白魔術師の心得

 天使の祝福を受けたとされる大陸ヴェルシリカ。そのほぼ中央に小国アラステアの王立学術院がある。
 長い戦乱のあと百年の平和を築くため、国境を越えて多くの生徒を受け入れた。
 学び育った彼らが敵対するのではなく、互いの価値観を知り無二の友として絆を結ぶように、と。

 それって、すでに建前の気がする。
 互いに価値観も立場も違えば、絆を結ぶ前に理解が難しくなるものだ。

 大きく息を吸って、意識を集中する。
「空の欠片、泡沫の雫」
 (ロッド)を握り、ゆっくりと詠唱しながら術の構成を編みあげる。
「風の息吹、砂塵の粒子を以て」
 イメージするのは強い光。すべてを浄化し、焼きつくすような浄化の力。
「闇を祓いたまえ……光よ!」
 強く握りしめた(ロッド)を床にたたきつける。その瞬間、
 カッ!
「きゃあ!」
 視界を塞ぐ白銀の光。ついで思わぬ悲鳴。
 どくりと心臓が跳ねた。
 またやっちゃった?
「教師、アリア教師!?」
「大丈夫ですか!?」
「目が〜ッ、目が〜ッ!」
 ようやく目が利くようになった頃には、大騒ぎになっていた。
 向かい合っていたはずの女性教師は両目を覆っていた。その場にいた女子生徒全員が駆け寄る。
 中には、こちらに鋭い視線を投げかける人もいた。
「ジーン、あなたどういうつもり!?」
「先生、しっかりなさって!」
 攻撃的な物言いだが、わたしに反論の余地はない。
「す、すみません……」
 わざとじゃないんですとか、言えない雰囲気。何を言ったところで言い訳にしか受け取れないだろう。
 どうするべきか、肩をすくめて考えている時だった。
「やれやれ。また君か、ミス・フェイレザー」
 割って入る男性の声。それはまさに「やれやれ」といった面倒くさそうな口調だった。
 いやな予感。状況はより悪化した気がする。
 それでも、背後をふり返る。もはや無視しても受け入れても結果は変わらない。
 教室の扉付近には、ひとりの男性が立っていた。
 端正な顔立ち、すらりとした長身。舞台役者のような人目を惹く男性だった。
 わたしは反射的に口元が引きつる。彼の姿を見ただけで起きる生理現象だった。
 それを気付いているのか、いないのか。純白のローブに包まれた男性は、銀の髪をかき上げる。しかもわざとらしく優雅に歩きながら。
「無駄に魔力を消耗しているっぽい爆発音が聞こえたから来てみれば……君は一体いつになったら静かに講義を受けることができるんだ」
 何ですか。その悪意に満ちた言い回しは。
 とても友好的な人間にかける言葉ではない。当然ではある。
「パーシヴァル教師!」
「マクシミリアン伯爵!」
 女生徒から起こる黄色い声。これ、いつもの通過儀礼。彼が女生徒と遭遇すれば必ず発動する化学反応。
 彼女たちのような反応ができない時点で可愛げのない生徒と思われているに違いない。
 つまり、目の前のパーシヴァル・マクシミリアン教師は悲しみで塞がれでもしたのか、自身の胸を押さえる。
「全く。次から次へと問題を起こして……師匠である僕は頭どころか胸まで痛いよ。こんなに胸が裂かれるような思いは、婚約者のマリアンヌから別れを告げられた時以来だよ」
 知らんがな。
 それが今の私とどうつながると言うのだ。訊いてみたいものの、口にはできない。
「伯爵、お可哀そう」
「いい加減にしてほしいものだわ」
「パーシヴァル教師のお気持ちがわからないのかしら」
 ここで発言したら顰蹙は確実。ひそひそと囁かれる非難の声を無理やりに締めだす。そうでなければ病んでしまう。わたしの心が。
 対する伯爵は眼精疲労なのか、指で眉間の下に触れる。
「我が弟子ジーン・フェイレザー。まるで馭者を失った暴れ馬のごとき攻撃性。かたや絶望的なまでに低い治癒術の素質。白魔術師などより遥かに騎士に向いているが、なぜ毎回爆発させないと術が発動できないんだ」
 そう申されても。
 むしろ、こっちが訊きたいくらいだ。なぜ、こうも浄化の光が有害な閃光レベルに達してしまうのか。
 つい恨めしげな視線を送るも、パーシヴァル教師は首をふるだけだ。
「……いや、きっと僕の指導力が不足しているだろう。教え子ひとりの個性を伸ばせない、己の無力感に苛まれるばかりだよ。あぁ、天上におわすアラスティール神よ。どうか、この愚かな教師をお許しください」
 そんで許しを乞うのは自分なのか。教師にあっていいのか、責任転嫁。
 どんな反応をしたらいいか、さっぱりわからない。話も脱線しそうだ。
 元はなんだったのか、思い出して……そうだ。この騒動の原因は自分だった。
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
 仕方がないので頭を下げる。先生を負傷させてしまったのは事実だし。反省はしなければならない。落ち込むのはあとにする。
 ところがどっこい。
「待ちたまえ」
 そう簡単に話を終わらせてくれないのが、この男の習性だ。
 すっぱりとした声音で話を断ち切られた上、何か理不尽な要求が出てきたりする。
「いまだに君は我がアラステアが誇る騎士道精神というものがどういったものか理解できていないようだね」
 うげ。
 いやな予感しかしない。
「本来アラステア騎士は武を尊び、それ以上の博愛と礼節を重んじ、弱者を守る。ゆえに他生徒たちの模範とならなければならない。授業中に教師を負傷させるなどもってのほか。まずは手当の後でアリア教師に謝罪するのは当然として……」
 また始まった。
 この国の起源とされるアラステア王宮騎士団の精神学。まぁ、パーシヴァル教師の担当科目だし、アリア教師に謝罪することも大事だ。とはいえ、こんな公衆の面前でとくとく説教されるのはいかがなものか。
 恰好の見せしめだな、と胸中で毒づいているとパーシヴァル教師が口をつぐんだ。薄氷のような瞳がきらりと光る。
 はッ、しまった。
「その神に仕えるに相応しい崇高で気高い精神を体得するまで走ってきたまえ。西の塔の運動場あたり」
「えぇぇっ!?」
 思わぬ反撃に声が出てしまう。
 四つある運動場の中でもっとも外周の距離が長い。というか、そこにたどり着く前に森を越えるのだ。山を三つ分くらい。
 ペナルティにしては重すぎやしないか。
 どうせ考えていることがバレバレならばと今の気持ちを瞳にこめる。
 だか、しかし現実は無情なものだ。師匠は涼しい顔のまま腕を組む。
「魔力を鍛える前に心身を鍛えるのは基本中の基本だ。健全な精神は健全な肉体に宿るというし。今の君にぴったりじゃないか」
「えぇぇーと……」
 こじつけとしか思えない理由に戸惑った。
 だいたい、そうすると今のわたしの精神と肉体が不健全ということになってしまう。反論したい気持ちでいっぱいだ。
 いやがらせとしか受け取れない。
 喉元まで出かかっている反抗したい言葉。むっと唇を引き結ぶかわりに、瞳で訴えかける。
 今度はしっかりと考えていたことを察してくれたらしい。さっきはきれいに無視してくれたのに。
 パーシヴァル教師の眼光がさらに鋭くなった。
「……何か反論でも?」
「イイエ。行ッテキマス」
 いまだ囁かれる当てつけのような言葉を背中に浴びながら、教室をあとにする。
 口答えされることは許されない。
 問題を起こしたことは事実だし、師匠の指示は絶対だ。
 くッ、この……国籍不明、苛虐趣味(サディスト)な変態教師め。
 いつか見返してやる。

 長い戦乱のあと。
 人材こそが資源と謳い、小国アラステアは学院を作った。
 大陸中から教師を集め、多くの生徒を受け入れ、育てる。
 偉業を成し遂げた卒業生は、星の数ほど。
 最高の学び舎として名を馳せるは、アラステア王立学術院。
 だが、なんにでも例外は存在する。
 今のわたしが、その極みだと思う。

