そもそも、彼がいなかったら。あたしはたぶん、今も真面目にこんな学校に通ってなんかいなかった。とっくに不登校か、保健室登校にでもなっていた。
 周りは敵ばっかりの、苦痛しか生まないようなこの場所に、いつまでも通い続ける理由なんてひとつもなかった。勉強だって好きではなかったし。
 だけど彼と出会って、あたしは学校に通い続けざるを得なくなった。どうしたって、休むわけにはいかなくなった。
 べつに、彼から学校にくるよう言われたことは一度もない。むしろ彼は、つらかったら休んでもいい、とずっと言ってくれていた。授業に遅れた分は、あとで俺がちゃんと教えるから、って。
 そんなふうに、彼が言ってくれるから。あたしは、ますます休めなくなった。多少体調が悪くても無理をしてしまうぐらいに。学校に行きたい、と。信じられないようなことを、思うようになってしまった。

 だって彼は先生で、あたしは生徒だから。
 学校に行かなければ、あたしは彼に会えないから。

 勉強も、真面目に頑張るようになった。上がった成績を彼に見せる、ただそれだけのために。
 勉強なんておそろしくつまらないものだと思っていたけれど、勉強時間を増やせば増やすだけ、きっちり比例して成績が伸びていくのは手ごたえがあって、少し面白いと感じた。なにより、テストで良い点数をとったときに全力で喜んでくれる彼の笑顔と、初瀬はすごいな、という誇らしげな声は、麻薬みたいな中毒性があって、あたしはますますのめり込んでいった。

 そんなふうに勉強に熱を上げているうちに、気づけばクラスで孤立していることも気にならなくなっていた。むしろ友達なんていないほうが好きなだけ勉強に集中できていいのではないか、なんてことを、強がりでもなく思うようになった。
 靴を捨てられたりだとかの嫌がらせだけはうっとうしかったけれど、あたしがたいして反応せずにいたら、するほうも飽きたのか、しだいに減っていった。

「三上先生、いいよねー」
「あー、わかる。なにげにイケメンだよね」
「わたしこのまえ、昼休み職員室行って、授業でわかんなかったところ教えてもらっちゃった」
「えー、ふたりだけで? めっちゃいいじゃん」
「でしょー」
 後ろの席で、ふたりの女子が彼のことを話している。以前はイライラして耳を塞ぎたくなっていたそんな会話に、今は仄暗い優越感が湧く。たったそれだけの出来事で喜んでいる彼女たちに、自慢してやりたくなる。

 内緒だぞ、と言って、彼がいつもあたしに漫画を貸してくれること。
 昼休みはあたしといっしょにお弁当を食べてくれること。
 このまえの定期テストの数学で、ついに学年トップをとったあたしに、初瀬は俺の自慢の生徒だと、彼が心底うれしそうに笑ってくれたこと。

 きっとこの学校で、あたし以外に、彼にそんなことをしてもらっている生徒はいない。
 自負はあった。今この学校にいる生徒の中で、彼といちばん仲の良い生徒はあたしだと。きっと自惚れではないと思えるぐらいには、あたしは彼との時間を積み重ねてきた。
 ――それで、どうしようもなく満足していたはずなのに。他にはなにもいらないと、あのときはたしかに、そう思っていたのに。
 どうして、どんどん贅沢になってしまうのだろう。どうして、欲望には際限がないのだろう。

 あの日、はじめて、学校の外にいる彼に、会ったとき。
 あたしは急に、気づいてしまった。
 今、あたしが、なによりかけがえのないものだと感じている彼とのつながりなんて、彼にとってはぜんぜん、たいしたものではないのだと。

 彼にはあたしよりずっと、大切な人がいる。愛している人がいる。
 この学校にいる、大勢の中の〝いちばん〟にはなれているのかもしれない。だけど〝唯一〟ではない。〝唯一〟には決してなれない。あたしがこの学校を卒業したらそれで、あっけなく彼との関係は終わる。そしてまた、彼にはべつの〝いちばん〟ができるのだ。真面目で勉強がよくできる、とくに彼の担当教科である数学が得意な生徒なら。きっと誰でも、彼の〝自慢の生徒〟になれる。
 そうだ、べつに、あたしだけではない。あたしはなにも、彼にとっての特別な存在なんかじゃない。特別な存在になんて、なれない。
 だって彼は、あたし自身なんて見ていない。一度も。見てくれたことなんて、ない。
 そもそも彼が最初にあたしに興味を持ってくれたきっかけだって、あたしがカワイソウないじめられっ子だったからだ。彼が先生だから、カワイソウな生徒を放っておけなかっただけ。先生だから、真面目な優等生が好きなだけ。先生だから、誰よりも勉強を頑張っているあたしを、褒めてくれるだけ。先生だから。先生、だから。

 ――ああ、だったらもういっそ燃やしてしまいたい、と。
 そんなふうに思ったのは、彼のいちばん近くにいる邪魔な存在を消したいだとか、消してしまえば空いたその席にあたしが座れるはずだとか、そんなおめでたいことを思ったからではなくて。
 あたしはどうしようもなく、抜け出したくなったのだ。
 カワイソウないじめられっ子からも。真面目な優等生からも。彼の、自慢の生徒からも。
 この場所でどんなに頑張っても、これ以上、彼の特別になれないのなら。決して、彼に愛されることが、ないのなら。
 いっそ、憎まれてしまえば。世界でいちばん、彼にとっての憎い存在になれれば。永遠に、彼の心に棲みつくことができるのではないか、なんて。
 彼の口もとで灯る赤い火を見た瞬間に、あたしの胸にもそんな薄暗い願望が灯った。瞬く間に激しさを増したその炎は、そのままあたしを呑み込んで、消えなかった。