「あ、ささくれ」

 少し剥けた指の皮をそのまま引っ張って剥がそうとすると、横から伸びてきた手に阻まれた。

「やめろ」

 私はむっとして、声の主である恭一(きょういち)を睨んだ。

「だって気になる」
「俺が処置するから。いいか、絶対触るなよ」

 恭一は立ち上がって救急箱を取りに行った。ここは私の家だというのに、勝手知ったる風に動くのがなんだか癪に障る。それだけ、彼が私の家に入り浸っているということだけど。
 恭一は別に恋人ではない。もちろん家族でもない。友人というのもしっくりこない。けれどただの知人というには、あまりにも近くにいた。

(さくら)、手出せ」

 大人しく私がささくれのある方の手を差し出すと、恭一は飛び出している皮膚を先の丸くなった小さなハサミで短く切り、ワセリンを塗って、絆創膏を貼った。

「これで良し。剥がすなよ」
「はぁい」

 私は絆創膏を巻かれた指を眺めた。こんな丁寧にしなくたって、放っておけばそのうち治るのに。

「ついでにこっちも塗っとくか」

 恭一の長い指が私の顎を固定する。そのまま、指に掬ったワセリンを唇に薄く塗った。

「お前これ、また剥いたろ」
「だって剥がれてくるんだもん」
「剥くから剥がれるんだろ。マメに保湿しろ」
「面倒くさい」
「やれ」

 厳しい声で言われて、ぶすっと頬を膨らませる。なんだってそんなことを言われなくてはいけないのか。お母さんか。

 無くて七癖、というくらい、人には誰にでも癖がある。
 私の癖は、これだ。皮膚を剝いてしまう癖がある。
 だって気になるじゃないか。パリパリと浮いてきてしまう唇の皮はしょっちゅう剝いてしまうので、リップクリームを塗ってはいるけれど、塗ったら塗ったで皮が浮いてくるから無意味な気がしている。
 指先の皮もしょっちゅう剥いてしまう。ささくれは勿論、爪の横のところが特に盛り上がっている気がして毟ってしまう。毟るとまたそこから皮がぺろぺろと段差になるので、更に剝いてしまう。
 なんなら爪も剥いてしまう。端のところを爪でカリカリとやるとそこから切れ目が入って、そのまま爪を毟り取ることができる。ただ毟る範囲の調節はできないので、よく深爪になりすぎて血が出ていた。
 硬くて剥けない場所は、歯を使ってしまうこともあった。さすがに口は不衛生だと思ってやめようとしたこともあったが、ほとんど無意識にやってしまっていた。癖とはそういうものだろう。次第に諦めた。
 そんな風にしているから、私の指先はいつもぼろぼろだった。子どもの頃からずっとそうだった。でも誰にも注意されたことはない。親にもだ。そもそも親は私のこの癖を把握していたのかどうかもわからない。
 手持無沙汰な状態だと、ペンを回したり、練り消しを作ったり、そういう手遊びをしだす子どもがいる。私のこれも、そういう類のものだと思っていた。だから特段、直そうともしていなかった。
 変化が訪れたのは、大学で恭一と出会ってからだ。
 

 
 大学の講義は、だいたい長机で行われる。高校までのような一人一席の小さな机を使うことはまずない。だから隣に知らない人が座ることは当たり前にある。
 退屈な一般教養の授業で、私は早めに後ろの方の席を陣取っていた。寝ているのがバレるから、前の方は誰も座りたがらない。
 ガタリと椅子を引く音がした。見ると、私の座っている長机に、一席空けて男が座った。後ろの席は人気だから、私はちらりと視線を向けただけで、大して気にもしなかった。向こうも私に一瞥もくれなかった。
 あくびの出るような授業を右から左へ聞き流す。つまらないからか、また私の癖が出ていた。ノートの上に、毟った皮膚がぱらぱらと落ちる。これはゴミになるので、最後に消しカスと一緒にまとめて捨てる。
 無心で毟って、毟って、つい深追いしすぎて、血が出た。ノートの上にぱたぱたと血が落ちる。
 あーあ、と思った。じんじんと鈍い痛みで指先が痺れる。
 血が出ているというのに、まだべろっとなっている皮が気になって、私はその部分だけでも剥がしてしまいたいと爪をかけた。その瞬間。