 規則正しい呼吸を意識する。
 吸いすぎず、吐きすぎない。無心に足を動かす。
 それをいつまで続けていたのか。さすがに苦しくなって立ち止まる。腰を曲げて大きく息を吸った。
 次に、はーッと長いため息をつく。
 弾んだ息を整えながら上体を起こした。
 少し休憩しよう。とぼとぼとグラウンドを歩き始める。
 当然だけど、周囲には誰もいない。
 今から数時間前。
 罰のランニングをする前にアリア教師の謝罪に向かった。
 幸い、教師の怪我は軽いものだったらしく、視力はすぐに回復したようだ。その後の講義も問題なくこなしていたらしい。わたしの謝罪も素直に受け入れてくれて「これに懲りず、また講義にいらっしゃい」とまでおっしゃってくれた。
 ほっとする気持ちとは裏腹に身震いしそうになった。
 この学術院で教師に反抗することは、反逆と取られかねない。ましてや、攻撃したとなれば問答無用で退学だ。
 つまり、過失とはいえアリア教師に怪我をさせてしまったわたしはどんなペナルティが課せられても文句が言えない。
 悔しいけれど、パーシヴァル教師に感謝だ。
 ああして公衆の面前で難題をふっかけてくれなければ、今頃、審問会レベルの騒動に発展していたかもしれない。
 我に返って、むっと唇を引き結ぶ。
 いやいや。たとえ、そうだったとしても素直に感謝することができない。
 基本的には、ありがたいと思うべきなのだろう。けれど、どうしても素直に接することのできない自分がいる。
 騎士道学部に放り込まれてからの三年間。ひたすら、あの伯爵教師に諭され、詰られ、謗られ、走らされている。
 理由は、漠然とわかる。
 彼は、騎士として足りない部分を指摘しているだけだ。師匠としての務めを果たしているだけ。毛嫌いしているわたしの態度が問題なのだろう。
 そこまでわかっていても受け入れることができない。
 納得ができない。その理由を考える。
 アラステア王宮騎士。騎士道学部の者なら誰でも憧れる、目指すべき目標。
 歴史こそ浅いものの、隣国ディーダラスと帝国ゼレストラード相手に負けず劣らずの武勲を立てたという。その中の騎士のひとりが時の女王と恋仲になったことで男女ともに好まれる物語となった。今じゃ大陸中に語り継がれている。
 公平、公正、弱者を庇護し、王家に永遠の忠誠を誓う。
 自分がそんな理想をかかげる騎士になれるとは思えない。
 でも、居場所なんて他にない。
 ため息さえ出てこない。
 思考は堂々巡り。ちっとも前に進めやしない。
「ジーン」
 名前を呼ばれ、立ち止まる。
 声がした方に視線を向けると、ひとりの男子生徒が立っていた。
「レックス?」
 黒髪に空色の瞳。鍛えられた体躯は制服の上からでもわかる。
 歩み寄ると頭ひとつ分も違う身長。つい上を見上げる形になってしまう。
「どうかした?」
 何か用件でもあったのかと訊ねると、手にしていた紙の袋を渡してくる。結構、無造作なのだが、気にならない。
「昼食、まだ食べてないだろう?」
「わー。ありがとう」
 中を覗くとサンドウィッチだった。
 ぐーっとお腹が鳴る。もはや条件反射。
 恥ずかしさをごまかすように早口にまくし立てた。
「ちょうど休憩したかったんだ。付き合ってくれる?」
 視線を合わせて訊ねれば、レックスは無言で頷く。
 素朴というか、朴訥というか。レックスの飾り気のない言動は好感が持てる。
 弟がいたら、こんな感じだろうか的な。

 メニューは豊富だった。
 エビとアボカド、生ハムとルッコラ、スモークサーモンとクリームチーズ。
 学食やカフェテリアにはないメニューだ。彼の趣味は料理だったか。
 空腹も手伝い、もくもくと食べる。
 他の人間なら気詰まりだが、相手がレックスだと気にならない。こんな昼食はいつ頃からだろうか。今では当たり前になりつつある。
「ジーン」
「なに?」
「アラステアの騎士にはならないのか?」
 ぐっと息が詰まったような錯覚に陥った。もちろん一瞬だけ。
 横目で確認すれば、射抜くような視線とぶつかる。
「まだわからないわよ。まだあと三年あるし」
 顔を伏せてごまかした。
 レックスに告げられないのは、きっとわたし自身が迷っているからだ。
「今のとこ、卒業どころか進級も怪しいしね」
 自分で口にして落ち込む。
 幼い頃から憧れた白魔術師。
 薬草の知識に長け、心霊の加護を受けて、人々の病や怪我を癒す。博愛と慈愛の精神を持つ、尊い存在。
 幾度も胸を焦がして、未来の自分と重ねた、夢の日々。
 ただし、憧れと向き不向きは別の話だ。
 今の自分はその足元にすら到達していない。
 入学の選定試験で白魔術の素質が全くないと判断された。特に治癒術が絶望的で、何度くり返しても術が発動しない。この六年で修得できたのは屍人鬼(グール)などのアンデッド系に有効な浄化の光だけ。おまけに、力を制御できずに人間をも負傷させる危ない術と化している。
 いつまで経っても成長の兆しは見えず、騎士道学部に放り込まれた。戦いながらアンデッドと対峙する術を身につける方が建設的と判断されたのだろうか。
 だから、まだ諦めきれずにいる。訓練のかたわら白魔術の科目も受けている。
 もちろん成果はさっぱりだ。今日のような失敗は山ほどしているため、白魔術学科の生徒たちには煙たがられている。
 そろそろ潮時かもしれない。
「レックスは王宮に行くの?」
 話題を変えるように、なにげなく訊いてみた。
「ジーン」
「え。どしたの。そんな悲しそうな顔して」
 わずかに眉尻が下がった。
 ささいな変化だが、これはかなり動揺している顔つきだ。
 とはいえ、今の会話で彼が落ち込む理由がわからない。レックスはわたしと雲泥の差がある。成績優秀で宮廷騎士も確実のはず。いや、充実した生活だって悩むことはある。たぶん。
 とすると、さっきの会話で何がまずかったのか考えてみる。
 けど、お互いの進路でどう傷つけたのか。謎である。
「ジーン」
「なに?」
「実は、話したいことがあって」
「うん」
 首を傾げる暇もなく、話題が移った。
 それとも、怒られたりするのかしら?
「俺は……」
「うん。けど大丈夫? 汗びっしょりよ。熱あるんじゃない?」
 きょろきょろと辺りを見回す。今日は別段、暑い日でもないのだが。
 うっすらと耳まで赤い。風邪かな?
 体調が心配になってきたけど、おとなしく待ってみた。レックスのことだから、こうして改まって切り出す話となれば何か重大なことかもしれない。
 五秒は経った。まだ話さない。
 十秒も経った。まだ待つべきか。
 なかなか先に進まない。そんなに重大なことなのか。言いにくいことなのか。はてさて、どうしたものか。
 迷っているうちに、やがてどこからかガサガサと音がした。背後を見ると、姿を現したのは一匹の豹。まだ猫ほどの大きさだけど。
 目の前に近寄るなり鳴いた。
「ベリル」
 名前を呼ぶと膝に乗ってくる。
 首輪に紙切れが挟んであったので抜き取った。
 走り書きっぽい手紙には、こう書かれている。
『そろそろ寮の門限だ。ひとまず帰ってきたまえ』
 もっと他に言うことはないのか。
 門限がなければ、ひたすら走っていろとでも言わんばかり。体力には自信がある方だけど、一晩中はさすがに無理だと思う。
「ベリル。ありがとう」
 豹にお礼を言うと、甘えるようにすり寄ってきた。
 喉をごろごろと鳴らす。野生はどこ行った?
 どっと疲労が押し寄せた時だった。
 ぐーっと鳴る腹の音。どうなっているんだ、私の胃袋。さっきのサンドイッチはどこ行った?
 レックスにもバッチリ聞こえていたはずだ。さすがに二度目はごまかせないので神妙な面持ちで呟いた。
「帰ろっか」
「……そうだな」
 こういう時のレックスは、少しつらい。
 気付いていてもいなくても、乙女として複雑な気持ちになるからだ。
「あ。さっきの話は?」
 思い出して訊ねると、レックスは言葉に詰まった。
「いいんだ。またあとで」
「そう?」
 背中が落ち込んでいるように見えるのは気のせいか。
 けど、訊ねている時間もない。
 足早に帰途につく。
 我が師匠は寮監も務めている。門限に間に合わなかったら、また新しいペナルティが増えてしまう。
 すまん。レックス。

