頬に感じた。
 彼女は自分の娘を殴った左手をじっと見つめる。そして、それをもう片方の手で抑えながら、何かを堪えるようにゆっくりと下を向く。そしてそのまま、低く、呻くように呟いた。
「……わがままな娘に育ててごめん……満足させてあげられなくてごめん……」
 顔をあげたお母さんの頬は、濡れていた。
「は…?……なんでお母さんが泣くの……意味分かんない、泣きたいのはこっちなのに!!」
 必死に抑えていたものが溢れ出さないように、私の気持ちが伝わるように、瞬きをせずお母さんを見つめた。
「……ごめんね。こんな娘で」
 吐き捨てるように言うと、私は鞄を床に放り投げてそのまま玄関から外へ出た。

❄︎

 私には、中学受験を希望した明確な理由があった。 
 小学三年生の夏に、学校で書写の授業があった。その日は皆んな学校指定の書写セットを持ってきていた。私ももちろん自分の物を持ってきた。
 だが、忘れてきてしまった子が何人かいた。朝礼前に、『どうしよー!』と喚き散らしながら友達に泣きついていた。その日書写の授業があったのはうちのクラスのみだったので、他のクラスの子に借りることはできなかったようだ。
 先生が教室に入ってきたタイミングで、その子たちは先生のもとに行き謝罪をしていた。先生は怒っていたが、最終的にはやれやれといった様子で受け入れていた。
 だが、謝罪をしていない子が一人いることを、私は知っていた。隣の席の女の子だ。
 その子は登校してくると、書写セットが置かれている机を一斉に眺めて、やっちゃった、という絶望的な表情を浮かべていた。
 だから確実に忘れてきたはずだった。なのになぜ先生に言いに行かないのだろう、と不思議に思っていた昼休みの時間。その子が奇妙な行動を取っていることに気がついた。
 ロッカーの前できょろきょろ辺りを見回していたのだ。
 その瞬間、私の頭の中にある情景がふっと浮かび上がった。
 それは、その子がひとつのロッカーから書写セットを取り出して、隠すように抱えながらその場を去っていく情景だった。もちろんそのロッカーは彼女のではない。
 私は唖然としながらロッカーの方を、彼女を見つめる。
 彼女はロッカーを手当たり次第に物色し始めた。そして、突然ひとつのロッカーの中に手を突っ込んだ。
 私は反射的に椅子から立ち上がった。そして駆け足で彼女のもとに行き、その腕をがしっと掴んで思いっきり引っ張った。
 彼女は驚いたように目を見開いて私を見つめる。
『盗みは良くないよ』
 ストレートな私の言葉に、彼女はその場で崩れ落ちた。それから声をあげて号泣し始めた。
 校庭で遊ばずに室内で読書や歩き鬼をしていた数人の子が、一斉にこちらを見た。一部の子は走ってこちらに向かってきて、他の子は先生を呼んでくると言って三年フロアから飛び出した。
 女の子と私は会議室に呼び出され、担任を交えて話し合いを行うことになった。
 何があったのかと担任に聞かれたので、説明しようとすると、彼女が先に口を開いた。
『まのちゃんに濡れ衣を着せられました』
 私は唖然とした。いきなり何を言い出すんだ。
 彼女は私に発言する隙も与えずに、その後も熱心にでたらめを具体的に説明していった。担任は適度に私を一瞥しながらも、話をさせてくれるような気配はまったくなかった。
 結局女の子と私は、話し合いが長引いたせいで五時間目の書写の授業には参加できなかった。
 彼女の発言は事実にすり替えられてしまった。そして今回の出来事は、いつの間にか学年中に広まった。
 今思えば、その子は自分の心を守ろうとしていたのかもしれない。頭が抜群に良く、優等生で人気者だった彼女にはプライドがあった。だから、私に濡れ衣を着せたのだ。
 だが、決して受け入れることはできない。許すことはできない。
 その日から私は、クラスでの居場所をなくした。中学受験を考えるようになった最初の日だ。

 
 気がつけば、あの広場の入り口の前に立っていた。
 息切れが激しかった。走ったのだろうか。
 しばらく呼吸を整えてから、正面を見つめる。目の前には、広大な緑が一面に広がっていた。そのまま吸い込まれるように中へ入る。
