明日から体育祭の練習を始めるそうだ。
 教室は、風子の代わりに副委員長の僕が壇上に立つたびにどうしょうもない険悪な雰囲気が充満して、体育祭の各種目の選手決めもままならない状態。
 結局、体育委員の男子に司会を代わってもらって、僕は壇上を下りて風景の一部になった。
 さっきまで降っていた雨はようやくあがって、窓の外では遠い住宅街の空に鮮やかな青空が顔を出している。
『光平? 落ち込んでない?』
 イヤホンの奥に、ちょっと心配そうな風子の声が響いた。
 僕は昨日と同じように、机の左上角に置いたルーズリーフにそっと返事を書き込んだ。
【落ち込んでなんかない。ちょっと面倒くさいなって思ってるだけ。桜台はなにも気にしなくていい】
『えー? でもー。そうだっ! みんなにあたしがここに居ること話して、光平はなにもしてないってあたしがみんなに言ったらどうかな』
【そんなの誰が信じるんだよ。とにかく今日はハルダの家に行くからな? この現象の謎解きを優先しよう】
『うん、ごめんね。ありがと、光平』
 ふと気づいた。
 風子はいつの間に、僕のことを『光平』って呼ぶようになったんだろう。
 僕の名前『光平』は、牧師である父さんが付けた名前。
 それまでのユダヤ教の選民思想を排して、ユダヤの民のみならずすべての民に平等に愛を与え、そしてその進む先にずっと光。を置いて下さるという、イエス・キリストが伝えた神の姿。
 その神の姿のイメージから、平和を表す『平』と、希望を表す『光』をとって付けられたのが、僕の『光平』だ。
 しかし、驚くなかれ、実は、僕は『完全無神論者』だ。
 まぁ、いろいろあって、父の願いはむなしくも神さまに届かず僕は牧師の息子としては相当に親不孝な『神論者』となしまったのだが、実のところ、この『光平』という名前はとても気に入っている。
 きっと誰も、僕みたいな無感情で冷たい人間の名前が、慈悲深い神さまのイメージから付けられたなんて思いもしないだろうな。
 桜台風子の『風子』だってそうだ。
 その名前の由来を知るまで、なんか変った名前だななんて失礼なことを思っていた。
 風子自身についても、八方美人でいい加減なお調子者だと著しい悪印象を持っていたけど、いまはちょっとだけ親近感を感じている。名前もなかなかいいネーミングだ。
 ふと外を見ると、名も知らない小鳥が鳴いていた。あの小鳥にも、きっと僕が知らない素敵な名前があるんだろう。
 窓に反射して見える、僕の背後の教室。
 少し離れたところに、誰も座っていない風子の席が見えた。
「風子って、なかなかいい名前だな」
 無意識に、そうひとりでに声が出た。
『そそそ、そうかなぁー! いやぁ、うれっ、うれっ、嬉しいなぁっ!』
 耳をつんざくような大音量で『うしろの風子』の声がイヤホンをかき鳴らした。
 耳を押さえて思わずのけ反る。
「うわっ、風子、突然大きな声を出すな!」
『もー、光平、突然そんなこと言わないでー。わたくし、喜んでしまいますぅ』
「あ、声に出てたか。ま、ちょっとだけホントにそう思ったんだ。気持ち悪いこと言ってすまなかったな」
『気持ち悪いとかなーい! やっと光平もあたしの良さに気づいてくれたのね』
「そんなんじゃないけどな。風子、悪いがもうちょっと静かに話してく……」
 あ……。
 ハッと周りを見ると、みんながじっと僕のほうを見ていた。
「永岡、大丈夫か? 保健室に行ってもいいぞ?」
 後ろからやって来た担任の若宮先生が、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
 壇上の体育委員もチョークを片手に固まっている。
「い、いえ。大丈夫です」 
 すると前の席のハルダが振り返って、ニヤリと口角を上げた。
「永岡よ。授業中に委員長とイチャイチャ話すのは違反だぞ?」
「うるさい」
 ハルダには、昨日の病院からの帰りに近くのファミレスに寄って、いまの状況をぜんぶ話した。
 すごくびっくりするだろうと思っていたのに、終始ずっと冷静だったのは意外だった。



 昨日の帰り、夕暮れのファミレス。