 レックスと別れて寮に戻る。
 全身くたくただし、お腹も空いた。お風呂にも入りたい。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
 玄関に入るなり、パーシヴァル教師が立ち塞がっていた。待ち伏せでもしてたんだろうか。
「騎士道精神の欠片くらいは体得できたかい?」
「ええ、まぁ、少しは。たぶん……」
「たぶん?」
 薄氷のような瞳が煌めいた。
 まずい。これはお気に召さない返答だ。
「ミス・フェイレザー。僕は遠回しな表現は好まない」
「はぁ」
「爵位にしろ騎士の称号にしろ、持つ者には資格がいる。それには清廉潔白、温和篤厚という人柄は前提条件にある」
 何のこっちゃいな。
 また何を言い出すのか皆目見当がつかない。仕方ないので結論を待ってみる。
「僕も侯爵令嬢スザンヌとの婚約が決まった時には、お義父上の厚い信頼を得たからこそ、彼女を託す決心をしてくださったのだと知り、身が引き締まる思いだった」
「それはマリアンヌ様と破局した前ですか。後ですか?」
「もちろん、彼女と出会う前だよ……いや、違う。ミス・フェイレザー。君の趣味は話のすり替えなのかい?」
「いえ、ただの単純な興味ですが」
「どちらにせよ、淑女として嘆かわしい。なおかつ神に尽し、主君への礼節・名誉・弱者の守護を重んじる騎士の精神からは遠く離れている」
 おお。なんという話の修正力。捻じ曲げたといってもいいくらいの歪曲ぶりだ。
 この人に口答えしても無駄だ。
 ひと言くちに出せば、十の騎士道精神を語る。つまり、お説教が長くなる。
「やはり、また新たな講義を考えるべきだな。君専用の」
 やっぱり。
 予想していたパターン。というか、わたしの学習能力の低さが露呈された形だ。
 何度くり返せば、お互い楽になれるのか。怒られる方はともかく怒る方は体力がいるだろうに。
 今夜は徹夜かなと腹をくくり始めた頃だった。
「私の後輩がどうかしましたか? パーシヴァル教師」
 頭上から凛とした声が降りてくる。
 師匠とふたりでそばの階段を見上げた。踊り場にひとりの女生徒が立っていた。
「ミス・フェレーナ」
「ヴェロニカ様」
 白金色の髪、抜けるような白い肌、菫色の瞳。北西の小国サヴィレリーの特徴。
 ブラウスにスカートというラフな格好だというのに階段を下りる姿は優雅だ。
 ヴェロニカ・フェレ―ナ。騎士道学部の先輩である。
「パーシヴァル教師。ジーンが何かしましたか?」
 ヴェロニカ様が柔らかに微笑む。
 師匠は思い出したように呟く。少したじろいでいるようにも見えた。
「そうだったな。ミス・フェイレザーは君に仕えていたんだった」
「そうです」
 きっぱりと肯定した先輩はそっと自身の胸に手を当てる。
「ジーンが至らぬということは独立を許した私も至らない部分があるということです。彼女と一緒に改善していくことが当然の道理でしょう」
 しばし流れる沈黙。内心、ひやひやしていた。一番の下っ端である自分が口を挟める余地はない。問題児の自負はあるが先輩まで巻き込むつもりは毛頭ない。
 しかし、先に折れたのは意外にも師匠の方だった。
 諦めたように、ため息をつく。
「……今日はもう遅い。ふたりとも夕食をとりなさい」
 口にするなり踵を返した。姿が見えなくなったことを確認してから、先輩に向き直る。
「ヴェ、ヴェロニカさまぁ……」
「ジーン。しゃんとしなさい。せめて毅然としていましょう」

 今日の夕飯は、鶏のオレンジソースがけ。じっくり野菜を煮込んだスープにライ麦のパン。アスパラガスとベーコンのキッシュ、コールスローサラダ。デザートは、たっぷりの木苺のソースがかかったレアチーズケーキだった。
 いつになく好物ばかりがならぶ食卓。気分とは裏腹に満腹になってしまう状況が複雑だった。
「ははは、それではパーシヴァル教師も災難だったな」
 ヴェロニカ様の笑い声が響く。
 食後のティータイムのついでに反省会となった。一部始終を話し終えたわたしの肩身はただただ狭くなるばかりだ。
「笑いごとではすまされません。アリア教師に対して失礼なことをしてしまいました。反省しています」
「ふふ、いいじゃないか。これからも存分に暴れてみればいい」
「へい?」
 思ってもみない反応だったのでまぬけな返事になる。「はい」と言おうとして空気がもれたみたいな。そのリアクションも面白かったようだ。
 二歳上の先輩が余裕たっぷりに笑う。
 それは男性的にも見えるのに、粗暴とか荒々しいといった表現は似合わない。かといって女性的なべたべたした感じも全くない。中性的、とでもいうのだろうか。双方のいいところを抽出したような魅力が先輩にはある。
 そんな彼女は、紅茶の入ったカップを持つ動作さえも美しい。
 周囲には紅茶の香りが漂う。
「ジーン。あなたはあなた。私は私だ。誰しも自分以外のものにはなれない。なりたいもの、憧れた先があるなら努力しなければ」
「はぁ……」
 急に話が変わった気がして生返事になる。
 話の内容自体は納得できるものだったので頷く。視線で意図を探る。
「私はあなたに期待している。あなたが誰よりも努力していることを知っているからな」
 また話が急に変わり、慌てて首をふる。
「ヴェロニカ様。買いかぶりです」
「ほう、何故だ?」
 からかいが混じった皮肉にも見える笑み。それなのに、彼女がするといやみな印象を受けない。むしろ、純粋な好奇心が伝わってくる。
 会話を楽しんでくださっている。
 それが嬉しくもあり、心苦しくもある。
「ここの学院にはたくさんの生徒がいます。そして優秀な人材も。そのひとりがヴェロニカ様、あなたです」
「それは光栄だな」
 目を閉じて聞き入る。そんな仕草。
 否定も肯定もしない、柔軟な姿勢。
 憧れや尊敬、それだけでは足りない、なりたい自分。目指すべき道しるべ。
 見つめてしまえば虜になるよりも、歯がゆく思う自分がいる。
 理由は簡単。
 ここ真珠館の寮生たちはヴェロニカ様に憧れるものが大勢いる。
 今だって、遠巻きにあちこちで食事する女生徒たちがこちらを窺っている。
 羨望と敵意の視線。当然だろうなと思う。
「私は……ただの落ちこぼれです。白魔術師にも騎士にもなれない、半端ものです」
 彼女たちにしてみれば、わたしは目障りの存在でしかないだろう。
 いつまで絶っても成長の兆しが見えず、騎士道学部に放り込まれた。
 いっそのこと、卒業後は賞金稼ぎのハンターになって各地を放浪しようか。バルトアスは食人屍(グール)被害が後を絶たないと聞く。アンデッド系の専門家になって被害に悩む人の救済に当たる。アラステアに籍を置いていれば学費の返還義務はないし、この国の通行書があれば大陸中のどこへでも行ける。サヴィレリーにも帝国にも興味があるし、遺跡の発掘調査に同行する道だってある。
 各地を転々としながら暮らす。そんな生き方が性に合っている気がした。
「そう型にとらわれるものではないよ。ジーン」
 ヴェロニカ様がカップに口をつける。先輩の声ではっと我に返る。
「優秀とか落ちこぼれとは、どのような基準で決まっているのかな? さらに言うなら優秀だから価値があるだの落ちこぼれだから役立たずだの、そんなこと一体誰に言われたんだい? ましてや価値があるとか役立たずとか、決めつけることに何の意味があるのだろう?」
「そんなこと、自身を知ってわきまえるためです。才能がないものに努力しても仕方がないでしょう?」
 見切りというか、区切りは必要だと思う。
 現実には、努力しても報われない事態は存在するだろう。今のわたしのように。
 けれど、先輩は首をわずかに傾けるだけだ。
「そうかな? 受け入れることと諦めることは別物ではないかな」
 菫色の瞳が強い輝きを放つ。
 真正面から見つめられ、答えに戸惑う。
 ヴェロニカ様はカップを置いた。
「ジーン。そうやすやすと結論を出すものではないよ。あなたの努力は報われないほど浅くはない」
 素直に嬉しかった。
 視界がにじむのをかろうじてこらえる。
「ヴェロニカ様……もったいないお言葉です」
 そう口にすることが精いっぱいで。不安は喉の奥に飲み込んだ。
 ただ、自分はここにいてもいい人間なのか。迷う。
 目指すべき先。
 憧れた、すべてを癒す手。
 それに届かないことは自分自身がよくわかってる。