「――――!?」

 心臓が飛び出るかと思った。授業中でなければ、悲鳴を上げていただろう。
 丸い目で凝視する私と目を合わせながらも、隣の男は私の手を掴んだまま放さなかった。

「……な、なんですか」

 怯えながらも、私は小声で問うた。男は私の恐怖心と猜疑心に気づいたようで狼狽えた様子を見せたが、それでも手は放さなかった。
 
「……それ以上触るな」
「は?」

 なんだって初対面の男にそんなことを言われなければならないのか。思わず喧嘩腰な声が出てしまった。

「絆創膏とか持ってないのか。女子だろ」
「は? 持ってませんけど」

 女子なら絆創膏くらい持っている、というのは偏見だ。刺々しい声で返すと、男は溜息を吐いて手を放した。
 なんなんだ、と思いながら前を向くと、横から絆創膏が差し出された。どうやら手を放したのは、これを自分の鞄から取り出すためだったらしい。

「なんですか」
「貼っとけ」
「要りません」
「いいから」

 小声ながらも強い口調で押し付けられて、それ以上問答をしたくなかった私は渋々受け取って指に巻いた。
 絆創膏のクッションに、じわじわと赤が滲んでいく。
 それ以降も度々隣から視線を感じて、私はその後の授業中、ずっと居心地の悪い思いをするはめになった。指先をいじるのが躊躇われて、私は机に肘をついたまま、ずっと髪を引っ張っていた。

 やっとチャイムが鳴って、授業が終わる。さっさと席を立とうとした私は、隣の男に呼び止められた。

「俺、心理学科二年の東屋(あずまや)恭一」
「……そうですか」
「名乗ったんだから名乗れよ」
「知りませんよ。そっちが勝手に名乗っただけでしょ」
「名前も知らない男と話すの怖いと思って名乗ってやったんだろ」
「は? 私はあなたと話すことなんてありませんけど」
「いいから。ちょっとだけ話せるか」
「嫌です」
「学食奢るから」
「うわ、ナンパですか? 他所でやってください」

 そのまま立ち去ろうとしたが、東屋と名乗った男は私の手を掴んできた。

「ちょっと、なんですか。しつこいと人呼びますよ」
「あんたさ。これ、いつも?」
「は? なに」
「指。今日の傷だけじゃなくて、全部ぼろぼろじゃん」

 かっと顔が熱くなった。なんだって初対面の男に外見のことを貶されなくてはならないのか。馬鹿にされた気分だった。

「ほっといてください、癖なんです!」
「癖? いつから?」
「昔からずっとこうなんです! 癖くらい誰にでもあるでしょ、なんなの、いちいち指摘しないと気が済まないの? あなたに迷惑かけてないでしょ」
「かけてる」
「はぁ!?」
「あんたのことが気になって全然授業に集中できなかった」

 やはり新手のナンパなのだろうか。私はもう逃げようと思って、東屋さんの手を振りほどこうとした。

「あんたのそれ、自傷だって言われたことない?」

 動きが止まった。言われた言葉がすぐには呑み込めなくて、呆然とした表情で私は東屋さんを見つめていた。
 じわじわと込み上げたのは、羞恥か、怒りか。とにかく不愉快な気分で、私は思い切り東屋さんの手を振り払った。

「ばっかじゃないの!?」

 怒鳴りつけて、私は今度こそその場を走り去った。
 東屋さんは追いかけては来なかった。

 馬鹿じゃないの。馬鹿じゃないの!
 なんだ自傷って。私は今まで、手首を切ったりとか、そんなことは一度もしたことがない。あんなのと一緒にしてほしくない。傷を作って自分を可哀そうがっている奴らと同じなんかじゃない。
 ただの手癖だ。子どもの手遊びと一緒だ。このくらい、いくらでもいるじゃないか。なんだあの言い草は!