 テーブル越しのハルダが口をへの字にして僕に目をやった。
「……するとなにか? 永岡の後ろに目に見えない委員長が居ると」
「そうなんだ。それもこのスマホの自撮りカメラを通してしか見えない」
「なるほど。声はそのイヤホンか」
「うん。どういうわけか、アイツの声がこのスマホを通して聞こえているんだ」
「私も話ができるだろうか」
「ちょっと試してみよう」
 イヤホンのペアリングを切って、テーブルの真ん中にスマートフォンを置いた。
「委員長、聞こえるかっ!」
『おおう! ハラダくん、おつかれー!』
「なんと! 私はハラダではないっ! ハルダであるっ!」
『ごめん、それもう飽きた』
「なにおう?」
 通話もしていないのに、声を放つスマートフォン。
 僕はゆっくりとハルダへと視線を向けた。
「まぁ、このとおりだ。たしかに桜台風子の声に聞こえるだろ? でも『病院の風子』と、このスマホの中の『うしろの風子』がどういう関係になるのか、まったく見当がつかないんだ」
 僕の言い方が腹立たしかったのか、間髪入れずに風子の合いの手が入った。
『いやぁ、完全にあっちがニセモノでしょ』
「しかしな? それを言い出すと『人はなにを以って本物と為すか』という、すごく哲学的な思索に陥ってしまうんだよ」
 ハルダが口を尖らせた。
「うーむ。本当に委員長なのか? 委員長なら信任投票に賛成票を入れた私の誕生日を知っているはずである」
『もう、そんなの知るわけないじゃん。でもね? ハラダくんが物理科学部で頑張っているのは知ってるよ?』
「私はハラダではな」
 思わず手が出た。
「もういいから」
『もういいから』
「ぷはっ! 永岡よ、コップで口を押さえるのは反則であるっ! しかも委員長のツッコミも絶妙にシンクロしているではないか。キミら仲良すぎなのである!」
『そうよー? 仲良しだもんねー。昨日もひと晩中ずーっと一緒だったし。ね? 光平っ?』
「そういう誤解を生む言い方はやめてくれ」
 すると、その言葉を聞いたハルダは一瞬考えたあと、それから目をキラリとさせて僕に視線を戻した。
「ずっと一緒? そういえば、委員長からは永岡の後ろ姿がずっと見えているのであろう?」
『そうよー?』
「なら、トイレや風呂のときも見えておるのか?」
『あ』
 一瞬、空気が冷える。
「桜台……、お前、まさか」
『えーっと、その、見ないようにしてるよ?』
 さらに空気が冷える。
「見えているのか」
「見えているようである」
『もうっ、前の方は見たくても見えないんだから、見てないのと一緒でしょ?』
 さらにさらに空気が冷える。
「前の方が見たいのか」
「前の方が見たいようである」
『な、な、なんですとー? そんなことないもんっ! これってセクハラよ? セクハラ!』
 クックックッと肩を揺するハルダ。
 思わず苦笑いが出た。
「ハルダ、お前、かなり悪趣味だな」
「なにおう? 永岡もノッたではないか。冗談である! 天真爛漫な我らが委員長がそんな子でないことはクラス皆が知っておる!」
『うぇーい』
 スマートフォンから漏れ出た風子のウンザリした声。
 ちょっと眉をハの字にしたハルダが、んんっと咳払いをして姿勢を正した。
「まぁ、永岡よ。とにかく明日、私のコックピットに来るのだ」
「コックピット? 飛行機持ってるのか?」
「飛行機ではない。私のPCルームだ。利用料は本日のこのファミレス代で相殺してやろう」
「金とるのか。すごい上から目線だな」
「格安であろうが。とにかく、どうにかこの謎の現象を解明するのだ。よいな? 委員長」
『うん……、ありがとー』



 まぁ、昨日、こんな感じでまったく動揺もせずに『うしろの風子』を受け入れたハルダ。
 結局、終日いろいろと茶化されたが、やっと放課後となっていまはハルダの家を目指している途中。
 自転車を押しながら、スマホを覗き込む。
「うーん、なぁ、風子、やっぱりここだろ」
『番地からするとそうだよねぇ。でも、これって本当にお家?』
 送ってもらったロケーション情報を基にやって来たが、どうやってもやっぱりここだ。
 本当にここで合っているのか?