 辺りを見渡して、遊具から離れた位置にある大木の前に白色のベンチを確認すると、真っ先に向かい腰を下ろした。
 広場で元気に遊んでいる子供たちを眺める。私にも、
あんなふうに無邪気にはしゃいでいた時があっただろう
か。
 もう何をしても、一緒な気がした。逃げても、悔やんでも、諦めても、結局何も変わらない。そう思うと、無性に腹が立ってくる。
 私はどうして学校に行けたのだろう。保健室登校だったとしても、あんな状況で学校に入るなんて普通はできっこない。
 そうだ。私はもうすでに逃げていた。現実から目を背け、私のせいではない、と心で叫んでいた。それで一時的に心が守られていた、ただそれだけのことだったのだ。
 
 でも、もうできない。
 戻りたくない__。
 
 すると突然、視界の端に何かを捉えた。
 はっとして横を向く。彼と目が合った。
 彼はいつも通り満面の笑みを私に向ける。
「なんでここが……」
 私の言葉と同時に百瀬さんは隣に腰を下ろした。そして、また私に優しく笑いかけてくれる。
 その瞬間、目の奥が唐突に温かくなった。視界が滲む。
「ごめんなさいっ……ごめんなさい……」
 何度もそう言いながら、私は顔を覆ってひたすら泣きじゃくった。情けなく嗚咽を漏らしながら、ひたすら声をあげて泣いた。
 泣き終わるまで、彼はずっと隣で待っていてくれた。
「……すみません、もう大丈夫そうです……」
 最後の一粒を指で掬いながら百瀬さんを見上げる。彼はふっと笑みを消し、真面目な表情になった。そして、
「一人で抱え込む必要なんてない」
 真っ直ぐに私を見て言った。見たことのない彼の表情に、私は唖然とした。
 でも、それよりも、私に言葉をかけてくれた百瀬さんの優しさに甘えたかった。
 はい、とひとつ返事をする。それから、今までの出来事__球技大会での李咲とのこと、家を出て行く直前にお母さんに酷い言葉をぶつけたこと、小学三年の頃の書写の授業があった日のこと。
 そして、お父さんが亡くなった日のこと__。
 すべてを、百瀬さんに話した。

 私の父は、私が六歳の時にくも膜下出血を発症した。いきなり家で倒れて、慌てた母は急いでどこかに電話をかけた。その後、父はそのまま知らない車に乗せられていった。
 父は運ばれた病院にそのまま入院することになった。訳の分からなかった私は、学校が終わるたびに流れるように母に連れられて父に会いに行った。
 まだ幼かった私は、父が自分のことを抱きしめて、『またすぐに家に帰るからね』と優しく微笑んでくれるたびに、お父さんの病気は治るんだな、ちゃんと家に戻れるんだな、と鵜呑みにしていた。
 だが、事態は悪い方に加速していった。
 父の病気はみるみるうちに悪化していった。面会も出来なくなってしまった。
 もちろん手術が行われることになった。待合室でハンカチを握り締めながら祈るように涙を流す母の隣で、私はひたすら父と会話ができる時間になるまで頑張って耐えていた。
 そして手術後、父の意識が戻るのを待っていると、看護師さんが母を連れてどこかへ行った。私はもう一人の優しそうな看護師さんに連れられて別室でボール投げをして遊んでいた。
 その後、父の意識が戻ったというので、母と私は急いで父のもとに行った。
 父は苦しそうに顔を歪ませていた。母はベッドの隣に置かれた丸椅子に座り、父の手をぎゅっと握った。
『少ない確率ですが、まだ回復の見込みはあります』
 お医者さんは真剣な顔つきのまま言った。
 その時、私の頭に何かが過ぎった。それは、車椅子に乗った父が笑顔で私に手を振る未来だった。
 私は嬉しくて涙を流した。父はちゃんと家に帰ってくる。そう確信できたからだ。
 だがそれは一瞬だった。
 私が見ていた未来では、父の笑顔はいつのまにか消えていた。日に日に悪化していった後遺症に苦しんでもがいている父の姿がそこにあったからだ。
 私の涙は、悲しみへと変わっていった。そして、父に苦しんでほしくないという思いが、生きていてほしいという願いよりも明らかに強くなった。
 翌日、父は亡くなった。