 翌日、またも西の塔の運動場に向かう。
 いまだ師匠のいう『アラステアの騎士道』とやらが体得できていないためだ。
 朝食をすませると、トレーニングウェアに着替えて髪を適当にくくる。
 寮から出て、すぐ。
 門の付近、二本足で立つ猫に出くわした。学院で働くケット・シーだ。ちなみに黒のハチワレ。
「おや。ジーンの姉御。今日もお約束のランニングですかい?」
「そーよ。笑ってくれていいわよ。ソルベ」
 半分どうでもよさげに返事する。
 ソルベは、門番(ゲートキーパー)だ。学院のいたる所に設置された【クロノスの門】という空間転移の魔術を施した扉を守っている。この【クロノスの門】がある場所になら、どこにでも一瞬にして任意の場所へ移動が可能だ。
 ただし、それを鵜呑みにできないのが現実だったする。
 案の定、ソルベはもともと細い瞳をさらに細くさせた。
「そんなおそれ多い。わたしもよく間違えて生徒さんをご希望と違う場所に飛ばしてしまうんで」
「すごい失敗さらりと暴露しないでよ。というか、それってわたしも同レベルにおっちょこちょいってこと?」
「いやー、まさか。王立学術院始まって以来の治癒術素質ゼロの姐さんとは土俵が違います。パーシヴァル教室恒例の西塔ランニングも姐さんがダントツですもんね!」
「さらに格上げ? まぁ、いいけど」
 お互い、嘘なんだか本当なんだかわからない雑談をする。
 これが、彼とのあいさつみたいなものだ。はみ出し者同士、気が合うのかもしれない。
「それじゃ、姉御。今日は、どこへ向かうご予定で?」
 場所を告げる前に後ろをふり向く。
「レックス。無理に付き合うことないわよ」
 実は彼と待ち合わせていた。
 特に理由はない。彼の講義がない時には、自主トレ(ペナルティ)や食事に付き合ってくれることが多い。
 頼もしくはあるのだが、彼はもっと自分の時間を有意義に使ってもいい気がする。
 そう説明するよりも先に、レックスの顔が悲しげに曇る。
「ジーン……」
「いや、そんな寂しそうな顔しなくても」
「迷惑なのか?」
「そんなことないけど」
 というか、レックスがわたしと一緒にいるメリットがあるとは思えない。
 彼とは、三年前に知り合った。師匠のパーシヴァルが『君は、あれだ。自慢できる唯一の閃光術を発動させるには時間がいる。その間ひたすら敵を殴り続けていたまえ。一発もかすりもせずに』などと突っ込みどころ満載なことを言ってレックスを連れてきた。敵の攻撃を一発も食らわない、いわゆる一発逆転闘法(師匠命名)を身につけるためにうってつけの相手が、彼だった。
 彼は、真面目な性格だ。師匠に何か言われなくともしっかり稽古をつけてくれた。全力で。おかげでしばらくは、打ち身すり傷、切り傷が絶えなかった。
 今となっては、懐かしい思い出だが、当時若干十四歳にして、剣も銃も右に出る者はいないほどの成績優秀者である。わざわざ落ちこぼれのわたしのトレーニング(ペナルティ)に付き合わなくてもいい気がする。

 それをどう説明しようか。
 レックスの表情は、生後まもなく母親と離れた仔猫のようだった。
 い、言いづらい……何故だか知らんけど。
 長い沈黙のあと、ソルベが「よよよ」と泣き出した。めっちゃわざとらしい。
「姐さん、それは残酷な答えってもんですぜ」
「あら、まだいたの。ソルベ」
「姐さん、ひどいっす。まだクロノスの扉を使ってすらいないじゃないですか」
「ひとのこと、おっちょこちょいとか言うからよ」
「それは、姐さんが自分でおっしゃったことですぜ」
 ガサガサと音がする。またベリルが手紙でも持ってきたんだろうか。
 予想通り、草むらから現れたのは子供の豹だったけれど。
 身体のあちこちが血に濡れていた。
「ベリル!? どうしたの!?」
 慌てて駆け寄った。
 急いで抱き起すと、
「わーッ、狼ッ!? 狼なんですかいッ!?」
 背後でソルベが大騒ぎする。
 つられるように彼の視線を追うと、草むらの向こうに狼がいた。
 襲いかかる様子はない。じっとこちらを見つめている。
「落ち着いて。ソルベ」
 声をかけるとささっと背後に隠れる。まあ、戦闘にはからきし向かないからな。仕方がない。
 続けてカチッという音が耳に届いた。
 驚いて隣を見るとレックスがハンドガンを構えている。銃のロックを解除したのだろう。さすが素早い。
「レックスも待って」
 手で制止する。
 広大な森には野生動物が大勢棲息している。
 なおかつ、生徒の中には眷属(サーヴァント)を持つものもいる。
 わたしにとってベリルがそうであるように。大体は、手紙のやりとりを頼むくらい。
 学院内での私闘は禁じられている。それは眷属(サーヴァント)同士であろうともだ。一歩、間違えばレックスに非があると判断されてしまう。それはあってはならないことだ。
 確認したいこともあるし、慎重にことを運ばなければいけない。
 さしあたり、負傷した豹に向き直った。
「ベリル。大丈夫?」
 小声で訊ねるとおずおずと指をなめた。
 よかった。次はこっちだ。
 挑むようにじっと前を見据える。決して隙を見せないように。
「あなた、誰の眷属(サーヴァント)? この子が私の眷属(サーヴァント)と知って襲ったの?」
 狼は答えない。
 おもむろにくわえていたものを地面におく。鼻先でつつき、手前まで転がしてきた。
 目の前にあるのは、小さな宝珠。
 言霊の宝珠だ。宝石の欠片を媒体にメッセージを封じて、相手に伝えるレトロな魔術アイテムだ。
 宝珠を拾いあげ、わずかに魔力を注ぐ。
 パキンッと割れる音とともに、粒子が弾け飛ぶ。
 紅色の煌めきを放ちながら、ざわざわと人の声が耳に届く。
『真珠の騎士。南の果ての遺跡に向かいなさい』
 女性の声だった。
 雑音の混じった声で聞き取りにくいが、特徴はあった。
 ピシッとこめかみが痙攣する。
 狼が身をひるがえして去っていく。
「あ、姐さん!」
「ソルベ。落ち着いて」
 慌てるケット・シーをたしなめる。続けて走り出そうとする後輩にも声をかけた。
「レックスも追わなくていいわ」
 いうなり、動きを止めた。声をかけなければ尾行していたに違いない。やっぱり、すごい優秀。
 だからこそ、下手に動いては相手の術中に嵌ってしまう。
「まったく。相変わらず、悪趣味な女だわね」
 手を叩きながら呟く。
 少なからず宝珠の持ち主には当てがあった。
 ソルベは首を傾げて訊ねてくる。
「姐さんには、心当たりがおありで?」
「決まってるでしょ。紅玉館の赤魔女よ」

 アラステア王立学術院は六つの寮がある。それぞれ特徴もあるし、生徒のくせもある。
 中でも紅玉館の住人アンジェラ・ロイスティーニは有名だった。成績優秀、容姿端麗、ネビュラル議員の娘となれば、世界は思いのままだと思うのだが。
 どういうわけか、ヴェロニカ様を目の敵にしている。

