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4月も下旬にさしかかり、新曲お披露目ライブまで片手で数えるほどになったある日のことだった。夜遅くまでストレッチと宿題に費やしたせいで寝不足ぎみの目を擦りながら教室へ向かうと、ドア越しに自分の名前が聞こえて足を止めた。
「え、古津さんってアイドルやってるんだ」
瑞樹の声だった。そうだよー、と答える声は、クラスメイトの女子数人のものだ。
たびたび、あの踊り場で昼食をともにする仲にはなったが、自分がアイドルをやっているということはまだ話せずにいた。もうすぐ辞めるかもしれないのに言ったら恥ずかしい、とも思っていた。
まだ未練があるんじゃないかなどと瑞樹に言ったわりに、自分だって本当は、アイドルに未練がある。続けたっていつか虚しくなって消えるくらいなら、今のうちに幕引きとしたほうがいいのだろう、という、逃げとも言える理性で決めただけのことだ。
頭では全部わかっている。
「ローカルアイドルってやつ? 最近多いじゃん、あれやってるの。全然、メンバーとか曲とかも知らないけどね」
「どこで活動してんのかもわかんないし、ってかアイドルなら全日制の高校なんて通えないんじゃないの? よくわかんないけどさ」
「あ、ほらほらこのグループ。知ってる?」
嘲るような声の後に、数ヶ月前のライブの動画音源が聞こえてきた。誰かが瑞樹に見せているのだろう。イントロの煽り、ソロパート、サビ……景色だって全部覚えている。観客席が多かったので、かなり盛り上がったものだ。
「この水色が古津さんらしいの」
「へえ……」
あたしたち1回も観に行ったことないけど、と笑いながらわざわざ付け加えるあたりに、クラスメイトの意地の悪さが表れている。そんなこともあるだろうなと予想はしていたことなので、別につらくはなかった。今まで当たり障りなく接してくれていたのは、彼女たちなりの取り繕いだったのだろう。
いつまでもドアの前でぐずぐずしてはいられないが、今入ったらきっととんでもない空気になるだろうと思いながらタイミングを測っていると、心底困惑したような瑞樹の声が聞こえた。
「で、なんで急にこの話をしてきたの?」
ざわついていた教室が静かになった。話し声が消えた中で、ライブの音声だけが場違いなほど明るく流れ続けている。
「え……と」
「本人がいないところで、褒めるでもなくゴシップみたいなノリで話をされるのは、あんまり好かないんだけど……あ、彼女を応援したいから今度一緒にライブに行こうってことなら、喜んで行くよ。いつ? 場所は?」
「いや……知らない、けど」
「そっか」
ぞわ、と鳥肌が立った。
彼は今、おそらく演技をしている。本当に言いたいことを隠すために。
そっか、という最後の短い返答に、苛立ちと呆れと嘆きが混ざっている。それがあからさまにならないように、コミカルさというオブラートでくるんでいるが、彼の本心でのコミュニケーションではないのは明白だった。
ドアの取っ手に手をかけて勢いよく引くと、レールが震える大きな音にクラスメイトたちが一斉に振り向いた。所詮クラスメイトなんて、ライブのときの観客席より何倍も少ない。
「次のライブは、今週末。ショッピングモールの中央広場のステージで、新曲のお披露目もするよ」
視線はまっすぐ瑞樹に向けた。彼も驚いたように目を丸くしていて――美月の声を聞いて、してやったとばかりににやりと笑ったのが見えた。
その笑みに呼応するように、美月もにっこりと笑ってみせた。
「わたしのことは好きに言ったらいいけど、グループやメンバーのことまで言われるのは嫌かな。せめて誰にも見られないところでこっそりやって」
「聞いてたんだ」
「聞こえたの」
なんで聞いてたんだと責任転嫁したくてたまらないクラスメイトの反駁をいなして席に座る。同時にチャイムが鳴って、担任教師がやってきた。