 声をあげて泣きながら父に抱きつく母を茫然と眺めた。それから、安堵の気持ちが、私の口を押し開いた。
『良かった……』
 その瞬間、母は私を振り返った。医者と看護師も驚いたように目を見開いた。信じられないような眼差しを私に向けた母は、勢いよく椅子から立ち上がり、そして私の頬を勢いよく殴った。
『あんたが……あんたがそうやって願ったからお父さんが死んだんじゃないの⁉︎』
 私に飛びかかろうとした母を、医者と看護師は必死に止めて宥めていた。
 私は左頬を押さえたまま、ひたすら父を見つめることしかできなかった。

「……お母さんはきっと、私と話す機会を少しでも減らすために、四六時中資格のための勉強に励んでいたんだと思います。もし私が、お父さんが楽になってほしいって願わなかったら、助かってたかもしれない……いや、助かってました」
 長い長い私の話を、百瀬さんは前を見つめたまま黙って聞いてくれていた。
 もちろん、すべてが伝わるとは思っていない。だって、私の予知能力のことは話さず、誤魔化しながら説明したのだから__。
「……すみません。こんなこと聞かされても困りますよね」
 正直、自分のことだけをひたすら他人に話すのは、勇気がいった。長くて迷惑がられるだろうか、退屈な思いをさせてしまうのではないだろうか。百瀬さんに限ってそれはないとは思うけれど、さすがに不安になった。
 すると、百瀬さんは私の方に顔を向けた。それから、口角を少しだけ上げて言った。
「俺の話を、聞いてくれないかな」
 唐突すぎて、すぐには理解ができなかった。でも、理解した瞬間に、どうぞ、といつのまにか答えている自分がいた。
「ありがとう」
 彼はそう言って微笑むのと同時に、両手の拳を強く握りしめた。私はそれを見逃さなかった。
「……俺さ、大学中退したんだ」
「え」
「一年生の冬に。それからしばらくは、家にずっと引きこもってた」
 聞いたことのない話だった。今の百瀬さんからはまったく想像がつかない。
「……入学した日に、親友ができたんだ。同じ学部の同級生。知り合ってから急速に仲良くなった。夏も一緒に海に遊びにいったりしてさ」
 その時のことを思い出しているのか、時々くすっと笑っている。
 だが、急に彼の顔から笑顔が消えた。
「でも、その年の十一月に、そいつは亡くなった」
 え、と声が漏れそうになるのを必死に堪えた。私は胸を押さえたまま、話の続きを待つ。
「……車に乗っている時に、交通事故に遭ったって。運ばれた病院に駆け込んでそいつのもとに行った」
 話の続きを聞くのが、彼に言わせるのが怖かった。自分から聞いてくれるかと訊ねられたが、それでもやはり、怖かった。
「…… 最後に見たのは、そいつが俺に見せた笑顔だった。俺に必死に笑いかけて、そのあと目を閉じた。何度叫んで呼びかけても、もう開くことはなかった」
 胸を掻きむしられる思いがした。実際に経験していない私の立場でも、こんなにも苦しく切ない気持ちになるのだから、百瀬さんはきっともっと、胸が裂けるほど辛かったに違いない。
「……助けられたはずだった……」
「え?」
「俺は、親友が事故に遭うことを、分かっていたんだ……」
 耳を塞ぎたくなった。もうこれ以上、言わなくても良いと思った。それは、彼の苦しそうな表情を見た私だけが思うことだ。だけど、どうしてもこの瞬間、繋がりたかった。
私たちは__。
「一緒だよ」
 百瀬さんは私を真っ直ぐに見て言った。私も彼を見つめ返す。
「まのさんの気持ちは、痛いほど分かる」
「どうして……どうやって分かったんですか」
「薫さんの事務所で一緒に過ごしているうちに、なんか違和感を覚えてさ。急に椅子から立ち上がってドリンクサーバーの方に行って、置いてあったマグカップが傾いた時にキャッチしてたり、俺がケーキ食べてる時に急にティッシュ渡して、え、って思ったのと同時に俺がクリーム服にこぼしたりした時とか。ほんと、些細なことだよ」
「……そうだったんですね」
 彼が、私がこの広場に来たことを分かったのも、球技大会から帰ってきて玄関を開けようとしたら目の前に彼がいたことも、思い返せば、そういうことだったのかもしれない。彼は私の行動を予知していた。