「あの赤魔女。今度は一体どういうつもり?」
 つい毒づきたくなる。
 南の塔より、さらに南へ歩みを進める。指定された遺跡へ向かうためだ。
 アンジェラこと【紅玉館の魔女】、【百薬術の赤魔女】などの異名をもつ女生徒は、不思議な趣味を持つ女生徒である。表面上は優秀な成績を修める模範的な生徒だが、裏では数々の騒動を起こしていた。
 生徒相手に魔術薬の売買をしていたり、気に入らない生徒を呼び出して模擬戦闘と称し、医務室送りにしたり、魔術の実験でガーゴイルを召喚して騎士道学部の生徒たちを震いあがらせたこともある。
 しかも、彼女の厄介な点は犯行の証拠・現場を残さないところだ。騒動が起きた頃には彼女の姿は見えず、後片付けをする面々に容疑がかかるという策士ぶり。
 かといって、無視することもできない。後片付けすらしないと全ての元凶が自分になってしまう。そんな理不尽にヴェロニカ様は何度も晒されてきた。今までは教師たちも何か事情があるのだと察してはくれたが、いつまでもそうだとは限らない。
 先輩に降りかかる理不尽な火の粉は、後輩たる自分が払うのが道理。
 若干、話がずれている気もするが騒動を面倒がっては先輩の不利益につながりかねない。とりあえず、遺跡で異常がないか確認しておくべきだ。
 と、その前に他の疑問を解消しておく。
「ソルベ。何で、ついてくるの」
 歩きながら訊ねた。
 レックスはともかく、もれなくソルベもついてきた。その理由がわからない。
「いやぁ、姐さん。あそこでお別れとかありえないでしょう」
 そういうものだろうか。
 大体、門番なのに離れて大丈夫なのか。
 いろいろ新たに疑問はわいてくるが、とりあえず最後まで話を聞いてみる。
「こういう時、姐さんといるとこう……血が騒ぐというかピンとくるというか。なんだか面白そうな予感」
「ジーン」
 反射的に足を止める。
 ソルベの声を遮るような小さな囁きが……聞こえた気がする。
「何か言った? ソルベ」
「いいえ。気のせいなんじゃないですかい?」
 レックスも首を横にふる。気のせいか。
「ジーン……」
「やっぱり何か言った? ソルベ」
「いいえ。じゃあ、空耳なんじゃないですかい?」
 レックスも首を振る。空耳なのか。
「ジーン!」
「ほら、今度はちゃんと聞こえたでしょ、ソルベ」
「いいえ。それは姐さんの心の病がなせる業……あいたッ」
 ぽけッ。
 (ロッド)で軽く小突く。いつの間にか病人扱いされるのは心外だ。
「ちょっと。どうしていきなり悪意のある言い方になるの」
「あちゃ~。ただの軽い冗談じゃないですか」
「いい加減、気付けぇぇぇぇぇッ!」
 あほな会話を続けていたら、いきなり怒声が響いた。驚いて周囲を見渡せば、ひとりの男子生徒が草むらの中に倒れていた。
「ハロルド?」
 名前を呼んで駆け寄る。
 同じ教室に所属する生徒だ。
「何があったの?」
「あ、ああんなことになるなんて……」
 語りだした声は震えている。
 そのことに少なからず危機感を抱いた。
 ハロルドは屈強な体つきをしている。騎士道学部の生徒たちの中でも決して引けをとらない実力者だ。
 そんな彼が震える事態が起こっているのだ。緊張感漂う空気の中、じっと耳を傾ける。
「おれたちパーシヴァル教室の連中は南塔の外れで恒例のスクワット祭りをしていた」
 ことの発端が気になり、訊き返す。
「スクワット祭り?」
「そうだ。我々は、いつ運命の美姫と出会ってもいいよう、彼女を全力で守れるよう、足腰をきたえていた……同志を横抱きにしながら」
「うぷッ」
 とっさに口元をおさえた。
「豪勢なお祭りですなぁ」
 ソルベの呑気な感想なんて耳に入らなかった。むさいことこの上ない。
 ただでさえ、うちの教室は筋肉の塊が勢ぞろいしているのに。それをお姫様抱っこしてスクワットしてた?
 むさい。むさ過ぎる。
 想像するのもおぞましい絵面は頭の隅に追いやる。でなければ夢に出てきそうだ。
というか、それはどうでもいい。問題はその先だ。
「その途中、エリクとセオドアが……おれの口からは言えない」
「どうしてそこでためるの」
 そして唐突に話が終わった。拍子抜けだ。
「何が起きたのかさっぱりわからないわよ」
 ハロルドの言葉を信じるなら、何かが起きたのは間違いない。南の塔からここまではかなり距離がある。学院の外れだし【クロノスの門】も扉もないから、まず訪れない。それこそ用があったり、おびき寄せられたとかでなければ。
 数秒、考えてある可能性が頭をよぎった。
 まさか、赤魔女の仕業じゃなかろうな?
 ちなみにレックスは先ほどから顔色も変えず、ずっと話を聞いている。頼もしいかぎりだ。
 こうなっては放っておけない。アンジェラの関係はどうであれ、仲間の無事を確かめなければ。
「じゃあ、エリクとセオドアはどこにいるの?」
「あそこだ」
 ハロルドの震える指がさした方向をみる。
「ひ!」
 ソルベが悲鳴をあげるのも無理はなかった。
 ハロルドが示した先は遺跡だった。
 その中には、いくつもの影がうごめいている。
 生者の行きつく先。彷徨う亡者。天より、拒まれた死者のなれの果て。
 それらがこちらに向かって来ている。
 軽く顎をひく。
「あぁ。そういうこと」
「だから、言う必要ないだろ」
 ハロルドがうめきながら上体を起こす。
 この学院、南側には遺跡がわんさかある。
 しかも(トラップ)やアンデットたちが数多く残っていて、遺跡発掘の新人たちの訓練施設になっていたりする。
 本来、アンデットたちは不浄な空間を好む。(トラップ)の作用で一定エリアの外には出られないはず。
 なおかつ学院内にある遺跡は、出入口付近に浄化対策をしているはずだから外に出て来られないはずなのだ。
 ハロルドがあまり語らなかった理由がわかった。
 アンデットたちが遺跡の外に出てきた。確実に異変が起こっている。これはわたしの専門分野だ。
 布に包まれた杖|《ロッド》をとり出す。
「ソルベ、ここ頼んでいい?」
「姐さんの頼みならしゃーないですな」
 ぴょこぴょこと歩いて、ハロルドの介抱にまわる。
「ベリルもここにいてね。すぐ戻るから」
 応急処置をすませて撫でると不満げに唸る。
「早く怪我を治してほしいの。ベリルが元気じゃないとわたし困るわ」
 今の気持ちを正直に伝えると渋々といった様子でうなだれた。納得はしてくれた……と思う。
 かたや、隣ではのんきな声がしてきた。
「ハロルドの旦那も災難でしたなぁ」
「うるせー。てめーの施しは受けねー。シャーベットキャット」
「その名で呼ぶなぁァァァッ!!」
 ソルベは怒りに任せて叫ぶ。毛を逆立てながら。ネビュラル語だとシャーベットになる。それが彼にとっては屈辱的らしい。
 こっちは大丈夫だろう。このままでも。
 現状、一番の問題に向き直る。
 遺跡の中に突入し、アンデットを一網打尽にするのが定跡だろう。けれど、背後のハロルドたちを守りながらとなるとやや分が悪い。
 つい上目遣いで見てしまう。
「レックス。援護、お願いできる?」
「わかった」
 ひとつ頷くとローブの裾をはらう。流れるような動きでショルダーホルスターから銃を引き抜いて構える。その姿はやはり頼もしい。
 一回、深呼吸をして遺跡の前に立つ。
 ゆっくりとした動きだが、アンデットたちがぞろぞろ出てきた。
「なるほど。簡単には通らせてくれないみたいね」
 強く握った(ロッド)を構えた。

