ステージから見える景色が好きだ。
きらきらした瞳とペンライト。自分たちのために集まってくれた人たちの思いに応えるために、精いっぱい歌って、踊って、笑う。その瞬間だけは、夢だったアイドルになれたんだと実感する。
それでも現実は非情だ。手応えを感じられないまま、もうどれくらいが経っただろうか。

古津美月は、控え室でため息をついた。

3月最後の週末。街中のイベントに招待されて、所属しているアイドルグループである〈ウィークエンドウィロー〉は商業施設のイベント広場でステージパフォーマンスを行うことになっている。開演まではあと30分ほどだった。

「美月? 調子悪いの?」
「あ……ううん。大丈夫だよ。ちょっと考え事」

グループのリーダーであるさやかに笑ってみせる。そう、と彼女も笑顔を返して、卓上にお店のごとく広げていたコスメを片付け始めた。こうしてちょっとしたことに気がついて、それを流さない細やかさと気遣いをもつさやかは、リーダーにふさわしいと思う。そんな彼女の優しさに惹かれるファンも多い。

日本海側の地方都市であるこの街が、世間の流行りにのって募集をかけていたローカルアイドルのオーディションに応募したのが3年と少し前。地元の公立中学に通っていた美月は、見事そのオーディションに合格した。数ヶ月のレッスンを経て、週末を中心に活動することと街の象徴である柳を名前に冠しデビューした当時、地方新聞やテレビ局、雑誌なんかも山ほど取材に来て、かなり大々的に宣伝されていたのをよく覚えている。

抜群のトークスキルをもつしっかり者のリーダー、さやか。
モデルとしても活躍するグループのファッションリーダー、絵里奈。
迫力あるダンスパフォーマンスが魅力の、亜衣子。
伸びやかな歌唱力なら他の歌手にだって負けない、穂花。

一緒にオーディションを勝ち抜いた他の4人には、それぞれ特技やアピールポイントがあった。4人には既に多くの固定ファンがついていて、さらに活動を重ねるごとに男女問わずその数を着実に増やし続けている。ライブやイベントの度に、いわゆる“箱推し”、グループ全体のファンを示す緑だけではなく、さやかの赤、絵里奈の紫、亜衣子のオレンジ、穂花のピンクのペンライトがどんどん増えているのがわかる。――そして、自分の水色が、少なくなっていることも。
わかってしまう。ステージから見える大好きなはずの景色が、胸に刺さる。

きっと今日もそうだ。この前水色を灯してくれた人だって、今日は何色にしてくれるかわからない。2週間前まで美月のファンを示してくれていた人が、次に見た時は違う色を灯していた時のことを思い出す。今日はもう、歌っている間に数えられるくらいしかないかもしれない。
SNSでグループ名のハッシュタグをつけて投稿されている内容にも、美月の名前や写真がついていることは少なくなってきている。投稿には全ていいねを押しているが、ほかのメンバーばかりを讃える内容が続くとさすがにつらい。

それでも、ローカルアイドルでしかない自分たちを応援してくれていることは嬉しいと、素直に思う。

アイドルなど向いていなかったのかもしれないと思い始めたのは、しばらく前だった。憧れだけで応募して、自分なりに歌もダンスもトークも頑張っているつもりだったが、本当に才能のある人と並んだら努力だけでどうにかなる世界じゃないということを思い知らされる。地方アイドルにしてはレベルが高いと話題になったネットニュースのコメント欄を見て後悔したこともある。

マネージャーも事務所も仲間たちも何も言わない。特筆することのない美月の無個性さには気づいているはずなのに。

「そろそろ時間だよ。みんな準備はいい?」

マネージャーが控え室のドアを開けた。はい、という元気な返事が重なる。衣装の裾についたレースを揺らしてステージ裏へ移動すると、自然と5人で円陣を組んだ。

「この街のみんなに、笑顔と元気と希望を届けよう!」

さやかの声で、グループ名を高らかに叫び、それからステージへと飛び出した。
ファンの前に出ると自然と笑顔になる。音楽が流れ始めれば、当たり前のように体が動く。穂花と目を合わせて歌い、亜衣子と背中合わせで踊り、絵里奈とペアでポーズをとる。観客席を見るのが怖くなって、それよりもずっと遠くを見ながら歌った。

