その日、下駄箱から消えたあたしの靴は、どんなに探しても見つからなかった。
 前に消えたときはゴミ捨て場に捨てられていたのを彼が見つけてくれたけれど、さすがに同じ場所に捨てるような芸のない真似はしないらしい。
 しだいに空が暗くなり、グラウンドから聞こえていた野球部の声もやんだ頃、あたしは、「もういいよ」と彼に言った。
「あの靴ボロかったし。どうせそろそろ捨てようと思ってたから。ちょうどよかったよ、なくなって」
 ワイシャツが黒く汚れるのもかまわず焼却炉の中を漁っていた彼は、あたしの言葉に手を止め、こちらを振り向いた。一瞬だけなにか言いたげな顔をしたけれど、あたしが笑顔を作れば、合わせるように苦笑して、「そうか」と頷いた。

「暗くなっちゃったなあ」
 汚れた手をはたきながら呟いた彼は、当然のように、あたしを送っていくと告げた。あたしはぎょっとして全力で遠慮したけれど、もう暗いんだからひとりは危ない、と彼も譲らなかった。
「いちおう先生だからさ。この時間にひとりで帰すわけにいかないんだよ。おとなしく送られてくれ」
「なにそれ」
「初瀬の家ってどのへん?」
 あたしが地名を告げると、彼はびっくりした顔で、「いっしょ」と言った。
「意外と家近かったんだなあ、俺ら」
「……ふうん」
 どんな反応をすればいいのかわからなくて、あたしは曖昧な相槌だけ打って歩き出した。暗くてよかった、とそのとき思った。口もとがゆるむのを、抑えきれずにいたから。

「ほら、あれ。俺の家」
 しばらく歩いたところで、ふいに彼が田んぼの向こうに見える一軒の家を指さして言った。
「あの二階建ての?」
「そうそう」
 教えちゃうんだ。あたしはちょっと驚きながら、ふうん、とだけ返す。誰か他の子にも教えたことあるのかな、なんて、愚にもつかないことを頭の隅でちらっと考えた。
 彼は当然のようにその家を通り過ぎて、あたしの家の方向へ足を進めた。
 サイズの合っていないサンダルが、歩くたび、あたしの足もとでカポカポ間抜けな音を立てる。彼がいつも校内で履いている、黒い革のサンダル。上靴で帰るからいい、と遠慮するあたしを押し切り、さっき彼が貸してくれた。

「あ、そうだ初瀬」
「うん?」
「ジュースを買ってやろう」
「へ?」
 自動販売機の前を通りかかったときだった。ふと思い立ったように彼が言って、ポケットから小銭を出すと、あたしの返事も聞かずに自販機に入れた。
「ほら」と笑顔で促され、あたしはちょっと戸惑いながらオレンジジュースのボタンを押す。がこん、と音を立ててペットボトルが落ちてきた。
 あたしがお礼を言ってそれを受け取ると、彼は少しだけ言いにくそうに、
「代わりと言っちゃなんだけどさ」
「え、なに」
「一本、吸ってもいいでしょうか」
 彼がタバコを吸う人だということを、あたしはそこではじめて知った。
 あたしが頷くと、彼はうれしそうに鞄からタバコの箱とライターを取り出した。一本抜き取り、くわえた先端に火をつける。
 タバコを挟むその指は長く骨ばっていて、同級生のものともお父さんのものともぜんぜん違った。あたしが思わずそれをじっと見つめていたら、彼は薄く開いた唇から、ゆっくりと煙を吐いた。細長い煙が、暗い空に立ちのぼる。

「……せんせぇ、タバコよく吸うの?」
「わりと。量は少ないけど。今、なかなか吸える場所ないし」
「家では?」
「吸えない吸えない。子どもいるし、嫁さんにめっちゃ怒られるから」
「……ふうん」
 タバコを吸う彼の横顔は、いつもより表情が薄かった。どこか遠くを見るような目で、ぼうっと暗い通りを眺めている。それは学校で見る先生じみた表情よりも、ずっと彼の素に近い感じがして、なんだか少し、空気が喉を通りにくくなる。
 妙な渇きを覚えて、あたしが買ってもらったジュースに口をつけると、
「あ、ごめん」
 急に彼が謝ってきて、きょとんとした。
「なにが?」
「や、ふつうに吸ってたから」
 どうやらタバコの煙のことを気にしたらしい。彼があわてたようにあたしに背を向け、距離をとるように歩き出そうとしたので、
「いーよ、べつに」
「え」
「あたし、タバコの煙、嫌じゃないし。……いくらでも、吸っていいよ」
 彼は足を止めると、短くまばたきをしてから、携帯灰皿に灰を落とした。少しだけ考えるような間を置いたあとで、「じゃあ」とどこか子どもっぽい口調で口を開く。
「お言葉に甘えて、ここでいいですか」
「はい、どーぞ」
 彼はお礼を言うと、こちらを向いたまま、ふたたびタバコをくわえた。その先端にぼうっと灯る、赤い光を見た瞬間だった。

 それは、爆発するようにあたしを襲った。
 いっきに膨らみ、胸を満たしたその感情に、つかの間、息ができなくなる。視界が揺れる。
 ――妬ましい、と思った。
 目眩がするほどの強烈さで。

 彼に家庭があることは、もちろん知っていた。写真だって見せてもらったことがある。デスクの引き出しに入れておいてときどきこっそり眺めていたらしい家族写真を、照れながら、だけどどこか自慢げに、一度だけ、彼はあたしに見せてくれた。優しく笑う彼と、その隣で微笑むきれいな女の人と、彼女の腕に抱かれた、小さなかわいい子ども。

 ああ、あの人は。あの人は。
 彼のこんな表情を、毎日見ているのかな。
 あの手に触れて、あの手に、触れられてるのかな。
 
 想像したら、指先から引きちぎられるような痛みが広がった。
 すぐに胸まで届いたそれに、息が詰まる。叫びたくなった。嫌だ、と。駄々をこねる子どもみたいに。大声で、泣きたくなった。
 あたしがどんなに手を伸ばしても、ぜったいに届かないもの。あたしが、死ぬほど欲しくて欲しくてたまらないもの。
 それをすでに手にして、独占している人間がこの世にいるのだと、そんなことを今更強く自覚して、そして今更、それが耐えがたいことなのだと気づいた。

 タバコを離した唇から、彼はゆっくりと白い煙を吐き出す。表情の消えた目で、暗い空を見上げながら。
 そのひどく無防備な横顔に、あたしの心臓はわけがわからないぐらいかき乱される。ドキドキするというより、ただただ痛くて、苦しい。泣きたい。欲しい。
 欲しい。
 そのときあたしの胸を満たしていたのは、もうそれだけだった。全身の細胞が、脈打つように喚いていた。
 ――あたしは、この人が、欲しい。
 欲しいんだ。死ぬほど。