 半年ほどハルダと付き合ってきたが、実は家に呼ばれた事は一度もない。
 手前にアスファルト敷きの広い駐車場があって、その奥の右は三階建ての茶色のビル。
 そのビルの左側に並んで建っている三角屋根の白壁の建物には、正面の入口に神《しん》額《がく》のような物が掛けられている。
 神額の中には『立明寺』の文字。
「お寺だよな」
『お寺だよね』
 そう。どう見てもここはお寺だ。
 そのすぐ横にある幼稚園からは、園庭で遊ぶ子どもたちの声が響いている。
 どうやらこのお寺に併設されている幼稚園らしい。
 夕方のこの時間にまだ幼稚園に居るということは、たぶんお迎えが遅い子どもたちなんだろう。
『光平、これなんて読むの?。りつめいじ?』
「どうだろうな。りゅうめいじ? もしかしたら送ってもらったロケーション情報が間違ってたのかもしれない。ちょっとハルダに電話してみる」
 そう言ってスマートフォンの自撮りカメラを終了して電話帳の画面を開いたとき、前方の茶色のビルの出入口から、これまたなんとも奇妙な格好の男が現れた。
 丈の長い白衣。
 やや色が付いたレンズの四角い眼鏡。
 間違いない。
 あれはハルダだ。
「いやぁ、よく来たな、諸君。ここが我が家である!」
 なんなんだ。
「風子、笑っていいぞ?」
『光平こそ、肩が震えてる』
「遠慮は要らん! さぁ! 入るのである!」
 白衣の裾をひるがえし、バッと手を広げたハルダ。
 その声に促されて、僕たちはおずおずとそのビルの中へと足を踏み入れた。
 リノリウム張りの広いエントランス。
 真ん中を通路状に残して、左右になんとも不気味な彫像が並んでいる。
 観音様の立像や大鷲が翼を拡げている像、五重塔や釣鐘など実に多様だ。
 なぜかそれらの像に混じって、美少女戦士やネコ型ロボットも。
 いったい誰の趣味なんだ。
 長い階段を上がってたどり着いたのはビルの三階。
 ハルダの自室という勉強部屋のとなりに、その『コックピット』はあった。
 アルミ製の扉。
 テレビでよく見る秘密基地、ひとりの怪人に五人がかりという実に不公平極まりない某戦隊チームの指令室のような雰囲気。
『光平、なんかヤバくない?』
「いや、大丈夫だ。物理科学部なんだから、これくらいは当然だ」
『なんかヤケクソっぽく聞こえるけど』
「女の子が『クソ』とか言うな。かわいい顔が台無しだ」
『か、かかか、かわいい?』
「なぁーにをブツブツ言っておるっ! さっさと入るのだっ!」
 ハルダが扉を開く。
 異様なほどに耳につく排気ファンの音が、その薄暗い部屋の中を満たしていた。
 ざっと見ただけでも、自作と思われるデスクトップパソコンの本体が七台。
 その横にはラック式のサーバー、ハブ、ハム無線の固定型トランシーバーなどが壁一面にひしめいている。
『す、すごいね』
「想像はしていたが、これ程とは」
「ふはははは! わがコックピットへようこそ。そこに並んでいるのは、私の息子たちだ」
「なんか目の色が変っているぞ?」
「ここではっ、MS-DOS、Windows3.1、Windows95-OSR2.5以降の9x系、WindowsNT3.51を始めとするNTワークステーション群、さらに――」
『光平、あたしちょっと怖いかも』
「風子、心配するな。僕も怖い」
「さらにRedHat系、Turbo系、Debian系のさまざまなLinux、そしてBasic、FORTRUN、COBOLなど古典的開発環境、果てはPC-98のPC-PTOSに至るまで、ありとあらゆる環境を稼動させている!」
 僕は、「Macは一台もないんだな」なんて考えながら、じわりじわりと後ずさった。
「いいかっ、永岡よ! お前の手にあるそのスマートフォンのオペレーティングシステム『Android』は、このDebian系Linuxを携帯端末用に改良したものだっ!」
 ピカッ!
 突然、部屋の照明が消えて稲光が走った。
 さっきまでいい天気だったのに。
 夏の名残なのか、突然激しく地面を叩く雨音が聞こえたかと思うと、明滅する稲光がハルダの顔を不気味に浮かびあがらせた。
「ふはははは! 永岡よ。その白い悪魔、お主のホワイトスマートフォンを……、私に見せるのだぁっ!」
 ザ・マッドサイエンティスト。
「えっと……、ハラダ?」
「ハラダではないっ! ハルダであるっ!」
「話が進まないから……、もういいか?」
「え? あ、うん」
 だいぶ付き合ってやったからもういいだろう。
 なかなか手の込んだ演出だ。
 稲光も雨音もけっこう本物っぽい。
 ハルダの後ろにあるピカリと光るフラッシュ照明と超高級なスピーカーシステムが、さっきからフル稼働で一生懸命にハルダのお供をしてくれている。
 僕は無言でパチリと部屋の照明を点けた。
 もう、いい加減にしてほしい。
『うわー、光平、せっかくハルダくんがノッてたのに、かわいそう』
「いいんだ。早くしないと日が暮れる」
『あはは』
 そんな感じで僕のスマートフォンをハルダに預けて、しばらくいろいろと確認をしてもらった。