最後の曲が終わって挨拶の時に、初めて観客席をまじまじと見た。水色のペンライトを手にしている人の数は、他の色に埋もれてもうわからなくなっていた。


***


春休みが終わり、高校2年生が始まった。通うのはごく普通の県立高校だ。事務所の方針で平日の昼間は大きな活動がないため、進学先の選択肢は豊富だった。他のメンバーも近くの全日制高校に通っている。

掲示板でクラスを確認してから階段を上がる。3組の教室のドアを開けると、一瞬だけその喧騒が静かになった。

「……おはよう」

にっこり笑って挨拶をすると、数名の女子が返事だけはしてくれた。顔見知りもいる。だが、誰も美月のもとへやってきて話しかけようとはしなかった。

アイドル活動のことで、学校で浮いている自覚はあった。いくら世間にアイドルが増えたとはいえ、珍しい存在であることに変わりはない。中学生の時にオーディションに合格した後こそ同級生は盛り上がってくれていたが、活動が本格化していく中であまり目立たないままの美月の扱いに困ったのか、話しかけてくれる友人は片手で数えられる程度になった。高校では早々にアイドル活動をしていることがばれたために、新しく友達を作る前にひとりぼっちが確定してしまった。
嫌がらせをされるようなことはないし、授業などで必要な場面では普通に話してくれるので、おそらく嫌われているわけではない。ただ、ぱっとしないローカルアイドルのひとりにどう接したらいいのかわからないのだろう。

新しい教室での席は、窓際から3列目のいちばん後ろだった。既にまとまりつつある仲良しグループの間を縫って進み、椅子に座る。しばらくするとチャイムが鳴って、担任の教師が教室に入ってきた。雑な自己紹介と挨拶の後に、担任は咳払いをした。

「このクラスに転校生が入ることになった。紹介するぞ」

――促されて入ってきたのは男子だった。すらりとした長身に、さっぱりとセットされた髪、その毛先にある切れ長の目元。きちんと着こなした制服が、高級なジャケットのように見えるくらいのオーラがあった。
綺麗な人だな、というのが、美月にとっての第一印象だった。

「新崎瑞樹です。これからよろしくお願いします」
「席はここの一番後ろ、空いてるところな」

担任が指差したのは美月の隣だった。空いているとは気づいていたが、新年度早々から休んでいるのかと思っていた。よろしく、という小さな声に首の動きだけで返事をする。揺れた前髪の奥の瞳が、物憂げに揺れているように見えて、そんなに新しい環境が不安なのかという疑問を抱いた。

休み時間になると、さっそく誰も彼もが瑞樹のところへやってきた。当然のように美月の机の前にも人だかりができたので、逃げるように席を立った。たいして行きたくもないトイレに入って、洗面台で手など洗ってみる。
鏡で前髪を直して、授業再開の2分前を狙って教室に戻ってみたものの、瑞樹はまだ質問攻めにあっているようだった。教室には入らずに、チャイムが鳴って彼らが捌けるのを待つ。
この時間が、一番しょうもないと思う。

チャイムと同時に教室に戻り、授業が始まる。席に座る時に隣から視線を感じたが、気づかないふりをした。



***


昼休みも同じように、瑞樹の周りには人だかりができていた。自分の席なのに居心地が悪く、美月は弁当とスマホを持って教室を出た。久しぶりに、屋上へ繋がる階段へと向かう。

教室に馴染めなかった最初の頃、よくここで時間を潰していた。踊り場でダンスの練習をしたり、ライブのMCに使えそうなネタをメモしたり。最近は教室で息苦しさを感じることもなくなっていたのでここで弁当を食べることはなかったのだが、さすがにあの盛り上がりを気にせずに食事に没頭できるほど図太い神経は持ち合わせていない。

弁当を食べ終えてから、美月はイヤホンを耳に挿した。来月のライブでは新曲の発表がある予定だ。苦手なステップがあるので練習しようとジャケットを脱いで立ち上がる。

1、2、3、4、ターンしてそのまま右へ。ここで絵里奈とハイタッチ。

頭でイメージはできているのに、いざやってみようとするとうまくいかない。足がもつれたり、ハイタッチのタイミングで絵里奈と近すぎたり遠すぎたり。

(みんなきっともっと練習してる。わたしはみんなより下手くそなんだから、その何倍も努力しなくちゃいけない)