 薄暗い遺跡の中。さらに奥にある先に、じっと目を凝らした。
 漂う腐臭。這いずるような音。
 じわりじわりと忍び寄ってくる気配を感じながら(ロッド)を構える。
(これ以上、間合いを詰められたら潰される)
 その直感が合図だった。躊躇なく前へ飛び出す。
 アンデッドたちの動きは緩慢だけど、群れで近づいてきた。一瞬の迷いが命取りになる。
 鈍い動きでのばされた腕は、わずかな肉が骨についている状態だった。手にしていた(ロッド)を振るう。抵抗もなく、ぼとりと骨ごと落ちた。次に(ロッド)の先で足元を払う。眼前に立ち塞がるアンデッドが崩れ落ちた。
 アンデッドの彼らは不滅の魂を持っているわけではない。特別な呪法で死体に魂を定着させているだけで、動きを封じるのは難しくない。
 人間と同じ形をして、歩いているのだ。そこから無数の弱点が見えてくる。
 歪んだ(ことわり)とはいえ、万物の法則には抗えない。
 単純な話だ。四肢から急所を切り離すか、銀の銃弾で狙えばいい。
 そのまま隙間を縫うように走りながら、意識を集中させる。
「空の欠片、泡沫の雫」
 詠唱に入る。構成を編みあげながら頭上へと(ロッド)を振りあげた。
 ゴキッと固い何かにぶつかる。背後から首が背後から転がってきた。構わず遺跡の階段を駆けあがる。
 アンデッドたちが向きを変えて追いかけてくる。背後には構っていられない。眼前の敵だけを突いて、斬り伏せ、薙ぎ払う。
 それでいて、捕まりはしない。肩越しに確認すれば、後方のアンデッドは全て急所を貫かれ、倒れていた。レックスの援護射撃だ。
 こういう時、安心して背中を預けられるのは彼しかいない。他の生徒では無理だった。
 呼吸が合わないというか、調子が狂うというか。
 共に戦うには、互いの長所を殺してしまう。
「風の息吹、砂塵の粒子を以て」
 それが、わたしの唯一で最大の武器。
 詠唱の間、単身で突っ込み、自身を囮にしてすべてのアンデッドを引きつける。最大級の浄化の光一網打尽にする。
 これしかなかった。
 誰も傷つけない。
 自分も傷つけない。
 そのためには、こうするしかなかった。
 独りよがりな自負はある。
 誰とも一緒に戦えない。レックスでさえ一定の距離がなければお互いにつぶれてしまう。そんな不安定な強さ。
 それでも。
「血の鎖、時間の檻、腐棺の浄化」
 あと少し。
 アンデッドが二体、前に現れた。ひと薙ぎで両方の首を刎ねた。
(え……)
 一拍おいて目を見開く。
 身体がかき消えた。手ごたえもない。アンデッドじゃない。レイス?
 続けざまに、振りあげて先端から突きを放つ。勢いは殺さないまま手首を返し、右側へ斬りあげる。
 見間違いではなかった。実体がない。身体を左右割いても頭部を突いても、首と胴体を切り離しても、煙のように消えるだけ。
(アンデッドとレイスが同時に出現するエリアなんてあるの?)
 疑問には思ったが、詠唱は続ける。今は空間の浄化が最優先。
「東方より灯火を継いで闇を討ち祓いたまえ」
 (ロッド)の先を地面に叩きつける。集中した意識と魔力を(ロッド)を通じて地面に注ぐようにイメージする。
「光よ!」
 カッ!
 まぶたを焼くような強烈な光とともに。
 全ての輪郭が消失する。

 視界が元通りになったことを確認してから、ひと息つく。
「ひとまず、しばらくは大丈夫だと思うけど……」
「ジーン?」
 レックスの呼びかける声にも反応できなかった。
 さっきの出来事が気になる。
 遺跡内の後半はレイスたちだった。
 アンデッドとレイスは似ているようで別物の存在だ。
 まず成り立ちが違う。
 レイスは人間の死後、天界に行けずに彷徨っている魂。現世に未練を残している場合が多く、たいていは息を引き取った場所に縛られやすい。
 アンデットは何らかの呪術により死体を蘇らせたもの、もしくは蘇生術の失敗などによる。遺跡にアンデッドがつきものなのは、盗掘を恐れた建設者が対策として呪いをかけているからだ。
 つまり、腑に落ちない。双方が同時に存在する事態がないわけではないが、かなり稀だ。自然発生したというより、人為的な要素が加わったとみる方が妥当である。
 となれば、考えられるケースは……
「あぁ、死ぬかと思った!」
「おお!」
 突然、大きな熊みたいな影が現れる。驚いて身を引くと、大柄の男が背後に立っていた。
だがしかし、ガタイのいいその体躯は生まれたての小鹿みたいにぷるぷるしてた。
「お嬢ぉぉぉぉぉ……」
「エ、エリク?」
 よくよく見れば同じ教室の生徒のエリクだ。
 やだ。なんかまじ泣き。
「怖かったのぉぉぉ」
 次の瞬間、タックルときた。
「エリク、落ち着いて。もう大丈夫だから」
 少しよろめいたが背中に太い腕がからみつく。
「すっごく、怖かったのぉぉぉぉぉぉッ。殴っても殴っても消えないのぉぉぉぉぉ」
「消えない? 倒れないじゃなくて?」
 懸念していた事態はさらに真実味を帯びてきた。
 やはり、この遺跡はアンデッドとレイスが彷徨っている。調べた方がよさそうだ。
 とにかく、エリクを外に出すべきだろうと向き直る。
 見れば小さく蹲り、めそめそ泣きだした。
「もうやだやだ。おうち帰るぅぅぅぅぅ」
「そんだけデカい図体して……」
 子供みたいな訴えに呆れてうなる。
 もう駄目だ。緊張の糸が切れたのだろう。
 身体が大きいからこそ、幽霊みたいな得体のしれないものが怖いのかもしれない。
「お嬢ぉぉぉぉぉ」
「そろそろジーンから離れてください」
 再び抱きつこうとしてきた時、レックスが襟首を掴んで引き離した。
 すごいな。ウエイトも身長も違うのに。結構、鍛えてるとみた。
 それと別に他にも生徒がいたらしい。
 エリクの背後。彼よりひと回り小さい男子生徒が倒れていた。
「大丈夫ですか?」
「もう少しだけ……」
 レックスが差し出した手を握った騎士。セオドアだった。
 はじめは普通のやりとりだった。それが握ったまま、数秒経過し、十秒たった頃、手の甲を撫でまわす。それも舐めるような、怪しい動き。恐れを感じたレックスが手を引こうとするものの、びくりともしない。無駄に鍛えているからな。
「セオドア。手を離して。レックスが怖がってる」
 見かねて彼の手首を掴む。
 レックスは、ゾゾッと寒気をこらえる何とも言えない表情だった。そりゃ、そうだろう。セオドアはパーシヴァル教室の中でも一番の強面だ。それが涙うるませて手を握ってきたら、男性どころか誰でも怖いと思う。
 それでも、セオドアは手を握ったままだ。
「いいから、さっさと離す」
「あん」
 手をはらってなかったことにする。セオドアの声も聞かなかったことにする。
「大丈夫?」
「あ、ああ……」
 レックスの顔色は冴えない。
 すまん。うちの教室の連中はこんなのばっかで。

 ひと段落ついたところで、ふと気が付く。
 遺跡の奥、ひそひそと話し声が聞こえてくる。
「おかしい。予定とはかなり違う展開だわ。段取り段取り……そうだ! 犯行声明を忘れてたわ」
 レックスと顔を見合わせる。
 アイコンタクトで頷く。音を立てないよう、静かに確認しようとサインを送る。
 足音を立てず、壁伝いに近づく。そっと覗けば、広い空間だった。奥に祭壇がある。
「北塔カフェテリアのスイーツが20%OFF……違うわ。犯行声明は裏面にメモしてあるんだった」
 かくんッと脱力する。
 少女のような可愛らしい声でカフェテリアのチラシでも読んでいるようだ。非常に危機感のないコメントだ。
「ええと……おろかなる真珠の騎士に告ぐ。おまえの仲間は預かった。潔く、負けを認めなさい。さもなくば……」
「どうするっていうの?」
 思わず背後に立ち、声をかける。
 振り向いたのは少女だった。それも十歳前後の女の子だ。
 大粒の赤の瞳をまんまるに見開く。
「い、いつからそこに!」
「わりとさっきから」
 さらりと返す。この娘、一体どうしてここにいるのだろう?
 突然、少女が両の手を前に差し出す。
 反射でレックスと共に迎撃態勢をとった。
「闇よ。彷徨(さまよ)う魂よ。ここに集え」
 しーんと静まり返る。
 うんうん唸った。ちょっと可愛い。
「おかしいわ。術が発動しない」
「うん。さっき浄化したからね」
 アンデッドは清浄な空間では活動できない。それはレイスも同じだ。
「そうか。あなた死霊遣い(ネクロマンサー)ね」
 ようやく合点がいった。
 死霊遣い(ネクロマンサー)なら、遺跡にレイスの群れがいてもおかしくない。
 彼女がレイスを集めて襲ってきたのだとすれば。
 浄化したから、しばらく術は使えないのだ。
「おのれ~」
 恨み節もたっぷりに、少女がナイフを取り出した。
「もはや、これまで……覚悟〜!」
 玉砕覚悟のセリフと一緒に向かってくる。
 ガッ!
 ちょうど構えた(ロッド)の先が当たった。もちろん、攻撃するためじゃない。驚いて身を引いただけなのに。
 パッと見、彼女の方から突進してきて勝手にぶつかってきたような形になった。
「あうッ!」
 もんどり打って、ぐらりと身体が傾く。
 ぶつけた額をおさえる仕草も可愛い。
「おのれ、卑怯な!」
「どこがよ」
 いきなり襲ってきて、それは聞き捨てならない。
 当たり前の主張をしたつもりだが聞き入れてはもらえないようだ。
 さっきから、ぷりぷりと怒っている。やっぱり可愛い。
「本当、噂にきいたままね! さすがは、撲殺するしか能のない凶暴な白魔術師もどき……」
 最後までは口にできなかった。
 ひゅっと何がが横切る。
 それが男性の腕だと知る頃には、少女の頭がわしッと掴まれていた。
「はう!」
「ひとつ忠告してやる」
「レ、レックス?」
「自分より大きな獲物を仕留めたいなら、武器や間合いを有利にしてから挑むことだ」
「あううぅぅぅぅぅッ〜!」
「でなければ自ら死を招くぞ」
 みしみしと怪しい音が響く。一気に血の気が引く。
 このままでは潰されかねない。慌てて駆け寄る。
「レックス! 大丈夫だから! わたし、気にしてないから!」
「あうぅぅぅぅぅぅッ!」
 遺跡内に少女の悲鳴がこだました。