 腹が立って仕方なかった。何故それほど腹が立っているのかは、きっとあの男が失礼すぎたせいだ。
 それだけだ。


 
 もう二度と顔を合わせたくないと思ってはいたものの、授業が同じなのでそうもいかない。失礼な男のせいで単位を落とすなど、それこそ業腹だ。
 先に席についていると、また東屋さんが隣に来てしまう可能性がある。だから私はわざとギリギリの時間に教室に入った。東屋さんは一番後ろの席に座っていて、ちらと目が合ったが無視した。空席を探せば案の定一番前の席しか空いていなかったが、それは仕方ない。溜息を吐いて席についた。
 教授の目の前であからさまに聞いていない態度はできない。手元をいじっているのは目立つ。私は授業中ずっといらいらしながら、無意識に髪を引っ張っていた。
 チャイムが鳴って席を立つ。さっさと教室を出て行った私を、追いかけてくる足音がした。

「なぁ、おい!」

 名前を知らないから、呼べないのだろう。私に声をかけているとわかってはいたが、呼ばれていないから私じゃないとばかりに無視した。

「英文学科二年、百千(ももち)桜!」

 驚いて、思わず足を止め振り返る。目の前には、追いついた東屋さんが立っていた。

「なんで……」
「聞いたら教えてくれた」

 わざわざ調べたというのか。背筋が寒くなった。
 教えてくれた、というのは誰の事だろう。それを言ったら相手が怒られるから濁したのだろうが、わからない方が恐怖だ。
 怯えて後退った私に、東屋さんは深く頭を下げた。

「ごめん」

 そうくるとは思わなくて、私は息を呑んでその頭を見つめた。

「この前は、失礼な言い方をした。百千が気を悪くしたのは当然だ。侮辱する意図はなかった。本当、ごめん」

 本気で謝っているように見えて、私は狼狽えた。それから周囲が僅かにざわついているのに気づいて、はっとした。そうだ、ここは往来だ。こんなの目立って仕方がない。

「わ、わかりました。いいから、場所変えて」

 これからも授業は同じなのだし、名前もバレている。このまま付きまとわれるくらいなら、と私はとにかく一度話を聞くことにした。
 
 人目のない場所は怖いので、カフェテラスに移動した私達は、テーブルに向かい合って座っていた。
 私の前には、奢ってもらったカフェオレが湯気を立てている。自分で払うと言ったが、この前の詫びだと言われたのでありがたく受け取った。

「それで……東屋さん、でしたっけ」
「同じ学年なんだし、タメ口でいいよ。俺もそうしてるし」
「東屋さん。何が目的なの?」
「目的……って言われると、なんか微妙な気分だけど。その、百千の癖」

 ちらりと視線が指先に移って、私は思わず手を隠した。

「ただの癖だって言ってたけど、それ、直した方がいい。怪我する程度が常態化してるのは、良くない」
「そんなの、東屋さんに言われる筋合いない」
「俺以外には誰に言われた?」
「……言われたこと、ない」
「親にも?」
「ないってば」

 だからなんだと言うのか。じっと見てくる目が居心地悪くて、鳩尾(みぞおち)の辺りがざわざわする。

「だったら、俺が言うしかないだろ。他の人が見ててくれるならいいけどさ。癖って本人は無自覚だから、他人が指摘しないと直らない」
「何それ。私の癖が直ろうと直るまいと、東屋さんに全然関係ないじゃない。ほっといてよ」
「直したいとは、思わない?」
「別に」
「でも手を隠した。人から見られたくないと思ってるんだろ」