念願のアイドルになれたのに、現実はそう甘くなかった。どれだけ頑張ったところで、実力だけじゃなく運が多分に絡む世界でもあるのだから、最後まで燻ったままになるかもしれない。周りは「いつか見つかる時がくるよ」と無責任な励ましを言うが、そんなチャンスが訪れる確率は限りなく低いだろう。わかっていたつもりだったが、素人の想像以上にこの世界は厳しかった。
それでもまだ頑張りたい。アイドルでい続けたい。

――続けたいはずなのに、苦しい。

「……っ!」

よろめいた拍子に、手すりに腕を強くぶつけた。その痛みにうずくまると、じわりと視界が滲んだ。ぶつかったところから痛みが広がって、それが消えるまで美月は膝を抱えたままでいた。

「……最悪」

多少痣になる程度だとは思うが、それよりも、何度も練習しているはずの振り付けすらまともに踊れずに痛い思いをしていることが情けなくて涙が出る。鼻をすすって立ち上がり、時間を確認する。あと2回くらい通しでやる時間はあるので、新曲を最初から再生した。

イヤホンから流れる音楽と、上履きが踊り場の床に擦れる音。そのせいで、誰かが近づいていることに気が付かなかった。途中でターンした拍子に、階段を昇ってくる人がいたことに気づいてまたバランスを崩した。

「わっ」
「あ、ごめんなさい……驚かせるつもりはなくて」

よろけて壁に背中を打ちつけた美月に手を差し出したのは男子生徒だった。反射的にその手を借りて姿勢を立て直す。あらためてその顔をよく見ると、さっきまで同じ教室にいた――なんなら隣に座っていた人物だと気づいた。

「新崎くん? どうしてここに」
「……ひとりになれる場所が欲しくて。えっと……」
「古津です」
「古津さんは、いつもここにいるの」
「ひとりになりたい時、たまにね。屋上は誰も入れないから、ここを通る人は基本いないし」

瑞樹はまだ何かを迷うように視線を泳がせた。その様子をしばらく見つめて、確信する。

「ねえ、違ってたら申し訳ないんだけど、役者やってる?」
「え」

その目元に覚えがある。何年か前に観たドラマに出ていた子役の男の子の表情が印象に残っていて、それに似ていると思ったのだ。確か、クレジットに出ていた名前は――

「新藤ミズキ、くん」

そう呼んだ瞬間に、彼の目が大きく見開かれた。

「わたしと名前の音が同じで、同い年だからよく覚えてる。……もしかして、本人?」
「――うん。しばらく何にも出ていなかったから、もう気づかれないと思ってたのにな」

美月に話しかけるのではなく、独り言のように瑞樹は言った。それと同時にチャイムが鳴る。あと5分で午後の授業が始まる合図だった。

「そろそろ戻らないと」
「あ……そうだね」

手早く荷物を片付けて立ち上がる。瑞樹と一緒に階段を降りてから、トイレに行くと言って美月は彼と分かれた。2人で一緒に教室に戻ったら、何か言われるかもしれない。――彼が。


***


終礼が終わり、美月は席を立った。平日の放課後はいつもレッスン場にまっすぐ向かっている。誰にも何も話しかけることなく教室を出て生徒玄関へ向かうと、あちこちから新入生勧誘の部活動の呼び込みの声が聞こえてきた。掲示板にはポスターが貼られていて、まだ体にフィットしない制服を着た一年生がそれをじっと見つめている。

その光景を横目に靴を履き替えて外に出る。校門に向かって歩きながら制服のポケットに手を突っ込むと、指先に紙片の当たる感覚があった。そういえばと思い出して四つ折りのその紙を開くと、短い一文が整った字で書かれている。

――新藤ミズキのことは、誰にも言わないで。

昼休みの後、席に着いた途端に渡されたものだった。瑞樹の目は真剣で、反射的に受け取ってしまったが、疑問はいくつもわいてくる。

なんで転校してきたのか。
役者の仕事はもうやらないのか。
どうして子役時代のことを隠しているのか。

スマホで彼の名前――新藤ミズキと検索する。所属事務所のページはまだ残っているようだ。
出身地は東京都。ドラマや映画、CMなど、出演作品がいくつも並んでいる。美月が大好きだったドラマの名前もあった。だが、数年前の作品が最後に挙げられ、最新情報の更新もずっと止まったままになっているのを見ると、彼がしばらく芸能活動をしていないのは明白だった。