 Linux機と接続して様々なコマンドで状態を確認したり、FM無線の機械で電波の状況を確認してもらったりしたけど、結論は『まったく普通のスマートフォン』ということだった。
 ただ、いろいろとやっているうちに、風子が映っている画面を別のカメラで撮ったり、その画面のスクリーンショットを撮ったりしても、ノイズだらけになってちゃんと写らないことが分かった。
 音声も同じだ。
 スマートフォンのスピーカーから聞こえる風子の声を別のレコーダーで録っても、ザーッと雑音だけになってちゃんと録音されない。
 とうとう最後は頭を抱えて「もう少し別の検証方法を考えねば……」と、なんとも弱弱しい文言を漏らしたハルダ。
 そうやって上を向いて考え込んでいたハルダだが、しばらくしてなにやらひらめいたらしく、なんともウザイしたり顔で僕を見下ろした。
「永岡よ。これはVR(ブイアール)だとは考えられないだろうか」
「VR?」
 VRはいわゆる『ヴァーチャル・リアリティー』のことだ。
 日本語では『仮想現実』とか、『人工現実感』なんて訳される。
 ユーザーに立体的な仮想空間の中を歩いているように錯覚させたり、カメラで撮影している風景にコンピューターグラフィックスを重ねて、あたかも現実にそれがそこにあるかのように見せたりする技術。
「うむ。つまり、委員長はそのスマホの中の仮想空間に作り出されたヒロインなのだ」
『ひっ、ひっ、ヒロイン? あたしがっ?』
 イヤホンに響いた、風子の嬉々とした声。
 僕は小さく溜息をついて、スマホの中の風子に苦い顔をした。
「風子、VRの話、まったく分かってないだろ」
『あはは。ごめん。理系脳ゼロのあたしにはハルダくんの言葉はぜんぶ難解』
「要はな? 画面に映っている風子は、僕の後ろに居るんじゃなくて、スマホ中のプログラムによって仮想的に画面上に作り出されているんだって話」
『ああー、なるほどぉ』
「分かってないだろ」
『分かってないかも、あはは』
「ほんと、キミたち仲良すぎではないか?」
 白衣を脱いだハルダはそれから一度キッチンへ下りて、僕らのために紅茶を淹《い》れてきてくれた。
 寺の息子のくせに、かなり洋風な生活をしている様子。
 我が家なんか、紅茶とかペットボトルでも買ってこない限りまず飲むことはないのに。
 というわけで、今日確かめようとしたあれやこれやは、思っていたよりもかなり難しい話だということが分かった。
 ただ、ハルダの言ったとおり、誰かの手によって僕のスマートフォンのシステムの中に『うしろの風子』を映し出すプログラムが仕込まれたというのは、そんなに現実離れしていない。
 画面に映っていても、スクリーンショットで撮れないようにすることは技術的には可能だ。
 しかし、別のカメラで撮影できなかったり、音声が録音できなかったりというのは、どうやっても説明がつかない。
 ま、この辺の検証はまた後日ということにしよう。
『光平? もうおなか減ったんじゃない?』
「そうだな。ハルダ、そろそろお暇《いとま》するな? 続きはまた次回」
「うぬぬ。役に立てなくてすまん」
 いまにも切腹しそうなハルダを見て、画面の中の風子も苦笑いだ。
 ちょっとだけハルダを慰めるように、ポンと肩を叩く。
「ありがとうな。一生懸命やってくれて風子も喜んでるみたいだしさ。また今度だな」
「そうか。すまなかったな、委員長」
『ほんとありがとね。なんにでも一生懸命そうな人だなーってハラダくんのこと見てたけど、やっぱりそうだったね』
「むぅ、ハラダではな」
「じゃあな。また明日」
『じゃあねー』
「せめて最後まで言わせてくれまいか」
 そうか。
 けっこうクラスのみんなからはカタブツでとっつきにくいように思われているハルダなのに、風子はハルダを『一生懸命そうな人』と見ていたんだ。
 それを知って、なんとなく桜台風子という女の子がどんな子か分かったような気がした。
 ずっといけ好かないヤツだと思っていた彼女。
 まぁ、いまになってみればそれなりに愛嬌があって、考えていたほど単純でもなくて。 
 少しだけ、ほんの少しだけ、いっしょにクラス委員になったあの春に、もっとコイツといまみたいに話しておけばよかったかなーなんて、そんなふうに思った。
 外に出ると、空はもう吸いこまれそうなほどの星空。
 ひんやりとした空気が、一気に制服シャツの襟から入り込む。
「今日はありがとう。お寺、次はちゃんとお参りするよ。『りゅうめいじ』だっけ」
「ばかもの! 『りゅう()()じ』ではない! 『りゅう()()()じ』である!」
『あはは、怒られたねー』
 風子の笑顔。
 これはこれで、まぁ『有り』の日常だと思った。 
 『病院の風子』の意識が回復すれば、もっといろんなことが分かるはずだ。
 単なるプログラムなのかもしれないけど、この『うしろの風子』をどうにかして助けてやりたい。
 そんな僕らしくもないことを思いながら僕はちょっとだけ満たされた気分になって、いつもより軽く感じる自転車のペダルを楽し気に漕ぎ出したんだ。