黒い煙。焦げ臭さ。ざわつく足音と声。
 彼の家が近づくにつれ、それらは容赦なく大きくなっていく。
 通りを曲がると、すぐに目に飛び込んできた。母の勘違いなんかじゃ、なかった。燃えていたのは、まぎれもなく、あの日彼が教えてくれた家だった。
 まだ炎に包まれているというほどではない。ただ一階の窓から、空を覆うほどの煙が上がり、その奥にはたしかに炎が見える。暗い空に、一部が赤く染まった黒い煙が、激しい勢いで上っていく。
 息を吸おうとしたら、うまくいかずに咳き込んだ。ぜえぜえと喘ぎながら、あたしは人ごみをかき分け、その家に近づく。消防車は到着しているが、まだ今着いたばかりなのか、消火活動は始まっていない。消防士の人たちがホースを伸ばしたりと忙しなく動き回っている。

 辺りを見渡す。彼の姿は見えない。時間的に、彼は間違いなくまだ帰宅していなかったはずだ。だからこの火事に巻き込まれているとは考え難かったけれど、それでも胸がざわついて、気持ち悪かった。一目その姿を見ておきたくて、必死に目をこらし、人ごみの中に彼の姿を探していたときだった。
「――健! 健は!?」
 女性の甲高い声は、耳をつんざくように飛び込んできた。
 声のしたほうへ目をやると、見覚えのあるひとりの女性がいた。すぐに気づく。彼が見せてくれた、そして昨日あたしが盗んで燃やした、あの写真に写っていた人。彼の、奥さん。

 ――健っていうんだ。名前。健康の健で、たける。

 彼女は取り乱した様子で、横で事情を聴いていたらしい警察官に訊ねている。自分の斜め後ろあたりを指さし、「ここに!」と声を震わせる。
「子どもがいたでしょう! さっきまで!」
 あたしは咄嗟に辺りに視線を走らせた。小さな子どもの姿はない。たしかに、今ここにいなければならないはずなのに。子どもが、どこにもいない。
「戻ったのかも……!」
 悲鳴のようなその声は、ぞっとするほどの鋭さで、あたしの鼓膜を震わせた。
「あの子、逃げるときおもちゃを持っていきたがってたの! それをわたしが無理やり連れ出したから! 取りに戻ったんじゃ!」
「や、でも子どもが玄関から入ろうとしてたらさすがに気づきますよ」
 あわててなだめるように警官が言う。たしかに玄関の前には消防士も野次馬もたくさんいて、子どもが家に戻ろうとしていたなら誰かが止めたはずだ。だけど女性はまったく表情を変えず、「裏口!」と撥ねつけるように続けた。
「向こうに裏口があるの! あの子、よくそっちから出入りしてたから、たぶんそっちから――」
 女性の悲痛な声と重なるよう、家のほうからなにかが崩れ落ちる音がした。火の爆ぜるような音も、大きくなる。
 直後、弾かれたように、女性が駆け出そうとした。危ない、と叫んだ警官があわてたように彼女を止める。

 ――健康に育ってくれれば、それでいいと思ってさ。奥さんとふたりで、つけたんだ。

 それを見た瞬間、あたしは駆け出していた。
 なにかを思う間なんてなかった。人ごみのあいだを抜け、燃える家のほうへ一直線に走る。窓からものすごい煙は出ているが、燃えているのは家の奥のほうらしく、玄関付近に火の手はない。
 後ろで、おい、とか、待て、とか叫ぶ声が聞こえたけれど、聞かなかった。開けっ放しになっていた玄関から、中に飛び込む。
 途端、外よりずっと濃い煙と焦げ臭さが鼻を覆った。咄嗟に手のひらで口もとを覆い、家の奥へ視線を飛ばす。
 廊下の突き当たりにあるドアの向こうに、かたまりのような炎が見えた。カーテンに火が移り、燃えている。けれど恐怖を覚えている暇はなかった。迷う間もなくそちらへ向かおうと足を進めかけたとき。

 視界の端で、なにかが動いた。
 顔を横へ向けると、そこにも狭い部屋があった。中には、ひとりの男の子がいる。部屋の隅にあるバスケットの前に屈んで、なにかを取り出している。
 いた。いた!
 あたしは無我夢中でその子のもとへ駆け寄ると、後ろから抱え上げた。あっ、と男の子が声を上げ、持っていた電車のおもちゃを取り落とす。 
 ああもう。短く叫んでそれを拾ってから、あたしはそのまま男の子を肩にかつぎ、部屋を飛び出す。
 この数秒の間に、充満する煙と熱気が明らかに増えていた。
 目が痛い。視界がにじむ。男の子を抱える際にうっかり煙を吸ってしまったせいで、喉も痛い。それでも足を止めている余裕はなかったから、咳き込みながらほとんど見えない視界の中を進み、どうにか外へ出た、直後だった。
 すぐ後ろで、ふたたび、なにかが爆ぜるような音がした。振り向くと、さっきまではまだ無事だった玄関付近に、一瞬で炎が回っていた。

「健!」
 思わず膝から力が抜け、地面にへたり込んでしまったとき、女の人の悲鳴のような叫び声がした。顔を上げると、さっきの女性が、泣きそうな顔でこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
 ママ、とあたしの腕の中で男の子が声を上げる。いつの間にかきつく抱きしめていたその子を放すと、男の子は弾かれたように駆け出し、女性の胸に飛び込んだ。
 健、健、よかった、と嗚咽混じりの声を漏らしながら、男の子を抱きしめる女性の姿をぼうっと眺めていたとき、

「――初瀬!」
 ふいに、すぐ近くで彼の声がした。振り向こうとしたら、なにかがどんと身体にぶつかって、視界が暗くなった。
 なにが起こったのか、一瞬わからなかった。後頭部に回った手に、ぐっと顔が押しつけられる。頬に布の感触が触れ、かすかに、タバコの匂いがした。
「初瀬」耳もとで彼の声がして、ようやく、抱きしめられているのだと気づいた。
「よかった、初瀬、よかった」
 少し震えるその声は、はじめて聞くような、ひどく頼りない響きがした。声と同じぐらい震える彼の腕に、力がこもる。
 顔を埋めたワイシャツからは、タバコの匂いに混じって、少しだけ汗の匂いもした。耳もとで鳴っている心臓の音は、あたしのものなのか彼のものなのかわからなかった。
 ありがとう、と彼が呟く。それ以外の言葉が出てこないみたいに、何度も。
 震えるその声と腕と、あたしよりずっと高い彼の体温に、息が詰まる。瞼の裏で熱が弾ける。違う、と言いたかったけれど、口を開こうとしたら喉が引きつって、声ではなく嗚咽が漏れた。繰り返される「ありがとう」に胸の中がぐちゃぐちゃになって、わけがわからなくなる。違う。違う、あたしは。

 消えてほしかったの。消そうとしていたの。あの人も、あの子も。
 助けたくなんか、なかったはずなのに。

 叫びたい言葉は、嗚咽に邪魔されて喉を通らず、代わりに、涙腺が壊れたみたいに涙があふれた。彼の腕の中で、身動きひとつとれずに。途方に暮れた子どもみたいに、ただずっと、あたしは泣き続けていた。