 私の思い上がりでなければ、もしかしたらだけど、私のことを少なからず気にかけてくれていたんじゃないか。そんな想像が膨らんでから、慌てて首を振る。
「親友を助けられなかった自分は、大学に通う資格がないから…っていうのは言い訳かな。本当は、今まで隣にいてくれた人がもういないっていうのを自覚したくなかった。思い出すたびに辛くなって、だから大学をやめた。何もすることがなくて外をぶらぶら散歩してたら、薫さんに出会った」
「そうだったんですか……」
「俺の大学の講師の先生と薫さんが知り合いだったんだ。その二人に道でばったり会った。講師が、三人でお茶でもしないかって言ってくれて。お店で色々話してるうちに、打ち解けたっていうかなんて言うか」
 百瀬さんの表情が柔らかくなる。私も、自分の頬が緩んでいるのを自覚した。
「薫さんと話している時にさ、探偵の仕事の話が出てきたんだ。百瀬くんに情報を提供したい、って言ってくれて、彼女に繋がりがある探偵事務所を紹介してくれた。探偵だったら、この能力を発揮できるんじゃないかなって考えた。だから、半年くらい勉強した。そのあと面接に行ったら、すぐに就職させてもらえたよ」
 そんなことがあったのか。だから二人はあんなに親しかったのか。百瀬さんとお母さんの間には、どこか姉弟のような雰囲気が滲み出ていて、私はそんな二人のことが好きだった。
「……俺は、まのさんも、薫さんも、どっちも大好きなんだ。二人は俺に安らぎを与えてくれた」
 お母さんが自分の手を抑えて俯いていたあの時、私の視界の端に、彼女が整理していた昔のカレンダーが映った。十一月四日の欄に、こう書かれていた。
〈今日は、十年間必死な思いで勉強した甲斐があって、ようやく『仁科法律事務所』という自分の事務所を立ち上げることができた。お父さん、私を支えてくれてありがとう。そして、まの、ずっとそばにいてくれてありがとうね。あなたに幸せをあげたい一心で、お母さんは今日まで頑張って来られました。本当にありがとう。そして、これからもよろしく〉
 それを見た瞬間、涙が溢れそうだった。でも、私は必死に堪えてしまった。お母さんにちゃんと言葉をぶつけられるようにするために、決して流すまいと我慢してしまった。
「まのさんは優しいよ。自分の身も顧みずに友達を助けたんだ」
 百瀬さんは優しい眼差しで私を見つめてくれる。
 いいえ、優しいのはあなたです、百瀬さん。誰よりも強くて優しい人は、あなたです。
 彼は辛い過去をひとりで背負ってきた。私なんかには想像のつかない大きな苦しみを、いつまでも胸に抱えてきた。
 お母さん、百瀬さんを助けてくれてありがとう。
 百瀬さん、お母さんに出会って、そして頼ってくれてありがとう。
 お父さんが亡くなってから、お母さんは血眼になりながら必死に机に向かって勉強に励んでいた。起床後も、食事中も、入浴中も、就寝前も、とにかく四六時中必ず何かに目を通していた。とくにすごかったのは、食事中だった。もともと右利きだったお母さんは、右手にペンを持ち、資料に書き込みながら左手で箸を持って食べていた。数ヶ月後には、それが逆になっていることも多くなった。死に物狂いだったためか、数回繰り返すうちに、あらゆることに関して自然と両利きになってしまっていた。
 私は最初、お母さんはお父さんが亡くなったこと、そして憎い私のことを忘れるために勉強にしか目を向けないようにしていただけだとばかりに思っていた。
 だが、違った。お母さんは私のことを愛してくれていた。お母さんが俯きながら呟いた言葉は、片方はお父さんに、そしてもう片方は、私に向けられた言葉だった。  
 カレンダーに書かれたメッセージが脳裏に過ぎる。私は無意識に右頬を抑えた。
 お母さんが左手で私を殴った時の頬の痛みは、お母さんが私のために努力を惜しまなかった証だ。今は、そんなふうに思える。そんなふうに思えるようになった自分がいることが、とてつもなく嬉しかった。
「まのさん、疲れたでしょ。たっっっくさん休憩しな」
 百瀬さんはそう言いながら、私の頭にそっと手のひらを乗せる。