 かちんときて、東屋さんを睨みつける。彼は平然とした態度で話を続けた。

「俺、心理学科なんだよね」
「……聞いたけど」
「百千のそれ。良かったら、俺の研究テーマにさせてくれないかな」
「――は?」
「人の癖が直せるかどうか。協力してくれたら、勿論謝礼はする。俺にできることなら、そっちの研究にも付き合うし。百千が嫌がることはしない。だから頼めないか」

 なんだ、と拍子抜けした気分だった。要はモルモットが欲しかっただけか。それはそれでどうかと思うが、ナンパよりはよほどマシだった。心理学であれば、実際に対人でデータを取れた方がいいというのはなんとなく推察できる。
 人の癖は多種多様である。貧乏ゆすりとか、舌打ちとか、特定のケースでしか出てこないような癖よりも、日常的に出やすい癖の方が研究しやすいだろう。それも皮膚の損傷があるとなれば、指の状態を写真にでも残しておけば、経過観察は容易だ。
 研究対象としてちょうど良かったのだろうな、と私は結論付けた。

「そういうことなら、いいよ」

 大学では相互扶助が大切だ。授業や研究で他者の手が必要となった時に、高校までのようにクラスメイトというのがいないので、自分で協力者を探すのはなかなか骨が折れる。学科を越えた人脈が必要な場合など、人間関係が得意でないと本当に途方に暮れる。それを考えると、二年の内に他学科に知り合いが作れるというのは悪くないかもしれない。

「なら、交渉成立ってことで。これからよろしくな」

 変な人だったら途中で手を切ればいいしな、と軽く考えて、私は東屋さんと握手を交わした。

 

 それから、東屋さんと行動することが多くなった。私は大学で特にいつも一緒にいるような友人はいなかったので、その辺りに支障はなかったが。
 はっきり言うと、東屋さんといるのはストレスだった。
 最初に他人の指摘が必要だ、と言った通り、東屋さんは私の癖が出る度に指摘した。私はその行動をほとんど無意識にしているので、その度に止められるというのは、歩く度に「歩き方が違う」と止められてまともに歩行ができないほどのストレスだった。
 指の皮を剥けない状態でも、指先をじっとさせていることができなくて、指が白くなるくらいに握りしめたり、爪を立てたりしていた。それにも東屋さんは良い顔をしなかったが、ひとまず第一段階としては皮を毟ってしまうのをやめるのが目標なので、代替行為を強く制止することはなかった。ただ爪を立てすぎて手と腕がぼこぼこになっていた時には、眉を顰めて考え込んでいた。

「百千のそれってさ、自分の手じゃなくても無意識にそうなるの?」
「……? どういうこと?」
「だからさ」

 そう言って、東屋さんは私の手に自分の手を絡めた。

「例えば、こうやって他人の手があったらさ。この状態でも、力入れたり爪立てたくなったりする?」
「え……いや、それはないんじゃないかな。人の手だし……」
「ならちょっと試してみようぜ」

 とは言っても、まさか授業中に手を握っているわけにはいかない。自習しながら試してもいいが、大学でそれをやるのはなんだかバカップルみたいで人に見られたら嫌だった。

「なら外で会う?」

 その一言で、私は東屋さんとデートすることが決まった。
 いや、デートではないかもしれないが。今まで大学の中でしか一緒にいたことがなかったので、大学の外で会うとなると、途端にプライベートな付き合い感が増して、多少なりともどきどきした。
 第一印象は最悪だったが、暫く一緒に過ごしてみれば、別に悪い人ではなかった。本当に私の癖を直そうとしているようであったし、私が怪我をする度に手当てをしてくれた。それなりに、私の印象は良い方へと変化していた。

 あまり人に見られたくない、という理由で、私達は映画館に行くことにした。映画館なら薄暗いから人からは見えないし、映画に集中することで無意識の癖は出やすくなるだろうと。
 適当に話題作のチケットを取って、私と東屋さんは隣同士の席に座った。少し話して、照明が落ちると、東屋さんが私の手を握った。
 曲がりなりにも年頃の女である。東屋さんに馴染んできていたこともあり、多少はどきりとした。けれど東屋さんの方は全然気にした素振りはない。
 どうせモルモットだものな、と私は映画に集中した。

