(ただし)と二人で暮らしていたマンションを出て。明里(あかり)は暫くの間、ホテル暮らしをしていた。自分でも贅沢だとは思うが、離婚が成立していない状態で霧崎(きりさき)の家には転がり込めない。家が見つかるまでの辛抱だと言い聞かせた。
 忠は案の定ごねていた。これは時間がかかるかもしれない、と明里は溜息を吐いた。
 相手の不倫が原因だとしても、それを理由にすぐに離婚することはできない。忠が納得しないのであれば、裁判に持ち込むしかない。不貞の証拠は明らかであるから、争えばまず勝てる。しかしそれでは一年程度かかることを覚悟しなければならない。
 弁護士の霧崎がついているし、忠の性格を考えれば、協議離婚は難しいと思っていた。それでも、忠さえ納得してくれるなら、それが最も早く穏便だった。
 慰謝料を取ると宣言したものの、それはきちんと制裁を下すという意思表示に過ぎず、正直なところ明里にそれほど金に対する執着はなかった。そんなことでぐだぐだと時間を浪費するくらいなら、財産などくれてやるからさっさと自分を自由にしてほしかった。
 明里ももう若くはない。新しい人生を歩むための時間は、少しでも長くほしい。
 望めるなら。新しい、家族だって。
 ホテルの部屋の窓辺で、明里はそっと(はら)に手を当てた。

 ――子ども? 俺たちにはまだ早いんじゃないかな。

 妊娠を告げた時。忠は喜んでくれると思っていた。恋人だった頃には、子どもは好きだと言っていたし、結婚後は女の子と男の子、両方が欲しいなどと話していたから。
 けれど、結婚後。夫婦なのだからもう必要ないと言って避妊をしなかったのは忠の方なのに、いざ妊娠すると、今の自分の給与では養えないだのなんだのと理由をつけて、結局中絶することになった。
 明里は深く傷ついたが、その時はまだ忠に気持ちも残っていたので、子どもの養育環境を考えてのことだと自分を納得させて中絶した。
 しかし長く結婚生活を続けてわかった。忠は子どもなど望んでいなかった。
 何故なら、忠自身が子どもだったから。いつも自分が一番でなければ気が済まない。明里が自分以外のことに時間を割くのが許せない。いつでも自分を優先してほしい。だから、自分より構われる子どもなど、邪魔なだけだった。
 
 今にして思えば、それが全ての始まりだった。
 
 中絶後、明里は暫くの間性行為を拒み続けていた。とてもそんな気分にはなれなかったからだ。半ば無理やり行為に及ばれたこともあったが、その時の明里の反応が気に食わなかったのだろう。忠は、明里を求めることをしなくなった。そのことに明里は、どこかほっとしていた。そして寂しさを感じない自分が、寂しかった。
 忠は明里の代わりに、他の女を求めた。
 夫の不倫に気づいた時、世の妻と同じように、明里も勿論ショックを受けた。それでも、「やっぱり」という気持ちの方が強かった。自分がもう、女として見られていないことに、薄々気づいていたからだ。それを言及する気にもなれなかった。不倫を止めたからといって、その分自分を求めてほしいとは思えなかったから。
 その後、明里はパートを始めた。忠が他の女に時間を割いているのに、自分ばかりが忠のためだけに時間を使うことに嫌気がさしたのかもしれない。せめてもの抵抗だった。
 忠は結婚当初、明里を束縛したいがために専業主婦になることを命じていた。だから明里は正社員の仕事を辞めて、家事に専念していた。けれど、数年が経過すれば、忠の明里に対する執着も薄れていた。パートを始めることに異論はなかった。むしろ、外の世界と接することで、中絶のことを思い出さなくて良いのではないか、と勧められた。明里が外に興味を向けることは、忠にとっても都合が良かったのだろう。
 明里は外に働きに出るようになっても、家事に手を抜くことは何一つ許されなかった。だから、毎日の疲労は増していった。
 こんなに頑張って、いったい何をしているのだろう。どれだけ夫を支えても、その夫は余所の女に貢ぐために働いている。
 けれど忠と別れたとして、その先自分はどうすればいいのか。不倫に気づいたといっても、明確な証拠はない。慰謝料は取れるのだろうか。パートの給料で生活していけるのだろうか。この歳でバツイチなんて、再婚のあてもない。そうしたら、子どもは二度と望めない。もしも、もしも忠が改心するようなことがあれば。子どもを持つことも、この先あるのではないか。
 そんな僅かな希望だけを胸に、ぎりぎりの精神で日々を送っていた。
 
 霧崎と出会ったのは、そんな頃だった。