 姿はメイドだった。
 エプロンドレスにモブキャップ。
 金髪に赤の瞳。やはり歳も十前後にしか見えない。
 遺跡の石畳に足を投げ出し、座り込んでいる。すっかりやさぐれているといったご様子。
 ちなみにエリクとセオドアはさっさと遺跡からご退席願った。
 彼らの精神状態はもう限界だったので、ソルベとハロルドにに介抱を任せる。今頃、医務室へ向かっている途中だろう。
「で? ここで何してたの?」
 彼女が死霊遣い(ネクロマンサー)である可能性は高いけれど、ハロルドたちをおびき寄せたことも否定できない。その目的は何なのか。
 訊ねてみても、ぷいとそっぽをむかれてしまった。
 当然ではある。
 彼女の目元はうっすらと赤い。さっきまでひと悶着あったせいだ。
 散々レックスに頭を鷲掴みにされ、ぐいぐいと振り回された。
 ようやく彼の怒りが収まった頃には、モブキャップが外れてしまう。
 そこから大きな狐の耳が飛び出してきた。
 レックスも目を見開く。
「……狐?」
「きっとキキーモラよ。このあたりじゃ珍しいわね」
 キキーモラは妖精の一種。家事妖精ブラウニーと同じ系統に属する。
学院で働いている種族としては珍しい。
 そこで、ある可能性が頭をよぎる。
「まさかとは思うけど、アンジェラの眷属……」
「違うわ」
 メイドキキーモラは、きっぱりと否定する。
「紅玉館で働いてる」
「ああ……」
 なんとなくわかった。
 彼女が騒動を起こした理由が。
「あなた、名前は?」
「ふ、ふん。騙されないわよ!」
 ここまできて、あくまで強気。なかなか根性はあるけれど。
「名前は、魂のひと欠片。教えたら呪いをかけられるって、アンジェラが言ってたもの!」
「…………」
「…………あ!」
 ちょっと悪いことするには向いてない性格だと思う。さっきの犯行声明といい、今の黒幕暴露発言といい。
 嘘がつけない性分だということにして聞かなかったことにしよう。
「んー。ただ話しかける時に不便だから」
 やんわりと話しかける。レイスには手こずったが、彼女からは屈折した悪意が見えてこなかった。ということは、話すことで真相が見えてくるかもしれない。
 実際に、キキーモラメイドは弾かれたようにわたしを見た。
 そんな反応が返ってくるとは思わなかったといった感じだ。
「そもそも、わたし他人を呪う系の黒魔術なんか使えないし」
 彼女の発言も否定する。
 そんな人を呪う系の魔術なんてとっくの昔に廃れてる。時間やら労力やら呪術アイテムやらを使うのに、リターンが少ない。かつ、どれだけ対策をしても呪術なんてものは逆流してくるものだ。まさに人を呪わば、ってヤツ。
「教えたくないなら、それでもいいけど」
 それほど重要でもないから話を進めようとすれば、
「……キディ。キディ・リリィ」
 うつむきがちに小さな声で答えてくれた。
「そう。キディか。可愛い名前ね」
 想像以上のぴったりな名前に思わず口元が緩む。
 キディも驚いたように顔をあげ、困ったような怒ったような複雑な表情を見せた。少なからず動揺しているようだ。
「それじゃ、キディ。あなた、ここで何をしてたの?」
 あくまでだんまりを決め込むつもりなのかしら。
「アンジェラになにか言われた?」
「…………」
 キディの服は、あちこち破けたり解れていたりする。それだけでどういう扱いをされていたか予想がつく。
 数ある学生寮のひとつ、紅玉館の住人たちは特徴というか、くせが強い。実際、あふれる才能やら尊き血筋やらを持っているから自信のある生徒たちが集まっている。ついでに、何やら勘違いなさっておられる方も少なくない。
 一方、ケット・シーのソルベが門番をやっているように、学院で働く悪魔や妖精はどこにでもいる。ただ、意味不明なのは一部の生徒は彼らを顎で使っているということだ。彼ら幻獣は使役されていたり、一種族として権利を持ちながら職務を遂行している。いくら高貴な身分であろうと魔術の才能にあふれていようと、彼らを上から命令する権利も道理もない。それはアラステアの生徒がネビュラルの生徒を低く見て、上から目線で命令しているようなものだ。種族なんて関係ない。
「どうして?」
「え」
「あたしはずっとこのままなの?」
 ぽつりぽつりと呟く。
 彼女がたどたどしく語った境遇に、ぐっと胸が絞めつけられた。
 やはり想像通り、キディは紅玉館でひどい扱いを受けていた。
 来る日も来る日も掃除と食事の用意に終わり、生徒たちから侮蔑の視線と言葉をあびる。もちろん、一部の生徒にかぎったことだが、その他の生徒は見て見ぬふりをしていたという。
 そこをアンジェラにつけこまれた。
『彼らを見返したいでしょう? いいことを教えてあげる』
 そう優しく笑う。
 キディも最初は取り合わなかった。彼女も紅玉館の寮生だし、割のいい話には裏があると知っていた。何度、話しかけられても警戒心は緩めなかった。
 ただタイミングが悪かった。彼女も普段なら、決して気を許したりはしなかっただろう。
『今のあなたの姿を母さまはどう思うかしら?』
 ぐっと拳を握る。怒りに震えた。
 昨年、キディは母親を亡くしていた。共に紅玉館で働いていたのだから、アンジェラが知っていてもおかしくはない。
 死を悼むわけでもなく、労わるわけでもなく。利用したのだ。
 いろいろなものが吹き飛んだ。
 治癒術の素質?
 白魔術師?
 騎士?
 そんなものより、大事なものがあるはず。
 とっさに身体が動いた。
 ぺちり。軽くキディの頬を叩いた。
「駄目でしょ。こんなことしちゃ」
 なるべく優しい言葉で語りかけた。
「自分が苦しいからって、ひとを困らせても、いいことなんて何もないのよ」
「な、なによ。いまさらお説教?」
 キディも戸惑っていた。
 誰も助けてくれなかったのに。
 自分の悪事は咎められる。
 ひどい矛盾だ。
 けれど、きっぱり否定する。
「違う。こんなことしたら、あなたを助けることができなくなるの」
 キディがはっとしたように顔をあげる。
 その揺らいでいる赤の瞳を真正面から受けとめる。
「あなただって、自分を苦しめた相手を助けたいって思う?」
 誰でも同じだと思う。
 自分を傷つけた相手が困っていても手を差し伸べられるだろうか。
「そ、それは……」
 キディも答えられない。
 彼女にとっては、助けたいひとはいないのかもしれない。
 助けたかった母親以外には。
 それはとても悲しいことだ。
「理不尽よね。でも、お願い。その怒りを収めてほしい。今なら間に合う」
 ぐっと言葉に詰まるキディ。
 我慢している表情。大粒の瞳は今にも涙があふれそうだ。
 それを見なかったことにして、
「今まで気付かなくてごめんなさい」
 そっと抱き寄せる。
 すっぽりおさまるその身体は想像していたよりもずっと細かった。
「もう大丈夫。何とかするから」
 言い聞かせるように、安心させるように。
 ぎゅっと強く抱きしめる。
 キディは抵抗しなかった。
 かなりの時間が経ってから、
「ごめんなさい」
 小さな声で謝ってきた。
 おずおずと背中に手をまわし、抱きついてくる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
 堰を切ったように何度も繰り返しながら、泣きじゃくる。
 こんな小さな身体で今までずっとこらえていた『何か』。
 少しは軽くできただろうか。
「ジーン」
 肩越しにレックスに呼ばれる。
「やったな」
「なんとかね」
 労いの言葉で、ひと息つく。
 よかった。素直な子で。
 これが長命な種族だったら聞く耳をもってくれなかっただろう。
 キディの背中をさすりながら、しみじみ考えていると。
「お姉様……」
 うっとりするような声音が聞こえてきた。
 レックスと顔を見合わせる。
「んんん?」
 予想外のキディの反応。
 なんか、やっちまったか?