 暫くすると、ぎゅっと強く手を握られた。その感触で、はっと我に返った。

 ――しまった。

 どうやら他人の手なら大丈夫だというのは私の思い込みだったらしい。かなり強い力をかけてしまっていたようで、私は小声で謝罪した。東屋さんは気にするなというように、私の手を覆うように握った。これだと私の方からは絡めたり握ったりできないので、これ以上負傷することはないだろう。
 迂闊だった。自分の手同士で組む時は、痛みがあるから折れない程度に骨に力をかけるのだが、他人の手だと痛みは感じないから、込められるだけ力を込めてしまっていたのだろう。折っていなくて良かった。多分。折れていないはずだ、さすがに。

 映画が終わって、劇場が明るくなる。私はすぐに東屋さんの手を確認した。

「ごめん、怪我してない?」
「ああ、大丈夫大丈夫」

 東屋さんはへらりと笑って手を振った。一応は大丈夫そうで、私はほっと息を吐いた。
 映画館を出て、近くのカフェで軽食を取りながら話す。

「他人の手でもなるってことは、もう手は動かしてないと落ち着かないんだろうな」
「う……面目ない」
「気にするなって。俺から言い出したんだし」

 東屋さんはそう言うが、私は自分でも結構なショックを受けていた。
 今までは自分だけの癖だから誰に迷惑をかけるわけでもないと思っていたが、他人に怪我をさせる可能性が出てきたとなれば話は別だ。

「そう落ち込むなよ。ちょっと思いついたことあるからさ」
「……?」

 それから東屋さんは、私を雑貨屋に連れて行った。

「あったあった」
「これ……」

 東屋さんが指したのは、手のひらに包み込めるほどの小さなぬいぐるみだった。

「ちょっと握ってみ」

 サンプル品を握ると、もちもちとした触感で手に吸いついた。

「わ、何これ。おもしろい」
「ストレス発散グッズなんだよ。こういうの握ると癒されるしさ、手の中に握り込んでおけば、爪立てたり、他の指握ったりできないだろ?」
「なるほど……確かに……」

 手が空いているから、自分の手と手で何かをしてしまうのだ。ぬいぐるみを握っていれば、それは阻止できるかもしれない。

「いいなこれ。買ってみようかな」
「どれがいい?」
「んー……」

 動物を模したそれは、何種類もあった。その中から、私は白い文鳥のものを選んだ。文鳥が手に収まっている写真を可愛いと思っていたからだ。

「これにする」
「わかった、んじゃちょっと待ってて」
「え?」

 ぬいぐるみをレジへ持っていく東屋さんに、私は慌てた。

「ちょっと、自分で買うから、このくらい」
「このくらい、俺が出すよ。研究用の経費だと思って」
「経費って」
「ここで自分で買わせるのはさすがに格好悪いだろ」

 軽く笑って、東屋さんはさっさと会計を済ませてしまった。

「ほい」

 可愛い花柄の袋に入れられたぬいぐるみが、私の手のひらに乗せられる。

「あ……ありがとう」

 私はそれを大切に鞄にしまった。

「大事にしろよー。爪立ててぼろぼろにしないようにな」
「し、しないよ!」
「名前つけると愛着湧くらしいぞ。俺の名前使ってもいいぜ?」

 その提案に、私は思わず吹き出した。

「何それ。恭一、って? 文鳥に似合わないよ」
「なら自分の名前つけたらどうだ? 桜って。似合うだろ」
「自分の名前呼ぶのは勇気いるでしょ」
「なら俺が呼ぼうかな。桜」