そのことを誰にも言ってほしくないという言葉を合わせて考えれば、きっと何かしらの事情があってこの街にやってきたのだろう。でも、クラスメイトたちだっていつかは気づいてしまうのではないだろうか。その時、彼はどうするつもりなのか。

考え事をしているうちにレッスン場に到着した。まだ誰も来ていないようで、スタッフの女性に挨拶をして更衣室へと向かう。
他人のことを考えている場合ではない。今はとにかく、自分のことをどうにかしなければならないのだ。みんなが来る前に、少しでも練習しなくてはいけない。

軽いストレッチとウォーミングアップをしてイヤホンをつけ、ステップを踏み出す。鏡張りになった壁で自分の動きを確認しながら、丁寧に。
腰のひねりが足りない。左手が指先まで伸びていない。踏み出す足はもう5センチ前へ。華やかできらきら輝いているアイドルだって、裏ではその笑顔から想像もつかないほどの練習を重ねているのだと身をもって実感する。

いつの間にか他の4人も集まっていた。イヤホンを外して、呼吸を整えながら振り向くと、ストレッチをしていた亜衣子がおつかれとタオルを差し出してくれた。

「相変わらず早いね」
「学校が近いからね。歩いたってすぐだもん」
「それにしたって早いよ。スタッフさんに聞いたよ。20分前には来てたんでしょ。学校終わったらすぐ飛び出してきたような時間じゃない」
「あれ、もうそんなに経ってたんだ。――まあ、わたしは……」
「ん?」

言いかけた言葉を飲み込んで、美月は4人に向かって笑ってみせた。わたしはみんなよりも頑張らなくちゃいけないから、なんて、口にしたところで彼女たちに気を遣わせるだけだ。

「ううん。なんでもない。ねえ絵里奈、昨日うまくいかなかったところ、今日も練習に付き合ってもらってもいいかな」
「もちろん。何回かみんなで合わせたあと、2人でやってみよう」
「ありがとう」

さっそくやろうか、というさやかの合図で音楽をスタートさせる。歌いながら踊ると、どうしてもパフォーマンスが疎かになりがちだ。無意識で体が動くまで、何度も何度も記憶に叩き込む。ライブまであまり日がないのだから、早くできるようにならなければ――

「いた……っ!」

どん、と衝撃が走って、盛大に尻もちをついた。今日は本当についてないなと思いながら立ち上がる。ハイタッチの手前、ターンのタイミングで絵里奈と思い切りぶつかったのだ。

「美月、ごめんね。大丈夫?」
「平気。わたしがちょっと踏み出しすぎたよね、ごめん。絵里奈も怪我してない?」

大丈夫だよ、と絵里奈が言いかけた時に、亜衣子の鋭い声が飛んだ。

「美月、焦りすぎ。もっと落ち着いて、一つひとつ丁寧にやればいいから」
「ご、ごめん」
「基礎的なことはちゃんとできてる。どっちかっていうと、今のあんたはメンタルに左右されてる感じがするけど。なんか悩み事でもあるの」
「悩み……ううん、そんなことは」
「でも、新曲のレコーディングの時も、録り直しがいちばん多かったのは美月だったよ。いつも綺麗に出てる高音もなかなかうまくいってないみたいだったし」

思い出したように穂花が付け足すと、聞いていたさやかも確かに、と頷いた。そのことは美月自身も自覚していて、だからこそライブのパフォーマンスでは完成度を上げないといけないと思っていたのに。

「何もないならそれでいいけど、自分のメンタル管理も仕事のうちだよ。わたしたちに言えないなら、マネージャーさんでも誰でもいいからに話してみたら?」
「……ごめんね。迷惑かけないようにするから」

そういうことじゃない、と言いかけた亜衣子の肩を掴んで、さやかが静止した。彼女は思ったことをはっきり言うタイプだ。決して嫌いではないが、今の美月にはその正しさが痛い。きっとさやかもそれを察している。

「まあまあ。とりあえず今は練習しようよ。揃ってる時じゃないと全体のフォーメーション確認はできないしさ。美月も、まずは集中して、今の気持ちより一拍置くくらいのつもりで丁寧にやってみて」

カメラを起動させたスマホをスタンドに設置して、穂花が音楽をスタートさせた。何度も映像を確認しながら練習を重ねて、なんとか息の合ったパフォーマンスに近づいたものの、突きつけられた自分の弱さが胸の奥に強くこびりついて離れない。