瑞樹は何も言わなかった。
***
「古津さん」
習慣となった、踊り場でのランチタイム。弁当をほとんど平らげた頃に、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。
「新崎くん。今からお昼?」
「うん。購買でパン買ってきた」
白いビニール袋を掲げて見せながら、彼は静かに微笑んだ。
「古津さん、アイドルなんだね」
「あ……うん、まあね。一応」
「謙遜しなくていいのに」
焼きそばパンを頬張りながら話す瑞樹の言葉に、思わず俯いた。反射的に、一応、などと付け加えてしまうのは、やはりこの先を諦めつつある気持ちの表れなのだろうなと自覚した。
「……向いてないのかな、って思ってるから。本当は」
「どうして?」
「誇れるものがないから」
驚くほど自然にこぼれた言葉だった。下手な相槌を打たずに、瑞樹は次の言葉を待ってくれている。
取り繕うための言葉を探すことはやめて、美月は胸の奥から湧き出てくる言葉をそのまま声に出した。
「アイドルは、歌もダンスも容姿もトークもできなきゃいけない。どれも自分なりに努力しているつもりだし、実際その出来にダメ出しされることも特別多いわけじゃない。だけど、手応えがないの。頑張って活動してグループの認知度は上がっても、この街以外のところに活動のエリアが広がっても、わたしのファンは増えない。今度ね、初めて握手会があるの。わたしを推してくれるファンの人はどれくらい来てくれるのかなって――もうわかってるけど、やっぱり人気差を可視化されるのはつらいなって」
「……」
「アイドルには、才能が必要だと思うの。ステージを上手にこなすためのものじゃなくて、――観る人を惹きつける、天性の才能」
わたしにはそれがないんだよ、と美月が自嘲すると、早々に二つ目のパンを平らげた瑞樹は唸ってみせた。
「一理あるとは思うけど、ちょっと違う気もするなあ」
「そうかな」
「うん。今の君に必要なのは、自信、じゃないかなと思うよ」
そう言って、瑞樹はミルクコーヒーの紙パックにストローを挿した。彼の瞳は、ずっとどこか遠くを見ているようだ。光はあるのに、どこにも向いていない。
「自信……そんなの」
「アイドル、辞めたいの?」
「……わたしには、向いてないから」
「違う。向いてるかどうかはいったん置いておいて、アイドルを続けたいのかどうかを訊いてる」
空中を彷徨っていた瑞樹の視線が、美月の瞳を捉えた。唐突に向けられた眼差しに動けなくなる。
アイドルを続けたいか。やりたいか、どうか。
――そんなの、
「続けたい……」
口にした瞬間、抑圧していた想いが胸の奥から溢れ出てきた。
「アイドル、辞めたくない。歌って踊るのも好きだし、わたしのことを応援してくれているファンの人……少ないけど、ファンの人たちをがっかりさせたくない。それに、アイドル活動でこの街をもっと活気づけて、日本中に、世界中に響かせたいって……その目標だって、まだまだこれからなのに」
オーディションが終わって、初めてレッスン場に5人で集まったときのことを思い出す。年齢も住んでいるところもばらばらで、初めて顔を合わせたけれど、社長の言葉を聞いて想いが通じ合った気がした。
――この街は、まだまだたくさんの可能性を秘めている。都会じゃなくたってできるっていうこの街のポテンシャルを全国に轟かせて、地域の活性化を目指したい。芸術も、ビジネスも、地方都市からだって羽ばたけるんだって……それを見せつけるために、君たちには大きく羽ばたいてほしい。君たち5人は、地元であるこの街が好きで、その気持ちを原動力にした活動への熱意が人一倍強いと思っているよ。
この街を、活気づけたい。美月たちがアイドル活動をすることで、多くの人に日の目を見るチャンスが生まれるのだ。