 その瞬間、思い出した。
 学校で書写の授業があった日、私が帰宅すると、そこにはお母さんと百瀬さんが並んでいた。見知らぬ男の人に、私は戸惑いつつも、話をしているうちにすぐに打ち解けた。
 彼と会話をしているうちに、嫌な目に遭ったことを忘れられたんだ。
 時間が来て、百瀬さんが帰る時間が来た時、とても寂しい気持ちになった。だから、また来てくださいと頭を下げると、百瀬さんは驚いたような顔をしたがすぐににっこりと笑って、うん、分かったと答えてくれた。
 私は心のどこかでずっと、安心できる居場所に出会えることを願っていた。中学に上がってからも同じだった。
 だけど、もう、出会っていたんだ。
「あ、虹!」
 無邪気に微笑む彼の美しい横顔を見つめる。
「まのさん!虹だよ、見て!」
 百瀬さんが勢いよく立ち上がって駆け出したので、唐突に我に返った。私は慌てて彼の後を追う。
 やっと追いつくと、瞳を輝かせている彼の視線の先を追う。
「えっ……」
 目の前には、大きな七色の虹が街を彩っていた。
「きれい……」
 思わず感嘆の声をあげると、隣から、「ねえ、まのさん」と声をかけられた。
「朝虹は雨、夕虹は晴れ、って言葉知ってる?」
 私は首を横に振った。どこかで聞いたことがあるかもしれないが、意味はまったく分からない。
「朝虹は西の空に現れて、夕虹は東の空に現れる。日本は西から東に向かって気圧の谷が通るから、朝虹は西に雨が降っていることを示して、夕虹は東には雨が降っているけど、西は晴れていることを示してる。だから、朝虹は雨になって、夕虹なら翌朝は晴れる可能性が高いっていうことなんだって。つまりこれは夕虹ってことか」
「へえ……」
 そんな意味が込められているとは思わなかった。
「……私は、朝虹の方が好きかもです……」
 苦笑いを浮かべながら呟く。
 お父さんが亡くなった日も、球技大会の日も、そして今日も、清々しいほどに晴れていた。私の中で「晴れ」は、不運を呼ぶ天気となっていた。
「朝虹なら、このあとは雨だから……色々洗い流してくれます、嫌なことを」
 だけど、良いことは、洗い流されたくない。
 私の言葉に、百瀬さんはあははと笑った。
「そっかー。俺は夕虹の方が好きかも。いや、たった今、好きになった」
「え?」
「まのさんが、また心から笑えるようになった瞬間だから」
 ぶわっと頬が熱くなる。百瀬さんの顔も真っ赤だった。
「よくそんなこと恥ずかしげもなく言えますねっ」
 肩を小突いてやると、彼は、いててててと呻きながら芝生の上に寝転がった。私も彼の隣に仰向けになる。
 夕虹は透き通っていて、空は青い。あまりの美しさに、思わず涙が溢れた。
 すると、太ももに振動を感じた。ポケットに突っ込んでいたスマホを取る。それは、ラインの着信音だった。
 どくん、と心臓が脈打つ。目を瞑り、深呼吸をする。
 目を開いて、覚悟を決める。画面を開いた。
『ねえねえ!チェックノートの確認問題A解けた?』
 それは、李咲からのメッセージだった。
 本当に、何なんだ、この人は。
 彼女の優しさに私は思わず声をあげて泣いてしまった。
 百瀬さんがばっと起き上がって、「大丈夫⁉︎」とおろおろ私を見下ろしていた。
 私を起き上がらせてくれた彼は、「あ!」と突然声をあげた。
「そういえばここ、『虹の公園』っていうところなんだって」
「それ今言いますか……?」
 大丈夫。そんな気がした。
 ひとりぼっちの人なんていない。悲しいだけの世界じゃない。
 きっとこれからも私たちは、たくさん胸を痛めることがあるだろう。頭を抱える時が来るだろう。
 でも、その時はその時だ。
 大事なのは、それだけじゃないということ。
 楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、幸せなことも、満遍なく広がっている世界だ。
 だからこそ、いくらでも自分の居場所を見つけることができる。
 ある人が、私にそう教えてくれた。
 隣で笑顔を浮かべ空を見上げる彼の姿を見て、私はまた、心からの笑顔で一歩踏み出そうと決意した。

End