 桜。呼び捨てにされたことにどきりとする。
 そんなことは微塵も感じさせないように、私は笑って返した。

「勝手に名前つけないでよ」
「でも呼びやすいよな、桜。そうだ、百千のことも桜でいい? ももち、って言いにくいんだよな」
「え……い、いいけど」
「俺も恭一でいいからさ。タメでいいって言ったのに、ずっと東屋さん、って呼ぶから気になってたんだよな。言いにくいだろ、俺の苗字」
「まぁ……。正直」
「だろ?」
「そっちがいいなら、恭一って呼ぼうかな」
「おう」

 屈託のない笑顔を可愛いと思って、良くない傾向だと手に力を込めた。
 これは育ててはいけない感情だ。早めに埋めてしまわないと。

 

 ぬいぐるみの効果は、なくはなかった。手に力を込めてしまう動作は、ぬいぐるみを握ることである程度解消された。けれどいつも必ずぬいぐるみを手元に置けるわけではないし、皮膚を剥いてしまう方の癖にはあまり効果がなかった。ぬいぐるみを握っていても皮膚は毟れるし、皮膚が浮いているとやはり気になってしまうからだ。
 それでも、指の状態は少しだけ改善していた。それは恭一の努力によるものだ。
 映画館のデート以来、無意識の時間を共有できるように、一緒に勉強をしたり、映画を見たりという時間が増えた。そして途中で私の癖が出ると、恭一が指摘してくれる。
 ただそれを静かな場所でやるのは、やはり人目が気になった。だから家で会うことが増えた。
 家に誘ったのは私の方からだった。当然、恭一は渋い顔をした。
 
「桜一人暮らしじゃなかったっけ?」
「そうだけど。毎回映画館だとお金かかるじゃない。配信の方が安いでしょ」
「そりゃそうだけどさぁ……」
「誤解されたくない人がいるならやめとくけど」
「……いないけど」

 苦々しい答えは予想済みだった。気になる相手がいるのなら、そもそもこんなに私と過ごしていないだろう。当人達がどうであれ、他者からどう見えているのかくらいはわかっているはずだ。

「まぁ、桜がいいならいいけどさ」

 溜息と共に吐き出された言葉に、照れや期待は一切なかった。
 これも予想済みだ。だから私は、傷ついたりはしない。

 家に来た恭一は、やはり平然としていた。ただ部屋の様子は、失礼にならない程度に気にして見ていたように思う。多分、何かの判断材料にしたかったのだ。そういう目をしていた。私自身に興味があってのことではない。
 二人で見るにはノートパソコンの画面は小さい。スマホをテレビに繋いで、画面に映した。
 テーブルに適当な菓子と飲み物を並べて、私は文鳥のぬいぐるみを握って座る。

「そいつ役に立ってる?」
「多少は。触り心地いいしね」
「そりゃ良かった」

 私がスマホを操作して、映画が始まる。最初の目的は映画を見る事そのものではなかったが、私と恭一はなかなか趣味が合った。そうでなければ、二人で映画を見るという行為を続けてはこられなかっただろう。
 それでもきっと、恭一は私と同じ集中度で映画を見ていない。私の癖の方を優先して気にしているからだ。
 当然だ。恭一が私と一緒にいるのは、研究のためだから。仲良くするためにいるんじゃない。
 家にまで来て、一緒に映画を見て、すぐ隣にいるのに。友人ですらない。それを寂しく思うのは、私のわがままなのだろう。

 何度か家に来て、食事も家で食べるようになった頃。食器を洗い終えた私の手を、恭一がとってじっと見た。

「手のケアって何してる?」
「普通にハンドクリーム塗ったりとか?」
「でも今塗ってないよな」
「あー……毎回は面倒だから、気づいた時に」
「やれよ」

 呆れたような顔に、私は不貞腐れて見せた。女子はいつでもハンドケアが完璧だとでも思っているのだろうか。女子だって面倒なものは面倒だ。でもさすがに洗剤を使った後はつけておくべきだったかもしれない。