責任重大で、だけどわくわくすることだと思った。他の4人も同じ表情をしていた。
「……ただの地方都市でも、可能性は無限大なんだって、知らしめたくて」
「それなら、ただの女子高生である君の可能性だって無限大だよ」
ずず、とミルクコーヒーを飲み切った音が踊り場に響いた。
「いつもここで、練習してるでしょ。授業中にトークネタのメモを作ってたのも知ってる。終礼が終わったら真っ先に教室を出ていくし、迷ってるようなことを言ってても、結局はアイドル活動が好きで、続けたくてたまらないんでしょう」
「……そう、なのかな」
「理屈でこうしたほうがいい、って考えるのは簡単だけど、誰かに辞めたほうがいいって言われたわけじゃないなら、まだいくらでも伸び代はあると思うけどね」
最後に残っていたホットドッグにかぶりついた瑞樹の横顔を見つめて、美月はしばらくぼんやりと考え込んでいた。
自信。思えば確かに、アイドルとして胸を張って活動できていた期間はあまり長くない。いつの間にかこのままでいいのかと考えてばかりになって、アイドルとして世間に求められていないのなら辞めたほうがいいのではないかと、現状から弾き出した結論ばかりに囚われていた。
最初の頃はどうだっただろう。まだ中学生で、受験勉強と両立してレッスンやライブをこなすのがつらいと思ったことも一度や二度ではなかったが、それでも楽しくて、未来ばかり見据えていた気がする。アイドルとして成長していく自分と、この街を輝かせるグループとしての、曇りのない未来を信じていた。
自分ならきっとそうなれると、信じていた。
「……わたし、また信じてもいいかなあ」
「何を?」
「自分はまだこんなもんじゃないって。いろんなことをやれるんだって」
指先が震えた。誰かに――いや、他の誰でもない自分に、宣言しなければいけない。
「本当はまだアイドルとして頑張りたい。せっかく掴んだチャンスを手放したくない。わたしにできることをもっと見つけて、もっともっと頑張って、日本一の――世界一のアイドルになってやる」
「大きく出たね。いいんじゃない、そのほうがさ」
そう言って瑞樹が見せた力の抜けた笑顔があまりに優しくて、美月ははっとした。ずっとどこか張り詰めたような表情ばかりだった彼の、本当の姿が少しだけ見えたような気がした。
「ありがとう、新崎くん。……さっきも、今も」
「さっき?」
「クラスの子に、言い返してくれたでしょ。そんなこともあるだろうなとは思ってたけど、やっぱ実際に聞くとちょっと堪えたから。でも新崎くんが言ってくれたから、すっきりした」
「あれは……昔、似たようなことがあったから」
ゴミをまとめたビニール袋の口をぎゅっと縛って、瑞樹は再びどこか遠くを見つめた。
「小学生の頃さ。ドラマやら映画やらで学校を休んでばっかりだったから、久しぶりに行くとやっぱからかわれたんだよね。俺の台詞のモノマネをしてふざけるやつとか、お前の出てるドラマなんか知らねーってわざわざ言いにきたやつも一人や二人じゃなかった。でも言い返せなかったんだ。悔しかったし、ふざけんなって思ってたけど、それを口に出したら負けなような気がして。……さっきの発言は、あの頃の自分に言ってやりたかった言葉でもあるのかもね」
「でも、抑えてたでしょ」
「え?」
「もっと大きな感情を押し殺して、作った声だと思ったけど。大声をあげたらまずいのはわかるんだけど、振り切ってない怒りっていうか……作り物、みたいな」
「……鋭いね」
え、と疑問を示した美月に、彼はもう答えなかった。おもむろに立ち上がると、先に戻るね、と歩き出す。
「ライブ、頑張って」
「あ、うん……ありがとう」
瑞樹の気分を害したのだろうかとも考えたが、そういう雰囲気ではなかった。彼の真意を掴めないままその背中を見送って、美月は最後に残っていた苺を口に入れた。