 真珠館の昼下がり。
 日差しの入る談話室に師匠はいた。
「ミス・フェイレザー……」
 今にも苦虫を噛み潰しそうなパーシヴァル教師の顔が目の前にある。
「今日の訓練目的は何だったのかな?」
「い、生命を育てる実験です……」
「そうか。では、守備の方はどうだい?」
 腕組みした指が苛立たしげ動いている。
 爆発も近いな、と他人事のように思う。
 とはいえ、背後に隠していたものをそっと差し出す。
「これは何だい?」
「課題のマグノリアだったものです」
「ほぅ、これは僕の目がおかしいのかな? 花弁は白ではないのかな? なぜ、紫と黒の斑なんだい? 暗闇とかで光りそうだ」
「そ、そんな……」
 あんまりだ。
 悪意がわんさか詰まってる。
 なのに羞恥プレイはまだ続く。
「これは、さしずめ……あれだな。私がバルトアスへ訪れた時、砂漠の奥地で見かけたキクランモモノドクバナだな」
「それ、何の花なんです? というかはっきりおっしゃったらどうですか。毒花みたいに禍々しいと」
 話がずれていくのを感じながらも果敢に立ち向かう。
 自ら負けを認めてはいけない。
 いわれなき中傷に全力で立ち向かう覚悟ができた時だった。
「ジーン!」
 大声で呼ばれた方へ視線を向ける。
 声の主はキディだった。
 洗濯カゴを片手に勢いよくぶんぶん手を振る。
 新しいシンプルなエプロンドレスが似合っていた。
 可愛らしいヘッドドレスからは大きな耳が。
「ジーン姉様ーッ!」
 周囲には誰もいなかったが、ちょっと恥ずかしい。
 控えめに手をふり返す。
 キディは弾かれたように目を見開く。
 次の瞬間には満面の笑みでぶんぶんと勢いよく腕をふる。ついでに背後のしっぽもぶんぶん振っている。可愛いけどちぎれそうで心配になる。
 説教中にあるまじき行為かと思ったが、師匠は何も言ってはこなかった。キディを見つめながら、やれやれとため息をつく。
 その姿に、ぽろりと本音がもれる。
「ありがとうございます。先生」
「なんだい、急に」
「キディのこと、真珠館で雇っていただいて」
 つまりは、そういうことだった。
 あの騒動のあと、わたしはキディを真珠館に連れて行った。一時とはいえ、紅玉館に戻す気になれなかったのだ。
 叱責も懲罰も覚悟で寮へ戻ると、心配して待っていたヴェロニカ様と鉢合わせになった。心配させてしまった負い目が無視できず、今までのことを正直に話した。すると先輩は「今回のことは任せてほしい」と言い、わたしとキディに食事を用意してくれた。
 そうして一晩経った頃にはキディの処遇は驚くほど軽く済んだ。所属は真珠館となっていて、給金も少し多めになったという。
 騎士道学部の生徒に危害を加えたとはいえ、怪我をさせたわけではないこと、本人に故意がなかったこと、紅玉館での不当な扱いなどを踏まえての処分だと考えられる。
 おそらく事情を知ったヴェロニカ様が先生を通じて口添えを依頼したのだろう。だから特に問題もなく彼女を引き抜くことができたに違いない。
 そうでなければ、こんなにも問題なくキディの職場を変えることはできないはずなのだ。
 今回ばかりは師匠に感謝するしかない(ヴェロニカ様には当然感謝する)。わたしには悪魔のような教官だが、困っている者を放っておくひとではなかった。それが、どこか誇らしい。
 何かしらの感情が伝わったのか、師匠はそっぽを向いた。
「仕方ないだろう。話を聞いたからには放ってはおけない」
 今となっては照れ隠しにしか見えない。意外な一面を発見してしまったな。
 などと、ぼんやり考えていると師匠が「それはさておき」と話を変えた。
「で、本当に彼女を見かけたのは偶然なんだろうね?」
「? だから、何度もそう言ってるじゃないですか」
 そらっとぼける。
 アンジェラのしたことは許しがたい。でも、彼女のしたことが露見すればキディも無事ではすまない。したがって、師匠には自分の見たものだけを見たとおりに話してみた。もとよりアンジェラが関与した物証は何もない。
 あくまでハロルドたちが偶然キディを見つけたことにする。
 彼女も、そこでたまたま死霊遣い(ネクロマンサー)の修業をしていただけだ。そういうことにしておこう。
 我ながら甘いと思うものの仕方ない。わたしはそれしか選べない。
 自分よりも大きな悪事に目をつぶる。自分よりも小さな叫びを叶えるために。
 他のひとは矛盾していると思うだろう。不器用な生き方だと笑うかもしれない。それでも。
 わたしは無視できなかった。それだけの話だ。
「そもそも西塔の運動場に向かったのは先生の指示ですよ」
「わかった、わかった。そういうことにしおこう」
 師匠も続ける気はないらしく、手を振って打ち切ろうとする。
 ため息とともに、またまた話は変わる。
「とにかく担当のスカーレット教師には僕から話を通しておくから、追試を受けたまえ。次の検定試験に間に合わなくなる」
「はい」
 今度は素直に頷く。
 半年後に白魔術師の検定試験がある。無理を承知で師匠に相談したら、必要な講義の参加を段取りしてくれた。
 颯爽と歩き去る後ろ姿を見つめた。
 案外、懐が広い師匠なのかもしれない。
 こんなわたしでも見捨てないあたり。
 変わりたいと思っても、変われる人間なんてひと握りなのだろう。
 わたしは、わたしのまま。諦めたくないのなら、努力し続けるしかない。
 たとえ、届かなくても。
 違った形に変わっても。
 悪くないと思っているわたしがいる。

 寮を出る。
 講義ではうまくいかなかったので特訓だ。
 どこでトレーニングしようか迷っていたら。
「ジーン」
「レックス」
 ちょうど【クロノスの門】前で後輩に会う。
 今日は機嫌がよさそうだな、と思った時だった。
「ジーン!」
「助かった!」
「ぐえッ!」
 いきなり筋肉が視界を塞いだ。
 よくよく見るとハロルドやエリク、セオドアだった。
「おれたち、信じてた!」
「ジーンなら、必ず助けに来てくれるって信じてた!」
「ぐえぇぇぇ……」
 熱い抱擁に呼吸困難で落ちかける。
 むさい、暑苦しい。
 意識が遠のく……
 パンッ!
 突然、ピンポイントで弾けたような音がした。
「レ、レックス……?」
「ジーンから離れてください」
 静かな声音が響く。
 レックスがハンドガンを構えている。しかも二丁。かなり本気モードだ。
 なんか、すごく怒ってる……?
 筋肉陣の面々が青ざめた。
「おおッ、若君がお怒りじゃ!」
「お怒りじゃッ!」
「逃げろ、散開せいッ、撃たれる前に!」
「了解!」
 威勢よく撤退の号令。次の瞬間には蜘蛛の子を散らすようにそれぞれその場をあとにする。
 でも、レックスの瞳から戦意が消えない。ハンドガンを握ったまま追跡しようとしている。
「レックス!」
 まずい。何か本気で怒ってる。血の雨が降らないよう、慌てて走って追いかけた。

 先のことなんて、どうなるかわからない。
 だからこそ、目の前にある今を精一杯生きようと思う。
 他の誰かのためじゃなく、自分のために。
 今日も自分らしく生きていく。