「爪のケアとかは? 何か持ってる?」
「持ってはいるけど、あんま使ってない」
「……とりあえず、出せ」

 言われてコスメ用品を入れてある箱を漁り、ネイルケア、ハンドケア用品をテーブルに並べてみる。全然使っていないが、そこそこあった。こういうものは買った時点で満足してしまうことが多い。

「使った形跡が……」
「だって、面倒じゃんこういうの。買った時はやる気になるんだけど、だんだんね」
「ずぼらめ」

 言いながら、恭一がネイルファイルを手に取った。

「ほら、手出せ」
「え、いやいいよ」
「いいから」

 恭一が私の手を取って、指先に触れる。手の下にゴミ箱を持ってきて、ガタガタになった爪に慎重にネイルファイルを当てて削っていく。

「そこまでしなくたって……」
「綺麗に手入れしといたら、崩すのもったいなくなるかもしれないだろ」
「だったら自分でやるし」
「やらないから今こうなってるんだろ」
「ぐう」

 しゅ、しゅ、と爪を削る音が響く。粗い目のネイルファイルで爪の先の形を整えるとガタガタだった爪は丸くなった。それからオイルを手に取った恭一に、私は驚いた。

「それもやるの?」
「どうせやるなら全部やった方がいいだろ」

 甘皮オイルを爪の根元に垂らして、馴染ませる。それからプッシャーを使って丁寧に甘皮を取る。これは失敗するとかなり痛いので、私は決して手を動かさないように注意していた。
 それが終わると、またネイルファイルを手に取った。今度は細かい目のものだ。これで表面を滑らかにして、艶を出す。
 最後にまたオイル。これも甘皮用とは別のもので、トリートメント効果のあるものだ。先が筆になっていて、爪の表面と、キワのところに丁寧に塗る。塗りっぱなしだとかえって蒸発してしまうので、筆で塗った後に一本ずつ丁寧に指先で塗り込む。

「ん、こんなもんか」

 ぴかぴかと光る爪を、私は呆然と眺めていた。

「ほら、ちゃんと手入れすれば、それなりになるだろ?」

 恭一は私が仕上がりに驚いていると思ったのか、軽く笑った。
 けれど、そうではない。

 ――なんでこんなの、できるの。

 ネイルファイルの目の粗さなんて。オイルの種類の違いなんて。
 なんで知ってるの。なんで使い分けできるの。
 そんなの答えはわかっている。やったことがあるからだ。手慣れるほどに。
 その理由を問う資格は、私にはない。

「手の方もやっとくか」

 ハンドクリームを缶から掬って、私の手に伸ばす。指の間まで、丁寧に。
 その手つきは、なんだか介護に近い、と思った。
 この人は、私を()()()()いる。

 研究対象だと言っていた。でもきっと、それは後付けの理由に近いのだろう。わかっていた。恭一には情がある。そしてそれは、愛情や友情ではない。
 同情だ。
 或いは憐憫だと言い換えてもいい。恭一は、私をまるで可哀そうな子どものように扱っている。
 初めて出会った時から。恭一にとって、私は救ってやらなければならない、弱くて哀れな生き物なのだ。
 だから絶対に対等にはなれない。隣にいるのに、隣に並ぶことは決してない。
 恭一は、私を庇護しているつもりなのだから。

 ――馬鹿にしないでよ。

 ぎりりと奥歯を噛みしめる。
 けれど事実弱い私は、それを口にはできない。そうしたら、恭一は離れていってしまうから。

「良し、できた」

 満足そうに言った恭一が、私の手を握る。

「手入れすれば綺麗になるんだから、普段からちゃんと自分でやれよ」
「ええ、めんどくさい」
「やーれーよ」

 念を押すような口調に、私は笑いで返した。できない、と甘えていたら、きっとこれからも文句を言いながらやってくれるだろう。
 
 同情でいい。下に見て、可哀そうがって、施してくれていい。あなたのちっぽけな正義感を満たすための道具にしてくれて構わない。

 それでもいいから、(そば)にいて。